八十八 立身国射手矢郷・真境名燎 信じる者
鉢呂山の砦で、立州天翔隊の新たな隊士候補たちを迎える準備が始まった。陣屋が拡張され、禽籠が増築され、新設の副郭には追加の宿舎が次々と建てられている。
三州郡楽郷の珠洲山で育てられていた若い天隼も、すでに十羽届けられていた。日を置いて、さらに十五羽が到着する予定だという。禽を管理する籠番の数も一気に増えた。
前期訓練を終えて正式な隊士となった四十人は、その傍らで後期の訓練に取り組んでいる。
「最終的には五隊になると聞きましたが、みなこの砦に収容するのでしょうか」
禽に鞍を載せて騎乗の準備をしながら、真境名燎は相方の石動博武に訊いた。
「どうかな」
立ち鞍を固定する腹帯を締め終えた博武が立ち上がり、戦袍の長い裾についた土汚れを払った。
「おれは、天翔隊の拠点は国内に三か所ぐらいあるといいと思うんだ」
「三か所ですか」
「立州ならここと、東の居駒連峰のあたりに一か所。中部は平野ばかりで場所選びが難儀だが、適度に高い山のひとつぐらいはあるだろうから、そこに一か所」
「国境を接する国々に目を配りやすい位置に、ということですね」
鉢呂砦は江蒲国を、中部平野は北の平等国を、居駒連峰はその隣の天勝国と東峽の別役国を見張るにはもってこいの場所だ。
博武はかねてより、天翔隊の負う役割は空中戦闘や城砦攻めに留まらず、天空から見下ろす目になることも重要だと主張していた。
見たいと思うところを真上から、しかも移動しながら広範囲に俯瞰するというのは、たしかに天隼を操る者にしかできないことだ。天翔隊が定期的に哨戒を行えば、他国に怪しい動きがあった場合に、どの砦の物見よりも早く察知できるだろう。
実際に燎は以前、博武と訓練飛行中に侵入した江州領空で、秘かに建設されている軍道を見つけたことがあった。
「拠点を増やす件、御屋形さまに進言されてみては」
「後期訓練を終えて……」
博武は喋りながら禽を回り込み、こちらへゆっくり歩いてきた。
「一度、七草へ戻る機会でもあれば、それとなくお話ししてみようかと思う」
「七草か――」燎は少し懐かしさを感じながらつぶやいた。「なんだか、もうずいぶん長く離れているような気がします」
「まだ、ほんの三月ほどだがな」
そう言って、博武が小さくため息をつく。
「甥が恋しい。城下でよく食っていた団子の味も」
思わずにやりとした燎を横目に見て、彼は唇の端をちょっとゆがめた。
「恋しいものは仕方なかろう」
「お気持ちはわかりますよ。若さまには奧御殿の番衆なども、みな夢中ですから」
燎自身、主君の嫡子である黒葛貴之には特別な愛情を抱いている。番方として側近くに仕え、成長ぶりを日々見守ることができるのは役目を超えた喜びでもあった。
血縁のある博武なら、なおさらだろう。
「若さまのことはどうにもなりませんが、団子がお好きなら利助に作らせましょうか?」
器用な老従僕の名を出すと、博武が興味を引かれたような顔をした。
「あの老人は裁縫だけでなく、料理もうまいのか」
「わたしが子供のころから大食らいで、三食だけでは腹がもたないものですから、団子やら田楽やらをよくこしらえてくれました。米粉や砂糖さえ手に入れば、ここでもすぐに作ると思います」
「それはいいな。伝兵衛に厨から材料をかすめ取らせよう」
「こそ泥の真似ごとなど、ご免こうむりますよ」
うしろから声がした。振り向くと、今まさに話題にしていた伝兵衛が渋面で立っている。その横には利助の姿もあった。彼が練兵場となっている副郭へ下りてくるのは非常に珍しいことだ。
「どうした、利助。ついにわたしが飛ぶところを見物する気になったか」
「とんでもない」老従僕は軽く眉をしかめ、落ち着きなく身じろぎした。「これをお渡ししたら、すぐに退散いたします」
