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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第五章 しのび寄る影
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五十三 丈夫国生明郷・黒葛寛貴 溟海の鬼

 板廊下を誰かが走っている。危急を知らせる使者だろうか。あるいは敵の襲撃か。しかし甲冑武者にしては足音が軽い。

 黒葛(つづら)寛貴(ひろたか)は床の中で、夢うつつにそんなことを考えていた。

 そうする間にも、足音はどんどん近づいてくる。(ふすま)を開ける音がして、短いやり取りが聞こえた。

 次の間には宿直(とのい)の者たちが控えているので、たとえ斬り込もうとしても容易には突破できない。しかし、彼らでも決して制止できない剛の者を、ひとりだけ知っている。

 口の(はた)でにやりと笑った時、寝間の襖が勢いよく引き開けられた。夜着の上で丸まっていた愛猫がフーッと唸り、弾かれたように部屋を飛び出して行く。入れ替わりに入ってきたのは、三歳の息子俊紀(としのり)だった。

「父上!」

 元気いっぱいに言い、全身で腹の上に飛び込んでくる。それを受け止め、ぎゅっと抱きしめてから、脇腹をくすぐってやった。

「こいつめ、おれの寝込みを襲いおったな」

 俊紀はひとしきり大笑いしてから、ちょっとあらたまって横に座り直し、畳に手をついて丁寧に頭を下げた。

「おはようございます」

 近ごろ彼は、こうした挨拶がきちんとできるようになった。それを両親の前で披露することを、どうやら楽しみのひとつにしているらしい。

 遅くに産まれたひと粒種なので、可愛さのあまり多少ひいき目に見ているかもしれないが、心身の発達具合は今のところ申し分ないように思えた。

「朝飯はまだか」

「はい」

 この返事も最近になって身につけたものだ。少し前まではすぐに「うん」が出て、そのたびに母の喜多(きた)に言い直させられていた。

「ととさま、かかさま」が「父上、母上」になったのも同じころだが、これは幼児言葉のほうが可愛らしくて好きだったので、武家ふうに改まったのを多少残念に思っていなくもない。

「今朝は何を食いたい?」

 訊くと、幼い息子は真剣な顔で考え込んだ。

「んん……卵焼き」

「ふむ。それから?」

「なっとじる」

「納豆汁か」

 寛貴は笑いながら体を起こした。すぐに小姓たちが身の回りの世話をしに入ってくる。

「奥へ戻って、それを食べさせてもらえ」

 寝床で髪を整えさせながら言うと、俊紀は大きな声で「はい!」と答えて、また風のように走り去っていった。横目でそれを見送りながら、小姓頭の日疋(ひびき)利真(としざね)が笑みをこぼす。

「日々活発になられますね」

「まだ小さいからいいが、そのうち手を焼くようになるだろうな」

「若君がおられると、その場がぱっと明るくなるようです」

 息子を良く言われると、ついでれでれと相好を崩しそうになるので気をつけなければならない。寛貴は努めて真顔を保ち、結髪の具合を手鏡でたしかめてから手水(ちょうず)に立った。

 ほどなく戻ると、いつも通り熱い茶が用意されている。それを口に運びながら、小姓のひとりが並べた衣装を見て思わず訊いた。

「今日、何がある」

 深閑とした古森を思わせる緑の刺繍小紋に、紗紬(しゃつむぎ)の薄羽織。菱地模様が織り出されたぼかし染めの袴。いつになく凝ったものを出してきているようだ。

「来客の予定でもあったかな」

「いえ、なかったと思います」利真が着替えを手伝いながら答える。「ただ、家老の重里(しげさと)さまから、今朝は隙のない出で立ちでお出ましいただくようにと」

「なんだ、謎めかしおって」

 柳浦(なぎうら)重里はほかの重臣たちと共に、中御座之間で朝食の相伴をすることになっている。おそらくそこで、納得のいく理由を聞かされるだろう。

 要請どおり一分の隙もない出で立ちで出て行くと、重臣たちはすでに居並んで寛貴を待っていた。今朝は筆頭家老の花巌(かざり)義孝(よしたか)をはじめとする五人の家老と、昨夜の宿直を務めた三人が相伴役だ。

