八十六 御守国御山・街風一眞 孤舟
衛士寮の修行者がふたり、真夜中を過ぎても宿堂に戻らない。そう報告を受けた千手景英は入堂百日以上の修行者を集めて六班に分け、それぞれに衛士をひとりつけて捜索を行わせた。
御山は広い。樹木が密生した森や深い洞穴、普段あまり使われていない建物など、身を潜められる場所が無数に存在する。
捜索は七ノ上弦道から開始し、行堂の堂舎周辺や森の中、練兵場として使われている洞窟などをひととおり見回るよう指示が出された。それでも見つからなければ人手を増やし、上下の階層にも範囲を広げることになる。
半刻ほど経ったころ、ある班が森の中で菊を発見した。悪霊に憑かれ、漂魄となってさまよっていた死体が、立ち木の陰から飛び出して修行者を襲ったのだ。
不意を突かれたひとりが噛みつかれて肩口を大きく抉られ、取り押さえる際にふたりが腕や脚に負傷した。こちらの傷も決して軽くはない。
すぐに呼ばれて駆けつけた大祭宜が封霊を行い、菊を無害な死体に戻したものの、騒ぎが収まったあともなお修行者たちの動揺は静まらなかった。まさか彼女が死んでいるなどとは、誰も予想だにしていなかったのだ。
残る行方不明者――五十公野利達が見つかったのは、その二日後の夕刻だった。
発見が遅れたのは、神域とされ、人の立ち入りが制限されている北斜面の岩場にいたためだ。彼もまたすでに絶命しており、十間ほど上にある岩棚から滑落したものと見なされた。
詠月二十五日、利達と菊を埋葬した後の最初の霊祭が執り行われた。司式を務めたのは、御山の高位奉職者である十二宗司の中でもっとも衛士寮とかかわりの深い、序列二位の空木宗司だ。
学堂内に祭壇を組み、ささやかながら厳粛に儀式が行われたあと、行堂長の千手景英は修行者たちをその場に留めた。武術指南役の饗庭左近と三甲野克洋、空木宗司も残っている。
「さて――」景英は祭壇脇に座って修行者を見渡し、静かに切り出した。「魂送りの儀と霊祭も終わり、ひと区切りついたところでみなに話がある」
雷雨がくる直前のように、学堂内の空気がぴりっと緊張感をはらむ。
「すでに知っている者もいると思うが、七日前の夜、菊は何者かに首を絞められて殺害された」
呻きともため息ともつかぬ声が、座敷のあちこちからもれた。景英の鷹のように鋭い目が、沈鬱な面持ちの修行者たちをゆっくりと見渡す。
「利達のほうは高所からの滑落による頭部損傷が死因で、現時点では事故、自死、他殺のいずれとも判断をつけかねている。だが、同じ夜に行堂の修行者がふたり相次いで命を落としながら、そこにまったく関連がないなどとは考えづらい」
景英は少し間を置き、小さくため息をついた。
「菊を殺害した者が、利達をも手にかけた。あるいは何らかの理由で菊を殺めた利達が、自責の念に駆られて自ら命を絶った――という可能性も無視できぬだろう」
誰も声を出さないのに、ざわめきが起こったように感じられた。
利達が人を殺めたりするはずはない。無言で見交わされる目と目が、はっきりとそう物語っている。
五十公野利達は特に行堂の人気者というわけではなかったが、おとなしくて気が優しく、稽古ですら人を打てないほど非暴力的な若者だということはみなが知っていた。どんな理由があろうとも、彼が他者に危害を加えるなど考えられない。
「これまでの調べにより、あの夜ふたりは宵の祈唱が始まったころまでは、ほかの者たちと共にいたことがわかっている」
堂内の空気が少し落ち着くのを待って、景英は言葉を続けた。
「利達は祈り珠をなくしたことを気にしていたそうなので、あるいはそれを探しに出たのかもしれぬ。いつ祭堂を抜け出し、どこへ向かったのか。何者かと連れ立ってはいなかったか。それ以前に、誰かと諍っているようなことはなかったか。彼らがあのような痛ましい最期を遂げるに至った事情を、何か少しでも知る者があるなら申し出て欲しい」
「もし、ここで言えぬなら――」空木宗司が口を開き、老人とは思えない張りのある声で言った。「あとで堂長なり、わたしのところへなり話しに来てもかまわぬ」
