一 御守国御山・青藍 年改め
皇暦四二二年、端月朔日。
年改めの祭祓の朝、天門神教の総本山である御山は夜明けを待たずしてひそやかに動き始めた。
刻を知らせる当番の小祭宜が、小鈴を葡萄の房状につけた振鈴を持ち、蓮水宮の長い廊下をすべるように歩きだす。
厨には炊事を行う者たちが集まり、いくつもの竈に次々と火を入れていく。
唱士たちは大祭堂の控えの間に入り、低くゆっくりと喉ならしの発声を始める。
若巫女と若巫子——次代の祭主候補として宮殿で養育されている子供たち——が暮らす蓮水宮の北の院では、十二歳の若巫女青藍がいち早く目覚め、音もなく寝床から抜け出していた。
同室の珊瑚と千草はまだ寝台の中ですやすやと寝息を立てている。いちばん年の若い胡桃も、頭まですっぽりと上掛けにくるまったまま身じろぎもしない。
青藍は薄暗い中で自分の行李を探り、白い木綿の万事衣を選んで手早く身形を整えた。どうせ朝餉のあとで祭祓のための衣装に着替えさせられるのだから、とりあえずは普段着でいい。
そっと扉を開けて出ると、ひんやり冷たい廊下には心なごむ香のにおいが仄かに漂っていた。すでに小祭宜が香炉を振りながら通ったのだろう。
普段の日と祭祓の日とでは、使われる香の種類が異なる。御山で十二回目の年改めを迎えた青藍には、その香りの違いを正確に嗅ぎ分けることができた。
新年の祭祓の香は、なんていい香りなんだろう――。
誰もいない板張りの廊下を早足で歩きながら、少女は深く息を吸い込み、うっとりと口元をほころばせた。このにおいは大好きだ。
蓮水宮の主が住まう奥の院に近づくころには、唱士たちの歌う荘厳な〈祭歌〉が、高い天井や壁づたいに聞こえ始めていた。彼らはこれから深更まで、幾度も交代しながら途切れることなく歌い続けるのだ。
奥の院の入り口には、いつものように立哨がふたり立っていた。彼らは無言、不動が原則の屈強な番人たちであり、人を通行させる際にしか体を動かさない。
長い時間じっと立ったままでいるのはきっと大変だろうと、青藍は立哨を見るといつも気の毒に思う。
彼女が近づいていくと、ひとりが両開きの扉の片方を開けてくれた。会釈をして通り抜けた先には、ずっと向こうまで白木板張りの廊下が伸びている。その突き当たりまで行き、さらに二度折れた奧が祭主の寝所だ。
急がないと、誰かに先を越されちゃう。
青藍はさらに足を速め、磨き抜かれた白い廊下を端まで一気に突っ切った。気が急いているのは、仲間の誰よりも早く祭主に年改めの挨拶をしたいからだ。いちばんでなければならない理由はないが、物心ついたころからずっと続けてきたことなので、それなりにこだわりがある。
廊下を曲がると、向こうから歩いてきた歩哨に出くわした。
御山の門や扉を守る立哨と、山内を巡回しながら監視を行う歩哨はみな衛士寮に所属している。その中から特別に選ばれて宮殿内の警備に当たっているのが内宮衛士で、通常彼らは〝宮士〟と呼ばれることが多かった。
青藍は宮士の顔をみな見知っている。だが名前は知らないし、言葉を交わしたこともない。
彼女に気づいて、すっと脇に避けたその小柄な宮士も顔見知りではあるが、やはり名前はわからなかった。彼はたしか、一年ぐらい前から宮殿に勤めているはずだ。
すれ違いながらちょっと見上げると、彼もこちらを横目に見ていて、思いがけず視線がぶつかった。
どきりとして、あわてて目を逸らす。こんなことは初めてだ。
その宮士が曲がり角の向こうへ去ったあと、長い廊下にいるのは青藍ひとりになった。
いつもならここには常に歩哨がふたりほど行き来しているが、今日は祭祓の日なので人手が足りないのだろう。
誰も見ていないのをいいことに、走ってはならない決まりの廊下を一気に駆け抜け、彼女は最奥の重い扉を開けて中にすべり込んだ。前室を通り、次の間を抜け、さらにその奧の祭主の寝所へ入っていく。
「青藍さま」
すぐに気づき、厳めしい表情で立ちはだかったのは小祭宜の八雲だった。祭主の身の回りの世話をする側仕えのひとりで、つい最近その役目に就いたばかりの新米だ。
