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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第六章 絆の芽生え
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七十四 立身国七草郷・黒葛真木 恋

 夫の黒葛(つづら)貴昭(たかあき)から気軽な酒席へ顔を出すようにとの言伝(ことづて)があり、真木(まき)は息子の貴之(たかゆき)をつれて中奥の内御座之間へ出向いた。男たちの歓談の場に女子供がしゃしゃり出るなどどうかとも思うが、ふたりが来ると家臣たちが喜ぶのだという。

 西日がわずかに差し込む外廊下を歩いていくと、座敷の入り口近くに座っていた柳浦(なぎうら)重益(しげます)が目ざとく彼女らを見つけ、満面の笑顔で出迎えた。

「これは奥方さま、若さま」

 貴之は母親の手をさっと振り払って駆け出し、大好きな重益に勢いよく飛びついた。相手も心得たもので、太い両腕を大きく広げて幼子をしっかりと抱き留める。

 そのまま彼の膝の上に落ち着いてしまった息子を、上座で盃を傾けながら貴昭が複雑な表情で見ていた。我が子が家臣と親しんでいるのを好ましく思いつつも、父親に目もくれずほかへ行ってしまったのがいささか不満らしい。

「親など見飽きて、つまらんのだろうな」

 真木が隣に腰を下ろすと、彼は顔を寄せて小声で囁きかけた。

「まあ、殿」思わず笑みがもれる。「あの子がととさまを大好きなことはご存じでしょうに」

 事実、奧御殿では貴之は父親にべったりだ。多忙でなかなか会えないせいもあり、たまに一緒にいられる時には決して傍を離れようとしない。貴昭もまた、そんな息子を邪険に扱うことはしなかった。

 ふたりの仲の良さは真木にとって微笑ましく、同時に少しばかり()けもする。貴之は明らかに母親よりも父親のほうを好きだし、何か畏敬の念のようなものも抱いているらしい。日ごろ大勢に(かしず)かれている父を見ていて、彼は特別な人なのだと幼いなりに理解しているのだろう。

 この場で甘えに行かないのは、武将たちが居並ぶ前なので少し照れがあるのかもしれない。

「貴之、ととの膝に来い」

 ()れた貴昭が呼ぶと、貴之はその年ごろにありがちな反抗心を見せて「いや」と逆らい、下座のほうへ駆けていった。

 そのあたりには、支族の中でも比較的年若い者たちが座っている。筆頭家老花巌(かざり)義和(よしかず)の嫡男利正(としまさ)や、玉県(たまかね)分家の跡取りで二十六歳になる玉県輝綱(てるつな)の姿もあった。誰に対しても愛想がよく、おっとりした物言いをする輝綱は、女中として奧御殿に入っている沙和(さわ)の長兄だ。

 彼らの兄弟である玉県綱正(つなまさ)は、真木の弟の石動(いするぎ)博武(ひろたけ)と同じく天翔隊(てんしょうたい)の隊士に志願しており、今は射手矢(いてや)(ごう)鉢呂(はちろ)山で行われている訓練に参加している。

 輝綱は近くへ来た貴之に向かってにこにこと笑いかけたが、幼子は小さな唇をすぼめて何やら考えたあと、ふいと横を向いて利正の傍へ行ってしまった。首を傾けてそれを見送りながら、輝綱が寂しそうに肩を落とす。

「ああ、つれないおかただ」

 冗談めかして言いながら嘆息すると、二十人ほどいる列席の者たちがほのぼのと笑った。

 不穏な事件が続いたため、ここしばらく城内の空気が張りつめていたが、今は久しぶりに心地よくゆるんでいる。天山(てんざん)で刺客に襲われ重体に陥っていた黒葛貴昌(たかまさ)が、ようやく快方に向かったという嬉しい知らせが今朝届いたからだ。

 宗家の跡取りの安否は、分家である七草(さえくさ)家中にとっても大きな関心事となっている。その彼が危難を切り抜けた(よろこ)びを気心の知れた家臣たちと分かち合うために、貴昭はこの席を設けたのだろう。

「それにしても若さまは、こういう場でも少しも物怖(ものお)じされませんね」

 横に座り込んだ二歳児にねだられるまま、膳の上の食べ物をほぐして与えながら、十七歳の利正(としまさ)が感心したように言った。

「人見知りもあまりなさらず、城外から来た者にもすぐになつかれます。わたしの末の弟などはもう八つになりますが、知らない相手の前に出ると借りてきた猫のようになってしまっていけません」

