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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第六章 絆の芽生え
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六十七 御守国御山・街風一眞 誘惑

 人をただ殺すだけなら簡単だ。だがそれを秘密裏に行おうとすると、たちまち難しくなる。

 一眞(かずま)が自分の父親と連れ合いを殺そうと決めた際に、真っ先に考えたのもそのことだった。

 目的を果たしても、あとで捕まったのでは意味がない。殺人者であることを余人に知られず、疑いをかけられず、その後も素知らぬ顔で暮らしていけるようにするには、どう事を運ぶべきか。

 いろいろと方策を練った末、あの時は殺人にかかわった者、目撃した者をすべて消すという方法を選択して、おおむねうまくいった。

 しかし、御山(みやま)でそれと同じことをできるとは思えない。

 饗庭(あいば)左近(さこん)に過去を探られていることを知った時から、一眞はずっと彼を始末する方法を考え続けていた。

 いちばん望ましいのは、不慮の事故による死に見せかけることだ。人が絶命に至る危険は、日常の中にも数多く存在する。そうしたひとつを殺害の状況にうまくあてはめれば、他殺の疑いを招かずにすむかもしれない。

 だが左近は一眞の予想以上に用心深く、〝不慮の事故〟を仕組めそうな隙をまったく見せなかった。どんな人間にも一日のうちに一度くらいは無防備になる時があるはずだが、それを知るためには彼にもっと接近する必要がありそうだ。しかし下手に周囲をうろついていると人目に立ち、左近が死んだあとで取り沙汰される恐れがあった。

 彼の死と自分の存在が、誰かの記憶の中でつながってしまうようなことは絶対に避けたい。

 そもそも、たとえうまく不意を突いたとしても、彼をそう簡単に殺せるとは思えなかった。下司(げす)な男ではあるが、衛士寮武術指南役の肩書きは伊達ではない。返り討ちに遭う危険性も充分に考慮しておく必要があるだろう。


 夜の温習(おんしゅう)稽古を終え、宿堂(しゅくどう)の自室でくつろいでいた一眞(かずま)伊之介(いのすけ)たちに、信光(のぶみつ)がふと問いを投げかけてきた。

「なあ、本身の得物で殺し合うとして、三人のうちのどの指南役になら勝てると思う?」

「まず、堂長は絶対に無理だな」伊之介が言下に答える。「構えた時にはもう斬られてるだろうよ」

 利達(としたつ)が神妙な顔でうなずきながら、寝台の上で膝を抱えた。想像するだけで怖くなったらしい。

「おれ、前に堂長が本身を振り抜くところを見たけど……まるで稲妻が走ったみたいだった。あの間合いの中にいたら、避けるどころかまばたきすらできないと思う」

「この四人の中で、勝てる可能性があるとしたらおまえだな」伊之介がにやにやしながら、一眞のほうに視線をよこした。「最近は堂長との稽古で、けっこういい打ち合いをやってるじゃないか」

「稽古だから打ち合いになってるだけだ。お互いに殺す気で相対したら、一太刀だって入れられる気がしない」

 謙遜ではなかった。千手(せんじゅ)景英(かげひで)に教えを受け、自分が日々上達している実感はあるが、真剣勝負をして張り合える水準に達しているとはまったく思えない。

「そう言っても多少は勝算があるだろう。このおれでも、おまえにはめったに勝てないんだから」

「いや、勝算はない」

 一眞はきっぱりと言い切り、寝台の上に仰向けに寝転がった。

「あと十年か十五年、死ぬ気で修行すればあるいは……。だが、そのころには相手はもっと強くなってるだろうしな」

「弟子が師を超えることもあるよ」

 両腕でしっかり抱えた膝に顎を載せ、利達がぽつりと言った。

「おれは、堂長は――それを望んでると思う」

「下手くそにせっせと教えてやって追い抜かれるなんて、おれだったらいい気はしないなあ」信光がぼやき、陰気な顔で仲間を見渡す。「わかってる、けつの穴の小さいやつだって言いたいんだろう。実際その通りだよ。こう了見が狭くちゃ、衛士にはなれても指南役は務まりそうにないや」

