六十 御守国御山・街風一眞 理解者
「立身国で、天翔隊が立ち上げられたらしい」
夜の自主稽古を終えたあと、洞窟の奥で水浴びをしながら伊之介が言った。
「北方にある山のひとつで、もう訓練に入ってるんだとさ」
「なんだ、天翔隊って」
井戸の釣瓶を引き揚げながら一眞が訊く。その言葉をどこかで耳にした覚えはあるが、詳しいことはわからなかった。
「何をする部隊だ?」
「空を飛ぶのさ」
伊之介は簡単に言い、一眞が汲み上げた水を横取りして自分がかぶった。
「くそっ、真夏なのに冷てえな!」大声で吠え、犬のようにぶるぶる身震いして水滴をまき散らす。「まるで氷みたいだ」
「空を飛ぶって言ったか?」
「ああ。〝天翔る〟。読んで字のごとしだ」
彼は冷えた肌に熱を取り戻そうとするように、逞しい腕を手ぬぐいでごしごしこすった。
「どうやって、人間が空を飛ぶんだ」
「天隼を馬みたいに馴らして、鞍を乗せて跨がるんだよ」
「馬鹿言うな」
一眞はぴしゃりと言い、井戸の中に釣瓶を落とした。
「天隼ってのは、あのでっかいハヤブサみたいなやつだろう? たまに飛んでるのを見かけるが、人を乗せてるのなんか見たことないぞ」
「だから馴らすんだよ。雛のころから育てて、人を乗せるように教え込むんだ。なんだ、おまえ本当に知らないのか? 西峽じゃ、子供だって知ってることだぞ」
「おれは東峽の生まれだ」一眞は素っ気なく言って、再び汲み上げた水を頭からかぶった。肌にこびりついたねばつく汗が、氷の刃で削ぎ落とされていく。「こっちでは天隼は、ただのでかい鳥だ。人はやつらに近寄らないし、やつらもおれたちにかまったりしない」
「彼我の差ってやつだな」
「それで、天隼に乗って飛ぶだけか? どういう働きをするんだ」
「麓から攻める地上部隊と連携して、本曲輪や天守を空から直接攻めるんだ。もちろん敵も天翔隊で迎撃に出るから、遭遇したら宙を跳んで斬り結ぶ」
一眞はその様子を想像しようとした。騎馬戦で、鞍から鞍へ跳び移りながら戦うようなものだろうか。並はずれた身体能力の持ち主なら、いちおうできなくはないだろう。しかし戦場が空であることを考えると、とたんに現実味が薄れてくる。
「空中で敵と斬り合って、そのあとどうする。地面に落ちて終わりか?」
「その前に天隼が拾いにくるよ。かなり強い浮昇力が働く高所で戦うから、落ちきるまでにはだいぶ暇があるはずだ」
雲に届くほど高い空の上で、足場となる鞍を離れて宙に舞い、敵と刃を交える。そして落ちる――天隼が拾いにくるまで。一眞は自分がそうしているところを思い浮かべ、吟味し、結論を出した。
「気が狂ってるな」
「なんでだよ!」伊之介が笑いながら抗議する。「勇壮この上ないだろう。空飛ぶ突撃隊だぜ」
彼の声に、一眞はほのかな憧れの響きを聞き取った。
「もしかして、やってみたいのか?」
訊くと、伊之介は怯んだように口を閉じた。眉間に皺を寄せ、低く唸りながらしばし考え込む。
「んん……どうかな。――ちょっと興味はある」
「じゃあ、おまえも狂ってるよ」
「でも天翔隊は、今や戦の花形なんだぜ。次に大軍が起きたら、攻城戦の趨勢は天翔隊の隊士――〈隼人〉が握ると言われているほどだ」
「隼人……」
「〈天狗〉と呼ぶ地方もあるらしい」
「ああ」一眞の記憶の中に、わずかにひっかかるものがあった。「それなら聞いたことがある。人を化かす妖怪か何かだと思ってた」
「たぶん、それに因んでるんだろう」
水を浴びてさっぱりしたふたりは、洞窟を出てすぐ宿堂へは戻らずに、上弦道をぶらぶら歩いた。空に浮かんだ三日月はごく細いが、冴えざえと強い輝きを放っており、道を取り囲む鬱蒼とした木々の影をくっきりと浮かび上がらせている。
風にざわめく梢のどこかで、ヨタカが澄んだ鳴き声を響かせていた。
「天隼ってのは――」ゆっくり歩を進めながら、一眞は隣の伊之介をちらりと見た。「どんな声で鳴くんだ」
「さあ、知らんな。見た目がああだし、ハヤブサに似てるんじゃないか」
「天翔隊の話は、例の幼馴染みとやらが知らせてきたのか?」
