100 異なる時、人、言葉
船を降りると、巨大な城が目にはいる。
難攻不落と名高い北条家の居城小田原城である。その名は伊達ではなく、上杉謙信と関東の反北条勢力計10万の軍勢を退けた実績がある。
まあ、そんな日本でも最高峰の名城を寄り道がてら観光することすらできず、船から降りると十数人の武士に取り囲まれる。もちろん、いきなり穂先を突き付けられるような事はない。
事前に連絡を出した正式な他国からの使者である。防諜と保安の為に向こうも北条家のそこそこの身分なのだろう。
「北条家御馬廻衆、松田康長と申します」
「今川家御伽衆の太観月斎です」
先頭に立つ武者に笑顔で挨拶をする。すると、その相手はオレの周りをしきりに見回す。
「他の者は?」
「おりません」
「供の者は?」
「拙僧一人にて」
「……」
オレの言葉を不審げに聞き返すと、再度オレを上から下まで眺め、さらに周囲を何度か見まわす。
坊主が一人で出歩いちゃいかんのか?前にも言ったが、野蛮な割に信心深いこの時代、聖職者である僧侶を害することを嫌う傾向にある。
悟りを求めて諸国を行脚し、念仏を上げて名も知らぬ死者を弔う奇人変……徳の高い人間だ。無害である彼らを害する必要性がないともいえる。
つまり、通常の庶民や武士に比べると、僧侶というのは社会的立場においてより安全なわけだ。
さらに、同盟国からの使者でもあるオレは無害の極みといえよう。
他に同行者がいない事を確認すると、訝しみながらもオレを先導する。
周囲をがっちりと武士の一団に固められて城下町を移動。どう見ても厳戒態勢である。
今川氏真の正室で北条本家の姫である早川殿からも紹介状をもらってきたのに、対応が全然友好的ではないぞ。
小田原の城下町を進むのだが、軒先の店をのぞくことはおろか、町民に話しかけることすらできない。それどころか、周囲からは北条家の兵に囲まれているオレは何者なのかと注目の的だ。
罪人ではないと分かるように、背をまっすぐ伸ばして、笑みを浮かべつつ北条家の兵についていく。いっそ開き直って手でも振ってやろうか。
小田原城に入り案内された部屋に通されると先客……いや、ヌシがいた。
どこの和製ホラー映画の怨霊だよ。と言わんばかりの禍々しい気配を漂わせた一人の老人だ。
第一印象は蜘蛛。意志の感じ取れない目。感情の読み取れない表情。ただ、目だけが赤く輝いている。
今まで出会ったどの人とも違う。部屋の光が陰ったような印象がある。その割に、暗くなった部屋でもこちらを見つめる眼だけがギラギラと輝きを放っている。
犠牲者の血で濡れた罠のど真ん中に置かれた赤い宝石みたいな輝きだ。
いつものように笑みを浮かべて部屋の中に入る。虎穴に入らずんば虎子を得ずとはいうけど、蜘蛛の巣に手を突っ込んで、何を得ようというのか。割に合わないにもほどがある。
「はじめまして。太観月斎です」
ちなみに、同盟国からの客人であるオレに対して座布団すらない。床板にそのまま座る。狭い部屋に呪いの人形みたいな老人と向かい合って二人きり。新手の拷問かな。
岡崎城の土牢のほうが安らぎそうな環境である。
「翁と呼ばれておる」
「左様ですか。で、拙僧に翁が何の御用か?念仏が必要ならご自身の菩提寺に行かれては?」
言ってやった言ってやった。
この相手が誰だか見当はついている。だが、今川家の正式な使者として訪問したオレは、自称老人に用はない。
テーブルに着く前から交渉は始まっているんだよ。ここでどんな話をしようとも、「翁とやらの約束事なんて知りません」と言われたらそこまでだ。信頼関係に保証などない戦国時代だからこそ、当人同士が結んだ約束事が重要になる。
たとえ、相手が北条家一門衆で重鎮であっても、こちらも今川家の使者である。なめられたら終わりなのはどこの世界でも同じだ。
何せ、こちらの要求をのませようとするのだ。へりくだろうものなら、容赦なく踏み込んでくるだろう。
オレの言葉に、蜘蛛爺の眼の輝きが増し、反比例するように部屋の暗さが増す。
