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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第一章 乱世の若者たち
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三   王生国天山・石動元博 協力者

 寒空の下、ぱしっと小気味いい音が響く。

「いたい!」

 怒りに満ちた声がそれにかぶさった。

「そうでもないはずですよ。打ったのは帯の上ですから」

 石動いするぎ元博(もとひろ)は真正面から振り下ろされる木剣の先を横にかわし、脇をすり抜けながら片手で相手の肩を軽く押した。

 踏み込みの勢いをらされた三廻部みくるべ亜矢(あや)が脚をもつれさせ、雪をいて露出させた庭土にどすんと尻餅をつく。

「正面から打ち合え。汚いぞ!」

 袴の尻を汚し、湿った土の上に座り込んだまま、彼女は頬を真っ赤にしながら怒鳴った。荒い鼻息が白く凍って、霧のように顔の周りを漂っている。

「わたしは非力なほうなので、いろんな技を使ってそれを補います」

 取り巻きの若者たちが大皇たいこう息女を助け起こそうと急いで群がるのを横目に見ながら、元博はのんびりと言った。

「どうしても勝ちたいなら、姫もそうされてはいかがです。なんなら、こつをお教えしましょうか」

「こ、この……無遠慮な礼儀知らずの田舎者め」

 差し出されたいくつもの手を腹立たしげに打ち払い、亜矢は唸り声を上げて立ち上がった。目は血走り、眉間には深々と縦皺が刻まれている。花も恥じらう十八の乙女には、まったく似つかわしくない表情だ。

「卑怯な手でわたしを倒して得意顔か」

「どんな手を使おうと、勝ちは勝ちです」

「減らず口を叩きおって。抜け」

 亜矢が木剣を捨てて脇差しの鞘を払い、それを見た取り巻きがあわてて数歩逃げた。うっかり刃圏にいて、怪我でもさせられたら大ごとだと誰の顔にも書いてある。

 腰抜けばかりだ――元博は内心で嘆息しながら、亜矢姫がいつも引き連れてのし歩いている青年たちを見渡した。みな育ちはいいが、教養はあっても思慮の浅い腰巾着ばかりで、姫に道理をこうとする者などひとりもいない。彼女の身を、本気で案じている者すら誰もいなさそうだ。

「さっさと抜け、石動元博」

 挑発的に亜矢が吠える。だが元博には相手をする気など毛頭なかった。

「いいえ抜きません。姫君も早くそんなものはお仕舞しまいください。また、いつぞやのようにお怪我をなさいますよ」

 ちくりと言ってやると、亜矢の目が剣呑けんのんな光を帯びる。

「誰に向かってそんな口を利いているか、わかっているのか」

「無論です」

「ならば、いちいち逆らうな。わたしの命令に従え」

あるじの言葉とあらば、どんな命令にも従いますが、あいにく姫君はわたしの主人ではありません」

 淡々と言いながら、元博はどんよりとした疲労感をおぼえていた。

 なぜ、朝も早いうちからいきなり乗り込んで来た気の合わない姫君を相手に、こんな寒い中で一銭の得にもならないやり取りをしなければならないのか。ほかにいくらでもすることはあるというのに。

「さて、ご所望どおりひと勝負したことですし、そろそろお引き取り願えますか」

「まだ決着はついておらぬ」

「つきましたよ。尻餅をついたら負けです」

「勝手に決めるな! 何様のつもりだ」

「姫君のお言葉を借りるなら――礼儀知らずの田舎者、ですかね」

 元博はにやりと笑うと、庭を囲む柴垣の木戸を開けに行き、その脇で控えの体勢を取った。もう、これ以上はお相手しませんよという意思表示だ。

 亜矢は燃えるような目をしてしばらくにらんでいたが、やがて鼻をひとつ鳴らすと脇差しを鞘に収めた。もっと幼いころなら問答無用で斬りかかってきただろうが、さすがに多少は分別がついたということか。

 彼女はふんぞり返り、高くい上げた長い髪を馬の尾のように揺らしながら、大股に歩いて木戸を出ていった。別れの挨拶はなく、一瞥いちべつすら与えないことで最大限の怒りと侮蔑を表そうとしているようだが、元博にしてみればそんなものは屁でもない。

 取り巻きの若者たちの最後のひとりが木戸を出ると、彼はさっさと扉を閉めてしまった。あまり褒められた態度ではないかもしれないが、亜矢姫とその周辺に気をつかう努力は疾うの昔に放棄している。

