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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第五章 しのび寄る影
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六十一 曽良国獅子野郷・鉄次 美酒ひとしずく

 太い街道から脇へ伸びている枝道に入り、まばらな木立の中を一刻半ほど歩くと、獅子野(ししの)(ごう)への入り口を示す境界石が現れた。道はその先で小川をわたり、眩しいほど鮮やかな緑の濃淡が折り重なる田園風景の中へと続いている。

 前景の大半を占めるのは田んぼと畑で、その中にぽつりぽつりと建つ家屋は離れ小島のようだ。背景を成す雄大な山々は黒かと錯覚するほど深い色合いで、裾野に広がる森も内側に闇を含み、厳しくも神秘的な佇まいを見せている。

「森の色が濃い……」

 遠くを見晴らしながら、伊都(いと)が独り言のようにつぶやいた。

「針葉樹の森だ」

 鉄次(てつじ)が教えると、少女はその言葉を吟味するように、小声で「しんようじゅ」と繰り返した。

「モミやトウヒ、ツガ。細くて固い、針のような葉がつく木のことだ。マツもそうだな」

「マツはわかります」

「このあたりは冬の冷え込みがきついが、その手の木は寒さにも乾燥にも強いんだ」

「皮が厚いから?」

「葉の表面積が少なくて、水気が蒸発しにくいからさ」

 新参の連れは熱心な聞き手で、知識を吸収することに貪欲だ。手習いの師匠でもやっているようで妙な気分になることもあるが、鉄次は彼女が興味を示したことにはなるべく答えるようにしていた。

「ねえ」少し先を歩いていた長五郎(ちょうごろう)が、困ったような顔で振り返った。「海が見えなくなったよ。ずっと見えてたのに」

「丘が邪魔して見えないだけだ。西にちょっと行けば湊に出る」

「そっかあ」

 それで安心したように、少年はまた元気よく歩き出した。伊都は賢そうな目で、芝草に覆われた丘を見ている。

「この(さと)にも湊があるんですか」

「異国の船がよく立ち寄る、そこそこ大きい湊だ。すぐ近くに、渡来人たちが集まって暮らしてる集落もあるぜ。黎明時代の終わりごろに海を越えて来て、ここへ住み着いたんだ。異国の人間を見たことがあるかい」

「いいえ。どんな人たち?」

「顔立ちも使う言葉も、おれたちとはまったく違う。髪や目の色もな。だが渡来人は定住してもう長いから、だいぶ混血が進んで、見た目はさほど変わらなくなってる」

 子供だからといって噛み砕いた話し方はしないが、伊都は彼が言うことの大半をすんなり呑み込んでいるようだった。会った時から感じていたことだが、大人顔負けに頭が切れる。

 鳴釜宿(なるかまじゅく)で話をした際も、投げかけてくる質問の一つひとつが鋭かった。龍康殿(りゅうこうでん)で集めている子供たちもしたたかで(さか)しい者ばかりだが、彼女はその中ですら突出した存在になるだろう。

 しかし、子供らしさがないわけではない。

 世の中を常に新鮮な目で見ていて、さまざまなものに次々と興味を持つ。感情の振り幅をやや抑えている節はあるものの、喜怒哀楽ははっきりしている。物事に対する反応もごく素直だ。

 宿場街の雑踏で、人波にのまれそうになっているのを見て、手をつないでやろうかと訊いたことがあった。その時彼女はひどく驚いて真っ赤になり、「だいじょうぶ」と急いで首を横に振りながらも、子供扱いされてまんざらでもない顔をしていた。

 普段は凛としているくせに、何かの拍子にふと物慣れしない態度を見せるところが可愛らしく、時折からかってみたくなる。

 伊都は鉄次がこれまでに出会った、どんな子供とも似ていなかった。龍康殿のはきだめにたむろしている浮浪児や孤児(みなしご)たちとは明らかに異なっている。孤児なのは間違いないはずだが、世を恨んでいるようなところがないので、きっと境遇が変わる前は身内に愛され大切に育てられていたのだろう。

 身を落とした経緯や出自については、まだ何も聞いていなかった。本人が話したがれば聞くが、こちらから詮索するつもりはない。ただ、武門の出であることは疑う余地もないと思っている。

