五十五 曽良国西沿岸部・伊都 峠道の邂逅
航海中に月が変わり、伊都は観月二日に曽良国の押尾湊に下り立った。
太陽は輝いているが、堤防に吹く風は奇妙なほど涼やかで、もう真夏になっているとはとても思えない。おそらく曽州は、故郷の天勝国よりも寒い国なのだろう。
十日あまりの船旅で親しくなった船頭の甚八や誠史郎、気のいい水夫たちとはこれでお別れだ。名残を惜しみつつ、彼らにさよならを言って湊を出たあと、彼女は漠然と北に向けて歩き出した。
ここから先、どこに行くという当てがあるわけではない。だがともかく街道を進み、人の多い集落か郷を見つけたら、そこで何か働き口を探してみるつもりだった。
宿敵の国となった天州を出たので、もう追われる心配をする必要はない。それが何よりありがたかった。これからは堂々と本名を名乗ることもできる。もっとも、名前を訊いてくれる人がいればだが。
蝉の声を聞きながら街道を歩いて行くと、遠くに見えていた山並みが近づいてきた。少し先で道は上り坂になり、手前に長々と横たわる低い山陵へと分け入っていくようだ。
山越えの道なのね。
伊都はちょっと考え、そのまま進むことにした。峠まで登り詰めれば、このあたりの地形を一望することができるだろう。尾根の向こうに集落があれば、きっとすぐ目につくに違いない。
鬱蒼とした樹林の下を行く道には、青葉を透かして届く木漏れ日がちらちらと楽しげに踊っている。それを見ていると気持ちが浮き立ってきた。自然に足取りも軽くなる。
一刻ほど黙々と歩いたあと、道の脇に枝を広げている大きな木のうしろに座り、腰に下げている魚籠から弁当を取り出した。
焙った板海苔で巻いた塩結びが三つ、大きな竹の皮に包まれている。船を下りる前に、誠史郎がこっそり持ってきてくれたものだ。
彼はほかにも、自分の持ち物の中から携帯食の干し芋や炒り豆などを出してきて、「お餞別ですよ」と言って渡してくれた。お陰で今日明日は食べ物の心配をしなくてもいい。
ゆっくり食事をしたあと、伊都はまた元気に山道を登り始めた。休んでいるあいだに追い抜いて行ったらしい人影が、前方にいくつか見える。その中に、彼女の興味を引いたふたり連れがいた。
どちらも若い男で、同じくらい背が高い。ひとりは細身、もうひとりはがっしりしている。
彼らが目についたのは、細身の男だけが手ぶらだったからだ。旅人とは思えない着流しの軽装で、近所を散歩でもするように山道を歩いている。
もう一方のがっしりした男は、手甲や脚絆、足袋などもつけた念入りな旅支度だった。振り分けの荷物のほかに、大きめの風呂敷包みも背負っている。どうやら、こちらがふたり分の荷物を引き受けているらしい。
自分の荷物は自分で持てばいいのに。伊都はそう思い、身軽に歩いている男の背中をじっと見つめた。
とはいえ、連れの男に荷物を苦にしている様子はない。落ち着きなく、あたりをしきりにきょろきょろ見回しながら、弾むような足取りで歩いている。
子供みたい。
彼女が思わず微笑んだ時、彼が背負っている風呂敷の端から何かがこぼれ落ちた。細長い筒状のもの。きっと懐中筆――矢立だろう。父もたしか、似たようなものを持っていた。
軽いので音がしなかったのか、男は落とし物をしたことに気づかないまま、どんどん先へ進んでいく。
伊都は足を速めて登り、道に落ちている矢立を拾い上げた。
父のものは簡素な竹製だったが、これはまったく違う。漆塗りの竹筒を銀細工の繊細な透かし飾りが取り巻き、絹紐で結わえられた瓢箪型の墨壺には銀箔が貼られていた。子供が見ても、高価なものだと一目でわかる。
声をかけようと顔を上げると、ふたり組の姿はさらに遠ざかっていた。道の分かれ目で見失ったら、返す機会がなくなってしまう。彼女は心を決め、急いで彼らのあとを追っていった。
