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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第一章 乱世の若者たち
96/161

四   御守国御山・八雲 間の悪い男

 いつも悪い時に、悪い場所に居合わせる。

 そういう間が悪い人間というのはたしかにいる、と八雲やくもは思っている。

 彼自身がまさにそうだからだ。

 子供のころ、遊んでいる時に用便がしたくなって近くの林へ飛び込んだら、母親が隣家の主人と乳繰り合っているところに出くわしたことがある。

 友達の家で昼飯をよばれていたら、台所に立った年寄りが土間へ転げ落ちて首を折ったこともある。

 自分が何かしたわけではなくとも罪悪感はおぼえるし、毎回ひどくばつの悪い思いをさせられるのもいやだった。

 三十路みそじも間近になった今では、そういう星回りなのだから仕方がないと、なか諦観ていかんの境地に至っている。だが今回はひさびさに、自分のあまりの間の悪さに打ちのめされた。

「八雲祭宜(さいぎ)

 少しいらだった声が耳に届き、はっと我に返る。

 急いで顔を上げると、居並んだ人々の視線が突き刺さってきた。ぼんやりしているあいだに、どうやら何度か呼ばれていたらしい。

 十六畳ほどの広さの板間には、御山みやまの高位奉職者である宗司そうしたちが集まっていた。序列筆頭の空木うつぎ宗司を中心に十二人、ずらりと横並びに座っている。彼らの尻の下には厚みのある錦の座布団が敷かれているが、対面にひとりぽつんと座っている八雲は床板の冷たさと硬さをじかに骨身に感じていた。

「す、すみません」

 肩をすぼめながら謝罪し、あらためて宗司たちの顔を見渡す。

「ええと……ご質問は何でしたでしょう」

「質問ではない。説明せよと申しているのだ」

 淡々と答えたのは、序列四位の那岐なぎ宗司だった。六十代の小柄な老女で優しげな顔つきをしているが、物腰は厳格で近寄りがたい。

「説明というと、また――初めから?」

 思わず訊くと、彼女は眉をひそめてうなずいた。

「そなたの報告は簡略にすぎる。もっと詳細に、あの朝起きたことを細大もらさず述べてみよ」

 精いっぱい詳しく話したつもりだ。それも三度も。審問に先立ち、同じ内容の書面も提出している。この上、いったい何を聞こうというのか。

 だが、宗司たちが執拗になるのも無理はないかもしれない。

 六日前の年改めの日に、天門神教てんもんしんきょうの最高位聖職者である祭主さいしゅ白藤しらふじが殺害された。それもりに選って、新参の側仕えである八雲がたったひとりで御役に就いていたその朝にだ。

 事件の前後の様子を知っているのは彼だけなので、宗司たちは前代未聞の凶事の全容を掴むに足る証言を引き出そうと躍起やっきになっている。しかし、八雲に話せることはあまり多くはなかった。

「暁七つ半、ご起床の刻限をお知らせしに、祭主さまの御寝所へまいりました」

 湯を沸かして寝覚めのお茶をれ、洗面を手伝い、銀白の髪をくしけずり、道具を片づけようとしていたところへ、若巫女わかみこ青藍せいらんがやって来た。年改めの挨拶をするという彼女を部屋に残し、祭主の食膳を取りにくりやへ向かったのが明け六つの少し前。

「膳を持って戻ると、部屋から出てこられた青藍さまと前室の扉のところで危うくぶつかりかけました。そのあとを追うように内宮ないぐう衛士の街風つむじ一眞(かずま)が飛び出してきて、入れ替わりにわたしが中へ入ると、祭主さまはすでに……息絶えておられたのです。室内では、若巫女のくれないさまがご遺体にすがって泣いておいででした」

