七十六 別役国龍康殿・鉄次 三匹の龍
待ち合わせ場所の俤橋に、今日は見知った顔がふたつ並んでいた。
ひとつは、欄干に身を預けて水の流れを眺めている少女の花の顔。もうひとつは彼女から少し離れ、黒い影のように佇んでいる法衣の少年の仏頂面。
鉄次が近づくと、ふたりはほぼ同時にこちらを見て目を輝かせた。伊都は会えた嬉しさを顔全体で表しているが、伊吹のほうは例によってにこりともしない。
「よう伊吹。半年ぶりだな」
声をかけると、彼は上目づかいに睨みながら黙ってうなずいた。知らない者からは怒っているように見えるだろうが、鉄次には緊張しているのだとわかる。だが、何にびくついているのかは判然としない。
疑問をひとまず棚上げにして伊都のほうを見ると、彼女の白い額にくっきりと浮かぶ真新しい傷が目についた。顔の右側、眉山のすぐ上あたりにこぶができており、周囲に無惨な青紫色の痣が広がっている。
思わず手を伸ばして前髪をかき分け、指の腹で腫れの上を軽くなぞると、伊都はひやりとしたように身をすくめた。
「どうした」
訊きながら、鉄次は伊吹が落ち着かなさげに顔を伏せたのを目の隅で捉えていた。まさか彼が関係しているのだろうか。
伊都は特に傷を気にしている様子もなく、あっけらかんと答えた。
「今朝、南浮傳次郎先生がいらして稽古をつけてくださったんです」
「じゃあこれは、木刀か何かが当たった痕か」
鉄次がその衝撃を想像して眉をしかめると、彼女はくすっと笑った。
「守りが甘くなって、顔で受けちゃいました。これからうんと修練を積んで上達すれば、痣はだんだん減ります」
平然と言う少女を、鉄次は信じられない思いで見つめた。これは、これまで見ることのなかった彼女の新たな一面だ。幼い娘とは思えない豪放さに驚きをおぼえずにはいられない。
将来用心棒として雇うと持ちかけ、指南役の手配までしたのは彼自身だが、こんなふうに傷つけられた顔を見るのはあまり気分のいいものではなかった。
「防具はつけないのかい」
「痛い思いをすると、打たれないように気をつけたり工夫をしたりするようになるから、そのほうがいいんです」
剣術をやっていて怪我をするのは当たり前でしょうと言わんばかりだ。
事もなげに解説するのを聞きながら、鉄次は彼女の右腕を取って子細に観察した。
袖口近くの肌にも打たれた痕が見える。繊細な手のひらには肉刺ができ、半ば潰れて薄く血をにじませていた。この様子では、着物の下にも大量の打ち身がありそうだ。
あまりにもまじまじと見すぎたせいか、伊都はちょっと頬を赤くして手を引っ込め、背中のうしろに隠した。
「みっともないから……」
恥じらいを見せるところは、やはり女の子らしい。
「みっともなくはないが、見てるこっちが痛くなるぜ。ちゃんと手当てしな」
「はい」
素直にうなずく彼女を西へ向かうよう促しながら、鉄次はずっと黙って立っていた伊吹のほうに目をやった。
「こっちの用事が先口だ。おまえの話はあとで聞くから、右手の川沿いにある〈辰田屋〉って舟宿で待ってな。今時分なら板場に千太郎がいる。昼飯を食わせてもらうといい」
「一緒に行く」断固とした口調だ。
「つれてかねえよ」
「おれは――」
不平そうに何かさらに言いかけたのを、ひと睨みして黙らせる。
「〈辰田屋〉だ。行け」
伊吹はぐっと声を呑み、無表情のままふたりに背を向けた。少し肩を落とし、小柄な体をさらに小さくしてとぼとぼと歩き出す。
伊都は彼の後ろ姿をしばし見送ると、眉をひそめて鉄次を振り仰いだ。その目が、かわいそう――と責めている。
「あいつに同情してるのかい」
「だって、あんなにしょんぼりして」
「自分から我を折るってことをしないやつだから、甘い顔を見せないようにしてるんだ」
