二 三鼓国郡楽郷・黒葛貴之 いとこ同士
戦が終わるのか。
郡楽城表御殿の長い外廊下を歩きながら、黒葛貴之は先ほど大広間で聞いたばかりの話を思い返していた。
年改めの儀式で、宗主黒葛禎俊が「今年こそ守笹貫家を打倒し、長きに渡った戦いにけりをつける」とぶち上げるのはいつものことだ。家臣たちも慣れたもので、間合いよく「応」「やりましょう」などと威勢のいい声を上げ、それを合図に祝宴が始まる流れも完全に出来上がっている。
だが今年は少し違った。
禎俊公は居並ぶ家臣たちを前に、厳粛な面持ちで目を伏せたまま長いあいだ黙っていた。
言うことがないのか。言うことを忘れてしまったのか――。
上段の間にもっとも近い、黒葛の一門衆が集められた居敷の一角で、貴之は伯父の言葉を待ちながら固唾を呑んでいた。二年前、十二歳になった時から儀式への参加を許されているが、過去二回はこんなふうではなかったのを覚えている。
やがて禎俊公はゆっくりと口を開き、重々しい声で唐突に宣言した。
「戦は終わる」
人いきれでむせかえるほどの大広間が、一瞬大きく波打ったように感じられた。
「みな、この十二年間よう戦ってくれた」
彼は顔を上げ、鋭い眼差しでまっすぐに前を見据えた。
「江蒲国東部と西部はすでに我らの手中に収まり、南部の主要な城砦も残すところあとふたつ。それを落とせば、守笹貫の本拠百武はすぐ目の前だ。ついに――ここまで来た」
少し間を置いて広間の隅々まで見渡し、禎俊公は静かに言った。
「決戦は春。双方の砦を同時制圧したのち、総力を結集して一気に百武まで攻め上り、城を落とす。今年の田植えが始まる前に、すべて片をつけるぞ」
そして彼は声に力を込め、再び繰り返した。全員の脳裏に、その言葉を焼きつけようとするかのように。
「戦は終わる」
これは――どうやら本当に終わりそうだぞ。
大股に歩を進めながら、貴之は背筋がぞくぞくするのを感じた。武者震いだろうか。
物心ついたころから、常に戦はすぐそこにあった。まだ戦場に立ったことこそないが、戦時の張り詰めた空気は居城にいてもはっきりと感じ取っていたし、その感覚はすでに身に馴染んでいる。
正直、戦がないというのがどんな感じなのか、うまく想像ができなかった。
「貴之さま」
誰かに名を呼ばれて振り返ると、叔父の石動孝博がいた。考えに没頭していたので、顔を見ずにすれ違ってしまったようだ。
彼は母真木の三人の弟たちのいちばん上で、禎俊公の右筆衆を務めている。
「叔父上」
貴之は足を止め、廊下の端で「おいくつに――」という昔ながらの新年の挨拶を交わした。孝博は三十歳になったらしい。
「すぐその先に、石動の者たちが溜まっております。父が喜ぶので、ぜひお顔を見せてやってください」
父というのは、貴之にとって祖父にあたる石動博嗣のことだった。六十近くになってもまだ戦場でその剛腕ぶりを発揮している彼は、貴之が敬愛する豪放磊落な爺さまだ。
「いまちょっと急いでいますが、あとで必ず顔を出します」
そう約束して孝博叔父と別れた彼は、外廊下の端まで行って中庭へ降りた。午も近くなり暖かな日差しが降り注ぐ庭園内では、広間の祝宴には出られない年齢の子供や武家の妻女が思いおもいに集まり、木陰や四阿、茶亭などを利用して自分たちなりのちょっとした宴を催している。それらの女を目当てにうろついている男もいて、庭園の苑路は御殿の廊下よりも混み合っていた。
ここへ来たのは、父方の伯父の黒葛寛貴から、息子を捜して連れてきて欲しいと頼まれたからだ。
貴之よりひとつ年上の黒葛俊紀は、儀式が始まった時から大広間にいなかった。いとこは堅苦しいことが大嫌いな質なので、毎年お決まりの小難しい演説を聞くなど真っ平ご免と早々に逃げてしまったらしい。
