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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第五章 しのび寄る影
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六十五 立身国七草郷・黒葛真木 縁談

唐木田(からきだ)直次(なおつぐ)が今朝、出仕してまいりました」

 御殿中奥の廊下で出会った柳浦(なぎうら)重益(しげます)が、黒葛(つづら)真木(まき)にそう報告した。唐木田直次は、彼女と息子の貴之(たかゆき)が湊で暴徒に襲撃された際、奮戦して重い傷を負った護衛衆のひとりだ。

「まあ、よかったこと」

 真木は足を止め、そそり立つ岩壁のような重益の巨躯と向き合った。

「傷はもう、だいじょうぶなの?」

 直次は右腿を骨に達するほど斬られ、痛みと熱でかなり苦しんだと聞いている。あれからひと月半ほど経っているが、歩けるまでに回復したのだろうか。

「脚の傷はもうふさがりました。ただ歩行が困難らしく、外では杖をついています」

「それは……」

 その時、話に上っている当人が、ふたつ向こうの部屋から廊下へ出てきた。はっと真木に気づき、脇に控えて低頭する。

「直次どの」

 声をかけて傍に行った真木は、彼の浅黒い額にうっすら汗が浮いているのに気づいた。これは暑さのせいだろうか。それとも痛みを(こら)えているためか。

「今日から出仕されているそうですね」

「はい。なかなかお勤めに戻れず、申し訳ございませんでした」

「とんでもない。焦らず、ゆっくり養生していいのですよ。脚の具合はどうですか」

「いささか不格好な歩きぶりで、お見苦しいかと思いますが、日に日によくなっております」

 ほんとうだろうか。真木は彼の冴えない顔色が気になった。無理をしているように感じられる。

「奥方さまは、たいそうご心配されてな」重益が横から言った。「若さまと一緒に見舞いにゆきたいともおおせられたが、それはおれがお止めしたのだ」

「見舞いなど、めっそうもない」

 直次は急に表情を引き締め、射るような目で彼女を見た。

「口はばったいことを申し上げるようですが、どうか当分は城下へのお出ましはお控えください。若さまをお連れになるなど、もってのほかです」

 突然、叱責に近い口調で諫言され、真木は思わず言葉を失った。代わりに重益が気色(けしき)ばむ。

「直次、口を慎め」

 温厚で優しい彼には珍しく、声が尖っている。真木はふたりのあいだで、ただおろおろするしかなかった。こういう息詰まるような場面は苦手だ。何か言って緊張をやわらげねばと思うと、余計に言葉が出てこなくなる。

「奥方さまのなさることに物申せる立場ではないぞ。思い上がるな」

 重益がこれほど激しい言葉を吐くのを聞いたのは初めてだ。見た目が屈強そのものなので、怒っているとなおさら恐ろしく思える。真木は気持ちが委縮するのを感じながら、それでもなんとか笑みを浮かべて割って入った。

「いいの、直次どのの言う通りです。先日のことは、わたしが不用意に外出(そとで)をしたために起きたことだから。情勢不穏な今は特に、危険を招くような行いは慎むようにと、殿もおっしゃっていました」

 やんわり取りなしていたところへ、背後からぱたぱたと軽い足音が近づいてきた。御殿内でこんな足音を立てる人物は、ひとりしかいない。

 振り返った真木の腕の中へ、貴之が満面の笑顔で飛び込んできた。

「かか」

 はしゃいだ声で言い、きょろきょろと辺りを見回す。

「おいたん?」

 彼は母親に会うと、いつもこう訊く。真木の近くには、必ず叔父の石動(いするぎ)博武(ひろたけ)がいると思っているのだ。天翔隊(てんしょうたい)の入隊訓練のために博武が七草(さえくさ)を去ってから、すでにふた月が過ぎたというのに、まだ彼のことを覚えているらしい。