「伊吹――は鉄次さんには絶対逆らわないって、佐吉っちゃんが」
「逆らいはするが、おれに対しては退く。今みたいにな」
鉄次は橋を渡り、芝居小屋が建ち並ぶ一角を抜けて、繁華な五番町へ伊都をいざなった。
この界隈を南北へ貫く目抜き通りの両側には、〈四皇妃〉〈西門〉〈蜃気楼〉といった豪壮な賭場旅籠が軒を連ねている。それらの大戸口をひっきりなしに出入りする旅客や奉公人、呼び込み、昼間から遊びに繰り出した大勢の遊興客などで、広い通りはいつものようにごった返していた。
普段あまりこのあたりに来ない伊都は、派手な彩色と装飾を競い合う建造物群に目を奪われているようだ。
「これから行く〈紅鶴〉は、龍康殿一の老舗賭場旅籠だ。元は名もない賭場だったが、貿易商の〈但見屋〉が買い上げて、素人客も遊べる賭場と宿を兼ねた新しい見世に造り替えた」
「鉄次さんが蔵を借りている但見屋さん?」
「そうだ。但見屋幸右衛門は、いわば龍康殿の生みの親さ。ちっぽけな漁村だったここに湊を整備して店を構え、その傍ら〈紅鶴〉を繁盛させて大量の人と金を呼び込んだんだ」
「じゃあ町ができてから、まだそんなに経っていないんですね」
伊都はここが古い町だと思っていたらしい。驚きを隠せない様子で、あらためて周囲に視線を走らせている。
「今の形になって四十年てとこだ。おれが知ってるのは、ここ十年ほどだがな」
その十年のあいだですらずいぶん変わった――と思いながら、鉄次は少しばかり個人的な感慨に浸った。
やがてふたりは〈紅鶴〉のすぐ前までやって来た。軒を高く取った贅沢な建物で、大戸口には見世の名を白く抜いた紅柄染めの麻の三連暖簾がかけられている。格子戸の桟もすべて紅柄で仕上げられているが、柱や梁、板戸などは黒漆塗りで、その色の対比が何とも言えず艶めかしい。
ただ派手なばかりの方向へ行きがちなほかの見世とは違い、洒落っ気と色気が感じられる〈紅鶴〉の設えを鉄次は気に入っていた。
「大きなお見世……」
暖簾をくぐった伊都は広い土間の中央で足を止め、高い天井を見上げながらつぶやいた。少し気圧されたような表情をしている。
「二棟の表店が帳場と賭場、渡り廊下でつながった五棟の裏店が宿だ。中庭の池には、つがいの鶴がいるぜ」
「鶴を飼ってるの?」
伊都が目を丸くしているところへ、〈紅鶴〉の若い衆が近寄ってきた。丈吉という名で、以前からの鉄次の顔なじみだ。
「鉄次の兄哥」ちょっと狐に似た顔をにやりとゆがめながら、首をすくめるようにして会釈する。「うちの賭場は荒らさねえ取り決めじゃなかったんですかい」
「荒らしゃしねえよ。今日は〈表会〉で旦那がたが集まってるだろう。会ってもらえるか訊いてくれ」
「へい。じゃあ、ちょいとここでお待ちを」
丈吉が土間の右手の潜り戸から消えると、鉄次は伊都を隅のほうへ引っ張っていった。今日は特に人の出入りが多いため、戸口の近くに突っ立っているともみくちゃにされてしまう。
「龍康殿には三人の大差配がいる」
彼はざわつく中でも聞こえるように身を屈め、町の支配者たちについて話した。
「賭場を仕切る梧桐屋峰助、色町を仕切る赤尾屋善九郎、それとさっき言った但見屋幸右衛門だ」
「但見屋さんは何を仕切っているの?」
「商い全般だな」
「じゃあ――」伊都は少しうつむいて考え、断定的に言った。「三人の中でいちばん力を持っているんですね」
「なんでわかったんだい」
「前に佐吉っちゃんが、いちばん強いのはお金をたくさん持っている人だって言っていたから。商いを仕切っているなら、誰よりも多くお金を持っているでしょう?」
「但見屋は万金分限の大商人さ。ほかのふたりも大したもんだが、幸右衛門は桁が違う」
