七十一 別役国龍康殿・鉄次 蔵の中
耳殻を爪でくすぐるような三味線の音が鳴っていた。何の曲を弾くでもなく、ただ気まぐれにかき鳴らしているだけのようだが、なかなか婀娜な音をさせている。
じっと耳をそばだてていると、目覚めたことを悟られたらしく、低い声で名を呼ばれた。
「鉄次さん」
目をつむったまま黙っていると、楽器の音がふっつり途切れた。
「狸寝入りですか」
「聴き惚れてたのさ」
片目を開けて見ると、半分閉めた障子の脇に膝を崩して座っている女が、物憂げな眼差しを向けてきた。
「だめですよ、こんな音。さっき、ぱらっとお湿りがあったんで、なんだか間延びしちまってさ」
「なに、詫びた感じの、ちょいと味な音を出してるぜ」
うたた寝のあとの気怠さがまとわりついて、なんとなく体が重い。欠伸を噛み殺して起き上がると、上にかけられていた女物の羽織がすべり落ちた。
「だいぶ寝てたかい」
「ほんの小半刻ほどですよ」
芙沙が答え、弦に撥を当てて一音鳴らした。彼女は四番町のはずれにあるこの寮にひとり住まいで、三味線と小唄の師匠をやって生計を立てている。かつては面倒を見てくれる旦那がいたが、その男とはもう手が切れたらしい。
金には困っていないのか、教えている弟子は数えるほどで、のんびりした暮らしぶりは隠居した老女のようだ。鉄次はそういうところが気に入って、しばしばここに足を運んでいる。
「もうお午がきますよ。饂飩でも煮ましょうか。今朝買った卵もあるのよ」
「いや、午に人と会うんだ」
「じゃあ急がなきゃ、待たせちまいますよ」
「すぐそこの俤橋だ。膝行って行っても間に合うさ」
「あら」芙沙は楽器を置くと、どことなく冷たい目で鉄次を睨んだ。「妬けること」
「なんで妬けるんだい」
「俤橋で待ち合わせる相手なんて、女に決まってますもの。鉄次さんが昼日中に逢い引きするぐらいだから、そうとうな別嬪なんでしょ」
女というやつは本当に勘が鋭い。鉄次は思わずにやりとしながら、畳の上の煙草盆を引き寄せた。
「まあ、当たってるな」
「ぬけぬけと。憎らしい」
本気ではないくせに悋気を装う芙沙に、鉄次は吸い付けた煙管を渡してやった。
「別嬪だが、まだ小さいんだ」
「いくつ」
「十ぐらいかな」
「そんな娘をたらし込むなんて、あきれた人」
肩をすくめながらひと口吸って細く煙を吐き、犬を追い払うようにぞんざいに手を振る。
「さっさとお行きなさいな」
「そうも邪険にするこたないだろ」
不平を鳴らすと、彼女はふふんと鼻で笑った。
「女の家から次の女のとこへ行くような人は、このぐらいされて当然ですよ」
そう言いつつも芙沙は腰を上げ、鉄次にうしろから小袖を着せかけて、いつものように身支度を手伝った。角帯の結び目は上がり気味にして、少し左に寄せるのが彼女の好みだ。最後に力強い手で皺をきゅっと伸ばして、帯周りを巧みに整える。
「さ、男前ができた」
背中をぽんと叩かれて振り返ると、黒々と濡れた瞳が間近で見上げていた。吸い込まれるように顔を寄せて唇をついばめば、舌先をちろりとからめてくる。
背中に回した手で細い腰のくびれを支えると、それに応えるように彼女の両腕が首に巻きついてきた。頭を優しく抱え込む手のひらは温かいが、髪の中にもぐり込んだ指は水に漬けていたように冷たい。
小さく吐息をもらして、芙沙が体を離した。その瞳の奧に情欲の炎がゆらめいている。
「出ていく間際に火を点けるなんて、悪い人ね」
彼女は鉄次の唇に移した紅を、冷えた指先ですっとぬぐい取った。
「ほら、行った。女の子を待たせちゃ駄目ですよ」
肩をやんわり押され、彼はこのあたりが潮時だと感じた。あまりにも愛想なしに出て行くと不興を買うが、かといってぐずぐず居座りすぎても疎まれる。ひとりで気楽にやることに慣れている女は、扱いの勘どころを押さえるのが難しいのだ。
「また近いうちにな」
約束というほどでもない言葉を残して玄関を出ると、空気には湿った土のにおいが色濃く混じっていた。だが空には晩夏の太陽が輝き、雨をかぶった庭木や竹の垣根はもう乾きかけている。