「……」
「……」
「なるほど。あの男の名を得ただけの事はあるな」
「左様で」
「……北条家一門で幻庵と呼ばれておる」
「御高名はかねがね」
何を隠そう、これでようやく対話が開始するのである。コミュニケーションを取るにあたって、スタートラインまでの過程に致命的な問題があると思う。
**********
「(異なるかな)」
目の前の人間と対峙しながら、北条幻庵は心の中でそう評価する。
尾三駿三国同盟でこちらをたばかった男。その背後に、かつて自分達と渡り合った男の影を見た。
あの男は、自分の気迫に微動だにしなかった。眉一つ揺らすことなく、激流のなかの巌のごとく、ただ真正面からすべてをはねのける。
この男も同じ。だが違う。軟弱にも見える笑みを浮かべたまま、しかし木の葉のごとく揺れ動き、すべてを受け流してそこにいる。
あの男も、よくぞこのような後継者を見つけたものだ。
うらやましくもあり、そして恐ろしくもある。
己と同じ道を歩みながら、その本質が違う存在。そんな相手に、己のすべてを譲るという危うき選択。
三国同盟もそうだ。あの男はすべての困難と因縁をはねのけ、ありとあらゆる縁を使い同盟を成し遂げた。
しかし、この男は違う。同じ結果を求めながら、秘し、潜み、手繰り寄せるように織田家と徳川家との同盟を結ばせた。
その手腕に驚いて、当人の情報を集めたのだが、あまりの情報の少なさに舌を巻いた。それまでのこの男の役割は、三河や尾張との交渉役程度の小物でしかなかった。武田信玄の侵攻においても、それ以上の役割を担っていない。最も多い情報が、当主の今川氏真の学友だったという話だけ。一応、信虎追放後の武田派閥の仲を取り持ってはいるが、それとて今川氏真との連絡役以上の功績はなかった。
それでありながら、他国との利害関係を収めて同盟を結ばせたという事実。
綿密な裏工作と入念な準備があったに違いない。
真意を悟らせぬ事に長けた策謀家。油断してよい相手であろうはずがない。
そして、今現在自分に向けて語る内容。
間違いなく裏がある。
「その提案に北条が乗る利は何かね?」
「対価は用意しました」
「ほう」
「甲斐の国。お譲りいたしましょう」
その言葉に即答できなかったのは、不覚にも感情が揺らいだからだ。
かつて北条家が今川家と武田家の両家と同盟を結ぶ時に、あの男が言ったのだ。同盟を破るという事は、今川家と北条家を敵に回すという事。ならば、今川家が信濃を、北条家は甲斐を取ればいいと。
全く違う声で、全く違う時に、全く違う言葉で、全く同じ内容を聞いたがゆえに確信した。
この男は、かの男と同じ。
黒衣を纏う者だ。
「あの地に何の価値がある?」
「甲斐が石か玉かを決めるのは、目を持つ者の器量次第。不要であるなら今川家でもらいますよ」
この男の提示する内容に関して、不満はない。が、それゆえに納得できない。
北条家の利だけが多く、功労者である今川家の得るものがあまりにも少ないのだ。
「甲斐を北条家に渡し、今川家は何を手に入れる?信濃か」
「信濃は徳川家に渡す算段が付いております」
「では、なおのこと今川家は何を手に入れる?」
三国同盟を結んだ際、あの黒衣の男に同じ事を問うた。三国で盟を結び何を手に入れるのかと。
その時、かの男は言った。「乱世の終わりを」と。それが今川家の上洛。
時を経て今。同じ言葉を吐き、この男は何を望む。
「『名』をいただきます」
「『名』とな?」
「左様。今川氏真様は相判衆として拝謁こそしたものの、まだ若輩にて身が軽うございます。ゆえに、両家の縁を取り持つことで名を上げます。盟はその褒章のようなもの。実たる甲斐を譲っても十分なものでございます」
その言葉を聞いて、北条幻庵は一つの匂いをかいだ。何の根拠もなく、なんの確信もなく、あの時と同じ匂いを感じた。
それは、かつて出会った男の言葉を聞いた時と同じ。
全く違う言葉を聞きながら、しかし、同じ気配を感じた。
乱世の終わりを。




