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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第五章 しのび寄る影
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五十六 立身国射手矢郷・真境名燎 敵地潜入

 天翔(てんしょう)隊の訓練が始まって半月と少し。飛行中に初めて負傷者が出た。

 捻挫やかすり傷は日常茶飯事だが、それらとは怪我の度合いが違う。宗則(むねのり)というその隊士候補は、単騎で飛行中に天隼(てんしゅん)の鞍から滑り落ちて地面に叩きつけられ、左大腿と右手首を骨折したのだ。

 彼は療師(りょうじ)の手当てを受けたあと、すぐに麓の射手矢(いてや)(ごう)へ運ばれた。山上の砦にいるより、(さと)へ下りたほうが手厚い介護を受けることができる。

 騒ぎがひと段落して、遅めの昼餉を取りに隊士候補たちが集まった陣屋は、どこもみな宗則の噂でもちきりだった。

「乗り手をやってて落ちるか、普通?」

「こう、ふうっと――急に気が遠くなったとか、当人は言っていたようだ」

「なんだ、だらしないな。どうせ朝飯の食いようが足りなかったのだろう」

浮昇(ふしょう)酔いかもしれんぞ」

 真境名(まきな)(りょう)はどの集団にも加わらず、箱膳を前に黙々と食事をしていた。だが、耳は周囲の会話を捉えている。

「森の真上で落ちたのに、なんで枝に引っかからなかったんだろうなあ」

「よっぽど運が悪いんだろうさ」

「それより、(とり)を呼ばなかったのはなぜだ? 口笛を鳴らせばすぐ拾いにくるだろう」

「気が遠くなってたら無理じゃないか」

 それに低すぎた――燎は煮物をつつきながら、心の中でつぶやいた。

 宗則が落ちるところをちらりと見たが、樹冠から十間と離れていなかったように思う。あれでは、たとえ笛で呼ばれても、禽が旋回して戻る暇はなかったに違いない。

 落ちるなら、もっと高いところからにしなければ。いや、そもそも落ちないに越したことはない。わたしも気をつけよう。

 ほかの隊士候補たちも、同じようなことを考えている様子だった。

 地面に落ちる恐怖は、すべての〈隼人(はやと)〉がいつも大なり小なり抱いている。だが、その可能性について漠然と考えるのと、実際にそうなった仲間を()の当たりにするのとでは雲泥の差があった。

 幸い宗則は負傷しただけですんだが、落ち方によっては首を折って死んでいたかもしれないのだ。自分たちが取り組んでいることの無鉄砲さを、あらためてまざまざと見せつけられたように感じていた。

「山上で浮昇力があるからよかったが、もっと地上に近いところで落ちたら、どうなってただろうなあ」

 そう言った誰かの声には、はっきりと怯えがにじんでいた。

「ぐしゃっとつぶれて、それで終わりさ」

 すげなく答えたほうの声にも、同じ怖気(おじけ)が感じ取れる。

 半月以上も訓練を重ねてきて、新参の誰もが良くも悪くも少々ぞんざいになりつつあったところだ。これは気を引き締め直す、いいきっかけになったかもしれない。

 少なくともまた当分は、みな鞍の上で気をゆるめることはないはずだ。

「こういうのはどうだろう」

 ふいに言ったのは、石動(いするぎ)博武(ひろたけ)だった。大声を出したわけではないが、自然に周囲が静まり、耳をそばだてる空気になる。

「幅の広い一枚布を、戦袍(せんぽう)――陣羽織代わりに肩にまとっておくんだ。もし飛行中に鞍から落ちたら裾端を掴んで、ムササビの飛膜のように面で風を受ける」

「いったい何の役に立つんだ」

 懐疑的な声を上げたのは玉県(たまかね)綱正(つなまさ)だ。

「本当にムササビのように飛べるわけもなし。そんなもので命が助かるとでも?」

「いや、せいぜい落下の速度がゆるむ程度だ。それでも、墜落までの持ち時間は少し増えることになる」

「一枚布の戦袍だって?」

 訊いたのは、燎のはす向かいに座っている由解(ゆげ)虎嗣(とらつぐ)だった。博武の言葉に興味を引かれたらしく、顔つきが熱中を示す例の〝鬼瓦〟になっている。

「それはあれか、昔の武将が甲冑の背中につけてた、矢を防御する母衣(ほろ)みたいな感じか?」

 うまい(たと)えだ、と燎は思った。自分もそれを思い出していたところだ。

 合戦の主流武器が弓矢から鉄砲になり、近ごろは母衣を防具として使う者はほとんどいなくなった。それを、もっとも新しい合戦場である空で復活させるというのも、なかなかおもしろい気がする。

