六十九 丈夫国生明郷・黒葛寛貴 凶報の到来
黒葛宗家嫡子貴昌、凶刃に倒る。
その急報を受けてすぐ、黒葛寛貴は花巌義孝を御殿中奥の居間に呼んだ。
「七草の真木と貴之が襲撃されたと聞いて驚いていたら、ふた月も経たぬうちに今度はこれだ」
寛貴は激しい怒りが身の内で燃え立つのを感じながら、吐き捨てるように言った。その憤怒の発露を、常に冷静沈着な筆頭家老が静かに受け止める。
「貴昌君のご容態は」
「まだわからん。第一報には、予断を許さぬ状況とあった。顔や胸など四か所に斬りつけられ、大量に出血なさったとか」
「おいたわしい……。金瘡は時に、小さくとも命取りになると言いますからな」
義孝は低くつぶやき、物思わしげな目で嘆息した。
「ご快癒なさればよいが」
「それにしても、三廻部勝元はなんたるざまだ」
思わず声を荒らげ、寛貴は脇息の平板に拳を叩きつけた。
「預かり子を、己の膝元でみすみす危険にさらすとは」
「たしかに無様な失態と言えましょう」
口調は落ち着いているが、義孝の顔にもやはり怒りの色がある。
「しかし、それは随行の者たちとて同じこと。おそばにいながら、なぜ彼らは刺客の凶行を阻止できなかったのか」
当然の批判ではあるが、寛貴は一概に彼らを責める気にはなれなかった。自ら随員に推した黒葛禎貴や石動元博が、貴昌を守るために力を尽くさなかったとは思えないからだ。
「たまさかに邪魔が重なり、随員はやや出遅れた形になったらしい。事が起きた時もっとも近くにいた玉県吉綱は、若君をかばって腹を刺されたようだ。元博も刺客に立ち向かって負傷したとか」
かつて城勤めをしていた少年の名を聞くと、義孝の眼差しがやわらいだ。
「勇敢な若者だ。御屋形さまが見込まれただけのことはありますな」
「義孝――」寛貴は気を落ち着けようと努めながら、信頼する家老を手で差し招いた。「どう思う。七草と天山で起きたことには、つながりがあるのか」
義孝は滑るように膝を進め、寛貴の傍に近づいて囁いた。
「わかりませぬ。が、私見を申し上げれば……つながりはあるように思えます」
「では誰だ、黒幕は」
「まだ何とも」
「推量してみよ」
「こう考えてみましょう。黒葛宗家と分家の嫡子を亡き者にして、いちばん得をするのは誰か」
「七草では貴昭の妻も襲われた」
「ならば、それも含めて」
顔を見合わせたふたりのあいだを、意味深な視線が行き交う。
「三廻部勝元はどうだ」
寛貴が名を挙げると、義孝は小さく首を振った。
「大皇はむしろ此度の一件に憤りをおぼえておりましょう。預かった人質を害され、庇護者としての面目をつぶされたわけですから」
「たしかにな」
「守笹貫家が戦を仕掛ける前に、当家の意気を挫くべく企んだのでは」
「ふむ、ありえなくはない」
宿敵の仕業とするのは、しごく妥当な考えに思える。
「しかし七草の件はともかく、後ろ盾として頼っている大皇の顔に泥を塗るような真似をするだろうか」
「では、樹神清長はいかがです。謀反を企んでいたところへ当家と樹神家の同盟が成り、身動き取れなくなったのを苦々しく思っているのではありませぬか」
「そうだったとしても、あれに他国でここまでの大事件を起こす才覚があるとも思えぬ」
腕組みをして考え込んだ寛貴の頭に、ある人物が浮かんだ。それを口に出そうとして、直前で思い留まる。
「直恒」
名を呼ぶと、次の間に控えさせている近習の鳥谷部直恒が、閉め切った襖の向こうで即座に答えた。
「は」
「あたりに人けはあるか」
「ございませぬ」
「よし。今は誰も近寄らせるな」
あらためて義孝のほうに向き直り、寛貴は声をひそめて言った。
「郡楽の――兄上の妻富久をどう思う」
黒葛宗家の奥方の名を聞いて、さすがの義孝も動揺を覗かせる。
「富久さま、ですか」
「兄と先妻とのお子である貴昌君は、あの女にとって邪魔な存在でしかない。天山に行ってくれて清々したと思っているだろう。そのまま帰らなければ、なお好都合というものだ」