そう言って彼が差し出したのは、いま博武が身につけているものと同じ戦袍だった。黒絹の表地は共布のようだが、裏地は博武の猩々緋よりも落ち着きのある赤銅色の生地を使っている。縁取りの金襴の端布も、より控え目な色柄を選んでいた。
「先ほどようやく縫い上がりましたので、早くお届けせねばと」
「それは手間をかけたな」
燎は戦袍をさっと広げると、さっそく肩にまとってみた。幅も長さも、立て襟の高さもぴったりだ。
「素晴らしい出来だ」
褒められて嬉しそうな顔をする利助の横で、伝兵衛も満足げに目を細めている。
「燎さまには少し渋みのあるお色がよかろうと思いましたが、じつによく似合っておられます」
前回同様、布の組み合わせを決めたのは彼らしい。燎は微笑み、伝兵衛のほうを向いてねぎらった。
「とてもよい見立てだな、伝兵衛どの」
「痛み入ります」
頭を下げてから、彼は燎と博武をまじまじと見た。
「その出で立ちでおふたりが揃われると、たいそう目を引きますな」
敵の注意を集めるので危ないと心配しているわけではなく、表情と口調から察するに、どうやら彼は主人が目立つことを喜んでいるようだ。
それを悟ったのか、博武が軽く鼻を鳴らす。
「もう訓練が始まる。用が済んだなら行け」
「は、はい」自分が言われたように恐縮して、利助が深々と腰を折った。「では、失礼いたします」
逃げるように去って行く彼を、追い払われた当人はしれっとした顔で見送っている。
「おまえに言ったんだ。邪魔になるから宿舎に戻れ」
博武から重ねて命じられても、伝兵衛はどこ吹く風だ。
「お邪魔をせぬよう端のほうにおります」
燎にちょっと会釈をして、森の際へすたすたと歩いていく。吹き出さないよう苦労しながら、燎は博武をなだめた。
「まあ、そう邪険になさらずともいいでしょう。彼はいつだって、あなたを見守っていたいのですよ」
「子供の手習いについていく過保護な母親でもあるまいに」
彼は腹を立ててはおらず、ただあきれているようだ。
「それに今日の訓練は遠乗りの予定だ。飛び上がるところを見たらお仕舞いだぞ」
明日は遠乗り、と前日に真栄城康資から言い渡されていた。編隊を組んで津々路連峰沿いに西へ二刻あまり飛び、三州北部上空で旋回して戻ってくることになっている。
菱形、三角形、横一列など刻々と隊形を変えながら飛ぶので、主騎の合図を見逃さないよう長時間にわたって常に気を張り詰めていなければならない。後期訓練の中でも過酷とされる科目のひとつだ。
「戦袍の仕立てが間に合ってよかった。今日はかなり寒い思いをしそうですからね」
燎が襟をかき合わせながら言うと、博武は真面目な顔でうなずいた。
「おれも下に二枚、余分に着込んではいるが、それでも足りぬかもしれんな」
今日の訓練は長時間の飛行による極度の冷えが予想されるため、足袋は厚手のものを穿き、腕肩も長手甲で保護するよう事前に指示されている。
寒いこと――それが禽に乗って高高度を飛行する際の最大の問題だ。
夏場はまだよかったが、秋が深まるにつれて訓練は仮想敵よりも寒さとの戦いという側面のほうが際立ってきている。
ほとんどの隊士が、飛ぶ前に必ず重ね着をした。頭と顔に布を巻き、首や腕を覆い、できるだけ肌を外気に触れさせないよう努めている者も多い。指がすぐにかじかんでしまうのも困りものだ。凍えた手では手綱も剣も思うようには扱えない。
博武考案の戦袍は、ここへきてにわかに熱い視線を浴びていた。もともとは落下時の速度を抑える目的で作ったものだが、防風や防寒にも役立つのは明らかで、その実用性の高さが再評価されつつある。自分も真似をして同じようなものを作ってもいいかと、わざわざ訊いてきた者もすでに何人かいた。