 彼女が放り捨てていった木剣を拾い上げて〈賞月邸しょうげつてい〉の縁側に近づくと、そこでずっと見物していた黒葛つづら貴昌(たかまさ)がくすくす笑った。

「今日は、お得意の〝殺す〟が出なかったな」

 膝の上には愛猫の白雪しらゆきが丸まっており、彼の手がその背を優しくなでている。

「もう百回は言われただろう」

「千回ですよ」元博はため息をつき、沓脱くつぬぎ石の下方を軽く蹴って履き物の裏についた土を落とした。「それほどわたしが嫌いなくせに、なんだってわざわざここへいらっしゃるのでしょうね」

「亜矢姫は元博のことを嫌ってなどいない。むしろ、お好きなのだと思うよ」

「そんなはずはありません」

 元博は縁側へ上がり、足袋たび越しの足裏にヒノキ板の冷たさを感じて身震いした。これほど長く暮らしていても、天山てんざんの冬の寒さには未だに慣れない。

「若殿、お居間へお入りください。ここは冷えすぎます」

「そうしよう」

 貴昌は灰色の雪空をちらりと見上げ、猫を抱えながら腰を上げた。

 彼が十二年前に大皇妃たいこうひ三廻部真名(まな)から与えられた白雪は、猫としてはもうそこそこの年になっている。最近ではあまり遊び回ることもなくなり、主人の傍でのんびりとくつろいでいることが多い。

「いま火を入れます」

 障子戸を閉めたあと、元博は台所で炭をもらってきて、ケヤキの長火鉢と陶製の大きな丸火鉢にそれぞれ並べた。薄く灰をかぶせて火力を調整し、箱火鉢は手あぶり用に貴昌が座る傍へ置く。

 五徳ごとくには鉄瓶を載せ、湯が沸くのを待つあいだにお茶の支度をした。

「亜矢姫が、たびたびここへいらっしゃるのは――」

 茶器を並べる元博の手元を見つめながら、貴昌が静かに言う。

「元博に会うとほっとするからだろう。愛想笑いもせず、追従ついしょうも言わず、いやなことをされれば素直に厭だという顔をする。あの姫君の周りには……そういう人はたぶんあまりいない」

「わたしが厭がるのを見て、たのしんでおられるということですか」

「違うよ」

 また膝に上がってきた白雪の耳のうしろをいてやりながら、彼は低く含み笑いをした。

「身分の高い者には、みな本音を見せようとはしないものだ。へたに見せて心のうちを知られ、憎まれでもしたら損をするから。あなたさまのなさることはすべて正しいですという顔をして、まずいことは見なかったふり、聞かなかったふりで如才なく立ち回る――処世術というものだよ。それはある意味正しいけれど、そんなふうに隔てを置かれる側にとっては、少しばかり寂しいことでもある」

「わたしは……わたしどもは、若殿に本音を隠したりはいたしませんよ」

 急いで言うと、貴昌は目元をなごませてうなずいた。

「その点、南部人は正直なのだ。いや、純朴なのかな。元博たちはいつだってわたしに本心を見せてくれていると知っているし、嬉しく思っているよ。亜矢姫はどこかで、そういうわたしをうらやんでおられるのだろう」

 だから来るのか。田舎者とさげすみ見下している相手から、厭な顔をされに――わざわざ。

 貴昌の言葉はすんなり呑み込めたが、亜矢姫の心情は元博には複雑怪奇としか思えなかった。

 誰かと本音でつき合いたいというのは、まあわからなくもない。だが、なぜそれを自分の周囲ではなく、他家の家臣になど求めたりするのだろう。

 元博たちが偽りのない心で貴昌に接するのは、君臣の強い絆と信頼関係、主人への深い愛情があるからこそだ。それは一朝一夕に築き上げることができるようなものではない。

 胸襟きょうきんを開いてくれる相手を本気で欲しいと思うなら、亜矢姫はもっと身近なところで探すべきではないのか。子供のころから傍にいた大勢の人々の中に、彼女の孤独を受け止めてくれる者がひとりぐらいはいるはずだ。