 全員が平伏して迎える中、寛貴が上段の間に進んで腰を下ろすと、すぐに食膳が各々の前に運ばれてきた。

 今日の汁はシジミと豆腐の赤だし。煮物は南瓜(かぼちゃ)とインゲン。刺身はイサキ。〝なっとじる〟は、こちらには出ないようだ。

 息子の生真面目な表情を思い出し、小さく笑みをもらす。妻子と共に奥で和気あいあいと食事をとれたらと思うこともあるが、これも家臣らとの結束を強める大切な機会なのでないがしろにはできない。

「それで、おれを着飾らせたのはどういう趣向だ」

 食事をしながら訊くと、柳浦重里が朗らかに笑った。

「男ぶりがぐんと上がられ、思わず見惚れるほどです」

「世辞はよせ。何か急な予定でも入ったのか」

「はい」少し真面目な顔になってうなずく。「じつは昨夜半、沖合に快速船団がこつ然と姿を現し、みるみるうちに湊へ近づいてきました」

「海賊か? 哨戒船はどうした」

「出ておりましたので、すぐに進路をふさぎ、内海へ侵入する前に阻止しました。相手はいっさい逆らうことなく、こちらが指示するままに投錨した由」

 それから彼は少し間を置き、重々しい口調で言った。

「中央の大型帆船には、〈変わり四つ稲妻菱〉紋の幟旗(のぼりばた)が掲げられておるそうです」

 寛貴は一瞬、背筋に雷撃が走ったような衝撃をおぼえた。

百鬼(なきり)海賊――雷土(いかづち)家か」

 呻くように言うと、家臣一同が厳粛な面持ちでうなずく。

「まさか、丈州(じょうしゅう)を襲撃に来たわけではあるまいな」

 百鬼島を本領とする雷土家は、三百年ほど前までは〝百鬼海賊〟〝溟海(めいかい)の鬼〟などと呼ばれ、強力な武装船団を擁して広範な沿岸部と南海の島々を荒らし回っていた。今は西峽(せいかい)南部の名家のひとつに数えられており、海賊行為からは足を洗ったことになっている。

 とはいえそれは建前で、彼らが周辺海域を航行する船をしばしば襲っていることは周知の事実だった。聳城国(たかしろのくに)で一、二を争うという水軍の練度を下げないためには、そうした実戦が欠かせないと考えているらしい。

 らしい、としか言えないのは、雷土家は昔から他家とはほとんどつき合いをしないため、詳しい内情を知る者がいないからだ。

 その実体の見えづらさゆえに、百鬼海賊の恐ろしさは長年にわたり広く喧伝され続け、一種の神話的境地にまで至ったと言える。

 大陸南部の沿岸地域に育った者で、子供のころに母親から「そんな悪さをすると、百鬼海賊が来ておまえをさらっていくよ」と脅された経験のない者は皆無だろう。

 寛貴も、やはり母や乳母から同じように言われて育った。当時はそれを信じていたし、本気で怖がっていたのを覚えている。

 長じて弟が産まれると、よく兄の禎俊(さだとし)とふたりで代わるがわる海賊の怖い話をしてやったものだ。

 だが貴昭(たかあき)は幼いころから肝が太く、まったく怯えを見せないばかりか、兄たちのいたずら心を見抜いているようなところもあった。

「御屋形さまは先ごろ、雷土家に書状を送られましたな」

 花巌(かざり)義孝(よしたか)が静かに言った。

 彼はほっそりと背が高く、立ち歩く姿は白鷺のように優雅だが、内側にはどんな難局にもおよそ動じることのない鋼の精神を秘めている。この筆頭家老を寛貴は実の叔父さながらに敬い、絶大な信頼を寄せていた。