 卑しからぬ身分の娘が、日々の糧にも事欠く放浪暮らしによく耐えられたものだ、と鉄次はひそかに感心していた。

「ねえねえ」

 長五郎が足を止め、畦道の縁に立って辺りを見回した。

「なんにもないね、ここ。おれが前にお(とう)といた村に似てる」

「田んぼばっかりだったの?」

 伊都が訊き、長五郎は大きくうなずいた。

「うん。田んぼと畑と、あのう――ちゃばたけがあったよ」

「お茶の畑? わたし、お茶の木は見たことないの」

「あのね、とってもかわいい花が咲くよ。ちっちゃいやつ。つぼみがまあるくてね、白いから、あのう、お団子みたいなんだ」

「おいしそうね」

 長五郎が含み笑いをもらす。

「おれ、口でぱくってしたことあるよ。そしたら(しょう)ちゃんの(ばあ)ちゃんに叱られた」

「正ちゃんて、だあれ?」

「畑向こうの家のともだち」

 仲良く話しながら歩いていくふたりを、鉄次はうしろから黙って見守っていた。

 伊都は長五郎の頭が少し(にぶ)いことに気づいているはずだが、それを見下すようなところがまったくない。

「ほんとうに育ちがいいんだな……」

 口の中でつぶやくと、長五郎がぱっと振り向いた。

「なんか言った?」

「その先の神祠(しんし)のとこで左に曲がれ。少し行ったら町が見えるぞ」

「左ってどっち」

「茶碗を持つ手はどっちだ」

「ええとね……茶碗を持つのは――あのう、あっわかった!」

 長五郎はぴょんと跳び上がり、神祠の傍まで駆けていって西の方角を指差した。

「あっちだね」

「そうだ」

 うなずいてみせると、彼は野ウサギのように跳ねながら、丘に続く砂利道を歩きだした。伊都は枝道の角で立ち止まり、それを見ながら微笑んでいる。

 鉄次が来るのを待って、彼女は横並びに歩き出しながら訊いた。

「鉄次さんが訪ねる職人さんは、町に住んでいるんですか」

「湊の近くにな。そのあたりが、この郷ではいちばんの盛り場なんだ」

「じゃあ、ご領主さまのお城や御殿もそこに?」

「城はないが館はある。だが、御殿なんて言うほどのもんじゃないぜ」

 伊都は驚いた顔になり、ちょっと何か言いかけたが、そのまま黙って考え込んだ。

 なるほど、西峽(せいかい)の生まれか――彼女の様子を見ながら、鉄次はそう推察した。伊都は険峻な城山や、名家や旧家の(あるじ)が住まう数千坪の麓御殿、その周囲に広がる城下町などを知っていて、それが〝町〟というものだと認識しているらしい。

 一方東峽(とうかい)では、(たな)や住居がある程度一か所に集中していれば、それだけで町と考える。領主の居館のあるなしは関係なかった。

「東峽で御殿にいちばん近いのは、御山(みやま)の天辺にある宮殿だろう」

「わたし、少し前に野術師(のじゅつし)のお婆さんから、御山に行く運命かもしれないと言われました」

 ふと思い出したように伊都が言った。彼女が自分のことを自ら話すのは珍しい。

尋聴(じんちょう)して神告(しんこく)を受けたのかい」

「占いです。わたしのことを夢に見て、その中に御山の門が出てきたって言っていました。それから軍船や戦場(いくさば)も」

「おかしな取り合わせだな」鉄次は顎をなでながら言った。「戦と御山なんて」

 どうも伊都はそれについて、何か思うところがあるらしい。だが、少し考える風を見せたあと、結局話さないことに決めたようだった。

「御山に行きたいなら、行かせてやるぜ」

 単に思いつきを口にしただけだが、彼女は「えっ」と小さく声を上げ、動揺も露わに固まってしまった。

「太い街道沿いの宿場で捜せば、御山を目指す巡礼者は必ず見つかる。女や子供連れの、人の好さそうなやつを見つくろって、一緒に連れて行くよう頼んでやるよ。道中困らないだけの路銀も渡す」