「叔父さまは、遠くへお出かけしているのよ」

「とおく」

 意味はわかっていなさそうだが、繰り返した言葉を吟味するように考え込む。見ていると可笑(おか)しくなってくるほど真剣な表情だ。

「若さまは、博武どののことをお忘れになりませんなあ」

 重益が感心したように言った。貴之が現れたことで、いっとき張り詰めた場の空気がすっかりゆるんでいる。真木はほっとしながら、我が子の髪を軽く()いた。

「そうなの。不思議でしょう。わたしが思うに、御殿女中の誰かが弟に言い含められて、毎日この子に叔父の話をしているんじゃないかしら」

「なるほど、彼なら城を離れる前に、それぐらいの手は打っていそうだ」

 愉快そうに重益が笑い、直次も控え目に笑みをもらす。貴之はそんな彼につと目をやり、よちよち歩いていって膝にしがみついた。これは抱き上げて欲しい時によくやる素振(そぶ)りだ。

「わ、若さま……」

 あわてて腰を屈めた直次の顔に苦痛がきざしたような気がして、真木は急いで声を上げた。

「だめよ、貴之」

 息子がきょとんとして、こちらを振り返る。

「直次どのはお怪我をなさっているの。あんよが痛いのよ」

 貴之はそれを聞くと、ぎょっとしたように身を退()いた。痛いところにさわってしまったとわかり、動揺しているようだ。

 こんな小さな子でも、罪悪感をおぼえたりするのかしら――真木はぼんやり考えながら、彼を手招いた。

「かかさまが抱いてあげるから、こちらへいらっしゃい」

 しかし貴之は動かず、不安げに直次を見上げている。

「あんよ、いたい?」

 彼は腕を伸ばし、(じか)に脚に触れないよう気をつけながら、そっと空気の上からなでた。いかにも子供らしい無邪気な仕草だが、いたわりがこもっている。と同時に、真木は息子の目に好奇心を見て取った。大人が痛がっているところを見たことがないので、興味を引かれているのだろう。

 直次は表情をなごませ、貴之の小さな手を優しく握った。

「若さまがさすってくださったので、痛いのはどこかへ飛んでいきましたよ」

 にっこりした貴之を、うしろから重益が呼ぶ。

「重益がだっこしましょう。さあ、こちらへ」

 大好きな彼のがっしりした腕に高く抱き上げられ、貴之は嬉しそうな笑い声を立てた。

「お庭、いこう」

「よろしいですとも」

 重益は濡れ縁へ出ると、沓脱(くつぬ)ぎの上に揃えてある下駄を履いて庭へ下りた。青々とした芝生には真夏の午後の陽光が燦々と降り注いでいる。その上に濃い影を落としながら、彼は幼子が指差す方向へゆっくりと歩いていった。

 貴之は最近、中庭の古池に棲みついているカエルがお気に入りなので、おそらくそれを見に行くつもりなのだろう。

 真木は脇に控えていた乳母と侍女を呼び、彼らについて行くよう命じた。

「今日は暑いから、あまり長く外で遊ばせないでね。小半刻ほどしたら連れ戻して、お昼寝させてちょうだい」

 庭木の陰に彼らの姿が消えると、真木は直次のほうを見た。

「身のほどをわきまえず、先ほどはご無礼いたしました」彼女が口を開くより早く、直次が神妙な面持ちで頭を下げる。「ですが、あくまで忠心より申し上げたことゆえ、どうかお心にお留め置きいただきたく存じます」

「わかっています、直次どの」

 真木は微笑み、彼の実直そうな目をじっと見つめた。

「厳しい言葉は、わたしや息子を思いやってのこと。ありがたく思いこそすれ、(うるさ)がったりなどしません」

 直次がほんの少し緊張をゆるめる。

「ご寛容に感謝いたします」

 堅苦しく会釈した彼は、床に視線を向けたまま、しばらく動かなかった。何か迷っているように見える。まだ話したいことがあるが、言っていいものかどうか決めかねているようだ。

