八十 立身国七草郷・黒葛真木 闇の奧へ
昨夜から降り続いている雨が、午後になって少し強くなった。居間から望む前栽の緑がほの白く煙って見える。
だが室内に目をやれば、そこには鮮やかな色彩が広がっていた。交差する細流のように重なり合って畳の上を流れているのは、近郷から届けられたばかりの献上反物だ。やや肉厚でありながら柔らかな手触りの綾織物は、立州東部の名産品だという。
真木はその一枚を両手ですくい上げ、うっとりするような光沢のある絹地の熨斗目花色と、表面に浮き出た凛々しい紗綾形文様に見入った。
これは殿によく似合いそう。羽二重の裏をつけて、袷に仕立てよう。
新調の小袖をまとった夫の姿を想像すると、我知らず唇に笑みが浮かんだ。
針仕事は侍女たちに任せることもできるが、夫の衣類は可能なかぎり自分で仕立てたいと思っている。前の所領にいたころはそうしていたし、人任せにすることに慣れて、せっかく身につけた技量を鈍らせるのも嫌だった。
それに七草城の麓御殿は、規模のわりに人手が少ない。移封後にかなりの数の奉公人を雇用したが、まだ足りていないのは明らかだった。奧御殿の女手は特に不足気味なので、遠からずまたいくらか増やす算段をしなければならないだろう。
真木はふっと吐息をつき、美しい絹の流れを引き寄せながら丁寧に巻いていった。
仕事には楽しいものと苦手なものがあって、双方は常に隣り合わせている。国主の妻になってからは、苦手な仕事の割合が増えたように感じていた。そして、そちらのほうがより重要である場合が多い。
きっちり巻き収めた反物をひとまとめにして並べたあと、彼女は揺らぐ心をなだめて立ち上がった。
楽しい仕事の時間は終わり。より重要で、苦手で、でも先延ばしにはできない仕事に取りかからなければ。
真木は居間を出ると、子供部屋を覗きにいった。外遊びの好きな息子が雨に降り籠められて退屈しているだろうと思ったが、意外にも貴之は組紐を玩具にして何やら作業に没頭している。
「まあ、紐を結べるようになったの」
驚いて思わず声を上げると、彼は母親を見上げてにっこりした。手にした短い組紐には、いくつも結び目ができている。
傍で見守る津根が、自分が褒められたかのように満足げな微笑みを浮かべた。
「若さまは、お手が器用でいらっしゃいます。結び目を解くのは、わたしよりもお上手なくらいで」
「それはきっと、指先が小さいからね」
真木は息子の横に腰を下ろし、彼の手元を覗き込んだ。一重結びをしたつもりが輪に紐端を通せておらず、ぱらりと解けて怪訝な顔になることもあるものの、二度やれば大方は成功するようだ。頭で理解しているというよりは、手先でこつを掴みかけているのだろう。
「じきに、結べる長さのものは何でも結ぶようになるから大変よ。博武が小さいころそうだったわ」
博武という名前に反応して、貴之がぱっと顔を上げた。
「おいたん?」
息子が次弟の名を知っているとは思わなかったので、真木はまた驚かされた。
「叔父さまのお名前がわかるの?」
「ひろたけ」貴之は真剣な顔で、一文字ずつ慎重に発音した。「いするぎ」
まあ、びっくりだわ。いったい、いつ苗字の石動まで覚えたのだろう。
真木は息子の髪をなで、きらきら輝くその目を見つめた。
「上手に言えましたね」
貴之が得意そうにうなずき、またすぐ紐結びに意識を戻す。何かを習得するまで脇目もふらずに熱中するこの様子もまた、幼いころの博武を思い出させる。
息子が自分の世界に浸りきっているのを見て安心した真木は、そっと津根を促して立ち上がった。乳母とふたりの侍女に取り巻かれている貴之は、母親らが部屋を出て行くことに気づいてもいない。
廊下を少し歩いたあと、彼女は津根を振り返って小声で言った。
「これから、ちょっと行くところがあるの。あなただけ、ついてきて」
「外出されるのですか」心配性の侍女頭が不安そうに眉をひそめる。「でしたら護衛の衆を――」
「城の外には出ないから、だいじょうぶよ。大げさにせず、こっそり行ってきたいの。時間を取られただけで、無駄に終わるかもしれないから」
何のことやらわからないながらも津根は承知し、中奥の殿舎へ向かう真木のあとについてきた。目的地は別のところだが、まずは柳浦重益を捜さなければならない。