「そうだ。おれの田舎は美甘郷ってちっぽけな郷だが、本城がある七草郷と近いから、噂がいち早く流れてくるのさ」
上弦道の端まで来た彼らは参道の階段に腰かけて、下界の平野や山々を見下ろした。すでに山門は閉ざされているので、道を上ってくる者も下ってくる者もいない。
しばらく黙って夜風に吹かれたあと、伊之介がぽつりと言った。
「戦になるだろうな。来年あたり」
「黒葛家と守笹貫家か」
「分捕ったばかりの立州で、さっそく天翔隊を立ち上げたのを見ても黒葛家はやる気満々だ。そして守笹貫家は、挑まれたら絶対に応じずにはいられない。なぜなら、すでに南部の半分以上が黒葛のものになってて、もう後がないからだ」
「戦が始まったら、本当に降山するのか?」
「そうさ」彼はあっさり答え、薄く笑みを浮かべた。「おまえはどうだ。考えてるか、あれから」
「いや」
一眞は正直に言った。そのことについては、敢えて考えないようにしている。
下界へ下りたら、気が楽になるのは間違いないだろう。さまざまな規律に縛られた、御山での生活はひどく息苦しいものだ。だが、なんとか適応できていると思うし、急いで逃げ出す必要も感じていない。
「おれを連れて下りたって、おまえには何もいいことはないだろう」
「まあな。でも気に入ってるんだ、おまえの剣も――おまえも」
伊之介は肩をすくめ、冗談とも本気ともつかない顔で言った。
「金でも名誉でも、誰かのためでもなく、ただ強さのために強さを求める……おまえにはそんなところがあると思う。そこがおれは好きなんだ。だから一緒に、本物の戦場で戦ってみたい。敵同士になって殺し合うのでもいい」
「冗談はよせ」
「いや、本気だぜ。おれはよぼよぼになってから、煎餅布団の上でおっ死ぬなんて真っ平なんだ。同じ死ぬなら戦場で死にたい。おれが認める、おれよりも強いやつに斬られてくたばりたいんだよ」
「ほかを当たるんだな」
「なんだ、つれないな」彼は苦笑して、拳で軽く一眞の肩を打った。「口ではどう言ってても、そういう場面になったら、おまえは平気でおれを殺すって知ってるぞ」
一眞は表情を変えなかったが、膝に載せている指先が少しこわばるのを感じた。
「おれはそんな、人でなしか?」
「冷たくて打算的なやつだ。批判じゃないぜ。それも強さのうちだと、おれは思ってる」
ふいに、ひんやりした手で胃を鷲掴みにされたような心地がした。
いったい伊之介は、いつからそんなふうに自分を見ていたのだろうか。同じ部屋で起居し、朝から晩までほぼ一緒にいるのだから、まんざら浅い仲というわけではない。しかし、そこまで見透かされているとは思ってもみなかった。
ほかの連中はどうなのだろう。利達は。信光は。彼らもやはり、同じことを感じているのか。
伊之介は一眞の顔をじっと見て「その目」と指差し、にやりと笑った。「たまにそういう目で堂長を見てるよな。警戒してる目つきだ」
斜に睨んでいたことに気づき、一眞はすっと視線を外した。どうしようもなく心がかき乱されている。
「そう気を尖らすなって。おまえが人でなしでも、おれは一向にかまわないって言ってるんだよ」
あっけらかんとした言葉を聞きながら、一眞はあることを思い出していた。
ひと月ほど前になるだろうか。庄造から饗庭左近の情報を聞き出す際に、彼を孤立させるためと闇討ちの報復を兼ねて、取り巻きふたりを痛めつけたことがあった。富太郎はその際に骨折した腕をまだ吊っているし、斧で臑を割ってやった文吉は今も薬療院に入ったままだ。
一眞に襲撃されて震え上がった彼らは、事情を訊かれても〝不慮の事故〟で通し、周囲もその言葉を信じて疑わなかった。だが伊之介だけは、事の真相をうすうす感づいていたようだ。
それについて一度、彼とのあいだで少し意味深長なやり取りがあり、とぼけてはぐらかしたのを覚えている。そして伊之介はたしかにあの時、はぐらかされたふりをしていた。
「おまえ案外、油断のならないやつだな」
低くつぶやいた一眞に、伊之介は肩をすくめてみせた。
「周りをよく見てるってだけさ」