「これからその人たちと会うの? わたしも一緒に……?」
さすがに心細そうな表情を見せる。
「挨拶して、顔を覚えてもらうだけだ。怖がるこたない」
「さっき言っていた〈表会〉ってなんですか」
「大差配は月に二度、会合を持つのが習わしだ。三人を三匹の龍に喩えて〈三龍会〉と呼ぶ。ここで毎月九日に行うほうは〈表会〉といって、旦那がたに相談や報告のある者が会いに来ていいことになってるんだ」
「お殿さまへの謁見みたい」
何げなくつぶやいた伊都の言葉に鉄次は興味を引かれた。まるで、実際にそれを経験したことがあるかのような口ぶりだ。
「もうひとつは〈裏会〉だが、そっちは日時も場所も秘密で、部外者の立ち入りは許されない」
そこへ丈吉が戻ってきた。
「お待たせを。どうぞ、こちらへ」
彼は小腰を屈めながら、鉄次と伊都を先導して歩き出した。帳場の横からまっすぐに伸びる、表店の幅広な中央廊下を通り抜け、ふたつの戸口と渡り廊下を経て裏店へ。そのあたりまで来ると、大勢の客で賑わっている賭場の喧噪はかなり遠くなる。
昼日中とあって、泊まり客の大半は出払っているらしく、裏店の廊下はしんと静まりかえっていた。
「先客はないのかい」
歩を進めながら訊くと、丈吉は肩ごしにこちらを見て微笑んだ。
「いや、おりますよ。待ち合いの小間に八人ばかり。でも兄哥を待たせると飽いて帰っちまうだろうから、先に通すようにと大旦那が」
「おれはそんな、堪え性のない男じゃねえよ」
反論しながら通りすがりにちらりと覗いた小間には、丈吉の言葉どおり先客が溜まっていた。あとから来た者が順番を通り越して案内されるのを、不満げとも羨ましげともとれる表情で見送っている。
裏店最奥の広間は二間続きの十六畳で、三匹の龍は床の間がある一の間に集まっていた。
裏庭に面した障子を背に、ほっそりした首をすっと伸ばして端然と座っているのは三の龍、梧桐屋峰助。四十を少し過ぎた美中年で、荒事とは縁のなさそうな優男に見える。
だが鉄次は以前、賭場でのもめ事を収めに来た彼が懐の匕首を抜きざま、騒ぎの元になった男の口を耳まで切り裂いたのを見たことがあった。
鮮血で胸を朱に染め、茫然と立ちすくむ男を正面から睨み上げた目の鋭さ。「その面相、二度とおれの前に出すんじゃねえ」と凄んだ声。大差配でもっとも若い彼が、柔弱そうな見た目とは裏腹な武闘派であることを実感させられた一幕だった。
峰助の向かいに胡座をかいているのは二の龍、赤尾屋善九郎。頬に痘痕の残る五十半ばの醜い男で、背を丸めて盃をなめる姿はうずくまった蝦蟇に似ている。
中途で成長が止まったかのような短軀だが、声や態度は誰よりも大きく、その心根もまた決して矮小ではない。雇い人には厳しい反面、家族同様に大切にすることでも知られており、彼が営む娼楼の娼妓たちからは父親のように慕われ頼られている。
そんなふたりのあいだに鎮座するのは一の龍、但見屋幸右衛門。大商人らしい風格を備えた六十男で、人並み外れた巨躯にいつも趣味のいい極上の絹物をまとっている。今日は蚊絣模様を織り出した光沢のある柳茶色の紬に、天目染めの羽織を合わせていた。
型にはめてこしらえたような四角い顔はぽってりと肉厚で、肌は色味が明るくつやつやしている。
鉄次らが広間に入ると、三人は雑談をやめて一斉にこちらへ目を向けた。その視線を浴びながら歩いて行き、一の間の中ほどで足を止める。
「まあ、お座り」促したのは幸右衛門だった。「おまえが〈表会〉に顔を出すとは、珍しいこともあるものだ」
「三人にまとめて会えば、一度で用が片づくからな」
鉄次は腰を下ろし、肩ごしに伊都を見た。
「挨拶しな」
彼女はかすかな衣擦れの音をさせて正座すると、畳に両手をつきながら口上を述べた。