「待て待て、武術指南役や剣術師範がみんな人格者ってわけじゃないぞ」

 伊之介は寝台の端まで尻を滑らせ、身を乗り出して力説した。

「堂長みたいなのは特別さ。あそこまで心技体が見事に揃ってる人は見たことがない。三甲野(みかの)指南役も悪くはないけど、よく見てると指導の仕方がけっこう偏ってて、自分の気に入りを無意識に贔屓(ひいき)してるようなところがあるのがわかるぜ。それに左近は――まあ、これは言うまでもないか」

 どっと上がった笑い声で狭い室内が満たされる。饗庭左近は修行者のほとんどに嫌われており、こうした内輪話で冗談の種にされることが多かった。

 もうひとりの指南役である三甲野克洋(かつひろ)は、景英ほど崇敬されはしないが、左近ほど憎まれることもない。どことなく影が薄く中途半端な存在だと、一眞は以前から感じていた。

 長得物の扱いはうまいと思うが、向かい合った時の威圧感はあまりない。褒めて伸ばすというのが信条らしく、彼の教え方はいつも丁寧でやや甘めだった。そこが少し物足りなく思えることもある。

「三甲野指南役になら勝てるかもしれない」一眞は手枕をして横向きになり、隣の寝台に座っている伊之介を見上げた。「刀で――できれば脇差しでやり合えばな。槍や薙刀(なぎなた)で来られると厳しそうだ」

「でもおまえなら、あの斜め上から降ってくる臑打ちをかわせるだろう。横に逸らしておいて、脇に踏み込みながら逆に相手の足首を狙う……得意の型じゃないか」

「まあな。でも指南役はみんなおれの得意技を知ってるから、そう簡単には踏み込ませないだろう」

「信光も、三甲野指南役とはかなりやれるんじゃないか?」

 利達がいそいそと前に這い出てきながら言った。

「指南役と地稽古をやってるのを見たけど、槍の穂先をさばくのは一眞や伊之介よりもうまかったと思う」

「そうやっておだてておいて、あとで落とす気だろう」

 信光が疑わしそうに言って、横目に利達を見る。

「ま、槍はけっこう得意なほうだけど。少なくとも剣よりはうまく使える」

「しかし、あれだな――こうして考えてみると、やっぱり指南役の三人はみんな手強(てごわ)い相手だと感じるぜ」

 伊之介が妙に厳かな調子で言い、仲間はみんな一様に同意のうなずきを返した。

「左近も人としては最悪なやつだが、強いことは強い。堂長には及ばないにしても、かなりの使い手と言っていいんじゃないか」

「あれで半端に弱かったら、恨みがつのった修行者にとっくに殺されてるさ」

 信光の言葉で再び笑いが起きる。一眞は一緒になって笑いながら、会話に少し神経を集中させた。こういう雑談から、何かいい示唆が得られるかもしれない。

「あんなに恨みを買ってて、なんでまだ生きてられるんだろうなあ」伊之介が頭をぼりぼり()きながら憮然と言った。「これまでに誰か、あいつを殺そうと思う修行者はいなかったのか」

「利達が一眞ぐらい強かったら、今ごろは左近をあの世に送ってただろう」

 からかうように言った信光を、利達が恨めしげに睨む。

「冗談じゃないよ。人を殺すなんて……いくら嫌いでも、そんなことするわけない」

「でも、殺してやりたいと思ったことぐらいはあるだろう?」

「それは――」

 利達の色白な頬に薄く(しゅ)がさした。ひそめた眉に苦渋の色が浮かんでいる。

「ないとは言えないけど、本当はそんなことを思ったりするべきじゃないんだ。御山の掟戒(ていかい)の〝不殺〟は、そういう考えを抱くこと自体も戒めていると思う」

「まったく、くそ真面目だなあ」

 あきれたように言ったのは伊之介だ。

「おれはあいつに、おまえほどひどくやられたことはないけど、それでも稽古中に〝うっかり〟殺しちまえたらなと何度も思ったぜ」

 一眞は手枕をはずして起き上がり、伊之介をじっと見つめた。

「どうやって?」

「いろいろあるじゃないか。鉄砲で的を狙ってる時に、うっかり手元が狂う。剣で打ち合ってる時に、うっかり急所を突いちまう。調練用の木太刀だって切っ先はそこそこ尖ってるから、まっすぐ力いっぱい突き込めば肉を貫けるはずだ」