さらりと言って立ち上がり、尻についた土を軽く払う。
「人を観察するのが好きなんだ。話をするのもいいが、ただ見てるだけでも、けっこういろいろわかるもんだぜ」
「おれについて、ほかに何がわかる?」
「人の話には辛抱強く耳を傾けるが、自分のことはめったに話さない」
「それから?」
「動揺してる時ほど無表情になる」
「本当によく見てるんだな」
「そう言ったろ」
なんてやつだ。一眞は内心で舌を巻き、彼を見る目がこれまでとは変わったことに気づいた。
伊之介は同室の新参仲間で、実力伯仲の稽古相手で――ほんの少し前まではただそれだけの存在だったが、今はもう違う。いろいろなことを知られすぎている。
しかし奇妙にも、そのことに脅威は感じなかった。何を知ったとしても、彼がそれを使って自分を追い詰めたりはしないと、本能の部分で理解しているようだ。
「おまえはもっと、何ごとにも大雑把だと思ってたよ」
率直に言うと、伊之介は辺りに響き渡るほどの大声で笑った。
「おれの剣みたいにか」
「そうだ。性格は剣に出る」
うなずいたあとで、一眞はふと自問した。
おれもそうか? おれの剣にもおれの本性が出ていて、だから伊之介はこんなにもおれのことをよく知っているのだろうか。毎晩ふたりで打ち合いながら、おれはいつの間にか彼に自分自身をさらけ出していたのかもしれない。
「ここからおまえがいなくなったら――」一眞はひと言ひとこと噛みしめるように言った。「おれはほっとするだろう」
「ひでえな」
見上げると、伊之介は太い眉を情けないハの字にして、本気で傷ついたような顔をしていた。そう見せかけているだけだとわかっているのに、つい苦笑させられてしまう。
「でも少しだけ、寂しく思うかもな」
「少しかよ」明らかに不満そうな声だ。
「少しだ」
すげなく繰り返しながらも心の片隅で、本当に寂さを感じるかもしれない、とふと思う。その想像は一眞に戸惑いをおぼえさせ、同時に不可思議な安堵感をもたらした。
翌日、夜明け前に時季外れの突風が吹き荒れ、山頂の門をはじめとする御山の建造物群に大小さまざまな被害が及んだ。大祭堂脇の苑地を取り巻く木柵も壊れたという。その修繕に、衛士寮の修行者たちが駆り出されることになった。
宿堂の屋根も一部吹き飛んだが、こちらの補修は後回しらしい。
「直す前に雨が降ったら最悪だな」
山腹の斜面で木材の切り出しをしながら、信光が憂鬱そうにぼやいた。
「いま、寝台から空が見えてるんだぜ。なんで選りに選って、ちょうどおれの寝てる真上が壊れるかなあ。すぐ隣の利達のところだっていいだろうに」
「おまえと違って、おれは日ごろの行いがいいからさ」
利達が笑いながら言った。最近では彼もかなり硬さが取れ、仲間内に限るものの、この程度の軽口は叩くことがある。
「そういや、空気がなんとなく水っぽいぞ」
伊之介が真面目くさって言い、顔を上げて鼻をひくひくさせた。
「今夜あたり、ひと雨あるかもな」
「よせよ」信光が肩を落とし、深々とため息をつく。「でも、こういうときに本当に雨に降られちまうのが、おれってやつなんだよなあ。とにかく星回りが悪いんだ」
会話を聞きながら小径木に斧を入れていた一眞は、少し向こうで作業をしていた孫七郎と源三がこちらへ歩いてくるのに気づいた。密集した木々のあいだを縫いながら、ふたりは何か盛んに言い合いをしている。
「杭木が三尺、丸太が二尺二寸だろう」
「いや違うって。杭木が三尺二寸だ」
林床の丈高い雑草をかき分けて彼らが姿を現すと、伊之介たちも手を止めて怪訝な顔を向けた。
「なに喧嘩してんだよ」
「喧嘩じゃねえよ」源三が不機嫌そうに言う。「なあ、杭木の長さは三尺二寸って言われたよな?」
すかさず孫七郎が口を挟む。
「三尺だ。絶対そうだって」
一眞は伊之介と顔を見合わせ、眉をしかめながらふたりに言った。
「おれたちは杭木三尺、丸太二尺三寸のつもりで作業してるぞ」
「なんで、こんなバラバラなんだよ」
源三は途方に暮れたように言って、両手で頭を掻きむしった。
