六 御守国御山・街風一眞 陰謀者たち
行きに半月かけて歩いた道を十日間で取って返し、街風一眞は端月二十五日に御山の西の大門に帰り着いた。
門を守る立哨も、番所に控える衛士もみな衛士寮に所属する者たちなので、内宮衛士である一眞のことは当然見知っている。だが、彼が逃走した若巫女を追って許可なく山から出たことも承知しているので、すぐに門をくぐらせようとはしなかった。
「おまえを入山させていいかどうか、上にお伺いを立てねばならん」
寮の宿舎で同室になったこともある衛士の源三がぶっきらぼうに、と同時に少し申し訳なさそうに言った。
「そうしろ」
着いたその日に入れないことは予想のうちだ。
「三日後の夕七つ、おれはまたここに戻ってくる。天城宗司にそう伝えてくれ」
「戻って? おい、どこ行くんだよ」
さっさと踵を返した一眞に向かって、あわてた様子の源三が叫ぶ。
「ここにいろって」
「宗司の返事がくるまで、番所なんかで待っていられるか」
一眞は振り向きもせずに言うと、吹きすさぶ雪風の中を歩き去った。
日が暮れるまで南へ歩き、たどり着いた小さな宿場町でもっとも格の高い娼楼に上がった一眞は、ひと晩の玉代が二十銀もする娼妓を揚げた。
名は梅里といって見世では人気の女らしいが、歳はそう若くはない。明らかに二十歳は過ぎており、脱がせてみると腹に肉割れの痕が見て取れた。少なくとも一度は子供を産んだことがあるようだ。
おそらく亭主が死んだか、稼ぎのない穀潰しだったかで謝金を抱え、自分が身を売るしかなくなったのだろう。
どことなく寂しげな雰囲気の女で、あまり話もしようとはせずおとなしかったが、抱いてみると体のほうは申し分なかった。しかも意外に好き者なのか、一度果てたあとですぐにまたねだってきたので、一眞は酒を軽くひっかけてからさらに二度、少し時をかけてゆっくりと楽しんだ。
ここしばらくご無沙汰だったので柄にもなく熱が入り、少々乱暴に扱ったのを自覚していたが、梅里のほうもまんざらではなかったらしい。ほっそりした両脚を一眞の腰に強く巻きつけ、背を弓なりに仰け反らせて何度も達していた。
物静かな女がそんなふうに乱れるのは、なかなか興趣をそそるものだ。
一眞は梅里が疲れ果てるまで攻め抜き、女がぐったり脱力して寝入ったあとも、まだしばらくひとりで起きていた。
たっぷり綿の入った厚い布団の上に腹這いになり、用意させた酒をちびちびとなめる。
酒も肴も、値段を気にせず上等なものばかり注文した。青藍を売り払った銭がまだ懐にかなりあるので、不味い濁酒などで我慢する必要はない。
近ごろ上物といえばまず澄み酒、それも北のほうから入ってくるものが特に質が高く人気があるのだ、と見世の若い者が話していた。いい娼妓だけでなく、そういう酒もそろえている気の利いた店だと言いたいのだろう。
値が張るだけあって、酒は旨かった。これも北の酒で〈恋華〉という銘柄らしい。甘やかな名に似合わぬ辛口で、口に含むと舌先をぴりっと刺す。だが鼻に抜けていく香りは芳醇でまろやかだった。
「恋は恋でも、叶わぬ恋か……」
つぶやくと、隣で寝ている梅里が低く呻いて身じろぎした。それでも目を覚ます気配はない。
一眞は少し冷えてきた肩まで夜着を引き上げ、女の様子をもう一度窺ってから、枕上に脱ぎ散らした小袖の袂にそっと手を差し入れた。
音もなく引き出したのは、青藍から奪い取ったあの青い石だ。
奪いはしたものの、あれからずっと袂に入れたまま、取り出して見ることすらしなかった。価値があるものだとは思わないし、べつに欲しかったわけでもない。別れ際にひどく気持ちをかき乱されたので、腹いせに取り上げただけのことだ。
〝ありがとう〟などと――。
騙されて売り飛ばされたのに、よくあんなことを真顔で言える。
一眞はあの時、青藍が怒りを見せると予想していた。真相を知ったらさすがに逆上し、掴みかかってくるぐらいはするだろうと。それから泣くに違いない。もともと、隠れてめそめそ泣いてばかりいた娘だ。