「ご懐妊でもされたなら、そのお子の将来を思って野望を抱かれることはあるやもしれませぬ。ですが今はまだ、そのような兆候は見られぬのでは」
「先手を打っておくつもりだったのかもしれん」
「だとしても、七草家まで? それに女性である富久さまに、はたしてあれほどのことを実行するだけの力がおありでしょうか」
「助力する者がいるのだろう。あれの実家の玉県家は、もとはこの丈州の半分を領していた権門だ」
「御屋形さまは、玉県氏が家ぐるみで何か企んでいるとお疑いなのですか」
義孝が、やや鼻白むふうを見せる。
「当主の玉県英綱どのは節操堅固で、ことのほか信義に篤い男ですぞ」
「わしも英綱は好きだ。信頼できる男とも思う。だが富久は好かん。その兄の綱保や吉綱もだ。分家の主の晴綱も、どこか油断のならぬやつに思える」
乱暴なことを言っている自覚はあるが、一度口に出すと止まらなくなった。五年前に富久が兄禎俊の継妻として輿入れして以来、ずっと心に抱いてきたわだかまりだ。
好き嫌いを言う子供のようで体面の悪いことだと思う部分もあり、これまでは直恒や親友の柳浦重里など、ごく限られた相手にしか気持ちをもらさなかった。義孝が耳にするのは今日が初めてなので、当惑顔を見せるのも無理からぬことだ。
「御屋形さまが玉県家に、そのように不信感を抱いておられるとは知りませなんだ」
彼はほっそりとした指を唇に当て、伏し目がちにつぶやいた。
「たしかに玉県家は、もっとも最後まで黒葛家の支配に抵抗した一族ではありますが」
しかしそれも、もう二百五十年も前の話だと言いたげだ。
「わしはな、義孝」寛貴は彼の視線を捉え、静かに言った。「支族の中で、いつか誰かが主家に弓引くとしたら、それは玉県家に違いないと考えている」
はっと息を呑み、義孝が考え込む。悩ましい問題を突然突きつけられ、胸中には複雑な思いが渦巻いているに違いない。だが彼は自身の感情に囚われることなく、すぐに気持ちを切り替えた。
「わかりました。今後はわたしも、玉県家の動きを注視するよう心がけましょう。それはそれとして――」
ふいに居住まいを正し、厳しく引き締まった顔つきになる。
「二件の襲撃が外部ではなく内部から持ち上がった企みであると考えるなら、もうひとつ挙げねばならぬ名があるのをお忘れではありませぬか」
予想外の問いかけだった。
寛貴の中では、天山と七草の襲撃は十中八九まで外部の敵の仕業だろうという考えに寄っている。玉県の名は可能性のひとつとして持ち出しただけで、本気で今回のことを彼らが仕組んだと信じているわけではない。まして、家中でほかに挙げるべき名など思いもつかなかった。
「それは誰だ」
「丈州生明家――御屋形さまご自身です」
「なにを馬鹿な」
かっとなり、思わず声が高くなった。相手が日ごろから仰望している義孝でなければ、驚きと怒りにまかせてその顔を打っていたかもしれない。
「わしを愚弄するか」
半ば腰を浮かせて怒気をひらめかせる寛貴を、義孝は少しも怯むことなくまっすぐに見上げた。
「今後家中で黒幕は誰かという話になったら、守笹貫や三廻部に続いて必ずや誰かが御屋形さまのお名を挙げるでしょう。主家への憚りから口には出さぬとしても、頭で思い浮かべはするはずです。これは決して避けられませぬ」
淡々と言い、畳に指先をついて優雅に低頭する。
「そのことをお心に留めておいていただくために、敢えて申し上げました。非礼をお許しください」
彼の意図がわかって寛貴の気は静まったが、もやもやとした思いは残っていた。
「これまで家のため、兄上のためにひたすら尽くしてきたわしが、この件で疑いの目を向けられる理由は何だ」
「まず、貴之君と貴昌君が相次いで狙われる中、当家の俊紀君だけが未だご無事でいられることがひとつ」
「皮肉な話だな」鼻を鳴らし、乱れた羽織の裾を払って座り直す。「ほかには」
