七十二 王生国天山・石動元博 覚悟
「膝の具合は」
打ち込みを軽くいなしながら、月下部知恒が訊く。茶飲み話でもしているかのように落ち着いた声音だ。
「だいぶ、よくなりました」
石動元博は弾む息を抑えながら答えた。
「はじめのころほどは痛みません」
「ならば、もっとしっかり前に踏み込め」
知恒が発破をかけて鋭く突き入れる。使っている剣は練習用で、刃はついていない。だが彼ほどの達人なら、本気半分で突いても人を殺すことができるだろう。
元博は首筋の毛がそそけ立つのを感じながら左に避け、横から合わせて剣先を弾いた。鋼のぶつかる音が鼓膜をびりっと震わせる。
早朝の稽古場には彼と知恒しかおらず、広い板敷きの床は薄い朝霧に煙っていた。ふたりが動き回って空気を掻き回すごとに、それが少しずつ晴れていく。
まだ打ち合い始めてからいくらも経たないが、元博はすでに汗だくだった。刃引刀は手に重く、平気だと強がりを言った膝もずきずき痛む。だが自分から教えを請い、指南してもらえることになったのだから、この機会を無駄にしたくはない。
彼が最初に話をもちかけた時、知恒はまともに取り合おうとしなかった。それは当然のことだ。彼にしてみれば、人質奉公に来ている他家の家臣に剣の手ほどきをする義理などない。何の得にもならないし、そもそも興味も持てないだろう。
「なぜ、おれだ」
舟遊びの日から五日後、まだ杖にすがって歩いていた元博が御殿の廊下で出会いざまに希望を伝えると、彼は開口一番そう訊いた。
「南部から来た朋輩の中にも、それなりに剣を使える者はいるだろう」
「はい。真栄城忠資どのから教えを受けています。でも、もっと強くなるために、是が非でもあなたに稽古をつけていただきたいのです」
「おれでなければならぬ理由は」
「若君が刺客に襲われたあの時――知恒どのはその場にいた誰よりも速く動き出し、まばたきをする間もなく敵を倒されました」
「大皇妃陛下よりご下命をたまわったゆえ」
なぜか言い訳がましい調子で言い、知恒はばつが悪そうな顔をした。
「命じられれば、頭で考える前に体が動く。よくしつけられた犬と同じだ」
「あなたは少しの躊躇もなく、空手のままで敵に向かって行かれた。そして次の瞬間には敵の脇差しはあなたの手にあり、その刃が相手の胸に沈められていました。これまでに、あれほど水際だった手並みを目の当たりにしたことはありません」
「たんに出会わなかっただけだろう。おれぐらいの使い手など、世の中にはいくらでもいる」
「でも、天山にはいない」元博は挑戦的ともいえる口調で言いつのった。「そうでしょう」
「そうだ」
言下に認め、彼はつまらなさそうに元博を見た。
「だから、なんだ」
「〝まともな師匠につけ〟と、以前おっしゃいました。わたしの筋は悪くない、もっと修練を積めとも。この天山には、あなた以上の使い手はいない――ということは、あなたこそが最高の師匠です。刺客との戦いをつぶさに拝見して、そう直感しました。簡単でないことはわかっていますが、わたしは知恒どののようになりたい」
だからこうしてお願いしているのです、と迫った時の知恒の剣呑な目つきは忘れられない。見た者を氷柱に変えそうな氷のひと睨みで元博を黙らせると、彼は何も言わずにその場を去った。
以前ならそこで弱気になり、あきらめてしまったかもしれない。だが元博は即座に計画を変え、知恒が奇しくも自ら表現したように、彼を忠犬のごとく従わせることができる権威絶大な人物から働きかけてもらうことにした。そんなやり方は少し卑怯かもしれないが、なりふりかまってなどいられない。
彼が仲介役として頼ったのは、大皇妃三廻部真名だった。出会いの印象がよかったのか、格別の愛顧を受けている主人貴昌の余得にあずかっているのかはわからないが、彼女は不思議と元博に対して好意的だ。おそれながらと願い出てみると、すぐさま知恒に便宜を図るよう命じてくれた。その上、本曲輪御殿の稽古場を自由に使っていいという。
一度そうと決まると、知恒の切り替えは早かった。命令には不服であり、元博へのいら立ちも感じていたはずだが、繰り言をいって無駄に時を費やすことはしないあたり潔い人物と思える。