どこにいるか見当はついていないが、女性が大勢いるところで捜すのが手っ取り早いのはわかっている。俊紀はまだ小さいころから、そちらの方面ではかなりませていた。なんでも、彼の女好きは父譲りなのだという。
色目も鮮やかな美しい衣装と、ほんのり漂う白粉のにおいの中を足早に通り抜けながら、貴之は苑路の左右を窺っていとこの姿を捜した。木立の中や茶亭の陰で女を口説いている男は何人もいるが、どれも俊紀ではないようだ。
庭園の中ほどあたりまで来た時、ふいに誰かに袖を引かれた。見覚えのない、温厚そうな顔立ちの老女だ。
「七草の若さま」
年齢の割に高い声で、彼女はおっとりと言った。
「樹神家の真璃姫が、ひと言ご挨拶をと」
「真璃姫?」
鸚鵡返しにしながら、貴之は急いで記憶を探った。真璃というのは黒葛家の同盟相手である樹神家の息女で、俊紀の許婚だ。
顔を上げると、老女の背後の木陰に立ってこちらを見ていた若い女性が、もじもじと目を伏せた。ぽっちゃりしていて、抜けるように色が白い。
「これはご丁寧に、痛み入ります」
貴之が会釈をして近づくと、真璃のふっくらした白い頬がたちまち桃色になった。かなり内気な姫君らしい。
「俊紀どののいとこで、七草家総領の黒葛貴之です」
彼が名乗ると、真璃は遠慮がちに見上げながらうなずいた。
「お会いするのは、これが二度目ですの」
耳を澄まさなければ聞こえないような声だが、優しい話しぶりだ。
「覚えておいでではありませんか?」
さっぱり記憶になかった。いったい、前にどこで会っただろう。
「申し訳ない、忘れてしまいました。いつのことでしょう」
「わたくしが生明のお城に参りました夏、貴之さまも御殿に滞在なさっておられました」
「ああ」
少し思い出した。
父にすすめられて、寛貴伯父が支配する丈夫国の生明郷に半年ほど遊学したことがある。たしか十歳の時だった。
その際に、やはり御殿の庭園かどこかで、俊紀の許婚だという姫君と顔を合わせたような気がする。だが、どんな出会いだったか、はっきりと覚えているわけではなかった。何か会話をしただろうか。
「失礼しました」
貴之が謝ると、真璃はますます顔を赤くした。
「いえ、あの……ほんの少し、お言葉を交わしただけでしたから」
「何をお話ししたでしょうか」
「わたくしはあの時、ちょうどお城に着いたばかりで――」はにかみながら微笑む。「貴之さまを、俊紀さまだと勘違いしたのです」
その言葉を聞いて、かなり記憶が蘇ってきた。彼女は庭で遊んでいた俊紀に到着の挨拶をしようと捜しに来て、たまたま出くわした貴之を彼だと思い込んだのだ。
許婚同士のふたりは以前にも何度か顔を合わせてはいたが、戦の最中ということもあってその機会はかなり間遠だった。久しぶりに会う俊紀の姿は、彼女の中ではぼんやりしたものになっていたのだろう。顔立ちも年ごろも背格好もよく似ている貴之を、彼だと思ったのも無理からぬことだった。
「思い出しました。おれが俊紀ではないことをお教えすると、とても驚いておられましたね」
笑いながら言うと、真璃は恥ずかしそうにうつむいた。
「今回は、おれが彼を捜しているんです。居場所をご存じありませんか」
「いいえ、わたくしは存じません。お役に立てなくて……」
本当にすまなそうにするので、何か悪いことをしたような気分になる。
「お気になさらず。きっと、そのへんにいるでしょう。見つけたら、姫君が退屈なさっておられたと言っておきますよ」
恐縮の至りという顔になった真璃に、さっと軽く頭を下げる。長々と立ち話をするような間柄ではないので、このへんが切り上げ時だ。
「では、いささか急ぎますので、これで」
「は、はい。お引き留めして、申し訳ありませんでした」
