101 結婚ラッシュ
元亀元年(旧暦:永禄九年。西暦一五六六年) 十月
小田原から帰ってくると、二つの事柄があった。
一つは、元号が変わった。いままでの永禄の号は、先代の公方足利義輝の殺害事件によって、文字通り忌まわしき記録を永遠に背負う事になった。『永禄の変』とか、もはや元号との切り離し不可能なイベントである。
その実の弟である足利義昭が将軍職について、そのままそんな縁起の悪い元号を使いたくないという事なのだろう。
そして、もう一つ。駿河今川家は未曽有の婚姻ラッシュ。
別に、新元号に合わせて婚姻して記念にするといったキラキラな理由ではない。
もっと切実な理由だ。
同盟関係とはなったものの、つい先日まで隣国三河徳川家とは戦争をする間柄だった。三河統一から始まり、遠江侵攻と攻められたのは今川家の領土だ。
もちろん、徳川家がすべて悪いわけではない。そもそも、今川家が徳川家(旧松平家)の当主(今の徳川元康)を人質にして三河を実効支配していた事を思えば、反感を持たれるのも当然である。
さらに合戦で直接対決となれば、その関係は決定的なものとなる。
とはいえ、人間とは環境や状況に適応する生き物であり、乱世の世が続く中で、悪化した関係の調整と対処法がいくつも編み出されていた。
その一つが、婚姻である。
要するに、今川家の旧支配者や派閥の人間と、徳川家の家臣との婚姻関係で双方の利害関係を共有しようという話だ。領地を奪われた今川家からすれば、先祖から引き継いだ土地に自分の血統を引き継がせる事ができる。徳川家からすれば、その地を統治した旧支配者の正当性を受け継ぐことができる。
もちろん逆に、家族を出すことで間接的な人質として、あるいは交渉の窓口としての縁ができる。時間がたてば、その血縁はより深いものとなっていく。
オレが、遠江の一部を徳川家に与えたのと同じ理由だ。今川家の一族として遇する事で、徳川家は今川家の一門(家臣)であったという実績ができる。
もちろん、やり方次第では双方の家中に不和の種がまかれるわけだが、そこは想定内だ。
なにせ、駿河今川家には『今川仮名目録』がある。
『今川仮名目録』は、今川家の祖先が積み重ねた統治方法の判例や判断基準を記した分国法だ。当然、利害の調整についての事案は古今東西途切れることはなく、それに関する記述や記録も記載されている。
そして、今川領にいる以上、それが徳川家から来た人間でも今川家の法に従ってもらう必要がある。戦国時代の婚姻とはそういうものだ。
対して、徳川家にはそれがない。同じ問題が起こった場合、どちらがより穏便に収められるかは言わずもがなだ。
まあ、だからと言って今川家も万全とは言えないのだがな……
「ご決断を」
「……」
「殿様。お・へ・ん・じ・は?」
語気を強めて詰め寄るオレに、それでも口をへの字に曲げて答えない今川家当主今川氏真。
その後ろでは、今川氏真の長男龍王丸(2歳)を膝に、隣に霞姫(5歳)を座らせた正室早川殿が、困った表情で良人を見ている。
敵対関係であった相手との関係改善において、婚姻を結び結束を強めるのは常套手段である。それは、下々だけの話ではなく当主である大名家にも言える。
尾三駿三国同盟を結んだ今川家もまた、同盟を強固にするために、この方針に従っているのだ。今川家と徳川家に関してはまだいい。徳川家当主徳川元康の正室は、親族から迎えた養子とはいえ公的には今川氏真の妹である瀬名の方であり、それゆえに嫡男は今川家の血を継いでいる。
徳川家と正当性の血筋に繋がりがあり、そして今川家とは遠江一部割譲による名分による利害関係がある。
だが、もう一つの同盟関係である大名家の尾張織田家と今川家の関係は希薄だ。
そこで、今川家の長女霞姫と織田家嫡男の奇妙丸(十歳)との婚約を決めたのは当然の流れであった。織田家当主織田信長からも了承をもらい、後は今川家当主の承諾を得るだけだ。
「霞はやらん」
まるで駄々っ子のように、腕を組みそっぽを向いてそう言い放つ今川家当主からの承認を得る必要があるのである。
大事なことなので二度言いました。
「これも大名家の習いだぞ。殿様」
「霞は五つ。まだ早い」
「だから婚約なんだ。嫁入りは三年から五年後を目処としている」
「まだ早い」
「嫁入りはまた後の話。今は婚約の取り決めだけだ」
「まだ早い」
だんだん単語を繰り返すだけの機械となり始める名門今川家の当主。
だが、残念だったな。当主の了承をもらうだけという事は、すでにそれ以外は完了しているのだ。
「ささ、姫様。これを……」
目を合わせないように視線をそらした隙をついて氏真と霞姫の間に体を滑り込ませると、懐から袱紗を取り出し霞姫に渡す。
「これは?」
「尾張の若様から霞姫様にと」
「あ、月斎!ずるいぞ」
邪魔しようとする氏真を体で妨害しつつ、笑顔で袱紗を開けるように促す。
霞姫が袱紗を開けると、なかから見事な細工の施された赤い櫛が姿を見せる。
「わあ」
それを見て目を輝かせる霞姫。背後からの圧力(物理)が勢いをなくす。さすがに、あの状態の愛娘から笑顔の元凶を奪い取ることはできないだろう。まあ、奪い取って関係が悪化したところで、要望を畳みかけるだけなんだがな。
すでに準備は完了しているのだ。
「ありがとう。ゲッサイ」
満面の笑みで感謝の言葉をのべる霞姫。
「いいえ、姫様。それは尾張の若様からの贈り物。どうでしょう、お礼のお手紙などを書いてみては」
オレは純粋さはともかく、同じ満面の笑顔で霞姫に答える。
判断に迷った霞姫は、櫛を握ったまま母親に助けを求めるような視線を向ける。当の生母早川殿は、少し非難するような眼をオレに向けたが、すぐにあきらめたように目をつぶると、穏やかな笑みで自分の娘の意思を尊重した。
「では、母様と一緒にお手紙を書きましょう。霞」
「はい。母様」
仲睦まじい母と娘のやり取りののち、母子は館の奥へと帰っていく。
内堀を埋め終わったので、抵抗どころか気配すらなくなった後ろを振り返ってみると、今川家当主が真っ白に燃え尽きていた。
大事なことなので三度言うが、この婚姻は今川家当主からの承認を得る必要がある。
小姓に今川家重臣で奏者の三浦正俊様を呼びに行かせ、万が一にも失敗しないようとりはからう。
言っていなかったが、重臣達に話はつけており、外堀はとうに埋まっているのだ。
では、最後に承認を得ることにしよう。
数日後、今川家正室早川殿第三子懐妊という慶事に駿府今川館が沸いた。
今川家当主今川氏真。
奴には地獄すら生ぬるい。