 それとも――いないのだろうか。

 火にかけた鉄瓶が、ちん、ちんと音を立て始めた。考えているうちに湯が沸いたようだ。

 元博はお湯を湯呑みで一杯分量り、それを茶葉の入った急須へ移した。静かに揺らしてから湯冷ましへそっと注ぎ入れれば、湯気と共に煎茶のいい香りがふわりと立ち上る。ほどよく湯温の下がったところであらためて湯呑みを満たし、茶托ちゃたくに載せて貴昌にすすめた。

「元博がれてくれるお茶は、いつもおいしい」

 煎茶をすすり、貴昌は満足そうに微笑んだ。

「味がまるいんだ」

 些細ささいなことでも、主から褒められるとやはり嬉しいものだ。元博が思わず口元をほころばせたところへ、朴木ふのき直祐(なおすけ)由解ゆげ宣親(のりちか)がやって来た。ふたりがかりで大きな桐箱を抱えている。

 居間に運び込んだ箱を下ろすと、直祐は貴昌に書状を差し出した。

立州りっしゅう七草(さえくさ)貴之たかゆき(ぎみ)からです」

「今年最初の手紙はいとこから来たか」

 貴昌は書状を受け取り、座るようふたりを促した。

「みなで一緒にお茶を飲もう。元博」

「はい、すぐ支度します」

 もう一度茶を淹れている横で、貴昌が直祐に問いかける。

「叔父上はどちらかな。忠資ただすけ吉綱よしつなは?」

禎貴さだたかさまと真栄城まえしろ忠資どのは、桔流きりゅう和智(かずとも)さまとのお打ち合わせがあって主屋へ行かれました。玉県たまかね吉綱どのは私用で一刻ほど出ておられます」

「そうか」

 貴昌は書状を広げ、ゆっくりと目を通した。

「箱の中身は立州名産の綾織物だそうだ。母御の真木まきどのと一緒に、色柄のよいものを何反か見つくろってくれたらしい。春の衣替えに合わせて、新しい衣装を仕立てて欲しいと」

「貴之さまはまだお若いにもかかわらず、ずいぶんと細やかなお気づかいをなさいますね」

 宣親が感心したように言う。

「彼はわたしが天山で何かと不自由したり、寂しがったりしているだろうと思っているんだ。だから、まめにこうして手紙をくれる。定期的に届くようになって、もう――五年近くになるかな、元博」

 元博は急須を揺らしていた手を止め、ちょっと考えてから「はい」と答えた。わざわざこちらへ話を振るのは、貴之君が石動いするぎの血筋で、元博の甥でもあることを意識してくれているからだろう。

「貴之の手紙は、いつも余白の追而書おってがきがおもしろいんだ。海で泳いでいて沈没船を見つけた話とか、遊び仲間と山で熊の仔をかまっていたら、親熊が出てきて命からがら逃げた話とか。たまに挿絵がついていることもある」

 宣親と直祐がほのぼのと笑う。

「今回は戦の話だった。早く戦場いくさばに出たくて、うずうずしているらしい。わたしがここへ来たころ彼はまだ幼子だったのに、もう初陣しようかという年ごろにまで成長したのだな」

 室内に、しばし沈黙が落ちた。

 人質として天山で暮らした十二年。その年月の長さが、こんな折りにふと痛いほど身にしみることがある。

 名家同士の私闘を嫌う大皇たいこう三廻部(みくるべ)勝元(かつもと)から守笹貫かみささぬき家との和睦をいられ、その取り決めを守るあかしとして黒葛つづら宗家の嫡子を質に出すよう命じられたのは、皇暦こうれき四一〇年の初夏のことだった。

 しかし形ばかりの和睦は数か月後に守笹貫家のほうから破られ、以来ずっと両家のあいだでは戦が続いている。先に仕掛けたのが黒葛家ではなかったため、大皇は預かった人質に危害を加えなかったが、国許へ返そうともしなかった。切り札を手放したくなかったのだ。

 人質の命が惜しいなら和睦せよと、勝元はこの十二年間に幾度も黒葛家を脅している。そのたびに宗主禎俊(さだとし)は、戦をやめさせたいなら即刻人質を返すか、公平に守笹貫家からも嫡子を質に取れと強気の要求をしていた。