郡楽から来て指導にあたっている古参の隊士たちも注目しており、彼らの本拠である三州の部隊でも採用しようかという話まで出ているらしい。
この戦袍はいずれ、南部の天翔隊を特徴づける装束になるかもしれない、と燎は秘かに思っている。
眠っているかのようにじっとしていた禽が、ふいに首を曲げてうしろに視線を投じた。つられて目をやれば、ちょうど主郭から真栄城康資と古参の檪浦良和が下りて来るところだ。ふたりも遠乗りに備えてかなり着込んでいるらしく、普段よりも体が少し大きく見えた。
「みな支度はできているか」
康資の朗々とした声が新隊士たちの耳目を集める。
「腰兵糧と水筒をまだ受け取っていない者は、いそいで陣屋でもらってこい。飛んでから忘れたと言っても遅いぞ。防寒の備えも抜かるなよ」
彼と良和は騎列のあいだを歩きながら、各自の装備を点検して回った。古参ふたりの引き締まった空気に触れ、隊士たちの表情も次第に張り詰めていく。
「おお」短く声を発して、康資が燎の傍で足を止めた。「おぬしのも出来上がったのか」
新調の戦袍が目に止まったらしい。
「今日の訓練にはもってこいだな」
「ええ。これ一枚あるだけで、だいぶ寒さが違うと思います」
燎の言葉を聞いた良和が、細い目をさらに細めて笑う。
「しまった。わたしにも作ってくれるよう頼んでおくのだった」
近くにいる者たちも一緒に笑い、そのうちの何人かは少し羨望のこもった眼差しを燎と博武に向けた。
この訓練が終わったら、また戦袍の仕立てについてあれこれ訊ねられるかもしれない。もっとも訊かれたところで燎に答えられるわけはなく、利助を引き合わせてやるだけなのだが。
装備に抜けがあった数人の粗忽者をしばらく待ってから、康資は全体を見渡して号令をかけた。
「全員そろったな。では騎乗」
部隊で飛行する場合、通常は五騎ひと組単位で隊形を形作り、部隊全体が斜め一列の雁行陣形になって移動する。
離陸して最初に指示された隊形は、一騎を頂点にして残りの四騎が左右二騎ずつ末広がりに並ぶ〈矢尻〉だった。
全体を率いて先頭を飛ぶのは、真栄城康資と檪浦良和の主騎組。その主騎からの指示を受け取り、仲間に伝える副主騎は各組に一騎ずつ配置され、常に隊形の先頭か右端を受け持つこととされていた。燎と博武の禽も副主騎のひとつだ。
〈矢尻〉で飛び始めてから小半刻と経たないうちに、早くも燎の指先は冷え切ってしまった。最近では手綱の片手持ちも慣れたものなので、片方ずつ懐に入れて温めたりしてはみるが、出せばすぐに凍えるのであまり意味があるとも思えない。
津々路連峰の雄大な山塊を眼下に見ながら飛び続け、立州と三州の国境に立ちはだかる水鶏口岳上空が近づいたところで、隊形を〈槌頭〉に替える指示が出た。副主騎を含む三騎が横並びになり、そのうしろに二騎が縦一列で続く形だ。
前を行く組の副主騎から渡された指示を、博武が手振りで後続の副主騎につなぐ。彼は立ち鞍の上で身をひねり、しばらくうしろを確認してから姿勢を戻そうとして、ふと動きを止めた。鞍から落ちそうなほど大きく身を乗り出し、下を凝視している。
今日は雲がやや低く、燎たちはその上を飛んでいるので、下に広がる風景はあまりよく見えなかった。たまに雲の切れ間から山肌や森、農地などがちらりと覗く程度だ。
「どうしました」
手綱をさばいて隊形を整えながら訊くと、博武は燎の肩を強く掴んだ。
「見ろ、燎」
そう言われても、何を見ればいいのやら判然としない。燎は鞍の上で少し尻をずらし、禽の翼の脇から下を覗き込んだ。
薄い雲。白く厚い雲。その隙間に山。また雲。蛇行した川。森。雲。稲刈り後の黄変した田んぼ。その上を駆ける――大勢の人。
燎はまばたきをして、さらに雲間に目を凝らした。
蟻の大群のような黒っぽい人の群れが、農作地を、集落を、森の端を駆け回っている。その中で突出して速く動いているのは馬かもしれない。