 先ほどよりも少し細部を加えてみたが、殺害の瞬間そのものは見ていないので、しょせん話せるのはこの程度だ。案の定、宗司たちは不満そうな顔をしている。

「八雲祭宜」序列六位の稲叢いなむら宗司が静かに訊いた。「祭主さまをあやめたのは青藍さまか」

 宗司らは青藍が殺害犯ではないかと疑っている。彼女は事件が起きた直後に現場から逃走し、そのまま姿を消してしまった。

「わかりません」

「紅さまは、そうだとおっしゃっている」

「ならば、そうなのかもしれません。でも――」

 まさか、という思いがある。

 あんな小さな――たった十二歳の少女が、人を殺したりするだろうか。それも日ごろから敬い、家族のように慕ってもいた人を。

 青藍がどれほど祭主を敬愛していたかを八雲は知っている。言葉で語られなくとも、彼女の祭主を見る眼差まなざし、振る舞い、話し方や声からそれはおのずと窺い知れた。そして祭主もまた、あの小さな若巫女には特別な情愛を傾けていたように思う。

 若巫女や若巫子わかふしは普通、ある程度成長してから神告しんこくを受けて昇山しょうざんするが、青藍は唯一この御山で――蓮水宮れんすいぐうで産まれ育った子供だ。祭主は彼女が赤子のころから、その成長をずっと間近で見守ってきた。それだけに、特に強い思い入れがあったのだろう。

 青藍は若巫女と若巫子が恋に落ち、過ちを犯して産まれた子なので、その存在をさげすうとむ者も御山には少なくない。〝罪果ざいか〟などと陰口を叩く連中もいるようだ。たとえ幼くとも、そうした空気は本人も感じ取っていたに違いない。

 だが祭主だけは常に彼女の味方だった。親がどんな罪を犯していようと、先入観に曇らされた目でその子供を見るようなことはしなかった。

 そんな彼を青藍が殺すはずはない。

「青藍さまはあの惨状をご覧になり、おびえて逃げ出されたのかも……」

 八雲がつぶやくと、序列三位の天城あまぎ宗司がふんと鼻を鳴らした。かなり額の上がった四十半ばの大柄な男で、彼の金壺眼かなつぼまなこは眼光鋭く威圧的だ。

「だが衣に血を浴びておられたのだろう」

「はあ」

 浴びたというよりは、遺体か寝台に触れた際に染みたという感じだったように思う。だが、すれ違いざまにちらっと見ただけなので、確信を持ってそう言うことはできない。

「青藍さまでないのなら、下手人は誰だというのだ。御寝所から出てきたという宮士ぐうしか。あるいは紅さまか」

「宮士は異変を察して駆けつけただけだと思います。紅さまは――あのかたはわたしが外しているあいだに御寝所へいらしたので、詳しいことはわかりません」

 八雲が部屋へ戻った時、紅は遺体に取りすがっていたが、その体にも衣にも血はついていなかった。

 真っ白な万事衣まんじごろもをまとい、黒々とした大きな瞳をあふれる涙で濡らしながら、鮮血を塗りたくったような寝台の傍に佇む少女は――美しかった。それは陰惨でありながら、人を惹きつけて放さない一幅いっぷくの絵のような場景だった。

 その絵はあまりに隙なく描かれすぎているがゆえに、どこか嘘くさく感じられたのを覚えている。

 とはいえ、この場でそんなことは口にできなかった。紅に関する発言は、なんであれ今後は慎重にしなければならない。

 あの日まで彼女は何人もいる若巫女のひとりであり、位階の上で祭主に次ぐ地位とはいっても、八雲にとってはただの小娘に過ぎなかった。

 だが今はもう違う。紅は逝去した白藤からその地位を引き継いだ、天門神教の第二十九代祭主なのだ。

 そのことは事件の翌日、大祭堂で行われた前祭主のたま送りの儀式の際に、御山の奉職者と信徒たちに向けて正式に発表された。

 祭主は毎月晦日(みそか)に〈尋聴じんちょう〉する習わしだが、年改めの前夜に行った尋聴で、白藤は次代の祭主となるべき者の名を示す〈神告しんこく〉を得たのだという。

 その夜、儀式を補佐する侍祭じさいを務めていたのは天城宗司だった。白藤は彼に紅が継承者であると教え、夜が明けたらまずそれを直接彼女に告げて、年改めの儀式で自身の退位を宣言したいと要望したらしい。

