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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第七章 戦雲急を告ぐ
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八十二 別役国龍康殿・伊都 異界/こちら側

 小雨がぱらつく薄曇りの空の下、橋の欄干にもたれて待っていたのは鉄次(てつじ)ではなく、すぐ近くの芝居小屋〈三人兄弟座〉に出ている若い役者の音弥(おとや)だった。

 彼はその時演じている役柄の影響で、雰囲気が毎回がらりと変わる。今は女役をやっているのか、枝垂(しだ)れ柳の模様も粋な小袖をぞろりと着流した立ち姿が、はっとするほどなよやかに見えた。

 伊都(いと)はこの青年と顔を合わせるたびに、別人と会っているような錯覚に陥ってしまう。

「音弥さん」

 近づいて声をかけると、彼はこちらを見て薄く微笑んだ。

「あいにくの雨だねえ」物柔らかく言い、片眼を細めて空を見上げる。「傘、持ってこなかったのかい。女の子は体を冷やしちゃいけないよ」

「本降りにはならないって、朝、長五郎(ちょうごろう)ちゃんが言ってたから」

「あいつの天気占いは不思議によく当たるからなあ」

 音弥はくつくつ笑い、伊都のほうへ少し屈み込んだ。

「せっかく来たのに残念だけど、鉄次さんは野暮用が入ったってさ。半刻ほど前におれのとこへ顔出して、明日会おうって言伝(ことづて)を残してったよ」

「そう……なの」

 落胆がつい表情に出てしまう。単に会いたかっただけではなく、今日は鉄次に相談したいことがあったのだ。それを察したように、音弥が言い添える。

「でも、もしどうしても会いたいなら、鉄次さんがいる場所はわかるよ」

「ほんとう?」

 声が弾んだのに気づくと、彼は唇の端をきゅっと吊り上げた。

「そんなに嬉しそうにされると、ちょいと()けちまうなあ」

 からかい口調で言われ、伊都は頬が熱くなるのを感じた。

「違うの。あの――今日は大事な用があったから」

 音弥はにやにやしながら、鉄次は三番町の娼楼(しょうろう)街にいると教えてくれた。娼楼と聞いて伊都がどぎまぎする様子も、彼を大いにおもしろがらせたようだ。

「べつに、まだ昼見世(ひるみせ)も始まらないうちからしけ込んでるわけじゃないよ。前に見世に世話した()から、何か頼みごとで呼び出されたらしい。あの人は色男だし面倒見がいいからねえ、遊里の女たちにやたらともてるんだ」

「わたしが行ったら、鉄次さんの迷惑にならないかしら」

「平気さ」

 彼は気安く請け合い、三番町の北の端にある〈(ひさご)や〉へ行くようにと言った。入口にかかった珠暖簾(たまのれん)と、連子(れんじ)格子にぶら下げた金色の瓢箪(ひょうたん)が目印だという。

 音弥と別れた伊都は、川沿いに少し北上してから五番町に入り、目抜き通りをさらに北へ向かって歩いていった。雨模様でも、このあたりの賑わいは普段となんら変わりない。だが三番町にさしかかると、人影はかなり少なくなったように感じられた。ほとんどの見世はまだ支度中のようで客引きなども出ておらず、どこも戸口はひっそりとしている。

 子供が来るような場所ではないとわかっているので緊張していたが、閑散とした雰囲気のお陰で少し気が楽になった。眠そうな顔でぶらぶら歩いている大人たちも、べつに咎めるような視線を向けてきたりはしない。

 あたりを見回す余裕ができると、道の両側に軒を連ねた大店(おおだな)小店(こだな)を彩る強い色彩が目に飛び込んできた。大戸口の太柱も(あか)。桟の隙間が広めの窓格子も朱。小屋根がついた掛行灯(かけあんどん)も朱。何もかもが紅殻(べんがら)塗りで、べっとり朱い。軒下には色鮮やかな提灯がずらりと吊られており、玄関の唐破風(からはふ)脇を豪勢な造花で飾っている見世もあった。派手さが売りの龍康殿(りゅうこうでん)でも、ここまでけばけばしい見世が集まっているのは、やはりこの三番町ぐらいだろう。