雲が邪魔だ。よく見えない。だが、異常なことが下で起きているのはわかる。
どきどきと鼓動が速まるのを感じながら、燎は振り返って博武を見た。
「博武どの、あれは――」
「始まったぞ」
博武は鋭い眼差しを彼女に向け、にやりと笑った。
「主騎に近づいてくれ」
なぜ、と問い返しはしなかった。隣を飛ぶ仲間に「しばし抜ける」と声をかけ、即座に禽を前に進ませる。
ひと組追い抜いて右後方から主騎に接近すると、立ち鞍にいる真栄城康資がすぐに気づいてこちらを見た。
「なんだ」
「江州兵が攻め入りました」
博武の言葉を聞いた康資の表情が変わる。
「どこに」
「おそらく三州の霜鳥郷」
「大軍か」
「かなりの」
短いやり取りのあと、康資は相方に声をかけた。
「戻る」
「承知」
檪浦良和がただちに禽首を曲げ、大きく右旋回する。燎は斜めうしろの位置を保ったまま、それに倣った。後続の組もみな雁行陣形を維持してついてくる。突然の方向転換に戸惑っているはずだが、それが乱れにつながらないのはこれまでの訓練の成果だろう。
「どのあたりだった」
康資が訊き、博武は前方の山頂に突き出た岩塊を指差した。
「あの尖頂から北へ下ったところです」
「よし。雲の下に出るぞ」
主騎が高度を下げ、それに続いて一気に雲を抜けた燎は、急に開けた眼下の景色に息を呑んだ。
水鶏口岳の北の裾野を人馬が埋め尽くしている。踏みにじられた田畑は斑に色を変え、集落の家々からはいくつも黒煙が上がっていた。敵軍が火を放ったのだろう。
戦闘が行われている様子はなく、ただ一方的に蹂躙されているように見える。国境を守る砦の守備兵団はどうしているのか。いやそれ以前に、まだ訓練中とはいえ黒葛家軍備の一角たる自分たちが、こんな高みから見物などしていていいのか。
燎は胸がかき乱されるのを感じながら、博武のほうへ肩ごしに目をやった。
「我々は、どう――」うまく言葉にならない。
「見るんだ」
博武はじっと下に目を据えたまま、静かに言った。
「よく見ろ。すべてを」
彼の冷静さが伝染したように、すっと心が落ち着いた。
そうだ。あわてても仕方がない。
天翔隊は空で戦う部隊。人をふたり乗せたままでは、禽は浮昇力のない地面に降り立てない。いくらそうしたくとも、地上戦闘への加勢などできるはずがないのだ。
今できるのは見ることだけ。博武の言葉は正しい。
雲の下にいたのはわずかな時間だったが、燎はできる限り多くのものを見て、記憶に留めようと努めた。それが何の役に立つのかは、とりあえず考えないでおくことにする。事態を把握しているらしい康資や博武が、それらの情報をきっとうまく活用してくれるはずだ。
主騎の合図で一団は雲の上に引き揚げ、水鶏口岳の山頂に降り立った。開けた場所がほとんどないので禽の着陸地を見つけるのに苦労したが、とりあえず二十一騎がすべて足場を確保したところで、隊士に召集がかかる。
岩場の一角に全員が集まると、康資は厳しい口調で言った。
「みなわかっていると思うが、守笹貫家が当家との協定を破って三州に攻め入った。すでに砦から伝令が走り、狼煙などでの伝達も進められているはずだが、我々もいま見たことを整理して急ぎ本城に伝えねばならん」
彼は一度言葉を切り、隊士たちを見渡した。
「旗印を確認できた者はいるか」
次々に声が上がる。
「黒地に白抜きの鎹模様」
「濃紫に金文字」
燎も目はいいほうなので、いくつか見分けていた。
「黄色地に赤の丸三つ。藍一色に白の吹き流しをつけたものも」
「いいぞ。それらの中で特に多かったのは何だった」
「赤白紫の三色に染め分けた旗が、殊に数が多く目につきました」
「どこの家かわかるか」
「高閑者家」すかさず言ったのは由解虎嗣だ。「うちの親父が、前に戦場で相まみえたと話していました」