目当ての人物は殿舎の北の射場に面した道場で、十代の若者たちに槍の稽古をつけていた。十文字槍の使い手として知られる重益は、その厳つい風貌や巨体に似合わぬ優しい気性の持ち主であり、目下からは特に慕われている。
真木が戸口に姿を現すと、彼らはすぐに手を止めて一斉に低頭した。
「重益どの、少しいいですか」意外そうな顔をしている重益に声をかけてから、彼女は神妙に控えている若者たちを見渡した。「みなは、そのままお続けなさい」
真木に続いて廊下へ出た重益は、誠実そうな目でまっすぐに彼女を見た。
「お呼びつけくだされば、こちらからまいりましたものを」
「じつは、あなたにお願いしたいことがあるのです」
「なんなりと、おっしゃってください」
打てば響くように答える彼を、さらに廊下の端のほうへといざなう。
「例の男――」あたりに人がいないのを確かめてから、彼女は少し体を寄せて小声で切り出した。「まだ生きているのでしょう?」
重益は動揺を見せなかったが、その目がわずかに見開かれたのを真木は見逃さなかった。きっと、とんだ厄介ごとを持ち込まれたと思っているだろう。
「わたしが口を出すようなことではないのはわかっています。でも、どうか教えてください」
穏やかに頼むと、重益は困ったように眉尻を下げた。
「御屋形さまは、奥方さまのお耳に入れたくはないと思っておいででしょう」
「だから殿ではなく、あなたに訊くのです。あれからもう半月経ちますが、何か有益なことを聞き出せましたか」
「いえ」
重益はがっしりした肩をすぼめて、小さくため息をついた。
「驚くほどしぶとい男で、いくら責めてもいっこうに口を割りません。ただひたすら〝相惚れの末に起きたこと〟〝抑えきれぬ恋情ゆえ〟と嘯くばかりで」
相惚れですって? なにを馬鹿なことを。
城主の奥方に狼藉を働いたとして捕らえられた忠長が、責問にかけられながらもまだ勝手な熱を吹いていると知って、真木は胸がむかむかするのを感じた。だが個人的な腹立ちよりも、今は優先すべきことがある。
「湊での襲撃については何か話していますか。彼は企みに加わっていたの?」
「無関係、の一点張りです。おそらくあの男は、先の襲撃を行った連中と同様、何ひとつ確かなことを明かさぬまま牢死する心づもりなのでしょう」
「そうさせてはならないわ」
真木はつぶやき、決然と重益を見上げた。
「わたしを地下牢へ連れて行ってください」
背後で津根が息を呑んだ気配がした。だが敢えて黙殺する。
「本当にそれほど想っているというなら、わたしには油断して何か漏らすかもしれません」
「めっそうもない」
重益の表情は強張り、ひそめられた眉の下で双眸が厳しい光を帯びた。
「あんなところへ、奥方さまをお連れすることなどできません」
「案内して、ただ傍にいてくれるだけでいいの。あなたに迷惑はかからないようにしますから」
「迷惑など、いくらでもかけてくださってかまいません」彼は噛んで含めるように言った。「そういうことではなく、女人には耐えがたいほど不快な場所なのです。あの男もさんざん責め問いにかけたあとで、もはや――目を覆うような有り様ですから」
地下で目の当たりにするであろうものを想像しただけで、全身がぞっと総毛立った。しかし、ここで怯んではいられない。
「今回の件と湊での襲撃は、まったくかかわりのないことだとは思えないのです。わたしと貴之が狙われたのはなぜなのか、誰がそれを仕組んだのか、あの男がもし知っているのなら絶対に聞き出さねばなりません」
そう、彼の命が尽きてしまう前に。
地下牢への入口は、真木が塩蔵として認識している土蔵の中にあった。
中奥の殿舎から少し離れ、味噌醤油蔵や酒蔵と並んで建つそれは切妻屋根を載せた二階建てで、見るからに堅牢そのものだ。厚く塗られた漆喰の大扉、樫の板戸、格子戸が三重になっており、一番外の扉には海老錠をかける金具がついている。
中は二間に仕切られ、広い西側の区画が塩の貯蔵場所として使われていた。東の区画には二階へ上がる階段があり、その奧に見える床には縦横三尺ほどの四角い切れ目が入っている。地下へ下りる扉のようだ。
階段部屋にいたふたりの番士は、城主の奥方の突然の来訪に驚きを隠せない様子だった。
「下りたい」