控え目すぎる彼女が少し気の毒になって、貴之はにっこり笑いかけた。
「またいずれ」
去り際にひと言つけ足せば、真璃が嬉しそうに目を輝かせる。そのうしろでは乳母か侍女と思われるあの老女が、何か奇妙なほど満足げな笑みを浮かべていた。
庭園の西側には、自然の小川を模した水路がある。そこにかけられた素朴な木橋のほとりで、貴之はいとこを見つけた。
だらりとくたびれた雰囲気の柳の下で、案の定、どこぞの女と顔を寄せ合っていちゃついている。
「俊紀」
声をかけて近づいていくと、黒葛俊紀は眩しいほど破顔しつつ彼を迎えた。
「貴之、元気だったか」
前回会った時よりも、少し声が低くなった気がする。背も伸びたようだ。だが、貴之のほうがもっと伸びていて、並んでみると年上のいとこを追い越していた。
「こいつ、わたしより大きくなるなんて生意気だぞ」
俊紀は彼の腕をぽんと叩き、ほがらかに笑いながら言った。それからふと横を見て女がまだいるのに気づき、驚いた顔になる。
「なにしてる。行け」
邪魔をするなと言いたげに追い払われた女は、少し恨めしそうな目をして小走りに去って行った。
俊紀は女好きだが、同時に女には冷たい。それでももてるのだから、何か女性だけがわかる特別な魅力があるのだろう。
「誰だ、あれは」
貴之が訊くと、彼はつまらなそうに答えた。
「御殿女中で、嘉代だか多代だか……まあ、そんな名だ」
名前もろくに覚えていないぐらいだから、別に好きな相手というわけでもないらしい。
「さっきそこで、真璃どのにお会いした。おひとりで寂しそうになさっておられたぞ。このあたりでぶらついているなら、ご一緒してさしあげればいいじゃないか」
「真璃?」俊紀が軽く鼻を鳴らす。「おまえといるほうが、ずっと楽しい」
彼はそう言って貴之の肩に腕を回すと、ぐっと力を込めて引き寄せた。
「立ってると寒いから歩こう」
水路に沿って並び歩きながら、貴之はさり気なく彼を殿舎への戻り道にいざなった。伯父上がお呼びだと伝えるのは、逃げられる気づかいのないあたりまで行ってからのほうがよさそうだ。
「ここへは生明のほかの女衆も来ているだろうに、なぜ真璃どのは一緒にいないんだ」
素朴な疑問を呈すると、俊紀はちらりと笑みをもらした。
「いま生明では、真璃への風当たりが強いんだ。あいつの実家のせいでな」
永穂国を支配する名家樹神家。
領土こそ狭いが、西峽南部きっての富家として知られている。その財力に目をつけ、黒葛家は先年大軍を始める前に樹神家当主有政と手を組んだ。同盟の証は、黒葛俊紀と樹神真璃の縁組みだ。
だがここ数年、黒葛家中では樹神家に関する不穏な噂が囁かれるようになっていた。
樹神有政が黒葛家と敵対している守笹貫道房とも密約を結び、裏で戦費を流しているのではないかというのだ。
黒葛家と守笹貫家の戦は、休戦を何度か挟みながらもう十二年も続いている。その間に三度、黒葛軍は守笹貫軍を決定的に追い詰めた。一度は開戦から四年目、二度は六年目、そして三度は二年前。だが、そのたびに守笹貫家は不可解な大増援を行って勢力を盛り返した。
一国で抱えられる規模を超えた大量の人員と、それを雇うための大量の資金を、いったいどこから得ているのか。
人は天山から。金は永州樹神家から。
それが、最近の黒葛家中ではほぼ定説となりつつある。
大皇三廻部勝元が守笹貫家びいきなのは、昔からよく知られていることだ。私闘はやめろ、天山はどちらの家にも荷担せぬとたびたび言ってはいるが、道房に泣きつかれると、こっそり人員を都合しているに違いない。
そして樹神家は、将来的にどちらの家が南部の盟主になったとしても損のないよう、双方にいい顔をしているのではないかと疑われていた。
