七十三 御守国御山・街風一眞 父と師
射手としては恐るべき腕前だが、剣を持たせると凡庸きわまりない。
練兵場で菊と打ち合いながら、一眞はひそかに落胆していた。饗庭左近を片づける手駒として利用したかったが、これではあまり頼りにならなそうだ。
「なんで、そこで退くんだ」
打ち込みを払われるとすぐ及び腰になり、いったん距離を取ろうとする菊に向かって、一眞は檄を飛ばした。
「もう一歩前に踏み込んで打て」
「踏み込んだら突かれるわ」
抜けるように白い肌に朱を上らせ、総身に汗を浮かべた菊が言い訳がましく言ってさらに下がる。その逃げっぷりは利達を彷彿させた。だが、少なくとも彼女は自分からも打ってくるし、打たれるのをぼんやり待っていたりはしない。
「突かれるのがわかってるなら、それをかわして打ち込めばいいだろう」
一眞は木太刀を振り、菊が構えている剣先に打ちつけた。がら空きになった上半身に向けて、一直線に突き入れる。
切っ先を喉元につけて止めると、菊は顎を上げて仰け反ったまま棒立ちになった。
「実戦なら、いま死んだわね、わたし」
乱れた息の合間につぶやき、目を閉じて大きく嘆息する。
「離れて戦うほうがいい」
物憂げな表情は、いかにもやる気なさげだ。一眞は小さく舌打ちして剣を引いた。
「鉄砲や弓でか。たしかに、おまえにはそのほうが似合いだな」
ちょうどそこで「止め」の声がかかったので、彼は菊と向き合い一礼した。そのすぐ傍を、筆頭指南役の千手景英が大股に通り過ぎていく。
「水をひと口飲んでから、相手を替えろ」
稽古中、彼は修行者にたびたび水を飲ませる。さして渇きを感じていなくても、そう言われた時にはみな黙って従うのが常だった。一眞ももちろん逆らわない。景英が無駄なことをさせないのはよくわかっている。
回ってきた水筒からひと口飲み、次へ回したあと、彼は散らばっている仲間たちを見回した。
少し離れたところで汗を拭きながら、利達がちらちら視線をよこしている。だが一眞はにやりと笑み返しただけで、すぐに目をほかへ向けた。弱腰な者ばかり相手にしていては稽古にならない。
しかし伊之介や孫七郎など、これと思う使い手はもう次の相手を見つけてしまったようだ。彼はちょっと考えたあと、木太刀を提げて景英に歩み寄った。
「お願いします」
打ち合い稽古の時、指南役を対手に選ぶ者はめったにいないが、そうしてはならないわけではない。むしろ奨励されているが、こてんぱんにされるのは目に見えているので、普通は誰も願い出なかった。相手が景英の場合、気後れや遠慮がまさる部分もある。
一眞も指名されないかぎり自分から挑んだりはしないが、今日はなんとなく彼と打ち合いたい気分だった。さんざん打たれるだろうが、あわよくばひと太刀ぐらいは入れられるかもしれない。
「よし来い」
景英は刀架から木太刀を取り、片手でひと振りしてから正眼に構えた。それだけで、もう近寄りがたいほどの威圧感がある。
洞窟の中を満たす空気が急に重くなり、身を押し包むように感じられた。景英と向かい合うといつもこうだ。呪縛を解くには、己の内奥に気を充溢させるほかない。
一眞は大きく息を吸って頬を膨らませ、すぼめた唇から勢いよく吐き出した。頭の芯がすっと冷め、視界が明澄になる。
周りで打ち合いを始めた仲間たちが、朝稽古から進んでぼろぼろになろうとする酔狂者を興味深そうに見ているが、彼らの存在もすぐに薄れて意識から消えた。
眼前に立つ景英の姿だけが視界の中で際立ち、ぴたりと据えられた切っ先までくっきりと見える。
