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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第七章 戦雲急を告ぐ
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七十九 王生国天山・石動元博 見えない敵

 負傷からひと月経ち、ようやく(とこ)上げした黒葛(つづら)貴昌(たかまさ)桔流(きりゅう)家屋敷内の〈賞月邸(しょうげつてい)〉へ戻ることとなった。

 大皇妃三廻部(みくるべ)真名(まな)のはからいで、静養中は警備厳重な二の曲輪(くるわ)庭園の〈槻影館(きえいかん)〉に留まっていたが、いつまでもそこに住みついているわけにはいかない。南部衆の預かりを任されている桔流和智(かずとも)も、自身の目の届くところへそろそろ戻らせたがっている。

〈槻影館〉を退去する前日、月下部(かすかべ)知恒(ともつね)との朝稽古のあとで白須(しらす)美緒(みお)に会った元博(もとひろ)は、いつもの握り飯を食べ終えてから彼女に事の次第を語った。

「もう準備はほぼ終わっているので、今日じゅうに身の回りの荷物だけまとめて、明日の朝には館を引き払います」

 美緒が膝の上で風呂敷を畳みながら、どこか浮かない顔をしてつぶやく。

「三の曲輪へ下りてしまわれるのですね……」

 一層下りるだけなので距離的にさほど遠ざかるわけではないが、寂しくなると思っているようだ。そんなふうに感じてもらえるのを嬉しく思いながら、元博は彼女に微笑みかけた。

「でも、わたしはこれまでと変わらず、四日に一度は本曲輪(ほんぐるわ)へやって来ますよ」

「お稽古は続けられるのですか」ぱっと表情が明るくなる。

「ええ。今後はだいぶ早起きしないといけませんし、従者を伴うことになりますが」

 その時、ふたりが座っている石段の上のほうで、ふいに金切り声が響いた。頭に血が上った子供の声だ。

「あれは……亜矢(あや)姫のお声ですか」

 驚いて肩ごしに見やりながら訊くと、美緒は気まずそうな表情で目を伏せた。

「はい、たぶん」

「今朝はずいぶんご機嫌が悪いようですが、何かあったのでしょうか」

「女中が揃えたお召し物か、朝餉がお気に召さなかったのかもしれません」

 そんなことでと言いそうになったが、これまでの亜矢姫の傍若無人ぶりを考えれば、あり得ないことではないと思い直す。

「姫君は、少し(かん)症なご気質でいらっしゃるようですね」

 かなり遠慮して控え目に言ったが、彼の中ではあの少女は、親の手にも余る小暴君という印象が定着している。貴昌が刺客に襲われた舟遊びの宴以来顔を合わせていないが、相も変わらず好き放題に振る舞っているらしい。

「お召し物といえば、なぜ亜矢姫はいつも男の子の格好をなさっているのですか?」

 ふと思いついて、前から疑問に思っていたことを訊いてみる。

「舟遊びの際に拝見した妹姫のほうは、姫君らしい装いをなさっておいででしたが」

「あの……わたし――は姫さまのお世話をしておりませんので、わかりかねます」

 美緒は言葉を濁し、いたたまれない様子でうつむいた。おそらく知ってはいるが、言うには(はばか)られるような事情なのだろう。

 これについては彼女ではなく、もっと明け()けに物を言う人物に訊くほうがよさそうだ。

「つまらないことをお訊きして、すみません。詮索癖はほどほどにしないといけませんね」

 苦笑まじりに謝罪すると、美緒はいつも元博に好ましく感じさせる慎ましやかな微笑みで応えた。


 ひと月ぶりに足を踏み入れた〈賞月邸(しょうげつてい)〉は、元博(もとひろ)には以前にも増して手狭になったように感じられた。仮住まいしていた〈槻影館(きえいかん)〉が広すぎ、それに慣れてしまったせいだろう。