「じゃあ、あの噂は――」
真実なのか。戦がこんなに長引いているのは、樹神家が八方美人を決め込んでいるせいなのか。
貴之が表情を強張らせると、俊紀は肩をすくめてみせた。
「はっきりしてるわけじゃないけどな。空閑の者が守笹貫家の戦費の出所をずっと探っているが、さっぱり掴めないらしい。でも、うちの大半の者はもう樹神家が裏にいると確信していて、そのせいで真璃の立場もだいぶ危うくなっているんだ」
「だが、まだ婚約はしているんだろう」
「してるけど、ほんとうに妻にするかどうかはわからない。父は樹神家に腹を決めさせるため、婚約破棄も視野に入れた働きかけを近々するつもりだ」
気の毒に――貴之の頭にまず浮かんだのはそれだった。蝙蝠よろしく立ち回る樹神家はあざといと思うが、家の都合に翻弄される姫君には同情の念しかない。あんなにおどおどしているのは、きっと心細いからだろう。
「おまえぐらいは、許婚の味方になってあげたらどうだ」
ちょっと非難を込めて言うと、俊紀はふふんと鼻で笑った。
「別に真璃と結婚できなくても、わたしはちっとも困らない。さっき会ったと言ったけど、あいつを見てどう思った?」
「どうって――おとなしくて気の優しそうな、品のいい姫君だ」
「物は言いようだな」皮肉っぽく口元をゆがめる。「くらげみたいに手応えのない女だよ、真璃は。しかも肥ってる。若い娘があんなだらしない体をしていて、恥ずかしいと思わないのかな」
たしかに、出会った時にぽっちゃりしているとは思ったが、そこまで悪し様に言うほどみっともない姿ではない気がする。
「ふくよかかもしれんが、だらしなくはなかろう」
「わたしは、女の体は締まっているのが好きだ。まったく、〝まり〟とはよく名づけたものだよ」
残酷な物言いをするのは、彼女の実家が我が家に仇をなしていると信じているからなのかもしれない。
俊紀は苑路の途中でふと足を止め、にやつきながら貴之の目を覗き込んだ。
「おまえの許婚は?」
「おれの――許婚が、なんだ」
「雷土家の息女……〝海賊の姫君〟だろう。どんな娘だ」
十二年前に七草黒葛家は、百鬼島を支配する海賊衆上がりの名家雷土家と婚姻同盟を結んだ。七草家の嫡子である貴之に、雷土家嫡男利國の長女三輪を妻合わせる取り決めだ。
三輪姫は貴之よりひとつ年下の十三歳で、昨年の秋からもう七草城で暮らしている。婚儀までに数年かけて、こちらの家の流儀や作法などを学ぶためだ。
「三輪は――」貴之は眉根を寄せ、考えながら言った。「快活で気が強いけど、わりと思慮深いところもある」
「そんなことを訊いてるんじゃないよ」
俊紀がぷっと吹き出す。
「見た目の話だ。美人か?」
「どうかな」
彼女は眉がきりっとして目が大きく、はっきりした顔立ちをしている。真璃姫の抜けるような色の白さとは対照的に、三輪の肌色は少し浅黒かった。南海の島の民にはそういう者が多いらしい。特別美人だと思ったことはないが、印象的で好ましい容姿だとは感じている。
曖昧に答えて口をつぐんだ貴之を、俊紀は片眉を上げながら睨めつけた。
「はぐらかすなよ、教えろ」
「次の年改めには、たぶん連れてくる。その時に自分の目で見ればいいだろう」
「いや、その前に七草城へ見に行ってやる」
「好きにしろ」
突き放すように言うと、いきなり首を脇に抱え込んできゅっと絞められた。
「ほんとに生意気になったな、こいつめ」
さして力は入っていないので痛くも何ともないが、苑路の周囲にいる人々が微笑みながら注目しているのが気になる。俊紀は目立つのを好む男だが、貴之はそうではなかった。じきに忍耐力が切れ、いらいらし始める。
「離せ」
「どうぞ城へ遊びにいらしてくださいと言うまで離さん」