「伊都と申します。以後、お見知りおきくださいますよう、お願い申し上げます」
その所作も言葉づかいも、明らかにその辺りにいる孤児のものではない。退屈顔だった幸右衛門たちが、少し興味をそそられた様子を見せる。そこで伊都が頭を上げ、水際立った美貌を露わにすると、美妓数千人の色町を取り仕切る善九郎すらもが軽く息を呑んだ。
「どこからさらってきやがった」
錆のある声で訊いたのは峰助だ。
「孤児を拾うのに飽き足らず、近ごろは勾引かしまでやるようになったのか」
「孤児だよ」鉄次はからかいには乗らずに淡々と答えた。「旅先で拾ったのさ」
食い入るように少女を見つめていた善九郎が、早くも品定めを終えたらしく、痘痕面に興奮の色を浮かべて双眸をぎらつかせる。
「うちの娼楼に預けるなら、言い値で引き取るぞ。いくら欲しい? 二十金でどうだ」
その言葉に、伊都が震え上がったのが気配でわかった。善九郎に悪気はなく、あくまで冗談半分だが、残り半分の本気が彼女を戦かせるのだろう。
「万金積まれたって売りゃしねえ」
ぴしゃりと言い、鉄次は幸右衛門に目を向けた。次に峰助、善九郎へとゆっくり視線を移していく。
「旦那がたには、この娘がうちの者だってことを承知しといてもらいたい」
それは要請であり、同時に牽制でもあった。
三匹の龍は油断のならない連中だ。余計な手出しをされないよう、きっちり釘を刺しておかなければならない。しかし、必要以上に人目を引いてしまう少女をこの町で安全に暮らさせるには、大差配たちの庇護が不可欠だ。
虫のいいやつだと内心では苦笑いしていたとしても、三人はそれを表に出すことなく鷹揚に首肯してみせた。
「よかろう」幸右衛門がどっしり重みのある声で言い、伊都に優しい眼差しを注いだ。「何か困ったことがあれば、いつでも〈但見屋〉へおいで」
「はい、ありがとうございます」
迂遠な話の流れを掴んでいるかどうかは不明だが、伊都はかけられた言葉に礼儀正しく応じた。
「その痣はどうした」いま気づいたというように、峰助が横から問いかける。「鉄次にぶたれてるんじゃあるまいな」
「武術の稽古でついた痣です。鉄次さんは、わたしを殴ったりしません」
眉をひそめながら彼女がすかさず擁護すると、善九郎がけらけら笑った。
「よく手なずけたもんだ。おい鉄次、おまえその娘を好みに仕込んで、手前の女にするつもりだろう」
「こいつが色気づくころには、おれは枯れきってるさ」
「なに言ってやがる。もう四、五年もしてみろ、流し目を送るだけで死にかけのじじいでもおっ勃つほどにならあ」
相手にすると延々その話を続けそうな楼主を無視して、鉄次は携えてきた重い五合徳利をずいと前に押し出した。
「用件がもうひとつ。これだ」
もっとも近くにいた峰助が手を伸ばし、徳利の首を掴んで引き寄せる。
「酒か?」
「前にちょいと話したと思うが、北のほうの蔵で造らせてた酒がようやく出来上がった。本格的に売り出すのは来年春からだが、今年少しばかり仕込んだ分が届いたんで、〈銀流〉って名で明日から〈辰田屋〉の客に出す。その前に、旦那がたに味見してもらおうと思って持ってきたんだ」
「酒問屋をやるのか」少し驚いたように幸右衛門が訊いた。
「いや、そこまで大がかりじゃない。当面おれが扱うのは、ひとつの蔵のひとつの銘柄だけだ。せいぜい、蔵元の出先店ってとこだな」
「店はどこに構えるつもりだね」
「さしあたり必要なのは保管場所だけだから、今は〈但見屋〉で借りてる蔵へ入れてある。店を構えて看板を出すとしたら再来年以降だ。その時はまた、あらためて話をさせてもらうよ」
金のにおいを嗅ぎつけて、幸右衛門の鼻がひくひく動いているのが感じ取れる。