 伝え聞いた話によると、勝元は開戦から六年ほど経ったあたりでついに折れ、守笹貫家に対して人質を求めたらしい。だが守笹貫道房(みちふさ)はそれを無視した。

 まったく制御できない南部の二名家は、勝元にとって大きな頭痛の種となっているに違いない。

 だが彼はこれまでずっと、戦はよせ、やめろと遠くから言うばかりで、強硬な手段を講じようとはしなかった。

 亡父義勝(よしかつ)前大皇と親しい間柄であった守笹貫道房に対して、勝元はどうしても遠慮を捨てきれない部分があるのだろう。同時に、黒葛家を抑えつけたいのはやまやまだが、長きにわたり手元に置いていた人質を今さらどうこうする気にもなれないのだ。

 両家の争いはしょせん南部の権力闘争であり、天山や北部に火の粉がかからねばそれでいいと考えているのかもしれない。

 黒葛家の一行が今も人質の身であることに変わりはないが、天山へ来た当初と違って危険を感じることはほぼなくなっていた。

 貴昌は大皇妃に出会った時から一貫して寵遇され、強力に庇護され続けている。勝元大皇も今では彼にかなり情が移っている様子で、今年六歳になった嫡子利勝(としかつ)にしばしば公然と「貴昌を兄と思い、彼のすることを見習え」などと教えていた。預かり先の桔流きりゅう家でも相変わらず、人質というよりは客分として丁重に扱われている。

 皮肉な話だが、南部で戦が始まってしまったあとの天山暮らしは、隠居老人のそれのようにずっと穏やかだった。

 しかし何も考えずに甘受し、安逸をむさぼっているわけではない。

 貴昌自身はほとんど何も言わないが、彼を故郷へ帰したいという元博ら家臣の思いは日を追うごとに強まるばかりだった。

 七歳で父親と引き離されて以来、彼は一度の里帰りすらも許されていないのだ。十五歳で元服した折りに要望は出してみたものの、結局実現はしなかった。

 元服式は大皇妃のはからいによりいわい城で華やかに行われたが、終日続いた祝宴のあいだ、ずっと貴昌の瞳にかすかな陰りが見て取れたことを元博は今もはっきりと覚えている。

 ここが懐かしい郡楽ごうら城だったら。

 隣にいて誇らかな眼差しを向けてくれる人が父だったら。周りで祝う大勢の人々が、みな心を許せる南部のともがらだったら。

 彼が決して言葉にはしようとしない強い望郷の念を、傍にはべる元博たちだけが感じ取り、やるせない思いに囚われていた。

 だが長かった忍耐の日々にも、ついに終わりの時が近づいている。

 江州こうしゅうでは今、黒葛家と守笹貫家の戦いが最終局面にさしかかっているらしい。勝利すれば黒葛家は四か国の支配者となり、その勢力は天山にも匹敵するほど大きくなる。

 南部の盟主となってさらに力を増した黒葛家が、天山への積年の遺恨を晴らすべく動き出す前に、大皇は人質を返還しようと考えるだろう。引き替えに臣従の誓いを求め、それを保証する新たな質草を要求する可能性はあるが、少なくとも宗家の嫡子である貴昌は故国へ帰すはずだ。

「こちらからも、貴之に何か贈りたいな」

 少し沈んだ空気を吹き払おうとするように、貴昌が明るい声で言った。

「何がいいだろう。たいていのものは持っていそうだが」

「初陣を楽しみになさっておられるのなら、やはり戦場でお使いになれるものがよいのではありませんか」

 宣親の提案を聞いた貴昌は、目を伏せてしばらく考えた。

軍扇ぐんせん――はどうだろう。漆黒の地紙の表に金箔で日輪、裏に銀箔で月輪を……いや裏は三日月にして、星に見立てた金銀砂子(すなご)霰箔あられはくをあしらおうか。あまり型にはまりすぎぬほうが、若く活発な貴之には似合いそうだ」

 洒落しゃれている――と、元博は黙って聞きながら感心していた。貴昌の趣味の良さは、みやびさと華麗さが好まれるこの天山で、数々の逸品に日々触れながら磨き上げられたものだ。

 同じものを同じように見ていても、自分はそういう方面でさほど進歩したとも思えないので、やはり生まれ持った感性の差なのだろう。

「さぞ、お喜びになるでしょう」宣親がにこにこしながら言った。「五の曲輪くるわあたりで探せば、熟練の扇職人が見つかるはずです。いわい城にも品物を納めるような腕のいい者が大勢いるとか」