「でも、わたし――あなたのところで……」

「もし行きたいならって話さ。それに、なにも昇山(しょうざん)しろとは言ってない。参拝してから戻って来たっていいんだ」

「行きたくない」長い睫毛を震わせ、痛々しいほど張り詰めた面持ちで首を振る。「一緒に龍康殿に行きます」

 急に頼りなげになった少女を見て、鉄次は何か悪いことをしたような気分になった。しっかりした娘だと思っていたが、本当は心細さを隠しているだけなのかもしれない。

「追い払おうってんじゃねえよ。それを心配してるならな」

 優しく言うと、伊都は明らかにほっとした様子を見せた。

「だが、おれの傍から離れたくなったり、どこかへ消えたくなったりしたら、べつに留め立てもしない。おまえは奴隷じゃないんだから、好きにしていいんだ」

「そんな勝手なこと、できません」

「ふらっと出て行っちまうやつは少なくないんだぜ。落ち着いた暮らしに、どうしても馴染めない者もいる」

「わたしは落ち着いて暮らしたいし――」伊都は決然とした目で、きっぱりと言った。「鉄次さんの傍にいて、ちゃんと役に立ちたいです」

 なんて生真面目で義理堅い娘だ。鉄次はそう思い、少し圧倒されるものを感じた。容易(たやす)く心がぶれないところは、まるで武士のようだ。さながら忠義の士に見込まれた主君とでもいった心持ちにさせられる。

「早くおいでよ」

 すでに丘の上まで行った長五郎が、焦れて足踏みをしながら大声で呼んだ。

「町が見えるよ。海もあるよ」

 残りの斜面を登りきると、半月型をした海岸沿いの町とその先に広がる大海原、遠く輝いている水平線が一望できた。濃い藍色の海面には大きさも形もさまざまな船が浮かび、筆先ですっと掃いたような航跡が眩しいほど白く際立っている。

「船がいっぱいだねえ」

 長五郎が湾内を指差しながら言い、伊都に向かって誇らしげに胸を張ってみせた。

「おれが仕事してる湊もおっきくて、船がいっぱいくるよ。よその国からくるのもあるんだよ」

「異国の船はどこで見分けるの?」

「ええと……」

 答えに詰まった長五郎が、救いを求めるように鉄次を見る。

「いちばんわかりやすいのは、帆の形だな。大きさの違う三角形の帆が三つついてるのは、北の王国シェクランの船だ。上下二段に分かれた白い帆、三本の帆柱はタイフォスの船。船尾楼が大きくて、三本目の短い帆柱に三角縦帆を張ってるのはパヌ・アタンの船」

 真剣に聞いていた伊都が、感嘆の表情を浮かべる。

「鉄次さん、すごく詳しい」

「船が好きなんだ」

「わたしも好きです——ううん、好きになりました。曽州(そしゅう)へ来る時に、初めて船に乗ってから」

「じゃあ用事をすませたら、湊へ船を見に行くか」

「わあい」

 歓声を上げたのは長五郎だが、伊都も目を輝かせている。

 ふたりを引き連れてゆるい坂道を下りながら、鉄次は西峽から曽州へやって来る、いくつかの船の航路を思い浮かべていた。


「やっと来たか」

 二百三十年にわたってこの地で酒造りをしている〈浜路(はまじ)屋〉の八代目蔵主平左衛門(へいざえもん)は、座敷へ出てきて鉄次(てつじ)を見るなりそう言った。会うのは二年半ぶりだが、無愛想な口調も胡乱(うろん)げなやぶにらみも変わっていない。山賊の(かしら)でもやっているほうが似合いそうな風貌も相変わらずだ。

 そろそろ五十の坂を越えようという年齢にもかかわらず、肌が若い女のようにつやつやしている。

「元気そうでなによりだ、大将」

 鉄次が朗らかに声をかけると、平左衛門はふんと鼻を鳴らし、畳にどっかり腰を下ろした。

「なにが元気そうだ。知らせをやったのに、ぐずぐずしてやがってよ」

「そう言うなよ。路銀をかき集めたり、いろいろ準備に暇がかかったんだ。長五郎(ちょうごろう)、あの箱出しな」

 風呂敷包みの荷物から、片手に載る大きさの軽い木箱を受け取り、蔵主に差し出してみせる。

「あんたに手土産を持ってきたぜ」

「なに、土産だとぉ?」

 彼が斜めに睨むや否や、長五郎は鉄次のうしろで跳び上がり、物も言わずに玄関のほうへ走っていった。

「おいおい、なんだあいつは」

「こわい顔して脅すからだよ」

「おれは普段からこういう顔だ」平左衛門は不機嫌そうにむっつりとつぶやき、ふと鉄次の横を見て少し表情をやわらげた。「こっちのきれいな嬢ちゃんは逃げちゃいねえ。てことは、あいつの肝が細いだけだろう。なあ、ちっともこわかねえよな、おれは」