不安そうな表情で、修行者たちが顔を見合わせる。
かなり間が空いて、この場での情報提供はないものと誰もが思いかけた時、修行者が座っている中央付近から声が上がった。
「あのう――」
おずおずと挙手し、すくめていた首を伸ばしたのは信光だった。
「どうした。何かあるか」
景英が問いかけると、彼は小さくうなずいて左右に素早く目を走らせた。何かを確認するように。
「菊のことは知りませんが、利達は友人で――同室でもあったのでよく知っています。彼は根っからいい人間で、誰かに嫌われたり恨まれたりするようなやつじゃなかった。人と争ったりもしなかった。でも……ひとりだけ、不当にあいつを憎んでいた人がいました」
ざわめきが――今度は本当に起こった。当惑と、怯えと、いくらかの警戒心を含んだ無数の視線が信光に向けられる。
「先に誰かが言ってくれたらと思ったんだけどさ……」
彼は大きくため息をつき、やりきれないように首を振った。
「誰も思い出さないみたいだから――いやだけど言うしかない。こういう時に貧乏くじを引いちまうなんて、おれはほんと悪運が強いよ」
いつも愚痴っぽい彼が例によってぶつぶつ言っているあいだ、景英は口をつぐんでじっと待っていた。ほかの者たちもみな、固唾を呑んで見守っている。
「みんな覚えてないのかな」信光は眉間に皺を寄せ、周りに座っている仲間を再び見回した。「そんなに昔のことじゃないぜ。夏の……まだかなり暑かったころだ。調練の時に利達をめった打ちにして、ひどくいたぶったことがあったじゃないか。指南役が――饗庭左近さまが」
前方でどすっと音がした。今にも火を噴きそうなほど顔を真っ赤にした左近が、片膝立てになって睨みつけている。
「黙れ馬鹿者」
吠えるように言い、彼は眉を吊り上げた。
「稽古で下手くそなやつが打たれるのは当然のことだ」
「あれは稽古じゃない」
鈍感なのかと疑いたくなるほど、信光は威嚇にまったく怯んだ様子を見せなかった。
「棒立ちになってる利達を、ただ一方的に打ちまくってただけだった。地面に倒れて丸まってからもまだ打ちやめなかった。しかも、あの時だけじゃない。それ以前からずっと指南役は利達を異常なほど目の敵にして、しょっちゅう殴ったり蹴ったり暴言を浴びせたりしていた」
自分も半ば腰を浮かせて、舌鋒鋭く攻撃する。
「それにあの日、指南役はぼろぼろになった利達をこう怒鳴りつけて脅した。〝誰かに余計なことを喋ったら殺してやる〟〝みじめに命乞いさせてからぶち殺してやるからな〟。あそこにいた者は、みんな聞いたはずだ」
「それがどうした。寝言は大概にしろ」
左近が鼻で笑う。だが、信光の横にいた伊之介が挙手すると、その顔から嘲弄の色が消えた。
「おれも聞きました。それに利達を事あるごとに虐待していたのも……信光が話した通りです。饗庭指南役に痛めつけられたことのない修行者はたぶんいませんが、利達はその中でも特別ひどい目に遭っていた」
「わたしも覚えています」
女の修行者がひとり手を挙げると、集団の中から「そうだ」「聞いた」と次々に声が上がった。
左近の顔色が赤から青に、さらに赤紫に変化する。激しい動揺がはっきりとそこに表れていた。
だが彼は明らかに、まだ切り抜けられると思っている。調練中に教え子を打ったからといって咎められるはずもなし、殺すというのは単なる脅し文句であり、実行したという証拠にはならない。脅した相手も実際は利達ではなかったし、そもそも殺してなどいないのだから、何も恐れる必要はないはずだ――そんなふうに考えて高をくくっている。
「〝余計なことを喋ったら〟というのは」
景英が、沸騰した場の空気を一気に冷ますような声で言った。その目は隣にいる左近に向けられている。
「人に言われると困る何かを、利達に知られていたということなのか」
弱い者には強いが、強い者の前ではへりくだる質の左近が、景英の眼差しに射すくめられたように首を縮める。
「言いがかりです。わたしには、さっぱり覚えがありません」