仕掛けようと思う前に体が動き出し、手元から剣がしなやかに伸びた。間合いは絶妙、踏み込みも充分、まさに渾身の一の太刀だったが、景英には軽く弾かれる。さらに迫り、返す刀で垂直に斬り下ろしたが、これも横に打ち払われた。
次の手を繰り出そうとする隙を狙って、今度は景英の獰猛きわまりない一撃が襲ってくる。逆袈裟に斬り上げるそれは、谷底から吹き上げて顔をなぶる真夏の熱風のようだ。上体を反らしてぎりぎりで避けたが、逃げ切れなかった顎先を熱い感触がかすめていった。その部分にたちまち腫れが生じるのがわかる。
恵まれた体格と豪腕にものを言わせる左近の剣も重いが、彼より細身の景英の剣はさらに重い。深く踏み込んだ足から伝わる力を、すべてもらさず剣に乗せて打ってくる。
今のは、もし当たれば昏倒させられていただろう。一眞は冷や汗が噴き出すのを感じながら体勢を立て直し、次々と斬撃を繰り出していった。しかし、じゃれかかる子猫をあしらうように、剣先で軽々といなされてしまう。
「遅い!」
景英の鋭い声が飛ぶ。
「わたしに息をつかせるな」
まだ手数が足りないと言いたいらしい。一眞は奥歯を噛みしめ、喉の奥から雄叫びを上げた。平正眼に構えた景英に肉薄し、足を前に進めながら猛然と打ち込んでいく。
ほんの少しだが、景英が下がった。それに乗じてさらに前へ進む。
誘い込まれているのか――という思いが一瞬頭をよぎったが、すぐにそれを振り払った。いや、押している。今はおれが攻めている。
猛攻の間隙を突いて、景英が上段から打ってきた。それを胸先でがっちり受け止め、腕にぐっと力を込める。以前なら簡単に打ち負けていたが、最近は腕力がついてきたので易々と打ち切られはしない。
両足を踏ん張って全身で押し返すと、見下ろす景英の目がきらりと光った。
「腰を入れろ」
そう言われて意識が腰に移った瞬間、体の中心に一本太い芯が通り、さらに腕に力が乗った。それを余さず使って、重くのしかかる剣を弾き返す。
木っ端が飛び、景英が大きく一歩退いた。そこを逃さず、まっすぐに突き入れる。
入ったと確信したが、一眞の切っ先は景英の右鎖骨下に軽く触れるに留まった。その横からするすると伸びてきた剣尖に右胸を正面から突かれ、あっと思う間もなく吹っ飛ばされる。
「立てるか」
ふと気づくと、景英が傍に立って片手を差し出していた。背中の下には硬い岩の地面がある。打ち倒され、少しのあいだ伸びていたようだ。
一眞は頭を起こして左右に振り、彼の手にすがって立ち上がった。胸には石を載せられたような重い痛みがあり、足元がふらふらと覚束ない。
「今のは果敢でよかった。だが攻めに集中しすぎて、守りが甘くなったな」
「はい」
うなずきながら、彼は敗北の苦い味を噛みしめた。守りを捨てた攻めすら届かないなら、どうやってこの男に勝てばいいのだろう。
御山に来たころと比べて、自分が強くなっているという実感はある。だが景英と打ち合うたびに、それが揺らぐのが悔しかった。
「一眞」
名を呼ばれて顔を上げると、景英が道着の胸元を引き開けていた。鎖骨の下、ぴんと張りつめた皮膚の上に、ほんのわずかなくさび形の赤みがさしている。一眞の切っ先が触れた場所だ。あの渾身の突きは、自分で感じたよりは深く入っていたらしい。
「近づいているぞ」
彼はそう言って一眞の背を軽く叩き、ほかの者たちの稽古を見回りに行った。
「なんか、機嫌いいね」
農作地で午後の当番作業をしながら、利達がふいに言った。
「機嫌いい?」一眞は腰を伸ばし、額に浮いた汗を腕でぬぐった。もう詠月に入っているとはいえ、畑で体を動かしているとやはり真夏なみに暑く感じられる。「そうか?」
「うん、なんとなく」