「まさに、それだ」博武が我が意を得たりというように微笑んだ。「緊密に織られていて軽い布――やはり絹で仕立てるのがいいだろうな」

 はじめはぽかんとしていた仲間たちも、次第にその案の実用性に気づきだし、表情が変わってきた。

 天翔隊には敏捷さが求められるので、合戦の時にも騎馬武者のような重装備は身につけない。しかし戦袍一枚ぐらいなら、たいした負担にはならないだろう。飛行中は体に巻きつけておけば防寒対策にもなるし、落下した際に生き延びられる確率が少しでも上がるなら、試してみる価値はある。

「動きにくくなるだけだと思うな、わたしは」

 綱正が不機嫌そうに言った。博武に対抗心があるので、易々と(くみ)したくないのだ。

「うまく使えればいいが、戦袍で首が絞まって死ぬなんて落ちじゃないのか」

 嘲弄されても、博武は涼しい顔をしている。

「それは実際に身につけて飛んでみないことには、何とも言えんな。だが母衣をつけて馬を走らせ、槍を振るっていた武将がいたわけだから、工夫次第でどうにかなるかもしれん」

 さらなる反論の糸口を綱正が探しているあいだに、彼はさっさと食事を終えると、「腹ごなしに歩いてくる」と言って広間を出て行った。

 残された者たちは、まだこの件について話を続けたがっている顔つきだ。しかし立案者が抜けたあとでは、たいして議論が白熱するとも思えない。

 燎は自分も箸を置くと、衝動的に博武のあとを追った。

 陣屋を出た彼は、ぶらぶらと副郭のほうへ向かっている。うしろから近づくと、肩ごしにこちらを見てにやりと笑った。

「早飯だな」

「あなたこそ」

 肩を並べて歩きながら、燎は話を切り出した。

「さっきおっしゃっていた件――戦袍のことですが、あれはなかなか良い案だと思います」

「そうか」

「作ってみてはどうでしょう」

 意外なことを言われたというように、博武がわずかに眉を上げる。

「わたしが連れてきた下男……利助(りすけ)といいますが、たいそう裁縫がうまいのです。どんな形にするかだけ決めてやれば、麓の集落で布を調達してきて、二日とかからずに縫い上げるでしょう」

「試作するのか」

「はい、とりあえず一着。現物があれば、上に通すにしても話がしやすくなります」

「たしかにそうだな」

 彼はほんの一瞬だけ考え、すぐにうなずいた。

「よし、伝兵衛(でんべえ)にも手伝わせよう。日ごろから装束にうるさいやつだから、意地でも見映えよく仕上げるはずだ」

「ここの山道は少し危ないですが、伝兵衛どのは剣を使えますか? 利助は、そちらの方面はさっぱりで」

「山道の何が危ない?」

 訊き返したあと、彼はすぐに自分で思い出した。

「ああ、そうか。到着した日に、山賊に襲われたと言っていたな」

「ええ。ふたり斬り殺しましたが、ほかにも仲間がいるかもしれません。利助らを麓へ行かせるなら、護衛が必要だと思います」

 砦を統括する真栄城(まえしろ)康資(やすすけ)は、山腹のどこかに山賊の根城があるだろうと言っていた。山道の一部は隣の三鼓(みつづみ)国へ抜ける裏街道になっているので、旅人狙いの追い剥ぎもうろついているはずだ。

 そう話すと、博武はいたずらっぽく目を輝かせた。

「では護衛を兼ねた討伐隊を組んで、この機会に山賊を釣り出すか」

「それは、利助たちを……囮にするということですか」

「そうだ」

 悪びれもせず、あっさりと言う。

「ちょっといい身形(みなり)をさせて、丸腰で裏街道を歩かせれば、麓へ下りるまでのあいだに食いついてくるだろう。討伐隊はつかず離れずふたりを追って、賊が出てきたら一網打尽にするという筋立てだ」