門を出て歩き出すと、寮の奥の間でまた三味線が鳴り始め、その音が道のはずれまでつかず離れずあとを追ってきた。
嘉手川にかかる俤橋の上には、いつものように少女が佇んでいた。普段と違うのは、年のころ十四、五歳と思われる少年がまつわりついていることだ。仕着せらしい紺麻の単衣をこざっぱり着ているところをみると、そこそこの店の小僧か平手代といったところだろう。
腰を折って屈み込み、なにやら熱心に口説いているようだ。
伊都のほうは少し迷惑そうだが、うろたえたり怖がったりしている様子はなかった。毅然と顔を上げて、相手の言葉にいちいち生真面目に答えている。
「よう、待たせたかい」
橋の上を歩いていって声をかけると、少女は眩しいような笑みをこぼした。小僧は横で、それを見つめながらぽーっと上気している。
「この娘はおれと待ち合わせだ」鉄次は少年に向かって言った。「油売ってないで見世に戻んな」
小僧がはっとしたように目を見開き、とたんにそわそわし始めた。〝見世〟と言われて勤めを思い出し、急に不安になったらしい。
彼は未練がましく伊都に何か言いかけたが、迷った挙げ句に会釈だけすると、逃げるように五番町のほうへ駆けて行った。保護者らしき相手の前で、それ以上口説き文句を並べる度胸はなかったようだ。
「あいつ、なんだって」
欄干にもたれて訊くと、伊都はちょっと恥ずかしそうに唇をすぼめた。
「飴湯をごちそうするって」
「よく、そんなふうに声をかけられるのか」
「たまに」
「おまえ明日からは、いくらか遅れ気味に来るようにしな」
伊都はちらっと鉄次を見上げ、神妙な面持ちで考え込んでから首を振った。
「人を待たせるのは嫌いなんです」
「待たせちゃならない相手もいるが、おれならいいさ」
「ここで、鉄次さんを待つのが好きなの。来るところを見ると嬉しくなるから」
いじらしい娘だ、と鉄次は思った。こんなことを言われるとつい情にほだされて、何でも言うことを聞いてやりたくなる。
毎日同じ刻に同じ場所へ行き、同じ相手と会うなどというのは本来もっとも苦手とするところであり、柄にもない厄介な取り決めをしてしまったものだと内心では思っていた。
だが彼女がそれに喜びを見いだし、ひととき一緒に過ごすことで安心感が増しているのだとしたら、少々面倒でもやはり続けていくべきだろう。
それに、この娘にとって〝約束が履行される〟ということは、こちらが考えている以上に重要な意味を持っていそうな気がする。
伊都は口をつぐんだままの鉄次を気づかうように顔を覗き込み、自信ありげな口調で言った。
「わたしはだいじょうぶ。知らない人について行ったりしません」
「だが、ここいらには油断のならねえやつが多いからな」鉄次は顎をなでながら考え、川岸の道沿いに建つ薦掛けの芝居小屋を指差した。「 臙脂色の幟を出してる小屋がわかるかい。白い文字で一座の名が書いてある」
伊都はそちらへ顔を向け、すぐに見つけてうなずいた。
「〈三人兄弟座〉?」
「そうだ。もしここで待ってる時に、しつこく誰かにからまれたら、あの小屋へ行きな。札場でおれの名を出せば中へ入れてくれる。役者の音弥ってやつに、おまえのことを話しとくよ」
役者と聞いて、彼女は興味をおぼえたようだった。
「塒には住んでないが、もともと音弥はうちの者だ。佐吉や長五郎もよく知ってる」
「わかりました」
納得した様子でうなずき、伊都はもう一度小屋のほうを見た。
「お芝居をする人もいるなんて思わなかった。ほかには、どんな仲間がいるんですか?」
「薬療学を学んでる、加代ってのがいる。それから船大工の見習いをやってる弥五七。茶屋で働いてる奈実。川舟の漕運師になる予定の、仁助と利助――このふたりはひとまとめにして〝二助〟って呼ぶこともある。それ以外に絵師や鍛冶師の弟子もいれば、道具屋の手代もいるぜ。ちょいと変わったところでは、天門神教の小祭宜もな。そいつは伝道で諸国を歩き回ってるよ」