 つまり紅があの日、早朝に祭主の寝所を訪れたのは、天城にそうするよう言われたからだったのだ。彼女は八雲が部屋を出たあとでやって来て、祭主から譲位を伝えられたのだろう。

 それを退室前にもれ聞いた青藍が逆上して祭主を殺めたのではないか――と、天城と一部の宗司はそんな疑いを抱いているようだ。

 だがそれも、八雲には何かしっくりこない。次の祭主として指名されなかったからといって、あの青藍が逆上などするだろうか。

 八雲の知る彼女は大らかで天真爛漫てんしんらんまん、世間ずれしておらず人を信じやすい、壮大な野心などとはまったく無縁に思える少女だった。何かに腹を立てたとしても、ちょっとふくれっつらをするのがせいぜいで、他者を害するなど思いも寄らないだろう。

「宮士が追ったということは、やはり青藍さまが下手人であったと考えるべきではないか」

 天城宗司の言葉に何人かがうなずき、刺々しい視線を八雲の上に集めた。おまえは失念しているだけで、それを裏づけるような証拠を見聞きしているはずだと言いたげだ。

 だが、そんなふうに決めつけられても、覚えがないものをあると言うことはできない。

「ところで、その宮士はどこへ消えてしまったのだろう」

 ふいに、九重ここのえ宗司の穏やかな声が響いた。彼はかつて天山てんざんでもっとも大きい祭堂の堂司どうしを務めていたが、三年ほど前に十二宗司の末席に加わり、わずかの間に序列八位にまで昇った実力者だ。

「青藍さまを追っていって捕らえたにせよ、のがしたにせよ、それきり彼までもが行方知れずなのはせぬことだ。八雲祭宜(さいぎ)は何か知らないか」

「宮士が部屋を出たあと、わたしはすぐ中に入ってしまったので、ふたりが駆けていった先でどうなったかは――わかりません」

 自分が「わかりません」ばかり言っていることに気づき、急に肩身の狭い思いに囚われた八雲は、小さく「申し訳ありません」とつけ加えた。

「いや、謝らずともよい。そなたには非のないことゆえ」

 亡き白藤を思い出させる鷹揚な口調で言い、九重は宗司一同を見渡した。

方々(かたがた)、これ以上八雲祭宜から聞けることはないように思われまするが、いかがかな」

 序列の上ではまだ八位だが、その実績と篤実な人柄で一目置かれている彼の言葉は重かった。こいつを絞め上げるのは時間の無駄かもしれない、という空気がようやく宗司たちのあいだに漂い始める。

「では、八雲への詮議はこれまでとする。外で待つ忠永ただながと替われ」

 序列筆頭の空木うつぎ宗司が、次に針のむしろに座らされる者を指名した。あの朝、奥の院の扉を守っていた立哨りっしょうのひとりだ。

 そそくさと座を立とうとした八雲を、空木が静かに呼び止める。

「八雲」

「は、はい」

 動きを止めて目を上げると、色白の老人はまっすぐにこちらを見ていた。

「おまえは、このあと衛士寮へ行くように」

「衛士寮――ですか」

「山内の捜索の進捗を知りたい。衛士長から話を聞き、のちほどわたしに報告せよ。また古参の衛士の中に、誰ぞ街風一眞の行き先を知る者があるやもしれぬ。そのあたりのことも訊ねてくるがよい」