「比べては気の毒だよ」盃を取り上げながら、輝綱が小さく笑う。「若君は御屋形さまに似て、人一倍剛胆でいらっしゃる」

 真木は夫が隣で気をよくしているのを感じた。半分は追従(ついしょう)口だとわかっていても、息子が自分に似ていると言われるのはやはり嬉しいらしい。

「おれはかつて、子供などつまらぬものだと思っていた」

 彼は真木の酌を受けながら、しみじみとした口調で言った。

「身勝手で抑えが効かず、道理を説いても理解しない。意に染まぬことがあるとすぐに泣く。面倒くさいばかりなので、できればかかわりたくないと。だが息子が産まれてから、すっかり意識が変わってしまった。子供は何より可愛く、おもしろく、一日じゅう見ていても飽きることがない。近ごろは、貴之ひとりでは物足りないと感じるほどだ。もっと大勢――十人も二十人もいればいいと思う」

「それはさすがに、奥方さまのお身が持ちますまい」

 柳浦(なぎうら)重益(しげます)がほがらかに茶化して、一同をどっと笑わせる。少し気恥ずかしさを感じながらも、真木もつい笑みをこぼした。

「ご側室を大勢持たれれば、二十人のお子さまに囲まれるというのも、あながち夢ではございませぬ」

 にこやかに言ったのは玉県(たまかね)輝綱(てるつな)だった。酒が回り始めているのか、両頬をほんのり桜色に染め、少しも邪気の感じられない呑気な表情を浮かべている。自分の発した言葉で真木の顔が引きつったことには、まったく気づいていないようだ。

 だが重益など何人かはいち早く察知し、すかさず小声で彼を(いさ)めた。

「輝綱どの、そのようなことを奥方さまの御前で……」

「口を慎しまんか」

 叱られた当人はまだ理解が追いつかないらしく、きょとんとしている。もともと悪意があって言っているのではないのだろう。

 真木は不愉快さを感じていたが、表には出さずにぐっと呑み込んだ。前に弟にも言われた通り、こんな()れ口など軽くいなせるようでなければ、一国の(あるじ)の妻は務まらない。

「奥向きの仕切りはわたしの御役目」彼女は輝綱の顔を見つめ、微笑みながら言った。「殿が側室を持たれるべきと思えば、良いお相手を自らしっかりと選び定めてお薦めします。でも当面、その必要はないでしょう。お子なら殿が欲しいと思われるだけ、わたしがいくらでも産んでさしあげますから」

 敢えて大胆な物言いをしたが、それが幸いして一気に座がなごんだ。室内が明るい笑い声で満たされ、幼い貴之もわけはわからないながら、一緒になって手を叩きながら笑っている。

「さすがは奥方さま」

 重益が太い大きな声で言い、真木に盃を掲げて敬意を表した。

「頼もしいおっしゃりようだ」

 ほかの者たちも次々とそれに続く中、輝綱も遅ればせながらようやく失言を察したのか、少し肩身が狭そうに身を縮めながら盃を上げた。

 真木は余裕の微笑でそれに応えたが、小袖の襟合わせの下では動悸が激しく()っている。音が外にまでもれ聞こえるのではないかと不安になるほどだ。

 こういう駆け引きを切り抜けるたび、自分が本来どれほど気弱い人間かを思い知らされる。表面を取り繕うことはできても、内心でおろおろと冷や汗をかく癖はなかなか克服できない。