「殿もわたしも、忠言にはいつでも耳を傾けます」真木は静かに促した。「何か思うところがあるなら、気兼ねなく言ってください」

 直次は顔を上げ、ためらいがちに口を開いた。

「気がかりなことがあるのです」

「なんでしょう」

「先ほど詰め所で少し話を聞いたのですが、湊で我らに助力した西之(にしの)屋が、近ごろ御殿に出入りをしているとか」

「ええ。先月の終わりごろに、清兵衛(せいべえ)どのと舟守(ふなもり)忠長(ただなが)どのが一度みえました。殿が東峽(とうかい)のことをいろいろ聞きたいとおっしゃって」

「今日、また登城することになっているそうです」

「そうなの」

 夫貴昭(たかあき)は自分の妻子を救うために尽力してくれた西之屋に、当初からかなり好意的だった。何度か顔を合わせて器量を充分に推し量ったのち、いずれ御用商人に取り立てるつもりなのは間違いないだろう。

 清兵衛が扱うのは舶来の贅沢品ばかりなので、それらが入ってくるようになると七草城は少し華やかになるかもしれない。

「西之屋の出入りが、気がかりなのですか?」

「あまりお気を許されませぬよう」

「どうしてそんな……」

 清兵衛は貴之の、忠長は真木自身の命の恩人だ。そのふたりに気を許すなと言われても、すぐには承知しかねる。

「ただの取り越し苦労かもしれませんが、彼らが都合よくあの場に居合わせたことに、いささか釈然とせぬものを感じるのです。襲撃は入念に仕組まれておりました。もしや西之屋もその一部ではなかったか、と」

 真木は驚きのあまり言葉を失った。そんなことは考えもしなかったし、今あらためて言われても、やはりあり得ないように思える。

「でも、わたしと貴之が、西之屋の船がつけられていた突堤に足を向けたのはたまたまなのですよ。それに、清兵衛どのが船から出ていたのは――そうだわ、わたしが船荷に興味を持ったので、あなたが呼び出してくれたからでしょう。そうでなければ彼は襲撃に巻き込まれず、忠長どのや舟守の衆が助太刀に入ることもなかったはず」

「はい、おっしゃるとおりです」

 従順にうなずきながらも、直次の表情は晴れなかった。

「彼らとの出会いは、とても自然だった。わたしにはそう思えます。でも、あなたは違うのね?」

「あまりに自然すぎて、かえって不自然さを感じてしまうのです」

 まるで博武と話しているみたい。真木はふとそう感じた。

 姉にはない広い視野を持ち、いつも冷静に一歩先を考えている利口な弟。もし彼がここにいたら、西之屋とのあいだに思いがけず結ばれた縁を、やはり〝出来すぎ〟などと評しそうだ。

 そう思うと、直次の憂いを()らざる心配と受け流すことはできない気がしてきた。

「よくわかりました。彼らを遠ざけることはできませんが、家中の者たちとは違うのだということを念頭に置いて、構えを解きすぎぬよう用心します」


 唐木田(からきだ)直次(なおつぐ)と別れたあと奧御殿へ戻った真木(まき)は、夫貴昭(たかあき)が城主居間にいることを知らされた。道場で稽古をして汗をかいたので、着物を替えに来たらしい。

 その手伝いをするついでに、直次と話したことを耳に入れておこうと考えて行くと、夫はすでに着替えを終えていた。

 若い女中が傍に(はべ)り、彼とにこやかに言葉を交わしながら、脱いだ着物を丁寧に畳んでいる。宗主黒葛(つづら)禎俊(さだとし)の妻富久(ふく)の口利きで、先ごろ行儀見習いに入った玉県(たまかね)分家の次女沙和(さわ)だ。