「承りました」

 下の階層まで降りていくのはちょっと面倒だが、ここでちぢこまらされているよりはずっといい。

 やっと開放されてほっとしながら広間を出ると、前室には蓮水宮で働く衛士や小祭宜しょうさいぎなど七人が控えていた。その中のひとり、衛士の忠永にうなずいてみせる。

「ずいぶん長かったな」

 忠永は立ち上がりながらつぶやき、少し不安そうな表情になった。

「宗司がたは手厳しいか」

「まあな」八雲は苦笑し、大柄でたくましい彼の背をぽんと叩いた。「床が冷たいから、おれがぬくめてやった場所に座れよ」


 八ノ上弦道じょうげんどうの衛士寮へ行くと、衛士長の千手せんじゅ景英(かげひで)はいま来客中だと言われた。待っていてもいつ会えるか定かではなく、古参の衛士たちもそれぞれ祭務さいむに出払っているようなので、七ノ上弦道の行堂ぎょうどうへ行ってみることにする。

 いま時分、衛士寮の修行者たちは練兵場で調練を受けているはずだ。そろそろひるの休憩に入る頃合いなので、指南役の古参を捉まえて話を聞けるだろう。

 下の階層へ下る参道では、大勢の奉職者が雪かきに精を出していた。大半は、かつて八雲やくもも入っていた祭宜さいぎの行堂で修行中の若者たちだ。彼らがせっせと取り除き、道の脇に積み上げた雪が高く厚い壁になっている。

 そのあいだを歩きながら見上げた空は水を含んだような灰白色で、雪の壁の上部とほとんど溶け合っているように見えた。

 冬景色の御山みやまは普段にも増して高潔な雰囲気になるのが常だが、今年は妙に湿っぽく陰気に思えてならない。自分が祭主さいしゅの逝去を、その凄惨な死にざまを知っているせいで、そんなふうに感じてしまうのだろうか。

 七ノ門をくぐって横にれ、雪の中の小道を歩いて練兵場の洞窟まで行くと、ちょうど調練を終えて出てきた修行者たちと入口ですれ違った。

 暗い洞内には、つんと鼻をつく硝煙のにおいが充満している。砲術をやっていたのだろう。

 通路を歩いて天井の高い大広間まで行くと、修行者たちに鉄砲や射場の後片付けを指示していた指南役が八雲に気づき、意外そうな顔をした。

信光のぶみつじゃない。何しに来たの」

 顎の線で短く切り揃えた髪を揺らしながら大股に近づき、玖実くみは片眉をしかめてみせた。

「相変わらず、辛気しんきくさい顔してるわね」

「ほっとけ」八雲は鼻の頭に皺を寄せ、昔なじみの玖実をにらみつけた。「おれのことは八雲と呼べよ」

「そんな洒落しゃれ祝名いわいなは、あんたには似合わないわ」

 彼女こそ相変わらず、口が悪い。

「知るか。自分で選んだわけじゃない」

 玖実はふふんと笑い、鉢巻き代わりに巻いていた手ぬぐいをするりと解いた。一緒にここで修行していたころそうだったように、今も彼女は鉄砲を扱う時には鉢巻きをしているらしい。

「おまえだって、行堂の指南役なんて偉そうな御役、ぜんぜん似合ってねえよ。昔は調練をさぼってばかりだったじゃないか」

「さぼってたのは最初のころだけで、あんたが祭宜の行堂に移ったあたりからはずっと真剣にやってたわ。苦手だった剣術も、今じゃ古参の五番手よ。なんなら手合わせしてみる?」

「まっぴらだ」

 八雲は首をすくめ、大仰にかぶりを振った。

「毎日痛い思いをするのがいやだから、おれは行堂を移ったんだぜ」

「嘘ばっかり」玖実はちょっとだけ口元をほころばせたが、すぐにその笑みを消した。「利達としたつのことがあったからでしょ。知ってるわ」

 五十公野いずみの利達。

 かつて共に衛士の行堂で修行をし、宿堂しゅくどうの同じ部屋で寝起きした仲間。共にこの練兵場で調練に臨み汗を流した――彼のは冷や汗だったかもしれないが――同期の朋輩。そして、若くして悲惨な末路を迎えた友。