 その時、膝に載せていた拳を温かな感触がそっと包んだ。ふと見ると、夫が横から手を重ねている。

 彼はそのまま少し体を寄せると、妻にだけ聞こえるように「よく言った」と囁いた。その声に誇らしげな響きを感じ取り、すうっと肩の力が抜けていく。

 貴昭は親指の腹で慰撫するように肌をなでてから手を離し、脇息にもたれかかりながら輝綱のほうを見た。

「人のことばかり言っているが、おぬしはどうなのだ」

「どう――と申されますと」

 急に水を向けられて(ひる)む家臣に、若い主君がいたずらっぽい笑みを投げかける。

「いずれ玉県分家を継がねばならぬ立場で、いつまでも独り身のままというわけにもいくまい」

「わたしは、どうもその方面は不得手でして。弟などは進取の気性に富むほうで、女性(にょしょう)とのつき合いに関してはかなり積極的ですが」

「〝女好き〟をうまく言い換えたものだ」

 同年代の重益にからかわれ、輝綱は苦笑いしながら頭を()いた。

「あいつの意欲旺盛さを、いささかうらやましく思うこともあるよ。だが今は己のことより、妹のほうがむしろ気がかりでなあ」

 肩をすくめて深いため息をつく彼に、誰もが怪訝そうな目を向けた。

「妹というと、奧にいる沙和(さわ)だな」

 貴昭の口から沙和の名が出て、真木ははっと小さく息を呑んだ。

 彼女とは相変わらずしっくりこないまま、常に互いに腹を探り合っているような緊張状態が続いている。こちらから折に触れて言葉をかけ、なんとか打ち解けようと努力してはいるが、相手の頑なな殻を突き破るには至っていなかった。

 沙和はわたしを恐れているようだけど、兄の輝綱に何か不平でももらしたのかしら。

 胸をよぎる憂いを振り払うように、真木は()いて明るい声で言った。

「沙和なら、いつもよく勤めてくれていますよ」

「そうおっしゃっていただけて嬉しいですが――」輝綱がふっくらした頬に微苦笑を浮かべる。「お勤めに熱が入りすぎてますます縁遠くなるのではと思うと、兄として少々悩ましくもあります」

 真木は沙和の顔を思い浮かべた。顎の尖った細面(ほそおもて)。少し厚めのまぶた。目尻の長く切れた目はややきつい印象を与えるが、全体的には凛とした美しい顔立ちといえるだろう。

 性格は内気で臆病そうだが、仕事ぶりは丁寧だし物腰は品がいい。家柄の良さは言うまでもない。彼女のような娘を妻にと望む男は、いまこの場だけ見回しても数人はいそうだ。

「あの()ほどの器量なら、よい縁談がいくらでもあるでしょうに」

 妻の言葉にうなずきながら、貴昭も意見を添える。

「兄であるおぬしが、適当と思う相手を見つくろってやればよい。あるいは親類か――なんなら真木に世話を焼いてもらう手もあるぞ」

 輝綱は困ったように眉尻を下げた。

「はい。まあ、縁談そのものはあるのです。しかし、如何せん本人にまったくその気がなく……」

「なんだ、沙和は男ぎらいか」

 貴昭が笑い、同席の武将たちも笑みをこぼす。輝綱もまた屈託のない微笑をみなに振りまいた。

「以前は、兄上が選んでくださったお相手であれば、どなたのところへでも嫁ぎます――などと殊勝なことを申していたのです。ところが御屋形さまのお側近くでお仕えするようになってから、すっかり好みがうるさくなってしまいました」

 やれやれと首を振りながら、小さく嘆息する。

「どうも、御屋形さまに比べると、誰もかれも見劣りがすると感じるようで」

 まあ、ぬけぬけと。

 かっと頭に血が上り、真木は膝の上で両手をきつく握り合わせた。険しくなったに違いない目つきを隠すために、さり気なく睫毛を伏せる。

 今のは「沙和は御屋形さまに恋い焦がれています」と言ったも同然だ。縁遠い妹を案じる兄を装いながら、わたしがいる前で殿に沙和を売り込もうとするなんて、なんという図々しい男だろう。

 みぞおちのあたりが不快にこわばるのを感じながら、真木はそっと輝綱の顔を盗み見た。

 その表情はいつも通り柔和で、後ろ暗さなど微塵も表れてはいない。だが彼女には、これまで見えていなかった彼の本質が透けて見え始めた気がした。

 しばしば配慮の足りない言動をするのは単に無頓着な(たち)のせいで、悪気があってのことではないだろうと思っていたが、上辺の愛想良さに騙されていたかもしれない。輝綱の〝失言〟の裏には、したたかな計算が隠されていると感じる。

「あまり高望みをしていると()き遅れてしまうぞ」

 誰かが大きな声で言い、真木は物思いから醒めてそちらに目をやった。はす向かいに座る輝綱を、妙に生真面目な顔で見据えているのは柳浦重益(しげます)だ。その膝の上には、いつの間にか戻って来た貴之がちんまりと座っている。

「御屋形さまに見劣りせぬ男など、そうそう見つかるはずがない」重益はにこりともせず、ぶっきらぼうな調子で言った。「兄として、妹御にきちんと道理を説いてさしあげるべきだろう」