 十七歳の彼女は少し目尻の上がったきつい顔立ちの美人で、年のわりに豊かな胸をしており、真木よりも背が高い。

 彼女は沙和が御殿へ上がったばかりのころ、一度だけ理不尽な叱り方をしてしまったことがあった。それ以来なんとなく、互いの関係がこじれたように感じている。

 今も沙和は真木が部屋へ顔を出すと、急に表情を硬くして押し黙り、うつむいてしまった。まるで、ぶたれるのを予期して身構える子犬のようだ。あの折りのことを引きずっているのか、こちらが穏やかに接している時でも、彼女はしばしばそういう態度を見せる。すると真木は、過去の過ちを繰り返し責められているようで、どうしようもなく落ち着かない気分になるのだった。

 せめて夫の前では、わたしに怯えるような素振(そぶ)りをするのをやめてくれるといいのだけれど。

 真木は不快さを押し隠し、部屋に入りながら()いて彼女に微笑みかけた。

「お召し替えを手伝おうと思ったけど、もうすませてくれたのね。ありがとう、沙和」

 沙和は無言で平伏すると、畳みかけの着物を両腕に抱えたままそそくさと部屋を出て行った。別に追い払ったわけではないのに、まるでそうしたかのような嫌な後味が残る。

 あれはわざとやっているのかしら。それとも、ほんとうにわたしを怖がっているの?

 幸いにも貴昭は特に気に留める様子もなく、届けられたばかりらしい手紙を開き、すでにその内容に没頭していた。何かおもしろい報せでもあったのか、唇の端にちらりと笑みを覗かせている。

 真木は近くに座り、夫が文面を読み終えるのを待って口を開いた。

「どなたからですか」

生明(あざみ)寛貴(ひろたか)兄からだ」貴昭が嬉しそうに答える。「新たな同盟が成りそうだと」

「まあ、ついこのあいだ永穂(なんごう)国の樹神(こだま)家と婚姻同盟を結んだばかりですのに。今度は、いったいどちらと?」

「聞いたら驚くぞ」彼は焦らすように少し間を置き、いたずらっぽい目をして言った。「百鬼(なきり)海賊――雷土(いかづち)家だ」

 前触れされていたにもかかわらず、真木は唖然とするあまり何も言えなくなってしまった。

 雷土家はこの千年あまり、どことも手を結ばずにやってきた独立独歩の家と聞いている。強い水軍を持ち、かつて海賊だったころの名残で、今もしばしば他国の船を襲っているとも。そんな家と南部きっての名家黒葛家が同盟を結ぶなど、にわかには信じられない。

義兄(あに)上さまは、どんな手で雷土家を籠絡されたのでしょう」

 貴昭がふふ、と含み笑いをする。

「同盟話を持ちかけたのはこちらだが、条件は向こうから出してきたそうだ。どうやら雷土家は、黒葛家と縁組みをしたいらしい」

「それは、おめでたいお話ですね。でもいったい、どなたとどなたの?」

「十五歳の長女をこのおれに妻合(めあ)わせたいというのが、雷土家の当主國康(くにやす)の意向だ」

 一瞬で頭の中が真っ白になり、視界から色が失せた。

 貴昭がまだ何か言っているが、まったく耳に入ってこない。すべての音が耳を素通りしていってしまう。

 胸の鼓動に合わせて、こめかみがずきずきと脈打っているのが感じられた。だが知覚できるのはそれだけで、自分が座っているのかどうかすら判然としない。何もない空間に、突然放り出されたかのようだ。

 わたしの手は今どこにあるの? 膝の上? それとも自分の首に掴みかかって、力いっぱい絞め上げているところ? だからこんなに息苦しいのかしら。

「真木」

 遠くで呼ばれてはっと我に返ると、貴昭が物思わしげな目をしてこちらを見つめていた。色と音がゆっくり戻ってくる。しかしまだ息は通らない。胸に重石(おもし)が載っているような気がする。