 伊之介が事もなげに言っているあいだに、利達はまた膝を抱えて丸まってしまった。話を聞いているだけで青い顔をしている。

 いかにして左近を〝うっかり〟殺すかについて、冗談まじりに意見を戦わせている信光と伊之介をしばらく見守ったあと、彼はするりと寝台から下りて草履を履いた。

「ちょっと外を歩いてくるよ」

 利達が部屋を出たあと、一眞は伊之介たちに「おれは(かわや)だ」と断り、すかさず後を追った。宿堂の廊下をとぼとぼ歩く彼に追いつき、うしろから肩をぽんと叩く。

「おい、ただの(ふざ)け話だぞ」

「うん……わかってる」利達はうなだれたまま、小さくつぶやいた。「別に気を悪くしたとかじゃないんだ」

 宿堂を出たふたりは、月明かりの下で向かい合った。夏の夜とは思えない、ひんやりしたそよ風が吹いている。

「話を聞いてて、ちょっと怖くなったんだよ。ほら、前におれ――指南役を撃ちそうになったことがあっただろう?」

 利達は少し伏し目がちに、重苦しい声で言った。

「あの時は指南役の怒鳴り声がただもう怖くて、体が縮み上がっちゃって、そのせいでつい引き金を引いたんだと思ってた」

「実際そうだろう」

「でも、もしかしたらって……さっき思ったんだ。おれ、ここへ来た時からずっと指南役のことが嫌いで――本当に嫌いで――だから〝うっかり〟殺してやろうって、あの瞬間、心のどこかで考えたんじゃないかって」

 彼はぐっと唾を飲み、すがるような目で一眞の顔を覗き込んだ。

「もしそうなら、おれには御山にいる資格がない。伊之介たちは冗談であんな話をしてるだけだけど、おれは現実に指南役に銃口を向けて引き金を引いたんだ。当たらなかったのは腕が未熟だったからで――玖実(くみ)みたいな撃ち手だったら、頭か胸に当てて殺していたかもしれない」

「考えすぎだ」

「でも、自信がないよ。絶対にその気はなかったって、きっぱりとは言い切れない。それにあの時、おまえが続けて撃ったのを見て驚いたけど……当たればよかったのにって、残念に思った部分もあったような気がするんだ」

「考えすぎだ」

 一眞はもう一度繰り返し、拳で軽く彼の胸を小突いた。

「おまえは〝うっかり〟を装って誰かを殺すなんて、絶対にできない人間だ。自分で確信が持てないなら、おれが断言してやる」

 利達は目を大きく見開いて、しばらく一眞を凝視していたが、やがて得心がいったようにこくりとうなずいた。

「……うん」

「少しは気が晴れたか?」

「うん」彼はようやく表情をやわらげ、恥ずかしそうに微笑んだ。「なんか、いつも励ましてもらってばっかりだ」

「そのうち、おまえに助けられることだってあるさ」

「言って欲しいよ。何かできることがあったらさ。おれじゃ、あんまり頼りにはならないかもしれないけど」

「もちろん、必要な時には頼む」一眞は階段の下まで下りて、利達を振り返った。「部屋へ戻るのか」

「そのへんをちょっと歩いて頭を冷やすよ。おまえは、どこ行くんだ?」

「厠。腹具合がよくないんだ」

 一眞は背中を向け、宿堂脇の外便所のほうへ歩き出した。その途中で道を横に逸れ、稽古場の洞窟へ続く小道に入っていきながら、利達の後ろ姿を肩ごしにちらりと見る。

 あいつを巻き込めたらな――ふと、そんな思いが頭をよぎった。

 調練中の〝うっかり〟で殺すというのは、なかなか悪くない考えだ。しかし自分でそれをやると、嫌でも故意を疑われることになるだろう。鉄砲や剣の扱いにある程度習熟している者が、気を張っている稽古の最中にそんな過ちを犯す可能性は限りなく低い。