 日ごろ温和で思いやりのある彼には珍しく、かなり厳しい言いようだ。

 その時、重益がほんの一瞬、横目にこちらを窺った。遠慮がちな視線には、気づかいと深いいたわりがこもっている。そこでようやく、真木は彼が自分の怒りを感じ取り、一緒に腹を立ててくれているのだと気づいた。

 先ほどの〝失言〟の際にも、真っ先に輝綱をたしなめたのは重益だ。思えば彼はいつも、それとはなしに真木の味方をして、行き届いた気配りをしてくれる。

 出端を折られた形になったが、輝綱はべつに不快な顔をするでもなく、鷹揚に構えているように見えた。だが案外、腹の中は煮えくりかえっているのかもしれない。

 真木がそう思った時、彼が微笑みながらゆっくりと口を開いた。懲りずにまだ沙和の話を続けるつもりだろうか。

 しかし、どんな言葉を発したにせよ、それは貴之のふいの大声にかき消されてしまった。

「おいしいこれ」

 誰もが輝綱や沙和のことなど忘れて注目した先で、貴之が驚きに目を丸くしている。重益から、普段食べつけないものを食べさせてもらったようだ。

「何をいただいたの、貴之」

 少し心配になって訊くと、息子は銀杏(いちょう)足膳の上を指差し、真面目くさった顔で母親を見た。

「これ。くろいの」

「鹿肉の煮込みです」重益が急いで言葉を添える。「柔らかいところを、少しだけ」

「みそのあじするね」

 貴之はそう分析してうなずき、くるりと首を回して重益を見上げた。

「ちょうだい」

 さらに肉を口に入れてもらい、まだ生えそろわない歯で懸命に咀嚼する彼を、上座から父親がにやにやしながら眺めている。

「あまりつまみ食いをしていると、夕餉が入らなくなるぞ」

 貴之は真剣な表情になり、口の中のものを呑み込んでから頭を振った。

「ゆうげも食べるよ」

「おまえは食いしん坊だな」

 貴昭が弾けるように笑い、家臣たちも頬をゆるめる中、真木は輝綱の目に冷たい光が小さく(またた)くのを確かに見たと思った。


 湊での襲撃以来、御殿の敷地から一歩も出ずにふた月あまり過ごした真木(まき)は、少し秋めいてきた快晴の日を選び、貴之(たかゆき)をつれて城山へ登った。といっても頂上の城砦まで上がるつもりはなく、脚が疲れない程度に軽い山歩きを楽しむだけだ。それでも御殿の庭遊びにそろそろ飽きかけている息子にとっては、けっこういい気晴らしになるだろう。

 縄張りの中心である城山に外部の者は入り込めないし、登城路の要所には番所も置かれている。よもやここで危険な目に遭うことはないはずだ。

 供回りは侍女三人と、奧御殿の若い女中五人。念のために武装した奧番方もふたり伴うことにした。女ばかりになってしまったが、もし男手が必要になれば番所に詰めている番士たちを呼べばすむ。

 供勢には玉県(たまかね)沙和(さわ)も加わっていた。思えばこういう外出(そとで)の際、彼女はいつも進んで供回りを務めるようだ。真木との相性こそあまり良くないが、骨惜しみせずよく働く真面目な娘だと言っていいだろう。

 久しぶりに登る登城路は、記憶にあるよりもずっと急峻に思えた。周りを囲む木々や竹林、土塁などは丈高く、井戸の底にでも落ちたかのような心持ちにさせられる。聞こえてくるのは葉擦れの音と、さまざまな鳥の鳴き声だけだ。

 真木は樹間から覗く青空に時折目をやりながら、真昼でもほとんど陽が差し込まない薄暗い道をゆっくりと登った。

 横には貴之がいるが、近ごろますます活発になってきた息子は、そうそうおとなしく手をつないではいてくれない。何かに気を引かれると、すぐさま器用に束縛から逃れ、ひとりでどんどん先へ行ってしまう。そのたびに供勢があたふたしながらあとを追っていくが、すばしっこい息子は簡単には捕まらず、女たちをさんざんに振り回していた。