相変わらず不器用な鍬使いで土を掘り返しつつ、利達がこっくりうなずく。
「嬉しいことがあったような感じだよ」
「朝稽古の傷が忌々しいほど疼いてるし、自分じゃそうは感じないな」
愚痴をこぼすと、彼は手を止めて一眞の顎下を覗き込んだ。
「すごい蚯蚓腫れだなあ。まるで虎に引っかかれた痕みたいだ」
「切っ先がかすっただけでこれだ。あいつは強すぎる」
「わかってて挑んだくせに」片眉を上げながら言って、くすくす笑う。「それに、今まででいちばんよくせめぎ合ってたよ。堂長が押されるところは初めて見たし、最後の突きも、ぞっとするぐらい鋭かった」
「でも倒せなかったし、逆に返し技を食らったぜ」
「あの人に追いつくのには十年か十五年はかかるって、前に自分で言ってたじゃないか。あせらなくたって、これから時間はいくらでもあるよ」
そうだろうか。ほんとうにおれはそんなに長く、ここにいるつもりなんだろうか。
一眞は声に出さずに自問した。
下界でしたことのほとぼりがさめるのを待って早々に降山しようと考えていたのに、近ごろではほとんどそれを忘れかけている。しかし御山での暮らしに愛着がわいたわけではなかった。規律は厳しいし食事はお粗末、調練と当番の合間にも、やれ祭祓だ儀式だといってはたびたび駆り出されて働かされる。祭堂での日々の勤めも、信仰心がない者にとっては退屈な苦行意外のなにものでもない。
だが武術調練だけは楽しかった。指南役が饗庭左近であってもだ。幼少から父親の家来の義益に仕込まれ、家を出たあとはもっぱら実戦で腕を磨いてきたが、ここで指南を受けるようになってから自分が格段に進歩したのを感じている。
技の鋭さと正確さが増し、より速くなった。伊之介と毎夜行っている自主鍛錬のおかげで体力がつき、剣に重さも加わった。体格差がある相手とやり合っても、最近は押し返して打ち切ることができるようになっている。
今日は初めて、たった一歩だが千手景英を後退させた。あそこで爪先もうひとつぶん懐に入れていたら、相討ちに持ち込めていたかもしれない。だが景英がそうさせなかった。あの堅い守りを突き崩すには、どんな戦法をとればいいのだろう。そして攻めと守りを両立させるには何が必要なのだろう。
そういうことを考えていると、腹の底からぞくぞくする感覚が湧き上がってくる。
近づいている、と景英は言ったが、あれはどういう意味だろうか。何に近づいているんだろう。はるか高みに立つあいつの域にか。それとも、いつか見届けたいと言ったおれの〝剣の完成〟にか。
「人は人生でかけがえのない三人の師に出会うというけど……」掘り返した土のあいだから覗く小石を拾いながら、利達がしみじみと言った。「おまえにとっては、そのひとりが堂長なんだな」
「なんだって?」
一眞は物思いから醒め、彼のほうを見た。睨んだつもりはないが、かなり険のある眼差しになったようで、利達がちょっと怯んだ様子を見せる。
「そう――思うよ。違うかな? 堂長と打ち合ってる時がいちばん楽しそうに見えるし、あの人を信頼して、すべてを委ねてる感じがする」
「冗談だろう」
これも意図せず、斬り返すような口調になってしまった。
「おれはあいつが苦手だ。正直、憎いと思うこともある」
「それはほら、あれだよ」
利達は思いがけず強い反応を示されたことに戸惑いをおぼえているらしく、口の中で自信なさげにもごもごと言った。
「若いうちはよくある、親への反抗心みたいなものじゃないかな」
「あの男はおれの親じゃない」