 よくもこう、次から次へといろいろ思いつく。

 燎は半ばあきれながら、腹の中で唸った。

 わたしは日々の訓練についていくだけで精いっぱいなのに、彼は余裕綽々だ。いつの間にか新参仲間からは取りまとめ役と見なされ、何か問題が持ち上がるたびに相談を受けているし、砦の運営や訓練法についてしばしば康資に提案したりもしている。

 訓練を終えて実戦配備される日が来たら、博武が立州(りっしゅう)天翔隊の組頭(くみがしら)に抜擢されるのはほぼ間違いないだろう。そしていずれは、(そなえ)を預かる(さむらい)大将に。

 主君黒葛(つづら)貴昭(たかあき)の義弟であるということを抜きにしても、彼には充分その能力が備わっていると思う。

 燎自身はというと、組頭になりたいなどとは考えたこともなかった。能力以前に資質の問題で、自分は統率者にはむいていないとわかっている。

「どうして、さっき広間にいた時に言わなかった?」

 ふいに博武が訊いた。戦袍を試作してみるという案を、みなの前で披露するべきだったと言いたいらしい。

「べつに理由は……」

 思わず口ごもった燎を、彼は横目にちらりと見た。

「おぬしは案外、引っ込み思案なところがあるな」

 批判でないことは、口調からわかった。だが、ひそかに気にしていることをずばり指摘されては、あまりいい気はしない。

「無闇に目立たないようにしているのです。あなたは少しも頓着されないが、男衆の中には、女が出しゃばるのを不快に思う人も少なくないですから」

「なんだ、そんなこと」博武は少しぶっきらぼうな調子で言った。「勝手に不快がらせておけばいい」

「仲間とうまくやりたいと思ってはいけませんか」

「うまくやるというのは、かかわらずに避けることなのか?」

 静かな問いかけが、ぐさりと胸に刺さった。

 嫌なやつ。ずけずけと、いつも本当のことを言う。

「それに、気づいていないようだが、おぬしすでに充分目立っているぞ。ただひとり初乗りで(とり)を飛空させ、滝飛び込みの先陣を切り、真っ先に〝拾い〟を成功させたのだからな」

 言われてみると、たしかにそうだ。燎は気が抜けるのを感じ、肩を落として大きく息を吐いた。

「なるほど、悪目立ちしていますね」

「果敢と言うべきだ」

「恐縮です」

 ふと気づくと、副郭の森の(きわ)まで来ていた。薄暗い木立の奥のほうに、宗則が墜落した場所が見てとれる。低木の茂みが押しつぶされており、周辺の下生えを大勢の足が踏み荒らした痕跡もはっきりとわかった。

「宗則は怪我が治ったら、また戻って来て飛ぶでしょうか」

「おれなら戻るが、宗則はどうだろう」博武は足を止めると、燎に目を向けた。「おぬしは?」

「もちろん戻ります」

 即座に答えると、彼は心から愉快そうな笑い声を上げた。

「その迷いのなさ、じつにいいな」

「怪我ぐらいで怯んで逃げ帰ったのでは、訓練への参加を許してくださった御屋形さまに申し訳が立ちません」

 燎は淡々と言い、抜けるような青空を見上げた。

「それに、好きなのです――飛ぶことが。あの翼に乗って空を飛んでいると、わたしは女でも男でもなく……人ですらなくなり、何にも支配されない強くて自由な生き物になったように感じるのです」

 思いつくままに言ったあと、燎ははっと我に返り、あわてて口をつぐんだ。

 なんて子供っぽい、間の抜けたことを言ってしまったのだろう。

 馬鹿にされるのを覚悟したが、彼は笑わなかった。むしろ、かつてなかったほど真剣な表情をしており、目の奥には心のゆらめきを映すような淡い光がまたたいている。

 だが博武はそのまま何も言わずに離れて行ったので、自分の言葉が彼の胸にどんな感情を呼び起こしたのかは結局わからずじまいだった。


「午後は新参同士で組んでもらう」

 真栄城(まえしろ)康資(やすすけ)がそう告げると、練兵場に集まった隊士候補たちが小さくどよめいた。

 これまではもっぱら古参と新参の組み合わせで飛行訓練をしてきたが、いよいよ次の段階へと進むらしい。「よしこい」と意気込んでいる者もいれば、「まだ早い」と当惑顔をしている者もいる。