「若さまは足がお速い」

 またどこへともなく駆け出していく貴之を見ながら、真木の傍に残った侍女頭の津根(つね)が言った。登り道に疲れたのか、少し息を切らしている。

「わたしも小さいころ、足は速かったわ」

 真木がつぶやくと、彼女は目を細めて微笑んだ。

「ええ、よく覚えておりますよ。おてんばな姫君でした」

 石動(いするぎ)家の子らにとって育ての母にも等しい津根は、真木とその弟たちのことなら何でも知っている。

「末の元博(もとひろ)さまも、駆けっこは得意でいらっしゃいましたね」長らく会っていない少年を思い浮かべているのか、彼女は懐かしそうな目をして言った。「若さまは、元博さまによく似ていらっしゃいます」

「そう――かしら?」

 真木は少し戸惑いながら、道の先ではしゃいだ声を響かせている貴之を見た。

「産まれた時は、たしかに似た顔をしていたけど」

「お顔ではなく気配と申しますか、醸し出す雰囲気のようなものが」

 言われてみれば、そうかもしれない。

「顔立ちが変わってからは完全に黒葛(つづら)家の子らしくなったと思っていたけど、やはり石動ふうのところも持っているのね」

「それはそうでしょう」

 津根が袖で口元を隠しながら笑っていると、貴之が満面の笑顔で駆け戻ってきた。左手の上に右手でふたをして、中に何かを閉じ込めているようだ。

「つね、あげる」

 かわいらしく言われ、津根が破顔して腰を屈める。真木は無防備な彼女に思わず警告を発した。

「気をつけて、津根」

 え、と横目にこちらを見た津根の鼻先に、貴之の両手の隙間からトカゲのようなものがにゅっと顔を覗かせた。大人の人差し指ほどしかなく、まだほんの赤ちゃんのようだ。だが津根を驚かせるには充分だった。

 年甲斐もなく大きな悲鳴を上げる彼女を、貴之がぽかんと見上げている。

「わ、若さま、危ない、それ、か、噛む」

 恐怖に引きつりながら、取り上げることもできずおろおろしている津根に、真木は優しく声をかけた。

「カナヘビよ。噛まれたって平気だわ」

 そこへ突然、誰かが登城路を猛然と駆け上ってきた。途中まで来ていて悲鳴を聞き、急いで駆けつけたらしい。

 少し手前で足を止め、肩で息をしているのは唐木田(からきだ)直次(なおつぐ)だった。浅黒い顔を汗でしとどに濡らし、太い杖にすがって立っている。

「まあ、直次どの」

「奥方さま、先ほどの叫び声は」

 息せき切って訊く彼に、真木は急いで事情を説明した。

「貴之が生き物を捕まえて津根を驚かせたの」

「そうでしたか」直次はほっと息をつき、手の甲で額の汗をぬぐった。「このすぐ下で声を聞き、変事かとあわててしまいました」

 津根が面目なさそうに肩をすぼめる。「お騒がせして、申し訳ありません」

「それより、あなたの脚は? 山登りなどして平気なのですか」

 真木が傷を気づかうと、直次は恐縮したようにぐっと顎を引いて頭を下げた。

「お心づかい、痛み入ります。もう、だいぶ普通に歩けるようになりました」

「そう。でも、あまり無理はなさらないでね。何か急用でもあったのですか」

「お客人をご案内してまいりました」

 そう言って彼が目を向けた先には、貿易商西之(にしの)清兵衛(せいべえ)の雇い人忠長(ただなが)がいた。真木が彼と顔を合わせるのは半月ぶりだ。前回会った際には、思い出すと少し気詰まりになるようなやり取りがあった。