柳浦重益が告げると、目尻の垂れた温厚そうな番士が当惑の表情を浮かべた。
「皆さまご一緒に? ご婦人がたが足を運ばれるような場所では……」
「承知の上で、それでもなお地下へ行きたいのです」
真木は静かに言って、目顔で扉を開けるよう促した。番士たちが顔を見合わせ、しかしすぐに戸惑いを呑み込んで、下命に従うべく扉へ向かう。
板戸を引き開けた下には頑丈そうな鉄格子があり、番士はふたりがかりでそれを持ち上げて太い突っ支いを噛ませた。
「暗いので、お気をつけください」
手燭を受け取った重益が先に立ち、狭い石段を下りる真木の足元を照らした。下りきった先の通路にも、ところどころに小さな灯火がゆらめいているのが見えたが、その光は漆を流したような周囲の闇にほとんど吸い込まれてしまっている。
石造りの通路には腐った食物や人間の饐えた体臭、糞尿のにおいなどが入り混じった汚臭が漂っており、先へ進むにつれてそれがますます濃くなっていった。薫物の芳香が染みた手ぬぐいを鼻に当てても、吐き気をもよおすような悪臭を遮ることはできない。
津根は今にも気絶しそうな様子をしており、真木の背中に半ばしがみついてどうにか歩いている。
「津根」
振り向いて声をかけ、真木は彼女の肩をそっと抱いた。
「ごめんなさい、こんなところへ連れてきて」
顔を近づけて低く囁きかける。
「でも、わたしも怖いから……怖くてたまらないから、勇気を出せるよう、あなたに傍にいて欲しいの」
気弱で怖がりなわたしのことを、誰よりもよく知っている人だから。わたしの弱さをいつも許して、決して責めずにいてくれるから。
言葉にはしなかったが、津根は昔からそうだったように、今も真木の思いを汲み取ってくれた。
「お、お任せください」
彼女はにわかに背筋を伸ばし、自らを鼓舞するように胸を張った。
「ずっと、おそばにおりますからご安心を」
「嫌なものを見たくなければ、少し離れていてかまわないのよ。でも、わたしから見えるところにいてね」
「これでも、若いころは陣中で働いたこともあるのですよ。負傷兵の世話をしたり、敵将の首を洗ったり。ですから、少々のことに怖じ気づいたりなどいたしません」
強気なことを言っているが、声は弱々しく震えている。真木は苦笑して彼女の手を握り、肩を寄せ合いながら先へ進んだ。
地下は驚くほど静かで、空気はどんより重く生温かい。石を敷いた床や壁に、三人の足音だけがかすかに谺している。
角をふたつ曲がった先で通路はやや広くなり、両側の壁に穿たれた穴蔵のような獄が現れた。幅も高さも四尺程度しかなく、中に入れられたら最後、大人が体を伸ばせる余地はまったくなさそうだ。
格子戸の向こうに忠長の姿があるかと目を凝らしたが、六つある獄はどれも空いているようだった。だが、それらの中にうずくまる影が見える気がする。石の床に力なく横たわって怨嗟の声をもらしていた、幾多の獄囚たちの思いが残って黒く凝り、闇に蠢いているかのようだ。
真木は小さく身震いして、少し足を速めた。重益の背中に追いつき、声をひそめて問いかける。
「あの男はどこに?」
「おそらく、この先の部屋に。そこで責問にかけられているのだと思います」
では、今まさに拷問をしているところへ踏み入ることになるのね。
真木は一瞬、自分が泣きたいのか笑いたいのかわからなくなった。だがここまで来て、引き返すわけにはいかない。目的を果たすまで、断じて逃げるつもりはない。
「では、その部屋へ行きましょう」
彼女がきっぱり言うと、重益はその目に驚きと賞賛の色を表し、がっしりした顎を引いて短くうなずいた。
「こちらです」
息苦しいほどの闇の中をこわごわ進み、また角をひとつ曲がると急に広い部屋へ出た。今までいた通路に比べると、三倍ほども天井が高い。入口と奧の二か所で篝火が焚かれているが、室内は薄暗かった。それでも木製の磔柱や首枷、鉄の棘を植えた戸板、低い台の上に並べられた錐や鋏といった、責問に使われるらしい禍々しい器具や道具の数々は見て取ることができる。
そこはこれまで歩いてきたどの場所よりも暑く、不潔なにおいがして、床は気味悪く濡れていた。灰色の石壁には、ところどころにどす黒い斑模様が描かれている。
あれは飛び散った血の跡? それとも何かほかのもの?
