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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第六章 絆の芽生え
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七十  立身国射手矢郷・真境名燎 約束

 試作した戦袍(せんぽう)石動(いするぎ)博武(ひろたけ)が初めて身にまとって現れた時、真境名(まきな)(りょう)はその出来のよさに素直に感心した。

 一枚布を扇形に裁断して端を始末する程度だろうと想像していたが、完成品は肩の部分が体型に添うよう立体的に仕立てられており、立て襟までついている。丈は膝のあたりまであり、表地は鈍い光沢のある黒絹、裏地は唐草の地紋が浮き出た鮮やかな猩々緋(しょうじょうひ)綸子(りんず)。さらに金襴の端布と金糸の刺繍で、全体をぐるりと縁取ってあった。

 とんでもなく派手で、大仰で、しかし博武によく似合っている。

 燎がまじまじ見入っていると、彼はおどけたようにその場でくるりと回ってみせた。

「どうだ、いい出来だろう」

 満足げに言うそのうしろで、仕立てを引き受けた燎の老従僕利助(りすけ)と、手伝いをした博武の従者久喜(ひさき)伝兵衛(でんべえ)がにこやかにうなずいている。ふたりとも、自分たちの成し遂げた仕事を誇らしく感じているようだ。

「こんなに見栄えよく仕上がるとは、正直思っていませんでした」

 燎の感想を聞いて、利助が嬉しげに目尻に皺を寄せる。

「趣味のよい伝兵衛どのが、いろいろとご助言くださったお陰です」

「なんの」伝兵衛も機嫌よく褒め返す。「ここまでうまく出来たのは、利助どのの仕立ての腕があってこそです」

「わざわざ縁取りまでつけたのですね」

 燎はなめらかな手触りの布を持ち上げ、丁寧な仕事ぶりを間近で観察した。

「じつに派手やかだ」

「縁をつけたら布端にほどよい重さが出て、取り回しがしやすくなった」

 博武は戦袍の左片身をさっと払い、腰を落として脇差しを抜いた。大きくひるがえった裾が踊り暴れることなく、すとんと落ち着くさまが見て取れる。

「なるほど」燎は得心顔でうなずいた。「ただの飾りではないのですね」

「派手になったのは、伝兵衛に布地を選ばせたからだ」

 批判とも嘲弄ともつかない口調で言われ、伝兵衛がさっそく反論にかかる。

「戦袍というのは、要するに陣羽織でございましょう。華麗な色彩と意匠で目立ってこそ、ご威光を示せるというものです」

 分別くさい調子で講釈を垂れ、目を細めて主人の姿を検分する。

「やはり、背にご家紋を大きく刺繍すべきでした。皆さまにご披露する前に、あと二日ください」

「正式採用されたら、刺繍でも何でも好きにしろ」

 博武は素っ気なく言って、副郭のほうへすたすたと歩き出した。そのあとを、伝兵衛がそらとぼけた顔で追っていく。苦心して作った作品が、みなにどう評価されるかを見届けるつもりなのだろう。

 燎は彼らに続く前に、利助のほうを振り返った。

「おまえも来るか」

 温和で慎み深い老中僕が、怯えたように身を縮める。

「めっそうもない。お嬢さまが空をお飛びになるところなど、とても見てはおられません」

 伝兵衛は博武に邪魔にされても訓練の様子を必ず近くで見守っているが、利助は燎がいくら誘っても頑として副郭へは来ようとしない。戦袍が実際に使われるところを見たくないはずはないので、今回は連れ出せるかとも思ったが、やはり怖さのほうがまさってしまうようだ。

「どんなふうだったか、あとで話してやろう」

 そう言い置いて、燎は練兵場へ行った。

 広場にはすでに隊士候補たちが集まっており、博武を囲んで盛り上がっている。表情から察するに、みなの評価はおおむね好意的らしかった。見た目に格好が良いことは、やはり重要なのだろう。

 しかし玉県(たまかね)綱正(つなまさ)など、もともと博武の案に否定的だった者たちはやや遠巻きだ。そう簡単に認めてたまるかと思っているに違いない。

 燎が近づくと、いち早く気づいた綱正が甘ったるい笑みを投げかけた。

「いつも訓練には一番乗りなのに、今朝はずいぶん遅いね」

「上で博武どのと話していたからだ」

 対抗心を抱いている男の名を出されて、綱正の表情が少し曇る。

「ふうん。じゃあ、もうあれは見たわけだ」

 つまらなさそうに顎をしゃくってみせる彼に本当のことを言うかどうか、迷ったのはほんの一瞬だった。へこませてやりたいわけではないが、べつに気づかいが必要な相手でもない。