「でも堂長は聡明で強くて、厳しいけど思いやりがあって懐も深くて、こんな父親がいたらいいなと思うような人だろう? だから教えを受けるうちに、父親になぞらえて見るようになっても少しもおかしくはないと思うんだ。父のように慕い敬う師匠のことを〝師父〟と言ったりするしさ」
「そんなのは絵空事だ!」
一眞は叫ぶように言い、利達の胸ぐらを掴んで顔を突き合わせた。
「強くて賢くて、厳しいけど思いやりがあるなんて、そんなご立派な父親はどこにもいない。いるわけがない。父親なんてものはみんな――」
そこまでまくしたてて、はっと我に返った。利達は目をまん丸に見開き、ぽかんと口を開けて固まっている。その手から小石がふたつ、柔らかい土の上にぽとりと落ちた。
いくつもの遠慮がちな視線を感じる。周りで作業をしていた仲間が、訝しげにこちらを見ているのがわかる。
一眞は利達の胸から手を離し、大きく深呼吸した。
「……すまん」
つぶやくように謝ると、利達はごくりと唾を飲み、ぶるぶる首を振った。
「い、いいんだ」その目に罪悪感がにじんでいる。「あの、おれ、何か悪いこと言っちゃったかな。ごめんよ」
「違う。おまえは悪くない」
こいつ、まったくお人好しにもほどがある――と思いながら、一眞は彼をまっすぐに見た。疲労感で体が重くなり、胸の打ち身がますます疼き出した気がする。
「朝から痛い目みて、ちょっと気が立ってたんだ」
ふいに激昂した言い訳としてはお粗末だが、ほかに適当な言葉を考えつかなかった。強いて笑みを浮かべると、利達がほっとしたように微笑み返す。
「そっか、よかった。よくはないけど。いや、よくないっていうのは、気が立ってるのはよくないってことで、批判とかじゃなくて」
ずいぶん、とっ散らかったしゃべり方だ。まだ少し動揺しているのかもしれない。しばらく距離を置いてやれば落ち着くだろう。一眞はそう思い、手に持っていた鍬を地面に寝かせた。
「顔を洗ってくる」
利達をそこに残し、水場のほうへぶらぶら歩いていく。先ほど緊迫した空気に驚いていた者たちは、もう興味を失ったらしく、すでにそれぞれの作業に戻っていた。
農作地の端にある湧水の小池の周りに人はおらず、大きく張り出したケヤキの枝だけが鏡のような水面に静かに影を落としている。一眞は池のほとりにしゃがみ込んで手を洗い、水を何杯もすくって顔にかけた。湧き水は凍るように冷たく、眉間にきりっと痛みがはしったが、お陰で頭がすっきりした気がする。
水滴をしたたらせながら波紋を見つめていると、ふいに右横に人影が差した。見上げると、菊がすぐ傍に立って手ぬぐいを差し出している。
「こないだ貸してもらったのを返すわ」
一眞は黙って受け取り、濡れた顔をさっと拭いた。手ぬぐいはきれいに洗った上に、熨してしわを伸ばしてある。菊がそんなしおらしい真似をするとは意外だ。
彼女はそのまま隣にしゃがみ込み、横目にこちらを見た。
「さっき、なんで怒ってたの」
「おまえに関係ないだろう」
「あんたも、人前で切れたりするのね」つぶやくように言い、ふふ、と含み笑いをもらす。「利達がおろおろしてた」
黙って睨むと、彼女は小さく肩をすくめてみせた。
「おお、こわ」
少しも怖がってなどいないような口調だ。
「あんたは敵に回したくないわ。強くて、冷たくて、なんだか底知れない」
「じゃあ、なんで周りをうろちょろするんだ。おれが怖いなら離れてろよ。そうすれば、おまえに腹を立てることもない」
「でも、興味があるのよ」
菊はそう言いながら、池の水に漬けた指を弾いて一眞の顔に雫を飛ばした。やたら艶っぽい笑みを浮かべている。
こいつ、おれを怒らせたいのか。それとも誘ってるのか。
一眞は頭を振って頬についた水滴を払い、片眼をすがめて彼女を見た。
「また痛い目に遭いたいのか」