「祭宜……」
意表を突かれた顔でつぶやき、伊都はかわいらしく小首を傾げた。そんな人も鉄次のために仕事をするのだろうか、どんなことで貢献しているのだろう、などと考えていそうだ。
「おまえ、仕事がしたいと言ってたな」
「はい」
彼女はぱっと顔を上げ、打てば響くように答えた。この話題が出るのを待ちかねていたようだ。
「今日はその話をしよう」
龍康殿は町のほぼ中央を流れる嘉手川をはさんで、広大な土地に数多くの商業施設が集まる西側の宛町と、住居群が建ち並ぶ東側の更町に大きく分かれている。
鉄次は俤橋を渡って、伊都を宛町のほうへといざなった。五番町の目抜き通りを横切り、商家が軒を連ねる玉越町を通り過ぎると、龍康殿第三の河川歌代川沿いの道へ出る。そのあたりには安い飯屋や古着屋、質屋などが集まっており、もっぱら地元の衆でにぎわっていた。
「歌代川より西には行くな」
川縁の道を北上しながら、鉄次は伊都に教えた。
「宛町を仕切る差配の目が届きにくい場所だ。たちの悪い無宿者が集まってて、しょっちゅう喧嘩騒ぎが起きる。うっかり足を踏み入れた女や子供が、そのまま姿を消しちまうことも少なくない」
少女は真面目な顔で聞き入っている。怖がっているかどうかは、その表情からは窺い知れない。
好奇心は旺盛だが愚かでも軽薄でもないので、こうして釘を刺しておけば決して自ら危険に踏み込むことはしないだろう。
「ここで飯を食おう」
足を止めたのは、歌代川が枝分かれする場所の脇に建つ〈丁子屋〉の前だった。盛り切りの飯と汁、菜ひとつを銅銭一枚で食べさせる気軽な一膳飯屋だ。
入り口近くの小上がりに落ち着いて腹ごしらえをしたあと、鉄次は食後の茶をすすりながら伊都に説明した。
「この〈丁子屋〉も含めて宛町に三軒、更町に二軒、おれの馴染みの飯屋がある。そこでは、うちの者なら誰でもつけで食える取り決めになってるんだ。おまえも、腹が減ってて金がない時には行きな。見世の者に〝鉄次のつけにしてくれ〟と言うだけでいい」
ちょうどそこへ、見世の女将が茶を注ぎ足しに来た。
「今日のお連れさんは、またずいぶんとかわいいですねえ」
頬に疱瘡の痕が残る恰幅のいい女将は、そう言ってふたりに愛想良く微笑みかけた。
「これからは、おれの代わりにこの娘がつけを払いに来る。顔を覚えておいてくれ」
「こんな別嬪さんは、一度見たら忘れませんよ」明るく笑い、伊都にぺこりと会釈する。「あたしはここの女将で、こまっていいます」
伊都は居住まいを正し、指をついて優雅に頭を下げた。
「伊都です。よろしくお願いします」
こまが去ると、彼女はあらためて鉄次のほうへ向き直った。
「わたしが、鉄次さんの代わりに?」
「そうだ。おまえに任せたい仕事ってのは、仲間がおれの名前で食ったつけを支払いに行くことさ。五軒すべてを一日で回る必要はない。この見世なら五日と二十日、べつの見世は十日と二十五日……てな具合に決めておいて、ひと月に二度精算しに行ってくれ。金は会った時にそのつど渡してもいいし、まとめて預けておいてもいい。どうだ、やれそうか?」
彼女は拍子抜けしたような顔になった。簡単すぎると思っているのだろう。
「やれます」
「よし。じゃあこれが、まずひとつだ。まだ終わりじゃないぜ。ほかにも頼みたいことがある」
その言葉に伊都はにっこりした。仕事が増えて喜ぶとは、ほんとうに変わった娘だ。
「四か所ある塒を定期的に見回ってもらいたい。孤児連中がまともに暮らせてるかどうかを確認するためだ。やつらは具合が悪かったり厄介ごとを抱えたりしても、あまり自分からは助けを求めて来ないからな。様子をよく見て、おまえが問題だと感じることが何かあれば、おれに知らせてくれ」
これは子供には少し荷が重い仕事かもしれない。だが伊都には鋭い観察眼と、大人顔負けの冷静な判断力がある。加えて、他者への思いやりも持っている。甘すぎず厳しすぎず、中立的な目で物事を見定められるだろうと鉄次は考えていた。