大人の足のほうが速いので、それ以上離されないようついていくだけでも大変だ。
幸い少し登ったあたりに、土地を平らに均して整えた場所があり、旅人たちはそこで足を止めてくれた。道の脇にはこぢんまりした茶屋が建っていて、ほかにも何人かがひと息いれている。
伊都はようやくふたり連れに追いつき、荷物を背負っている男にうしろから声をかけた。
「あの、落とし物です」
くるりと振り向いた彼を見て驚いた。
背丈とも体つきともまるで釣り合わない、自分とそう変わらない年ごろの少年の顔つきだ。健康そうに日焼けしており、指先で粘土をちょんとつまんだだけのような、小さな鼻が可愛らしい。
彼は無言のまま、伊都の顔を食い入るように凝視したあと、小粒な目を限界いっぱいまで見開いて言った。
「うわああ、べっぴんだねえ」
大げさにもらされた感嘆を聞いて、茶屋のほうへ行きかけていた連れが戻って来た。こちらは背丈どおりの大人だ。
「生意気言ってやがる」笑いながら言った声は、低くてやわらかい。「おい長五郎、おまえ、別嬪かどうかなんてわかるのかい」
「わかるよう」
長五郎がぷうっと頬を膨らませる。
連れの男はふたりの傍まで来ると、伊都のほうにすっと手を伸ばした。指先を軽くおとがいに当て、顔を少し上向かせる。
伊都ははっとなったが、払いのけたい衝動には駆られなかった。無遠慮に触れられたにもかかわらず、不思議と彼の手に脅威は感じない。
男は目を細めて彼女をじっと見つめたあと、横にいる少年にうなずいた。
「なるほど、おまえの審美眼は本物だ」
「しんびがん?」
「きれいなものがわかるってことさ」
「ほらね」
自慢げに胸を張った長五郎に、伊都は持っていた矢立を差し出した。
「これ、風呂敷から落ちたから……」
「あっ」
少年はたちまち狼狽して首を左右にねじ曲げ、背中の荷物を見ようとした。見たところでどうなるものでもないが、当人は真剣な表情だ。
伊都はそこでようやく、彼の心は実際の年齢よりも幼いのかもしれないと気づいた。態度も喋り方も四、五歳ぐらいに感じられる。
矢立は連れの男のほうが受け取った。
「わざわざ追っかけてくれたのか。手間かけさせてすまねえな」
「いいんです。わたしも――どうせ登る途中だったから」
「こいつは気に入りの品なんだ。ありがとよ」
彼は矢立を懐にしまい、代わりに銅銭を二枚取り出して伊都の手に握らせた。
「も、もらえません」
あわてて返そうとしたが、相手が手を出す気配はない。
「働かせたら、必ず手間賃を払うってのがおれの流儀なんだ」
彼はそう言って、再び茶屋のほうへ足を向けた。
「急ぐ旅じゃないなら、団子でもおごらせてくれ」
肩ごしに微笑みかけ、すたすたと歩いて行く。どうしたものかと迷っていると、少年が彼女の腕を掴んで引っ張った。
「行こ、行こ」
ほとんど引きずられるようにして茶屋まで行くと、男はすでに床几に腰かけて煙管をくわえていた。その横にどかりと座り、長五郎がそわそわ貧乏ゆすりをする。
「鉄次さん、おれね、あのね、餡こがついたやつがいい」
「好きなもんを、なんでも食いな」鉄次は煙草盆を引き寄せて吸い付けながら言い、反対側へ座るよう目顔で伊都を促した。「おまえさんもな」
おかしな成り行きになったが、甘いものを食べるという誘惑には勝てそうもない。
伊都は遠慮がちに腰を下ろし、ほっと息をついた。登り道で汗をかいたあとなので、山上から吹き下ろしてくる風が心地いい。
ほどなく、注文した餡団子と麦湯が運ばれてきた。
ふっくらとした白い丸餅に、滑らかに漉した餡がたっぷり載せられている。ひと口噛むと、うっとりするような甘みが舌をしびれさせた。
夢中になってひと串食べ終えたあと、二本目をゆっくりと囓りながら、伊都は隣で緑茶をすすっている鉄次の様子をそっと窺った。