 だが利達なら。

 未だに、ただ鉄砲を持つだけで腰が引けている。構える姿からして見るからに危なっかしい。彼が大きく的を外し、その弾が左近の頭を撃ち抜いたとしても、わざとやったとはおそらく誰も思わないだろう。

 何らかの処罰はあるだろうが、意図して殺したのではないと認められれば、御山から追放されるようなことにはならないはずだ。

 考えに没頭しながらカラマツの林道を半分まで来て、一眞はぴたりと足を止めた。頭上に高く伸びた木々の枝先が、風に揺れてざわめいている。何か無性に切迫感をかき立てられる音だ。

 そんなふうに感じるのは、実際に少し焦り始めているからだろう。

 余計なことを探り出される前に、左近を始末したい。手っ取り早く片をつけるために、利達をうまく利用できないものか。

 狭く細い林道に佇み、薄闇にじっと目を凝らして思いをめぐらせたあと、結局一眞はその考えを放棄することにした。

 皮肉にも自ら言った通りだ。過失を装って人を殺すなどということが、あの利達にできるわけはない。憎む相手を殺す想像を、頭の中で(もてあそ)ぶことすらも自分に許そうとしない実直者だ。彼に掟戒(ていかい)を破らせるのは、左近を暗殺すること自体よりもはるかに難しいだろう。

 一眞はあきらめのため息をつくと、その場で(きびす)を返して宿堂へ戻っていった。


 行堂(ぎょうどう)の修行者には訓練のほかに四種類の作業が課せられており、入堂した日に一番当番の掃除から始めて、五十日ごとに次へ移る仕組みになっている。観月(かんげつ)に入ってから、一眞(かずま)は二番当番の農作業に就いていた。作業場は七ノ上弦道(じょうげんどう)の南半分を占める広い農地だ。

 この日、朝食を終えた一眞は同じく二番当番の利達(としたつ)と共に農地へ行き、作業仲間の中に新しい顔を見つけた。

 前に宿堂(しゅくどう)で、饗庭(あいば)左近(さこん)と乳繰り合っているところを目撃した(きく)だ。彼女は入堂期間の半分以上を勤め上げている半古参なので、当番もすでに二巡目に入っている。

 利達は彼女に気づくと複雑な表情になり、見たくないというように視線を逸らした。

「おれ、あっちを耕してくるよ」

 気まずそうに断って、菊が小松菜の収穫作業をしている場所から離れていく。しかし一眞は敢えてそこに残り、収穫の仲間に加わった。

 一列向こうの畝で働いている菊が、ちらちらと視線を送ってきているのがわかる。濡れ場を見られて以来、彼女のほうも一眞と利達を極力避けているが、ふたりの動向は常に気にしている様子だった。破戒をいつ告発されるか、気が気でないのだろう。

 しばらく作業をしたところで、ついに菊が近づいてきた。畝を挟んだ向かい側にしゃがみ込み、手を動かしつつ上目づかいに一眞を見つめている。

「ねえ」

 わざと無視していると、()れたように声をかけてきた。

「ちょっと話があるの」

 一眞はそこで初めて顔を上げ、彼女をまっすぐに見た。

「なんだ」

 強い視線を浴び、尻込みしたように菊がうつむく。ややあって上げた目は、しっとりと濡れたような輝きを帯びていた。頼りなげな表情や少し低めの声、袖から覗く肌の白さなど、曰く言いがたい艶めかしさを感じさせる女だ。