 街全体がかもし出す空気からして、商業街とはまったく異なっているように感じられる。

 教えてもらった〈(ひさご)や〉の目印に気づいたのは、どこか上のほうで三味線の冴えた音がふいに二声鳴った直後だった。はっと見上げる視界を藍色の珠暖簾(たまのれん)が通りすぎ、次いで二階の連子格子から覗く顔が目に止まる。鉄次が朱い格子に背をもたせかけて、肩ごしにこちらを見下ろしていた。

「やっぱりおまえか」その声に迷惑そうな響きはなかったが、わずかに戸惑いが感じられる。「こんなとこへ何しに来たんだ。おれに用かい」

「はい」

 格子の中から嬌声が上がり、伊都の返事をかき消した。

「〝こんなとこ〟たァご挨拶だよう」

()()見取(みど)りはべらしといて、外の女にまで粉かけなくたっていいじゃないか」

 背後でいろいろ言っているのを無視して、鉄次は中へ入るよう目顔で促した。彼が下りてきてくれるものと思っていた伊都は少し驚いたが、せっかく来たのにここで引き返すわけにもいかない。

 気後れを感じながら珠暖簾をくぐって見世へ入ると、帳場に座っていた六十代ぐらいの痩せた老婆にじろりと睨まれた。

「なんだい、身売りかえ」

 違います、と言おうとしたところへ、また上から声が降ってきた。

「そいつはうちの者だ」鉄次が二階の高欄から覗いている。その左右を若い女性ふたりが取り巻いていた。「話をするんで、ちょいと部屋を借りるぜ」

「外から女ァ連れ込まずに、金払ってうちの()と遊びな」

 老婆は文句を垂れながらも、伊都に向かって「上がれ」というように顎をしゃくった。ぶっきらぼうすぎる応対に身の縮む思いがしたが、客ではないのだから文句を言える筋合いではない。

 履き物を脱ぎ、おそるおそる階段を上っていくと、鉄次は鷹揚に微笑みながら彼女を部屋へ招き入れた。廊下に出ていたふたりだけかと思えば、八畳ほどの室内にはさらに四人の女性が溜まっている。半数は湯上がりのような洗い髪に浴衣姿、残りの半数は派手な色柄のしどけない襦袢(じゅばん)姿だった。

 畳の上には絵札が散らばっており、どことなく見覚えのある五合徳利と一緒に盃や茶碗が置かれている。みんなで酒を飲みながら、何か遊びに興じていたようだ。

 手に持ったままだった三味線を抱えて鉄次が腰を下ろすと、女たちの何人かが待ちかねたようにしなだれかかった。肩にもたれる者もいれば、肘の上まで露わな腕をうしろから回してからみつく者もいる。彼はそれを気にする様子もなく、向かい合って正座した伊都に目をやった。

音弥(おとや)にここを聞いたのかい」

「はい」

「なあんだ」腕をからめた女が、無遠慮な大声で言った。「どこの女郎(めろう)が乗り込んで来たかと思や、ちぃちゃい嬢ちゃんかい」

「でもご覧な、すごい別嬪だよゥ」

「こんなおぼこい()まで惑わすたあ、悪い男じゃのォ鉄次さん」

「いくら口説いても落ちねえと思ったら、もしや、あんた小さい()でなきゃあ()たんてヒトかえ」

 女たちが一斉に、きゃあきゃあと黄色い声を張り上げた。伊都は目を丸くして、ただ茫然と見つめるのみだ。まるで異界にでも迷い込んだようで、彼女らが話していることは意味が半分もわからない。