どうやら、修繕作業の概要を伝達する際のどこかで齟齬が生じたらしい。ほかの場所ならともかく、参拝者の目につきやすい苑地の木柵ががたがたに仕上がったら、行堂全体が大目玉を食らうだろう。
「長いのは切って揃えればいいが、短く切り出したら修正のしようがない」
一眞はつぶやき、仲間を見回した。
「正確なところを、もう一度聞いてくるしかないな」
みな口をつぐみ、一瞬しんとなった。全員の顔に「ご免こうむる」と書いてあるのは、修繕作業の責任者が饗庭左近だからだ。間抜けな質問をしに行ったりしたら、痛罵を浴びせられるのは間違いない。
「だ、誰が聞きに行く……?」
孫七郎がおそるおそる問いかける。しかし、すぐに答える声はなかった。利達などは左近を思い浮かべただけで、晒した布のような顔色になっている。
わんわん鳴き立てる蝉の声ばかりがしばらく響いたあと、しぶしぶ一眞は口を開いた。
「おれが行ってくる」
歩き出しながら肩ごしに振り返り、ほっとしたような、申し訳なさそうな複雑な表情の仲間たちに釘を刺す。
「遅れが出るとまずいから、作業の手を止めるなよ。とりあえず伐採を続けていろ」
「わかった」源三がうなずき、片手拝みした。「すまねえな」
一眞は斜面を駆け上り、横に伸びる獣道を通って参道のほうへ向かった。
左近がこの暑さの中、森に入って作業を監督しているとは思えない。きっと八ノ上弦道の鐘楼かその近辺で、人けのない日陰に陣取って涼んでいるだろう。
ひとつ上の上弦道へ行った彼は、木陰道をゆっくり歩いて左近の姿を探した。だが鐘楼にも、その脇にある講堂にも彼はいない。さらに進んで茶堂や蔵も覗いたが、あの不満げな顔を見いだすことはできなかった。
ここじゃなかったか。
あきらめて引き返そうとした時、上弦道から逸れる小道がふと目に入った。林の中へ分け入って、どこかへつながっているようだ。
木漏れ日の落ちる細い道を少し行くと、前方からかすかな話し声が聞こえてきた。男がふたり。しかし、どちらの声も左近のものとは違う。
このまま立ち去るべきだと思いつつも、一眞はさらに進んで行き、やがて突き当たりの建物が見えるところまでやって来た。
樹木を切り払って円く均した場所に、小さな四阿が建てられている。放射状の梁が美しい六角屋根の下に、ひと組の男たちがいた。
白の法衣を着ているのは、十二宗司のひとりで序列四位の天城宗司だ。その向かいにいる人物は商人ふうで、上等な麻の単衣と黒紗の羽織をまとっていた。三十がらみの苦み走ったいい男。抜け目のなさそうな目をしている。
ふたりは立ったまま、用心深く声を落として話をしていた。
こうなると、俄然興味が湧いてくる。一眞は大木の陰にさっと身を隠し、少しだけ顔を出して彼らの会話に耳をそばだてた。
「江利さまのご様子は」
商人ふうの男が訊き、天城宗司が広い額に皺を寄せる。
「俗界の名ではなく祝名で、〝紅さま〟とお呼びするように」
一眞ははっと目を見開いた。紅というと、蓮水宮で会った若巫女のことだ。
「これは失礼を」少しも失礼とは思っていなさそうな口調で、商人が慇懃に言い直す。「紅さまはどんなご様子でいらっしゃいますか」
「お健やかだ。教練と儀式ばかりの暮らしで、少し退屈なさっているようではあるが」
「主人がたいそう案じております。御山に馴染めず、寂しい思いをされているのではないかと」
「自由奔放なお振る舞いで、お世話をする小祭宜たちを振り回しておられる」
天城が憮然とした調子で言い、一眞をにやりとさせた。紅は相変わらず、わがままで高飛車なままらしい。
彼女は下界ではどこかの大店の娘だったと、以前誰かが話していた。きっと実家ではさんざん甘やかされ、蝶よ花よと育てられたのだろう。それにしても、昇山後にまで実家が様子を窺いに来るとは、箱入りにもほどがある。
「それで、前にお願いしたこと――」商人が顔を寄せ、さらに声をひそめた。「お会いできますか、紅さまに」
「まだ無理だ。傍付きの小祭宜や内宮の衛士を取り込むのに、もう少し時がかかる」
「では、いつ」