空とぼける左近から視線を逸らし、景英は信光のほうを見た。
「おまえは、利達から何か聞いているか」
「いえ……聞いていません。あいつはそういうことを、ぺらぺら喋るような男じゃなかったから」
「ほかの者はどうだ。この件について何か知らないか」
さあ、出番だ。
袖で合図を待っていた役者が舞台へ躍り出るように、一眞は右手をすっと挙げた。
「すべて知っています」
「何を知っている」
「なぜ知っている」
先の問いは千手景英、あとの問いは空木宗司の口から発せられた。
景英の声にはこれを予測していたかのような響きがあり、空木宗司の声には戸惑いが混じっている。
すぐ近くに座っている伊之介や信光、玖実らも宗司と同じように当惑しているのが感じられた。彼らにとっても、これは寝耳に水の話だ。
一眞は昂然と顔を上げ、まず宗司の問いに答えた。
「利達がそれを――饗庭指南役が〝人に言われると困ること〟をしているのを見てしまった時、おれも同じ場所にいたからです」
それから景英に視線を移す。
「いずれ自分が堂長に話すからと……利達に口止めされていたので、これまでずっと黙っていました」
「もう利達がわたしに打ち明けることはない。今この場でおまえが話せ」
「こんなやつの!」
ひび割れた声で叫んだのは饗庭左近だった。
「こ、こんなやつの垂れやがる空事を、本気でお聞きになるんですか。こいつは平気で嘘をつくやつだ。人を殺したって平然としていられる野郎だ」
憎々しげに顔をゆがめ、額に青筋を立てて一眞を見据える。
「案外、殺ったのは貴様じゃないのか。その罪をおれになすりつけようとしてるんだろう」
なんて勘のいいやつなんだ。一眞は危うく笑いそうになった。常に悪意と疑いをもって人を量ろうとするゆえか、いつもこの男は一眞の悪事をずばり言い当てる。
「左近、座れ」
凍りつくほど冷たい声で空木宗司が命じた。半分立ち上がっていた左近が、びくりと身をすくめる。
「続きを聞こう」彼は不快そうに横目で左近を睨みながら、一眞に向かって言った。「利達が〝見てしまったこと〟とは」
左近が命令に不承不承従うのを待ち、一眞は再び口を開いた。
「負傷した利達の手当てをするため、ふたりで調練を抜けて宿堂に戻ったことがありました。その時、無人のはずの堂舎内におかしな気配があり、気になったので確認しに行ったんです。すると女部屋の一室で饗庭指南役が、修行者を……手込めにしていました」
一瞬の間が空き、次いでどよめきが起こった。
「おれは見なかったことにして去ろうと思いましたが、利達は――怒った。破戒は決して許されないと、あいつは指南役に食ってかかりました。でも、そのあとすぐ怖くなったらしく、弱気を見せたところで怒鳴られて追い払われました」
一眞はちらりと左近を見た。血走った目でこちらを睨めつけている。だが反論の言葉は出て来ないようだった。それもそのはずで、今のところなにひとつ捏造はしていない。
「利達は引き下がったことをとても後悔していて、いずれ勇気が出たら必ず堂長に話をしにいくと――言っていました」
まだ静まらないどよめきを抑えるように、空木宗司が片手を上げて目の前の空気をかき回した。
「みな落ち着け」
そう言う彼の声も少し乱れている。上品な造作の色の白い顔には、かつて見たことのない険しさが表れていた。
「一眞よ、いま話したことはすべて真実か」
「はい」
「神にかけてそう誓えるか」
「誓えます」
「その、饗庭左近が手込め――にしていたという相手、修行者が……誰であったのか、それも言えるのか」
「言えます」
ごくりと唾を飲む音がいくつも響いた。みな聞きたくはないが、聞かずにはいられないという顔で、食い入るようにこちらを見つめている。
「しかし、それは――」
口を挟んだのは三甲野克洋だった。これまでずっと黙っていた優しげな瓜実顔の指南役は、目に深い憂慮の色を浮かべている。
「当人にとってはあまりにも不名誉なこと。みなの前で名を公表するのは、適切とは言えぬのでは。ここで自ら……告発するというならともかく」
