102 名家の男
その日は、今川館の一室で呼ばれるのを待つ。
現在駿府の今川館に、京都の足利将軍家から客がやってきているのである。今川家当主今川氏真自身との会談を行っている。それほどの相手だ。
そして、オレ自身にとっても因縁深い相手でもある。
オレが今日この時今川館にいるのも、客人のたっての希望だ。
「参上いたしました。太観月斎です」
「……面を上げよ」
顔を上げると、見知った顔がいた。
武田信虎。
武田信玄によって甲斐から追放され、駿河で隠居していたと見せかけながら、桶狭間による混乱を利用して遠江で独立勢力を確立しようとした歴戦の戦国大名だ。
「一別以来だな」
「左様で」
何を隠そう、その遠江で自勢力を立ち上げる陰謀を防いだのがオレだ。駿河今川家からも追放された信虎は、京へ送られ足利将軍家に預けられた。
それを今回、今川氏真の上洛時に将軍家に申し出て呼び寄せたのである。
「太観、月斎、か……」
独白するようにオレの名前を呟く。
そう名乗ったことの意味を、信虎は十分すぎるほど理解しているだろう。
「公方様より話は聞いておる。故に問おう。いつからワシを謀った」
「……初めてお会いした時より」
薄く笑みを浮かべつつ答えると、信虎の口元が苦虫をつぶしたようにゆがむ。
「最初からか」
「甲斐武田家と相対するのであれば、信虎様を利用するほかなしと考えておりました」
「義信もうぬの差配か」
「川中島で武田信繁様が討ち死にされた以上、信虎様が助力を求めるのは武田義信様しかおられませぬ」
自分を追放した武田信玄に従う事が出来ない武田信虎が甲斐で返り咲くには、武田信玄に比肩する武田家有力者の力を借りねばならない。武田家の副将といわれた信玄の実弟武田信繁。そして、信玄の嫡男武田義信。
しかし、それは諸刃の剣でもあった。信虎にとって武田信玄は従う事の出来ない敵であるように、武田信玄にとっても追放した実の父武田信虎は許すことのできない敵なのだ。
川中島の戦いによって失った実弟。追放した父親と自分の跡継ぎの癒着。桶狭間によって弱体化する同盟国。
対処するためには、自分が手腕を振るうしかない。つまりは、嫡男に武田家を譲り引退する事が許されない状況だ。
あとは、同盟国今川家が嫡男武田義信に譲る形で功績を積ませれば、武田信玄の猜疑心をあおることができる。
「義信が今川家を残すべく苦心していたと知ってもか」
「なおの事。今川家としては、その苦心に固執していただかなければなりません」
武田義信は駿河との協調体制を方針としていた。それゆえに父親の武田信玄と対立することになる。言い換えれば、武田義信がその意見を翻せば、武田家の隙が消える。
だからこそ、オレは武田信玄が時間をかけて説得する余裕を奪った。義信自身の功績をあげさせて信玄の地位を脅かす。信虎との関係を囁くことで、信玄の疑心暗鬼を助長する。
「父に子を殺させるか。それは鬼の所業ぞ」
「左様。すべては拙僧の業。故に、信虎様が気に病む必要はありませぬ」
オレの言葉に、一瞬信虎は呆けた。そして、納得するように小さく息を吐くと、まるであきらめたかのようにいからせていた肩を落とす。
「……たわけたことを言うな。父親の覚悟をみくびるでないわ」
「ははっ」
「なるほど、貴様の性根を見抜けぬはずだ。いや、正しく見抜いたからこそ騙されたのか。難儀な事よ。師の跡を継ぐために、非情非道の業を纏うか」
「……」
笑みを浮かべたまま沈黙で返す。
すると、信虎はたたずまいを直す。背筋を伸ばし膝に手を置き、正面からこちらを見る。
その意味を察して、オレの表情から笑みが消える。
「最後に問う。なぜ、我が問いに真を答える」
「信虎様に偽りを申す必要がありませぬゆえに」
「……」
「……」
信虎の目がどんな嘘偽りも見逃さないというような鋭さを持ち、初めて会った時と同じ重い空気がオレの体を押し包んだ。
騙そうとした時よりも、正直に話した時のほうが対応が厳しいとか、明らかに設定が間違っているよな。
「……ようわかった」
そう言って息を吐き信虎は目を閉じると、身を切るような鋭さも、体を押し包む空気も消える。
その姿は、最初に挨拶に伺った武田信虎とは思えないほど、小さな姿だった。オレの言葉に嘘がないと判断して、そしてオレの言葉の意味を理解して、そしてその内容を受け入れたからだろう。「もう、信虎を騙す必要すらない」と言うオレの真意を信虎は受け入れたのだ。
おそらく、信虎自身もオレの答えを分かってたのだろう。それでも問いかけたのは信虎自身のケジメのためか。それとも、別の誰かに聞かせるためか……
「敗者であるワシには、選ぶことすらできぬのだったな」
不敵に笑いながらそう言う信虎。確かに、信虎が駿河を追放されるときにオレが言った言葉だ。
困ったように笑みを浮かべて口をつぐむ。
「ならばしかたがあるまい。貴様の策に乗ろう」
そういうと、体の向きを変え、自分より上座に座る男に声をかける。
「昭信。こいつが、貴様を甲斐の大名にする男だ」
「ああ、父上との今のやり取りを見て只者でないことは十分理解した」
「それが分かれば十分だ。信用はしていい。だが信頼はするな」
本人を前にしてこの言い草である。まあ、向こうは名門の一族。こっちは、名門に仕える無位無官の一家臣だ。身分差は決定的である。
オレを見る男は、まだ若い。しかし、武田信虎の面影を強く残している。意志が強そうで少し傲慢な雰囲気はするが、名門の当主としてはそれは当然かもしれない。
「武田信友改め、武田家当主 武田昭信である」
「今川家家臣太観月斎と申します。この度は、甲斐武田家第二十代当主就任。心よりお慶び申し上げます」
オレは隣国甲斐の正統な後継者に深く頭を下げて祝辞を述べた。