すっきりと整った顔立ち。目元が優しげで、薄めの唇はとてもきれいな形をしている。
濃藍の地に白と茶の極細縞が入った、風合いのいい単衣は彼によく似合っていた。体つきはほっそりとして見えるが、さほどひ弱な感じは受けない。
身形や口調、立ち居振る舞いから考えて、武士ではないと思う。商人にも見えない。といって職人ふうでもなかった。
これまでに、一度も出会ったことのない手合いであるのは間違いなさそうだ。こうしてすぐ近くにいると、わけもなく緊張させられる。だが、怖いとは思わなかった。
「おれ、あっち見てくるね。あの小屋のとこ」
長五郎が大声で言い、勢いをつけて立ち上がった。三串の団子を、もう食べ終えてしまったらしい。
「崖のほうには近寄るんじゃねえぞ」
「わかった」
図体は大きいが、駆けていく姿はやはり子供らしい。
微笑みながら見送ったあと、伊都はふいに、鉄次とふたりきりになったことに気づいた。だからどうだというわけでもないが、多少気まずさを感じる。
彼のほうはそんなことは微塵も思っていないらしく、あくまでゆったりとくつろいでいた。体にまったく力みがなく、どんな仕草も流れるように優雅で自然だ。
「お住まいはこの近くですか?」
何も話しかけてこないので、勇気を出してこちらから訊いてみた。自分から会話を切り出すのは、伊都にとっては珍しいことだ。
「お住まい、ときたか」鉄次は笑って、彼女のほうに視線をよこした。「いいや、おれは別州から来たんだ。ここからあとふたつ山を越えて、獅子野郷って郷へ行く。ちょいと変わった酒造りをやってる、偏屈な蔵人どもに会いにな」
酒造りの職人に会いに行く――ということは、やはり商人なのだろうか。それとも、彼自身も職人なのか。
この男が何者なのか、ますますわからなくなった。
「おまえさんは、どこ行くんだい」
「わたし……あの、特に決まっていません。どこかよさそうな郷を見つけたら、働き口を探そうと思っているんです」
鉄次は少し驚いたように眉を上げ、煙管を口から離してふうっと細く煙を吐いた。
「何して働くんだ。得意なことは?」
得意なこと?
そんな質問がくるとは思っていなかったので、ちょっと答えに詰まってしまった。
これまでにいろいろな仕事をしたが、それは人から言われたことをただ淡々とこなしてきただけだ。
農作業や水汲み、子守。洗濯や掃除。煮炊きに繕い物。少し変わったところでは、糸紡ぎや野術師の手伝いもやった。だが、自分の得意なことをして食べ物や銭貨に換えようなどとは、考えたこともなかった気がする。
わたしの得意なことってなんだろう。
伊都はつい真剣に考え込み、何も思いつかないことに動揺した。自分が、ひどくつまらない人間のように思える。
沈黙がかなり続いたが、鉄次は答えを急かす様子を見せなかった。訊きはしたが、あまり興味はないのかもしれない。
なんとなく悔しくなり、伊都は礼を失するのを承知の上で、質問に質問を返した。
「あなたは?」
「おれの得手は何かって?」
「はい」
彼は床几に片手をついて体を寄せ、伊都の顔を上から覗き込んだ。息がかかるほどの距離で長々と見つめ、ふいに、とろけそうな甘い笑顔を見せる。
「おれが得意なのは、おまえさんみたいな娘っ子をたぶらかすことさ」
低く囁き、さらにしばらく視線を合わせてから、彼は体を起こして快活に笑った。いたずらっぽい目を見れば、冗談を言っているのだとすぐにわかる。
にもかかわらず、伊都は火が出そうなほど自分の顔が熱くなっていることに気づいた。きっと髪の生え際まで真っ赤になっているはずだ。
真面目に訊いてるのに、からかったりして。
内心で憤慨したが、それと同時に、あんな風に近づかれても逃げ出さなかった自分に驚いていた。