「ここにはいません」一眞は静かに言った。「もう、自ら告発することもできません」
言外にこめた意味を、ほぼ全員が正しく理解したようだった。室内は水を打ったようにしんと静まりかえり、しわぶきひとつ立てる者もない。
「では言え」
景英がまっすぐにこちらを見た。
「誰だ」
「菊です」
たちまち喧噪が学堂の中を満たした。悲鳴に似た声。喘ぎ。呻き。ため息。怒声。早口の短いやり取り。
それらをすべてかき消すほどの大声で左近が怒鳴った。
「この糞野郎が、ふざけやがって!」
彼は猪のように突進しようとしたが、次の瞬間には仰け反って床に尻餅をついていた。隣に座っている景英が腰帯を掴んで引き戻したのだ。
唖然とした顔で見つめる左近に、彼は厳しい表情で言い放った。
「次に動いたら、縄を打たせる」
景英が目で合図を送ると、克洋が無言で立って学堂を出て行った。万一に備え、衛士を何人か連れてくるのだろう。
「そのように周章狼狽するなど、恥ずかしいと思わんのか。疚しいことがないのなら、泰然と構えて最後まで聞くがいい」
淡々とたしなめられた左近が、悔しげに顔をゆがめる。
「しかし、こんな誹謗中傷には我慢がなりません。おれが――わたしが修行者を手込めにしていたなどと……いったい、どこに証拠があるというんです。あいつひとりが、勝手にそう言っているだけだ。名を挙げられた当人はもういないのだから、なんとでも好きなように話を作れます」
「なるほど」
景英は穏やかに相槌を打ち、一眞に目をやった。
「左近の言い分はもっともだ。何か証拠となるものはあるのか、一眞。あるいは、この件をおまえと利達のほかに知っていた者は」
「見たことがすべてです。証拠などはありませんし、ほかに知る者がいるかどうかはわかりません」
ほらみろ、と言いたげに左近がにやりとする。が、その笑みは修行者の中からおそるおそる上げられた手を見て、煙のように一瞬でかき消えた。
「あ、あの……」
細い声の主は、女の修行者の中では最古参の須美だった。十九歳になる、どちらかというとおとなしい娘だが、剣術の稽古ではなかなか積極的なところを見せることもある。
「わたしも――し、し、知っていました」
上目づかいに景英を見て、彼女は何度も言葉をつかえさせながら言った。
「黙っていて、も、申し訳ありません」
「一眞が菊について言ったことを裏書きできるのか」
景英が問いかけると、須美はうつむいて縮こまりながら何度も小さくうなずいた。
「はい。わたしは菊と、ど、同室でした。指南役はいつも宿堂の……わたしたちの部屋を、その――使っておられたようで」
汗の浮いた額まで、恥ずかしさで真っ赤に染まっている。
「出て行かれるところを、一、二度見かけたことがありました。そのあとで部屋へ入ると、あの……わかったんです。寝台の……様子や――」
そこまで言うのがやっとで、彼女はさらに深くうなだれると手で顔を覆ってしまった。
情交の痕跡というのは、その場の空気に生々しく残るものだ。左近があの部屋をしょっちゅう使っていたなら、菊と同室の者たちの中で誰かひとりぐらいはうすうす感づいていてもおかしくはないと、一眞は前々から思っていた。どうやら勘は当たっていたらしい。
「須美」
景英が優しく声をかけ、彼女に顔を上げさせた。
「菊に、それについて訊ねたことはあるか」
「初めて気づいた時に、一度だけ。なぜ従うのかと訊きました」
「彼女はなんと言っていた」
「怖いから、と」
「おれにも菊は同じことを言いました」
一眞が口を挟むと、左近がはっと顔を上げた。完全に血の気を失って、半ば青ざめてはいるが、目だけはまだぎらぎらと憎悪をたぎらせている。それを見返しながら、彼は書状を読み上げるようによどみなく喋った。
「利達とふたりで見たことを、誰にも言わないで欲しいと頼みに来たことがあったので、なぜ指南役の好きにさせているのかと訊いたんです。すると彼女は――」
「〝怖いから〟と?」景英が静かに訊く。