 (りょう)の頭にまず浮かんだのは、「そら、あぶれるぞ」だった。

 新参の中に、進んで自分と組もうとする者がいるとは思えない。日ごろから馴れ馴れしくまつわりついてくる玉県(たまかね)綱正(つなまさ)でも、同じ(とり)には騎乗したがらないだろう。しかし、それは最初から覚悟していたことではあった。

「誰と組むか、どちらが前乗りを務めるかは好きに決めてかまわん」

 仲間たちはざわめきながら、貪欲な目で周囲を見回した。一緒に飛ぶ相手は慎重に選ばなければならない。後乗りを希望する者は、特にそうだ。下手な乗り手と組むと、自分自身が痛い目を見ることになる。

 燎は誰にも声をかけず、最後に残る同じあぶれ者と組むつもりで黙って立っていた。前乗りを任せてもらえるなら、どんな相手と組もうとうまく飛ばせる自信はある。

 そんな彼女に、意外な人物――由解(ゆげ)虎嗣(とらつぐ)がちらちらと視線を送ってきた。

 彼は燎に対して、普段から冷淡な態度を取っている男たちのひとりだ。しかし彼女が仲間に先んじて〝拾い〟を成功させて以来、拒否感を伴った関心とでもいうべきものを時折向けてくるようになっていた。

 女がここにいることは不愉快だが、その実力を認めずに無視するほど偏狭ではないらしい。おそらく彼の本性は善良であり単純で、また高潔でもあるのだろう。

 わたしと飛んでみるか、〝鬼瓦〟どの?

 燎が挑むような目で見返すと、彼はすっと視線を外した。組んでみたい気持ちがないわけではないが、やはり抵抗感のほうが強いようだ。

 それでも、と彼女はふと予感した。

 彼はわたしと一緒に飛ぶかもしれない。いつか――わたしの志と覚悟が、彼のそれと同じものだと気づいたなら。

 ふたり組がほぼ出来上がりかけたころ、誰かが近づいてきてぽんと肩を叩いた。

「ここにいたな」石動(いするぎ)博武(ひろたけ)だった。「おぬしと組みたい」

 燎は面食らって、思わず眉間に皺を寄せた。

「なぜ、わたしと?」

「新参でいちばんうまい乗り手だからだ」

 反問されるとは思っていなかったようで、博武も眉をひそめている。

 その一方で、彼の言葉をもれ聞いた周囲の者たちは一斉に色めき立った。

 避けるべき忌み物のように思っていた燎を、新参仲間の中心人物である博武が真っ先に指名したとあって、誰もが動揺を隠せずにいる様子だ。

 自分に向けられる視線が少し変化したのを感じながら、燎は博武にうなずいて見せた。

「では、やってみましょう。あなたも新参でいちばんうまい斬り手だから、存外いい組み合わせになるかもしれません」

「よし」博武がにっこりする。「禽はおぬしが選ぶといい」

 ふたりは練兵場に引き出されている禽たちの傍へ行った。その中から燎が選んだのは、特別な相性の良さを感じている一羽だ。

「この禽でいいですか?」

 いちおう訊くと、博武は好奇心をそそられたような目をした。

「なぜこれを?」

「気が合うのです。試験の時も、〝拾い〟をやってのけた時も、乗ったのはこの禽でした」

 彼は感心したように唸り、しげしげと禽を見つめた。

「どこで見分けているんだ」

「顔でわかります。人と同じで、みな異なる顔立ちをしていますよ。それに羽根の色や模様も微妙に異なります。あなたもご自分やお仲間の乗馬は、群れの中にいても見つけられるでしょう?」