「その返事を届けに来た――ということのようです」

「わざわざ快速船団を仕立ててか」寛貴はあきれ声で言った。「あれから、まだ半月ほどしか経っておらぬ」

「書状を受け取るなり、間髪を入れず船出したのでしょう。誠意を見せると言えば聞こえはよいですが、実際は示威的な意味合いを含んでいるものと思われます」

「いかにも海賊らしい奇襲戦法だ」

 寛貴は残っていた味噌汁を飲み干し、椀を置きながら小姓に目くばせした。このあと茶菓が運ばれ、普段なら座はぐっとくだけた雰囲気になる。だが、今朝に限ってはそうもいかないようだ。

「それで、使者は? 誰が返事を持ってきた」

 問うと、座敷にぴんと張り詰めた空気が漲った。

 おっと――豪奢な衣装の下で、肌にじわりと汗が浮く。これは、よほどの相手が乗り込んできたに違いない。樹神(こだま)家との談合に当主の母親と妻が出張ってきた時にも驚かされたが、あれを上回るということか。

 いちおうの心構えをしたところで、再度訊いた。

「義孝、誰だ」

「雷土國康(くにやす)――雷土家の宗主本人にございます」

 二度目の雷撃に打たれた。さすがにこの事態は理解を越えている。

「くどいようだが、襲撃ではないのだな?」

 念を押さずにはいられなかった。

 前触れもなく大軍を率いて他国との国境(くにざかい)を越えれば、普通それは侵略行為と見なされる。快速船団は丈州の内海に近づいた時点で、すでに領海に侵入しているため、その気になればこちらから先制攻撃することもできた。

「襲撃ではありません」義孝が冷静に答える。「船団とは申しても、うち大船は二隻のみ。哨戒船の誘導に全船おとなしく従っておりますし、(あらた)め方の乗船も受け容れ、本船の内部を隅々まで見せたとのことです」

「武装はしていないのか」

「海上での有事に備える以上の、過剰な武装は見受けられなかったと報告がありました。引き連れている手勢も、漕手(そうしゅ)水夫(かこ)を別にすれば、ほんの八十人ほどとか」

 いくらなんでも、その人数で戦を仕掛けてくるとは思えない。公式訪問の随員としても、いささか少なく感じられるほどだ。

「戦いに来たわけではない――か」

 寛貴はつぶやき、小姓が捧げ持つ塗り盆の上の干菓子をつまんだ。

「先方はどう言っている?」

 義孝の薄い唇に、ちらりと微笑が覗く。

「〝一度会いたい〟と書状をもらったので、会いに来てみた。ご都合がつくようなら、ぜひ一献お誘いいただきたい。……國康公ご自身が、ほぼこの通りにおおせられた由」

 食えぬやつ。

 寛貴は心の中で思わず唸った。鬼の首領は、一筋縄ではいかない男のようだ。

 腹心の部下で竹馬の友でもある柳浦重里のほうを盗み見ると、彼もまたこっそりにやついている。

「重里、笑いごとか」

 ちくりと言うと、気心の知れた男がさらに笑みを広げた。

「御屋形さまとは存外、気の合いそうな御仁と思われます」

 そうかもしれないな、と思った。相手の意表を突く奇襲戦法が好きなところ。書状を受け取るや否や、即座に動く果断さ。似ている部分は多いようだ。

 それにこうして足を運んだということは、書状で匂わせておいた黒葛家との同盟に、多少なりとも興味があるということだろう。ならば、会って話をするのも(やぶさ)かではない。