彼は極端に肉づきの薄い痩身で、色が黒く陰気な顔つきをしている。だが見た目とは裏腹にどこか飄々としたところがあり、青藍はそこが好きだった。
「悪い子だ。呼ばれもしないのに、勝手に祭主さまのお部屋に入ったりして」
「年改めのご挨拶をしたかったの」
青藍は上目づかいに彼を見上げ、首をすくめながら言い訳をした。
「今日だけ見逃して。ね?」
「ええ、いいですとも。あとでわたしが、上役に叱られるだけのことですからね」
ぶつぶつ言いながらも、八雲は手を振って青藍を通してくれた。
彼の背後では、厚い布団を敷き詰めた寝台の上で、祭主白藤がふたりのやり取りを聞きながら微笑んでいる。
青藍はゆっくり近づいていき、寝台の右横に恭しく跪いた。
「祭主さま」
「青藍」
優しい声に促されて顔を上げれば、いつもの温かな眼差しにやわらかく包まれる。
「年改めのお祝いを申し上げます」
青藍は〝今年もいちばん乗りだ〟と心嬉しく思いながら、慣例通りに口上を述べた。
「祭主さまは、おいくつになられましたか」
「八十二歳になりました」
「この日よりまた、よき一年をお過ごしになられますようお祈り申します」
「ありがとう。あなたは、おいくつになられましたか」
「十二歳になりました」
「あなたも、さらによき一年を過ごされるようお祈りいたします」
挨拶が終わると、白藤は「おいで」と手招いてくれた。弾かれたように立ち上がり、寝台の端にぽんと飛び乗った青藍のうしろで、八雲が苦笑をもらしている。
「朝餉を受け取りに行ってまいります」
祭主に声をかけ、彼は去りぎわに青藍をちらりと見た。
「わたしが戻るまでに、北の院へ帰ること。いいですね」
「はい」
素直に返事をすると、八雲は満足した様子で部屋を出ていった。どうやら、今日は側仕えも彼ひとりしかいないようだ。ほかの者たちは、みな祭祓の準備に大祭堂へ駆り出されているのかもしれない。
「青藍」
名を呼びながら、白藤は八雲よりもさらに細い枯れ木のような腕を伸ばすと、彼女の髪を優しくなでた。
「十二歳はとても大切な節目なのだよ」
「はい」
人生の節目は六年ごとに来る、とされている。特に十二歳までの二度の節目は重要で、下界では親が子に贈り物をしたり、子供の行く末を神に問う〈尋聴〉の儀式を祭堂に依頼したりするらしい。
御山で産まれ、奉職者たちに育てられた青藍には両親がいないため、そういう祝いごととはずっと無縁だった。宮仕えの小祭宜たちは必要な世話と教育はしてくれるが、青藍に特に愛情を注いだり、細やかに成長ぶりを気にかけてくれたりはしない。
だが祭主だけは別で、六年子を迎えた年には内緒で特別な贈り物をくれた。家族がどんなものかはよくわからないが、青藍は自分にとって彼はそれにいちばん近い存在なのではないかと思っている。
「六年子の贈り物を、まだ覚えているね」
「はい。ちゃんと覚えています」
それは神の御業を希う秘密の呪文――〝ほんとうに必要なときのお呪い〟だった。
決してみだりに唱えてはならず、人前で口にすることも許されないのだと厳しく言い聞かされているので、これまで声に出して唱えたことはない。だが忘れてしまわない程度に、頭の中では何度か唱えている。
「では今日は十二歳になったおまえに、もうひとつの贈り物をしよう」
白藤はそう言うと、寝台の横に置かれた小箪笥から紫色の袱紗包みを取り出した。
「開けてごらん」
促されて絹布を開くと、中から円筒形の石が出てきた。
長さも太さも青藍の親指ぐらいで、春の空のような潤んだ青色をしており、表面はつるりと傷ひとつない。上面と底面を貫く穴が空けられ、そこに細い革紐が通されていた。腕に巻くか、首にかけるかしておくためだろう。
「祭主さま、これは?」
「お守りだ。なくさないよう、いつも身につけておくようにしなさい。これも人には見せないようにしなければいけないよ」
そう言うと、彼は贈り物を取って青藍の首にそっとかけてくれた。想像していたよりもずっと量感のある石が、胸のあたりに重く垂れ下がる。
「大切にします。とってもきれい」
「青藍、わたしは夕べ尋聴を行い――ひとつの〈神告〉を得たのだ」
打ち明け話をするような口調に気づいて顔を上げたその時、閉ざされた扉の向こうから訪う声がした。