「では、そうしよう」

 貴昌はうなずき、少し間を置いてから誰にともなく訊いた。

「今日は五日だったかな」

「さようです」直祐が答える。

「そろそろ葉煙草はたばこが切れるころだ。――元博」

 静かに呼びかけ、貴昌は傍にあった煙草盆から愛用の煙管きせるを取り上げた。

「このあと用がなければ、使いを頼みたい」

「はい、なんなりと」

 元博は前に膝をすすめ、懐から出した袱紗ふくさの上に煙管を受け取ってそのまま包み込んだ。

「煙管職人のところでいつもの煙草を求め、傷んだ羅宇らうをすげ替えさせるついでに、腕の立つ扇職人を知らないか訊ねてみてくれないか。同じ職人同士、誰ぞ心当たりがあるだろう」

「承りました」

「紹介されたら実際に会ってみて、感触がよければここへ打ち合わせに呼ぶ段取りをつけてきてもらおう。腕と人物の見極めは任せる」

 元博は袱紗を捧げ持ちながら少し視線を上げ、同席のふたりに気づかれることなく、貴昌と一瞬の目くばせを交わし合った。


 朝起きた時よりも屋外はさらに冷え込みが増し、ちらほらと小雪が舞っていた。

 桔流きりゅう邸の奥庭は見渡すかぎり白一色で、雪吊ゆきづりなどの冬囲いを施された樹木もみな厚い綿帽子をかぶっている。

 防雪のための簑笠をつけて門を出た元博は、馬のあぶみに足をかけようとしたところで、桔流家の家人けにん椹木(さわらぎ)彰久(あきひさ)に声をかけられた。

「おや、お出かけですか」

 彼自身はちょうど今、どこからか帰ってきたところらしい。かぶっている笠にはさほど雪が載っていないので、遠くまで行っていたわけではなさそうだ。

「ちょっと五の曲輪くるわの職人町へ行ってきます」

 元博の言葉を聞いて、彰久は愉快そうに笑った。

「なにもこんな寒い中、ご自身で行かれることはないでしょうに」

 職人町への使いなど、小者にでも申しつければすむと言いたいのだ。

「よほど大切なご用なのですか」

 さり気ない調子で問いかけてきたが、その声にどことなく探るような響きが混じっているのを元博は感じ取った。

「修繕を頼みに行くだけですが、若殿ご愛用のお道具をお預かりしておりますので、めったな者には任せられません」

「ああ、なるほど」彰久が得心したようにうなずく。「道が凍っておりますから、どうぞお気をつけて」

「ありがとうございます。では、これで」

 会釈を交わして馬にまたがれば、従者の小酒部こさかべ孫六(まごろく)がすぐに引き手を取って歩き出す。

 彼の藁沓わらぐつが規則正しい間隔で、きゅ、きゅ、と雪を踏みしめる音をしばらく聞いてから、元博は小声で言った。

「孫六、それとなく振り向いてうしろを見てくれないか」

 彼が足を止めずに顔だけこちらへ向け、馬の首の脇から背後の様子を窺う。

「彰久どのは、まだ門前でわたしたちを見ているか」

「もうおられません」

「誰か、あとをつける者は」

「小者連れの侍がひとりと、行商の者らしい若い男が歩いておりますが、かなり離れています。ほかに人影は見当たりません」

「わかった」

 そのあとも、五の曲輪へ降りていくあいだに元博は何度かふいに馬を止めたり、少し道をれたりして尾行を警戒した。つけてくる者がいる可能性は低いが、うかつな行動をして行き先を突き止められたりしたくはない。

 こうした用心はもう習いしょうになっていた。十二年前の貴昌たかまさ(ぎみ)暗殺未遂と柳浦なぎうら重晴(しげはる)の変死以降、周辺で特におかしなことは起きていないが、決して気を抜いてはならないと感じている。

 一刻ほどかけて曲輪をふたつ降りると、見てはっきりわかるほど積雪の厚みが減った。天山は輪郭式の城で、上の階層ほど格式が高いとされているが、冬場の住みやすさでいえば下の曲輪のほうがずっと優れている。

 五の曲輪まで通行自由の番所手形を見せて門を抜けた元博は、大手道の出口近くで馬を下りた。

「そこで温かいものでも飲み食いしながら待っていてくれ」

 曲輪道のほとりに建つ茶屋に孫六と馬を残し、商業地のすぐ先にある職人町へひとりで向かう。長年仕えてくれている忠義な従者に隠し事などしたくはないが、これから会う相手との会話は彼にも聞かれたくない。