大人の男をずっと警戒してきたのに、この人にはなぜだか気をゆるめさせられてしまう。態度からも言葉からも、まったく邪念を感じないせいだろうか。
でも、あのけだもの――叔父だって、はじめはそうだったのだ。家族を亡くして打ちひしがれていたところを慰め、抱きしめてくれた時には、彼のことを父のようにすら感じたのを覚えている。
しかし、すぐに裏切られた。生涯忘れられないほどひどいことをされた。あとになってみると、親切そうな顔の裏には、最初から下心があったのだとしか思えない。
だから油断しちゃだめ。
伊都は厳しく自分自身を戒めた。
身ぎれいで優しそうだからといって、いい人だとは限らない。見えない心の中で、どんな悪いことを考えているかわからない。
お団子のお礼を言って、もう行こう。
妙に気が沈むのを感じながらそう思ったところへ、長五郎が戻って来た。
「蝦蟇がいたよ。こおおんな、でっかいやつ」
満面に笑みを湛え、身振りを交えながら嬉しそうに報告する。
「見るのはいいが、毒があるから触るなよ」
鉄次はそう言って立ち上がると、茶屋の主人に「厠を貸してくれ」と声をかけ、裏のほうへ姿を消した。
入れ替わりに、長五郎が隣に腰を下ろす。
「イボがいっぱいついてたよ」
にこにこしながら言う彼に曖昧な笑みを返し、伊都はちょっと顔を近づけて小声で囁いた。
「ねえ、訊いていい?」
「いいよ」
「鉄次さんて、長五郎ちゃんの何?」
「何って、なに」
質問の意味がわからないらしく、小首を傾げている。
「長五郎ちゃんの叔父さん?」
「ううん、おじさんは髭のおじさん。鉄次さんはおじさんじゃないよ」
答えてくれたが、今度はこちらが意味をよく掴めない。
「じゃあ、お兄さん?」
「兄ちゃんじゃない。でも、そうだったらいいなあ」
長五郎は目を細め、うっとりとため息をついた。
「鉄次さんは、あのう――おやかただよ」
「おやかた」伊都はつぶやき、頭の中で考えをめぐらせた。主の意味で、御屋形と言っているのだろうか。それとも弟子を抱える親方のことか。「何か仕事を教えてもらっているの?」
「ううん。あのう……おれ、湊で仕事してるよ。船の荷を運ぶんだ。おれ力持ちだから、鉄次さんがそうしろって」
彼は内緒話をするように声をひそめた。
「あのねえ、おれね、鉄次さんが会った中で、いちばんの力持ちなんだ。だから、鉄次さんの荷はぜんぶおれが運ぶんだよ」
顔を輝かせて、誇らしげに言う。
ふたり分の荷物を背負っているのを訝しく思ったが、どうやら彼は好きでそうしているらしい。鉄次の役に立てることが、長五郎にとっては何よりの喜びなのだろう。
「鉄次さんのこと、好き?」
「うん」
「あの人、優しい?」
「優しいよ。佐吉っちゃんも千太さんも、みんなそう言うよ。あ、千太さんはなんにも言わないんだった。あのね、千太さんが作るご飯は、すごおおく旨いんだ」
結局、鉄次と長五郎の関係はいまひとつはっきりしないが、とりあえず彼を敬慕する人はほかにもいるらしい。
そこへ、噂されている当人が戻ってきた。長五郎がぱっと立ち上がり、「おれ、もっかい蝦蟇見てくるね!」と言って走り出す。
鉄次は再び伊都の横に座り、意味深な眼差しを向けた。
「なに話してたんだい」
「佐吉っちゃんと、千太さんのこと。千太さんのご飯は美味しいって」
嘘は言っていない。
彼は千太と聞いて、ふっと笑みをもらした。
「千太郎は腕利きの庖丁人なんだ。近ごろは長五郎と同じ塒にいるから、毎日旨いものを食わせてやってるんだろう」
話を聞けば聞くほど、彼らのつながりがよくわからなくなる。伊都が眉間に皺を寄せた時、道の向こうでふいに怒鳴り声が響いた。
茶屋の薪小屋と思われる小さな建物の前で、長五郎が旅装の武士に詰め寄られている。