「これまでは自分でたまに見回ってたが、今後はちょいと忙しくなるんで暇がなくなりそうだ。おまえに肩代わりしてもらえると助かる」
「わたし……」
一瞬、彼女は断るかと思った。表情にわずかに迷いが見て取れる。だがそれは間もなく消え、伊都は決然とうなずいた。
「あの――やってみます」
「そうか」
鉄次が微笑むと、少女ははにかむように視線を落としたが、また目を上げてまっすぐに彼を見た。
「ありがとう、鉄次さん。わたしのわがままを聞いて、仕事を見つけてくれて」
「見つけたんじゃないぜ。単に、おれの仕事をおまえに押しつけただけだ」
くすくす笑いをもらす伊都に、鉄次は眉をしかめてみせた。
「冗談だと思ってるのか? 慣れてきたら、もっといろいろ任せるつもりでいるんだぞ。おれとのつなぎ役やら、手紙の受け取りやら――ゆくゆくは代書も頼みたい。だから仕事と剣術修行の傍ら、手習いもしてもらう」
「えっ」
伊都が心底驚いた顔になった。もともと大きな目をさらに見開き、闇夜の猫のように瞳を爛々と輝かせている。
「勉強はいやかい」
静かに訊くと、彼女は急いで首を振った。
「いやじゃありません。嬉しいです。でも、また手習いが始められるなんて……思ってなかったから」
かすかに声が震えた。それが喜びによるものなのか、それとも悲しみのせいなのか、鉄次には判然としない。ただ、何か胸に迫るような痛々しさがある。
彼女はかつて手習いをしていた――おそらくは両親がいて、満ち足りた暮らしをしていた――ころのことを思い起こしているのだろうか。
あるいは泣き出すかと身構えていたが、伊都はすぐに笑顔に戻った。
「ほんとに嬉しい」
その口調に陰りはない。先ほど心を揺らしたものがなんであれ、彼女は瞬時に情動を抑え込んだ。意識して感情の波に押し流されないようにしているのだとしたら、見上げた自制心だ。
「ほかにも習いたいものはあるか。おれの知り合いに三味線の師匠がいるぜ。茶道や琴、立花は?」
それは何かと訊き返さないところをみると、どれも一度は経験しているのだろう。しかし伊都は少しだけ考える様子を見せてから、小さく首を振った。
「手習いと剣術だけでじゅうぶんです。それに、そんなにたくさんお稽古事に通ったら、家のことや鉄次さんのお手伝いをする暇がなくなるから」
「まあ、何かやりたくなったら言いな。芸事を身につけといて、損することはないからな」折敷の上に銅銭を二枚置き、腰を上げて履き物をつっかける。「ぼちぼち行くとしよう。今日はだいぶ歩くぞ」
鉄次は川縁の道をさらに北上したあと東へ進路を取り、嘉手川を越えて宛町から更町へ、そしてまた南へ下って出発点の俤橋へと戻ってきた。その道筋で、つけが利く馴染みの飯屋を伊都に教え、合間に塒へも顔を出す。彼女は孤児仲間に挨拶ができると考えていたようだが、あいにく今時分はほとんどが勤めに出ていてどこも留守だった。
「ぜんぶ覚えられたかい」
ひと回り終えてから聞くと、伊都は眉間に皺を寄せながらうなずいた。
「はい、たぶん」
少しだけ、声に心もとない響きが感じられる。
「わからなくなったら佐吉に訊きな。なんならほかの塒へ行く時には、あいつに付き添わせてもいい」
「もし忘れたら、教えてもらいます」
彼女はそう言って、夕暮れが近くなった空を見上げた。
「これで終わり?」
「あと一軒」鉄次はまた宛町のほうへ戻りながら、彼女を手招いた。「最後に行くのは貿易商の〈但見屋〉だ」
豪商ばかりが軒を連ねる玉越町にあって、ひときわ抜きん出た〈但見屋〉の豪壮な店構えに、伊都は心底から圧倒された様子だった。
店の間がある表通りに面した母屋は、二階建ての土蔵造り。黒瓦葺きの屋根や黒漆喰塗りの壁、窓に取りつけられた両開きの土扉などが重厚な雰囲気を醸し出している。
千本格子を横目に見ながら暖簾をくぐると、帳場で番頭と話していた手代の喜十郎がすぐに気づいて出てきた。
「これは鉄次さま、いらっしゃいませ」
「やあ。旦那はいるかい」