「急かすな。焦って露見でもすれば、すべてが水の泡と消える。何年も先を見据えた計画なのだ。細心の注意を払い、ゆっくりと確実に進めねばならん」
一眞は木の陰に顔を引っ込め、瘤のように突き出て地面を這っている根を見るともなく見ながら、いま聞いたことについて考えた。
およそ御山には似つかわしくない、ずいぶんきな臭い話のように思う。
あの若巫女の実家と天城宗司が結託して、何かよからぬ計画を練っているらしい。それも、すぐに結果がわかるたぐいの小さな企みではない。数年越しで成果を出すつもりの大計画だ。
主導しているのはどちらだろう。大店の主人か。それとも天城宗司か。幼い若巫女は、その企みの中でどんな役割を担うことになるのだろう。
謎に引き込まれ考えに没頭していた一眞は、襟首を鷲掴みにされるまで、背後に誰か近づいたことに気づかなかった。
とっさに振り払おうとしたが、そいつの手はゆるまない。ものすごい力でうしろに引っ張られ、否応なく林の奥へ引きずられていった。下生えの上を腰と尻が滑り、尾てい骨がごつごつした岩に何度も打ちつけられる。
かなり奥まった場所まで来て、ようやく一眞は投げ出すように開放された。だが、そう思う間もなく、今度は胸ぐらを掴んで強引に引きずり上げられる。
木の幹に背中を叩きつけられると、目の前を火花が飛んで頭がくらくらした。ちらつく閃光の向こうに、およそ歓迎しかねる顔が見える。
饗庭左近だ。
いつにも増して憎々しげで、酷薄そうで、獲物を前にしたオオカミのように歯を剥き出している。
「いつもいつも、人の周りをこそこそ嗅ぎ回りやがって」
彼は唸るように言った。怒っているが、同時に嬉しそうでもある。
嗅ぎ回ってなどいない、と言おうとしたが、襟元を絞り上げている手に喉を締めつけられて声が出なかった。このままくびり殺すつもりだろうか、という疑いがちらりと頭をかすめる。だが、いくら左近でも、御山の中で人殺しはしないだろう。
空気を求めて喘ぐと、胸ぐらを掴む手が少しだけゆるんだ。
「指南役を捜していました」
忙しなくひと息吸い、また絞められないうちに急いで言う。
「木柵の寸法を確認するために」
「寸法だと?」
左近はせせら笑い、鼻を鳴らした。
「杭木三尺二寸、丸太二尺三寸と言ったはずだ。きさまらはこの程度のことすら覚えられんのか。まったくどいつもこいつも、糞の役にも立たん馬鹿ばっかりだ」
一眞は口をつぐみ、甘んじて罵倒を浴びていた。目的は果たしたのだから、あとは作業に戻れと言われるのを待つばかりだ。だが左近はなかなかそうしようとしなかった。
「宗司と客人の話を盗み聞きしていたな」
それは否定し難いところだ。たしかに盗み聞きをしていた。
「はい。すみません。でも遠くて、ほとんど何も聞こえませんでした」
気になるのは、左近もあの会話を聞いたのかどうかということだ。だが彼の目に、それを窺わせる色はなかった。おそらく、あの四阿で一服するつもりで、たまたま立ち寄っただけだったのだろう。
「おまえはうさん臭いやつだ」左近は粘っこい口調で言い、胸が触れるほど体を密着させてきた。「行堂へ来た時から、おれはそう思っていた」
一眞の脳裏に、十通りもの攻撃法が浮かんだ。
手首を掴んで外側へひねり上げる。掌底で顎を打つ。下腹部に膝頭を叩き込む――。とにかく何かして彼の体を遠ざけたいという欲求が、身の裡から湧き上がってくる。
しかし必死に耐えた。調練以外で修行者が指南役を攻撃などしたら、大問題になるのは間違いない。
体が触れ合う不快感を堪えながら、一眞は従順さの仮面をかぶった。すべておっしゃる通りです、あなたには逆らいませんよという顔をして、何も言わずにおとなしく待つ。まったく手応えを示さない相手に、いつまでもかまおうとする者はあまりいない。
しかし左近が次に言った言葉で、使い慣れた仮面にひびが入り、粉々に割れて落ちた。
「実家は、ずいぶん裕福だったらしいな」
凝然と目を瞠った一眞に、左近が狡そうな笑みを向ける。