「見たもなにも、あの戦袍を試作するよう彼に勧めたのはわたしだ。利助に仕立ての手伝いもさせた」

 いつも愛想のいい色男が、珍しく険のある目つきを向けてきた。

「どうして、そんなことを?」

「おもしろい案だし、実用性もありそうじゃないか」

「それはどうかな」疑わしそうに言って、片眉をしかめる。「あの布が絡みついて、蜘蛛の巣にかかった羽虫みたいに身動き取れなくなりそうだよ」

「今日、彼が飛んでみせればわかるさ」

 そう言ったものの、燎の心にかすかな不安がきざした。博武はあれをつけて、ほんとうにうまく飛べるのだろうか。いい考えだと言って後押しした手前、無様に失敗するところはできれば見たくない。

 綱正の相手を適当に終わらせて、彼女は伝兵衛の姿を探した。目立たない地味な袴姿をした彼は、集まっている隊士候補たちの輪には入らず、見とがめられることはないものの会話は聞こえる程度に離れて立っている。

「伝兵衛どの」

 傍へ行って小声で話しかけると、彼はこちらを見てにんまり笑った。

「色柄や形は好評です」

「それは重畳」笑みを返し、さらに声を落として囁きかける。「博武どのは、あれをまとったまま飛べるのか?」

「さあ、どうでしょう」

 特に心配しているふうもなく、伝兵衛は肩をすくめてみせた。

「身につけて宙返りなどしてみておられましたが、飛べるかどうかは実際にやってみるまで何とも言えないでしょうね」

「布が風で煽られて、空中で体勢を崩したり……」

「それはあり得ます」

 あっさり認め、真面目な顔でうなずいている。

「そもそも、あれは風をはらむように作っておりますからね」

「いきなり飛んでみるのは危険すぎるのでは?」

「はい、おそらく。しかし、危険だと思うとなおさらやってみたくなる無鉄砲なかたですから、お留め立てするだけ無駄かと。とはいえ、もし布に絡まって落ちたら、地面にぶつかる前になるべく拾ってさしあげてください」

 しれっと頼み事をされ、燎は思わずうろたえた。

「それは……むろんそうするが――わたしが乗せて飛ぶと決まったわけではないのだぞ」

「いえ、決まっていると思います。少なくとも、あのかたの中では」

 ぬけぬけと言われて反論しようとした時、真栄城(まえしろ)康資(やすすけ)が練兵場に現れてみなを呼び集めた。

「訓練を始める」

 そこで初めて博武の姿に気づき、彼ははっとしたように目を見開いた。

「前に戦袍がどうのと言っていたが、実際に作ったのか」

 つぶやいた声には、驚きとあきれと感心がほぼ同じ割合で入り混じっている。康資はじっくり観察しながら歩み寄り、派手な裏地がのぞく立て襟にさっと指をすべらせた。

「なかなか、しっかりと作ってあるな」

「今日はこれをつけて飛びます」博武は落ち着き払って宣言すると、ふいに首を回して燎のほうを見た。「相方はおぬしに頼みたい」

 伝兵衛の予言どおりになった。思惑にはめられたようでなんとなく悔しいが、べつに断る理由も見つからない。

「いいですよ」

 簡潔に応じる目の端で、燎は由解(ゆげ)虎嗣(とらつぐ)が〝鬼瓦〟の表情になっているのを捉えていた。彼は利助と伝兵衛の労作に、かなり好奇心をかきたてられているらしい。どこか不満げに見えるのは、相方を務めてみたかったのに申し出る機会がなかったからだろう。

 代わってやってもいいが、一度引き受けておいて反故(ほご)にするのは気が進まない。それに実のところ燎自身も、博武がこの試作品を身につけてどんな芸当を演じてみせるのか興味津々だった。相方をやって、それを間近で見物するのも悪くはない。また万一彼が失敗したとしても、自分なら安全に拾い上げられるという自負もある。

「いつもの(とり)にするか?」

 博武が通りすがりに声をかけ、居並ぶ天隼(てんしゅん)たちのほうへ歩いていった。燎が特に気に入っている一羽のところへ迷いなく辿り着き、みっしりと羽毛の生えた首をなでさすっている。