きつい調子で言ったが、脅し言葉に動じる様子はない。
「今朝のあの打ち合い、すごかったわよ。あんた、みんなを置き去りにしてどんどん強くなってくわね。堂長も期待してるみたいじゃない」
今度は持ち上げていい気にさせようという腹らしい。
一眞は立ち上がり、周囲にさっと目を走らせた。当番仲間はみな離れたところで働いており、誰かが近づいてきそうな気配はない。なかなか戻らないので利達は気を揉んでいるだろうが、あと少しだけならここに留まっても問題はないだろう。
つられて腰を上げた菊のほうを見て、いずれ持ち出すつもりだった問いを単刀直入にぶつけてみる。
「おまえ、左近がいなくなればと思うことはないのか」
「始末してくれるの?」
間髪を入れず問い返した菊の表情は固く引き締まり、真剣そのものだった。いつも物憂げな目が別人のようにぎらついている。
「馬鹿、なんでおれが」一眞は鼻で笑った。「おまえのためにそんなことして、どんな得があるっていうんだ」
「左近を始末してくれるなら、何でも言う事をきくわ。あんたならきっと、あいつにだって勝てる。堂長とあれだけやり合えるんだもの」
まるで事前に用意してきたような台詞だ。なるほど、これが狙いでおれに近づいてきたのか――と思いながら、一眞は慎重に返答した。
「そう思い通りにいくもんか。左近だってかなり使うぞ。それより、おまえのほうがずっと簡単に殺れるはずだ。女の上で腰ふってる時は、たいていどんな男も無防備だからな」
菊の目を見据え、淡々と言う。
「削ったケヤキかアカガシの枝を一本忍ばせておけば、隙を突いて一撃で倒せる。狙うのは耳の穴か目玉がいい。相手が大口開けて喘いでたら、喉の奥に突き刺すって手もあるぞ」
「む、無理よ」
彼女はぞっとしたように身を震わせて、少しうしろへ下がった。
「わたしには無理」
「できるさ」
「できない」あくまで頑固に言いつのる。「失敗するわ。そして反対に殺される。あいつがどんなに酷くて容赦のない男か、あんた知らないのよ」
「まともに立ち向かったら無理でも、不意打ちなら勝算はある。だが、おれは人目のない場所でそこまであいつに近づけないだろうし、油断させる手段もない」
「じゃあ、わたしが協力する。あいつをどこかへ呼び出して――」
「それで、肝心なところはおれに丸投げか?」
一眞は冷ややかな声で言い、彼女を上目づかいに睨めつけた。
「本気であいつから逃れたいなら、自分でやれ」
晒したように青白い顔をして、菊が首を振る。彼女はじりじりと後退し、ある程度離れるとさっと踵を返して駆け出した。無理よ、無理、とつぶやく声が遠ざかっていく。
結局、すべてに弱腰な女なんだな。一眞は後ろ姿を見送りながらそう思い、小さくため息をついた。あれでは左近につけ込まれるのも無理はない。
しかし却下はしたものの、菊に誘い出させて自分で殺すというのはなかなか悪くない案だと思えた。彼女にまたがっている左近のうしろに忍び寄り、尖ったもので延髄をひと突きする。石で頭をかち割る。紐で首を絞め上げる。慎重に事を運べば、どれもうまくいきそうな気がする。
だがそれは、あくまで最後の手段だ。やはりうまく菊を利用して、自分とはかかわりのない時と場所で殺させるほうがいい。だが、あの女を支配して意のままに操るには、何か決定的な脅迫材料が必要だ。弱みを握り、恐怖させ、言うことを聞かざるを得ない状態に追い込む――そう、左近自身が彼女にやっているように。
そろそろ本気で、菊のことを探ってみるべきだろう。
日暮れ前に空模様が怪しくなり、七ノ上弦道の小祭堂で宵の祈唱が始まるころから雨が降り始めた。肌寒い空気をまとい、夏の終わりを予感させる冷たい雨だ。