「はい。断ったら何をされるかわからない、とも言って怯えていました」
「しかし、無理を強いられていたなら……」つぶやくように言ったのは空木宗司だった。「なぜ誰かに助けを求めなかったのだ。目撃した者に口止めをしたというのは解せぬ。恐れるあまり自らは訴えられぬのだとしても、一眞か利達に堂長に話してもらえば、すぐにも苦痛から解放されただろうに」
「菊にも引け目があったからです」
うまくここへたどり着いた。あとは上手に締めるだけだ。
「死んだ者を貶めたくはありませんが、今さら隠しても仕方がないので話します。菊には他人のものを盗む癖があり、それを指南役に知られたために、いいなりにさせられていたと言っていました」
すぐ近くで、鋭く息を呑む気配がした。左隣に座っている 玖実が、痛いほどに強い眼差しで見つめている。彼女はいま、菊の盗み癖について教えた夜のことを思い出しているに違いない。
その突き刺さるような視線を無視し、彼はずっと左近から注意を逸らさないまま話し続けた。
「菊は追い詰められていたようで、指南役に死んで欲しい、いっそ殺したいとまで――口にしていました。でも自分には無理だ、きっと失敗して反対に殺されてしまうだろうと」
さあ、どうだ。
一眞は挑むように左近を見据えた。
ここからひっくり返せるか、やってみろ。
たしかに菊を脅して犯していたし、利達を虐めてもいました。でも、菊に殺されそうになって返り討ちにしたり、それを目撃した利達を口封じのために殺したりはしていません。不犯と不虐、ふたつの掟戒は破りましたが、不殺は破っていません。
そんな途方もなく嘘くさく聞こえる主張を展開して、ここにいる全員を――大半がおまえを嫌っている修行者も含めて納得させられるか試してみるがいい。
一眞は左近がぶち切れると予想していた。憤怒に我を失い、雄叫びを上げ、闇雲に暴れ出すだろうと。だが違った。
彼は笑った。
頬を攣らせ、目を細め、唇の端にほんの一瞬、笑みに似たものをひらめかせた。
ひやりと——冷たい戦慄が一眞の背を走り抜ける。
左近の上体がすべるように前にのめるのと同時に、ほとんど手で触れられるほどの質感をもって殺意が襲いかかってきた。そのすぐうしろから、殺すためだけの得物と化した男が、道筋にいる修行者を蹴散らしながら一直線に押し迫ってくる。
攻撃されるのを予期していたにもかかわらず、体が動かない。
完全に呑まれてしまった。
そのままだったら、おそらく一撃で首を折られるかどうかして息の根を止められていただろう。だが左近の凶手が一眞に届くことはなかった。
阻んだのは千手景英だ。
彼は左近が動き出した時にはもう片膝を立てていて、鎌首をもたげた蛇のように素早い手刀のひと打ちを腿裏に見舞い、倒れたところに背後から組みついて頸動脈を絞め上げた。左近が完全に落ちて脱力するまで、まばたきを三回する間もなかったに違いない。
外に待機していたらしい三甲野克洋とふたりの衛士が飛び込んできた時には、もうすべてが終わっていた。
「縄を打ち、意識を取り戻したら留置せよ」
息ひとつ乱さずに景英が命じ、次に修行者たちを見渡した。
「みなは宿堂へ戻り、指示があるまで動かぬように」
仲間と連れ立って外へ出ながら、倒れている左近を肩ごしにちらりと見た一眞は、軽い悪寒をおぼえて身震いした。
危ないところだった――とあらためて思う。
捨て鉢になったやつは怖い。
その日の夜、八ノ上弦道の蔵に監禁されていた饗庭左近が逃亡した。
見張りをしていた衛士ひとりと立哨ふたりを負傷させ、どこへともなく姿を消したという。
朝になってそれを知らされた修行者たちは震え上がった。左近に不利な証言をした者たち、中でも特に須美は、一刻もひとりではいられないほどに怯えきっている。
だが一眞は彼が復讐のためであれ何であれ、いつまでも御山の中に留まっているとは考えていなかった。物事をひどく根に持つ男ではあるが、そこまで馬鹿ではない。