 だが貴昌(たかまさ)は縁側から自分の居間を愛おしむように見回し、ここしばらくはあまり見せることのなかった幸せそうな表情を浮かべた。

「家に帰ったという気がする」

 彼がそんなふうに思い、ここでくつろいだ気持ちになれるのはいいことだ。しかし元博はその言葉を横で聞いていて、錐で刺されたように胸が痛むのを感じた。

 人質という身の上を受け入れ、懸命に馴染もうとしている貴昌がたまらないほどいじらしく、また気の毒に思えてならない。

 そんな元博の心の内を知る由もなく、少年が無邪気に問いかける。

「わたしがここを好きなのは、なぜだと思う?」

「それは――」

 元博が考えていると、貴昌の愛猫白雪(しらゆき)がふらりと現れて、主人の腕に頭をこすりつけた。少し見なかったあいだに、ずいぶん大きくなっている。

「雪がいるから、ですか?」

「はずれ」貴昌はくすっと笑い、細い指で猫の毛を優しく()きながら言った。「みんなを近くに感じられるから好きなんだ。郡楽(ごうら)の御殿や〈槻影館〉は素晴らしいけど大きすぎて、会いたいと思う人にもなかなか会うことができない。でも〈賞月邸〉では元博でも誰でも呼べばすぐに来てくれるし、わたしから会いに行くのも簡単だろう」

 彼はいくつもの殿舎に分かれた広大な御殿で産まれ、母親のぬくもりをほとんど知らずに育った。唯一の肉親である父親は南部の半分を束ねる多忙な太守であり、ひとり息子を愛していても傍にいつもいてやることはできない。

 奧御殿では侍女や大勢の女中に(かしず)かれていたはずだが、そうした者たちにどれほど大切にされても、おそらく彼の心が真に満たされることはなかったのだろう。

「郡楽では、お寂しかったのですか」

 無遠慮すぎるかとも思いながら訊くと、貴昌はこだわりなくうなずいた。

「うん。独りぼっちだと感じていた。母上も兄弟もいないから仕方ないけど。でも、六年子(ろくねんご)を迎えて父上が直祐(なおすけ)傅役(もりやく)につけてくださってからは、ずっとよくなった」

 彼は猫を膝に抱き上げ、横に座る元博を見てにっこりした。

「今は父上とは離れてしまったけど、元博たちがいつも傍にいてくれて、なんだか兄上がたくさんできたみたいで嬉しいんだ。直祐は……内緒だけど、ときどき母上みたいだし、禎貴(さだたか)叔父上は少し父上に似ておられると思う」

 わたしたちを家族のように――元博は感動で胸が熱くなるのを感じながら彼の言葉を噛みしめ、衝動に負けそうな両手を強く握り合わせた。できることなら今、本当の弟のように貴昌を抱きしめてやりたい。だがいくら幼いとはいえ、主人に対してそんな振る舞いが許されるはずもなかった。

 それとも、許されるのだろうか。こんなに幼い今のうちなら。

 迷った末に元博は片手を伸ばし、猫の腰に添わせている貴昌の小さな手をそっと握った。

 少年が少し驚いたように彼を見上げ、目を輝かせて笑みをこぼす。

「ずっと、みんな一緒にいられるといいな」

「もうおまえはいらないとおっしゃるまで、わたしたちはおそばにいますよ」

 貴昌はひどく真剣な表情で、元博の手をぎゅっと握り返した。

「そんなこと、ぜったいに言わない」

「では、ずっと一緒です」


 病み上がりの貴昌(たかまさ)を休ませに来た朴木(ふのき)直祐(なおすけ)と交替したあと、暇になった元博(もとひろ)は〈賞月邸(しょうげつてい)〉の玄関前に出て行った。

 前庭に植えられたキョウチクトウは今が盛りで、濃い桃色の花をたくさんつけている。青空の背景に映える、鮮やかなその色彩に目を奪われていると、主屋のほうから椹木(さわらぎ)彰久(あきひさ)がやって来た。

「元博どの」

 ほがらかに声をかけた彼は、今日は吉祥の地模様を織り出した紫紺の色無地に荒磯模様の半襟を合わせ、いつものように洒落た装いで決めている。

「もう引っ越しは終わりましたか」

「はい、片づきました。身の回りのものを少しと、あちらへ滞在中に増えたものを運び入れるだけでしたから」

 滞在中に増えたものというのは、大皇や大皇妃、有力武家などから次々に届けられた貴昌への見舞い品のことだ。その内容は遊び道具から書物、書画、衣類までと幅広く、傷を癒しているあいだに少年はたいへんな物持ちになってしまった。

 まさか捨てるわけにもいかないので全部持ってきたが、仕舞いきれずに畳の上へはみ出しているような状況だ。

(あるじ)が、今夜は皆さまと夕餉をご一緒いたしたいと」彰久はキョウチクトウの木陰に入りながら、にっこり笑って言った。「貴昌(ぎみ)の快気祝いに、主屋で一席設けさせていただきます」