入口の脇には番士がふたり立っており、部屋の奥には樽に腰かけて煙草をふかしている男がひとりいた。少し猫背気味の五十男で、鳥の巣のようなもじゃもじゃ頭は、もう何年も洗っていないように見える。
獄司と思われるその男は、ふいに現れた身形のよい三人に気づくとあわてて立ち上がり、鼠のようにこそこそと壁際へ身を引いた。
重益が歩み寄りながら問いかける。
「何か喋ったか」
「いえ」獄司は床に視線を落としたまま、喉に絡むような声で答えた。「同じ戯言を繰り返すばかりで」
真木は篝火の横に津根を残し、ひとりで重益のいるところまで歩いた。
獄司が張りついている壁のすぐ脇に、木挽き台のような形をしたものが置かれている。近づいてよく見ると、その上に忠長がうつ伏せで縛られていた。
胸から鼠蹊部までは細長い上板に載っており、両側に力なく垂れた四肢は、八の字に開いた四本の脚に荒縄でくくりつけられている。頭部は上板の先端からだらりと落ちて、乱れた髪が顔を覆い隠していた。
汚い褌しか身につけておらず、見る影もないほど肉の落ちた体や、張りを失った肌を覆い尽くす傷と痣がまざまざと見て取れる。
真木は鋭く息を呑み、思わず一歩後ずさった。そんな彼女を重益が振り向き、気づかわしげな表情を浮かべる。
「奥方さま、ご無理をなさらずとも――」
「心配いりません」
こみ上げる嫌悪感をぐっと堪えて、彼女は再び木挽き台に近づいた。忠長は完全に脱力したまま、ぴくりとも動かない。
「生きているのですか」
問いかけると、獄司は恭しく低頭した。
「はい、まだ息はございます。先ほどまで喚いておりましたが、背を六か所ばかり抉って塩を擦ったところで喪心いたしました」
陰惨な言葉を流れるような調子で語ったあと、彼はさらに詳細な説明を加えた。
「釣り、水、燻し、笞打ち、石抱きといった常套の責め技はすべて試しましたが、効き目がはかばかしくありませんでしたので、ただいまは肉を寸刻みにしております」
聞いているだけで血の気が引き、頭がくらくらした。日ごろ平穏な暮らしを営んでいる御殿の地下、自分や息子のすぐ足下でこんなことが行われているなど、とても現実のこととは思えない。
「彼を起こして、口がきけるようになさい――あまり乱暴にはしすぎぬように。そして、しばらく離れていて」
獄司は命じられたことを速やかに実行した。忠長の髪を掴んで頭を持ち上げ、顔に桶一杯の水を浴びせる。半覚醒状態になったところで、その頬を左右二度ずつ平手で張った。
「そら、起きろ」
忠長が腫れぼったい目を大儀そうに開けると、彼はその口に竹筒の先端をあてがった。
「飲め」
筒の中身を注ぎ込まれた忠長が、ひと口飲み込んだとたんに激しく咽せる。彼が咳と共にまき散らした唾から、ぷんと酒精のにおいが立ち上った。強い酒を飲まされたらしい。
獄司は彼が完全に目覚めたのを確認すると、腰を低く屈めて霧が漂い去るようにその場を離れた。重益も遠慮がちに数歩退いて、木挽き台の傍を空ける。
真木は意を決して、ぼろ切れのようになった男に近寄った。
ひどいにおいがしている。それは汚れ尽くした体のにおいであり、腐りかけている傷のにおいであり、遠からず彼を包むであろう冷たい屍衣のにおいだった。
「こ……のような……」
消え入りそうなかすれ声で、忠長がつぶやく。
「無様な……姿――さらし……面目……」
「水が欲しいですか」
言葉を遮って問いかけると、彼はうなだれたままの頭をわずかに動かした。
「お差し支え……くば」
真木が近くにあった樽の水を汲んで柄杓で与えると、彼は漂流した者のように夢中で飲み干した。さらにもう一杯、ほとんど息も継がずに胃の腑に収め、ふーっと大きく吐息をもらす。
次に出した声はやや潤いを取り戻し、口調もかなりなめらかになっていた。
「きっと、おいでくださると……信じておりました」
「そう?」真木は彼の頭元に立ち、水を滴らせている乱れ髪を冷たく見下ろした。「わたしが何のために来たと思っているのですか」
「別れを惜しむため」
忠長は、裸で木挽き台に括られている男とは思えない、もの柔らかな調子で言った。
「愛ゆえに」