「見分けがつかないとおっしゃっていたのでは」

 背中に近づいて言うと、彼はちらりと視線をよこした。

「おぬしが顔でわかると教えてくれたから、乗った禽の特徴を覚えるよう心がけているんだ。まだわからないのもいるが、訓練にたびたび出てくるやつらの顔はだいたい覚えた」

 いつの間に。燎は不意打ちを食らった気分になった。禽とよく馴染み、絆を深めることでは博武の先を行っているつもりだったが、うかうかしている間に追いつかれてしまったらしい。

 禽の判別についていろいろ言ったのは覚えているが、彼がこれほど真剣に耳を傾け、自ら進んで実践していたとは思わなかった。

「あなたは何でも受け容れ、自分のものとしてしまうのですね」

 ため息まじりのつぶやきを聞きつけ、博武が明るく笑った。

「益があると思えばな。いつも物事と真剣に向き合うおぬしの姿勢には、学ばされることが多い」

 意外な褒め言葉だ。「真剣……そうでしょうか」

「スズメを狙う猫のように」

「おかしな(たと)えですね」

 その気はなかったが、つい頬がゆるんでしまう。

「乗り手側で、何か留意することはありますか」

「普段よりも、拾いに向かう間合いを少し遅らせて欲しい。この戦袍で落ち方が変わるかどうか、よく確かめたいんだ」

「わかりました」

 間合いをずらすのは危ない試みだが、彼をしっかりと見て合わせるようにすれば何とかいけるだろう。しかし、事もなげに難しい注文をつけるものだ。そんなにも腕を認めてくれているのだろうか。

 訓練用の刀を携えて騎乗すると、博武は戦袍の片身を反対側の肩に跳ね上げ、たっぷりした布で体の前面を覆った。

「暖かそうですね」

 前鞍に腰を落ち着けてから肩ごしにその姿を見た燎は、少しばかり羨望を込めて言った。猛烈な風を受けながら空を飛ぶのは、地上にいて想像するよりもずっと寒いのだ。飛行時間が長くなると手綱を持つ指や(あぶみ)にかけた爪先は凍え、胸元に入り込む空気で(はらわた)まで冷え切ってしまう。

 手甲をつける、厚着をするなどの防寒対策はしているが、今のところあまり効果が出ているようには感じない。

 しかし裏地もついた幅広な布で、体をすっぽり包み込むというのはかなりよさそうだ。

 地面を離れて飛び立つと、その思いはさらに強まった。すでに観月(かんげつ)も終わりかけており、朝夕などに少し冷えを感じることもあるが、上空では秋の気配がより濃厚だ。

 訓練空域に近づいてから上昇を始めると、風が(やいば)となって頬を切り裂いていくように思えた。

「どうです、風圧は?」

 振り向いて見ると、博武はあくまでゆったり構えている。

「布を体に巻いてさえいれば、普段とさほど変わりない」

 水平飛行に移ったあと、彼はさっと周囲に視線を走らせ、近くを飛んでいる別の組の様子を窺った。

「右後方の治純(はるずみ)の組と、前に見える虎嗣(とらつぐ)の組を引きつけられるか」

「二騎まとめて相手をするのですか」

「足場は多いほうが楽しい」

「しっかり踏ん張っていてください」

 注意を促してから、燎は手綱を引いて禽首(きんしゅ)を右に向けた。小さく半円を描くように飛び、後方の組のすぐうしろに回り込む。尻をつつくように軽く煽ってから少し高度を上げ、彼らの頭上すれすれをかすめるようにして一気に抜き去った。

 これをやられて、かっとならない乗り手はいない。

 案の定、治純組が憤然としてあとを追ってきた。それを引き連れたまま大回りに滑空して、虎嗣が手綱を取る禽に右斜め後方から急速接近する。

「うまいぞ」

 博武の手を軽く肩に感じた、と思った時にはすでに彼は立ち鞍を蹴っていた。猩々緋の裏地がひるがえり、紅蓮の彗星のように燎の視界を流れ飛ぶ。次いで闇夜を思わせる漆黒の翼が眼前に広がった。

 鳥だ――黒い鳥に変化(へんげ)した。

 そんな現実ばなれした考えが、ほんのつかの間頭をよぎる。

 続いて胸に湧き起こったのは、妬心とも憧憬ともつかない不可思議な思いだった。自前の翼を得て飛空する博武は、常にも増して自由な男に見える。それが妬ましく、同時にうらやましくもあった。