だが青藍はどれもしなかった。思いがけない展開に衝撃を受け、混乱してはいたが、怒りも嘆きもあの場では見せなかった。
〝生かすことにしてくれてありがとう〟
強がりではない。
彼女はあの言葉を本心から言っていた。そのことが、一眞を妙に落ち着かなくさせる。
現世にさまよう霊や、神が下す〈神告〉を形あるものとして見るような娘だからだろうか。青藍のものの見方や考え方にはどこか風変わりなところがあると、共に過ごしていたあいだずっと一眞は感じていた。
彼女に見つめられると、心の奥底まで覗かれそうでいつも不快になる。
そういえば――青藍と初めて会ったのは彼女が産まれて半年も経たないころだが、目を合わせた時には、やはりどうしようもないほど心がざわついたものだった。邪気のなさすぎる笑顔に思わず動揺してしまったことも覚えている。
成長してから再会した彼女には、そんな赤子のころの純真さがそのまま残っていた。
あきれるほど善良で、真面目で正直。と同時に愛嬌があり、少々間が抜けてもいる。
だが、いつまでもあんなふうでいられるわけはない。放り捨てるように置いてきたあの猥雑な見世で現実の苦みを味わえば、遠からず変わっていくだろう。疑うことや憎むことを知り、他人を出し抜くことを考えるようになり、汚れて、どん底まで堕ちて、いずれは純真さの意味すら忘れてしまうはずだ。
そうなっても〝ありがとう〟と言えるか。生き延びられたことを喜び、見逃してやったおれに感謝できるか。
いっそ殺してくれたほうがよかったと、恨みごとを垂れるに決まっている。
ふと気づくと、左手の中に石を強く握り込んでいた。長くそうしていたようで、指が少し強張りかけている。
一眞は手を開くと、中心に通されている革紐をつまんで石をぶら下げ、行灯の光にかざして見た。
きれいな澄んだ空色をしてはいるが、ただそれだけだ。何の変哲もない円筒形で、装飾もなければ模様も彫りつけられてはいない。表面はつるりとして艶があり、傷や濁りはどこにも見当たらなかった。丁寧に加工されたものだとは感じるものの、稀少性があるようには思えない。
だが青藍は、祭主からもらったと言っていた。
あの老人は何を思って、彼女にこれを与えたのだろう。ちょっとした贈り物のつもりだったのか。それとも見た目にはわからないだけで、何か重要な意味を持っている石なのだろうか。
天門神教の祭具に石はない。少なくとも、一眞はこれまでに見た覚えがない。
「じゃあ、なんだ」
声に出してみても何の着想もわいてこなかった。
考えるだけ無駄か。
彼はあきらめ、石をまた袂に戻した。
明後日、この宿場を出て行く前に古手屋にでも寄って鑑定させ、高値がつくようなら売ってしまってもいいかもしれない。どうも期待薄ではあるが。
頬杖をつきながら酒をすすっていると、賑やかな鳴り物の音が聞こえてきた。どこか近くに、芸妓を集めて派手に遊んでいる宴席でもあるのだろう。
幇間あたりが鳴らしているとおぼしき調子外れの笛の音が、また青藍をふと思い出させる。
〝闇を引き寄せてしまった〟
そう言って祓の笛を吹いた時、彼女はまるで別人のように見えた。凛として確信に満ち、威風すらも感じさせて一眞をしばし圧倒した。
もしあの娘が普段からそんなふうだったら、きっと当初の予定通りに殺していただろう。生かしておいても面倒なことになる予感しかしない。
だが日ごろの様子を見るかぎりでは、青藍が今後自分にとって脅威になるとは思えなかった。借財を背負わせたので向こう十年あの見世からは動けないし、よしんば逃げ出すほどの才覚があったとしても、とても自力で御山へは帰り着けないだろう。
金もなく、伝手もなく、世間も知らない子供がひとりきりで、あれほどの距離を容易く移動できるわけがない。
一眞を救い主だと信じ、完全に頼り切っていたから、どこをどう歩いて別役国へ行ったかすら覚えてはいないはずだ。