「たしかに」彼は言下に認めた。「だが訓練では、いつも適当に禽を選んで乗っていたから、個体差がわかるほどまだ馴染んでいない。おぬしはその点、一歩も二歩もおれの先を行っているんだな」

「そんなことは」

 謙遜したが、そう言われるのは嬉しかった。

「わたしとの相性は別にしても、これはいい禽です」

 鞍に跨がりながら、手短に説明する。

「翼が強くて飛行中の挙動が安定していますし、命令にもよく反応します。立ち鞍で重心を傾けても、びくともせずに平衡を保つと康資どのはおっしゃっていました」

 すべての組が騎乗し終えると、康資が列を縫って歩きながら説明を始めた。

「初めて新参同士で組んだわけだが、いきなり模擬空戦をさせるつもりはないから安心しろ。今日のところは、ただ飛行だけやってもらう。高く飛ぶもよし、遠く飛ぶもよし。だが、禽を疲れ果てさせないよう気をつけること。乗り手は様子をよく見て、疲労しているようなら着陸して適宜休息させろ」

 最後に、日没までに戻るよう申し渡され、新参組は一斉に空へ舞い上がった。

 からりとした快晴の日で、翼が切り裂いていく空気は軽い。燎は手綱を操りながら、清々しい風を胸いっぱいに吸い込んだ。

「さあ、どう飛びたいですか」

 後方に訊くと、博武が間髪を入れず答える。

「まずは高く」

「承知」

 上昇の合図に応えて、禽が大きく旋回しながら昇り始める。

 蒼天の深みに吸い込まれていくようなこの瞬間が、燎はいつも好きだった。あらゆる懊悩を地上に起き捨て、身も心も軽くなって自己を開放することができる。

 ふいに博武が言った。「おれも同じだ」 

「同じ――何がです?」

「おぬしがさっき言ったことさ。こうやって飛んでいると、すべての(くびき)から解き放たれたように感じる」

 意外な言葉だ。燎は肩ごしに、ちらりと彼を見た。本当にそう思っているのだろうか。それとも、単に調子を合わせているだけか。

「わたしの目には、あなたはいつだって何にも縛られず、思うがままに生きているように映ります」

「傲慢不羈(ふき)と言いたいんだろう」

 彼は愉快そうに言い、からからと笑った。

「たしかに意のままに生きてはいる。だが、何ものにも縛られずにいられる人間などいない」

「それは……そうかもしれません」燎は素直に認め、ため息をついた。「地上は窮屈なので、ずっと空にいられたらいいのにと、たまに考えます」

「そこはおれと違うな。おれには軛が必要なんだ。だから窮屈な地上に戻ることにも喜びを感じる」

 どこか厳かな調子で言って、彼は燎の肩に軽く触れた。

「よし、この高さを維持したまま、戌亥(いぬい)の方角へ飛べ」

 禽首(きんしゅ)を北西に向け、鉢呂(はちろ)山から西へと連なる津々路(つづろ)連峰の上を飛びながら、彼女は小首をかしげた。いったい、どこへ向かうつもりだろう。

 次の言葉で、彼の意図がわかった。

「中の(たけ)の上空で、真北へ進路を変える」

江蒲(つくも)国の――」驚きのあまり、ひと息には言えなかった。「領空へ入るつもりですか」

「そうだ」

「敵国ですよ」

「だからこそ見てみたいんだ。おぬしは見たくないか」

 見たくないわけがない。だが、ここは慎重になる必要があると思った。

「そんなことをして、大ごとになりませんか」

「騎乗していることが、地上から見てもわからないぐらいの高度を飛べばいい。百武(ひゃくたけ)(ごう)まで徒歩だと軽く十日はかかるが、禽なら日暮れまでに往復できるだろう。守笹貫(かみささぬき)家の主城をこっそり見物してこようじゃないか」

「万一、見つかったらどうします」

「物見の砦がありそうな高い山に近づかなければ平気だ。江州(こうしゅう)禽籠(とりかご)山は西の端のほうにあるというから、天翔(てんしょう)隊に追われる気づかいもないだろう」