 鉄次が苦笑して、そっと体をゆすった。

「さあ、そのぐらいにして、ぼちぼち顔つくりにいきな」

「ホラみんな立った」桃色の襦袢を着た美人がいち早く腰を上げ、手をふたつ打って仲間に退出を促す。「鉄次さんの邪魔すんじゃあないよ」

 くすくす笑っている女たちを追い出したあと、彼女は敷居際に少し居残って鉄次に艶然と微笑みかけた。

「わざわざ来てくれてありがとねえ。お酒も美味しかったですよう」

「さっきの件は、何かわかったら伝える」

「あい」

 彼女が出て襖を閉めると、鉄次は三味線を脇に置いて座り直した。楽器を抱えていたのは、女性たちに膝に乗られないためだったのかもしれない。

 今日の彼は生成(きな)り地に桔梗(ききょう)色と黒橡(くろつるばみ)色の縞模様が入った、伊都が初めて見る小袖を着ている。

「よろけ縞、とっても素敵」

 思わず言ったのは、それが本当によく似合っていたからだった。着道楽とでもいうのか、彼はいつも自分を引き立てる色柄のものをさり気なく着こなしていて趣味がいいと思う。

「古着屋の掘り出し物だよ」そう言って、鉄次は茶碗に残っていた酒をするりと干した。「明日まで待てねえ用事だったのかい」

「ごめんなさい、押しかけてきたりして」

 あわてて謝ると、彼は小さく笑みをもらした。

「かまわねえさ。知り合いの相談ごとを聞いてから、暇な連中の札遊びにちょいとつき合ってやってただけだ。だが昼間はいいが、日が暮れたらこの界隈には近づくなよ」

「気をつけます」

「それで」

 用件はなんだと訊かれ、伊都は今朝がた(ねぐら)のひとつを見回った時のことを話した。

為一(ためいち)さんから、気になることを聞きました。近ごろ奈実(なみ)ちゃんの様子がおかしいそうなんです。塒に帰らない日がたまにあって、茶屋のお勤めにも出ていないって」

「勤めをさぼってるのか」

「はい。それに、お見世(みせ)の売り上げを少しずつ盗んでいたらしくて……昨日、茶屋のご主人が訪ねて来て、すごく怒っていたって言っていました」

「そりゃそうだろうな」

 鉄次は低くつぶやくと、片手で口元を覆った。人差し指の先で鼻尖をこすり、考え深げに目を伏せる。きっと心配しているのだと思いながら、伊都はもうひとつ悪い知らせを伝えるために口を開いた。

「男の人が、あの――あんまり感じのよくない人が、このごろ奈実ちゃんとよく一緒にいるみたいです」

「為は、そいつの名を言ってたかい」

博打(ばくち)場でよく見かける、慎吾(しんご)という若い人だとか」

 名前を聞いたとたん、鉄次の眉がぴくりと動いた。表情はほとんど変わらないものの、少し張り詰めた空気を漂わせている。彼もその男を知っているが、あまりいい印象は持っていないのだろう。

 伊都は奈実のことがますます気がかりになり、思わず前に身を乗り出した。

「どうしましょう」

 鉄次の眉間がふっとゆるみ、きょとんとした顔になる。

「どうしましょう、って何をだい」

 訊き返されるとは思わず、伊都はちょっと言葉に詰まってしまった。日ごろ察しのいい彼に馴染んでいるので、こんな反応をされると困惑せずにはいられない。

「何かしなきゃ……だって、奈実ちゃんのこと――ほっとけないでしょう?」

 おずおず訊くと、鉄次はかすかに吐息をもらして胡座(あぐら)を崩し、片膝を立てた。その膝頭に肘を置き、頬杖をつく。

「奈実のこたァ、もういい」

 それはこれまでに聞いたことのない、ひどく冷淡な声だった。

「もういい?」

 鸚鵡(おうむ)返しにしながら、伊都は胸がどきどきするのを感じた。彼が突然、誰か見知らぬ男に変わってしまったように思える。

「もういいってのは――」鉄次は物憂げな目をして、噛んで含めるように言った。「言葉通りの意味さ。今後あいつのことは仲間と思わず、忘れちまっていい。迷惑かけた茶屋の旦那には、おれが話をつけとくよ」

 ちゃんと耳には届いていたが、聞いた内容を呑み込むのには時間がかかった。小骨が刺さった時のような感覚があり、喉のくぼみのあたりで(つか)えている気がする。

 奈実ちゃんを見放すって……言っているの? ううん、鉄次さんがそんなことを言うはずない。

 伊都は心の中で自問自答し、聞き誤ったに違いない言葉をもう一度ちゃんと聞こうと、あらためて鉄次をまっすぐに見た。だが真顔で見つめ返され、外へ出かけた声が舌先に引っかかってしまう。