 彼女は小さく吐息をもらしてから、心を決めたように口を開いた。

「あのこと、誰かに……言ったの?」

「何のことだ」

「わかるでしょう」言わなくても、と軽く睨む。「部屋で見たことよ」

 一眞は鼻で笑い、立ち上がって別の畝に移った。菊のほうは見もしなかったが、ついてくるのはわかっている。

 案の定、彼女は急いであとを追ってきた。同じ列へ入り、今度は真横に堂々と陣取る。

「返事ぐらいしてよ」

 怒った顔をしているが、こちらを見る目つきには媚びが感じられた。

「言ったかどうか、知ってどうする」

 一眞は小松菜を引き抜き、根元をはたいて土を落としながら言った。

「口止めするなら、おれじゃなくて利達のほうだろう」

「彼は意気地がないから、あんなことを人に話したりできないわ」

 物憂げにつぶやき、ふっと笑みをもらす。見下したような調子が鼻についた。

「意気地がないんじゃない、思慮深いんだ」一眞は険のある声で言い、横目に鋭く彼女を見た。「あいつの謹厳さをなめてると、泣きを見るはめになるぞ」

 菊がぶたれたように怯み、きゅっと唇を噛む。

「そんなに、()慳貪(けんどん)にしなくていいでしょう」

 目尻を赤くして、非難がましく抗議する。しかし彼女はすぐに表情をやわらげ、さり気なく肩を寄せてきた。

「不安なのよ、わたし。ねえ……どうしたら黙っててくれる?」

 どんな要求にも応えるつもりがあることを、暗に仄めかしている。きっと下界にいたころは、いつもこの手で男を思うままに操っていたのだろう。菊には、父親の妾だったあの女と同じ匂いを感じる。

「どうしたって、言う時には言う」

 けんもほろろに突き放すと、菊はしばし戸惑う様子を見せたあと、深々と嘆息した。

「あんたって堅いの? それとも子供なの?」

 声は沈んでいるが、口調は挑発的だ。そうやって一眞の情動を引き出し、取りつく島を作ろうとしているのだろう。だが彼は乗せられなかった。

「おまえ、左近とまだ続いてるのか」

 無遠慮すぎる問いかけが、菊の急所に刺さったのがわかった。その白い手の中で、小松菜の茎がつぶれる音がする。

 一眞はにやりとして、横から彼女の顔を覗き込んだ。

「へえ、そうか。そんなにあいつの一物(いちもつ)が気に入ってるとはな」

 菊は眉を逆立て、きっと一眞を睨んだ。今度は本気で腹を立てている。

「あんたに関係ないでしょう」

「どこでやってるんだ。相変わらず宿堂か? 仲間に見つかるかもしれないと思うと、なおさら興奮してたまらないんだろう?」

 平手打ちが飛んできた。その手首をすかさず掴み、ひねりながら地面に押しつける。菊は痛みに喘ぎ、額に脂汗をにじませてもがいた。

「なにするのよ、放して――」

「うるせえぞ莫連(あばずれ)

 押し殺した低い声で罵ると、彼女はびくりと身をすくめて動きを止めた。目玉がこぼれ落ちそうなほど大きく目を見開いている。

 一眞は菊の片腕を押さえたまま、そっと周囲の様子を窺った。今のところ、こちらに注目している者は誰もいないようだ。

「菊」一転して声音をやわらげ、彼女のほうへ少し顔を寄せる。「左近とああいう仲になったのは、おまえがそうしたかったからか?」

 手の力をわずかにゆるめてやると、彼女はわななくように息をついて、ごくりと唾を飲み込んだ。

「そんなわけ、ないじゃない」消え入りそうな囁き声で答える。「あんなやつ」

「なら、どうして好きにさせてるんだ」

「怖いからよ。断ったら、何をされるかわからない」

 嘘ではないが、それは理由のすべてではないと感じた。

「得してることもあるんだろう?」

 追及すると、菊は少し気まずそうに目を伏せた。

「稽古では少し……手心を加えてもらってるわ。ほかの修行者にやってるような調子でしごかれたら、わたし、とてももたないもの」

 そんな根性で衛士になろうなんて笑いぐさだと言いかけたものの、一眞は途中で気を変えた。利達があれだけ周囲からさんざん、衛士は無理だ、あきらめろと言われても頑として踏み留まっているように、菊にも何か意地のようなものがあるのかもしれない。