「守笹貫家の筆頭支族だな」
「黒に鎹は、たしか満倉家です」
「吹き流しをつけた藍色は泉二家かと」
「前におぬしが見つけた隠し軍道――」
康資が燎に視線を向ける。
「予想通り、あそこから攻め入ってきたようだ」
「はい」燎はうなずき、ちらりと博武を見た。「そう予想したのは博武どのですが。敵軍が戦端を開くのは水鶏口岳の裾野、冬になる前に動き出すやも――と」
「まさに図に当たったわけか」
感慨深げにつぶやき、康資は再び隊士たちを見回した。
「敵軍の規模はいかほどだと思う」
これに対する返答は人それぞれで、かなりあやふやだった。途轍もない大軍だったと感じている者もいれば、さほどでもないと主張する者もいる。
「真上という視点の利を活かし、郷全体を枡に区切ってざっと数えてみたのですが」
意見の出尽くしたあたりで、ずっと黙っていた博武が口を開いた。
「横二十枡、縦十五枡に切り分けて全体で三百枡。武装し得物を持って動いていた者の数が、ひと枡あたり三十から四十人」
ぽかんとしている者もいるが、燎には彼の言っていることがすぐにわかった。
「つまり、おおよそ一万二千人ということですね」
博武の唇を笑みがかすめる。
「枡ごとの偏りはあるし、味方の勢も少し混じっているやもしれんがな。砦の守備兵の数を差し引いて考えれば、大体の規模は掴めるだろう」
ふたりのやり取りに耳を傾けていた康資が、厳しい表情で低く唸る。
「砦に詰めているのは、せいぜい三百から五百というところだ」
「そんな」
玉県綱正が絶望的な声をもらした。
「それでは支えきれるはずがない」
「いや、これは予想されていたことだ。軍道の件が判明してすぐ、侵攻されたら無理には抗わず山中の隠し砦へ引くようにと、国境付近の郷には沙汰が下っている」
「戦わずして逃げろ、と?」
納得のいかない顔をしている綱正を、康資が横目に見る。
「それでいいのだ。三州北方の真の守り手は砦や守備兵ではない。東西に長く横たわる津々路連峰だ。たとえ麓の郷を突破したとしても、この天険はそう易々と越えられはせぬ。侵攻の報が伝わった時点で街道はただちに封鎖される。敵は道らしい道もない険しい山中で、難儀な行軍を強いられるだろう。そのあいだに、味方の勢が南側の麓に集結できる」
「では先ほど康資どのが言われたように、敵軍侵攻せりとの報を一刻も早く本城に伝えるが肝要――ですね」
燎が言うと、康資は力強くうなずいて見せた。
「そうだ。訓練は中止し、いったん鉢呂砦に戻ることとする。それから伝令を七草と郡楽へ向かわせよう」
「時がかかりすぎます」
博武の淡々とした声が、動き出そうとした一団を止めた。
「ここから郡楽へ飛びましょう」
康資がはっと目を見開く。
「飛ぶ……禽で、城までか」
「そうです。幸い今日は遠乗りの身支度だ。一気には無理でも、途中で小憩を挟みながら飛べばたどり着けるに違いない。通常の伝令を仕立てたのでは、到着までに七日から九日ほどもかかってしまいます。だが禽なら、おそらく一日かかりません」
博武は双眸をきらりと光らせて、不敵な笑みを浮かべた。
「うまくすれば、明朝までに第一報をもたらすことができるはず。そんなことが可能だなどと、敵は夢にも思わぬでしょう。これは江州との緒戦のみならず、天山との駆け引きにおいても当家に利をもたらします」
なぜここで天山が出てくる。
燎にはわからなかったし、仲間のほとんども呑み込めない顔をしていた。だが古参ふたりには理解できているようだ。
「たしかに」
康資は隣にいる良和と一瞬視線を合わせてから、博武と燎に訊いた。
「おぬしら、飛べるか」
「わ――わたしたちが行く……のですか」
「なぜ彼らが」
燎の戸惑った声と、綱正の不満げな声が重なった。