いずれ店を持って業態をととのえる際には、上納金の取り決めなどもして彼に筋を通す必要があるが、自前の酒を自前の見世で少々売っているあいだは目こぼしをしてくれるだろう。
「博打も〝騙り〟も仕舞いにして、かたぎの商売に鞍替えか」
徳利の口にかぶせてあった紙をはがし、鼻を近づけて酒の香りをたしかめながら、峰助がぼそりとつぶやく。
「おまえには似合わねえよ」
「賭場には行くさ。だが山師の真似事からはもう足を洗う。端くれとはいえ商人を名乗るなら、信用を損なうような裏商売は慎まなきゃな」
「ま、やってごらん」
幸右衛門が静かに言った。
「行き詰まったら相談に来るといい」
それでこの話は決着したものと考え、鉄次は伊都を促して立ち上がった。
「そうさせてもらうよ。邪魔したな、旦那がた」
引き揚げようとすると、善九郎が不満げな声を上げた。
「なんだ、愛想のねえ。その娘に酌のひとつもさせて、酒の感想を聞いていきゃいいじゃねえか」
「明日以降にあんたらの顔を〈辰田屋〉で見たら、〝旨かった〟ってことさ」
彼らのような大物が小体な〈辰田屋〉に足を運ぶとも思えないが、少し煽りを込めた軽口を叩いて鉄次は広間を後にした。
来る時に案内してくれた丈吉の姿は、白木張りの明るい板廊下にも待ち合いの小間にもない。おそらく、立て込んでいる賭場のほうへでも駆り出されて行ったのだろう。
表店に向かって歩き出すと、うしろに付き従う伊都が小さくため息をついた。
「どうした、怖かったか」
「ちょっと緊張しただけです」
彼女は平気だと強調するように、ことさら元気な声で言った。
「あの人たち、みんな鉄次さんのことが好きみたい」
「そう見えたかい」
「冗談を言い合って、とっても仲がよさそうでした」
前にもこんなことを言っていたな、とふと思う。あれは〈浜路屋〉で平左衛門と会った時だった。強面の蔵主に怖じける様子も見せず、彼女は「あなたは鉄次さんと仲良しみたいだから怖くない」と言ったのだ。
「おれと馴れ合ってるように見えるやつが、みんな善人とは限らないんだぜ」
肩ごしに目をやると、伊都は真面目な顔でうなずいた。
「はい。……でも、これまでに会った鉄次さんのことを好きな人は、みんないい人でした。長五郎ちゃんも佐吉っちゃんも、千太郎さんも、傳次郎先生も――伊吹も」
「おまえ、伊吹がおっかなくないのか。あいつに会うと、たいていの子供は嫌うか怖がるかするぞ」
「初めは、怖いと思いました。山で熊や……狼に出合ったみたいな感じだったから。伊吹はちっとも喋らないし、ずっと怒ったような顔をしているし。でも長五郎ちゃんが少しも怖がらないから、悪い人じゃないのかもって」
「なるほど」
思わず笑みがもれる。長五郎の反応を判断の元にするのは、なかなかいい考えだ。
「それに、傳次郎先生にわたしの相手を押しつけられて、すごく嫌そうだったけどちゃんと稽古をつけてくれました」
伊都の顔に痣を作ったのは、やはり彼だったらしい。
「あいつ、強いだろう」
「はい。ぜんぜん敵いませんでした」
早口に言って、きゅっと唇を引き結ぶ。彼女が初めて鉄次に見せた、本気で悔しがっている表情だ。
「鉄次さんのところに、剣術の心得のある人がほかにもいるなんて思わなかった」
「伊吹のあれは剣術なんてもんじゃねえよ。人に教えられたわけでもない、自己流の喧嘩殺法だ」
伊都は心底驚いたように目を丸くした。
「自己流?」
「今のおまえぐらいか……もっと小さいうちから、自分の体より長い棒きれを振り回して、気に食わない相手を誰彼かまわずぶちのめしてた。殴る蹴るだけでも相当に戦うが、長得物を持たせるともう敵なしだ」
気づくと、いつの間にか表店の玄関口まで来ていた。下足番が顔を見て、すぐさま履き物を取りに走る。