「思いきり突き当たりおって何の真似だ、無礼者!」
見ると、武士は袴の尻を泥で汚していた。長五郎がよく前を見ずに走っていてぶつかり、彼を突き転ばせたのだろう。
「下郎めが。そこへ直れ、手討ちにしてくれる」
笑ってすませるつもりはないらしく、差し料に手をかけて威嚇する。
伊都は思わず床几から腰を浮かした。
お手討ちだなんて、あり得ない。相手はまだ子供なのに。
だが彼女が飛び出すよりも早く、鉄次がするりと前へ出た。さして急ぐでもなく、道を横切ってふたりに近づいていく。
「旦那」
彼が声をかけると、武士は血走った目をして振り返った。
顔が赤い。どうやら一杯機嫌のようだ。酒が入っているので、無駄に気が大きくなっているのだろう。
伊都が固唾を呑んで見守る前で、鉄次は彼と長五郎のあいだに割って入った。
「うちの者がとんだ粗相をしちまって、相すみません。まだほんの小僧ですから、許してやっちゃもらえませんか」
落ち着いた声だ。相手はすでに鯉口を切っているのに、少しも恐れている様子はない。
あの人、戦えるのかしら。
見たところ鉄次は丸腰だ。懐に匕首のようなものを隠しているかもしれないが、今のところそれを抜く様子は見せていない。
口だけで事を収めることもできなくはないだろうが、相手は道理などとても通りそうにない酔漢だ。斬りかかってこられたら、どうやってしのぐのだろう。
伊都は助けを求めて周囲を見回した。茶屋の中には主人と茶運びの小女、男客が三人と女客がふたり。街道には、思わず足を止めた旅人が四人。
茶屋の葦簀の下にいる男三人組は、みな鞘袋をかけた脇差しを腰に差している。床几の上には太刀も置かれていた。きっと彼らは武士に違いない。
だが、こちらも茶碗酒を飲みながら、ただ見物しているだけだった。もめ事に水を差しに行く気配はない。
「汚れた袴は弁償させてもらいますんで、幾らでも、どうぞおっしゃってください」
鉄次が長五郎を背後に隠しながら、静かに言った。このあたりが引き時だ、と暗に告げているのだとわかる。
高めに吹っかけて金を受け取り、「今日のところは許してやろう」などと言って度量を見せれば、儲かった上に面目も保てるのだから武士のほうは何ひとつ損をせずにすむ。
しかし酔っ払いはそこを汲み取ることなく、さらに大声を張り上げて罵り始めた。
「べ、弁償だと。ふざけるな! わしは金などいらん。おお、そうよ。金など受け取るものか。欲しいのは餓鬼の命だ。そこをどかねば、貴様も重ねて両断してくれるぞ!」
伊都はさっと身を翻し、茶屋を出て横手に走った。すぐ脇の小さな草地に、店のものらしい荷車が一台置いてある。そのうしろに駆け込み、肩にかけていた弓袋の紐を一気に解いた。
そうするあいだにも、緊迫したやり取りが耳に届いてくる。
「どうしてもと言うなら、おれを斬ってもらいましょう」
「なんだと?」
「その代わり、小僧には手を出さねえってことで」
伊都は荷車のうしろで立ち上がり、矢をつがえて弓弦を引き絞った。
いま風はない。たいして距離もない。背景は小屋の板壁で、全員の姿がよく見えた。ここからなら、どこでも好きな場所に当てられる。
腕、肩、脇腹。その気なら、首を射抜くこともできる。
武士が顔を憤怒にゆがめて刀を抜いた。
「望み通りにしてやるわ!」
彼が大上段に振りかぶった瞬間、伊都は狙いを定めた。
矢尻を掴む指をそっとゆるめる。
短いが強力な矢は一直線に飛んで武士の胸をすれすれにかすめ、小気味いい音を立てて小屋の壁に突き立った。
それを見届け、すぐにしゃがみ込む。
荷車の下の隙間から覗き見ると、武士は振りかぶった刀をそのままに全身わなわなと震えていた。
「な……な……」
血の気の失せた顔を左右に振って、姿なき射手を探している。