 今も彼の顔を思い浮かべると胸が痛む。

「昔話をしに来たわけじゃない」

 わざとぶっきらぼうに言い、八雲は洞内にかれた篝火かがりびへ目をやった。

「訊きたいことがある」

「なによ」

一眞かずまだ」玖実のほうを見ないまま、ぼそりと言う。「あいつが姿を消して、もう五日になる。どこへ行ったか知らないか」

「知るわけないわ」

 木で鼻をくくるように言って、玖実は肩をすくめた。

「訊きにくる相手を間違ってる」

「おまえら、昔は仲が良かっただろう」

「そんなの、あんたや伊之介いのすけや――利達がいて、みんな揃って楽しくやってた、ほんのちょっとのあいだのことじゃない」

「じゃあ最近は」

「顔を合わせても、べつに話もしないわ。あいつが蓮水宮れんすいぐうで仕えるようになってからは、顔を見ること自体もほとんどなくなったし。宮士ぐうしは、あたしたちひら衛士とは身分が違うって知ってるでしょ」

 宮殿勤めを許されるのは、衛士の中でも特に優れたひと握りの者たちだけだ。衛士寮の所属ではあるが、階級的には普通の衛士より一段上と見なされている。

「ねえ信光」

 ふいに声を落とし、玖実は八雲のほうへすっと近寄った。

若巫女わかみこ青藍せいらんさまが、祭主さまをあやめたって話は――ほんとなの? その場にいたんでしょう」

 まったく、どこから話がもれているか、わかったものではない。八雲は少しいらだちをおぼえながら、玖実を横目に見た。

「その場にいたわけじゃない。祭主さまの食膳を届けにご寝所へ戻ったら、もう事が起きたあとだったんだ」

「あんたって、とことん間が悪いわね」

 ほんとうのことなので、無遠慮に言われても怒る気にもならない。

「青藍さまが現場から逃げたのはたしかだが、なぜそうしたのかは不明だ」

「あとを一眞が追ったっていうじゃない。なのにあいつ、あんな小さい女の子を捕まえ損ねたの?」

「いや、おれは……一眞が青藍さまを連れて、一緒に逃げたんじゃないかと思ってる」

 ずっと秘かに頭の中で考えていたことを、初めて人に言った。こうして言葉にしてみると、いかにもそれが真実らしく思えてくる。

「何か確信が――青藍さまが下手人のはずはないと、あいつなりに信じるところがあって、ひとまず逃がすことにしたんじゃないかな」

「一眞がそんなに親切かしら」

 不信感をあらわにする彼女を、八雲は怪訝けげんに思いながら見つめた。

「あいつはいつだって正しいことをしようとしていたし、利達みたいな弱い者には優しかっただろう」

「友達だからって、あんたは贔屓目ひいきめに見てるのよ」

 ずいぶん手厳しい。

 本人は否定するが、昔は一眞と玖実は間違いなく親しい間柄だった。彼女は一眞のことを高く評価していたし、信頼もしていたように思う。ふたりはできているのではないかと、八雲が漠然と疑った時期もあったほどだ。

 いつから彼女は、こんな胡乱うろんな眼差しを一眞に向けるようになったのだろう。

「おまえ、一眞と何かあったのか」

「べつに。ただ、あいつが何の得にもならないことをするわけないって思うだけ。だって、大罪人として追われている若巫女さまの肩を持って、どんないいことがあるっていうの」

「それは、だから単に親切な気持ちで――」

「一眞は計算高いやつよ」

 玖実はきっぱりと言い、やや色味の薄い瞳を篝火にきらめかせた。

「もし若巫女さまを連れて逃げたのなら、何か目的があってのことだわ」

「おまえ……おっかねえな」

 八雲は鼻白み、半歩うしろに下がった。

「そんな考え方をするのはよせよ」

「あんた、祭宜になってけたんじゃないの。もっと頭を働かせたらどう」

「じゃあ頭が働いてるおまえとしては、一眞と青藍さまがどこへ消えたと思うか聞かせてくれよ」皮肉混じりに言う。「とにかく年改めの朝におれが見たのが最後で、それきりふたりとも天に昇ったか地に潜ったか、まったく行方が掴めないんだ」