 しかし現時点では、あまりにも相手のことを知らなすぎる。そんな状態での談合は、寛貴の好むところではなかった。

空閑(くが)の者から、何か知らせはないのか」

 訊きはしたものの、期待はしていなかった。案の定、重里が残念そうに首を振って見せる。

 間諜の(おさ)として黒葛家に仕えている空閑宗兵衛(そうべえ)は、雷土家が同盟先の候補に上った時点で、百鬼島に手の者を送り込んだはずだ。いずれ家族や家臣団の構成、領内の様子などについての詳細な報告が上がってくるだろう。だが、半月足らずでそれを求めるのは尚早というものだった。

「よく知らぬ相手との談合は気が重いな」

 寛貴は正直に言い、家臣たちを見渡した。

「鬼の首領について、何か聞き知っておらぬか。些細なことでもよい」

「年は四十一」義孝が言った。「以前、どこかで耳にした気がします。わたしと同年なので覚えていました」

「ほかには?」

 重里が少し考えてから口を開く。

「奥方が美女」

 思わず笑った寛貴につられて、ほかの者たちも笑みをこぼした。

「出入りの商人が、そのようなことを申しておりました。領民のあいだで評判だとか」

 彼は顎に手をやり、さらに記憶を探る様子を見せた。

「國康公はなかなか剣の腕が立ち、家臣にも武芸を奨励しておるそうです。これはたしか、十年ほど前に郡楽(ごうら)で行われた御前試合で、どこぞの剣客から聞いたことだったかと。名だたる武芸者を次々と城に招き、指南役を務めさせるようなこともしているという話でした」

「ふむ。嫡子は」

 これには別の者が答えた。

「お子はおふたり、と聞いた覚えがあります。といっても十数年前のことですが」

「ではその後、増えておるやもしれぬな」

 多少は見えてきたが、まだぼんやりした輪郭だけだ。あとの部分は、実際に会って確かめるほかないらしい。

 寛貴は心を決めた。

「船団は投錨地から動かすな」

 重里らが表情を引き締め、話に聞き入る。

「夕刻、船を仕立ててこちらから迎えに行く。先方の望み通り、ささやかな酒席を設けよう。ただし、城内に招くのは國康公と随員五人のみとする」

「そのほかの者は」

「城外の馬場か梅林あたりに篝火を焚き、天幕を張って酒を振る舞えばよかろう」

「船の守りに二十人ほど残るとしても、六十人あまりが上陸してくるわけですな」

 義孝が考え深げに言い、決然とうなずいた。

「すぐにも支度にかかりましょう」


 接待の場所として選んだのは、御殿中庭の外れに建てられた〈鶺鴒(せきれい)亭〉だった。十六畳敷きの一の間と八畳敷きの二の間のほかに、御膳所、水屋、茶室などを備えた瀟洒な茶亭だ。

 一の間の見どころは三代目菅野(かんの)颯琢(そうたく)の筆による『梅に鶺鴒』の襖絵で、これが亭名の由来となっている。

 二の間と茶室の間には()り水をめぐらせた中庭があり、夏は広い濡れ縁に出て涼を楽しむことができた。今の時期に使うにはもってこいの施設といえる。

 寛貴(ひろたか)雷土(いかづち)家の主従をまず一の間でもてなし、宴もたけなわとなったところで、雷土國康(くにやす)とふたりで二の間へ移った。ここからは主人は主人同士、家臣は家臣同士で気兼ねなく飲み交わす趣向だ。

 濡れ縁に置いた円座に胡座(あぐら)をかき、彼は初めてまっすぐに國康と向き合った。

 今夜は月がなく空も曇っているが、室内にも中庭にも行灯(あんどん)と蝋燭をふんだんに置かせているので、相手の顔ははっきりと見て取れる。

 雷土國康は、四十一歳という年齢よりもずっと若く見えた。頬骨も鼻も高く、精悍な顔つきをしており、海の男らしく肌はやや浅黒い。白髪の一本も混じらない黒々とした頭髪は、波のようにうねっている。