思えば、青藍のように彼を盲目的に信用する人間が、なぜか一眞の人生にはしばしば出現する。
最初の剣術の師匠だった義益。家を追い出されて放浪していた時に世話を焼いてくれた行きずりの大人。悪辣無比なのに義理堅かった盗賊たち。彼らは、今ではもう誰も生きていない。みんな一眞が殺した。
御山でも――。
彼は音がするほど奥歯を噛みしめ、頭に浮かびかけた想念を断ち切った。
よせ、つまらないことを思い出すのは。
ともかく、青藍を殺しこそしなかったが始末はした。娼楼へ入った女は、世間的には死んだも同然だ。大それた陰謀を企んだ連中のところへ戻り、言われたように片づけたと報告してしまえばいい。
彼らは信じるだろう。信じて、満足するはずだ。そして、ささやかな見返りを得られればおれも満足する。
一眞はふっと吐息をつき、空の盃を置いた。ようやく眠気が差し始めている。
その夜は、途切れ途切れの短い夢に馴染みの顔がいくつか現れたが、翌朝目覚めた時には何も覚えていなかった。
次の日もその翌日も梅里に仕舞いをつけ、一眞は同じ見世でさらにふた晩を過ごした。ほかの娼楼へ行ってみてもよかったが、また肌の合う娼妓に当たるとは限らない。
三晩続けて気前よく散財した彼は上客と見なされ、出立の朝早く見世を出る時には梅里が戸口で見送ってくれた。「またのお越しをお待ちしています」と言われ「そのうちにな」と返したが、もう二度と会うこともないだろうというのはお互いにわかっている。
前夜からの冷え込みがまだ続いており、戸外の空気はこめかみが痛くなるほど冷たかった。雪は降っていないが、空はどんより重い灰色をしている。
宿場を出た一眞は引廻し合羽をしっかり体に巻きつけ、首に巻いた手ぬぐいを鼻まで引き上げて黙々と街道を進んだ。御山までは十里ほどの道のりで、一心不乱に歩いても四刻はかかる。
途中、小さい山を越える際に峠の茶屋で餅を食ったが、それ以外はどこへも立ち寄らずにひたすら歩き続けた。
できれば、源三に告げた夕七つよりも少し早めに到着して、大門の周囲の様子を窺っておきたい。といっても何らかの予感があるからではなく、単に用心が習い性になっているというだけのことだ。
御山が間近に迫ると、街道はその裾野に広がる広大な森の中へと入っていく。年間を通して多くの人が行き交う幅広な道は、石塊や雑草を注意深く取り除き、土もきれいに均して整備されていた。近隣に住む天門神教の信徒たちが、御山の南の大門へと至るこの道を参道と位置づけて、自発的に保守管理しているのだ。
今日のように冷え込む日でも、参拝者の姿は決して少なくはなかった。一眞はその人々のあいだをすり抜けるようにして先を急ぎ、南の大門が見えてくると脇道へ逸れて、御山の西側へと回り込んだ。そちらから山へ入る参拝者もいるが、頂上の大祭堂に正面から向かって登っていける南の参道ほど多くはない。
彼は森の出口付近で足を止め、木の陰で草鞋の緒を結び直すふりをしながら、西の大門の周辺を観察した。
門の両脇には通常通り、立哨がひとりずつ立っている。そのほかに、参拝者の案内をする当番の小祭宜がふたり。彼らは刻限がきて大扉が閉じられると、上の階層にある宿舎へ戻っていく。
さらにしばらく見ていると、大門から少し奧へ入ったところに建てられている、番所と呼ばれる詰め所から衛士がふたり出てきた。ひとりは衛士寮の古参文七、もうひとりは内宮衛士の許斐宗二郎だ。
「なるほど……」
ナラの木の根元に片膝をついたまま、一眞は顔を伏せてひとりごちた。
文七も宗二郎も、今回の件にかかわっている陰謀者のひとりだ。一眞ほど大きな役割は担っていないが、あの日、事が起きている裏でそれぞれ動くことになっていたのを知っている。
帰山の許しを与えるなら立哨の当番に書面で伝えればすむはずだが、天城宗司がわざわざ一味の者を遣わしたとなると――。
「どうも、簡単には済みそうにないな」
一眞は口の中でつぶやき、心を決めて立ち上がった。