「なぜかというと」康資が噛んで含めるように言う。「ふたりは寒冷対策で他に抜きん出ている。真境名燎は指南役の古参を除けば、鉢呂砦でもっとも巧みな乗り手だ。石動博武はこの試みの発案者だし、状況を正しく掴んでいるのであれこれ説明して送り出す必要がない」
それから彼は、固唾を呑んでいる隊士たちを視線でひと掃きした。
「己の技量と理解が彼らにまさると思う者はあるか」
穏やかに問いかける。応える声はない。
「わたしは責任者として砦に留まり、今後に備えねばならん。自分以外で、ここから今すぐに飛べる誰かと考えると――やはり博武と燎が適任だ」
彼はきっぱりと言って、博武を見た。
「どうする、やるか」
「相方次第です」
博武が平然とした顔で答え、全員の注目を浴びた燎は、やや気圧されながらもすぐにうなずいた。
「やります」
風になびく柔らかい毛束が、顎の下をくすぐっている。飛び立つ前に仲間のひとりが貸してくれた毛皮の襟巻きだ。
そのほかにも、指の先のほうまで覆える革手甲やら綿入りの頭巾やら、あれこれ借りて全部身につけている。由解虎嗣はほかの者からも徴集して、腰兵糧と水筒を三人前ほど余分に持たせてくれた。
真栄城康資からは、少なくとも一刻ごとに何かしら食べ物を口にするよう厳命されている。胃が空になると、体が冷えやすくなるのだそうだ。
「冬場は戦袍の襟に、毛皮を縫い付けるといいかもしれません」
燎が手綱をさばきながらつぶやくと、うしろで博武が「そうだな」と低く言った。声がくぐもっているのは、鼻から下を布で覆っているためだ。
「飛ぶ先が七草ではなくて、残念に思われているのでは?」
からかい混じりに訊くと、彼は小さく呻き声をもらした。
「ままならぬのが人の世だ」
妙に達観したようなことを言う。
「それに侵攻されたのは三州だから、郡楽の本城へ伝えるのが理に適っている」
「なぜ三州なのでしょうね。守笹貫家が兵を動かすとしたら、領地奪還のために立州へ戦を仕掛けてくる時だろうと思っていましたが」
「誰かが……判断を誤ったのだろう。こちらとしては願ったり叶ったり」
燎が振り向くと、彼はにやりと目を細めた。
「奪われた立州なら奪還のためと言えば大義名分が立たなくもないが、三州に兵を進めるのはただの侵犯行為だ。どちらも黒葛家が支配しているとはいえ、それぞれは別の国だからな。守笹貫道房と彼の肩を持った大皇を、大っぴらに非難してやれる」
大皇と聞いて思い出した。
「天山との駆け引きがどうのとおっしゃっていましたが、あれは何なのですか」
「戦となると、またぞろ天山が文句を言うのは間違いなかろう。そのうるさい口をふさがねばならない。おれたちが通常の伝令に先んじて郡楽へ第一報をもたらせば、稼いだ日数を天山封じの工作に利用できる」
「工作……どのような?」
「おれがご宗家の御屋形さまなら、そうだな――今日よりも前の日付で書状を送る。黒葛家がいかに神妙に大皇の下知に従っているかを、あらためて申し述べる内容だ。人質を出し、誓紙を渡し、立州返還の計画も立てて、勅書で命じられたことはすべて実行しています、とな」
彼はちょっと間を置き、指に息を吹きかけた。寒いのだ。
「しかし家中には黒葛家にのみ不平等な裁定が下されたことを恨む声も多く、さらに大切な嫡子を殺害されかけたことで天山への信が大きく揺らぎ始めている。この上、もし守笹貫家が大皇の寵遇を嵩に着た振る舞いに及ぼうものなら、もはや憤懣を抑えることは叶わぬだろう。睨みを利かせる意味でも、ここはぜひとも彼の家に対し、当家と同様の沙汰を下していただきたい。私闘を繰り返さぬという誓紙を書かせ、人質を要求し、公明正大さをお示しくださいますよう。とまあ、そんな感じだ」
「書状を出した時点では、禎俊公は守笹貫家が本当に横紙破りをするなどとは知る由もない――というわけですね」