 意識するほどのことではないかもしれないが、こうして対面すると、やはり少し落ち着かない気分になる。

「忠長どの」

 努めて平静を保ちながら声をかけると、忠長は深く低頭して礼を取った。

「奥方さまにはご機嫌麗しく、恐悦至極に存じます」

 これまでと変わらず礼儀正しく、控え目な態度だ。あの日、突如(せき)が切れたかのように恋慕の情を(ほとば)らせたことなど、すっかり忘れてしまったように見える。

「清兵衛どのは、また商いのお話中ですか?」

「はい。今日は、お蔵のものを何か拝見させていただくそうです。わたしは場所ふさぎになるだけなので、ご遠慮いたしました」

「なぜ、城山に登っていらっしゃったの」

「奥方さまが山へおでましになっておられると、貴昭(たかあき)公から伺いました。挨拶したいなら登ってよいともおおせられましたので」

 彼はちょっと言葉を切り、少し上目づかいに真木のほうを窺った。

「しばしお供することを、お許しいただけますか」

 駄目、とも言えない。真木はわずかに逡巡したのち、小さくうなずいて見せた。

「殿方には退屈でしょうけれど」

「めっそうもない」

 忠長が真木に歩み寄り、粗野な外見に似合わない優しい微笑を浮かべる。

「わたしもご一緒いたしますか」

 ふいに直次が訊いた。彼は表情を固く引き締め、問いかけた真木ではなく、忠長のほうを賢そうな目で見つめている。

 西之屋の者たちに気を許すなと彼は言っていた――真木は思い出し、ついてきてくれるよう頼もうかと一瞬思った。だが山歩きは直次の脚の傷に障るに違いない。杖をついている者に、無駄に負担をかけたくはなかった。

「いえ、だいじょうぶですよ」

 直次は特に異論を唱えることもなく、その場に留まって一行を少し見送ってから、ゆっくり道を下っていった。

 彼の様子が気になって、ちらちらうしろを振り返る真木に、忠長が横を歩きながら問いかける。

「あの傷は、湊での襲撃の際に受けられたものですか」

「ええ」彼女は顔を前に戻し、ため息をついた。「かなりの深手だったとか」

「ふたり相手取って、奮戦したおられたのを覚えています。噂に聞く通り、黒葛家中には腕の立つかたが多くいらっしゃいますね」

「代々、武で鳴らした家柄ですから」

 当たり障りのない会話を続けるうちに、真木たちは〈竹屋(たけや)曲輪(ぐるわ)〉と呼ばれる副郭に辿り着いた。陣屋を建てられるぐらいの面積はあるが、今は特に使用されていないようで、青竹が野放図に生い茂っている。その中に、隣接する〈南の曲輪〉へ続く踏み分け道があった。

「ここで少し休みましょう」

 真木は声をかけて一行を止め、すぐ上にある番所へ津根と女中をふたり行かせた。喫茶の支度をさせるためだ。

 残る三人の女中と侍女たちは、元気いっぱいに竹林の中を駆け回る貴之をあたふたと追い回している。奧番方のふたりは、客人との会話が聞こえない程度に距離を置いて真木の傍に留まり、用心怠りなく周囲を警戒していた。

「奥方さま……」

 少し強い風に笹の葉が揺れるさまを眺めていると、忠長が左肩のうしろにそっと近づき、静かに話しかけてきた。

「先日の――あれは」押し殺した低い声だ。「決して、浮ついた気持ちで申し上げたことではありません」

 まあ、こんなところで蒸し返すの。

 真木は思わず鼻白み、奧番方が不審がらないよう声を落として言った。

「あなたはご家族と離れてお勤めをなさっておいでだから、きっと寂しさのあまり心にもないことをおっしゃったのでしょう」

「いえ、あれはわたしの偽らざる思いです」

 引き下がるつもりはないらしく、少し熱を込めて抗弁する。

「初めてお目にかかったあの日より、あなたさまの面影が胸に深く刻まれ、消し去ることができなくなってしまいました」

 危険だ。なんて危険な真似をするのだろう、この人は。真木は薄闇に包まれるような心地になり、被衣(かづき)を少し引き下ろして忠長の視線から顔を隠した。

 夫がある女、それも名家の妻を城内で口説こうとするなど、とても正気とは思えない。命が惜しくないのだろうか。

 窮地を救ってくれた恩人として、彼には心から感謝している。無骨だが穏やかな人柄に好感も抱いている。だが、忠長に対する思いはそれだけだった。たとえ夫がいなかったとしても、男としての彼に自分が惹かれるとは思えない。