「あいにくと」痩せて背の高い手代は物柔らかに言い、申し訳なさそうに眉尻を下げた。「本日は〈三龍会〉の会合がございまして」
「そうか、ならいい。こいつに顔見せさせておこうと思ったが、またあらためて挨拶に来るさ」
ふたりが同時に目をやった先では、伊都が珍しそうに見世の中を見回している。
「おや、こちらのお嬢さまは」
「うちの身内になった娘で、伊都という名だ。ここへ使いに来させることもあるから、見知りおいてくれ」
「さようで」喜十郎は細い目をさらに細め、満面に笑みをたたえて伊都に低頭した。「〈但見屋〉の手代、喜十郎でございます。なにとぞ今後ともご贔屓に」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
伊都がお辞儀を返しているところへ、戸口からどっと人が入ってきた。半分は異国人で、顔には東方の国々の特徴が見て取れる。秀でた額、高い鼻。瞳は青や緑など明るく澄んだ色合い。そして男はみな口髭をたくわえている。
中でも特に立派な風采をした大男が、すぐ近くにいた伊都にふと目を留めた。潮焼けした顔に驚きの表情を浮かべ、口の中で何かつぶやく。
同行の仲間が店の者と話す声にまぎれてほとんど聞こえなかったが、鉄次の耳は「美しい」という言葉だけかろうじて捉えた。レグン諸島共和国の言語だ。広大な海を隔てた遠い東の隣国だが、意外にも美の基準はこの国とさほど隔たりはないらしい。
ひたむきに伊都を見つめる男の眼差しに下卑たものはなく、ただ純粋な賛美だけが感じられた。そのうち、何か話しかけてきそうだ。鉄次はその前に、彼女の腕を取って近くへ引き寄せた。
「蔵に寄っていく」
喜十郎がうなずき、すぐに土間へ下りてくる。
「では、こちらへ」
彼の案内で店の奥へ進んでいくと、間仕切りの近くにいた年かさの丁稚が、素早く手燭を用意して一行を先導した。
その後に従って薄暗い通路を歩きながら伊都が訊く。
「蔵ってなんですか?」
「店の裏手にある土蔵のひとつを賃借りしてるのさ。耐火、耐水、床下と壁に鉄板入りで蔵破りの心配も無用という堅牢なやつだ。おまけに屈強な警備が昼夜を問わずについてる」
突き当たりを左に折れ、さらに長い通路を歩いていって仕切り戸を抜けると母屋の裏玄関脇に出た。高い塀で囲まれた広大な敷地に所狭しと建ち並ぶ土蔵群を見て、伊都が小さく驚きの声をもらす。
借りている十二番倉庫に辿り着くと、喜十郎が持っている鍵と鉄次の鍵を同時に使って解錠し、分厚く重い扉を開けた。
「では、すみましたら平助をよこしてください」
そう言い置いて喜十郎が去り、丁稚の平助から手燭を受け取ると、鉄次は伊都をつれて蔵へ入った。床にいくつか置いてある燭台に火を移し、中から扉を閉め切れば、たちまち墓場のような静けさに包まれる。
「ここにはおれの私物と、少々の貴重品を入れてある」説明する声が壁に大きく反響した。「そこらの長持ちや行李を開けてみてもいいぜ」
伊都は促されるまま箱を開け、なにやら妙に得心のいった顔をした。
「鉄次さんには決まった住まいがないって聞いて、着替えや身の回りのものをどうしているのか気になっていたの。ここにあったんですね」
彼女が覗き込んでいるのは、あらたまった時用の衣類を入れてある長櫃だ。
「日ごろ持ち歩かないものは、とりあえず蔵へ入れとくことにしてるんだ。ま、物を溜め込む性分じゃないし、数はそう多くないけどな。しまってあるのは、もっぱら書類と銭貨、あとは本だ。普段着は立ち寄り先に何着か置いてある。泊まって着替えをしたら、家の者が次までに脱いだものを手入れしておいてくれるから都合がいい」
その話から鉄次の私生活に想像が及んだのか、伊都が少し気恥ずかしそうな表情になる。
「ここで書きものをしたり本を読んだりして、半日ばかり過ごすこともある。人をつれて来たのは、おまえが初めてだ」
「鉄次さんの隠れ家?」
「そんなところだな」
秘密を共有したようで嬉しいのか、彼女は櫃の蓋を閉めながら笑みをこぼした。