亜矢姫の護衛という彼の御役に差し障りのないよう、稽古は四日に一度、暁七つから御殿門の番士が交替する明け六つまでと取り決められた。
知恒は刻限通りに現れることが多いが、少し遅れて来ることもある。元博はいつも早めに行って身支度を整え、体を動かして温めておくよう心がけていた。というのも知恒の稽古は打ち込み中心で、顔を合わせるとすぐに打ち合いが始まるからだ。
素振りや型稽古、組太刀といった基礎的なことは、彼の念頭にはまったくないようだった。そういうことは普段から自主的にやっておけということだろう。
本身を刃引刀に差し替え、抜いたと思うや否や無造作に打ちかかってくる。元博も負けじと打ち返す。さらに打たれて押し込まれ、なにくそと前に出ながら反撃する。ひたすらその繰り返しだった。
少しでも甘い動きをしたり、防御が疎かになったりすると、情け容赦のない一撃が襲ってくる。手加減はしてくれているはずだが、ただ自分がそう思いたいだけかもしれない。
稽古を始めて以来、元博の体からあざや傷が消えることはなかった。当たりどころによっては皮膚が裂けて出血することもある。だがそのお陰か、痛さに慣れこそしないものの、痛みで怯むことはなくなってきたように感じていた。
「集中しろ」
知恒が剣を振りながら鋭く言った。
「おまえは考えすぎる」
刀身のひらで左上腕を横ざまに打たれ、元博はなすすべなく吹っ飛ばされた。板間の上をごろごろ転がり、壁に激突してようやく止まる。
頭を振って体を起こすと、手にあったはずの刀がなくなり、知恒がすぐ近くから見下ろしていた。灯火を背負い影になった顔の中で、白目だけが異様に際立っている。
「おれが強いのはなぜだ」
穏やかな声が問いかけてきた。まともに攻撃を食らって無様な姿をさらしたが、腹を立ててはいないようだ。
「あなたが強いのは――」
元博は打たれた腕を押さえながら、必死に頭を働かせた。
月下部知恒は強い。それは確かだ。だが、彼を強者たらしめているものはなんだろう。体格だろうか。技の鋭さだろうか。動きの速さだろうか。
これまで何度か剣士と相対した経験と照らしてみても、彼の速さは群を抜いているように元博には思えた。抜くのも振るのも速く、息つく間も与えずに次々と手数を繰り出してくる。これが答えかもしれない。
「速いからです」
「なぜ速い」
そんな問いは予想外だった。なぜ速いかなど、わかるはずがない。身体的に恵まれているのかもしれないし、何か特別な鍛錬をしている可能性もある。
思わず考え込んだ彼の腕を掴み、知恒は荒っぽく引っ張って立ち上がらせた。
「おれが速いのは、迷わないからだ」
上から顔を覗き込みながら、にこりともせずに言う。
「たいていの者は戦いながらあれこれ考えるが、次にどう仕掛けるか、相手の弱みは何か、考えれば考えるほど迷いが生じる。この手でいいのか。避けられたらどうするのか。そんなことを思い惑っていると足さばきが鈍り、振りが遅れる。そして負けるのだ」
彼は手を離し、板間の中央まで飛んだ剣を拾いに行った。
「おれは考えないから迷わない。迷わないから速い。速いから強い。単純なことだ」
喋りながら戻って来て、柄の先端を元博の鼻先に突き出す。
「おれのようになりたいなら――」
そこで彼は口をつぐんだが、射るような目を見れば言いたいことはわかった。
おまえも単純になれ。
稽古を終えると、元博はふらふらしながら道場裏の井戸へ行き、湯気が立つほど汗にまみれた道着を脱いで体をぬぐった。さっぱりと小袖に着替え、髪を縛り直して整え終わるころには、疲れ果てた腕や脚の震えもどうにか止まっている。
彼は裏木戸から外へ出ると、表御殿脇の横道を通って、漬物などの仕込所が集まっている一角のほうへ歩いていった。雑木林に囲まれた静かな場所で、そこから石段を登ったすぐ上に奧御殿の西殿舎がある。
石段の中ほどには白須美緒がいて、元博がやって来るのに気づくと小さく手を振ってみせた。