一方、鉄次のほうは微動だにしていなかった。突然射込まれた矢に彼も驚いたはずだが、それを微塵も表に出していない。
「な、なんだ、誰だ! だ、誰が矢を射た」
「まあおそらく、おれを死なせたくない仲間の誰かだろうな」
鉄次はのんびりと言い、板壁から矢を抜き取った。
「二の矢が来ないうちに、その刀をしまったほうがいいんじゃねえか」
やんわりと脅しをかける。
武士ははっとなり、唇を噛んで悔しげに唸っていたが、やがてあきらめたように刀を鞘に収めた。
「そら。新しい袴を誂えるといい」
鉄次は懐から幾ばくかの銭貨を取り出すと、相手の袂に落とし込んだ。
「道中気をつけてな」
軽く肩を押された武士は、すっかり意気消沈してふらふらと歩き出した。完全に酔いが醒めた顔だ。
あの様子なら、戻って来てまた蒸し返すことはないだろう。伊都はほっと息をつき、草の上に腰を下ろして荷車に背をもたせかけた。
うまくいってよかった。みんな無事でよかった。
肩の力が抜けかけた時、ふいに頭の上から声が降ってきた。
「弓の達人はここか?」
見上げると、鉄次が荷車の向こうから覗き込んでいた。たったいま殺されそうになったとは思えない、呑気そうな笑みを浮かべている。
しかし長五郎は彼のうしろで、身も世もなくわあわあ泣いていた。よほど怖かったのだろう。
鉄次は荷車を回り込んできて、伊都にあの矢を返した。
「ありがとよ。また助けてもらっちまったな」
「わたしの居場所、どうしてわかったんですか」
「矢の飛んできた方向。角度」
頭のいい人。伊都は彼の明敏さに舌を巻いた。
それに肝も据わっている。
あの局面で彼は少しもあわてることなく、一本の矢をとっさに利用して鮮やかに窮地を切り抜けた。そんなことをできる度胸があるのに、斬られそうになっている時に反撃を試みなかったのはどうも解せない。
「さっき、自分を斬れって言ったでしょう」
立ち上がり、鉄次の顔をまっすぐに見上げる。
「あれは本気?」
「まあな。うちの者は、おれの目の前では死なさねえって決めてるんだ。それより、手前が代わりに死ぬほうがいい」
それを聞いて、長五郎がますます激しく泣き出した。
「い、い、嫌だよ、鉄次さん。死んじゃ嫌だ。もう会えなくなるなんて、おれ、そんなの嫌だよう」
鉄次は苦笑して、涙と鼻水まみれの少年に手ぬぐいを渡してやった。
「いい加減、泣くのはよせ。おれはちゃんと生きてるだろう。この嬢ちゃんのお陰でな」
長五郎はべそをかきながら歩いてくると、伊都の両手を取って握り締めた。
「ありがとね。ほんとに、ほんとに、ありがとね」
力が入っていて、締めつけられた指がちょっと痛い。にもかかわらず、つい笑みがこぼれてしまう。
ふいに鉄次が訊いた。「姿を隠してたのはなぜだい」
「矢を射たのが、わたしみたいな子供だとわかったら、怖さが減ってしまうと思って」
「体に当てようと思えばできただろう?」
「たぶん。でも……あの人は、わたしに何かしたわけじゃなかったから」
答えながら、思わぬところで役に立った弓を袋にしまう。その様子を鉄次はじっと見つめ、彼女があらためて向き直ると再び口を開いた。
「そいつが、おまえさんの〝得意なこと〟かい」
穏やかに訊き、弓袋を顎で指す。
伊都は少し考え、こくりとうなずいた。
言われて初めて気づいたが、たしかにそうだ。幼いころから習い覚えた武芸は、ほかの何よりも得意なものだと言っていいだろう。
「山刀を差してるが、剣も使えるのか」
「はい。でも、修練を始めて五年ぐらいなので、腕はまだまだです」
「おまえさん、働き口を探すと言っていたが、おれのとこに来る気はないか」
あまりにもさらりと言われたので、彼の言葉を理解するまでに時間がかかった。
「わたしを雇う……ということですか」
「そうだ」
「何の仕事を?」