利達と菊の殺害犯でこそないものの、自分が潔白でないことは彼自身がよく知っている。行堂の指南役という立場を悪用して教え子をいたぶり、犯し、好き放題に振る舞っていた。堂長や宗司の前でそれらを明るみに出されてしまった以上、もうここに彼の居られる場所はない。
衛士寮に所属する者を総動員して、大規模な捜索と山狩りが行われたが、何の成果も得られないまま三日後に打ち切りとなった。
左近は下界へ逃亡した、というのが最終的な上層部の見解だ。
修行者ふたりの殺害に関しては、結局本人からは自白を得られなかったが、詮議も待たずに逃走したことが何よりの証拠であると見なされていちおうの幕引きとなった。
それから何日か経ち、行堂の騒然とした空気もようやく静まったころ、一眞は玖実からいつも逢い引きしている山腹のくぼ地に呼び出された。誘いがかかったのは久しぶりだ。
だが、彼女の目的はそれではなかった。
「あたしたち、終わりにしましょう」
玖実は一眞が現れると開口一番、淡々とした口調で宣言した。
「どっちかがやめようと思えばそれまで。取り決めをしてたわけじゃないけど、お互いにそういう考えだったでしょ」
「そうだ」
彼女が言っていることは正しい。べつに未練もない。だがこんなに急に、一方的に切られるとは思っていなかったので、一眞は少なからず驚いていた。
「おれに飽きたのか?」
「違うけど、あたしもそろそろちゃんとしなきゃと思ったの」
「ちゃんとって、なんだ」
「腹を決めて、御山の奉職者として生きていくってことよ」玖実は大きな目で一眞を見据えながら言った。「中途半端はもうおしまい。あんたとのことは、その半端の――最たるものだから」
どうやら、ほかの男に乗り換えるということではないらしい。
今まで彼女は、得手ではない武術の調練にあまり身が入らず、掟戒を軽んずるようなところもあったが、それらを改めて修行に本腰を入れる気になったようだ。
「わかった」
一眞がうなずくと、玖実はほっとしたように、ちょっと口角を上げた。
「これまで楽しかったわ」
「おれのほうも」
それで終わりだった。愛だの情だのがからんだ関係ではなかったので当然ともいえるが、じつにあっさりしたものだ。
背中を向けて去って行くのを見送りながら、一眞はここしばらく玖実がよそよそしかったことを思い出していた。
学堂での一件以来ずっと、どこか警戒するような眼差しを向けてきていた気がする。菊のことが頭に引っかかっているせいに違いない。彼女の死と一眞をどんなふうに結びつけているのかは知らないが、何かしら疑いめいたものを心に抱いたのは確かだ。
それを追及するよりも、離れて忘れるほうを選んだ。そういうことなのだ。おそらく玖実は、嫌なことを知って後悔するぐらいなら、いっそかかわるまいと決めたのだろう。
向こうから終わりにしてくれたのは、むしろ好都合だったともいえる。変に興味を持って、余計なことをほじくり返されても面倒なだけだ。
一眞は右手の指先に触れた雑草の先端を無意識にむしり、肩ごしに放り捨ててからくぼ地を後にした。
「おれ、祭宜の行堂に移ることになった」
事件から半月あまりが過ぎた夜、信光が宿堂の寝台に寝転がりながら、一眞と伊之介に突然そう打ち明けた。
彼は利達が死んでからというものひどく気落ちしていたが、その間ずっとこのことを考え続けていたらしい。
「一から修行をやり直すんだ」
信光は唖然としている仲間ふたりを見て、情けなさそうな顔をした。
「百日以上もここで頑張ったのに、馬鹿なやつだと思ってるんだろ。まあ正直、自分でもそう思うよ」
「どうしてだ」伊之介が困惑の表情で訊く。「衛士になりたかったんじゃないのか」
「なりたかったけどさ」
信光はゆっくり起き上がると、背中を丸めて胡座をかいた。
「前から悩んでもいたんだ。おれ、同じようにやってても明らかにおまえたちほど上達しないし、なんかもう伸びしろがないように思えて」
「まだ、あきらめるのは早いだろう」
一眞は自分の寝台から身を乗り出し、彼の目を覗き込みながら言った。
「おまえは化け物みたいに体力があってしぶといし、いろいろ強みもあるじゃないか」