 それに彼女は、少なくとも利達よりはずっとうまく訓練に対応している。砲術は玖実(くみ)同様かなりの腕前になっているし、弓術は女性修行者の中ではいちばんだ。

 一眞はちょっと考え、意味深な目つきで菊を見た。

「その程度の見返りしかないんじゃ、ただで乗せてるようなもんだな。やっぱりおまえ、内心あいつとするのを楽しんでるんじゃないのか」

 さらに本音を引き出そうと、からかい半分に言ってみる。すると菊は手首が痛むのもかまわず、無理やり一眞の手を振りほどこうとした。

「おい、折れるぞ」

「あんた最低よ」噛みつくような口調だ。先ほどまでの艶っぽさは、すっかりどこかへ吹き飛んでしまっている。「左近と同じだわ」

 手を放してやると、彼女は弾かれたように立ち上がった。血の気の失せた唇が、怒りで小刻みに震えている。

「人でなし」

 そう吐き捨てて、菊は足をもつれさせながら一眞から離れて行った。顔を背ける間際に、ちらりと涙が見えたような気がする。

 一眞は引き抜いた小松菜の束を集めながら、今の会話を頭の中でじっくりと反芻した。

 菊は身持ちの悪い女だが、好きで左近に抱かれているわけではないらしい。不快さを押し殺して嫌な男に体を開いているのは、その横暴さに恐怖を感じているから。そして、多少の見返りが得られるから。だが、それだけではないだろう。彼女にはまだ何か隠していることがありそうだ。

 顔を上げて周囲を見回すと、五つ向こうの畝で作業をしている菊が見えた。べそをかいているが、下唇を噛んで黙々と手を動かしている。

 あの女、使えるかもしれない――心の中でつぶやき、一眞は集めた小松菜の束を抱えて立ち上がった。

 水場で野菜を洗っている仲間に収穫物を渡し、手を洗うついでに冷たい水で手ぬぐいをたっぷりと湿らせる。それを持って菊の傍へ行き、逃げられる前に差し出した。

捻挫(ねんざ)しただろう。よく冷やせ」

 疑わしそうに眉をひそめ、ためらいながらも、菊はおずおずと手ぬぐいを受け取った。傷めた手首には、くっきりと指の痕がついている。

 一眞は彼女の上に屈み込み、小声で囁いた。

「おれは言わない」

 菊がはっと見上げる。その目に、彼はかすかな希望がまたたくのを見た。

「誰にもな」

 それだけ言って、さっさと離れていく。

 今日のところはこれで充分だ。菊をどう利用するか、そのために、彼女が隠していることをどうやって暴き出すかは、またあらためて考えればいい。

 秋まきで大根を育てる予定の一角へ行くと、利達が不器用に(くわ)を使っていた。顔に土をつけ、湯気が立つほど汗びっしょりになっているが、たいして作業ははかどっていないようだ。

 彼は一眞に気づくと、ちょっと手を止めて大きく息をついた。

「鍬が重くて」言い訳するようにつぶやく。「菊と、なに話してたんだい?」

 こちらの様子がずっと気になっていたらしい。一眞はにやりとして、自分も鍬を手に取った。

「告げ口しないで欲しいとさ。ほら、例のあのことを」

 一瞬で、利達の顔が()で蟹のように真っ赤になる。宿堂で見た菊と左近の卑猥な絡み合いが、思いがけず脳裏に蘇ったのかもしれない。

「ずいぶん、虫のいいことを言うんだな」

 決まり悪そうにしながらも、彼にしては強い口調で批判する。一眞は乾いた土に鋤を入れながら、真顔で大きくうなずいた。

「まったくだ」

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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