「祭主さま、入ってもよろしいでしょうか」
鈴を振るようなきれいな声。若巫女の紅だ。
祭主が入室の許可を出すあいだに、青藍はあわてて寝台から飛び降りた。
人には見せないように――。
扉が開かれる寸前に先ほど受けた注意を思い出し、贈り物の石を急いで衣の内側にしまい込む。ちょうど紅が室内に入ってきたところだったが、彼女は何も見なかったようだ。
猫のように優雅な足取りで歩いてくる紅は、きらきらと輝いて見えるほど美しかった。端麗――と感嘆を込めて讃えられる目鼻立ち。透けるほど白い肌。滝のように流れるまっすぐな黒髪。
造作のすべてが完璧で、青藍は彼女を見ると、いつも丹念に作り込まれた陶人形を思い浮かべる。
紅はすれ違いざま、切れ長の目で青藍をちらと見た。ひやりと冷たい氷の眼差し。その一瞥を浴びると、誰もが落ち着かない気分になってしまう。
きっと彼女も年改めの挨拶をしに来たのだろうと察し、青藍はこの場を譲ることにした。祭主が何か言いかけていたのが気になるが、自分に彼を独り占めする権利はない。それに、もうそろそろ八雲も戻ってくるだろう。
「では祭主さま、わたしは失礼します」
彼女が辞去を告げると、白藤はほんの一瞬、奇妙な間を置いてから小さくうなずいた。
「早く北の院にお帰り」
「はい」
青藍は微笑み、お辞儀をしてから扉へ向かった。
背中に視線を感じる。
祭主さまがまだ見ている。どうして?
気になりつつも、そのまま振り返らずに部屋を出た。次の間を通り抜けるあいだも、ずっと後ろ髪を引かれているような感覚がつきまとう。
やっぱり戻ろうか。紅のご挨拶が終わるのを待って、祭主さまのお話を聞いたほうがいいかも。
前室まで行ったところで、ついに青藍は足を止めた。何かに急き立てられているように、胸の中がもやもやする。こういう感じは前にも経験したことがあり、無視するべきではないとわかっていた。
直感は部屋へ戻れと告げている。
だが祭主は北の院へ帰れと言った。
青藍は切迫感に引き裂かれそうになりながら逡巡し、やがて直感に従うことを選ぶと、すぐさま踵を返した。小走りに部屋をふたつ戻り、全身でぶつかるようにして背の高い重い扉を押し開き、たたらを踏みながら寝所に転がり込む。
――赤。
まず目に飛び込んできたのは、そこかしこに飛び散った鮮やかな赤い色だった。
寝台にも。敷布にも。枕にも。綿入りの夜着にも――そこから半身を覗かせて斜めに横たわっている祭主の体にも。寝台の端から、力なくだらりと垂れた細い腕にも。
老人がまとう練り絹の寝衣はさっきまで真っ白だったが、いまは毒々しいほどの赤い色で大きな図柄が描かれている。
天を切り裂く落雷のような。のたうつ龍のような。
「祭主、さま」
口の中で小さくつぶやくと、青藍はふらつきながら寝台に近づいた。
一歩進むごとに、見たくないものがさらにはっきりと見えてくる。
白い絹よりもなお白い顔。どんより濁り、半眼に開かれた両眼。顎から胸にかけては、まるで赤い染料に浸されたかのような有り様だ。
皺の寄った首の付け根近くが横一文字に大きく切り裂かれ、ぱっくりと傷口を開けている。
こんなに血が。どうしよう、こんなに。
青藍は震えながら手を伸ばし、祭主の体をそっと揺すった。
「祭主さま」
寝台の端に片膝を載せ、半ば覆い被さるようにしてさらに強く揺する。自分の衣にも血がついてしまうが、そんなことにかまってはいられない。
「さ、祭主さま……」
いくら呼びかけても応えはなかった。完全に事切れている。
青藍の目から涙があふれ出したその時、背後で冷え冷えとした声が響いた。
「あら大変」
すくみ上がりながら振り向くと、そこには紅が立っていた。どこかで洗ってきたのか、両手が濡れている。
「なんてことしたの、青藍」
細いけれどよく通る澄んだ声で、彼女はさも残念そうに言った。
「祭主さまを殺めるなんて」
殺める? 何を言ってるの。
青藍はしばし茫然としたあと、ぎこちない動作で寝台から降りた。力の抜けた爪先が、床についたとたんにぐにゃりと曲がり、危うく倒れそうになる。