 玖実は大儀そうにため息をつくと、篝籠かがりかごから燃える割り木を一本掴み出した。それを手に持ったまま壁際まですたすた歩き、黙って横穴の中へ入っていく。

 八雲があわててあとを追うと、彼女は狭い通路の途中で待っていた。ゆらゆら揺れる松明たいまつの炎が、周囲の壁にふたりの影を踊らせている。

「おい、どこ行くんだよ」

「一眞が青藍さまを連れて逃げているとして、まだ山内に留まっているとは考えにくい。たぶん、すでに下界へ降りているでしょうね」

 玖実はしゃべりながら、先に立って歩き出した。

「でも参道や上弦道は通らなかったはず。門ごとに立哨りっしょうもいるし、すぐ誰かに見つかってしまうから」

 通路の途中で右へ折れ、彼女はさらに奧へどんどん進んでいく。

「森の中の獣道を下れば身も隠せるし手っ取り早いけど、こんな雪の時期に小さい女の子を連れてじゃ難儀するに決まってる。そうなると、一眞が使うのはここしかないわ」

 彼女が足を止めたのは、腰を屈めなければくぐれないような天井の低い横穴の前だった。

「この穴を通って――外へ?」

 しゃがんで中を覗き込みながら訊く。

「あたしが知るかぎり、洞窟の中にはほかにも三本、ふもと近くまで通じてるこういう穴があるわ。衛士寮に長くいて御役がつくと、古株からこっそり教えられるの。もし御山みやまが外敵に攻め入られて、祭主さまや高位奉職者を外へ逃がさざるを得なくなったら使うことになってるのよ」

「一部の衛士しか知らないってことか?」

「そう、衛士長や宮士、行堂長、指南役――いざという時に幹部の避難を先導するような立場の者だけ。だって、みんなが知ってたら秘密の抜け穴の意味がないじゃない」

 それはそうだ。抜け穴の存在を誰もが知っていたら、危険が迫った時に大勢が殺到して、肝心の祭主たちを逃がせなくなりかねない。中には命惜しさに、敵にこの場所を教える不届き者も出てくるだろう。

 八雲は腰を伸ばし、松明の明かりをはさんで玖実と向き合った。

「それで、一眞たちが抜け穴を通ったかどうかは調べてるのか」

「そのはずよ。衛士長に訊いてみたら。たぶん非番の宮士を使って、夜中に探索させているんじゃない」

景英かげひでさまに訊いたら、おれが知るはずのない抜け穴のことを知っているとばれちまうぞ。誰から教わったか白状させられたら、おまえ、まずい立場になるんじゃないのか」

 焦る顔のひとつも見せるかと思いきや、玖実は平然としている。

「そこは、前に一眞から聞いたとか何とか言っておいてよ」

不欺ふぎ掟戒ていかいを破れってのかよ」

「人を害するための嘘じゃないんだから、神は許されるわ」

 ぬけぬけと言って、彼女は通路を戻り始めた。八雲も急いで明かりを追う。

 大広間に戻ると、片付けをしていた修行者たちはもういなくなっていた。篝籠の中の火勢もかなり弱まっている。

「そろそろ昼餉の刻限だな」

 細い通路から開放された八雲は、腰を反らして大きく伸びをした。狭苦しい場所は苦手だ。

「おまえ、飯は行堂の食堂じきどうで食うのか」

「衛士寮へ戻るわ。あんたも一緒に来るなら、何か見つくろうようくりやに言ってあげるけど」

「じゃあ頼む。どのみち、衛士長に会ってかなきゃいけないし」

 火を消して洞窟の外へ出ると、大粒の雪片が強風に舞っていた。玖実が手ぬぐいを出して襟元に巻きつけながら、意味ありげに八雲を見る。

「抜け穴のことを教えたんだから、あんたも蓮水宮れんすいぐうのことを何か話してよ。新しい祭主さまは――くれないさまは、今どうされてるの。即位の儀式はいつになりそう?」