「誰が化け物だよ」
信光はちょっと笑い、それから真顔になってふたりを交互に見た。
「いちばんの理由は、ここにいると利達のことばかり思い出しちまって――つらいってことなんだ」
かつて覚えがないほど真剣な面持ちで、ひと言ひとこと噛みしめるように言う。
「おれ、一眞ほどあいつと親しくはなかったけど、いいやつだと思ってた。おれよりももっと修行では後れを取ってたけど、衛士になりたくて、ほんとに一生懸命だっただろ。そんなあいつが、あんなふうに理不尽に命を――」
彼はそこで絶句し、片手で顔を覆ったまま何も言えなくなった。伊之介が横に腰を下ろし、いくら食べても肉のつかない細い肩にそっと腕を回す。
「たまらないよな。おれも同じ気持ちだ」
しばらく経って、信光は大きくため息をつき、両手で顔を乱暴にこすった。
「めそめそしちまって、みっともねえな」
自嘲するように言い、頭をぶるぶる振る。
「ま、そういうことだ。明日の午前の課業を終えたら、荷物をまとめて移動する。でも降山するわけじゃないし、これからも祭祓の時なんかや、大祭堂でもしょっちゅう顔を合わせると思うぜ」
「降山するのはおれだ」
伊之介がさり気ない口調で言い、ぎょっとしたように視線を集めるふたりを見てにやついた。
「話に乗っかるみたいであれだが、おれも降山願いが今日ちょうど受理されたんだ。あと三日で、こことはおさらばする」
「なんだよ、それ」
信光が肩に乗った腕を払い落とし、途方に暮れたようにつぶやく。一眞は上目づかいに伊之介を見ながら言った。
「こいつは前々から、いずれ山を下りて戦に行くって話をしてたんだ」
「ほんとか。下界で戦が始まるのか」
「ああ。郷里にいる幼なじみが知らせてくれた。もう、あと一歩って雰囲気らしい。出遅れたくないから、今のうちに下りて準備にかかるつもりだ」
伊之介は左手に右拳を打ちつけ、ぱしっと乾いた音を響かせた。
「早いとこ戦陣で暴れたいぜ」
「みんな、ばらばらになっちまうんだな」
信光が妙にしんみりと言い、ぐるりと部屋の中を見回した。
「ここでおまえらと馬鹿なこと言い合ったり、一緒に修行したりするのは楽しかったよ」
「おれもさ。でも人生一度きりなんだし、自分がこうと思う道を行かなきゃな」
そう言って、伊之介はほろ苦く笑った。
陽月六日。
昼餉の前の休憩時間になると、一眞はほかの修行仲間たちと共に、山を下りる伊之介を七ノ上弦道の山門まで見送りに行った。
万事衣を脱ぎ、小袖に袴の見慣れない姿になった伊之介は、早くも下界の空気を漂わせているように見える。
みんなとひととおり別れの挨拶を交わしたあと、彼は一眞の傍に来て訊いた。
「やっぱり一緒に来ないのか?」
「行かない」素っ気なく答える。「なんで行くと思うんだよ」
「おまえには御山は窮屈そうだからさ。ここでうまくやっていくために、あっちを誤魔化したりこっちを騙したり、いろいろ苦労してるんじゃないかと思ってな。下界ならもっと気楽にやれるぞ」
冗談半分の軽い口調だったが、一眞は胸がざわつくのを感じた。
伊之介も玖実のように、何か感づいているのだろうか。
彼はいつも人をよく見ている。物事の本質を見抜く鋭い目を持っている。利達や菊をおれが殺したとは思わないまでも、何らかの形でかかわっているのでは——と疑っていてもおかしくはない。
「よせよ、そんな目で睨むなって」
苦笑しながら指摘され、警戒の眼差しを向けていたことに気づいた一眞は、少し居心地の悪さを感じながら目を伏せた。
「さっさと行っちまえよ」
伊之介はにやりと笑い、大きな手で無造作に一眞の頭をなでた。
「あんまり、やんちゃするなよ」
優しい口調で、からかいとも忠告ともとれる言葉をかけると、彼は振り分け荷物を肩に放り上げて背を向けた。
「元気でな」「気をつけて行け」などと口々に言っている見送りの者たちに片手を上げて応え、振り向きもせずに七ノ門をくぐって参道を下っていく。その大柄な体が参拝者の行き来にまぎれて見えなくなってから、一眞は上弦道をぶらぶら歩いて堂舎へ戻った。