修行者たちが食堂に集まった六つ半には本降りになっており、熱い汁がことさらに旨く感じられた。中に入っている実は少ないが、体が温まるだけでもありがたい。
板間で尻を冷やしながら黙々と飯をかきこんでいるあいだ、一眞は向かいに座る玖実と一、二度目くばせを交わした。いつものくぼ地で温習稽古のあとに会う予定だったが、雨がやまなければ中止だと無言で伝え合う。彼女とは実際に肌を合わせている時よりも、なぜかこういう瞬間のほうがより親密さを感じるから不思議だ。
食事を終えた彼は少し食休みをしてから、伊之介と共に練兵場へ行って半刻ほど打ち合った。いつもより早めに切り上げたのは、胸の打ち身が疼いて集中できなくなったからだ。
薬療院で手当てを受けており、骨に異常はないと言われているが、あまり無理をすると翌日にまで響いてしまいかねない。今夜は早めに休んだほうがいいだろう。
洞窟を出ると、雨はますます強くなっていた。
「よく降るなあ。しかも冷たい」
小走りに宿堂へ向かいながら伊之介がぼやく。だが、濡れることを嫌がっているふうはなかった。いつか話していたが、彼が生まれ育った西峽南部は雨の多い土地なので、驟雨に遭ってずぶ濡れになるなどは日常茶飯らしい。
一眞のほうは、雨は嫌いだった。暑い季節には蒸されてうんざりするし、寒い季節にはみじめな気分にさせられる。
着衣をあまり濡らさないよう、全速力で宿堂まで駆け戻った彼は、戸口脇の影になったところに玖実が佇んでいるのを見つけた。おれを待っていたのだろうか――と思いながら階段を上り、張り出した庇の下へと駆け込む。
そのすぐあとにやって来た伊之介は、玖実に気づくと意外そうな顔をした。
「なにやってんだ、こんなとこで」
「べつに。雨を見てたのよ」
「風邪ひくなよ」
妹を気づかうような調子で言って堂舎へ入ろうとした彼が、戸口で動かない一眞を訝しげに見る。
「どうした、入らないのか」
「厠に寄ってから戻る」
伊之介の大柄な姿が廊下の奥へ消えると、一眞はあらためて玖実のほうを向いた。
「やまなかったな」
「うん」彼女は雨だれを透かして、木々の影を見つめながらうなずいた。「いちおう出てきてみたけど、これじゃ無理ね」
ちらりとこちらに目をやり、口の端に意味深な笑みを浮かべる。
「したかった?」
挑発的な言葉にどう返すか考えたあと、一眞はおもむろに彼女の腕を掴んだ。力任せにぐいと引っ張って抱き寄せ、強引に唇を重ねる。
玖実はわずかに抵抗したものの、すぐに力を抜いて接吻に応えながら、空いた手を彼の首に巻きつけた。
このまま学堂にでもしけ込むか、という思いがふと一眞の頭をよぎる。まさか温習時間に、学堂で教典を読んでいるような物好きはいないだろう。だが昂ぶったのはほんの一瞬で、それが爆発する前にふたりは体を離して適度な距離を取った。
少し息を乱した玖実が、戸口を挟んだ向こうから軽く睨む。
「誰か来たらどうするのよ」
「そう思いながらするから、いいんじゃないか」
「馬鹿ね、なに言って……」
そこで冷たい表情を保てなくなり、玖実は頬をすぼめてぷっと吹き出した。
「笑わせないでよ。でも、その通りね」
喉の奥で低く笑い、汗でもかいたかのように手で顔を扇ぐ。
「誰にも邪魔されず文句も言われずに、好きな時に好きなだけできるようになったら、あたしたちお互いすぐに飽きる気がする」
「そうかもな」
一眞は否定しなかった。玖実と懇ろな関係になったのは、閉鎖的な御山の環境下にいたからこそだとつねづね思っている。下界で知り合っても、おそらく彼女と寝る仲にはならなかっただろう。だが、そこまであからさまなことを言う必要はない。