門が閉じられる前に山内へ入ろうと急ぐ参拝者たちに混じり、大股に大門へ近づいていく。
すぐに立哨のひとりが彼を見分け、うなずきかけてきた。
「やあ、帰ったな。おまえが山を出たあと、上は大変な騒ぎだったんだぞ」
一眞とほぼ同時期に行堂で修行をした弥兵衛は気安くそう言い、詰め所のほうへ顎をしゃくった。
「あっちで待ってるふたりが、いちおう聞き取りか何かをするって話だ」
「わかった」
一眞は門をくぐると、小屋の前で腕組みをして立っている文七と宗二郎に近寄った。
内宮の先輩である宗二郎が、用心深い目をしながら板戸の脇へよける。
「中へ入れ」
命じられるまま、一眞は番所の戸を開けて中へ入った。竈と流しがある土間を挟んで広い板間、その先に細い廊下があり、奧の部屋へと続いている。小さめの陣屋のような造りだ。土間の横手に見える引き戸は、厠の扉だろう。
履き物を脱いで板間へ上がると、あとから入ってきた宗二郎が「奧へ」と促す。
旅汚れた足のままで廊下を歩いていき、小屋の最奥の六畳間にたどり着くと、しんがりを務めた文七がぶっきらぼうに「座れ」と言った。
「長話になるのか」
とぼけた顔で訊けば、宗二郎がさも不機嫌そうに眉をしかめる。
「いいから座れ。いくつか問い質すよう、天城宗司から命じられている」
「なら上へあげて、宗司が自分で訊けばいいだろうに」
一眞は鼻で笑い、床に荷物を下ろして胡座をかいた。
「まあいい。何でも答えてやるさ」
宗二郎は行灯ふたつに火を入れたあと、むっつりしたまま対面に腰を下ろした。文七のほうは座らず、部屋の入口を塞ぐように突っ立っている。
おれを警戒しているのか――一眞は腹の中で考え、少し神経を集中させた。何かよくないことが起きそうな気がする。だが、そう思っていることを彼らに気取らせてはならない。
「それで――」敢えて軽い調子で問いかける。「質問はなんだ」
「もちろん青藍さまのことだ」
宗二郎の口調はどことなく刺々しかった。
「山を出たあと、あのかたをどうした」
「始末したさ」
一眞はあっさり答えて宗二郎を、次いで文七を見やった。ふたりとも明らかに怯んでいる。文七の太い喉が、ごくりと大きく波打った。
「殺したのか」
念を押すように問う声が少し掠れている。
「手はず通りだ。山から連れ出して、殺して埋めた。それは、おまえらも承知していたことだろう」
「どこへ埋めた」呻くように宗二郎が訊く。
「遠くだよ。ずっと南のほうにある、広い森の奧だ」
「どこの郷だ」
「知るもんか。事を終えたあとも集落には立ち寄らず、誰とも接触せずにすぐ引き返した。土地の者に顔を覚えられたりしたくないからな」
「それにしちゃ、戻るまでにずいぶんかかったじゃないか。あれから、もうひと月近くも経ってるんだぞ」
「遠くまで行ったと言っただろう。行きに十五日かけて、帰りは十日だ。青藍は浮昇力のない場所で暮らしたことがなかったから、歩くのがやたらと遅くて行きは無駄に時がかかった」
「南へ十日も行けば、ほぼ浪枚国だ。なんだって、そんな遠方まで連れて行く必要があったんだ」
「御山の近くで、罪もない若巫女を殺したくなかったからだよ」
一眞の言葉に、宗二郎がうっと息を呑んだ。文七は青ざめた顔で唇を噛み、視線を横に逸らしている。
「おれは信心深い質じゃないが、さすがに神罰でも下りそうでな」
片眼をしかめながら皮肉っぽく言ってやると、ふたりはそろって落ち着かなさげに身じろぎした。
「企てのいちばん厄介な部分を、ひとりで引き受けてやったんだ。おまえらにも感謝してもらいたいぐらいだぞ。なのに、ようやく戻ったおれを、こんなところに足止めして尋問か?」
「うるさい」
いらだちも露わに、宗二郎が言い返す。
「宗司のご命令なんだ」
「なら、さっさと訊くことを訊いて終わりにしろ。おれは疲れてるんだ」
「埋める……前に、青藍さまのお体を検めたか」
「裸にして弄んだかって意味なら、そんな真似はしていない」
「違う。何か身につけておられなかったかを知りたいんだ。山を下りた時に持ち出されたものはあったか」