「昇山する際に所領を献納したのを忘れたか? あそこは今では御山の直轄地だ。地元の堂司に問い合わせれば、知りたいことは何でも教えてくれる」
堂司だって? 一眞は胸の中で、鼓動が少し乱れたように感じた。
どんなやつだっただろう。まったく覚えていない。
六年子の祝いに祈唱をしてもらったはずだし、母と一緒に何度かは祭堂へ行ったこともあったが、堂司のことなど特に気にかけたりはしなかった。言葉を交わしたことがあるとしても、せいぜい挨拶程度だったはずだ。そんなやつが、おれについていったい何を語れるというのか。
左近は一眞の心の揺れを感じ取り、それをじっくり味わうかのように唇をなめた。
「いいぞ、その目だ。おまえの、そういう目が見たかった。いつもの澄まし返った、人を小馬鹿にしたような目つきじゃなくてな」
彼は顔を寄せ、臭い息を吐きかけた。無理やり視線を合わせて、囁くように言う。
「おまえ、父親にいたぶられてたんだってな」
一眞の全身がぞっと総毛立ち、視界が急に暗くなった。しばし立ちくらみを起こしたような感覚に襲われる。襟首を掴まれていなかったら、倒れ込んでいたかもしれない。
「堂司ってのは、地域のことをよく知ってるものなんだ。おまえの親父の横暴は、郷じゃかなり有名だったらしいしな」
左近は嵩にかかり、機嫌よくぺらぺらと喋り続けている。
「妾を家に囲ってて、弟はそいつの連れ子だったそうじゃないか。本妻と嫡男のほうが肩身の狭い思いをして暮らしてるって、みんな同情してたって話だ。気の毒になあ。いい家に産まれても、それじゃ甲斐がないってもんだ」
彼は涎を垂らすまいとするように、手の甲で口をぬぐった。
「だが、そいつらはみんな死んだ。暴力親父もあばずれの妾も、血のつながらない弟も。おまけに連中を殺したごろつきどもも、仲間内で殺し合って全滅した。そしておまえは家を継いだ――都合よく、邪魔者が全部きれいに片づいたあとで。それから、得たものを全部投げ出して昇山した。家族の鎮魂のためと、ただひとり生き残った罪悪感からな。まったく、なんてうまくできた話だ。誰かが念入りに筋書きを書いた、泣かせる芝居みたいじゃないか、ええ?」
辛抱しきれず、一眞は左近の腕を払った。力任せに振り放し、横へ逃れて距離を空ける。
「おお、急にいい顔つきになったな。剣を握っている時の顔だ。つまりは、おれの言葉に斬られたってわけだ、そうだろう?」
くそっ。一眞は内心で歯噛みした。この局面で、感情を出さないようにするのは難しい。
「おれには、ぴんとくるものがあるんだ。直感てやつさ。いまのおまえの反応を見て、ますますそれが強くなった。だからこの件について、もっと掘り下げるつもりでいる。そして、おれの直感を裏づける確証を掴んだら……」
彼は少し間を置き、目を細めて一眞を見据えた。
「堂長にすべて話すつもりだ」
一眞は腿に押しつけた拳をぐっと握り、彼を睨み返した。
「その時は、おれもおまえの破戒を報告する」
「道連れにするってか」左近が悠然と嘲笑を浮かべる。「やってみろ。全部明るみに出せ。その時、さてどっちの話がより堂長の興味を引くかな。衛士長や十二宗司はどうだ? 祭主さまは? おれは御山を追放されるだろうが、おまえはそれだけじゃすまないんじゃないか?」
彼はにやにやしながら、一歩ずつ後ずさった。
「書面でのやり取りは日数がかかる。おまえには、まだしばらく猶予があるぞ。降山するなら今のうちだ」
一眞は無言で、視線を足元に落とした。かさかさと草を踏む足音が次第に遠ざかっていくのを、身じろぎひとつせずにじっと聞く。
それが完全に消え去ると、彼は少しよろめき、傍らの木に片手を突いて体を支えた。髪の生え際から流れた汗が、うなだれた首や頬をつたって土の上にしたたり落ちる。
口の中にいやな味がした。唾をためて吐き、同じことをもう一度してから、汗をぬぐって大きく息をつく。
それから彼はゆっくりと頭を起こし、御山に来て以来初めて、誰かを始末することを本気で考え始めた。
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