「不思議とおれにはなついたが、ほかの者に容赦がないんで、精神修養させるために御山へ行かせたんだ」
沓脱ぎに揃えられた履き物を突っかけて外へ出ると、中天にかかった秋の陽光が眩しく目を射た。
戸口の脇まで歩いて振り向けば、伊都は眉間に軽く皺を寄せて考え込んでいる。伊吹について知ったことを、頭の中で自分なりに整理しているようだ。
「おまえと伊吹はまったく違うようで、どこか似てる。同じ〝伊〟の字を持ってるのも、何かの縁かもな」
その言葉に彼女ははっと顔を上げ、少し間を置いてからにっこりした。
「はい。そんな気がします」
「難しいやつだが、辛抱強くつき合ってやってくれ」
二、三の小用を済ませてから〈辰田屋〉へ向かった鉄次は、見世の前の舟付場にいる伊吹を見つけた。桟橋の先端にちんまりしゃがみ込み、川岸の係船柱に舫われた小型の屋根舟をじっと見つめている。
「見世で待ってろって言っただろう」歩いて行って声をかけると、彼は横目にちらっとこちらを見た。「飯はどうした」
「めんどくせえ」
なにが、とは訊かなかった。見世に入って人と話すのが気乗りしないのかもしれないし、単に飯を食うのが面倒なのかもしれない。あるいは、無下に追い払われたことでへそを曲げて、すべてに逆らいたい気分になっているのか。これがいちばんありそうに思える。
鉄次は板を並べた桟橋の中ほどで立ち止まり、「こっち来な」と呼んだ。
伊吹は腰を上げたが、斜に睨みながら様子を窺っているだけで、なかなか近づいてこない。久しぶりに会うといつも彼はこんなふうに、初めて出会ったころの人見知りに戻ってしまっている。
「もったいぶらずに来いってんだ」
残り四歩を自分から詰め寄り、鉄次は彼の首を懐に抱え込んで、短髪頭を無造作になで回した。
「なにすんだよ」
憤慨したように言ってもがいているが、本気で抗っていないのは明らかだ。伊吹がそのつもりになれば、片腕だけで鉄次を川へ放り込める。
子犬を弄うように、ひとしきりもてあそんでから開放してやると、彼は愕然とした面持ちで川岸へ逃げた。だがそれ以上遠くへ離れて行く様子はない。
「てめえ、ひとを玩具に――」
「元気だったかい」
不平を鳴らすのを遮って問いかけると、伊吹はちょっと戸惑ったように目を伏せた。
「患ってたように見えるか」
「息災ならいいんだ。ここは日差しがきつくていけねえ、中へ入るぞ」
横を通り過ぎて〈辰田屋〉の戸口へ向かうと、伊吹はしぶしぶうしろについてきた。
「あら、鉄次さん」
見世へ入れば小上がりの縁から、女将のつたが機嫌よく微笑みかけてくる。夫を亡くした当初は目も当てられないほどしおれきっていたが、持ち前の勝ち気さでどうにか立ち直りかけているようだ。
「今ね、千太さんが〈銀流〉に合う肴を作ってみてくれてたとこなんですよ」
「そりゃいい」
板場から出てきた千太郎が、浅めの小鉢に箸を添えて鉄次に差し出した。盛られているのは葱の花のような形をした野菜で、鰹出汁と醤油でくたっと煮込まれ、上に黒胡麻の餡がたっぷりかけられている。
口に運んで歯を立てると、品のいい出汁醤油の風味の中から、どことなく覚えのある爽やかな甘みがあふれ出てきた。
「――無花果か?」
当たりをつけて言ってみると、千太郎が満足そうににんまり笑った。
「無花果の出汁煮に黒胡麻餡とは、ちょいとおもしろいな」
「ね、いいでしょう」つたがほがらかに言う。「明日、お客に出そうと思うんです」
「酒と合わせて、評判が立ちそうだ」
そこでふと思い出して振り向くと、伊吹はまだ敷居をまたがずにうっそりと佇んでいた。
「入って、戸を閉めな」
見世に入ってくる彼を見て、女将が意外そうな声を上げる。