 天山へ来たばかりの時に宿泊した宿〈乙藤おとふじ屋〉の前を通り過ぎ、米屋や味噌屋、両替商などの大店おおだなを横に見ながら歩いていって、元博は古手ふるて屋の脇から裏道へ入った。その一角には長屋が建ち並び、大勢の職人が住まっている。

 見知った裏路地を奥のほうへと入り込み、彼は一軒の家の前で足を止めた。板戸を軽く叩けば、すぐに中から「どうぞ」と声がする。

 戸を引き開けると、土間を挟んだ向こうの板間で、職人のなりをした空閑くが忍びの政茂まさしげが会釈をした。

 彼は忍び働きをする傍ら、普段は煙管きせるの修繕や掃除をする羅宇らう屋を装って出商であきないをしているが、雪の深い季節になると座業の煙管職人に鞍替えする。どこで技術を覚えたものか、雁首がんくびや吸い口にちょっとした彫刻を施すなどして、そこそこ贔屓ひいき筋もついているらしい。

 ちょうど客の相手をしていたところだったようで、上がりがまちにはどこかのたなの小僧らしき少年がちんまり座っていた。

「さ、できました」

 政茂は手入れを終えた煙管を絹布でさっと拭いて使いの小僧に手渡し、代わりに手間賃を受け取った。

「またご贔屓ひいきに」

 声をかけて送り出し、あらためて元博のほうを見る。

「どうぞ、お上がりください」

 促されるまま元博は履き物と簑を脱ぎ、刀を外して板間に上がった。長火鉢はあるが、隙間だらけの安普請の室内はかなり寒い。

 政茂は機敏に立ち上がると、円座を出してきて元博にすすめた。

「ちょうど湯が沸いておりますので、いま茶をれます」

「湯だけもらうよ」

 湯呑みに熱いのを入れてもらい、息を吹きかけながらそれを二、三口すすると、冷えていた胃が温かくなった。

「いつもの葉煙草はたばこを頼む。それと、若殿の煙管を手入れして欲しい」

 貴昌から預かった煙管を渡すと、政茂は慣れた手つきで分解し始めた。

「さほどいたんではおりませんね」

 外した羅宇を子細に検分し、薄い唇にかすかな笑みを浮かべる。

「お出かけになりやすいよう、理由を作ってくだすったのでは」

「うん、たぶんそうだ」

 かつて天山での諜報活動を取り仕切っていた柳浦重晴の急逝後、元博は政茂に乞われてその役目を肩代わりすることとなった。人を見張り、噂に耳をそばだて、黒葛つづら家に対する不穏な動きがないかを探るのが主な仕事だ。何か気になることがあれば政茂に探索の指示を出し、その報告を聞いて対応を考えたりもする。

 本来、諜報というのは秘密裏に行われるべきものなので、元博は自分の役割について長いあいだ誰にも教えなかった。もはや家族も同然となった随員仲間にすら、未だに何も話していない。

 だが重責を担ってから十年目にして、ただひとりの人物にだけ何もかもを打ち明けた。その相手とは主人である黒葛貴昌(たかまさ)だ。

 十七歳になっていた貴昌は元博の告白を聞いて少し驚いた様子を見せたが、すぐにすべてを呑み込んで長年の労苦をねぎらってくれた。以来、彼は元博が諜報の任務をこなしやすいようにと、折々に協力してくれている。

「若殿のご用を言いつかると、無理なく外出そとでできるから助かるよ」

「月に一度でもこうしてじかにお会いできるのは、手前にとってもありがたいことです。通信文つうしんぶみで連絡し合うだけでは、どうしてもご報告が簡略になってしまいますし、情報ねたの共有も遅れがちになりますから」

 政茂は鋭角な顔をさらに引き締め、強い眼差しを元博に向けた。

「本日お越しいただけて、ようございました。ちょうど昨夜、郡楽ごうら頭目かしら――空閑くが宗兵衛(そうべえ)よりしらせがまいったところです」

「何か、南部で大きな動きでも?」

 思わず身を乗り出した元博に、政茂がにやりと笑ってみせる。

「そろそろ、ご帰国に向けて準備を始められてもよろしいかと」

「では――」湯呑みを握る手に、ぐっと力が入る。「ついに」

「はい。禎俊さだとし公はこの春にも江州こうしゅうで最終決戦に臨まれるお心づもりとか。すでにほとんどの主要な城砦は落ち、百武ひゃくたけ攻めの妨げとなる城はもう数えるほどしか残っておりません。よほどのことがないかぎり、ここから守笹貫かみささぬき家が巻き返すことはなかろうと宗兵衛は申しております」

