五十一 王生国天山・石動元博 告げ口
一目瞭然の悪事を働く者を糾弾するのは簡単だ。だが、それが悪事かどうか、一見して判別できない場合は対応が難しい。
だから石動元博は悩んでいた。
悩みの種は朋輩の玉県吉綱だ。元博は先日、彼が桔流屋敷の外で桔流家の家人椹木彰久とこっそり会っているところを目撃していた。
こっそり、とまで言うといささか穿ちすぎかもしれない。だが屋敷内でいつでも会えるのに、わざわざ外で会っていたところに違和感をおぼえずにはいられなかった。あんな風に人目を忍ぶのは、何か疚しいことがあるからではないかと思う。
だが、みだりに仲間を疑いたくはなかった。同じ黒葛家の支族で、共に命懸けの人質奉公をしている間柄だ。彼の行動には、何か正当な理由があったのだと思いたい。
どう対応するか決断する前に、とりあえず吉綱のことをもっと知らなければならないと気づいた元博は、あれからずっと彼の様子をそれとなく観察し続けていた。
そもそも、ふた月あまりも一緒にいるのに、ろくに会話すらしたことがないというのもおかしな話だ。ほかの同輩――真栄城忠資や柳浦重晴、朴木直祐、由解宣親とは、すでに兄弟さながらの交誼を結んでいるというのに。
しかし吉綱とのつき合いが浅いのは、元博に限ったことではなかった。件の人物は天山に向かって旅をしていた当初から誰とも積極的には交わろうとせず、今になってもそれはまったく変わっていない。
任された仕事は黙々とこなすが、それ以外の時に彼が何をしているのか、ほかの者は誰も把握していなかった。
元博が見たところ、たいていは自室にこもっている。それはたしかだ。だが、部屋で何かしているのかというと、実は特に何もしていない。
自分でもやや持て余し気味の肥体を畳の上に長々と伸ばして休息を取っているか、縁側に出て見るともなく庭を眺めるのが、彼の私的な活動の大半を占めていた。しかし、そんなものがはたして活動といえるだろうか。
なぜ彼は、「退屈で死にそうだ!」と叫び出したくならないのだろう。若君のお相手や警護のほかに、学文、剣術の稽古、畑作りの手伝いなどをして、しばしば祭堂にも通っている自分ですら刺激が足りず、変化のない日々に半ば飽き飽きしているというのに。
人質奉公というのはその実、退屈奉公にほかならないのだ。
仲間とのつき合いは、今のところ無聊を紛らわすほぼ唯一の手段といえた。しかし吉綱だけは、それをまったく求めていないように見える。
決して無愛想ではない。内気なわけでもない。話しかけられれば返事はする。だが自分からは話しかけない。どんな時も常に目立たず、出過ぎずを貫いている。まるで自分の存在を、敢えて消そうと努めているかのようだ。
そんな彼が他家の家人と外で会っていたというのは、思えば一大変事と言っても過言ではないのではないだろうか。
誰かに打ち明けるべきか――とは何度も考えた。随員長黒葛禎貴へのご注進となると大ごとになりかねないので、忠資か重晴に。あるいは、もっとも腹蔵なく話ができる直祐に。
しかし心のどこかに、それは告げ口ではないのかと問う声がある。
「元博さま」
横から声をかけられ、元博ははっと我に返った。従者の小酒部孫六が、心配そうに顔を覗き込んでいる。書きかけの手紙を前にしたまま、いつの間にか考え事に没入してしまっていた。
「白湯でもお持ちしましょうか」
細やかに気づかってくるところをみると、よほど難しい顔をしていたのだろう。
「いや、いい」
すっかり毛先が乾いてしまった筆を置き、元博は文机に片肘をついた。手のひらに顎を載せ、横目に孫六を見る。
「悩んでいるんだ」
「兄君さまへのお文の文面を、ですか」
「違う。別のことだ」思わずため息が出た。「玉県吉綱どのを、どう思う」
突拍子もないことを訊かれた孫六が、心持ち釣り上がった細い目を白黒させる。