「反撃するぞ」
「できるならやってみろ」
その言葉が終わる前に左腕を上げ、背後から彼の後ろ髪をむんずと掴む。たまらず仰け反った俊紀の腕がゆるんだところで、さっと拘束から抜け出した。
「痛い! 痛いって!」
まだ掴んだままだった髪を放してやると、俊紀はその場にしゃがみ込んで大げさに後頭部をさすった。
「わたしは痛くしなかったのに」
情けない顔で、上目づかいに恨み言を垂れる。
「痛い目に遭うのがいやなら、けしかけるな」
手を差し出すと、俊紀はそれにすがって立ち上がった。
「乱暴なやつだな。どこであんな技を覚えるんだ」
「仲間と取っ組み合いして遊んでいたら、自然といろいろ身につくだろう」
「わたしはそんな遊びはしないよ。痛いのも汚れるのも大嫌いだ」
「そんなんじゃ、戦場へ出た時に困るぞ」
「いいんだ。戦うのは家来にさせて、わたしは頭を使うから」
どこまで本気なのか、呑気そうに言う。
父君は一門衆きっての武闘派なのにな――そう思ったところで、貴之はちょうど殿舎のすぐ近くまで戻って来たことに気づいた。
「俊紀、このまま上がって大広間へ入れ。伯父上がお呼びだ」
気ままで奔放ないとこが、裏切られたと言いたげな面持ちになる。
「おまえ……ひどいな、知らん顔してここまで連れてくるなんて。父上に叱られに行くのはいやだよ」
「儀式を抜け出したりするからだ。あきらめて、早く行け」
「じゃあせめて傍にいて、うまく取りなしてくれないか。父はおまえがお気に入りだから」
「おれはこれから、親戚の石動勢に挨拶しに行くんだ」
その時俊紀が、ふと何か思い出した様子を見せた。
「そういえば少し前に、石動博武どのが渡り廊下を歩いているのを見かけたぞ」
はっとなり、貴之は思わず彼に詰め寄った。
「石動の叔父御が?」
「見間違えっこない。だって例のあの、天翔隊特有の長袍をまとっていたし、背に〈三つ重ね石〉紋が入っていた。彼は――〈隼人〉は格好いいよな」
俊紀が憧れをにじませながら言う横で、貴之は早く叔父に会いに行きたくて気もそぞろになっていた。
彼が今日、顔を出すとは聞いていない。何か急ぎの報告か相談でもあって、急遽来ることにしたのだろう。
おそらくは〝飛んで〟。きっとそうだ。
「わたしもそっちに行きたいなあ。博武どのの話はおもしろいから」
「何言ってる、駄目だ」厳然として言い、貴之は彼の肩をぐいと押した。「さっさと叱られてこい。部屋に入るまでここで見ているからな」
沓脱ぎ石の脇に仁王立ちして、腕組みをする。俊紀は口を尖らせてしばらく見つめたあと、しぶしぶ履き物を脱いで上がり、気乗りしない足取りで大広間へ入っていった。
中段の間では猿楽が始まっており、郡楽城の次席家老真境名義家が猿楽師と一緒になって滑稽な舞いを披露していた。内廊下に近いあたりでは、あとで行われる福引きの支度も進められているようだ。
貴之は昨年、その恒例の福引きで高価な馬上筒を引き当てた。七草の砲術師から扱いを教わって習熟に努め、発砲音に怯えないよう乗馬もよく慣らしたので、いずれ戦に出る時には携えていこうと思っている。
今年も何か、いいものを引き当てられるかな――。
そんなことを思いながら、家ごとに大雑把な集団を形成している武将たちのあいだを通り抜け、石動勢が集まっているところへ近づいていった。
目当ての人はこちらに背を向けて胡座をかき、片手に朱塗りの盃を持っている。
新年らしく新調の大紋で華やかに装っている人々の中にあって、ひときわ目につく戦装束。毛皮の襟と金襴の縁取りをつけた黒絹の長袍。
「叔父御!」
声をかけると、石動博武はぱっと振り向いて笑みを浮かべた。
「貴之」