朝日の中で微笑む彼女の肌が、いつにも増して白く見える。だが頬はうっすら桃色を帯びていた。少し寒いのかもしれない。
元博は小走りに石段を駆け上がり、彼女の横に腰を下ろした。美緒がさっそく、膝の上に載せていた風呂敷包みを開く。ふたりの出会いの象徴ともいえる、あの朝顔花丸紋の風呂敷だ。
「ありがとうございます」
竹皮の包みを受け取った彼は、大きな握り飯を取り出してぱくついた。今日は中に刻み牛蒡の甘辛煮が入っている。横にはぱりぱりした胡瓜の甘酢漬けも添えられていた。
本曲輪御殿の道場で稽古をしてから仲間のところへ戻ると、たいてい朝餉が終わってしまっている。元博の分はちゃんと残されているが、それをひとりで食べるのはなんとなく味気ないものだ。何げなくそんなことを美緒に話すと、彼女は稽古日に握り飯を用意してくれるようになった。奧御殿の台所でこっそり握り、朝支度の合間を縫って持って出てきてくれる。
「この牛蒡、とてもいい味ですね」
「よかった」
美緒はにっこりして、ちょっと恥ずかしそうにうつむいた。何度か顔を合わせて、お互いにだいぶ打ち解けてきたと感じているが、彼女の内気さは相変わらずだ。
「若君のお加減はいかがですか?」
「朝夕に決まってお熱を出されるので、みんな心配しています。ご本人はだいじょうぶとおっしゃいますが」
「傷はそろそろふさがるころでしょう?」
「お顔や腕はいいんですが、いちばん深かった胸の傷の治りが悪くて、まだ抜糸できないんです」
彼女は自分も痛みをおぼえたかのように胸元を手で押さえ、濃くてまっすぐな眉をわずかにひそめた。
「おかわいそうに……。伯母も若君のご容態をとても気にかけていて、またお見舞いに伺いたいと申しておりました」
「白須家のかたがたにはご親切にしていただき、本当にかたじけなく思っています。ご城内には、わたしたちのことを快く思っておられないかたも多くいらっしゃいますから」
そうだとも違うとも言わないものの、それが事実であることを美緒の表情が物語っている。
「美緒どのは奧御殿にお勤めだから、お女中衆や奧番方の噂話などを耳にされることもあるでしょう?」元博は慎重に言葉を選びながら言った。「黒葛家について、何か聞いていらっしゃいませんか」
「悪いことを言う人ばかりではないのですよ」
あわてたように言い、美緒は膝の上で両手をぎゅっと握り合わせた。
「津雲家の皆さまなどは、貴昌君にとても好意を持っておられます。津雲康長さまの奥方が、先日そう話しておられました。それに妙泉家や牟田神家のかたがたも」
「では、好意をお持ちでないかたは?」
「それは……」
こんな質問が、彼女を苦しめることはわかっている。だが元博は敢えて追及の手をゆるめなかった。
「もしご存じなら、ぜひ教えていただけませんか。というのも、わたしたちはこのあとも長く天山にいることになるかもしれませんから、黒葛家に好意的でない人をちゃんと把握した上で、気づかいしながらうまくおつき合いしていきたいと思っているのです」
この話にはかなり説得力があったに違いない。美緒の表情から、ほんの少し緊張の色が薄れたようだ。
「あの――そうですね、それはとてもよいことだと思います。わたしがこれまで聞いたかぎりでは……」彼女は告げ口を恥じ入るように目を伏せ、か細い声でぼそぼそと言った。「比与森家や忽那家……のかたなどは、南部からいらした皆さまに、少し含むところがおありのようです」
「それは、どんなお家ですか」
「比与森家は三廻部家の古くからの支族です。堂官国西方の海岸地域に所領をお持ちで、水軍を預かっておられるとか。忽那家は天山の代替わりの戦で活躍されて王生国の二郷を、分家の圓家も一郷を治めることになったそうで、近代になってから勢力を強められたお家です」
元博は指についた飯粒を唇でつまみ取りながら、頭の中にその情報をしっかりと刻みつけた。
比与森家と忽那家、どちらともこれまでに交流らしい交流はしていない。慶城の大広間では、どのあたりの席次を与えられていただろうか。当主はどんな人物なのか。次に機会があったら、よく確認しておこう。