「御屋形さまが、宗家の継承権を有しておられることがひとつ。貴昌君が亡くなられた場合、御屋形さまは次代の宗主にもっとも近いお立場となられます。そしてゆくゆくは、俊紀君がそのお跡を継ぐことに。あるいは禎俊公ご自身が、甥御さまである俊紀君を養嗣子にと望まれるやもしれませぬな」
「つまり生明家が宗家に取って代わる……おれがそういう野心を抱いていると、人は思うというのだな」
「そう思う者もいる、ということです」
穏やかに訂正して、義孝は小さくため息をついた。
「多くはないでしょうが、確実に」
寛貴は憮然として口をつぐみ、膝の上の両手を見下ろした。
大きな掌。長く太く力強い指。右の甲に斜めに走った傷は、六年前に洲之内郷の砦を落とした際の戦闘の名残だ。
幾多の戦いを経験してきた手。この手に剣を持って挑むなら、どんな敵にも負けはしない。だが人の疑心などという掴みどころのないものと、いったいどうやって戦えばいいのだろう。
「おれは何かするべきか? 多くはないが確実にいる、その連中の疑いを払拭するために」
助言を求めると、義孝はすぐに答えた。
「取り急ぎ、禎俊公に書状を」
「慰撫激励のためか。むろん、それは書こうと思っていた」
「それだけではなく、拝謁を願い出るのです。あちらからお呼びがかかる前に、自ら進んで郡楽へ赴いてください。ご兄弟が顔を合わせ、睦まじく語り合う姿を見せることこそが、余人の憶測を封じるもっとも有効な手立てです」
「ならばこのさい、貴昭も呼び出すか。守笹貫との戦のことも、そろそろ話し合わねばならぬ」
「よいお考えです。黒葛三兄弟の鉄の結束にいささかの揺るぎもないことを、内外に顕示する絶好の機会となりましょう」
〝異体同心〟とも称されてきた三人の結束に、揺るぎなどあろうはずもない。そう思ったが、寛貴は素直にうなずいた。
三州に分かれてそれぞれ統治するようになり、兄弟が直接会う機会は明らかに減っている。たとえ離れていても長兄を主君として敬い、宗家を守ることをいちばんに考えてはいるが、家来たちの目には、何ごとにも三人揃って当たっていたころとは変わってしまったように映っているかもしれない。
おれが丈州で、貴昭が立州で粉骨砕身しているのはすべて宗家のため、黒葛家をより強大にして末永く栄えさせるためだ。そこに私欲や野心などは微塵も絡んでいない。戦に乗り出す前に、あらためてそのことをみなの頭に刻みつけてやろう。
「兄から返事が来たら、すぐにも郡楽へ行ってくる」
きっぱり言うと、義孝の顔にようやく微笑が浮かんだ。
「必ずや、よい結果につながることと思います」
「忙しくなるぞ。発つ前に、あれこれとやっておくことがある。真っ先に、俊紀と喜多の警護体制を見直したいが」
「はい。さしあたり奧番方の人数を増やして――」
彼の言葉にかぶるように、襖の外から直恒の呼ぶ声がした。
「御屋形さま」
「どうした」
「柳浦重里さまがこちらへ来られます。出直していただくように申し上げますか」
ほかの者なら追い払わせるところだが、腹心の重里では無下にもできない。
「いや、入れてかまわぬ」
襖が開くと、重里は軽く一礼して座敷に入ってきた。いつになく厳しい表情をしている。
「天山に潜らせている空閑忍びから、第二報が届きました」
「速いな」寛貴は少し驚き、手で彼を近くに招いた。「なんと言ってきた」
「貴昌君は大皇妃の指図の下、慶城二の曲輪御殿の庭園内にある館に移され、城付きの療師の治療を受けておられるそうです」
「なぜ大皇妃が」
義孝が眉をひそめながら疑問を呈する。寛貴もそこに引っかかりをおぼえた。
「若君の後見役は桔流和智で、仮寓先も桔流家の屋敷だったはずだ。なのになぜ、大皇妃が仕切っている?」
「それは何とも」重里が困ったように頭を搔く。「そのうち、もっと詳しい報告があるでしょう」
「その後のご容態については、何か知らせてきたか」
「もっとも深手だったのは左の肩口から胸にかけての切創で、お顔の傷は比較的浅かったものの出血が甚だしいとか。この報せが天山を出た時点では、まだ意識は戻られていなかったようです」
「なんということだ……」