「別州へ戻ったら、おれは小商いに手を出すつもりでいる。いま詳しくは言わねえが、儲かる見込みの商売だ。だが、金ができると敵もできる。そこで、目端が利いて腕の立つ用心棒が欲しいんだ」
伊都はぽかんとして、彼をまじまじと見てしまった。
「でも、わたし――まだ子供だし……用心棒なんて」
「さすがに、今すぐって話じゃねえよ」
鉄次は笑いながら言って、胸の前で腕組みをした。
「当分は出番もないだろうから、おれが決めた剣術の師匠について修練を積んでもらう。前々から護衛を雇えとうるさく言ってたやつだから、みっちり仕込んでくれるだろう。下地もあることだし、武家の子が元服するぐらいの年ごろには、いっぱしの女剣客になってると思うぜ」
話はいちおう筋が通っている。ふざけているわけではないようだ。それでも伊都は、すぐには呑み込むことができなかった。
「もしわたしが、そこまでの腕前になれなかったら?」
「だったら、商いのほうを手伝ってもらうさ。おまえさんの頭が切れるのは、もうわかってるからな」
心惹かれる。
彼女はもう少しで、承諾の返事をしそうになった。
この人には、何かを感じる。惹きつけられる。信じてしまいたくなる。弱い女や子供を食い物にする、あの叔父やほかの男たちとはどこかが違うと思う。
直感に従え、と心の片隅で声がする。
だが反対側から別の声が〝運命の男〟と囁き、前へ踏み出しかけていた彼女を引き留めた。
この人がそうだろうか。でも〝運命の男〟はふたりいる。片方と出会えば望みがひとつだけ叶い、もう片方なら何も叶わない。
野術師の冬木はこう言っていた。「ひとりは刀を持っている。もうひとりは持っていない」と。刀を持たず、死を前にしても戦うことをしないこの人は、もし〝運命の男〟だとしても仇討ちを成就させてはくれないほうの人かもしれない。
ああ、またこんな——伊都はぎゅっと唇を噛んだ。
もう忘れると決めたのに、わたしを騙そうとしたお婆さんの占いなんか思い出して。でも……でも……。
つかの間、胸の中を吹き荒れた嵐が過ぎ去った時、伊都は鉄次を見上げて悄然と言った。
「ごめんなさい。やめておきます」
「そうかい。ま、縁がなかったってことだな」
彼の反応はあっさりしたものだった。あっさり済まなかったのは長五郎だ。
「ええーっ」
ずっと黙っていたが、話は聞いて理解もしていたらしく、彼はふいに不満の声を上げた。
「どうしてえ? 一緒においでよ。みんな優しいよ。加代ちゃんはおっかないけど、でも優しいよ。千太さんのご飯は旨いんだよ」
また泣き出しそうになっている。伊都は彼の手を捉まえ、きゅっと握った。
「ごめんね」
「一緒に来ればいいのに……」
つぶやく彼に、鉄次がうしろから声をかける。
「ぼちぼち行くぞ、長五郎」
「はあい」
元気のない返事をして彼が離れると、鉄次は伊都に近づいて袂に素早く何かを入れた。ほんの一瞬、きらめく金色が見えた気がする。
金銭だろうか。とんでもない。
「鉄次さん、こんな――」
「命を救われた対価としては安すぎるが、道中なんで、まあこのくらいで勘弁してくれ」
彼は微笑みながら言い、伊都があわてて袂を探っているあいだに、すっと身を引いた。
「それじゃあ、達者でな」
その言葉だけ残し、背を向けて歩き出す。長五郎は彼を追いながら、名残惜しそうに何度も振り返って手を振った。
ふたりの姿が、だんだん遠くなっていく。
街道の脇に佇んで見送りながら、伊都は言いようのないやるせなさを感じていた。
どうしてだろう。胸がつぶれそう。
彼らがついに峠道の向こうへ消えると、重いため息とともに涙がひと粒こぼれて落ちた。
聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/