 しかし今は感慨に浸ってはいられない。燎は雑多な思考を振り捨て、前方の一騎に斬りかかろうとする彼の動きだけに意識を集中させた。

 博武を迎え撃つ永八郎(えいはちろう)は、仲間内では豪腕無双の男として知られている。空を跳びながらの斬撃は軽くなりがちなため、彼には弾かれるかもしれない。

 それに備えた瞬間、永八郎の剛剣に()された博武が敵騎の鞍を蹴ってとんぼ返りをした。空中で黒い鞠のように丸まったかと思うと、戦袍をふわりと広げて立ち鞍へ下り立つ。

 普通はそこで禽をいったん離脱させるが、燎は虎嗣組をぴったりと追う位置に留まった。過去に何度か組んだ経験から、こういう場合に博武がすかさずもう一度行くのはわかっている。

 読み通り、ひと呼吸も置かずに彼は再び跳んだ。はっと振り向いた永八郎に一撃加えて突き落とし、うしろ向きに宙返りをして戻ってくる。その爪先が鞍に触れたと思う間もなく、今度は後方へ大きく跳ねた。

 ちらりと見えた横顔に浮かぶのは、遊びに興じる子供のような笑み。足場が多いのは楽しいと言っていたが、(いなご)のように跳び回りながら戦うのを、ほんとうに心底楽しんでいるようだ。

 燎は右肩を落として離脱し、治純の組を見上げる位置まで下がって追尾した。博武が敵騎に舞い降り、一合打ち合うのを上目づかいに見守る。斬り手の和長(かずなが)は地上で戦うと手強い相手だが、鞍の上の戦闘なら博武はそうそう負けはしない。

 彼は次の一手を相手の脇腹に沈めて勝負を決めると、すぐさま宙へ身を投げた。自騎がどこにいるか探そうともしていない。

 落下してくる体の下に禽をすべり込ませると、博武は空中で猫のように反転して立ち鞍へ戻って来た。戦袍のはためきや重量は、特に動きの妨げにはなっていないようだ。

「お見事、博武どの」

 眼下に広がる森の樹冠近くまで下がってから、燎はゆっくり禽を滑空させながら彼に話しかけた。

「いつもと変わらずに動けていますね」

「思っていたほど、布は邪魔にはならなかった」答える声が笑みを含んでいる。「一度おぬしも試してみるといい。これを広げて跳ぶと、鳥になったようで胸が躍るぞ」

 奇しくもふたりの見解が一致した。こういう時に気持ちを隠すのは野暮というものだろう。そう思って、燎は言わないつもりだったことを口に出した。

「わたしも同じことを感じました。あなたが最初に跳んだ時、まるで黒い鳥の姿に変じたかのようだと」

「斬り合った敵はどう思ったか、あとで感想を聞いてみよう」そう言いながら、博武は再び戦袍を体に巻きつけた。「次は攻撃のあとでそのまま落ちてみる」

「どの組と戦いますか」

「おぬしに任せる」

 燎は訓練空域に点在する敵騎をざっと見渡し、かなり高い場所を飛んでいる玉県(たまかね)綱正(つなまさ)を見つけた。今日は斬り手を務めており、相方には背高のっぽの種智(たねとも)を選んだようだ。

 ちょっとしたいたずら心から、彼女はその一騎を指差した。

「あれはいかがです」

「よし、いこう」

 簡単に決まり、燎は禽を上昇させた。ぐんぐん速度を上げながら、綱正の組に近づいていく。

 接近に気づいた種智が、振り切ろうとするように禽首を曲げた。だが彼女は逃さない。敵騎の尾をぴたりと追って、どこまでもついていく。

 立ち鞍の上で綱正が振り返り、鋭い視線を博武に向けた。向こうもやる気は満々のようだ。

「ちょっと、試してみたいことがある」

 そう言って、博武が少し体を寄せてきた。

「この禽に、とんぼ返りをさせられると思うか?」

「じつは、やったことがあります。敵騎をどうしても振り切れなかった時に、ふと思い立って」

 あれは、ぞくぞくする体験だった。意識が抜け落ちるかと思うほどの勢いで体が上に引っ張られて、眼前の景色がぐるりと回り、天地が逆転した世界で足元に輝く太陽を見た。一回転して正常な姿勢に戻ったあとも、しばらく腹の中で内臓が片寄っているように感じていたのを覚えている。