「伊都」

 鉄次はゆっくりと、ことさら穏やかに話した。

「あいつはこれまでにも、何度か男でしくじってるんだ。たちの悪い野郎に入れ上げて、言われるままに馬鹿やって、退()()きならなくなると泣きついてくる。次に下手を打ったら知らねえぞ、と前の時におれは言った。もう、ここいらが見切り時だ」

「これが初めてじゃないから、だからそんなに――」

 怒っているの、と訊きかけて、はたと口をつぐむ。

 違う、怒ってるんじゃない。がっかりしているんだ。そう気づき、伊都は首筋のあたりにひやりと冷たいものを感じた。

 怒られるより、嫌われるより、がっかりされるのがいちばんつらい。奈実ちゃんはどうかわからないけど、わたしは鉄次さんにだけはがっかりされたくない。

 もし自分が何か間違いをして、こんなふうに冷たく突き放されることになったら――そう考えただけで、身がすくんでしまうほど恐ろしかった。

 しょげた顔で黙りこくってしまった彼女に、鉄次が気づかうような眼差しを向ける。

「おれは孤児(みなしご)に飯を食わせて寝床を与え、引き替えに少しばかり仕事をさせるが、手元に縛りつけたいわけじゃない。離れたけりゃ、そうしていいと――おまえにも言ったのを覚えてるな? だから奈実が男に惚れて、塒を出ていくのはいっこうにかまわねえ。勤めを辞めたいならそれも自由だ。だが、おれの言いつけに従えないなら、うちの者として扱うことはもうできねえよ」

 離れたくなっても留め立てはしない、そう言われたことはよく覚えている。あの時初めて、彼がただ寛容で親切なだけの人ではなく、冷めた視点を持ち割り切った考え方をする男なのだと知った――はずだった。

 なのにいつも、気づいたら忘れてしまっている。彼ほど優しく、心が広く、頼りがいがあり、傍にいて安心できる人はいないと思い込んでいる。

 彼にも厳しい部分、怖い部分、嫌な部分すらきっとあるに違いないとわかっていながら、できるだけそれを見なくてすむように目を逸らしている。いいところだけを見て、自分も彼にいいところだけを見せようとしている。

 このままでいたら、わたしもいつか奈実ちゃんのように鉄次さんに甘えすぎて、越えてはいけないところを踏み越えてしまうかもしれない。

 漠とした不安に囚われ、それ以上何も言えなくなってしまった伊都は、中途半端な気持ちのまま引き揚げることにした。奈実のことは気になるし、まだ納得したわけではないが、自分に彼を翻意させられるとはとても思えない。

 鉄次は見世の戸口まで彼女を見送りに出て、雨粒を振りまいている灰色の雲を鬱陶しげに見上げた。

「傘、借りてくかい」

 伊都は黙って首を横に振った。

「なら、こいつを被っていきな」

 手ぬぐいを髪に被せてくれた彼の手つきと声があまりに優しかったので、彼女はふいに胸が詰まって目尻に涙がにじむのを感じた。

 泣いちゃ駄目。鋭く自分を叱咤し、()いて顔を上げる。

 だが何か言えば声が震えてしまうとわかっていたので、伊都はぎゅっと唇を引き結んだまま素早く会釈をして、小走りにその場から駆け去った。


 (ねぐら)に戻るまでのあいだ、伊都(いと)は黙々と足を前に運びながらずっと自らを恥じていた。

 奈実(なみ)ちゃんのことが心配で、報告と相談をしに行ったはずなのに……最後には自分のことばかり考えてしまっていた。なんて身勝手なんだろう。

 それに、ちょっと優しくされたからといって泣きそうになるなんて、いったいどうしてしまったの。鉄次(てつじ)さんを守れるよう強くなりたいのに、なんだか出会う前よりも弱くなってしまったみたい。

 もやもやした思いを抱えながら玄関を入った彼女は、土間に見慣れない履き物が揃えてあるのに気づいた。男物の上等な草履だ。

 借りた手ぬぐいを懐へしまいながら自分の部屋へ向かう途中、ふと裏手のほうを覗いてみると、品のいい初老の男性と伊吹(いぶき)が並んで縁側に座っていた。お客がなにやら切々と語るのを、少年は例によって相槌(あいづち)のひとつも打たずにただ黙って聞いている。