 鬼の首領は男前だ――寛貴はひそかに思い、小さく笑みをもらした。

「よい茶亭ですな」

 國康が言い、中庭のほうへ顔を向けた。

「遣り水に蛍が舞うとは、じつに風雅だ」

「この季節ならではです。さ、一献」

 盃に酒を差すと、國康はひと息にぐっと飲み干した。

「ご返杯」

 すかさず差し返してくれたのを、寛貴もするりと干した。あとは各々手酌でいくことにする。

「舟付場から城までの道筋――」蛍を目で追いながら、國康がつぶやくように言った。「篝火が焚かれ、提灯がずらりと飾られていたのには感服いたした」

「家老の花巌(かざり)義孝(よしたか)の発案です。お気に召されたか」

「夢のごとき美しさで、幻想の宮殿へと案内(あない)される心地でありました」

「あとで、そのように言うてやります。さぞ喜びましょう」

 言葉を交わしながら、寛貴は彼の穏やかで品のいい話しぶりに舌を巻いていた。もっと粗野か、そうでなくとも猛々しい人物だろうと想像していたのだ。

 しかし、そう思って油断すると、あとで寝首をかかれそうな気がしなくもない。

 物憂げな表情をしていても、彼の眼光には触れなば斬らんとする剣のような鋭さがあった。たとえ微睡(まどろ)んでいる時でも体の一部は常に目覚め、あらゆることに備えている男。そんな印象を受ける。

「書状をお送りしたものの、こうして()うていただけるとは思いもよりませなんだ。しかも、かように早くとは」

 國康がいたずらっぽく笑う。魅力的な笑顔だ。

「わしは思いついたら、すぐにやらねば気の済まぬ性分ゆえ」

 やはりおれと似ているな、と思う。

「このように、ご当主自ら他国へ出張って来られるのは、雷土家ではよくあることなのですか」

「いや、まさかに」

 盃に少し口をつけ、彼は上目づかいに寛貴を見た。

「しかし、黒葛家との談合ともなると、家来どもに任せておくのは、いささかもったいないように思えましてな」

「もったいない?」

「旨いものは話に聞くだけでなく、やはり己の舌で味わわねば」

「当家にご興味がおありか」

「黒葛家に興味のない武家などありましょうや」國康は肩を揺すり、含み笑いをもらした。「誰もが一度は考えるはず。南部最強と名高い()の家は、どれほど強いのか。(たたこ)うたら我が家は勝てるのか、と」

 本気の挑発でないことはわかっているが、せっかくなので乗ってみることにする。

「では試しに、ひと合戦いかがかな」

「望むところ」

「雷土家は勝てるとお思いか」

「勝てまする」

 即答し、少し間を置いてから國康は唇をにやりと歪めた。

「海ならば」

 これには思わず寛貴も笑ってしまった。

船軍(ふないくさ)は御免こうむりたい」

「黒葛家の水軍も、なかなかのものと聞き及ぶが」

「雷土家と渡り合えるほどなら、()うに百鬼(なきり)島まで版図を広げております。聳城国(たかしろのくに)広しといえども、いま御家と真っ向勝負ができるのは船明(ふなぎら)水軍ぐらいではありませぬか」

 宿敵の名に彼がどんな反応を示すか、見てやろうと思った。だが國康は眉を動かしすらしない。

「ま、西峽(せいかい)では船明、三廻部(みくるべ)……そのあたりでしょうかな。むろんのこと、黒葛家も」

 涼しい顔で言い、ゆったりとした仕草で盃を口へ運ぶ。

東峽(とうかい)なら歳州(さいしゅう)阿曾(あそ)氏。五百旗頭(いきおべ)島の朝霧(あさぎり)氏。たしかに、そう多くはない」

 それから彼は、ふいに核心を突いてきた。

「船明海賊どもに、何か悩まされておいでか」

 こちらも澄まして受け流したかったが、國康ほどうまく無表情を保てたとは思えなかった。おそらく顔のどこかに、ちらりと本音が覗いただろう。彼の鋭い目が、それを見逃したとは思えない。