「おや、この人――鉄次さんとこの人だったの。さっきちょっと出たら、うちの舟付きに祭宜がいるから、何ごとだろうって思ってたんですよ」
「こいつは伝道の祭宜で、伊吹って名だ。普段は町にいないが、ま、いちおう顔を覚えといてくれ」
「そうですか。あたしはここを切り盛りしてる、つたっていいます」
色気と愛嬌のある笑顔で名乗る彼女に、伊吹は無言のままぺこりと頭を下げた。とことん愛想なしだが、いちおう挨拶らしきことをするようになっただけ、以前よりはずっとましだと言えるだろう。
「おれはこいつと、しばらく二階にこもる。――千太郎」
声をかけると、板場から千太郎が顔を覗かせた。
「あり合わせでいいから、何か軽く食わせてくれるか。おれも伊吹も、昼飯がまだなんだ」
彼がうなずくのを見届けてから、鉄次は伊吹を伴って二階へ上がった。入った部屋は、この見世の権利を半分持つようになった時から、つたの了解を得て占有している六畳間だ。
鉄次が窓辺に腰を下ろすと、伊吹は離れた壁際で胡座をかいた。
「さて、今回はどこへ行ってきた?」窓障子を開け、風を呼び入れながら訊く。
「主に西峽。立身国、江蒲国、天勝国」
「ずいぶん歩いたな。何を見聞きしてきたか、話してみな」
「立州は、春に国主が儲口守恒から黒葛貴昭に替わった。やっとまともに政をやってくれる殿さまが来たって、本城がある七草郷近辺から北方のほうまで、民百姓はみんな喜んでたぜ。だが、おもしろくねえと思ってる儲口家の残党もいなくはない」
天門神教の伝道者として御山から証札を与えられており、それを通行手形としてどの領内へも入ることのできる伊吹は、半年にわたる長旅で得た数多の情報を滔々と語った。感情がからむ会話は苦手だが、既知の事実を述べるだけなら彼の舌はいくらでもなめらかに動く。
「近々、立州は戦を始めるつもりだ。黒葛貴昭が鉄砲鍛冶を七草城下に駆り集めてるし、天翔隊を立ち上げたって噂も聞いた。三州や丈州でも、たぶん同じようにやってんじゃねえか」
「どこと戦うんだい」
「江州だろ。守笹貫家のほうもやる気になって、戦支度を始めてるようだ。ただ、あっちは今、当主がちょっとおかしなことになってる」
「おかしいって、どんなふうに」
「百武城下で耳にした話だと、呆けが入って政どころじゃないそうだ。だが跡取り息子は昼行灯で頼りにならねえし、それにつけこんで、近ごろは得体の知れない野術師が城内で幅を利かせてるとか」
「守笹貫家の当主は、もうけっこうな年だったな」
「年のせいか呆けのせいかは知らねえが、守笹貫道房は立州から逃げてきた守恒を磔にして殺しちまった」
伊吹が淡々と告げた言葉に、思わず鉄次は瞠目した。これはさすがに度肝を抜かれる話だ。
「磔にした?」
「たまたま城下にいて、処刑があるってんで見に行ってみたら、儲口守恒と息子らだったんだ。守恒はいろいろ悪く言われてばっかりの殿さまだったが、死にざまは堂々としたもんだったぞ」
「息子もってことは、儲口家は断絶したわけか」
「たぶんそうだろ」
武家に――というより世の中の大半に関心のない伊吹は、ひとつの名家の消滅という悲劇にもいっこうに心を動かされないようだ。
「そのあと天州へ行ったら、そっちでも国主が代替わりしてた。志鷹頼英が謀反を起こして、兄貴の朋房に取って代わったんだ。大光明城内のかなりの人数を取り込んでて、城を奪い取るのに半日しかかからなかったらしい」
「天州でも、交替はすんなり受け入れられたのか」
「領内は静かなもんだが、隣の平等国で分家の華表志鷹家が何かごちゃごちゃ言ってるようだ。華表家の当主は、宗家先々代の弟――つまり頼英の叔父だから、そこが難癖つけてるなら内輪でひと揉めあるかもしれねえ」