「あなたは馬鹿なの」
真木は何の感情も表さず、淡々と言った。
「それとも狂っているのですか」
「狂っております。お美しい――あなたへの愛に」
「いいえ、あなたはわたしを愛していない。わたしも、あなたを愛してなどいません。そして、それは互いによくわかっていることなのよ」
今この時だけは、彼女は完全に冷静になっていた。痛めつけられた肉体は目に映っているが、それに心乱されることもない。この期に及んでも妄言を吐こうとする男への憎悪と嫌悪が、生来の気弱さや同情心を凌駕していた。
「そんな埒もないことを言い続けて、このまま死ぬつもりなのですか。そこまでして何を守ろうとしているの? あなたにそれほどの犠牲を強いた者が誰で、黒葛家に対してどんな企みがめぐらされているのか、知っていることを今この場ですべてわたしに話しなさい。そうすれば、これ以上苦しみを長引かせることのないよう計らってあげましょう」
哀れっぽさも甘い言葉もまったく通用しないと悟った忠長は、さもがっかりしたように深いため息をついた。
「若く柔弱で、御しやすい女かと思えば――」低い声で、独り言のようにつぶやく。「雌虎のように峻烈だ」
「名家の妻とはこういうものです」
「お話しすることなど、何もございません。あなたが聞きたいと思われるようなことは」
「湊で襲撃された際、あなたと〈西之屋〉清兵衛はわたしと息子の命を救ってくれました。恩人だと感謝していたけれど、あれもじつは筋書き通りで、元から企みに荷担していたの?」
「企みなど、与り知らぬこと」
「襲撃者の仲間だったのでしょう」
「断じて」
「あなたがわたしに語ったこと――故郷の窮状や妻子のこと、あれもすべて作り事だったのですか」
初めて忠長が言葉に詰まった。
「涙を誘うような嘘を並べて同情させ、わたしを欺いて懐へ入り込もうとしたのですね」
「……違います」
絞り出すような声で言い、彼は木挽き台の上でわずかに身じろぎした。
「すべてが作り事だったわけではありません。法元国がここ何年も、奇禍に見舞われ続けているのは事実です。飢える妻子も――おりました、たしかに」
妻子のことを過去形で語り、忠長は疲れたようにひと息ついた。
「しかし、そのことを奥方さまにお話しするのはやめておきましょう。聞かなければよかったと、きっと思われるでしょうから」
「事実であれば、どんな話でもわたしは聞きます」
昂然と言った真木を忠長は片眼でちらりと見て、また力なく首をうなだれた。
「法州で仕えていた家が没落したのが、すべての始まりでした。再仕官の目処がなかなか立たず……わたしは妻の両親が遺した土地で、作物などを育ててみようと思ったのです。しかし武家の流儀にこだわるわたしは百姓たちの集落になかなか馴染めず、畑の仕事にも慣れることができませんでした。そうしているうちに冷害や旱魃、噴火、洪水といった災害が矢継ぎ早に起こり、とっくに蓄えが底を突いていた我が家のみならず、領内の者ことごとくみな飢餓に苦しむ有り様となったのです」
感情を抑え、落ち着いて話しているが、彼の声には自嘲するような響きがかすかに混じっていた。
「もっと早く家族の元を離れて、出稼ぎにでも行くべきだったのでしょう。でも、わたしは侍に戻る望みを捨てきれず、百姓や商人に使われるのは身を堕とすことだと考えていたのです。そんなつまらない矜持にしがみついているうちに――下の娘が飢え衰えて死にました。それからほどなくして、上の娘が姿を消しました。一晩じゅう必死にあたりを捜し回り、明け方近くになってとある家を訪ねたわたしは、そこに住む独り者の男が鍋で肉を煮ている横に、見覚えのある着物が落ちているのを見つけたのです。血にまみれて」
真木は怖気を振るい、口の中に苦い汁がこみ上げてくるのを感じたが、呻き声ひとつもらさぬように厳然と己を制した。ここで弱さを見せてはならない。
「わたしは逆上して男を打ち殺し、家に火をかけました。絶望していましたが、どこかで吹っ切れたようにも感じていました。だから、すぐさま我が家にとって返したのです。妻と最後に残った息子を連れて、どこか遠くへ――別の国へでも流れていって、そこで一からやり直そうと思いました。しかし家に戻ると、妻は梁に帯を掛けて首を吊っており、生後半年あまりの息子はその足の下で、濡れ手ぬぐいを顔に当てられて息絶えていました」