うまいやり方だ。
事の始まりに守笹貫家を依怙贔屓し、さらに預かった人質を危険にさらした大皇は、多少なりとも後ろめたい思いを抱いているに違いない。そこをつついた上でやんわり脅し、筋道立った要望を伝える。三廻部勝元はうんざりするだろうが、無下に拒否もできないと考えるだろう。
「そして、禎俊公の懸念は現実になる。道房が、大皇の意向も黒葛家との協定も無視して敵対行為を仕掛ける……」
燎がつぶやくと、うしろで博武が含み笑いをした。
「そこで畳みかけるように、次の書状を送ると効果的だな。ほらみろ、おまえが道房を甘やかすからこうなったのだ、と言ってやる」
「今回のことはすべて、最初に片手落ちな裁きをした天山に責任があると?」
「天山の責任といっても過言ではないのだから、侵攻された黒葛家が本領を守るべく挙兵したとしても、よもや文句などは言われぬでしょうな――と、牽制するんだ」
「なるほど」
眼下にぎらりと光る水面が見えた。立州と三州にまたがる神在湖だろうか。だとすると、もう五十里近くも飛んだことになる。急使が二日以上かけて踏破する距離を、わずか一刻半ほどで進んでしまったとは驚きだ。
禽はそれでも疲れた様子はなく、悠々と飛び続けている。だが乗っている人間のほうはそろそろ限界だ。風圧で体がぺしゃんこになったように感じるし、容赦なく吹きつけてくる寒風で骨の髄まで冷え切ってしまった。とにかく、あまりに寒すぎる。
「博武どの、あれは神在湖でしょうか」
声を張り上げて訊くと、博武は少し身を乗り出して下を確認した。
「かなり大きいな。たぶんそうだ」
「このあたりで、一度降りて休みましょう」
彼の返事はよく聞こえなかったが、燎はかまわず禽首を下げた。湖の縁に沿って少し飛び、西に見えるそこそこ高い山を目指す。
低い樹木がまばらに生えた頂に着陸し、鞍から降りて地面を踏むと、爪先の感覚がなくなっていることがわかった。博武も同様らしく、足を踏み出すたびによろめいている。
「まいった、かなり堪えるな」
彼は歯をがちがち鳴らしながら、屈み込んで袴の上から腿を勢いよくこすった。
「とにかく火を焚こう」
「そうですね」
ふたりは黙々と焚き火の支度をした。
焚きつけ用の松葉を拾う。粗朶を集めて小刀で樹皮を削ぐ。石で竈を組み上げる。
「そこの竹を切ってくれないか」
火打ち石を使いながら博武が言った。見ると、すぐ近くに小さな竹林がある。
「竹をどうなさるんです。青竹は燃えませんよ」
「湯を沸かすんだ。飲みたいだろう」
「鍋代わりにするんですね」
よく頭の回ることだ。
感心しながら、燎は竹を切りに行った。笹藪に足を踏み入れて差し料を抜いたまではよかったが、手がかじかんでいるので柄をしっかり握るのが難しい。
息を吹きかけながら手をこすり合わせ、指を何度か曲げ伸ばししてから、気合いでなんとか筒ふたつ分切り出した。
それを受け取った博武が側面に小窓を切り抜き、水筒の水を注いで直火にかける。焚き火の傍に座って体を温めながらしばらく待っていると、筒の中で水が煮立ってきた。
ふんわり上がる湯気を見ているだけでも、何とはなしに気持ちがゆるむ。
吹きこぼれる前に火から下ろして水筒に注ぎ戻し、火傷をしないよう気をつけながら少しずつすすった。すぐに、みぞおちのあたりがほんのり温かくなる。
「ただの湯を、こんなに旨いと思ったのは初めてです」
「そうだな」博武は笑い、腰兵糧の包みを手探った。「次の休憩では味噌玉を溶かして、味噌汁にしよう。――お、小さい餅があるぞ。干し芋と握り飯も入っている。砦の厨は気が利いているな」
食い物のことを聞いているだけで、意地汚い胃の腑がぐうぐう鳴り出す。燎は握り飯を取り出し、ひと口ごとに湯を飲みながらがつがつと食べた。冷えて少し固くなっているが、それでも充分腹の足しにはなる。