 そう言っているあいだに、早くも禽は中の岳の上空にさしかかった。考えるまでもなく手が勝手に手綱を絞り、進路を北へと変える。

 それに気づいて、博武が小さく笑った。

「覚悟ができたか」

「こうなったら、おつき合いします」

 素っ気なく言ったが、心は弾んでいた。これから合戦に赴くかのような高揚感をおぼえる。

 中の岳を離れ、その先にあるふたつの丘と山を飛び越えると、国境(くにざかい)の関門が小さく見えてきた。

「人の姿が視認できますね。もう少し上げますか」

「いや、だいじょうぶだろう。念のために腰を落とす」

 博武は立ち鞍に片膝をつき、前傾して前鞍の後驕(こうきょう)を掴んだ。

「江州は山が少ないと聞いていたが、ほんとうだったな」

 彼が言う通り、眼下に広がる風景は想像していたよりものっぺりしている。延々と続く草原、ゆるく蛇行する川、なだらかな丘などが飛び去っていくと、その先にようやく山らしいものが現れたが、それも立身(たつみ)国や三鼓(みつづみ)国でこれまでに見てきたものに比べると、ほんの小山に過ぎないように感じられた。

「山はあっても、どれも低いですね。だから主城の近くではなく、西のほうに禽籠を設置したのでしょうか」

「おそらくな」博武は左へ少し身を乗り出し、左右に顔を向けた。「この下はほとんどが農作地だが、この時期にしては実りの見えない土地が多すぎないか」

 下を覗いてみると、たしかに休耕地ばかりが目についた。

「そこそこの規模の集落はあるようですが……人手がないのでしょうか」

 半刻ほど飛び続け、いくらか見応えのある山に差しかかったところで、彼女は少しだけ高度を上げた。(いただき)から見上げる登山者がいないとも限らない。

 北東にだらだらと長く連なる山塊の半ばまで来ると、ふいに博武が声を上げた。

「燎、見ろ」

 彼が差す場所に目を凝らすと、林道の中に動くものが見えた。

「右旋回します」

 禽をゆっくり旋回させながらさらに見ていると、ひとりの男が数人を相手に斬り合っていることがわかった。

「何の争いでしょうか」

「捕り物かな。追っ手は、装備から見て城兵だろう。うしろのほうに、塗り笠をかぶった騎馬武者もいる」

「追われている男は……」

「わからん。だが、かなりの使い手だぞ」

 その男の豪傑ぶりは、上から見ていても明らかだった。ほとんどの相手を一撃で無力化しながら、じりじりと南へ進んでいる。

 彼の得物が一閃するたびに、血が激しく繁吹(しぶ)いて樹間の地面を赤く染めた。

 しかし如何せん多勢に無勢だ。このままではいずれ押し包まれ、一斉に攻撃されて(たお)れるだろう。

「あの、右側の細い脇道へ逃げ込めば……」

 思わずつぶやくと、博武が低く呻いた。

「この位置からなら一目瞭然だが、林の中を走りながらでは気づくまいな」

「教えてやれないのが口惜しいですね」

「こんな風に、戦いの様子を真上から俯瞰したのは初めてだ」

 博武の声には感慨がにじんでいる。

「天守や櫓から見るよりも、ずっと全体の動きがわかりやすい」

「ええ。今後は合戦で、天翔隊が物見役を務めることになるかもしれません」

「地上部隊に、情報をいかに伝えるかが問題だな」彼はそう言って、すっと体を引いた。「ずっと同じ場所を飛んでいると(いぶか)られる。もう行こう」

 燎が一瞬ためらったのを、博武は敏感に感じ取ったようだった。

「江州兵が追う男に加勢をしたい心情はわかるが、ここでおれたちの存在を明かすわけにはいかん」

「もちろんです」

 手綱を引いて旋回を止め、再び北へ向かう。激闘の場はまたたく間に遠ざかっていった。

 未練たらしく振り返ったりはしないが、心はまだ半ばあの空に残っているような気がする。

「あの手練(てだ)れ、逃げ切れるでしょうか」

「おぬしが見つけた側道に入り、南西の崖を飛び降りれば、あるいはな」

「芝居の幕切れを見逃したような気分です」

 そうつぶやいたあと口をつぐみ、しばらく黙然としていた燎は、ふと視界の端に気になるものを見つけたように思った。しかしその方向へ目をやっても、何が自分の注意を引いたのかよくわからない。