「真木、どうした。だいじょうぶか」

 そこでようやく、普通に呼吸ができるようになった。

「だいじょうぶ……です」

 むさぼるように息を吸いながら答えると、貴昭は立ち上がって傍に来た。真木の手を取り、顔を覗き込む。

「ほんとうに?」

「はい――いえ嘘です。だいじょうぶではありません」

 真木は唇を噛み、夫の手をきつく握り返した。

「あんなお話を聞かされて、平気でいられるとお思いですか」

「なんだ、やはり途中から聞いていなかったな」

 貴昭はにやりと笑い、真木の頬を優しくなでた。

「では、もう一度言おう。おれの縁組みは、兄がたいそう骨折って断ってくれた。その上で異なる縁組み案を申し出て、雷土國康と随行の衆を連日連夜歓待し、なんとか気を変えさせて送り出したそうだ」

「ああ……よかった」安堵のあまり全身の力が抜け、真木は危うくその場に崩れそうになった。「義兄上さまに感謝しなければ。でも、いったいどのようにご説得なさったのでしょう」

「末弟と若い妻は人もうらやむ相愛ぶりなので、そこに名家の姫御が割り込まれると奧御殿が修羅の(ちまた)になりかねぬ、とでも(うそぶ)いたのだろう」

 冗談めかして言い、あっけらかんと笑っている貴昭が憎たらしい。

「兄に、いらぬ気苦労をさせてしまった」

 彼の笑みが、ふと苦笑いに変わった。

「向こうがもらってくれと言うなら、そうしてやればよかったのだ」

 真木は凝然と目を見開き、信じられない思いで夫の顔を見つめた。

「何をおっしゃるのです」

「政略上の縁組みなど、武門にはままあること。十五やそこらの小娘なら(ぎょ)しやすくもあろう。もらってやって、女雛(めびな)よろしく奧に飾っておけば、それで雷土家は満足しただろうに」

「でも――」また息苦しくなってきた。「名家の姫君を迎えられるなら、当然そのかたがご正室さまということに……」

「まあ、それはやむを得ぬところだな」

「わたしが側室に格下げとなったら、貴之(たかゆき)はどうなるのですか」

「おれの跡継ぎだ」強い口調に、断固とした意志が表れている。「それは断じて変わらぬ。変えるつもりもない」

「新しいご正室さまが男子をお産みなさったら、そうもいかないでしょう」

「子供など、産ませなければよい」

 彼の目が冷ややかな色を帯び、口の(はた)に不敵な笑みが浮かんだ。

「不満を抱かぬ程度には相手をしてやるとしても、種を与えねば子はできぬ」

「子は授かりもの。時には、思いがけずできてしまうこともあります」

「そうなったらなったで、秘かに手を打って流させればすむ」

 貴昭は少しのためらいもなく、あっさりと言い切った。

「正室か側室かなど些細な問題だ。おれが妻と思うのはおまえひとりだし、貴之以外に七草(さえくさ)黒葛家を継がせるつもりもない。今後、たとえ誰が奧に入ろうと、そのことだけは決して揺るがぬと天地神明に誓おう」

 彼が最大級の誠意を示してくれているのはわかる。それは嬉しいが、真木の心は晴れなかった。一度突きつけられた冷酷な現実が、今もなお胸の奥にわだかまっている。

 自分が夫の正妻でなくなる日が来るかもしれないなどとは、これまで考えてみたことすらなかった。今回はなんとか避けられたものの、いつかまた同じような話が持ち上がらないとも限らない。そして、もし夫がそれを受け()れると決めたら、自分に異議を唱える権利はないのだ。

 女の立場というのは、なんと頼りなく脆いものなのだろう。

 貴昭は理解ある優しい夫だが、真木が感じている虚ろな寂しさや不安にまでは思い至らないようだった。妻と継嗣の座を保証したのだから、もはや憂いはあるまいと言いたげな顔をしている。