「おれはちょいと二階へ上がってくる」鉄次は懐に手を入れ、三つ折りにして油紙でくるんだ厚い紙束を取り出した。「開いて中身だけ手文庫にしまっといてくれ。山茶花の蒔絵のやつだ」
「はい」
伊都をそこに残し、手燭を持って階段を上がると、鉄次は金櫃を開けて昨夜の博打の上がりを入れた。金銭、銀銭、銅銭、鉄銭に分けた仕切りは、どれももう満杯に近くなっている。これまでは万事どんぶり勘定でやってきたが、堅い商売を始めるつもりなら、そろそろ帳面をつけるなり何なりしてきちんと管理すべきだろう。
階下へ降りた彼は、伊都の佇まいを見て違和感をおぼえた。何かを両手で掴み、まばたきもせずに見入っている。
「どうした」
声をかけると、彼女はこわばった表情をこちらに向けた。薄暗いせいか、白い肌がさらに色を失っているように見える。
「これ、なんですか?」
声が奇妙に軋んだ。いったい何を見たのかと傍に行ってみれば、片づけるように頼んだ紙束のうちの一枚だ。
「仲間に絵師の弟子がいるって言っただろう。そいつが描いた姿絵だよ。昨日、飛脚便で受け取ったばかりだ」
「姿絵……」
「孤児の仙吉ってやつで、昔は似顔絵を描く芸で日銭を稼いでた。ちゃんとした絵師になりたいと言うから、障壁画の大家に弟子入りさせてやったんだ。師匠の隗洸はこの龍康殿に工房を構えてるが、たいていは依頼主の城なり居館なりに滞在して仕事をする。仙吉はその手伝いをする傍ら、城内で出会った人の顔を片っ端から描いておれに送ってくるのさ」
仙吉は画題にこだわらず何でも見事に描くが、中でも人物の顔は得意中の得意で、墨一色を使って生き写しに描き上げる。
「今にもしゃべり出しそうで、ちょいと気味が悪いかい」
絵の生々しさに怖じけているのかと思い、敢えて軽い調子で言ってみたが、伊都の張り詰めた表情は変わらなかった。
「なんのために、こういう絵を描かせているんですか」
「名家の当主や家族、有力な家臣たちの顔を見知っておきたいからだ。いずれ、その連中を相手に商いをするつもりでいるからな」
「あのお酒を――〈銀流〉を売るため?」
「酒の商いは、ほんの手始めだ」伊都が真剣なので、鉄次は自分も真面目に答えることにした。「いずれはもっと商売を広げるつもりでいる。その時に、取り引きしたい相手の顔や名前を呑み込んでると、いろいろ有利に働くのさ」
彼は手を伸ばし、手文庫の中から最新の姿絵を数枚取り出した。
「仙吉はいま天山にいる。大皇の居城で、新しい障壁画を制作中だ。だから、ここに描かれているのは大皇やその周りにいる連中ってことになるな。そら、紙の端に小さく名前が書いてある。三廻部真名、これは大皇妃だ。こっちの子供は……石動元博か。石動といえば黒葛家の支族のはずだが、何をしに天山へ行ってるんだろうな」
聞いているのかいないのか、伊都は手に持った姿絵にまだ見入ったままだ。鉄次はそれを上からちらりと覗き見た。
「そっちのは――」
「志鷹頼英」
彼女は名前を読み上げ、鉄次に絵を手渡した。描かれているのは、女と見紛うばかりの美青年だ。
「謀反を起こして、北部の名門志鷹家の当主に収まったっていう男だな」
「その人とも、いつか商いをするの?」
「可能性はある」
伊都の唇に、ふいに笑みが浮かんだ。折に触れて見せる、人を魅了せずにはおかない咲きこぼれる花のような微笑だ。だが鉄次はそこに、普段とは異なるかすかな歪みを感じた。
「志鷹の若殿が男前だから、嬉しくて笑ってるのか?」
わざとからかうように言うと、伊都は笑みを留めたままで首を振った。
「わたし、何もかもなくしたと思っていたの。それはもう取り戻せないんだろうって」
しみじみと言って胸に手を当て、小さく吐息をもらす。
「でも鉄次さんに出会ってから、あきらめたものがひとつずつ戻ってきて――それが嬉しいんです」
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