「玉県……吉綱さまですか。ええと、あの――たいそう大柄な」
一介の従者としては、そのへんが無礼にならない精一杯の表現だろう。まさか〝百貫でぶ〟などと言うわけにもいかない。
「そう、その吉綱どのだ」
「どう思うも何も、ごくまれにお姿をお見かけする程度ですから」
「そうだよな」
「あのおかたが、何か?」
「ちょっと気になることがあって……」言いさして、口ごもる。直祐たちにも打ち明けていないことを、軽々しく孫六に言えるはずもない。「この前あの人が、あることをしているところを偶然見かけたんだ」
「はあ」
孫六がよく呑み込めないという顔で、曖昧に相槌を打つ。
「お見過ごしになれないほどの、不埒な行いだったのですか」
「そうとも言えない。正直よくわからないんだ。わたしは単に、小さな事を大げさに捉えすぎているだけかもしれない」
「しかし、気になっておられるのでしょう?」
「うん」
孫六は少し考えてから、遠慮がちに言った。
「では、なぜそれをなさっていたのか、直接ご本人に訊ねてみられては」
元博は口をつぐみ、彼をじっと見つめた。
なるほど。たしかにその通りだ。これまで、誰かに相談すべきだろうかということばかり考えていて、本人に訊くというところにはなぜか思い至らなかった。
訊ねられて動揺したり、おかしな言い訳をするようなら問題は深刻と言える。そうなったら、今度こそ思い切って誰かに話してみればいい。
「うん――そうだな」
少しすっきりした気持ちで、元博は孫六に微笑みかけた。
「ふたりになれる時を見計らって、話を聞いてみる」
午後は暑くなった。天山にも遅れに遅れて、ようやく夏がやって来たようだ。しかし気持ちよく汗をかける日々はたいして続かず、すぐに冷涼な短い秋が訪れ、さらに畳みかけるようにして長く厳しい冬が来ると聞いている。
元博が書き上げたばかりの手紙二通に封をしていると、黒葛貴昌が顔を覗かせて「一緒におやつを食べよう」と誘った。彼は慶城二の曲輪御殿での午餐に招かれ、つい先ほど戻って来たばかりだ。大皇妃からの正式な招待で初めて二の曲輪御殿に足を踏み入れたので、まだ少し興奮しているように見える。
居間の縁側にふたり並んで腰を下ろし、夏風にさやさやと音を立てる竹林を眺めながら、白砂糖をふった白玉を食べた。井戸水でよく冷やされており、喉を滑り落ちる感触が心地いい。
「午餐はいかがでしたか」
問いかけると、少年の顔に太陽よりも眩しい笑みが浮かんだ。
「とても楽しかった。真名さまが、御殿の猫たちを見せてくださったんだ」
供されたご馳走よりも、猫のほうが印象的だったらしい。あまりに嬉しそうなので、元博も思わず笑みがこぼれた。
「それから、姫君にもお会いした。まだお小さいから、お話はできなかったけど」
「えっ……亜矢姫――ではないですよね?」
「うん、沙弥姫。わたしも知らなかったけど、妹姫がいらっしゃったんだ。いま二歳だって」
「そうでしたか。てっきり、お子さまはおひとりかと」
「かわいい姫君だった。目元が真名さまにそっくりなんだ」
では姉妹は似ていないのだな、と元博は思った。亜矢姫は母親ではなく、父親の三廻部勝元の容貌を強く受け継いでいる。決して醜いわけではないが、少女にしては厳つく、いささか可愛げに欠ける顔立ちといえた。
一方、天山の宝玉と讃えられる大皇妃に似ているのなら、沙弥姫のほうはさぞ愛らしいことだろう。
「二歳というと、おいとこの貴之君と同い年ですね」
「貴之はどんな顔かなあ。父上の貴昭叔父にはお会いしたことがあるけど、似ているんだろうか。――そういえば、貴之の母上は元博の姉上だっけ」
「はい、おっしゃるとおりです」
「姉上はおきれいか?」
元博は姉の真木の顔を思い浮かべようとした。九歳まで一緒に暮らしていたが、黒葛家への輿入れ以来ずっと会っていない。すでにその面影は、かなりぼんやりしたものになっている。