「戦の……」
やっと人心地ついたところで、燎は膝を抱え込みながら訊いた。
「わたしはまだ戦に出たことがないのですが、戦陣というのはこんな感じなのでしょうか」
身を切る寒さ。吹きさらしの野外で取る冷たい食事。何かに追われているような切迫感。
「どうだろう。おれも経験がないのでわからん。だが、似たようなものかもしれんな」
「始まったのですね」今になって、じわじわと実感が湧いてきた。「戦が――我々の戦が、ついに」
「そうだ。上は祖父の世代から下はおれたちの世代まで一丸となって、今度こそ、どちらかが倒れるまでやることになるだろう。この戦が終わる時、南部の名家がひとつ消える」
「そう易々と決着はつかぬでしょうね」
「何年も……下手をすると十年を超えるほど長く続くかも、な」
わたしたちはどこで初陣を飾ることになるのだろう、と燎は思いをめぐらせた。天翔隊が投入されるのは攻城戦だ。戦場が三州にあるうちは、しばらく出番がないかもしれない。
むずむずする。早く戦に出たいような、出たくないような。楽しみなような、怖いような。
焚き火の中で何かが弾けた。その音で、はっと我に返る。
顔を上げると、ゆらめく炎の向こうから見ている博武と目が合った。何か物言いたげな表情だ。
なんです、というように見つめ返すと、彼はさらに少し間を置いてからぽつりと言った。
「さっき水鶏口岳で、この任務を受けるかどうかの決断をおぬしに丸投げしたが――やると言ってくれて嬉しかった」
これは彼らしからぬ言葉に思える。
「断らないと見越しておられたのかと」
「そんなことはない」
「では、わたしが嫌だと言ったら……辞退されたのですか」
「そのつもりだった。おれは無謀に思えることほどやってみたくなる性だから、ああいう話にはすぐ飛びついてしまうんだ。できるかどうかよりも、やりたいかどうかを優先してしまう。だから、慎重なおぬしに判断してもらいたかった」
慎重、だろうか。よくわからない。
だが博武が自分を信じ、さらに頼りにもしてくれているらしいことはわかった。
わたしは? 彼を信じているだろうか。
そう自分に問いかけると、さまざまな記憶が脳裏にあふれてきた。
滝壺での度胸試し。博武が先に飛んだので、それに続いて飛ぶことができた。
江州への偵察飛行も、彼がやろうと言ったから行く気になった。
彼のほうから指名されたから、相方を務める自信が持てた。
そうか、わたしは――。
思わず苦笑がもれる。
いつだって心のどこかで彼を信じ、無意識にあとを追うことで……安心感を得ていたんだな。
「わたしはあなたが何かをやると言うと、それはおもしろそうだと思ってしまうことが多いので、正しい判断ができるかは怪しいかと」
真顔で言うと、博武は寒さを吹き飛ばすような明るい声で笑った。
「暴虎馮河のふたりづれか」
「虎に素手で立ち向かうほど、命知らずではないつもりですが」
つられて笑いながら、燎は腰を上げた。
「そろそろ行きましょう。だいぶ体も温まりました」
博武は火勢の弱まった焚き火を踏み消してから、爪先で灰をかき分けて何か蹴り出した。それを手ぬぐいで丁寧にくるみ、燎に差し出す。
「懐に入れるといい」
受け取った丸い塊は温かかった。
「石を焼いていたのですか」
渡された温石を帯の中に挟み込むと、温もりがじんわりと腹全体に広がった。我知らず顔がゆるむ。
「あなたと一緒だと、戦陣もそう捨てたものではないと思えますよ」
頭に浮かんだままを素直に口にすると、博武は軽く肩をすくめてから、褒められた子供のような笑みを浮かべた。
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