昼餉をすませ、眠気と戦いながら学堂で教練を受け、千手景英の午後の調練に出てから当番をこなす。人の出入りがあろうとなかろうと、行堂の課業はいつも同じ繰り返しだ。
宵の祈唱を終え、味気ない夕餉をかき込んだあと自室へ戻った一眞は、入口の引き戸を開けたところでぎくりとして足を止めた。
誰もいない空っぽの部屋。
きちんと整えられた四つの寝台。
そのうちのひとつに近寄って、行灯に火を入れてからどさりと腰を下ろし、彼はぼんやり室内を見回した。
聞こえるはずのない声が聞こえる。
〝長え便所だったな、一眞。たんと出してきたか〟
〝ああ。食ったら出さなきゃな〟
〝いいなあ。おれは一昨日から詰まり気味でさ、どうやってもひねり出せないんだよ〟
〝よせよ信光。さっきの夕飯の味がまだ口に残ってるってのに〟
〝気をつけろ、利達が吐くぞ〟
〝吐かないよ〟
四つの笑い声。
それらがすうっと消えると、入れ替わりに戻って来た静けさが身を押し包むように感じられた。これまで気づきもしなかった、部屋の四隅の闇が濃い。
なんだ。
一眞はいらいらと立ち上がった。
なんだってんだ。
いなくなったやつらのことなんか、こんなふうに思い出して何になる。
さっきつけたばかりの行灯を消しにいくと、寝台のすぐ下で爪先が何かを蹴った。かちりと小さく音を立てて、少し奧のほうへすべっていく。訝しく思いながら屈み込み、手を伸ばして引き寄せてみると、それは一連の祈り珠だった。
黒瑪瑙と上質な虎目石。利達のものだ。
「あるじゃないか……こんなところに」
立ち上がりながら思わずつぶやいた独り言が室内に大きく響き、一眞をわずかにたじろがせた。
これを落としたりしなければ。夜のうちに探しに出たりしなければ。
そうしたら利達は――。
手の中の祈り珠を見下ろしながらしばらく佇んだあと、彼はそれをくず入れに放り込んで行灯を吹き消した。
知るか。もう終わったことだ。
そのまま部屋を出て、廊下を足早に歩いていく。途中ですれ違った誰かが声をかけたようだったが、聞こえなかったふりをしてそのまま宿堂を出た。
夜気は冷たく、空には満月が白々と輝いている。
どこへ行くつもりもなかったが、無意識に足が練兵場へ向かった。温習の時間を、いつも伊之介と稽古に没頭して過ごした場所だ。もう相方はいないが、ひとりでも技を磨くことはできる。
カラマツの林道を抜けて洞窟へ入っていくと、通路の奧に明かりが見えた。先客がいるようだ。
大広間まで行ってみると、明々と燃える篝火に照らされて千手景英が剣を振っていた。
何度見ても魅了されてしまう、剣舞のような足さばき。鋭くもなめらかに繰り出される斬撃。恐ろしく、美しく、憧れずにはいられない手練の技。
いつだったか、こんなふうにひとりで剣を振るっている彼を、利達と一緒に見たことがあった。目の前にあるのはあの日とほぼ同じ光景だが、あれから自分を取り巻くいろいろなことが変わってしまったように思う。
しかし景英だけは何も変わっていなかった。今も強く、揺るぎなく、美しいままだ。
身じろぎひとつできずに目を凝らしていると、なぜだか胸が詰まるように感じられた。
心が揺れる。乱れる。
ふと気づくと、動きを止めた景英がこちらを見つめていた。
「一眞」
低い声で名を呼ばれ、身の裡にぞくりと震えが走る。
引き込まれるように近づいていき、一眞は半間ほど手前で足を止めた。炎のゆらめきを映す鋭い目をまっすぐに見返しながら、顎を引いて居住まいを正す。
「一手ご指南を願えますか」
「よかろう」
景英は薄く微笑み、刀架から刃引き刀を二本取ってきた。うち一本を横に掴んで差し出す。
黙ってそれを受け取ると、自分でも戸惑うほど大きな安堵感で全身が満たされた。
とことんまでおれとつき合ってくれそうなのは――結局、あんただけらしい。
一眞は唇にちらりとよぎった苦笑を消し、刀を帯に素早く差し込んだ。
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