 伊吹が龍康殿(りゅうこうでん)に戻って以来、この家にはぽつりぽつりと客が訪れるようになった。みな天門神教(てんもんしんきょう)の信徒で、佐吉(さきち)の言によると伊吹は彼らに〝なぜか〟とても人気があるのだという。伊都もいささか釈然としないが、実際にこうして人が会いに来るのだから、好意を持たれているのは間違いないだろう。

 伊吹は無信心者を信仰に導く伝道の祭宜(さいぎ)なので、信徒相手の説教は本来の仕事とは少し趣が異なっている。だが客たちはそんなことはおかまいなしに訪ねてきて、信仰への迷いを打ち明けたり、家族や親しい人を亡くした悲しみなどを訴えたりしていた。

 仲間とすらあまり話さない彼は、信徒ともほとんど対話をしない。ひととおり話を聞いてから、ぶっきらぼうにひとつふたつ言葉をかけるのがせいぜいだった。だが、客はたいていそれで満足するようだ。

 今日の客も長広舌をふるったあとで言葉少なに何かしら説かれ、大いに感激した様子で彼の手を取ると、ぎゅっと握り締めた。

 人に体を触られるのが苦手な伊吹が、うっと息を呑んで顔をしかめる。だが手を振りほどくことはしなかった。このあたりが、鉄次の言う御山(みやま)での〝精神修養〟のたまものなのかもしれない。

 わたしも話を聞いてもらおうかしら――と、客を見送りに立とうともしない伊吹を見ながら、伊都はふいにそんなことを考えた。信徒でなくても彼は相談に乗ってくれるだろうか。

 そこへ暇そうな佐吉が通りかかった。

「帰ってたのか、伊都」

 大声で言ったので、柱の陰からそっと見ていたことが伊吹にばれてしまった。だが彼は特に反応するでもなく、何もない裏庭に顔を向けたままだ。

 佐吉は廊下をぶらぶら歩いてきて、縁側の伊吹と伊都を交互に見た。

「何やってんの、おまえら」

「わたしはいま帰ったところで、伊吹はお客さんを帰したところ」

「鉄次さんに会ってきたんだろ? それにしちゃ、しょぼくれた顔してるな」

 鉄次の名が出て興味を惹かれたのか、伊吹が肩ごしにこちらを見た。佐吉とふたりでじっと見つめられて、なんとなくいたたまれない気分になる。

「待ち合わせはなくなったけど、大事な話があったから三番町の〈(ひさご)や〉ってお見世(みせ)まで会いにいったの」

「そしたら娼妓(おんな)といちゃついてて、頭にきたのか?」

 すかさずからかう佐吉を、じろりと睨む。

「そんなんじゃない」

「だったら、なんだよ」

 どうしようか少し迷ったあと、伊都は彼らにざっと経緯を打ち明けた。(ねぐら)で聞いた奈実のこと。鉄次が出した結論。それを受け入れがたく感じていること。

 佐吉は少し退屈そうな顔で最後まで聞き、伊都が口をつぐむと生意気に肩をすくめてみせた。

「そりゃあ、しょうがねえや」

 伝法(でんぼう)な口調で言って、頭をがりがり()く。

「鉄次さんの言う通り、奈実のことはほっときな」

 (しか)り、と伊吹もうなずいたようだった。実際は身じろぎすらしていないが、全面的に佐吉に同意する気配を漂わせている。

「ほっとくって……それでいいの?」

 仲間なのに、と伊都が口の中でつぶやくと、佐吉は面倒くさそうにため息をついた。

「あのなあ――」腕組みをして、肩で柱にもたれかかる。「鉄次さんは誰かが言うこときかずに馬鹿やっても、たいてい二度までは許すよ。孤児(みなしご)を拾う時も、一度目で乗ってこなかったやつにはもう一度声をかける。でも三度目はないんだ」