 怖くはあるが、癖になりそうな爽快さもあった。

 またやれというなら望むところだが、ひとりで乗っているならともかく、立ち鞍に人がいる状態で行うのは無謀に思える。

「やるのはいいですが、ものすごい圧力がかかります。そこに立っていると間違いなく落ちますよ」

「かまわない。前の組を追い越したら上昇して、彼らの頭の上で逆さになってくれ」

「なるほど」狙いがわかった。「落ちながら真上から斬りかかるんですね」

 たしかにそれは空中戦闘ならではの攻撃法で、一度やってみたいと思う気持ちは理解できる。

「では、やりましょう。革帯を短く持って、弾き飛ばされないよう低く伏せてください」

「承知」

 博武が姿勢を低くして、前鞍の後驕(こうきょう)を掴む。目の隅でそれを確認してから、燎は禽に合図を送った。

 速度を上げろ。一気に追い越せ――そうだ、いいぞ。

 敵騎の下に潜りながらすり抜けて前方へ出た彼女は、禽の首脇を腿でぐっと締めて手綱を引き絞った。大きな羽ばたきをふたつして上昇に転じたあと、ほんの一瞬だが完全な背面飛行になる。

 その機を逃さず、博武が鞍を離れた。落ちたというよりは、膝の屈伸を使って自らを撃ち出した格好だ。まるで強弓から放たれた矢のように、凄まじい勢いでまっすぐ眼下の敵騎に突き刺さっていく。

 燎の操る禽をしばし見失っていた綱正が、気配を悟ってはっと顔を上げた。しかし博武の剣は、もう避けきれないほど間近に迫っている。

 剣先が鈍い光を放ちながら長い縦一文字を刻むのを、燎は滑空する禽の背から惚れ惚れと眺めていた。あれが模擬刀でなければ、綱正は脳天から真っ二つにされていたところだ。

 まんまと奇襲に成功したあと、博武は背中から落下しながら剣を鞘に収めた。そうして空けた両手で戦袍の端を掴み、くるりと反転して通常の落下姿勢に移行する。するとたちまち、布が空気をはらんで大きく丸くふくらんだ。

 落下速度はどうだろう。上から見るかぎりでは、やや減じたように感じられる。

 燎は自身が耐えられる限界までじりじりしながら待ってから、降下を命じる口笛を吹いた。すぐに禽が翼を畳み、真っ逆さまに落ち始める。

 博武を十間ほど追い越し、その真下で禽を空中浮揚させると、彼は戦袍から手を離してすとんと鞍に下り立った。革帯を掴んでからしっかり足場を確保して、ねぎらうように燎の背をぽんと叩く。

 禽を滑空させながら、彼女は胸に溜めていた息をそっと吐き出した。風を冷たく感じているにもかかわらず、小袖の下の肌にはうっすら汗が浮いている。できるという自信はあったが、それでもやはり緊張はしていたようだ。

「戦袍がふくらむと同時に落ち方がゆるんだように見えましたが、実際はどうでしたか」

「体感で、三割程度は遅くなったように思った。地上で見物している連中を、落ちながらゆっくり眺められたのは今日が初めてだ」

「では、使えますね」

「作ってみろというおぬしの助言が、まさに図に当たったな」

「利助が喜びます」

「おれのほうは、しばらく伝兵衛に偉そうな顔をされるだろう」

 その様子が想像できて、思わず笑みがもれる。燎は鞍の上で身をよじり、博武のほうへ視線をやった。

「さっきのあれは自分がされる側だと、たいそう怖そうですね。あの、頭上から敵に斬りかかられるのは」

「綱正も肝を冷やしたかな」

 博武はいたずらっぽく笑って、訓練空域に散らばる仲間たちを見上げた。

「乗り手がおぬしで、この禽だから一度でできたが、ほかの者とではどうだろう。はじめのうちは失敗するかもしれん」

 この男、ちっとも手柄顔をしないんだな――燎は横目に彼を見ながら、今さらのようにそんなことを考えた。

 戦袍を考案したのは自分なのに、試作を勧めた燎や制作した利助のほうを自然に立てようとする。訓練中の成果などについても同様で、おれのお陰でうまくいったのだという態度は一度も見せたことがない。

 人の顔色を窺ったり追従口(ついしょうぐち)()いたりするような性質とも思えないので、おそらく目先の勲功や賞賛には、そもそもあまり興味がないのだろう。しかし、何も求めない人間などいるはずはない。彼にも何かしら、日ごろの精励や尽力の見返りとして欲するものはあるはずだ。