「北も南も、戦のにおいがぷんぷんするな」
鉄次がつぶやくと、伊吹は興味を引かれたように身を乗り出した。
「このところ、この手の話をやたら熱心に聞いてるが、あんた武家の戦に一枚噛もうとしてんのか?」
意外な洞察を見せる彼に、曖昧な笑みを返す。
「どうかな」
はぐらかそうとしているのを感じた伊吹が、むっとしたように何か言いかけたところへ、つたが重ねた膳を持って上がってきた。
「岩茸の山芋揚げと、鱧の蕪蒸し。おいしいですよ」
「見世の今夜の献立かい」
「ええ。岩茸と鱧、今朝いいのが入ったんです」
彼女が配膳して下がると、鉄次は箸を取りながら伊吹に訊いた。
「報告は終わりか?」
「まだある」半年分だぞ、と言いたげにじろりと睨む。
「じゃあ、飯を食ってから続きを聞こう」
食事を始めると伊吹は押し黙り、何かの儀式のように粛々と箸を動かすだけになった。食べながら気軽な雑談をするという考えは、彼の頭にはまったくないらしい。
「おい伊吹」
話しかければ、上目づかいに視線だけ向けてくる。
「おまえ、伊都に稽古をつけてやったそうじゃないか」
その瞬間、椀を持つ伊吹の手が小さく跳ね、汁がぴしゃっと音を立てた。険しい目で味噌汁の表面の波紋を見ながら、置物のように固まってしまう。
「なんだい、おれが怒ると思ってるのか」
「……あの親爺がやれって言うから、仕方なくやったんだ」目を伏せたまま、彼は低い声でぼそぼそ言った。「ちゃんと加減したぜ」
「そりゃそうだろう。おまえが手加減なしに打ったら、今ごろあの可愛い顔がはち切れた西瓜みたいになってるよ」
鉄次を立腹させていないとわかってほっとしたのか、伊吹は少し体の力を抜いた。
「あいつを用心棒にしたいってのは、本気なのか」
「大まじめさ。あの娘は強くなりそうだし、女剣士に護衛されるってのは、なかなか楽しそうだと思わねえか」
少しも楽しくないと思っているのは明らかな渋面で、伊吹は不満そうに唸り声を上げた。
「あいつよりおれのほうが強い」
「そうだな」
「この先もずっとだ」
「わかってるさ」
「じゃあ、おれを用心棒にしろよ」
「おまえにはおれより、あの娘を守ってやってもらいたい」
伊吹は唖然としたあと、奇妙に張り詰めた面持ちになった。
「あんた、ずいぶんあいつを買ってるらしいが、足を掬われたくないなら油断しねえほうがいいぞ。あの伊都って娘はどこか普通じゃない」
「あり得ないほど賢くて、別嬪だって意味か?」
からかい調子に言っても、彼の硬い表情は変わらない。
「今朝、あいつは寝言を言いながらひどくうなされてた。悪夢を見るのは、内に魔を宿してるからだ。何か人に言えねえような、後ろ暗い秘密を隠してるに違いない」
「まだ悪い夢を見てるのか……」
鉄次は少し胸がざわつくのを感じながらつぶやいた。
「出会ってしばらく一緒に旅をしたが、そのあいだも毎晩のようにうなされてたよ。おまえが言うとおり、あの娘は何か内に抱えてるんだろう。だが表には出すまいとして健気に堪えてる。それがおれには、いじらしく思えてならねえのさ」
伊吹はますます難しい顔になり、何やらじっと考え込んでしまった。その上の空なところへ、不意打ちに問いを投げてみる。
「おまえ、うなされてる伊都の傍で何やってたんだ」
「魂の平安をもたらす祝文を唱えて――」
鉄次の微笑に気づいた彼は急いで言葉を切り、気まずそうに咳払いをした。
「なんでもねえ。祝文なんか、ただの気休めだ」
「そうかもな。でも、ありがとよ」
伊吹は殴られたように怯んでうつむき、そのあとは昼餉を食べ終えるまで、ひと言も口を利こうとしなかった。
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