「きれい……だったようには思いますが、すみません、あまりよく覚えていません。もう四年以上も顔を合わせていないので」
「わたしもずっと会わなかったら、父上のお顔を忘れてしまうのかな」
少年の小さなつぶやきに、はっと胸を衝かれた。
「もし忘れそうになったら、ご自身を鏡でご覧になればいいのですよ。若君のお顔立ちは、お父上の禎俊公によく似ておられますから」
「そうかな」
元博の言葉は彼を喜ばせたようだった。形のいい唇に、少し照れたような微笑が浮かんでいる。
「あ、顔で思い出した」
白玉を口に運びかけていた貴昌が、ふと動きを止めた。
「二の曲輪御殿で、びっくりする人に会ったんだ」
ちょっと謎めかして言い、わざと焦らすように間を置く。元博は少し身を乗り出して訊いた。
「どなたです?」
「絵師の隗洸。去年の夏に、郡楽城の大広間の襖絵を描き替えたんだ。まさかここで、また会うなんて思わなかった」
元博は天山へ旅立つ前に、郡楽城麓御殿の大広間で元服式に臨んだ。その時に見た襖絵のことは、まだうっすらと覚えている。西側の十六面は老松に孔雀、東の十六面は竹林に虎だった。
「あれは見事でしたね。とても華やかな色使いで、慶城の大広間への通路で拝見した金碧障壁画にも劣らない出来映えだったと思います」
「その通路の絵も、隗洸が描いたんだって。今年のはじめに天山へ来て、それからずっと慶城のあちこちの絵を描き替えてると言っていた」
「そうでしたか。でも、なぜ顔の話でその人のことを思い出されたのです?」
「思い出したのは隗洸の弟子の仙吉。人の顔を描くのが、すごくうまいんだ」
貴昌の説明によると、仙吉は薄墨と濃墨だけを使って、誰が見てもその人だとわかるほどそっくりに似顔絵を描くのだという。役者絵のように派手な色を使ったり、特徴を誇張して描いたりするのではなく、見たままを余さず写し取る独特の画法らしい。
師匠の手伝いが暇になると、彼は郡楽城内の人々の顔を片っ端から描いて回り、ちょっとした評判になっていたそうだ。
「父上も、わたしも描いてもらった。自分ではわからなかったけど、みんなはそっくりだって」
「へええ、すごいですねえ」元博は感心しきりで唸った。絵心などまるでないが、そこまで似ているという絵像をぜひ見てみたいものだ。「そのふたりは、まだしばらく天山にいるのでしょうか?」
「これから描く絵がたくさんあって、たぶん冬までかかるだろうと言っていた」
その時、元博の頭にいい考えが浮かんだ。
「仙吉というその弟子に、禎俊公のお顔を描いてもらうのはいかがですか。まだ記憶に残っているかもしれませんよ」
貴昌の目がたちまち輝き出す。
「そうだ。そうしよう」声を弾ませて、少年は何度もうなずいた。「描いた絵を欲しがる人にはあげるけど、あとで思い出しながら同じものをまた描くのだと言っていた。一度描いた顔は絶対に忘れないんだって。だから、きっと父上のお顔も覚えていると思う」
「じゃあ、次に会ったら頼んでみましょう。楽しみですね」
元博は、父の顔を忘れたくないという、貴昌のいじらしい願いが叶えられることを祈った。
人質生活は長引く可能性が大きい。わかっていたつもりだったが、最近になってやっと本当の意味で身にしみてきた。天山と黒葛家の関係次第では、五年、十年という長丁場になってもおかしくはない気がする。まだ年少の貴昌がそれに耐えられるよう、できる限りの手助けをしたかった。
「元博も描いてもらうといい」
貴昌がほがらかに言い、自分の思いつきに満足げな顔をした。
「それで、そっくりに描けたら、故郷の母上にお送りするんだ」
「母に……ですか?」
「ぜったい寂しがっておられるから、似顔絵が届いたらきっとお喜びになる。わたしも、今の顔を描いてもらって父上にお送りしよう。直祐や宣親や――ほかのみんなも!」