「あなたの両親は、開山以来と言われる罪を犯した破戒者だったけど――」紅はのんびりとした口調で続け、桜桃のような唇をほころばせた。「娘はそれを上回ったわね。だって天門神教の祭主さまを手にかけたんだもの」
違う――と言おうとしたが、喉が詰まって声が出てこない。
紅はそんな青藍の様子をしばらく窺ったあと、すうっと大きく息を吸い込むと、いきなり絹を裂くような悲鳴を上げた。その声が壁や天井にぶつかって増幅され、残響が長く長く尾を引く。
思わずたじろぎ、よろよろ後ずさった青藍をまっすぐに見据えて、彼女は淡々と言い放った。
「逃げなさい、宮士がくるわ。捕まると、ただでは済まないわよ」
逃げない。だってわたしは、祭主さまを殺めたりしていないもの。
そう言いかけた青藍に、紅が苦笑を浮かべてみせる。
「やっていないと言い張ってみる? でも、いったい誰が信じるかしら……そんな姿を見て」
はっと見下ろすと、白い万事衣はもう血まみれだった。腕も指もべっとり赤く濡れて、端から乾きかけている。
絶望で顔から血の気が引くのを感じた瞬間、青藍の背後で扉が大きく開かれた。室内に駆け込んできたのは、先ほど廊下ですれ違ったあの小柄な宮士だ。
彼は鋭い目をして、寝台の惨状をほんの一瞬だけ見た。それですべてを把握したかのように、確信に満ちた足取りでこちらへ近づいてくる。
その手が伸びてきて無造作に二の腕を掴むと、青藍はほとんど反射的に振りほどいて駆け出した。
あとも見ずに部屋を飛び出し、次の間と前室を走り抜けて廊下へ出る。そこで危うく八雲とぶつかりそうになった。
脚付きの食膳を捧げ持った彼が、腰のあたりをかすめた青藍に歩調を乱されて大きくよろめく。転びはしなかったものの、膳の上の食器がかたかたと音を立ててぶつかった。
「せ、青藍さま……?」
驚きと戸惑いの混じった声がうしろから追いかけてきた。だが振り向かない。
奥歯をぎゅっと噛みしめ、長い廊下を脱兎のごとく駆けながら、青藍は混乱した頭の中で必死に考えていた。
どこへ逃げればいいの。
宮殿は広いけれど、あちこちに人がいる。どこへ行ってもすぐに見つかってしまうだろう。隠れていられる場所も、すぐには思いつけなかった。
かくまってくれそうな人もいない。そうしてくれそうなただひとりの人は――祭主さまは――もう天門をくぐってしまわれた。
顔がゆがみ、また涙がこぼれそうになる。だがその前に、背後から襟首を掴まれて仰向けに引き倒された。
あの宮士だ。いつの間にか追いつかれていた。
「違うの」
青藍は彼の強い手から逃れようと、床の上で身をよじりながら叫んだ。
「祭主さまを殺めたのは、わたしじゃないの。わたし――わたしは、あ、あんなことしてない。ほんとよ。ほんとに違うの」
宮士は暴れる青藍をしっかりと押さえつけ、無言のままでじっと見下ろしている。懇願が耳に届いているのか、何を考えているのか、その表情からはまったく窺い知ることができない。
やがて彼は急に手の力をゆるめると、彼女の腕を掴んで起き上がらせた。
「さあ立って」
初めて声を出した。少しも心乱れている様子のない、落ち着いた口調だ。
「あなたを助ける。喋らずについていらっしゃい」
闇が濃い。
手で触れられそうなほど濃密な闇。どれだけ目を凝らしても、物の輪郭すら見分けられない闇。息が詰まってしまうほどの闇。そんなものが存在することなど、今日まで青藍は知らなかった。
その中を無言で歩く。じりじりと、爪先で地面を探りながら。
助けると言った宮士は、彼女を難なく宮殿から連れ出した。どこをどう行けば人と出くわさずに進めるか、危険な時に身を潜められる場所がどこにあるか、彼はすべて知りつくしているようだ。
奥の院の裏手へ出たあと、樹木にまぎれながら庭の一角を通り抜け、鉄砲垣の小さな破れ目から敷地の外へ逃れた。生まれてこのかた蓮水宮とそれに隣接する大祭堂から一歩も出たことのなかった青藍にとって、同じ山内とはいえ、そこから先は完全に未知の世界だ。
だから、ただ宮士に導かれるまま、何も考えずにひたすら黙って歩いた。