 伊都(いと)は物怖じすることなく、まっすぐに彼を見てうなずいた。

「平気です。あなたは鉄次さんと仲良しみたいだから」

「仲良し!」彼は鸚鵡(おうむ)返しに言って、げらげら笑った。「仲良しなもんか、こんな若造と」

「それでもこの若造は、あんたの好みをようく知ってるんだぜ」

 鉄次は木箱を開け、龍康殿(りゅうこうでん)の一流店で買い求めた色とりどりの落雁(らくがん)を見せた。一瞥したとたん、偏屈な蔵主の目の色が変わる。

「おお、こりゃ……」

「〈久隆(くりゅう)堂〉の〈渦華(うずはな)〉。別州(べっしゅう)で近ごろ評判になってる逸品だ」

 平左衛門はさっと手を伸ばし、つまみ取った菓子を愛おしげに見つめた。

「巻き貝に二枚貝――貝づくしか。すばらしく繊細な形だ」

 彼は落雁の端を慎重に小さくかじり取り、口の中に長く留めてじっくりと味わった。感に()えないといった様子で唸り、首を振り、深くうなずく。

「なんてこった。舌がとろけちまう」

 行儀のいい伊都は声こそ出さないが、袖で口元を隠してこっそり笑っている。厳つい男が甘いものを食べてうっとりしているのが、可笑(おか)しくてならないのだろう。

「土産が気に入ったなら、はるばるやって来たおれももてなしてくれよ」

 催促すると、平左衛門は咳払いをして、少し表情をあらためた。

「むろん、そのつもりだ」ぶっきらぼうに言い、奧を向いて大声を張り上げる。「おい、例のやつ持って来い!」

 ややあって二十代半ばの美人が現れ、鉄次にちょっと挨拶をしてから、ひと組の酒器を載せた盆を置いていった。

「誰だい、あれ」

 彼女が下がってから訊くと、平左衛門は決まり悪そうに口をもごもごさせた。

「あれは、なんだ、その……新しい女房だ」

「今度のは、またずいぶん若いんだな」

「若いほうが具合のいいこともあるんだよ」

 いつもならもっとあからさまな物言いをする彼だが、伊都が聞いているので多少気をつかっているらしい。

「女房なんかどうでもいい。それより、早くこいつを味見しな」

 大きめの盃になみなみ酒を注ぎ、ずいと差し出す。

 鉄次は盃を取り、まずは子細に観察した。酒はわずかの濁りもなく、完璧に澄んでいる。鼻を近づけると、淡い香りが立ちのぼってきた。華やかで、ほのかに甘い。

 口に含んだ印象はきわめて端麗。舌の上に留めると、すっきりした酸味がまろやかな旨味へと変化し、喉を通り過ぎたとたんに後味がすっと抜ける。

 もうひと口、今度はさらにじっくりと味わい、胃に収めたあとのゆらめくような温かみを堪能したあと、鉄次は顔を上げて平左衛門を見た。

「見事な仕事だ」

 食い入るようにこちらを凝視していた蔵主が、少し眉の力を抜いてふっと息をつく。

「やっとここまで辿り着いたぜ」

「こんな酒を造れるのは、聳城国(たかしろのくに)広しといえども、あんたたちだけだ」

 賞賛の言葉に気をよくして、平左衛門は伊都に笑顔を向けた。

「どうだい、嬢ちゃんもちょいとやってみるか」

「おい、子供だぞ」

「ちょっぴりなら、かまうもんかい」

 彼から盃を押しつけられた伊都は、困ったように鉄次を見た。

「なめるだけにしときな」

 そう忠告すると彼女は真顔でうなずき、用心深く盃を覗き込んだ。

「濁ってない……」

 意外そうにつぶやく。一般に飲まれているのは濁り酒なので、それと同様の白濁した液体を想像していたのだろう。

「お水みたいですね」

 いくらか安心した様子で、ほんの少し口に含む。