義孝がうめくように言い、沈痛な面持ちで瞑目した。重里のほうも自身の子への思いを重ねて、身につまされる心地を味わっているようだ。
寛貴は片手で顔をこすり、深いため息をついた。
「こういうことがあると、天山との距離がことさらに遠く感じられるな。我らは今ようやく知ったばかりであれこれと思い煩っているが、あちらでは良かれ悪しかれ、すでにこの一件の結末を見ているはずだ。それを同時に共有できないというのは、なんとももどかしいと思わんか」
「貴昌君はご回復なさり、今この時もお健やかに過ごしておられるものと信じましょう」
常に前向きな重里が、重い空気を吹き飛ばそうとするように、敢えてカラリとした調子で言う。
「いずれきっと、よい報せがもたらされるはずです」
「そうだな」
寛貴は彼の明るさに救われる思いで、大きくうなずいた。
「それを待つあいだ、ただ気を揉んでいても仕方がない。すべきことをしていよう。まずは手紙だ。直恒」
呼ぶとすぐ、待ち構えていたように近習が襖を開けて半分顔を覗かせた。
「は」
「郡楽と七草、天山に急ぎの書状を送る。使者を見つくろって、すぐに発てるよう中門の詰め所で待たせておけ。それから利真をここへ」
小姓頭の日疋利真は近くで控えていたものとみえて、直恒が捜しに行ったと思う間もなくやって来た。
「お呼びでございますか」
利発そうな若々しい顔に、今日は少し張り詰めたものが見て取れる。城主と重臣たちを取り巻く、ただならぬ雰囲気を感じ取っているのだろう。
「手紙を何通か書くので支度せよ。それから女中に茶を運ばせてくれ」
「はい、ただいま」
若者がさっそく言いつけられた用事に取りかかるのを見て、義孝と重里も腰を上げる。
「奧番衆の件を番方の長と話します」
「わしは空閑の屋敷へ出向き、二、三打ち合わせてまいります」
一礼して足早に座敷を出て行くふたりを、寛貴は心慰められる頼もしさを感じながら見送った。
夜もとっぷりと暮れたころになって、さらに追加の報せがもたらされ、それでこの日は打ち止めとなった。第三報によると、貴昌はいまだ人事不省に陥ったままだが、療師は熱が引けば目を覚ますだろうと言っているらしい。
若君をかばって腹を刺された玉県吉綱は意外にもさほど深手を負っておらず、刺客に立ち向かって左膝を傷めた石動元博のほうがむしろ重傷だという。
寛貴は甥である貴昌と同様に、気に入りの小姓だった元博のことも気がかりでならなかった。思えばまだ十三歳、ほんの少年だ。天山行きの随員に加えるよう兄に進言したのは、今考えるといささか短慮だったかもしれない。
仕事を終えて奧御殿へ戻った彼は、すぐには寝間へ入らずに居間で少し酒を飲んだ。体は疲れて睡眠を欲しているが、頭が冴えていてすぐには眠れそうにない。
そこへ、妻の喜多がやって来た。寝衣の上に羽織をまとっただけのくだけた姿だ。すでに寝床に入っていたのに、わざわざ起きてきたらしい。
「殿、まだお休みにならないのですか」
物柔らかく言いながら傍に座り、酒器を取って盃に注いでくれる。
「寝ていてよかったのだぞ」
酒をすすりながら言うと、若い妻は鷹揚に微笑んだ。美形ではないが邪気のないおっとりしたその顔を見ていると、心の緊張がゆるんでほぐれるのを感じる。
「俊紀も、つい先ほどまで起きておりましたの。何か感じているのか、少し落ち着かないようで」
「昼間ずっと城の中がざわついていたからな。おまえはどうだ、怖くはないか。ひとまず警護の数は増やしたが」
気づかうと、喜多は頬にえくぼを浮かべて首を振った。
「自分の身に禍が及ぶというのは、あまりうまく想像できないのです。根っから呑気な性質なのでしょうね」
「落ち着いていてくれて助かるが、それでもしばらくは身辺に用心せよ。俊紀からも、できるかぎり目を離すな」
「あの子のことはご心配なく。わたしもみなも、よくよく気をつけて見守っておりますから」
「貴昌君もそうだったはずなのだが……」
ため息まじりにつぶやくと、喜多は夫の表情を窺いながら初めて少し眉をくもらせた。