「何も持っちゃいなかった」
袂の中で、あの青い石がふいに重さを増した気がする。
「たいしたものはな。祈り珠と、笛――封霊の術を心得た者なら必ず持っている、あの細い竹のやつだ。それだけだった。遺体と一緒に土に埋めたよ」
「ほんとうに、それだけか」
ずいぶんしつこい。必死さが表れている。
一眞は宗二郎の目を覗き込みながら、やんわりと問いかけた。
「何か探してるのか」
宗二郎がむっとしたように黙り込む。少し間を空けて、代わりに文七が答えた。
「祭主位継承のしるしとして、代々受け継がれる玉驗が行方知れずなんだ。それが見つからないせいで、紅さまの即位の儀が延び延びになっている」
「玉驗というのは」
「印章だそうだ。歴代祭主の御名が刻印されているらしい」
なら、あれは違う。あの石には刻印どころか、擦り傷すらついていなかった。
「青藍は印章なんて持っていなかった。第一、そんな大事なものを祭主があの小さい娘に預けるはずがないだろう」
「それはそうだが、天城宗司は疑っておられる」
ふと、ひらめきが訪れた。
その玉驗が青藍の手に渡ったと天城宗司が考えているなら、ほんとうは彼女は――次代の祭主になるはずだったのではないのか。
これまで、青藍はたまたま選ばれて祭主殺しの濡れ衣を着せられた、単に運の悪い娘なのだと思っていた。だがそれは見せかけで、彼女を御山から排除することこそが、あの陰謀の核心だったのだとしたら。
一眞は自分の考えにぞくりと身震いして、だが動揺は気振りにも出さず、まっすぐに宗二郎を見た。
「ほかに訊きたいことは」
「おまえは青藍さまを遠くまで連れて行き、殺害して埋めた。あのかたは特別なものは何も持っていなかった。それで間違いないな」
「言った通りだ」
「なら、もう訊くことはない」
宗二郎の目が急に冷たい光を帯びた。文七の顔から表情が消え、その左手が腰に差した刀の鞘をそっとなでる。
そうか、おれを始末するんだな――と、一眞は人ごとのように考えた。この展開は半ば予想していたとも言える。だから心に焦りはない。
天城宗司がこのふたりを遣わしたわけが、今になってようやく腑に落ちた。宮士の宗二郎はもちろん、古参の文七も衛士寮ではかなりの強者として知られている。
だが、それはこちらも同じことだ。
一眞は平然と彼らを見据えたまま、さり気なく気息を整えた。武器は脇差し一本しか持っていないが、狭い室内ならそれで充分戦える。
宗二郎が無言で腰を上げた。文七がその背後で、音もなく剣を抜く。
「おまえらに、おれが殺れるのか」
静かに問いかけ、一眞は胡座を崩してゆっくりと片膝を立てた。
「たったふたりで」
「内宮一年目の新参が、なめた口を利くな!」
「そっちこそなめるな!」
一眞は腹の底から吠え、床を蹴って躍り上がると、脇差しを抜き打ちに宗二郎へ斬りかかった。少し遠目の間合いから、腕をいっぱいに伸ばして真横にひと薙ぎする。
宗二郎の腹にすうっと裂け目が走り、数瞬ののちに腸がどろりとこぼれ出た。その時にはもう、一眞は地を這うように走って文七に肉薄している。
彼のほうは宗二郎よりも反応がよく、下段から斬り上げた一眞の斬撃を鐔で受けて斜め上に逸らした。だが勢いに押され、思わず後ずさった先は狭い廊下だ。急いで構え直そうとした刀の先端が壁につかえ、わずかに横滑りする。
その隙を逃さず、一眞は低い体勢から大きく踏み込み、まっすぐ突き入れた脇差しの切っ先を彼の鼠蹊部に深く沈めた。
ぎゃっと悲鳴を上げて文七が仰け反り、足をもつれさせて転倒する。一眞はすかさず駆け寄ると、彼の上に馬乗りになった。まだ手に握ったままだった刀を奪い取り、遠くへ放り投げる。
「天城宗司がこうしろと命じたのか」
苦痛の脂汗にまみれた文七の顔を覗き込みながら、彼は低く問いかけた。
「尋問のあと、おれを殺せと」
「助け――」
顎の下に刃をぐっと押しつけると、文七は急いで口を閉じた。
「答えろ」