「それは、お心づかい、かたじけなく存じます」

天山(てんざん)へいらしてから、黒葛(つづら)家の皆さまには何かと不快な出来事続きでしたので、いささかなりともご心労を慰することができればと主は考えております」

「いつごろお伺いしましょうか」

「夕刻になりましたら、わたしがお迎えにまいりますよ」

 その時、ふいに元博は天啓を得た。あのことを訊ねるべき相手がいるとしたら、彰久を置いてほかにはない。

「あの、彰久どの……少々お訊ねしたいことがあるのですが」

 あらたまって切り出すと、彰久は微笑みを頬に留めたまま、怜悧そうな目をきらめかせた。

「わたしにお答えできることでしたら」

「ほんの好奇心からお訊きするだけで、重要なことというわけではないのです」

「どうぞ、なんなりと」

 待ち受けるような表情が、なんとなく(いや)なものを感じさせる。舌なめずりする蛇を前にした蛙は、こんな気分になるのではないだろうか。

「天山へ来て初めてお目にかかった時、わたしは亜矢(あや)姫を若君だと勘違いしました。というのも男の子の格好をなさっていて、話しぶりやお振る舞いも男子そのものだったからです」

 元博は言葉を選びながら慎重に言った。

「妹君の沙弥(さや)姫は女の子らしく装っておいでなのに、なぜ亜矢姫はいつもあのような(なり)をなさっていらっしゃるのでしょう」

 彰久は黙ってじっと聞き、元博が口をつぐむと小さくため息をついた。

「疑問に思われるのも、ごもっともです」

桔流(きりゅう)家は亜矢姫の母君である真名(まな)さまのご実家で、彰久どのは和智(かずとも)公の信頼厚いご家臣ですから、あるいは理由をご存じかと」

「元博どのには、わたしが桔流家の本城である采華(うねはな)城で育てられたことをお話ししたでしょうか」

「いえ……」そのことは桔流家の三男智克(ともかつ)から聞いているが、秘密にすると約束したので、うっかり口を滑らせないようにしなければならない。「今、初めて伺いました」

「わたしの母が、真名さまの母上と少々つながりがあったので、両親を六歳で亡くしたあと、わたしは城へ上がることになりました。そのとき真名さまは十二歳でいらして、実の弟――とはいかぬまでも、ずいぶん可愛がってくださったのですよ」

「そうでしたか」

「畏れ多いことではありますが、大皇妃になられた今も、あのかたはわたしにとっては姉同然。ですから元博どののご想像通り、真名さまのご周辺のことはたいてい把握しています」

 そして彼は、少しばかり昔語りをした。

 三廻部(みくるべ)勝元(かつもと)と真名は二十一歳差の夫婦だが、そもそも勝元が三十八歳になるまで正室を持たなかったのは、二十年近くも傍に〝ご内証(ないしょう)のかた〟――つまり側女(そばめ)を置いていたからだという。

 彼女は身分が卑しく、またふたりのあいだには子ができなかったので、それほど長く仕えながらも正室に格上げされることはついになかった。

「陛下が真名さまを見初められたのは、(いわい)城で催された観桜の宴でのことです。そのとき真名さまは十六歳になられたばかりでした」

 満開の桜も霞むほどにお美しく――と、彰久は夢見るような目をしてつぶやいた。彼の脳裏には今もなお、その日見た彼女の艶姿が焼きついているようだ。

「陛下はひと目で真名さまに心奪われ、数日も置かずに桔流家へ縁組みの申し入れをなさいました」

 しかし真名は、それをあっさりと断った。

 彼女も名家の娘として生まれた以上、家の繁栄のためにいずれ政略結婚をすることは覚悟していたはずだ。だが、どういう理由かはわからないが、大皇に即位して三年の勝元公に嫁ぐことは頑として拒否した。父親の和智もまた、娘が君主の正室に望まれたことをこの上ない栄誉とは思いながらも、どこか気の進まない様子だったという。

 勝元はあきらめず、それから一年近くもしつこく求婚を繰り返していた。だが、いくら手を尽くしても、凍りついたように(かたく)なな真名の心が溶ける様子はない。

「それでとうとう陛下は真名さまを御殿へお呼び出しになり、強引に思いを遂げてしまわれたのです」

 黙って聞き入っていた元博は、突然飛び出したとんでもない話にがんと脳天を打たれ、衝撃のあまり固まってしまった。彰久がそんな私的な事情を知っているのも驚きだし、軽々しく話して聞かせる無神経さもどうかと思う。