「お怪我のこと、天山からまた何か報せてまいりましたか?」
「まだ意識は戻っておられぬそうだ。お熱がかなり高いらしいので、まずはそれが下がらぬことにはな」
そこでようやく、妻に伝えてやるべきことがあったのを思い出した。
「おお、そうだ。おまえの兄の吉綱は、幸いにも浅手ですんだとのことだぞ」
「それは、ようございました。すぐ元気になって、また若君のお護り役に加われますね」
やはり案じていたのだろう、嬉しそうな様子を見せる。それでもこちらから言うまで何も訊いてこないあたり、ほんとうに控え目でのんびりした女だとつくづく思った。
寛貴はこの妻が玉県家の娘であることをしばしば忘れるが、本人は実家とのつながりを大切に思っているらしく、よく姉や母親と手紙のやり取りをしている。そこまで密な交際こそないものの、当然ふたりの兄にも愛情は持っているだろう。
彼らに対する否定的な感情は、喜多の前では出さないようにしなければならない。
「怪我の程度は、元博のほうが重いぐらいだそうだ。といっても、脚を傷めただけのようだが」
石動元博の名を出すと、喜多は懐かしそうな目をしてそっと胸に手を当てた。
「随員のお役目を立派に果たしているのですね。城にいたころから、とてもしっかりした良い子でしたが」
「そう、いつまでも子供扱いするな」思わず笑みがもれる。「もう元服もすませた一端の大人だぞ」
「でも年の上ではまだ子供です」
元博が贔屓だったのは彼女も同じなので、珍しく頑固に言いつのる。
「あの子にはここにいて、俊紀の友人とも手本ともなってもらいたかったと、今でも残念に思っております」
「おれも同じだが、俊紀ではなく貴昌君のほうに、あいつはより必要なのだ」
「そう……ですね」
喜多はふっと吐息をつき、頬にかかった髪をかき上げながらつぶやいた。
「何ごとも、ご宗家が第一でなければ」
彼女の口調か表情か、そのとき見せた何かが、ふいに寛貴の頭に花巌義孝との昼間の会話を蘇らせた。
「喜多、貴昌君にもしものことがあって、宗家の跡取りがいなくなったら――と考えたことはあるか」
何を訊かれているのかわからない、というように喜多が小首を傾げる。
「いなくなったら、とは?」
「兄上から、俊紀を養嗣子にしたいと言われるやもしれぬ。そうなったら、おまえはどう思う」
「それはもちろん、この上なく名誉なことと思います」
目を輝かせながら答えて、彼女は天真爛漫な笑顔を見せた。
「俊紀をあちらへお渡しするのは寂しいですけど、郡楽には姉の富久もおりますしね。きっと我が子同然に、大切に育ててくれるでしょう」
自分が仕掛けた質問だが、妻の反応に寛貴はやや興ざめするものを感じた。しかし、どういう答えを期待していたのかというと、それはよくわからない。
「俊紀が黒葛家の宗主となったら嬉しいか」
用心深く言葉を選びながら重ねて訊くと、喜多は袖を口元にあてて小さく含み笑いをした。
「まあ、困りましたわ。そんなこと、これまで思ってもみませんでしたもの。突然訊ねられても、よくわかりません。殿ご自身はいかがですの?」
答えようとして、寛貴はふと口をつぐんだ。
嬉しくなどない。そのはずだ。だが、ほんとうにそうだろうか。
自分の息子が兄の跡継ぎとなり、西峽南部三国を支配する黒葛家の頂点に立つ日が来ても、おれは少しも嬉しくないのか。誇らしさを感じないと言えるのか。
息が詰まるような自問の一瞬が過ぎ去ったあと、寛貴はぞっと身震いして盃を置いた。
口の中が乾ききっているが、もう酒は飲みたくない。
「おれは寝る」
ぼそりと言うと、喜多が不思議そうに眉を上げた。一方的に会話を断ち切られて、少し驚いているようだ。
「おまえも早く休むといい」
寛貴は戸惑い顔の妻をそこへ残し、妙なうそ寒さが首筋をかすめるのを感じながら寝間へと引き上げた。
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