「どうだ、安心したか?」

「はい」

 真木は夫の期待に逆らわず、おとなしくうなずいた。ここでさらにくどくど言い立てたところで、何かが変わるわけではない。ただ彼を(いたずら)に煩わせるだけだ。

「それで、義兄上さまが出された代案というのは?」

「こちらは、そう悪い話ではないぞ。國康公の孫娘と、貴之との縁組みだ」

「まあ、まだ二歳なのに、今から将来の妻が決まってしまうのですか」

 たしかにいい話なのかもしれないが、手放しでは喜べなかった。

「お相手の姫君は、おいくつなの?」

「いま一歳ということだ。年回りは悪くないな」

 貴昭は書状を取って、再びさっと目を通しながら言った。

「國康公の嫡子利國(としくに)と妻莉玖(りく)の長女で、名は三輪(みわ)というらしい。祖父はなかなかの男ぶりで、その妻も音に聞こえた美女だから、孫娘の容姿(みめかたち)にも期待できようと兄は書いている」

「義兄上さまらしいおっしゃりよう」

 真木が笑みをもらすと、貴昭の若々しい顔が明るく輝いた。

「やっと笑ったな。それでいい。今からあれこれと思い煩うな。この縁組みがまとまったとしても婚約するのは数年先、姫がこの城に嫁いでくるのは十年以上もあとのことだ。(しゅうとめ)の気分になるにはまだ早いぞ」

「そうですね」

 貴昭はにっこりすると、立ち上がって袴の皺を伸ばした。

「仕事に戻る。評定衆を集める前に、この件を家老たちと話し合わねばな」

 彼が部屋を出て行ってひとりになると、急に静けさが身にしみてきた。激しい嵐にもまれたあとのように、心身共にぐったり疲れているのを感じる。

 真木は夫が置いていった手紙を畳み直して手文庫にしまうと、重い足を引きずって自分の居間へ引き揚げた。


 午後も遅くなり、奧庭の鹿威(ししおど)しが立てる規則的な音を聴きながらぼんやりしていた真木(まき)のところへ、玉県(たまかね)沙和(さわ)が来客を告げにきた。

「奥方さま、西之(にしの)屋の雇い人忠長(ただなが)どのが、お目通りを願っております」

 そういえば唐木田(からきだ)直次(なおつぐ)が、西之屋清兵衛(せいべえ)が今日登城すると言っていた。忠長も主人の護衛役として一緒についてきたのだろう。

「桐の間にお通ししてありますが、いかがなさいますか」

 沙和が廊下から、頭を低くしたまま問う。

「会いましょう」

 夕暮れが近いので、奧女中たちの多くは忙しく立ち働いている。真木は侍女(がしら)津根(つね)にひと声かけてから、沙和だけを伴って御殿表へ出て行った。

 桐の間は東の棟の少し奥まった場所にある静かな六畳間で、気の置けない来客との対面によく使われている。下座に端然と座して待っていた忠長は、真木が腰を下ろすと礼儀正しく頭を下げた。

「忠長どの、お久しぶりですね」

「お目通りが叶い、光栄至極に存じます」

 彼は日焼けした厳しい顔をなごませ、真木に微笑みかけた。前回会った時は髪や髭がかなりむさ苦しかったが、今日はこざっぱりと整えている。男ぶりがいくぶん上がったようだ。

「いま、お茶をお持ちいたします」

 沙和はそう言うと、仕切りの障子戸を閉めて行った。

 ほかにも女中を連れて来なかったのは、うかつだったかもしれない。家族でも家来でもない男性と、室内でふたりきりになってしまった。

 なぜ戸を閉めたのだろう。開けたままにしておいてくれたらよかったのに。そう思ったが、まさか自分で開けに行くわけにもいかない。

 気まずさを感じ始める前に、真木は急いで口を開いた。

「あの……清兵衛どのは、ご一緒ではないのですか?」

「主人と番頭は貴昭公に拝謁中です。商いの話になりましたので退席させていただき、そのあいだに奥方さまにご挨拶をと」

「まあ、わざわざご丁寧に」

「それからお礼を」

「お礼?」

 意外な言葉だったので、思わず鸚鵡(おうむ)返しに言ってしまった。彼に礼を言われるようなことを何かしただろうか。

「先ほど貴昭(たかあき)公から、法元(ほうが)国への支援に関するお話を伺いました。災害続きで飢える法州(ほうしゅう)に〝救い米〟をと、奥方さまが提言してくださったとか」