 彼の目に批判の色を見たのか、彰久は苦笑いをしてみせた。

「この話は、当時天山にいた者ならみな知っています。陛下がそれきり真名さまをお帰しくださらず、ちょっとした騒ぎになりましたから」

「そう……なのですか」

 元博は乾いて貼りついた舌を無理に動かし、低く相槌を打った。まだ動揺がおさまらず、胸がどきどきしている。

「それで真名さまは、あきらめてお輿入れを?」

「ええ、賢明なかたですから。そうなった以上はぐずぐず言うことはなさらず、桔流家に一度戻して筋を通すよう陛下に要求され、半年かけてお支度を調えられたあと名家の姫君らしく堂々と嫁いで行かれました」

 そんな経緯があったのなら、勝元公に対する彼女のあの冷ややかさ、傍目にもわかる夫婦間の隔たりはやむを得ないことなのかもしれない。

 だが、それと亜矢姫の件とはどうつながるのだろう。

 元博の疑問を感じ取ったように、彰久はちょっと微笑んで言葉を続けた。

「初めてご懐妊なさった時、真名さまは必ず男子を産むと強く思い定めておられました。夫に跡継ぎを与えることは、正室のもっとも大切な務めです。それを果たして、一刻も早く責務から開放されたいとお考えになったのかもしれません」

「でも、お産まれになったのは姫君だった……」

 気が沈むのを感じながらつぶやくと、彰久もまた神妙な面持ちでうなずいた。

「真名さまの落胆ぶりは相当なもので、男子が欲しかった、男の子が産まれていればと、事あるごとに悔やみ言をおっしゃっていました。姫君が物心つくほど大きくなられたあとまでずっと」

 ようやく話がつながった。だが、つながって気持ちがすっきりするような結末ではなかった。

「では亜矢姫は、男子の(なり)をすれば母君が喜ばれると思って――」

「――であろう、というのが大方の見解です。姫君がああいう装いを好むようになられたのは、四歳ぐらいの時からだそうですから」

 しかし大皇妃は、男の装いをして男のように振る舞う娘にほとんど関心を向けていないばかりか、時に疎んじているかのような素振りすら見せている。むしろ赤の他人である貴昌のほうが、よほど多くの愛情と配慮を注がれているのではないだろうか。

 なんという、悲しいすれ違いの母子関係だろう。

 元博には亜矢姫を嫌悪する理由がいくつもあったが、それでも彼女に同情を感じずにはいられなかった。同時に、大皇妃も同じぐらい気の毒だと思う。彼女が娘を愛せないのだとしても、必ずしも責めることはできない気がした。

 だが、なおも疑問は残る。

 大皇妃は亜矢姫をすげなく扱う一方で、妹の沙弥姫には慈母のあたたかな眼差しを向けていた。どちらも自分が産んだ娘なのに、なぜあれほど態度に差が出るのだろう。

 訊いてみたくはあるが、今日はもう充分すぎるほどいろいろ聞いてしまった。まだ(ひる)にもなっていないのに、すでに神経が疲れ果てている。

 元博が沈痛な面持ちで目を伏せると、彰久は少し近寄って、腰を屈めながら顔を覗き込んだ。

「好奇心は満たされましたか?」

 彼は目を輝かせて訊ね、残酷なほど晴れやかな笑顔を見せた。知りたかった以上のことを知ってしまった元博の苦悩を味わい、それに愉悦をおぼえているかのような表情だ。

 その時ふと元博の頭に、彰久がわざと余計なことまで話したのではないかという疑惑が浮かんだ。

 考えてみると、彼はこれほどまでに多くを語る必要などなかった。「亜矢姫は男の子の格好をすれば、母君が喜ばれると思っておいでなのですよ」と、それだけ言えば済んだはずだ。なのに彰久は、外聞を(はばか)るような細かな経緯もすべて話した。部外者が知らなくともいいようなことまで。

 彼は元博が聞きたいことを話したのではない。元博に聞かせたいと思うことを語ったのだ。

 ようやくそれがわかったものの、なぜ聞かせたかったのかについては判然としなかった。ただ、彼が何を心に期しているにせよ、うかうかと巻き込まれないようにしなければならないとは思う。