 どきりとした。

 山中の茶屋で、麓の宿場町で、伊都も鉄次に二度誘われた。二度目で彼について行こうと心を決めたが、あの時もし断っていたら三度目はなかったのだ――と思うと、慄然とせずにはいられない。

「奈実は愛嬌があって人あしらいがうまくて、おまけに耳も早いって便利なやつだから可愛がられてたけど、男がらみで何度もしくじって、これまでに二回、鉄次さんに手前(てめえ)のケツふかせてるんだ。人づきあいでも、金の上でもだいぶ損させてるんだよ。だから、もう見切られて当然なのさ」

「でも、悪い男の人に騙されているのかも」

「騙すような野郎を選ぶのが悪い」

 佐吉はきっぱりと言った。

「あいつの男の好みは、顔がよくて垢抜(あかぬ)けててちょっと悪そうな――つまり鉄次さんだよ。でも、いくら惚れてても本人は手ェ出しちゃくんないから、鉄次さんにどっか似た感じだけど性根はもっとずっと悪いって(ろく)でなしを見つけては引っ付くんだ」

 男女の情の機微は、伊都にはまだよくわからない。好きな人がいて、その人からも好かれていて傍にいられるにもかかわらず、似て非なる相手に気持ちを向ける心境は理解できなかった。

「客だ」

 ずっと黙っていた伊吹が、唐突にひとこと言った。

「誰か来たのか」佐吉が玄関のほうを見る。

「また伊吹のお客?」

「なら、おれは留守だ」

 応対する気はないらしく、ぷいと顔を背けた彼をその場に残し、伊都は玄関先へ出て行った。そこへちょうど入ってきたのは、上町(かみまち)の塒で今朝会った為一(ためいち)だ。博徒(ばくと)見習いの彼は奈実と同じ十七歳で、仲間内で唯一、正式な鉄次の弟子ということになっている。

「お、いたな」

 伊都を見て、彼はちょっと小狡(こずる)そうな笑みを浮かべた。

「おまえ、奈実のことを気にしてたから、いちおう伝えとこうと思ってさ」

「奈実ちゃんが、どうかしたの?」

「さっき塒に帰ってたんだが、慎吾(しんご)のやつがあとから来て荷物まとめさせてよ、引きずるみてえにしてつれてったぜ」

「どこへだよ」

 伊都について出てきた佐吉が訊く。

「さあな」為一は眉を上げ、とぼけた顔をしてみせた。「慎吾の塒は川向こうだ。その界隈の女郎宿にでも突っ込んで、客を取らせるつもりなんじゃねえか。ああいう手合いに引っかかった女の行く先なんて、たいていそんなとこだろ。どのみち、もうこっちへは戻れねえだろうな」

 賭場(とば)へ出張る途中だという彼が去ったあと、伊都は少しのあいだそのまま立ち尽くしていた。聞いたばかりの言葉が頭の中でぐるぐる回っている。

〝引きずるみてえにして――〟

〝こっちへは戻れねえ――〟

 長く感じる逡巡の一瞬が通り過ぎたあと、彼女は決然として土間へ下りた。

「おい、どこ行く気だよ」警告を発するように、佐吉が鋭く訊く。

「奈実ちゃんを捜しに」

「まさか、あっち界隈へ乗り込んでくつもりか? 川向こうは危ないって、鉄次さんから聞かされてるだろ」

「ちょっとだけでも会えたら、戻るように説得できるかも。無理につれられて行ったなら、帰りたいと思ってるかもしれないでしょう」

「その前に与太連中にとっ捕まって、さんざ(なぶ)られんのが落ちだ」

 声が本気で怒っている。

「おまえも奈実と一緒に売られたいのかよ」

「でも――」振り向くと、いつの間にか伊吹が出てきて佐吉のうしろに立っていた。ふたりとも厳しい顔をしている。「このまま奈実ちゃんが消えてしまったら、きっと鉄次さんが悲しむわ」

 迷いを振り切るように背を向けて歩き出すと、どこか寂しげな佐吉の罵声が響いた。

「馬鹿野郎、どうなっても知らねえぞ!」

※続きのエピソード「八十三 別役国龍康殿・伊都 異界/あちら側」は、本日(8/23)18:00ごろに投稿します。


聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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