小さいころはいつも思いきり飛びついて抱き上げてもらったが、さすがに、もうそんなことはできない。脇にどかりと腰を下ろすと、彼は盃を置いて頭をなでてくれた。相も変わらず、この叔父には子供扱いされてしまう。
「久しぶりだ。また背が伸びたか」
「はい」
前回、博武叔父と顔を合わせたのは半年以上も前だった。とはいえほかの親戚たちとは、もっと長く会っていない。
「まことに頼もしいご成長ぶりじゃ」
祖父の石動博嗣が野太い声で言い、嬉しそうに目を細める。
「爺さまもご健勝のようで、なによりです」
「だいぶ年食って、あちこち草臥れてはまいりましたがな」豪快な笑い声を上げ、彼はほかの孫たちのことを訊いた。「佳貴さまと葉奈さまは、いかがなさっておられますか」
「弟らも息災に過ごしております――と言いたいところですが、じつはいま佳貴はちょっと風邪気味で」
答えながら、思わず苦笑する。
「今年は母も来るはずでしたが、弟が気がかりなので予定を変えて城に残りました」
十歳の弟佳貴は、どこが特に悪いというわけでもないが、小さいころから少し体が弱かった。油断をするとすぐに風邪をひくし、変わったものを口にすると腹をこわす。季節の変わり目には、いつも鼻をぐずぐずいわせている。
一方、八歳になった妹の葉奈は、貴之同様に健康そのものだった。活発で人なつこい彼女は最近、いずれ義姉になる雷土三輪にご執心で、早くも「姉さま」と呼んでまつわりついている。
「葉奈はおれが七草を発つ日までずっと、一緒に行くと駄々をこねておりました。石動の爺さまに山賊のお話をしてもらうのだと」
「おお、それは」
博嗣がとろけるような表情になった。
「次にお会いしましたら必ず、と葉奈さまにお伝えくだされ」
「心得ました」
それからしばらく母方の親戚たちと親しく歓談したあと、貴之は黒葛一門衆の居敷へ戻ることにした。元服前の自分はまだ父貴昭の添えものに過ぎないので、あまり長く傍を離れているわけにもいかない。
あとでまた寄りますと言って腰を上げると、「そこまで送ろう」と博武叔父が一緒に立ってくれたのが嬉しかった。あまり騒がしくない場所で、少しだけでもふたりで話ができる。
貴之と博武はわざわざ一度庭へ降り、枝ぶりのいいマツ林の中を通る敷石の小道をゆっくりと歩いた。
「江州から天隼で飛んで来られたのでしょう? 前線はいま、どんな様子ですか」
「半月ほどかかったが平生城を一昨日ようやく落とし、天翔隊だけで制圧できそうな城砦はあと四つになった。どれも小城だが残しておくと厄介なので、これから三月のうちにすべて平らげる」
「郡楽の御屋形さまは、田植えが始まる前に百武城を落とすとおっしゃいました」
「そうらしいな」
博武は薄く笑い、木漏れ日の中で足を止めた。
「後詰めが配備された周辺の山城を天翔隊がことごとくつぶしたあと、街道筋の最後の要衝である由淵と耶岐島の二支城を地上部隊が屠ることになっている。そうして百武城を孤立無援にしてやれば……」
「終わりますか、戦が」
陽光の下、叔父の明るい目がきらりと光る。
「終わる――と言いたいが、正直わからん。最後の野戦は大激戦になるだろう。由淵と耶岐島はどちらも平城で天翔隊の出番はないから、おれも地上部隊に加わって御屋形さまの御陣で働こうと思っている」
叔父御が父上の陣に――貴之はごくりと唾を飲み、衝動に突き動かされるまま手を伸ばして彼の腕を強く掴んだ。
「最後の野戦でおれに初陣を飾らせるよう、叔父御から父に言ってください」
博武は驚いた顔すらしなかった。こんなことを言い出すだろうと予期していたようだ。
「大激戦と言ったぞ。聞いていなかったのか」
「だからこそ共に出陣して、少しでも父の役に立ちたいのです」
「名家の子息は、確実に生きて帰れるという目算の立たぬ戦で初陣したりするものではない」