「命じた。殺せと。あ、あ、天城宗司が」
「なぜだ」
「何が目的で、く、企てに荷担したのかわからなくて、おまえは得体が知れない。汚れ仕事を押しつけて、お、終わったらすぐ始末するのが得策だと」
がたがた震えながら必死の形相でしゃべっている文七の声が、だんだん細く小さくなる。ふと見ると、彼の体の下に大きな血溜まりができていた。傷からかなり出血しているようだ。
「宗司は、おまえと宗二郎でおれを殺せると踏んだのか」
「そうだ」
「甘く見たな」
一眞は脇差しを振り上げ、文七の胸を背中まで一気に刺し貫いた。
「おれは、あの千手景英に推されて内宮入りした男だぞ」
突き立てた刀の柄が、文七の末期の痙攣に合わせて小刻みに震えている。やがてそれも止まってしまうと、彼は立ち上がって元いた部屋へ戻った。
宗二郎は自分の腸と血の海の中に、前のめりに倒れて事切れている。一眞は死体の脇にしゃがみ込み、鯉口を切る暇すら与えなかった大刀を帯から引き抜いてじっくり検分した。よく手入れされているし、なかなかの業物だ。
それを自分の腰に差し、合羽の紐をきつく締め直してから振り分け荷物を肩に担ぐと、血溜まりを避けながら歩いていって番所を出た。
もう大門が閉じられる刻限で、立哨はその準備を始めている。
扉押さえに挟んである楔を抜こうとしていた弥兵衛が、門に向かって来る一眞を見て小首を傾げた。
「なんだよ、戻ったんじゃないのか?」
一眞は足を止めずに門を出ると、そのまま西へ伸びる街道に向かった。うしろで弥兵衛がまだ何か言っているが、まったく耳に入ってこない。
くそ。くそ。くそ。
一歩踏み出すごとに、繰り返し同じ罵倒が浮かんでくる。完全に頭に血が上っていた。ふたり殺したぐらいでは、とうていこの怒りは治まりそうにない。
天城宗司――歯軋りしながら、額の広い六角形の顔と、眼下の落ちくぼんだ鋭い目を思い浮かべる。
汚い男だ。人を利用するだけしておいて、用が済んだとたんに始末しようとするとは。そのせいであのふたりを殺すはめになり、御山に戻ることができなくなった。
だが、このままで終わるつもりはない。
天城宗司が何をしたか、すべて暴露するという手がまだ残っている。うまく立ち回れば、陰謀に巻き込まれた挙げ句に、危うく殺されそうになった被害者を装うこともできるはずだ。
なにしろ、こちらには生き証人がいる。
「青藍……」
一眞はつぶやき、もうすっかり暗くなっている街道の途中で足を止めた。
宗司からは殺せと命じられたが、おれはそれに逆らって青藍を遠く離れた場所へ匿った。すべては彼女を守るためであり、そのことが何より確かな身の潔白の証だと主張できる。
もう一度あの見世へ行って青藍を買い戻し、御山へ連れ帰って祭主が殺された朝のことを十二宗司の前で証言させよう。彼女が知らない陰謀の全容は、おれの口から具に説明すればいい。かかわった者たちの名はすべて挙げられるし、証拠となる書き付けもいくつか手元に残してある。
何もかもが白日の下にさらされれば、天城宗司はそれで破滅だ。
おれは宗二郎たちを殺めた責を問われるだろうが、御山に害をなそうとする者を衛士が誅殺した形だから、いずれ許されて帰山は叶うに違いない。
ようやく少し気持ちが落ち着き、頭の中の霧が晴れてきた。と同時に、ほとんど何も見えない道を猛然と歩いていたことに気づいてひやりとなる。路傍の立ち木にぶつかりでもしたら事だ。
その場で荷物から道中提灯を取り出し、手探りで灯を入れた。心身ともにくたびれてはいるが、明かりを頼りに夜通し歩くことにする。前へ進んだ分だけ報復の時が近づくのだと思えば、自ずと力もわいてくるだろう。
それにしても、あの娘を生かしておいたのは、我ながら先見の明があったとしか言いようがない。
一眞はにやりとして、身を切るような寒風の中を再び歩き出した。
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