ふと気づくと、美緒が不安そうな顔でこちらを覗き込んでいた。
「とても参考になりました」笑顔を見せ、ぺこりと頭を下げる。「ありがとうございます」
「いえ、そんな――たいしたことはお話しできなくて……」
「ご城内のことはほとんどわからないので、美緒どののように事情に明るいかたから、いろいろ聞かせていただけると助かります。また何かお気づきのことがあったら、話してくださいますか?」
「はい。あの……女中仲間の噂話程度のことでもよろしければ」
少し強引に事を進めすぎたかとも思ったが、美緒はためらいながらもうなずいてくれた。疑いや不信感を持った様子はなく、天山での人づきあいに腐心する南部衆にむしろ同情心を抱いているようだ。
「わたし、そろそろ勤めに戻りますね」
風呂敷を畳んで懐にしまい、名残惜しそうに腰を上げた彼女を、いつものように石段の上まで送っていく。
「ではまた」
「はい、次の稽古日に」
微笑んで小走りに駆けて行く美緒を見送りながら、元博は知恒に打たれた時よりも鋭い痛みが胸を刺すのを感じていた。
黒葛貴昌が大皇妃主催の舟遊びで刺客に命を狙われて以来、南部衆はずっと慶城二の曲輪御殿の庭園内にある館に留まっていた。
〈槻影館〉と呼ばれるその建物は、大皇や大皇妃が滞在する際の御座所として使われるふたつの館のうちのひとつで、幅広い川がぐるりと取り囲む孤立した場所に建てられている。舟付場はなく、南側にかけられた長い橋を渡る以外に館へ近づく方法はない。
現在は黒葛家の雑兵衆と桔流家の下士が橋と館の周囲を、さらに大外の川沿いを大皇三廻部勝元配下の番士ががっちりと固めている。まさに水ももらさぬ警備体制だ。
負傷した貴昌を桔流邸内の〈賞月邸〉へ戻すのではなく、この館で静養させるよう強く主張したのは大皇妃真名だった。人知れず接近するのが困難な立地なので警護しやすく、慶城差し向けの療師が通いやすく、彼女自身の目も届きやすいというのがその理由だ。
本曲輪から下りてきた元博は〈槻影館〉へ戻るとすぐに、上段の間にいる貴昌の様子を見に行った。少年は床の中におり、夏の軽い夜着を腰から下にかけている。入側の向こうに見える前庭の明るさに比べて、室内がやや薄暗く見えるせいもあってか、彼の顔色はあまりよくないように感じられた。
「ただいま戻りました」
挨拶をして室内に入った元博を、貴昌と傅役の朴木直祐がなごやかな面持ちで迎える。
「今日もたくさん打たれてきたか?」
微笑みながら訊いた貴昌に、元博は腕についたばかりの青あざを見せた。
「きついのを、たんまりともらいました」
「すごく痛そうだ……」
「そうでもありません。何度も食らっているうちに、だんだん慣れてきたようです」
「元博は強いなあ」
「まだまだですよ。でも、がんばって本当に強くなりますから、楽しみになさっていてくださいね」元博は力強く言い、血の気の薄い貴昌の顔を覗き込んだ。「朝餉はお召し上がりになりましたか?」
「うん」
うなずいたが、その目に少し陰りが見える。きっと今朝もあまり食べられなかったのだろう。
怪我をして以来、彼はすっかり食が細くなってしまった。大皇妃も後見役の桔流和智もそれを気づかって、食欲をそそりそうなものを何かと届けてくれるが、貴昌が自ら進んで手をつけることはない。
たくさん食べられれば、それだけ傷も早く治るに違いないのに。元博がそう考えて嘆息したところへ、柳浦重晴がやって来た。
「若君、織恵國房どのからお見舞いが届いておりますよ」
桔流家の家老國房は達筆でしたためた短い見舞い状と、一冊の書物を送ってきた。横たわったまま貴昌が書状を開き、内容に目を通して小さく笑みをもらす。
「楽しいお手紙ですか?」
元博が訊くと、彼は嬉しそうにうなずいた。
「碁敵がいなくて寂しいって。まだ教えてもらい始めたばかりで、わたしなんか、ぜんぜん國房どのの相手にはならないのに」
「上達なさっているところだったので、残念に思っていらっしゃるのでしょう」
「お見舞いの品は『黒白棋話集』ですよ」
重晴が差し出すと、貴昌はぱらぱらめくってみて興味深そうな顔をした。