「伝兵衛どのは、あなたが努力家だと言っていました」

 ふと、言葉が口をついて出た。

「でもあなたは、努力を他者から認められることや、褒美を得ることにまったく執心なさらない。なぜです。何も欲しくないのですか」

「そんなことはない、おれにも欲はある」

「どんな欲ですか」

「夢というべきか」

「その夢とは?」

 珍しく食い下がる彼女に、博武は少し驚いたような表情を見せた。とはいえ、質問攻めを鬱陶しがっている気配はない。

 彼はしばらく沈黙を漂わせたあと、燎の上に屈み込んで言った。

「御屋形さまに天山(てんざん)の――大皇(たいこう)御座(みくら)にお昇りいただく」

 ぎょっとして目を見開く燎を、博武が微笑みながら見つめ返す。だがその目は笑っていなかった。明るく澄んだ瞳の奧に、鋭く烈しい光がまたたいている。冗談を言っているわけではないらしい。

 南部統一ぐらいならまだしも、天山とはずいぶん大きく出たものだ。それにこれは、聞かせる相手によっては大問題になりそうな話でもある。

「御宗主禎俊(さだとし)公ではなく?」

「まあ、黒葛(つづら)家の臣たる身としては、何ごとも禎俊公の御為と言っておくべきところだが」彼は屈託なく笑って首を振り、ちらりと前方に目をやった。「そら、手綱がお留守になっているぞ」

 禽が訓練空域からさまよい出かけているのに気づき、燎はあわてて手綱を引き絞った。右回りに旋回させて森の上に戻し、あらためて問いかける。

「御屋形さま――貴昭(たかあき)さまが大皇位に()かれる……それが、あなたの夢なのですか」

「そうだ。おれがするすべての努力は、ただそのためにしていることだと言ってもいい」

「そしていずれは、あなたの甥御さまが天下人に?」

「そうなれば嬉しいだろうな」

 ため息まじりにつぶやく彼の眼差しは穏やかで優しかった。そこに先ほどの鋭さはまったく見いだせない。甥を心から愛してはいるが、やっと言葉を話し出したばかりの幼児に、今から大それた望みを託すような盲愛に陥るつもりはないようだ。

「ご自身が天下を取ろうとは思わないのですか」

「己の器に余る野望を抱いて無駄に四苦八苦するより、この人ならと見込んだ(あるじ)天辺(てっぺん)へ押し上げるために働くほうがずっと楽しそうだ」

 器がないなどと、本気で思っているのだろうか。燎は顔を前へ戻しながら考えた。

 彼はこれまでに出会った同世代の若者たちの中で、もっとも優れているひとりだと確信を持って言える男だ。人の上に立つ器量を備えていると思う。だが本人の自己評価はそこまで高くないらしい。

「おぬしは?」

 ふいに博武がうしろから訊いた。

「わたしが、なんです?」

「おぬしの望みは何だ。あるいは、夢は」

 根掘り葉掘り質問したことへのお返しだろうか。まさか同じ問いを自分に向けられるとは思わなかったので、燎は返答に迷ってしばし沈黙した。

 望み? 夢?

 主君に天下を取らせるなどという壮大な夢を聞いたあとでは、何を言っても陳腐に感じられてしまいそうだ。それに、それほど遠い先を見据えた願望など、正直一度も抱いたことはない。

「〈隼人(はやと)〉になること、ですね」

 いま言えるのはこれだけだった。とりあえず嘘ではないし、女として史上初の天翔隊(てんしょうたい)士になるというのは、そこそこ大きな望みだといえるだろう。

「それはもう叶う」博武が静かに言った。「すぐにだ」

「まだわかりません」

「いや、叶う」

 彼の声には少しの迷いもなかった。こうまで断定的な言い方をされると、逆に不安になってくる。

「そうでしょうか」

「〈隼人〉になったあとはどうする。どうなりたい?」

 それに対して答える言葉はまだ持たなかった。しかし、本当は持っているべきなのだろう。彼の問いかけは単純なものだが、胸に刺さるようで痛かった。いかに自分がいつもすぐ近く、足元しか見ていないかを痛感させられる。腹立たしいし、たまらなく恥ずかしい。

 博武は彼女のそうした気持ちを、敏感に感じ取ったようだった。

「いつか、目指すものが見つかったら聞かせてくれるか」

 追い詰めようとせず、退()いてくれる気づかいがありがたい。いつもなら相手に手をゆるめられると苛立ちをおぼえるが、なぜか今日は素直に受け入れることができた。

「お聞かせします。いつになるかはわかりませんが、もし見つけたらその時には必ず」

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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