「紅さまは客殿きゃくでんの〈祥雲亭しょううんてい〉に移って、十五日間の斎戒さいかいに入られた。普通はそのあと即位の儀に臨まれるんだが、今回はちょっと問題があってな」

 カラマツの林道を抜けて参道のほうへ戻りながら、八雲は宮殿勤めの者だけが知っていることを玖実に打ち明けた。

「譲位には厳格なしきたりがあって、いくつかの条件というか段階を経ないと成立したことにならないんだ」

「どんな段階よ」

「まずは前祭主が神告しんこくを受けて指名する。ここは、いちおう通過した。次に秘術の相伝と玉驗ぎょっけんの委譲なんだが……その前に祭主さまが亡くなられてしまったから、ふたつとも行われていない」

「何の委譲ですって?」

「玉驗――御山全体にかかわるような大きな決裁に用いられる、祭主だけが使える印章のことだよ。蓮花紋と歴代のすべての祭主の御名が彫り込まれているそうだ。でも保管場所が不明で、探してはいるがまだ見つかってない」

 祭主の寝所、居間、御座所では連日のように総がかりの捜索が行われているが、どこへしまい込まれているものか、まったく出てくる気配がなかった。

 そもそも、玉驗がどんな色や形をしているか、それを知る者自体がひとりもいない。紙にされた印影こそ大量にあるものの、十二宗司(そうし)や側仕えの者ですら、祭主が現物を使用しているところは一度も見たことがないのだ。

 大きいのか小さいのか、丸いのか四角いのか、それすらわかっていない。そんなものを、何の手がかりもなしに広大な宮殿の中から探し出そうとするなど、明らかに無理がある。

「出てこなかったらどうなるの」

 玖実が至極当然の質問をした。だが、八雲はこれに対する答えを持ち合わせていない。

「どうなるんだろうな。過去にも例のないことで、宗司がたも頭を抱えてるよ」

 これまで、譲位の要件を満たす前に祭主が死去したことはないという。他者に殺害された祭主もいない。今回のことは、何もかも異例ずくめなのだ。

「なら、空位の時期は長くなるかもね」

 上弦道の端まできて、参道の門をくぐった玖実が小さくつぶやいた。

「もしかして、紅さまは――次代さまじゃないんじゃないの」

「おい」

 八雲はひやりとして周囲を見回した。幸い、参道を行き来する参拝者も奉職者も近くにはいない。

「めったなことを言うなよ」

 小声でたしなめると、玖実はゆっくり階段を上りながら肩をすくめた。

「だって、秘術を伝えられていないし、印章も譲り受けていないんでしょ。正統な次代さまなら、譲位は神のご加護でしきたり通りに行えたはずよ。これまでの祭主さまは、みんなちゃんと必要なものを受け継いだ上で即位してこられたんだから」

 恐るべき冒涜ぼうとく的な物言いだが、一理あるのは否定できない。

「ひっかかることばかりだわ。紅さまは本当に次代さまなのか。祭主さまは誰に殺されたのか。青藍さまはなぜ逃げ出したのか。一眞はこの一連の出来事にどうかかわっていたのか――」

 玖実は足を止め、雪交じりの風に目を細めて八雲を振り返った。

「調べたら」

「お、おれが?」思わず声が高くなる。「なに言ってんだ」

「だって、どれも曖昧なままにはしておけない重要なことじゃない」

「そりゃそうだけど……調べるったって、どうすりゃいいのかわかんねえよ」

「あんたは宮殿で仕える小祭宜しょうさいぎなんだから、外にいる者よりずっとたくさんのことを見聞きできるはず。何かおかしいと少しでも感じるものを見つけたら、それをとことん追ってみることね」

 玖実はひとつ上の段から八雲をじっと見据え、昔と少しも変わらない生意気そうな目をしてにやりと笑った。

「行き詰まったら、いつでも相談に乗るわよ」

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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