 膨れかけた興奮がすうっとしぼむ。前に同じような期待をした時には、その〝よほどのこと〟が起こったのだ。

「しかし、また二年前のように、どこからともなく増援部隊が湧いてくるのでは」

「それを封じる手立てを講じ、このたびは完全に逃げ道をふさいでから総力戦を仕掛けるとのことです」

 ならば。

 今度こそ本当に終わるのだろうか。長かった戦も、永遠に続くかと思われた人質暮らしも。

 懐かしい故郷へ――みなで帰れるのだろうか。

「黒葛家が勝利すれば、おそらく大皇たいこうは人質を返還することを考えるだろう」

「はい」

「だが、そうあっさり手放すかな」

「もし手放さねば、禎俊公は軍装を解かずして、ただちに天山へ攻めのぼられるでしょう」

 そうかもしれない。十二年にわたる戦を終えた直後に別の戦を始めるなど普通ならあり得ないことだが、こと戦いに関しては黒葛家はほかの名家とは常識の尺度が違う。そして大皇も、そのことはよくわかっているはずだ。

「春に決着がつけば、遅くとも水月すいげつのころには、皆さま打ち揃って南部へお戻りになっておられるかと」

「南部の夏がどんなふうだったか、もう忘れてしまった。きっと、たまらないほど暑く感じるだろうな」

 元博が苦笑しながら言うと、政茂は口角を上げてうなずいた。だが、すぐに笑みを消し、表情をあらためる。

「今後はよりいっそう貴昌さまのご身辺に気を配り、つつがなくご帰国の日を迎えられるよう、くれぐれもご用心ください」

 一抹いちまつの不安が胸をよぎる。

「何か起こると思うのか」

「かつて貴昌さまを殺害せんと図った何者かの正体は、ついに明らかとはなりませんでした。その後は特に目立つ動きは見られませんが、これから皆さまのご境遇が変わるとなると、またぞろ悪事を働くやもしれません」

「そうだな」元博はぞくりと身震いした。あれを再び繰り返させるわけにはいかない。「警護の数をさらに増やして、〈賞月邸しょうげつてい〉と周囲の警備体制も見直そう」

「無事にお帰りいただけるよう、手前も及ばずながら出来うる限りのことをいたします」

 感謝をこめて政茂を見つめ――そして、ふと元博は思った。彼はどうするのだろう。我々が天山から去る時、彼もここを離れて南部へ帰るのか。

「もし帰国の許しが出たとして、おぬしは――」

「手前は残ります」

 政茂は質問の先を読み、簡潔に答えた。

「残る……のか」

「はい。天山にもぐり込み、長年かけて築き上げた足場を無駄にはできません。頭目かしらから戻れという指令がないかぎり、手前はここで忍び働きを続けます」

 帰国できるならもちろん嬉しいが、ずっと手を携えて働いてきた彼をひとり置いて去るとなると、素直には喜べない気がする。

 元博の表情が曇ったのを目ざとく見て取り、政茂は控え目な笑みをもらした。

「元博さま、忍びの者は皆さまがたとは立場が違います。どうか、お気づかいなどなさいませぬよう」

「わかっている」

「手前のことより――南部へ戻るとなれば、さらってお行きになりたいかたがいらっしゃるのではありませんか」

 決して、からかうような口調ではない。それでも元博は顔が少し上気するのを感じた。いい歳をしてだらしないとは思うが、どうもこの手の話題になると決まり悪さが先に立ってしまう。

白須しらす家の美緒みおどののことなら、そんな……気軽に連れ帰るというわけには」

「しかし、どこへもとつがず奧勤めをお続けになりながら、元博さまが申し入れなさるのを待っておられるのでは」

「生涯縁づくことなく奧勤めをする女人は多いよ」

「片や石動いするぎ家のご次男、片や尾首おのくび城代のご息女。手前ごときが口幅くちはばったいことを申し上げるようですが、またとはないご良縁と存じます」

「それは、そうかもしれないが」

「これまで、ひたすら務めに専心してこられたのですから、南部へお戻りになられた暁には――どうぞお幸せになってください」

 低く抑えた政茂の声には、上辺だけではない真心が感じられた。

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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