「堂長にやられた傷も痛むし、今日はもうおとなしく寝床に入る」
「あんた、菊と寝てるの?」
あまりにも突然の問いかけだったので、一眞はしばらく返事をできなかった。完全な不意打ちだ。まさか彼女の口から、その名が出てくるとは思わなかった。
「なんだ、いきなり」
「はぐらかさないで、ちゃんと答えて」
玖実の口調は落ち着いており、目はまっすぐに一眞を見ていた。それで、これは悋気とは関係のない話なのだとわかったが、情人の務めとしていちおうつついてみることにする。
「妬いてるのか?」
「うぬぼれないでよ」
彼女は片眼をしかめ、小生意気に鼻で笑った。
「最近、菊があんたにちょっかいかけてるって耳にしたから、確認しておこうと思っただけ。ほかの女と寝るのは勝手だけど、同時にあたしともってのはご免よ。あの娘に乗り換えるならそう言って」
「乗り換えるわけないだろう、あんな女」
玖実が少し驚いた表情になった。
「嫌いなの?」
「好きとは言えないな。おまえは?」ふと思い立って訊いてみる。「あいつと一緒にいるところを見たことがない」
「あたしは――そうね、仲良くはないわ。じつを言うと、あんまり近づかないようにしてる」
「なぜ」
「あの娘、ちょっと悪い癖があるのよ。それを一、二度たまたま見かけて……かかわりになりたくないなと思ったの」
一眞は物欲しそうな顔をしないよう、心の中で自分を戒めながら、ゆっくりと玖実に近づいた。少し屈んで顔を寄せ、小声で先を促す。
「悪い癖って?」
「なによ、やっぱり興味があるんじゃない」
「そこまで聞いたら、気になるに決まってるだろう」
玖実は眉根を寄せてしばらく考えていたが、やがて意を決したように一眞の襟を掴んでさらに引き寄せた。
「盗み癖」息だけの囁きを、そっと耳に吹き込む。「たぶん常習化してると思う」
「くすぐったいだろ」
一眞は文句を言って彼女を押しのけ、耳穴を指でほじった。
「盗むって、誰から盗むんだ? 女部屋の仲間からか?」
「ううん、外の人。ほら、あたしたち月に何度か、宿房の仕事をしに行かされるじゃない。それで菊と一緒になった時、泊まりの参拝者の荷物をこっそり漁ってるところを何度か見たの。でも、余計な差し出口をしたくないから黙ってた」
「そういえば――」話を聞いているうちに、思い出したことがある。「何か高価な寄進物が宿房からなくなったって、一度騒ぎになったことがあったな。あれも菊の仕業か?」
「それはわからないけど、可能性はあるかもね」
まったく思いがけないところから、思いがけない情報がもたらされた。左近が握っていると思われる菊の弱みは、きっとこれに違いない。
不犯と不盗――掟戒にふれる行為を、御山の中でふたつも同時にやっているとは、まったくあきれた女だ。どちらか一方でも追放は免れないが、ふたつとなると仕置きにかけられることも充分にあり得る。それを恐れるあまり、彼女は左近に唯々諾々と従っているのだろう。
玖実には感謝しなければ。お陰で問題解決への突破口が見いだせた。
一眞は手を伸ばして彼女をもう一度抱き寄せ、こめかみに軽く触れるだけの接吻を落とした。いつも強気な玖実が妙にどぎまぎした様子になり、頬にうすく血を上らせる。どうやら照れているらしい。
「なんなの、急に」
「なんでもない。ただ――」にやりと笑い、彼女の髪をくしゃくしゃになで回す。「おまえはいい女だって、あらためて思ったのさ」
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