竹林の中を通り、藪を抜け、斜面を下って崖を降り、浅瀬を渡り――そうするうちに少しずつ体が重くなってくる。はじめは体調が悪いのかと思ったが、しばらく経って浮昇力が減ったせいだと気づいた。高い山の上で長く暮らし、強い浮昇力に体が馴染んでいると、低い土地へ降りた時に石を抱いているかのように感じると聞いている。
山を下るのにつれて青藍の足取りは確実に鈍ったが、宮士は平気そうに見えた。普段から上層と下層を行き来していて、体が慣れているのかもしれない。
右も左も幹の太い木々に囲まれ、見上げても樹冠が邪魔をして空すら見えない鬱蒼とした森の中を延々と歩いたあと、宮士は彼女を岩壁に穿たれた大きな裂け目へ導いた。
洞穴――というものだろう。
知識としては知っているが、実際に見るのは初めてだった。中の空気はひんやりと乾いていて、大祭堂と同じくらい音がよく響く。入口から先へ進むと、すぐに辺りの様子は何も見えなくなった。光が入り込む隙間はどこにもないようだ。
宮士は青藍の手を引き、速い歩調でどんどん先へ進んだ。途中、どこかで一度広い空間に出たと思ったのを覚えている。だがすぐにまた細くて狭い通路のような場所へ入り込んだ。そこからは、手を伸ばせば両側の壁に触れるほど窮屈な道を、ずっと黙々と歩き続けている。
足元はでこぼこしていて、少しずつ下っていくように感じられた。だが、こんな闇の中では、自分の感覚などまったく当てにならない気がする。下っているつもりで、じつは登っているのかもしれない。
通路に入ったあと、宮士は青藍の手を離して先行した。その足音と気配だけを頼りに、必死の思いでついていく。まさか彼が自分を置いていくはずはないが、もしこんな場所でひとりきりになってしまったら、きっと怖くて一歩も動けなくなるだろう。
怖いのは闇ではなく、闇の中から湧いてくるものだ。
暗闇に包まれて何も見えずにいると、自ずと心の目が開く。意識は外ではなく内に向かい、その暗く深い場所に沈んでいる記憶を探り始め、やがてまざまざと蘇らせてしまう。
――血が。
おびただしい血。
清浄な白い衣を、毒々しく染めていた赤い色。
光を失った祭主さまの目。どろりと濁って、何も見ていなかった。
いつも変わらず、優しい眼差しを向けてくれた人。蓮水宮でただひとり、本当にわたしを気にかけ慈しんでくれた人。
もういないなんて。もう――いないなんて。
湧き上がる哀しみに囚われて堪えきれなくなり、両眼から涙があふれ出た。見る者も咎める者もいないここでなら、いくらでも泣いてしまえる。
もし宮士と一緒でなかったら、この場に座り込んでいつまでも泣き続け、そのうち闇に呑み込まれてしまうに違いない。だから青藍は止め処なく涙を流しながらも、懸命に宮士の気配を追い続けた。
泣きながら歩くと息が切れる。すぐにひどく疲れて、脚がさらに重くなった。地面の出っ張りにつまずく頻度も増えてくる。
何度目かに足を取られて倒れそうになり、はっと息を呑んだところで、青藍は素早く伸びてきた宮士の手に抱き留められた。
「少し休みましょう」
宮殿をあとにしてから初めて声を出した彼は、壁が背後にくるようそっと向きを変えて彼女を地面に座らせた。
「小声でなら、話しても平気ですよ」
すぐ隣に腰を下ろし、彼自身も囁くように言う。
「明かりはつけられません。追っ手が来たらすぐに見つけられてしまいますから」
青藍は壁にもたれかかって大きく息をつき、涙に汚れた顔を袖でぬぐった。
「ここは――」意図したよりも声が大きく響き、あわててさらに声量を下げる。「洞穴なの? どうしてここへ連れてきたの」
「ここは七ノ上弦道にある洞窟で、入口近くの大広間を衛士が練兵場として使っています。ほかにも無数の横穴や縦穴があり、そのいくつかは外まで通じているんですよ」
「外まで……。じゃあ、ここを通って出て――」
「御山から逃れます」
「降山する――の」衝撃に打たれた。
冷静に考えればそれしかないのだとわかるが、そう簡単には受け入れられない。
奉職者にとって降山するというのは大変なことだ。少なくとも、青藍の認識ではそうだ。降山しても天門神教の信徒でいることはできるが、神に仕える者ではなくなってしまう。
そうしたら、わたしは――何者になってしまうの?