「ふむ――」

 國康は何か考える風を見せてから、おもむろに口を開いた。

「遠回しなやり取りも愉快だが、ここは回りくどい話はやめて、はっきりと申し上げる。わしは貴殿から書状を受け取った時、これはついに黒葛家が大軍(おおいくさ)に打って出るのだなと思うたのです」

「大軍?」

「さよう。相手は守笹貫(かみささぬき)家か、でなければ天山(てんざん)であろうと。となれば、北へ向けて進軍を始める前に我が家と手を結び、背後を突かれぬ確証を得ておこうとするは必定」

 彼は少し身を乗り出し、射るような眼差しで寛貴を見据えた。

「さて、仮に黒葛家がどこかと戦するとしたら、果たして我が家は御家に(くみ)するや否や――いかが思われる」

〝黒葛家は、雷土家が味方につくと踏んでいるのか〟

 あまりにも率直な問いかけに面食らったが、躊躇して弱気と取られぬよう、すぐさま答えた。

「与する」断定的に言い、つけ加える。「条件次第にて」

 國康は目を細め、謎めいた微笑を浮かべた。

 我らと手を組む意志は、無きにしも(あら)ずというところか。寛貴はそう思い、酒瓶(しゅへい)を手に取りながら考えをめぐらせた。

 國康は、かなりいいところを()いている。

 彼が書状一通から明敏に見越した通り、黒葛家が守笹貫家との戦に乗り出す日は、もうそう遠くはない。そのために、長年敵同士だった永州(えいしゅう)樹神(こだま)家とも手を結んだ。

 しかしその同盟先はいま内紛の火種を抱えており、逆心ある次男清長(きよなが)の後ろ盾となった船明家が火を()けようと機を窺っている。

 だからこそ黒葛家としては、雷土家をこの同盟に是が非でも巻き込みたかった。

 欲しいのは、何よりもまず抑止力だ。樹神家のうしろに黒葛家がおり、さらにそのうしろに雷土家がいるとなれば、清長と船明家はそう易々とは永州に手を出せなくなる。

 端的に言えば、それだけで事は足りた。船明家とは、できれば戦わずにすませたい。

 だが、こちらのそんな思惑を、雷土家はどう受け取るだろうか。黒葛家と合力して宿敵を倒せないなら、彼らとしてはさほど同盟に旨味を感じられないだろう。

 雷土家をその気にさせたいなら、いずれ船明家との戦に与力する覚悟が必要だった。國康は必ず、同盟の条件のひとつにそれを挙げてくるはずだ。

「わしも、同じことを問うてもよろしいかな」

 沈黙を破って問いかけた寛貴を、國康が目顔で促す。

「今後、仮に雷土家がどこかと戦するとしたら、当家は御家に与すると思われますか」

 鬼の首領がうっすら笑い、迷いなく答えた。

「与する」

「そう断言なさる所以(ゆえん)は」

「互いに得することになるゆえ」

 やはりな。寛貴は内心で嘆息した。

 船明家との戦いに手を貸すなら、こちらも黒葛家に手を貸そう、あからさまにそう言われたようなものだ。

 気は進まないが、これはどうしても呑まざるを得ない。代わりに領土の割譲などを申し出ても、雷土家は一蹴するだろう。

 とはいえ、今は腹の探り合いをしているだけなので、結論を出す必要はなかった。同盟を結ぶことになるとしても、それはここで聞いたことを持ち帰り、それぞれの重臣たちと評議を尽くした上でのことだ。