「ああ」ようやく合点がいった。「そんなに大げさなことではないのですよ。ただ殿に、あなたからお聞きしたことを伝えただけです」

「ご重臣がたも前向きに考えておられるそうで、うまくすれば年内にも実現する見通しとおっしゃっておられました」

「よかったわ」

 今日聞いた中で、いちばん喜ばしい知らせだった。なにより嬉しいのは、夫が自分の意見を女の浅知恵と見下さず、きちんと評定の場で採り上げてくれていたことだ。

 しかも彼は、わたしの発案だということを公表してくれさえした――そう思うと、胸に温かいものが満ちてきた。

 と同時に、女の立場がどうのと、うじうじ考えていた自分が恥ずかしく思えてくる。

 彼の心を信じよう。あの人は妻として、息子の母親として、また臣としても、これ以上ないほどにわたしを重んじてくれているのだから。その寵寓にふさわしい人間でいられるよう、わたしはもっと自分自身を磨き、己を高める努力をしなければならない。

 決意が固まると気持ちが落ち着き、晴ればれとした気分になった。自然に笑みが浮かんでくる。

 ふと気づくと、忠長が彼女を静かに見つめていた。その眼差しは深く、ひたむきで、真木の心を奇妙にざわつかせる。

「あの、忠長どの……?」

 戸惑いながら声をかけると、彼ははっとした顔つきになった。

「失礼を」

 つぶやくように言い、視線をすっと外す。

「奥方さまの微笑まれたお顔が、あまりにお美しかったので」

 意外すぎる言葉にぎょっとするあまり、真木はもう少しで笑い出しそうになった。彼のほうも笑みを浮かべていたら、たぶんそうしただろう。だが、冗談やお世辞を言っているようには見えなかった。彼はいたずらに(たわむ)(ごと)を弄する軽薄な男とは思えないし、そういうおふざけが似つかわしいほど若くもない。

 どう応えたものか迷っていると、忠長がつと目を上げた。まっすぐに見据えられ、いたたまれない気持ちになる。

「お許しください。ぶしつけなやつとお思いでしょうが、どうしても申し上げずにはいられませんでした」

 彼は苦しげな重い声で言い、少しだけ前に身を乗り出した。

「奥方さまは、わたしがこれまでに出会った女性(にょしょう)の中でもっともお美しく、またもっともお優しいかたです」

 いけない――真木の中で、何かが鋭く警告を発した。これ以上聞いてはいけない。ふたりきりでいては駄目。人を呼ばなければ。そうだ、お茶を()れに行っただけなのに、沙和は遅すぎる。外へ声をかけて、誰かに様子を見てこさせよう。

 その時、天からの救いのように、障子戸の外で声がした。

「失礼いたします」

 戸を開けて顔を見せたのは沙和だった。ずいぶん待たせたくせに手ぶらだ。

「お茶はどうしました」

 真木が思わず訊くと、彼女は大げさに身を縮めて平伏した。

「申し訳ありません。水屋から戻る途中、西之屋清兵衛どのが下城なさる旨をお伝えするようにと、御屋形さまから申しつけられました」

「では、わたしはこれにて。お邪魔いたしました」

 忠長は沙和の言葉を聞くとすぐに、真木に向かって一礼した。先ほどのやり取りなどなかったかのように平然としている。

 だが彼が顔を上げた時、真木はその目の中に熱くゆらめくものを見た。

「また、お伺いしてもよろしいでしょうか」

 彼女が何も返答できないでいるうちに忠長は腰を上げ、最後に一度だけ寂しげな笑みをちらりと見せてから、沙和に伴われて廊下を去って行った。

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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