「お話しくださり、ありがとうございました」

 元博は顔を上げ、努めて冷静に、いくらか堅苦しい調子で礼を述べた。彰久が、ほんのわずかに目を見開く。予想していた反応とは異なっていたのか、当てが外れたと言いたげだ。

 だが彼はすぐに眼差しをやわらげ、鷹揚にうなずいた。

「お役に立ててよかった。では、また夕刻にまいります」

 優雅な足取りで歩き去る彼を、元博はこれまでとは違う警戒心に満ちた目で見送った。


賞月邸(しょうげつてい)〉に戻って三日目の朝、気持ちのいい日差しを浴びながら庭仕事をしていた元博(もとひろ)に、家から出てきた柳浦(なぎうら)重晴(しげはる)が声をかけた。

「元博、ちょっといいか」

「はい」

 立ち上がろうとした彼を、重晴が手で押し留める。

「そのまま続けてくれ。おれも手伝う」

 彼は元博の横にしゃがみ、長く伸びたタチアオイの茎を見上げた。

「なにやってるんだ」

「ハマキムシがついてしまったので、駆除しているんです」元博は重晴に見えるよう、細く巻かれた葉のひとつをつまんで引き寄せた。「こんなふうになっている葉っぱの中には幼虫がいますから、葉ごと摘み取って袋に捨ててください」

「よし」

 ふたりはしばらく黙々と作業を続け、やがて折り曲げっぱなしの膝が軋み始めたころ、重晴は少し顔を傾けて辺りを窺いながら口を開いた。

「夕べ、空閑(くが)の者と久しぶりにつなぎを取って、おれたちが上にいたあいだのことをいろいろ聞いた」

「何か変わったことでも?」

 訊きながら、元博は自分もさり気なく周囲を見回した。広大な〈槻影館(きえいかん)〉には人を近寄らせずに内緒話のできる場所がたくさんあったが、こぢんまりしたこの離れ家で他者の耳と目を完全に排除するのは難しい。

 だが〈賞月邸〉の周囲はひっそりとしていて、柴垣の向こうに広がる庭園にも人影は見えなかった。

「若君を襲った刺客は外部から送り込まれたものと思っていたが、やつの報告を聞いて、少々考えが変わってきたよ」

 重晴が憂鬱そうに言うのを聞いて、元博はにわかに胸がざわめくのを感じた。

「なんでも半月ほど前、刺客のことを調べていて三の曲輪(くるわ)へ入った際に、胡乱(うろん)な男が桔流(きりゅう)邸を訪れるのを見かけたらしい」

「胡乱な?」

「夕闇にまぎれるように裏木戸から邸内へ入り、小半刻もせずに出ていったそうだ。おそらく、文使いか何かだろう」

「誰を訪ねて来たのでしょう」

「それはわからん。が、ちらっとだが男の顔は見たらしい。年は三十そこそこで中肉中背。荒削りな厳つい顔つきで、少し(すがめ)で、左の(びん)のあたりに大きな傷があり、毛がかなり薄くなっていたと」

「特徴がはっきりしていますね」

「おれはそいつを知っている、と思う」

 元博は驚き、重晴をまじまじと見つめた。

「何者ですか」

「南部で――郡楽(ごうら)の城内で、一度見かけたことがあるんだ。顔は覚えていないが、鬢の傷は印象に残っている。長さ三寸ほどもある幅広な古い傷痕で、その周辺には髪の毛がほとんど生えていなかった。あんな目立つ傷持ちは、そうそういるものじゃない」

「郡楽で見かけたということは南部人、しかもご城内にいたなら家中の者ですね」

「誰かの供連れのようだった。一緒にいた主人が誰かは確認し損ねたが、羽織の背に五つ()じ――」

「おい重晴、禎貴(さだたか)さまがお呼びだぞ」

 重晴の言葉尻にかぶさるように、背後で声が響いた。振り返って見れば開け放しの玄関から、真栄城(まえしろ)忠資(ただすけ)が呑気そうな顔を覗かせている。

「わかった」

 肩ごしに答えて膝を伸ばし、重晴は元博の上に屈み込んで囁いた。

「やっぱりここじゃまずいな。ふたりで外へ出る用事を作って、明日にでもどこかでゆっくり話そう。忍びにももう少し調べさせて――いや、当人を直接追及するほうが手っ取り早いか」