忠長は少し言葉を切り、頭をぐらりと揺らした。
「その足で村を出たあと三月ばかり放浪し、たまたま行き着いた郷で傭兵座の一員となりました。そして、わたしは知ったのです」
彼は首にぐっと力を入れて顔を起こし、真木を上目づかいに見上げた。その口元は皮肉な笑みに歪んでいる。
「妻も子供も、守るべき家も矜持も何もないというのが、どれほど自由で気楽で素晴らしいかを」
自分の言葉が真木の胸にどんな思いを呼び起こしたのか、それを知ろうとするように、彼は苦しい体勢のままじっと彼女を見つめ続けた。
「それからはもう、何かにこだわったりするような生真面目な生き方はやめることにして、ただ楽しみだけを追い求めるようになりました。金さえ儲かるなら何でも、時には人も殺めもし、手当たり次第に女を抱いて――これでもわたしは、女を喜ばせるのはそこそこうまいのですよ、奥方さま。一度だけでも、試してごらんになるべきでした」
真木は彼の喉に掴みかかって絞め上げたいと思ったが、怒ったところを見せて悦に入らせたくはなかった。
「それでは、誰かに高額な報酬でも約束されて、湊での襲撃に加わったのですか」
期待した反応が得られなかったことに落胆したように、忠長はまたがくりと首を落とした。
「違います。先ほども申し上げた通り、わたしはあの襲撃については何も存じません。船の外へ出て行ったのは雇い主を守るため、そしてあの連中と戦ったのは真実、あなたを守るためでした」
「ならば、あの城山でのことは? 愛がどうのという戯言はもう聞きたくありませんよ」
真木はぴしゃりと言い、彼の機先を制した。
「あなたは、わたしに不義の疑いがかかるように仕向けようとした。そうですね」
長い、長いあいだ忠長は黙っていた。言おうかどうしようか、言えば何か得になるだろうかと推し量っているように。
息を殺して待ちながら、真木は胸が早鐘を打つのを感じていた。今、彼に言わせることができなければ、二度と真実を聞く機会は得られないだろう。話すかどうかにかかわらず、彼はまもなくここで死を迎え、たしかなことは何ひとつわからないままになってしまう。
うしろに控えている重益も同じことを考えているようで、緊迫した気配を漂わせている。
やがて忠長がゆっくりと顔を上げ、吐息混じりに「そうです」と認めた。
「湊でのことがあった夜、わたしは主人から褒美といって金子をもらい、城下で派手に遊んでいました。そこへ口入れ屋だという男が現れ、うまい儲け話があると声をかけてきたのです」
真木は思わず身を乗り出し、彼のほうへ屈み込んだ。
「口入れ屋?」
「その男は湊で起きたことも、わたしがあなたをお守りして、いささかご縁ができたこともすべて知っていました。そして、そのご縁を利用して近づき、あなたを籠絡することができれば、しばらく遊んで暮らせるだけの金を出すと。おもしろそうだと思ったのでわたしは引き受け、前金として十金を受け取りました」
ここまで一度も口を差し挟まなかった重益が、その時初めて会話に割って入ってきた。
「その口入れ屋の名は」
「〈桝井屋〉周五郎――と名乗りました。あるいは偽名やもしれませんが」
「城山でのことは、その男からの指示だったのか」
「やり方は、わたしの裁量に任せるとのことでした。そこで、主人が登城する際には必ず同行して顔をつなぎながら機会を見計らい、あの日、よい折りだと思ったので事に及んだのです」
「でも、あんなやり方で、なぜうまくいくと思ったのですか」
真木は、ずっと気になっていたことを訊かずにはいられなかった。
「わたしに拒まれれば、それで終わりなのは目に見えていたでしょう」
「ほんの少しのあいだ、あなたとふたりきりになり、唇のひとつも奪えればよかったのです」
重益が不愉快そうに鼻を鳴らす。
「そんな程度で籠絡したなどとは言えまい」
「それでうまくいくはずでした。見届け役がおりましたから」