「切りたてのリンゴの香りが――」そこまで言って、彼女は慣れない酒精の刺激に軽くむせ、急いで盃を返した。「ちょっぴりでも、やっぱりお酒はお酒でした」

 目尻に涙をにじませながら言うのを聞いて、平左衛門がからからと笑う。

「だが、そこいらの酒とは違うってわかるだろう?」

「はい。冬の寒い朝に飲んだ、凍りかけのお水を思い出しました。喉にしみるぐらい冷たくて、白銀(しろがね)色に透きとおってて」

 彼女のその言葉が、鉄次にふいに霊感をもたらした。

「〈銀流(ぎんりゅう)〉」

 低く言った彼に、平左衛門と伊都が揃って目を向ける。

「この酒の銘柄は〈銀流〉でいく」

「悪くねえ」めずらしく平左衛門はごねなかった。「あんたの依頼で造った酒だ、好きな名で売り出しな」

 依頼で、というところに伊都は興味をおぼえたようだった。目を大きく見開き、説明を求めるように鉄次をじっと見つめる。

「ほかにはない新しい酒を造ろうと考えて、もともと旨い酒を造ってた大将のところに話を持ち込んだんだ」

「何年か前にふらっとやって来たと思ったら、この若造、とんでもなく面倒(くせ)え注文を置いていきやがってな」

 平左衛門が説明を途中で引き取り、大仰に嘆息してみせる。

「わずかの濁りもない澄み切った酒にしろだの、遠くまで運んでも味が落ちないようにしろだの、無茶なことばっかり言いやがるんだ」

「おれもいろいろ案を出しただろう」

「掛け米だけじゃなく、麹米(こうじまい)()いて白くしろとかな。あんたの案は手間がかかってかなわねえ」

「どうやって、こんなに透明なお酒にするんですか」

 伊都が関心を示すと、彼は相好を崩して身を乗り出した。

「簡単に言うと、麹――酒の元を木綿の袋に入れて、()し絞る。時間をかけてゆっくりとな。そうして、粕を完全に取り除いちまうんだ。わかるかい」

「鰹節や煮干しでお出汁(だし)を取る時と同じ?」

「まさにそれだよ。利口な()だな」

「鉄次さんが始めると言っていた(あきな)いって――」彼女は考え、眉にかかった前髪を指先で払ってこちらを見た。「このお酒を売ること?」

「そうだ。おれが卸売りを一手に引き受ける」

(たな)を出すのか」

 盃に注ぎ足した酒を鉄次にすすめながら、平左衛門が訊く。

「いや、当面店を持つつもりはない。龍康殿におれが半分権利を持ってる舟宿があるんで、そこで客に出すところから始めるつもりだ」

「ずいぶん、こぢんまりやるんだな。そんなんでさばけるのか」

「龍康殿は世の中の流行(はやり)りの発信地だ。外から来た遊興客はもちろん、地元の衆も目新しいものにはすぐに飛びつくし、金に糸目をつけず手に入れたがる。断言するが、この酒はあっという間に評判になるぜ。そして龍康殿で噂にのぼれば、たちまち別州(べっしゅう)全体に広まって、他国からも注目されるようになる」

「他国で売るのはいいが、目の玉が飛び出るほど運び賃がかかるぞ。そもそもこの酒は、そこらの安酒と同じ値段じゃ出せねえ品だ」

「もちろん運び賃も上乗せして、目の玉が飛び出るほど高く売るんだ。金をたっぷり持ってる連中にな」

「領主や武家の名家か?」

大皇(たいこう)だって欲しがるさ」

 平左衛門は天を仰ぎ、吠えるように笑った。

「でっかいことを言いやがる」

「さしあたり、どれぐらい造ったんだ」

「とりあえず今年は三石」彼は急に真面目な顔になり、慎重な口調で言った。「本来のうちの酒と平行で、試行錯誤しながらやってたから、その程度が精いっぱいだったんだ。高さも幅も一尺程度の(かめ)ひとつに、約三升の酒を入れて密封してある。重さは一個が二貫目半ぐらいだろうな。それが百個だ」