 後半はほとんど独り言のようにつぶやき、重晴は(きびす)を返して玄関へ向かった。その途中ではっと足を止め、急いで戻ってくる。

「いかん、これを忘れるところだった」

 そう言って懐から取り出したのは、小さく折り畳まれた紙切れだった。

「忍びの手づるを使って、おまえに届けられたものだ。どんな内容だったか、差し支えなければ明日それも教えてくれ」

 小声で早口に言うと、彼は小走りに離れ家へ戻っていった。廊下で待っていたらしい忠資が、何か言っている声がかすかに聞こえる。

 元博はタチアオイの傍にしゃがんだまま、手の中に残された紙切れを見下ろした。半紙を八つ折りにしたものをさらに縦四つに畳み、結び文の形にしてある。

 慎重な手つきでそれを開いた彼は、懐かしい墨文字を目にして思わず顔をほころばせた。

「兄上……」

 通常の経路ではなく、忍びの手から手へつなぎ渡す方法で手紙を届けてきたのは、次兄の石動(いするぎ)博武(ひろたけ)だった。こちらからは何通も手紙を出しているが、彼から返事が来たのはこれが初めてだ。

 細かい字でびっしり書かれた内容の半分は近況報告だった。それによると博武は天翔(てんしょう)隊に志願し、立州(りっしゅう)北部の山中で今まさに訓練に励んでいるという。彼の口から〈隼人(はやと)〉になりたいなどとは一度も聞いた覚えがないが、こうしてあらためて知らされても、さほど意外には思わなかった。

 利口で器用で、何ごとも決して途中で投げ出さない兄なら、きっと成し遂げられるだろう。

 後半部分に、天山(てんざん)で用心すべき相手は――という書き出しで綴られていたのは、彼への忠告だった。

 親切すぎる者。頼んでもいない世話まで焼いてくれる者。例えば、従来通りの(あらた)めを受ければ弾かれる内容の書状を、検見(けんみ)を通さずに送れるようひそかに計らってくれる者。それでいて何も見返りを求めないような者には要注意だ。敵に見えない者こそが、もっとも危険な敵になり得ると心得ねばならない。そんなふうに彼は書いている。

 読み進めるうちに、元博は背筋がぞっとするのを感じた。

 すべての行間に椹木(さわらぎ)彰久(あきひさ)の名が見え隠れしている気がする。

 彰久について書き送ったことはないはずだが、まるで兄は彼のことを知っていて、〝例えば〟と前置きしながらずばり名指ししているかのようだ。

 ずっと離れた場所にいるのに、兄上は何もかもお見通しなのだろうか――元博は胸の中でつぶやき、さらなる示唆を求めるかのように繰り返し何度も文字を目でたどった。


 その夜、五更を過ぎるころ、元博(もとひろ)由解(ゆげ)宣親(のりちか)が慌ただしく廊下を駆けてきて「起きろ!」と叫んだ声に眠りを破られた。

 彼と共に貴昌(たかまさ)の寝間の隣室で宿直(とのい)を務めていた柳浦(なぎうら)重晴(しげはる)が、にわかに不快を訴え苦しんでいるという。

 着替える間も惜しんで駆けつけると、重晴はすでに体を起こしておくこともできず、這いつくばってがたがたと震えていた。畳の上には点々と吐き戻した痕がある。

 ほかの者たちも続々と集まってくる中、黒葛(つづら)禎貴(さだたか)は念のために貴昌を離れた部屋へ移すよう指示し、〈賞月邸(しょうげつてい)〉の外で警備にあたっていた雑兵を主屋へ走らせた。桔流(きりゅう)家の誰かに頼んで、療師(りょうじ)薬師(やくし)を手配してもらうためだ。

 (とこ)を取って横にならせても重晴の症状はまったく治まらず、疝痛(せんつう)にもだえ、激しい嘔吐を繰り返していた。全身に冷や汗をかいており、唇と爪は青紫色になっている。

「しっかりしろ」

「重晴どの」

 真栄城(まえしろ)忠資(ただすけ)や元博が口々に声をかけて手を握ると、彼はめまいのせいで視点の定まらない目を動かし、何か言おうとするように口を開いた。だが声はまったく出てこず、手を握り返すこともできない。

 ようやく療治が来た時には四肢が完全に脱力しており、呼吸も脈も絶え絶えになっていた。意識は混濁して、もはや外部からの刺激や呼びかけにも反応しない。

 そのまま昏睡に陥った重晴は一刻ほど持ちこたえたが、ついに目覚めることなく夜明け前に息を引き取った。

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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