真木と重益は、はっとして顔を見合わせた。思ってもみなかった新事実だ。
緊張で喉が張りつくのを感じながら、彼女は努めて静かに問いかけた。
「見届け役とは、誰です」
「わかりませんが、奥方さまにお仕えしている誰かでしょう。わたしが登城しているあいだは必ずその者が近くで様子を窺い、これという行動に出たら即座に現れて騒ぎ立て、不義の現場を目撃した証人になる――そういう筋書きだと聞かされておりました。騒ぎにまぎれてわたしが姿を消せるよう、うまく計らってもくれると。ですが……」
忠長は首を振り、大きく息をついた。
「まさか彼――わたしを杖で打ち倒したあの男も間近に潜んでいたとは、まったく思いもよりませんでした」
口惜しそうだが、同時に少しおもしろがってもいるような口調だ。
「雑なやり方であったことは認めます。ですが、奥方さまがあのように拒まれたのもわたしには想定外で」
真木はかっと頭に血が上ったが、両手をぐっと握り締めて怒りをやり過ごした。
「襲撃にかかわっておらず、口入れ屋とやらにただ雇われただけだったのなら、なぜ早くそう言わなかったのだ」
重益がもっともな問いを投げる。
「半月あまりも責問に耐え続けてまで、守らねばならぬような秘密でもあるまい。さっさと口を割ればよかったものを。このような忍苦に甘んじるなど、快楽のみを追い求めると決めた男にはとうてい似つかわしくない」
最後の言葉にはたっぷりと皮肉がまぶされていた。忠長もそれを感じ取り、ふっと笑みをもらす。
「まったくですな。だがわたしはもう、どうでもいいのですよ。死のうと生きようと、どちらでもかまわない。楽に死ぬのもいいし、苦しんで死ぬのもいい」
狂っている。真木は眉間のあたりがすうっと冷たくなるのを感じながらそう思った。この男は大方はまともだが、どこか途方もなく狂った部分を持っている。故郷で経験したことが彼の心を壊し、こんなふうにしてしまったのだろうか。
忠長は疲れ果てたようにうなだれ、もう顔を上げようとはしなかった。部屋の中は蒸し暑く、傷だらけの背中には汗が浮いているのに、彼の体は小刻みに震えていた。体力、気力ともにそろそろ限界だろう。
真木は一歩うしろに下がり、重益と向き合って小声で言った。
「話の裏を取るあいだは、休ませてやってください。そして、嘘をついていないようだとわかったら――」
「楽に死なせてやります」
重益が後を引き取って言い、視線を合わせて小さくうなずく。そのまま出口へ向かおうとした真木に、ふいに忠長が声をかけた。
「奥方さま」
振り向いた彼女の目に、やつれた顔でこちらを見ている男の虚ろな微笑が映る。
「口入れ屋からの依頼があなたの殺害であったなら、わたしは決して引き受けなかったでしょう。湊で出会った日に、思いがけぬ優しさといたわりを示されて以来、わたしなりにあなたのことをお慕い申しておりました。そしてあなたも、わたしに惹かれておられたと確信しております」
途中までしんみりとした気持ちで聞いていた真木の胸に、にわかに青白い炎が燃え上がった。
「まあ、自惚れたこと」
彼女はゆるみかけた表情を引き締め、突き刺すような眼差しで忠長を見据えた。
「あなたは、わたしの夫――貴昭公をご存じのはず。干戈時代から続く名家黒葛家に産まれ、強く、美しく、聡明で気高く、若くして一国を任されるほどの器量を備えたあのかたに、あなたは何かひとつでもまさっているものがあるのですか」
忠長の目が驚愕に大きく見開かれる。唇がわずかに動いたが、そこからは何の言葉も出て来なかった。
「初めてお目にかかった少女のころから今日この日まで、わたしはあのかた以外の男性に心奪われたことはただの一度もありません」
彼女は豪然と項を反らし、凍りつくような声で言った。
「ほかの男など、必要ないのです」
その言葉を最後に、くるりと背を向ける。
哀れで愚かな男の重い沈黙に送られて、彼女は陰鬱な部屋から足早に立ち去った。
夜になって息子を寝かしつけたあと、疲れを感じながら居間でぼんやりしていた真木のところへ、仕事を終えた貴昭が顔を覗かせた。
「まあ、あなた」
急いで敷物を譲ろうとした彼女を制し、彼は横へ来て気軽に胡座をかいた。