「この冬の仕込みから〈銀流〉に集中したらどうなる」

「うちの規模だと、百二十石から百四十石ってところだ。春に新酒で七十石出し、残りを氷蔵で夏越しさせて秋に出すことになるだろう」

「よし、やってくれ」

 盃を干してきっぱり言うと、平左衛門はぎょろりと目を剥いた。

「ほんとうに、売りさばく自信があるんだろうな」

「ある。だが仕込みが始まる霜月(そうげつ)まで、今回もらう百個分の減り具合を二十日に一度報告するよ。それなら安心だろう」

「いいだろう、そういうことなら」

 しぶしぶという感じで言ったあと、彼はふいに頬をゆるめた。

「まあ、あんたのことは信用してるんだ。まめにつなぎを取ってくるし、これまでにずいぶん金も出してもらったしな」

「それに見合うだけのものを造ってもらったから、おれも文句はねえよ」

 鉄次は盃を置いて立ち上がった。それに続いて平左衛門も腰を上げる。

(ぶつ)はあとで送ればいいか?」

「蔵で寝かせといてくれ。自前の川舟を仕立てて、半月以内に誰か取りによこす。だが十個ほどは今日持ち帰りたいんで、ひとりで運べるように荷造りしてくれるか」

「な、なに、ひとりで? 全部で三斗にもなるんだぞ?」

 彼のあわてぶりを見て、鉄次は思わず笑みをもらした。

「さっきあんたが脅したあいつは、それぐらい軽々と運んじまうんだ」

「うーむ……甕同士を荒縄で縛って、背負子(しょいこ)にがっちり固定すればなんとかなるか」

「じゃあ頼んだぜ。おれたちはちょいと湊まで行って、飯でも食ってから戻ってくる」

 見送られて外へ出ると、家の横に建つ大きな蔵の傍で長五郎が待っていた。さも待ちかねたと言いたげに、鉄次と伊都を見てぷうっと頬をふくらませる。

「おれ腹減ったよう」

「湊のそばで何か食おう」

 そのひと言で少年の機嫌はなおり、先に立って意気揚々と路地を歩き出した。

 伊都は先ほどからずっと黙り込み、何か考え深げな表情を浮かべている。

「一滴で酔っちまったのか?」

 からかい半分に訊くと、彼女は真面目な顔のままで首を振った。

「そうじゃなくて……仕事のことを考えていました。あのお酒の」

「成功しそうだと思うかい」

「はい」返答にためらいはない。「でも、ほんとはちょっとだけ、どうなのかなって思っていたんです。鉄次さんと商いって――なんだか合わない気がして」

「まあたしかに、おれは商人て(がら)じゃない」

「でも話を聞いていたら、きっとうまくいくって思いました。あの職人さんにいろいろ訊かれても、鉄次さんはごまかそうとしたり迷ったりせずに、全部はっきり答えていたから」

「おまえにそう言われると心強いよ」

 皮肉ではなく、鉄次は本心から言って微笑んだ。

「でも、二十五貫目もある荷物を、長五郎ちゃんがひとりで運べるって言ったのは冗談でしょう?」

「冗談なもんか。運べるさ」

「どうして十個だけ持って帰るの?」

「道中、立ち寄った宿場でばらまくためだ」

「ばらまく……」

「宿や飯屋で行き合った連中に、ただで振る舞うんだよ」

 伊都が怪訝な表情を浮かべ、少し伏し目がちになる。

「旅をしている人たちにご馳走して――」彼女はゆっくりと喋りながら考え、やがて自力で答えに辿り着いた。「おいしいお酒を飲んだっていう噂を、ほかの国に……持って帰ってもらう?」

「当たりだ」

 鉄次は感服しながらうなずいた。ほんとうに、驚くほど知恵が回る。

「よくわかったな」

「だって、さっき噂のことを話していたでしょう」

 正解して嬉しかったのか、伊都はめずらしく、ふふ、と声をもらして笑った。

 少女を固い殻のように覆っていた警戒心が、少し解けつつあるのを感じる。

 鉄次は出会った当初から、漠然と彼女を人に慣れていない小鳥になぞらえて考えていた。臆病ではないが非常に用心深く、こちらからふいに近づくと逃げる。しかし今は自ら飛んで来て肩にとまり、さえずりを聴かせるようになった。だが、まだ羽根に触れさせるほど心を許してはいない。

 旅が終わるころ、この小鳥は手に乗るようになっているだろうか。

 そんなことを考えながらふと横を見ると、伊都もこちらを見上げていて、目が合うと花のつぼみがほころぶように笑みをこぼした。

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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