 どっと疲れを感じながら、寛貴は話題を変えることにした。夜も更けてきたので、もっと気楽な話をしてから切り上げたい。

「ところで、お留守のあいだの城の守りはどなたが?」

「せがれの利國(としくに)が」國康は静かに言い、酒を口に含んだ。「年が明ければ二十歳(はたち)になるので、少しずつ城主としての役割を学ばせておるところです」

「頼もしい跡取りがおられて、けっこうですな」

「貴殿のお子は?」

俊紀(としのり)と申すせがれがひとり。まだ三歳です」

「かわいい盛りの年ごろだ。利國は幼いころは病弱で、何かと手がかかりました。あまりに弱々しいので、これではとうてい雷土家の宗主にはなれまいと思うたものです」

「さぞご心配をなさったことでしょう」

「次に産まれた國弘(くにひろ)が、打って変わって健康な腕白小僧であったので、利國を廃嫡にしてこれを嫡子に据えるべきかとも一時は考えました。しかし……次男は……」

 初めて國康が言葉に詰まった。沈痛というより、むしろ苦々しい面持ちをしている。

 子を、亡くしたのか――寛貴はすぐに察し、愕然となった。

 同じ親として、我が子を(うしな)うつらさは想像に(かた)くない。まして嫡子にと期待をかけたほどの子ならばなおさらだ。

 何と言葉をかけるべきか悩んでいるあいだに、國康は気を取り直して明るい表情を見せた。

「とはいえ、元服したころから利國はずいぶん丈夫になりました。もはや我が跡を継がせることに不安はありませぬ」

「それは重畳」

「いま気がかりなのは、十五になった長女沙帆(さほ)のことでしてな」

「おお、姫御もおありでしたか」

「もう年ごろゆえ、そろそろ縁組み先を見つけねばと」

「たしかに」

 うなずきながら、寛貴はみぞおちのあたりがざわざわするのを感じた。もしやこれは、黒葛家と縁組みをしたいというほのめかしだろうか。

 しかし、誰とだ?

 俊紀とは年齢的に釣り合いが悪いし、そうでなくとも、息子は先ごろ樹神家の息女と秘密裏に婚約したばかりだ。もし破棄などすれば、あちらとの同盟が頓挫してしまう。

 宗家の嫡男貴昌(たかまさ)なら七歳なので、可能性としてなくはないとも思うが、彼は天山での人質奉公がいつ明けるともしれぬ身の上だ。十五歳の娘の婚姻相手としては、なおふさわしくないだろう。

 めまぐるしく考えていると、國康はあまりにも意外な名を持ち出して寛貴を仰天させた。

「著名な黒葛三兄弟の末――ご尊名はたしか、貴昭(たかあき)どのであったかな。弟御は、貴殿とは年がひと回りほど違うとか」

 なに、貴昭だと?

 唖然となったが、答えないわけにはいかない。

「離れて産まれた末弟で、二十一になります」

「ふむ、お若い。それでいて聡明であり、かつ武芸にも秀でるとの噂を耳にしております」

「我が弟ながら、なかなかの傑物と感ずることもあります」寛貴は慎重に言った。「臣民はもちろんのこと、妻子に対してもまことに愛情深く……」

 敢えて〝妻子〟を強調した。しかし國康は気に留める様子もない。

「そのような人物に、ぜひとも我が娘の行く末を委ねたいものだ」

 くそ、はっきり言われてしまった。(ほぞ)を噛みながら、急いで口を開く。

「しかし、貴昭にはすでに正室があり、嫡男も誕生しております」

「奥方はどちらの家のかたで?」

「支族の石動(いするぎ)家の者で、貴昭自身が見初(みそ)め、ぜひにと望んで(めと)りました」

「ほう、支族の。それならば何ら問題はござるまい。側室として、これまで通りお側に置かれればよいでしょう」

 かっと体が熱くなった。好き勝手を言うにもほどがある。だが正論であり、反駁する余地はほとんどなかった。こういうことは、政略第一の武家の結婚ではよくある話だ。

 複雑な心境の彼をよそに、國康はあくまで悠然と構えている。

「この縁組みが相調(あいととの)えば、両家ともに益するところは大きいはず。なにとぞ、よくよくご検討願いたい」

 溟海(めいかい)の鬼が微笑し、寛貴はその口元に確かに牙を見たと思った。

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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