「ずいぶんと、くたびれた顔だ」
そう言って笑う当人は、いつものように晴れやかで活力に満ちている。
「重益から聞いたぞ。今日は獅子奮迅の活躍だったそうだな」
あらためて言われると、急に恥ずかしくなった。
「そんなことは――」口ごもり、落ち着かない気持ちで目を逸らす。「寝酒でも用意させますか」
「いや、いい。そこの急須に茶が残っているなら、おれにも淹れてくれ」
「もう冷めておりますし甘茶ですけど、よろしい?」
夫がうなずき、真木は茶碗に淡い琥珀色をした甘茶を注いだ。普段は抹茶を好むが、特別に疲れた時はこの味が欲しくなる。
貴昭は片手で茶碗を持ってひと口すすり、下唇についた雫を舌先でちろりと舐めた。たまらないほど蠱惑的な仕草だ。
彼は真木の熱っぽい視線に気づくと目元をなごませ、前に身を乗り出した。笑みを含んだ眼差しで妻を釘付けにしながら顔を寄せ、軽くついばむように口づける。
うっとりする一瞬だったが、真木は彼との距離が近づいたのを意識すると、思わず身を固くしてしまった。それに気づいた夫が怪訝な表情をする。
「どうした」
「あの、においが――湯浴みはしましたけど、嫌なにおいがまだ体に残っているかと」
「地下牢に行ったりするからだ」
彼は快活に笑い、真木の襟元にさっと顔を埋めてひと嗅ぎした。
「案ずることはない。よい香りだ」
「よかった」
ほっとして緊張を解いた彼女を、貴昭がいたずらっぽく笑みながら見つめる。
「言葉だけであの男をねじ伏せ、すべて吐かせたそうだな。おまえにそんな才覚があるとは知らなかった」
「うまくいったのはわたしの才覚ではなく、たぶん……あの男の気まぐれのせいです」
真木は忠長の空虚な微笑を思い出しながら言った。
「責問にかけられている時は、話したくないから話さなかった。でもわたしが来たので、まあそろそろ話してもよかろうと、ふとそんな気分になったのでしょう」
「おかしな男だ」
「ええ、ほんとうに」
「ともかく、よくやってくれた」
褒められて嬉しかったが、いくらか戸惑いも感じる。
「殿からは、お叱りを受けるかと思っていました。女が浅知恵で余計なことをしたと」
「見境もなく行ったことなら、叱りもしただろう。だが、おまえは津根と柳浦重益を――心と体を守ってくれる者たちを伴った。向こう見ずに突っ走るのではなく、思慮分別を働かせた証拠だ」
「そうおっしゃっていただけて、ほっとしました」
「おまえが聞き出したことをさっそく調べさせたが、〈桝井屋〉という口入れ屋はたしかに城下にいたことがわかった。だが、十日ほど前に姿を消したらしい」
そうだろうという予感はしていたが、いざ当たってみると気落ちせずにはいられない。
「では結局、今回の件に誰がかかわっているかはわからず仕舞いに?」
「今のところはそうだが、〈桝井屋〉についての証言は集まっているので、今後も探索は続けさせる。奧勤めをしている者たちも、今一度素性を洗い直したほうがいいだろうな」
「はい」
「それはさておき、ひとつ伝えねばならぬことがある」
貴昭は珍しく歯切れの悪い調子で切り出した。
「明日からしばらく、城を空けることになった。守笹貫家との合戦に向け、戦支度の進捗や今後の動きについて兄たちと報告し合うために郡楽へ行ってくる」
真木は心細さを顔に出すまいと思ったが、夫は敏感に感じ取ったようだった。
「こんな時に、ひとり置くのは忍びないが――」
「どうぞ、ご心配なく」
彼に気をつかわせないよう、真木は強いて気楽そうに言った。
「義兄上さまがたとのお話し合いは大切ですもの。わたしも今後はさらに気をつけますし、城内には重益どののような頼りになる人たちもたくさんいますから、だいじょうぶです」
それでもまだ窺うような眼差しを向ける貴昭に、精いっぱい明るく微笑んでみせる。
「今朝がた東部の郷から、とてもよい綾織物が届きましたの。お戻りになられるまでに、袷に仕立てておきますね」
「ではそれを楽しみに、なるべく急いで帰ってこよう」
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