「棋譜かと思ったら、物語の本だ」
傍で静かに座っていた朴木直祐が、訳知り顔に説明する。
「異国の王が仙人と碁を三百年間打ち合う話や、山の柿の木を争って猿と木こりが対局する話など、囲碁にまつわるさまざまな話が載っていますよ。昔、祖父の書庫で少し読んだことがあります」
「へえ、おもしろそうだ」
久しぶりに、貴昌の顔が生色を取り戻したように見えた。それだけで、この場にいる誰もが満たされた心地になる。
「さっそく読んでみよう」
「その前に、しばらくお休みください」
直祐は淡々と言って、彼の手からそっと本を取り上げた。いつも素直な貴昌が、ちょっと不満げに唇をとがらせる。
「ちっとも眠くない」
「でも、少しお熱がありますからね」
それを聞いて、元博は急いで腰を上げた。
「あ、では、わたしはこれで下がります」
長々とそばにいて、疲れさせでもしたら大変だ。重晴も同じことを思ったのか、後に続くように立ち上がった。
「また、あとでご様子を窺いにまいります」
広々とした上段の間に貴昌と直祐を残し、元博たちは内廊下へ出て奥の間のほうへ歩いていった。
「重晴どの、少しお話しできますか」
「むろんだ」
ふたりは〈槻影館〉の北側にある四畳半に入り、裏庭に面した濡れ縁に出て腰かけた。ここは館内でもっとも見通しの利く場所で、誰か近づく者があればすぐにそれと気づくことができる。
元博は辺りに人がいないのを確かめてから、白須美緒から聞き出したことをすべて重晴に話して聞かせた。
「ふむ、比与森家に忽那家……な」
彼は考え深げな目をしてつぶやき、髭の剃り跡が目立つがっしりした顎を指で弄んだ。
「忽那分家の圓家は、かなり昔に一度、黒葛家とどこかで戦ったことがあるはずだ」
「では、元は南部の家ですか」
「おまえの実家――石動家の本領に近い場所に城を構えていたんじゃなかったかな。黒葛家が三州全体に版図を広げたのが、だいたい六百五十年ぐらい前だから……たぶん、そのころに負けて北部へ去ったんだろう」
「当時の恨みを今も残しているのでしょうか」
「そりゃあ、わからん。だが、家の女どもが奧御殿でそんな話をしているなら、男連中も黒葛家について何か言っているのは間違いないだろうな」
「今後は警戒する必要がありますね」
「下の曲輪にいる空閑忍びに、少し調べさせてみよう。まだ正体のわかっていない、刺客とのつながりが見えてくるやもしれん」
重晴は裏庭の垣根に向けていた鋭い眼差しをやわらげ、ふいに元博のほうを向いた。
「なあ元博、おまえが本曲輪御殿に出入りして、いろいろ聞き込んでくるようになったのは正直助かってるが――つらい思いをしてるんじゃないのか」
元博ははっとして、思わず目を伏せてしまった。
「いえ、そんな……つらいだなんて」
「無理をしてるんだろう。おまえは優しくてまっすぐなやつだ。好意を持ってくれている女性を騙すような真似をして、平気でいられるはずはない」
「嫌な気分です」
元博は顔を上げ、大きく息を吸って言った。
「ほんとうに嫌な気分です。美緒どのの気持ちにつけこんで、いいように利用しているわけですから」
なるべく考えないようにはしているが、そういう思いが頭に浮かぶたび、巨大な石に押しつぶされているような重圧を感じる。
「でも、これは必要なことだと思うから、何があろうと続けます。美緒どののことは好きだし……重晴どのも好きになっていいと言ってくださいましたが、わたしにとって貴昌君以上に大切に思うかたはいません。刺客に襲われた日に、あらためてそれを確信しました。だから若君をお守りするためなら、どんなに汚い仕事であろうと決して厭いません。わたしは――」
あの時のことは、今もありありと思い出せる。ぐったりとした貴昌の体を抱きかかえて刺客の刃に背をさらしながら、かけがえのないものが腕の中からすり抜けていこうとしているのを感じて慄然としていた。
「わたしはもう二度と、あんな不意打ちを食らいたくないんです」
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