「そんな分別くさいことを……叔父御ともあろう人が」
あきれたように言って肩をすくめて見せると、叔父が口の端にちらりと笑みを覗かせた。
よし、笑わせたぞ。あとひと押しだ。
「第一、黒葛の子は、そこいらのやわな名家の子とは違います」
博武は何も言わず、ゆっくり二度瞬きするとまた歩き出した。
「叔父御」
「考えておく」
引き際だ。
博武叔父はいい加減なことは言わない。これ以上しつこく頼まずとも、考えると言ったからには必ずきちんと考えてくれる。
そして貴之は、彼が結局のところ自分に甘いのをよく知っていた。望み通りになるよう、きっと尽力してくれるだろう。
「近ごろ――」小走りに追いつき、話題を変えて問いかける。「戦場で、何か変わったことはありましたか」
「音琴川沿いの砦で包囲戦をやっていた、花巌勢から聞いた話がある」
博武は大股に歩を進めながら言った。
「三月近くも包囲が続き、城砦内の食糧などは疾うに尽きていると思われたが、そこの江州兵はしぶとい連中でなかなか降ろうとしない。そのうち花巌勢のほうも兵糧や矢玉が不足し始め、このままでは包囲を解かざるを得なくなる――と大将の花巌利正は頭を悩ませていた。その時、音琴川本流に忽然と船団が姿を現したそうだ」
「船団……どこのです」
「ここ数年、戦場にたびたび出没するというので噂になっている〈川渡屋〉の船だ。異国ふうの船尾楼を設え木綿帆を張った四十挺櫓の親船と、中型の子船四隻から成る武装船団で、屋号の通り川から川へと渡りながら商いをしているらしい」
そういえば、そんな酒保商人の噂を耳にしたことがある。武器と兵糧、娯楽を船に満載してどこからともなく戦場に現れ、金さえ払えばどの陣営ともこだわりなく取り引きをするという話だった。
娯楽というのが貴之にはどうもぴんとこないが、前線の兵士にとって余暇の博打と酒、女は欠かせないのだそうだ。
「噂ばかりで、実際に遭遇したという話はいっこうに聞こえてきませんでしたが、やはり実在したのですね」
「おれも同じことを思った」
博武が含み笑いをする。
「花巌勢は川渡屋との取り引きで首尾よく補給でき、包囲をさらに半月続けて、ついに砦を落としたそうだ」
「川渡屋の主は、どんな人物なのですか」
「商売の話をしたのは手代ふうの若い店者で、主人は最後まで一度も姿を見せなかったと利正は言っていたな。身の丈七尺に迫る巨漢だとか、気に入りの色男を常に数人侍らせている大年増だとか、女と見紛うばかりの美青年だとか、巷談俗説はあれこれと聞くが――さて、本当のところはどうなのやら」
「つまり、正体は謎というわけですね。おもしろいな」
「そうだろう」
にやりと横目に笑みを交わし、ふたりはマツの林の出口で足を止めた。苑路に沿って流れる曲水を挟んで、殿舎の縁側がすぐそこに見えている。
行け、というように叔父がうなずいたが、なんとなく別れがたかった。博武は神出鬼没だ。現れたと思ったら、またすぐにいなくなってしまう。
「叔父御は、いつまで郡楽にいらっしゃいますか」
できればもっと一緒に過ごして、たくさん話をしたかった。彼はずっと北方の砦か前線にいて、めったに会えないのだから。
その思いを悟ったように、博武がふっと微笑む。
「明朝まではいる。あとでまた話そう」
どうしようもない甘ったれの甥っ子だと思われているに違いない。だが気持ちを汲んでくれて嬉しかった。
「きっとですよ」
にんまりしそうになるのを堪え、真面目な顔で念押しをしてから、貴之は細流をひょいと飛び越えて殿舎へ上がっていった。
聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/