自問しても、答えは見つからない。
蓮水宮で生まれ、若巫女として十二年間を過ごした青藍は、ほかの生き方など知らなかった。彼女の人生は常に神と共にあり、そうではなくなる日が来るなど想像したことすらなかった。
次代の祭主として指名されなかった若巫女や若巫子は、十七歳でその身分を失って蓮水宮から出される。だが奉職者として、そのまま御山に留まることはできた。〈祭宜〉〈衛士〉〈唱士〉の三つの祭職からひとつを選択し、行堂での四百日間の修行を経たのちに、正式にそれぞれの職に就いて神への奉仕を続けるのだ。
御山を去ることを選ぶ若巫女や若巫子はほとんどおらず、たいていはみな奉職を続けることを望む。
青藍は十七歳になったら、もちろん自分もそうするつもりだった。女は唱士にはなれないから、祭宜か衛士の修行をする。そうして何年か真面目に勤めるうちに働きぶりや能力を認められれば、蓮水宮へ配属されて古巣にまた戻れる可能性もあった。
宮殿の小祭宜として、後輩の若巫女たちを育てるのは悪くない。内宮衛士になって、宮殿に住まう人々を守るのもいい。いずれにせよ、物心ついたころからずっと大切に思ってきた、もっとも安心できる世界の一員として生きていくことができる。
だが降山してしまったらお終いだ。外の世界でどんなふうに生きればいいのか、どんな自分になれるのかまったくわからない。
このまま――身に覚えのない罪を犯したと疑われたまま、山を去るのもつらかった。紅がかばってくれるとも思えないし、きっとみんな青藍が犯人だと信じ込むだろう。
それでも「降山はいや」などと宮士には言えなかった。彼は何の義理もないのに、役目を放棄して助けてくれたのだ。御山から出なければ、彼自身の身も危うくなるかもしれない。
「どうして……わたしを助けてくれたの」
長い沈黙をはさんで訊くと、宮士は淡々とした口調で答えた。
「あなたは祭主さまを殺めていないと言った。それを信じたからです」
なぜ信じられるんだろう。この人はわたしのことを何も知らないのに。
「わたしを信じてくれるなら――戻って、みんなにそう話してもらうことはできない?」
おずおずと言ってみた。もしそうしてくれたら、きちんと調べをしてもらえて、山を出て行かずにすむかもしれない。
「それは難しいですね」
宮士はあっさり、青藍のかすかな希望を打ち砕いた。
「入って行った時、あの部屋にはあなたと紅さましかいなかったし、悲鳴を上げたのは紅さまのほうだった。しかもあなたは、体じゅう祭主さまの血に染まっている」
つまり紅が言ったとおり、やっていないとどれほど主張しても誰も信じてはくれないということだ。この宮士以外は。
「おれは直接あなたの言葉を聞き、そこに真実を感じ取った。だがあくまで直感的にそう思ったというだけで、根拠を示すことはできません。詮議の場に出されたら、あなたがやったとは思えないと言うことはできますが、強力な後押しにはならないでしょうね」
少し期待してしまっただけに、落胆も大きかった。だがこの宮士は何も悪くない。彼は変に誤魔化したりせず、厳しいけれど正しいことを言ってくれている。
「無理なことを頼んで、ごめんなさい」
青藍は謝り、闇の中で彼のほうを見た。
「あなただけでも信じてくれて嬉しい。ほんとにありがとう」
気持ちを切り替え、心からの感謝をこめて微笑みかけると、見えてはいないはずなのに宮士は少したじろぐような気配を漂わせた。
なぜ動揺するのだろう。青藍は不思議に思ったが、彼女がそのことを問いかける前に彼は腰を上げた。
「さあ、そろそろ行きましょう。まだだいぶ歩きますが、この道から逸れずに降りていけば、明日の明け方までには御山の外へ出られます」
「わかったわ」
青藍はあれこれ考えるのをやめて立ち上がり、早くも歩き出そうとしている宮士の袖を手探りで捉まえた。
「待って。あなたの名前を教えて」
少し間が空く。
「一眞」彼は低い囁き声で答えた。「街風一眞です」
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