「博武どの、ちょっと左へ逸れていいですか」

「どうした」

「何か見えた気がします。かなり向こうのほうらしく、どうも判然としませんが、もう少し近づけばわかるかもしれません」

「よし、行こう」

 すぐさま手綱を引き、禽を西へ向かせた。

 眼下には蛇行する二本の川に挟まれた農作地が広がっている。その上を飛び越えると地形が変わり、ゆるやかに起伏していった先に広大な山陵が立ち現れた。

年古(としふ)りて苔にまみれた大亀がうずくまっているようだ」

 そう博武が評した通り、低い山々と丘がいくつも連なってひと塊になり、巨大な楕円形を形成している。山肌と地表には木々と草がびっしりと生い茂り、したたるような濃い緑色に隙間なく覆われていた。

 しかしその谷間(たにあい)に、奇妙なほどくっきりと白い線が浮かんでいる。

「博武どの、あれがわかりますか? 先ほどわたしが見たのは、あの白い線だと思います」

「なるほど、一か所だけ色が違うので目立つな。もう少しだけ高度を下げて近寄ってみよう」

「承知」

 慎重にゆっくり下りながら近づくと、それは北東の集落の外れから入って谷間を貫き、途中で湾曲して南へとまっすぐ抜けていく道であることがわかった。

 弓なりに曲がる地点までは直線的でかなり広いが、その先は曲がりくねっていて貧弱だ。

 道が細くなり始める地点を中心にして大勢の人間が集まり、蟻の大群のように動き回っていた。どうやら、もともとあった道の幅を広げ、通行しやすく整えている最中のようだ。

「酷暑の時期だというのに、道普請をやっているのでしょうか。こんな谷間には不似合いなほど立派な街道ですが――」

 そう言って振り向くと、鋭く射るような博武の視線とぶつかった。

「……軍道(ぐんどう)だ」

 囁くような声にもかかわらず、その言葉は彼女の耳にはっきりと聞こえた。

「あの道幅――馬四頭を横並びにして、楽に走らせることができる。これほどの規模の軍道は、過去にも見たことがない。平野に作ると目立ちすぎるから、わざわざ谷間に普請しているんだな」

 彼は禽の背から落ちそうになるほど身を乗り出し、(せわ)しなく視線を走らせて周辺の様子を探った。

「道の脇に積んである木材は、あとで砦を建てるためのものだろう。南の出口付近に陣屋を作れば、遊軍を潜ませておくのにもってこいだ」

 きな臭い話になってきた。

 心がざわつくのを感じながら、燎は首を回して南のほうへ目をやった。津々路連峰の高峻な頂が、威圧するように(そび)え立っている。

「道を抜けた先にあるのは水鶏口(くいなぐち)岳ですね」

「江州、立州(りっしゅう)三州(さんしゅう)の国境に接する天険……」博武は低くつぶやいた。「その山裾で、戦端を開くつもりだろう」

 はっとして彼を見ると、またあの視線に射すくめられた。

「江州――守笹貫(かみささぬき)家が、戦を仕掛ける準備を始めていると?」

「そうだ。取りかかるにしても数年後かと思っていたが、どうやら事態は切迫しているらしい。周辺の村落で休耕地が多く目についたのは、相当な数の百姓を農地から引き離して(いくさ)普請に当たらせているからだろう。この秋の収穫を度外視しているなら、冬になる前に動き出すやもしれん」

 彼は早口に言って、再び立ち鞍の上に腰を落とした。

「こちらへ見に来てみてよかった。おぬし、隊士になる前に早くも手柄を立てたな」

「手柄……になるのでしょうか」

「むろんだ。戻って康資どのに報告しよう」

 帰路はどこにも寄り道をしなかった。ただまっすぐに、全速力で鉢呂山の砦を目指す。

 その途中、博武がふと思い出したように言った。

「おぬしと飛ぶのはおもしろかった。また、そのうち組もう」

「ええ、ぜひ」燎は素直にうなずいた。「わたしも愉快でした」

 あまりにもすんなりと口から出たので驚いたが、それは紛れもない真実の言葉だった。

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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