 彼を受け入れるつもりはないし、そもそもこんな会話自体あってはならないことだ。もしも余人に知られれば、いらぬ疑いを招いてしまいかねない。

 気の毒だけど、ここはきっぱりと()ねつけよう。そして今日を最後に、もう彼のことは遠ざけるようにしよう。

 そう心に決めて顔を上げかけた時、林立する青竹の向こうで誰かが悲鳴にも似た叫び声を上げた。

「いけません、若君!」

 沙和の声だ。竹林の中を動き回る女たちの衣装は見えるが、どれが沙和なのかはわからない。

「沙和、どうしたの」

 不安になった真木が呼ばわると、かなり遠くから細く返答があった。

「若君が蝶を追われて〈南の曲輪〉へ……」

 声が遠ざかっていくのは、貴之を追って走りながら喋っているからだろう。

「あちらには崖が――」

 後半は途切れてほとんど聞こえなかったが、前半だけでも真木をぞっとさせるには充分だった。

 崖だけじゃない、〈南の曲輪〉には、たしか深い井戸もある。

 真木は振り向き、奧番方のふたりに鋭く命じた。

「追って」

 小さい子供がどれほど捕まえにくいかはよく知っている。もうさんざん山を歩いてくたびれている上、裾さばきの悪い長着をまとった女中たちでは追いつけないかもしれない。

「すぐ戻ります。ここを動かずに」

 奧番方はそう言い置き、袴の裾をからげて走り出した。その姿が、みるみるうちに竹藪の向こうへ消えていく。

 ややあって、楽しそうな子供の笑い声が風に乗って聞こえてきた。どうやら貴之は、血相を変えて追ってきた女たちを相手に鬼ごっこを楽しんでいるようだ。

 あの様子なら危険な場所へ近づく間もなく、番衆に捕まえられて連れ戻されるだろう。

 ほっと息をついたところで、真木はふいにうしろから忠長に抱きすくめられた。乱暴ではないが万力のように強い力でしっかりと抑え込まれ、振りほどくことができない。

「忠長どの? 何をなさるの」

 必死に身をよじる真木を、彼は腕の中で半回転させて胸つき合わせた。

「奥方さま、お静かに」

 熱っぽい目をしているが、口調は冷静そのものだ。

「かなわぬ恋に身を焦がす男を哀れと思し召して、どうか、ただひとたびのお情けを」

「離しなさい!」

 噛みつくように言い、真木は渾身の力を込めて両腕を突っ張った。こちらの頭の中もかなり混乱しているが、なぜか忠長のほうも妙な戸惑い顔をしている。こうまで激しく抗われるとは思っていなかったようだ。

 その時、獣のような唸り声を上げて、背後の竹藪から突然なにかが飛び出した。とっさに振り向いた忠長の胸板めがけて、岩をも貫くような一文字突きが繰り出される。

 さしもの使い手も、この急襲を完全にかわすことはできなかった。急所は外したものの右肩で受けて仰け反りながら、落ち葉の積もった地面にどっと倒れ込む。そこへ間髪を入れず唐木田(からきだ)直次(なおつぐ)が飛びかかった。

 横臥する体に馬乗りになり、武器にした杖を横に構えて首をぐいと土に押しつける。そうして完全に動きを封じてから、彼はあたり一面に響きわたるような大音声(だいおんじょう)で叫んだ。

「狼藉者だ! 出合え!」

 ばたばたと駆けてくる足音に混じって、呼び子の鋭い音が鳴り響く。奧番方が詰め所の番士たちを呼ぶために吹いているのだろう。

 真木はその場に棒立ちになったまま、無言で直次と忠長を見下ろしていた。不意に突き落とされた恐怖からまだ回復しておらず、五体の震えを止めることができない。

「お怪我は」

 全身で忠長を押さえ込んでいる直次が、荒い呼吸をしながら問いかける。

 平気です、ありがとう――と言おうとしたが、わななく唇から出てきたのは別の言葉だった。

「あなたは……山を下りたものと」

「はい。そうするつもりでしたが、途中で何か気がかりになったので戻りました。お許しを得ないまま、秘かにお側に控えておりましたことをお詫び申し上げます」

「お詫びだなんて。あなたが……もしあなたがいなかったら――」

 声が涙で濁りかけたところへ、奧番方のふたりが駆け戻ってきた。その場の様子をひと目見ただけで事態を把握し、さっと抜刀して油断なく身構える。

 彼女らに続いて来たのは、女中たちではなく貴之だった。走り回ったせいで髪を乱し、汗びっしょりになっているが、目は楽しげに輝いている。

 しかし、直次が忠長を組み伏せているのを見て、はっと真顔になった。次に真木に目を向け、眉間に深く皺を寄せる。母親の蒼白な顔色に気づき、何が起きたのかと訝しんでいるのだろう。

 彼は慎重な足取りで男たちを迂回すると、真木のところまでゆっくり歩いてきた。すぐそばの地面に丸まっていた被衣(かづき)を見つけて拾い上げ、背伸びをしながら差し出す。

「かか、おちた」

 その屈託のない笑顔に心慰められるのを感じながら屈み込み、少しのあいだ真木はすがるようにして息子を抱きしめていた。

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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