「それはいいですね」
はしゃぐ貴昌に調子を合わせてにっこりする。
「では正式に依頼しましょう。たぶん、椹木彰久どのにご相談すれば、段取りしてくれると思います」
その時、床板をみしみしと踏み鳴らして、玉県吉綱が鈍重そうな姿を現した。
「若君」何歩か歩いただけで、もう軽く息を切らしている。「家老の國房どのから、一局いかがですかとのお誘いがありました。外で直祐どのが、主屋の使いと一緒にお待ちしています」
「わかった。行こう」
貴昌は腰を上げ、あとに続く元博を見上げた。
「さっきのこと、頼む」
「お任せください」
元気な足取りで出て行く貴昌を玄関で見送ったあと、ふいに元博は自分が吉綱とふたりきりでいることに気づいた。めったにないことで、話をするには絶好の機会だ。だが、吉綱は大役を果たしたような疲労感をにじませ、さっさと自室へ引き揚げようとしている。
「吉綱どの」
急いで呼び止めると、彼は踏み出しかけた足を下ろしてから、のろのろと振り向いた。
「なにかな」
「少し、お話しできませんか。お部屋へ伺っても?」
「うむ。かまわぬ――が」
かまわぬと言いつつも、目が警戒しているように見える。いや、それはこちらに先入観があるせいだろうか。
「じゃあ、ちょっとお邪魔します」
やや強引に、元博は彼の部屋へ入り込んだ。〈賞月邸〉北側の八畳間で、随員の中ではもっとも広い部屋を割り当てられている。おそらく、彼の体型に配慮してのことだろう。それでもふたり同時に室内にいると、なんとなく狭苦しく感じられた。
畳に腰を下ろした吉綱は手拭いを取り出し、しきりに汗をぬぐっている。このところの陽気が彼の体にはこたえるようだ。
「すみません、急に押しかけて」
「いや、なに」
そのあと、しばし沈黙が落ちた。話のきっかけを掴むのが難しい。
こういう時、次兄の博武ならさりげない会話から始めて相手をうまく調子に乗せ、言うつもりのなかったことまでいつしか喋らせてしまう。だが残念ながら、自分はそんな巧みな話術は持ち合わせていない。
元博は少し迷ったが、結局、単刀直入に切り出すことにした。
「実は先日、外で椹木彰久どのと会われているところをお見かけしました」
金柑でも押し込まれたように、吉綱がぽかんと口を開ける。まさかこんな話をされるとは、予想もしていなかったらしい。
「外で……」
「はい。曲輪の西の〝空中露台〟で」
とたんに、彼の様子が変わった。酔った月のような丸い赤ら顔が、普段よりもさらに赤みを増す。呼吸が荒くなり、鼻の頭に脂汗が浮いた。
「なんと――では……その、は、話の中身を……?」
声が上ずり、しどろもどろだ。この人物が落ち着きをなくすところを、元博は初めて見た気がした。やはり何か、聞かれるとまずいことを話し合っていたのだろうか。
「盗み聞きをしたわけではありません。あそこにおふたりがいらしたのを、たまたま目にしただけのことです」
実際は、ふたりが一緒にいるところは見ていない。だが、これぐらいの嘘は許されるだろう。
「ですが、なぜ屋敷内ではなく外で会われていたのか、どうしても気になって仕方がありません」
元博は表情を引き締め、ずいと膝を進めた。吉綱の顔を間近から上目づかいに覗き込む。
「この件を禎貴さまにお話しすべきかどうか、ずいぶん迷ったのですが――」
語尾をぼかし、その先を宙に漂わせると、吉綱は動揺も露わに前にのめった。
「ま、待て。いかん。それは困る」
巨大な両手で、すがるように元博の手をぎゅっと掴む。彼の手のひらは肉厚で、剣だこもない皮膚は女のようになめらかだった。
「禎貴さまには内密に。ぜひ……ぜひとも」
必死の面持ちで言いつのる彼を前に、元博はほとほと困り果てた。今のあわてぶりは、隠れて悪さをしていると白状したも同然だ。なのに、それを随員長には話すなと言う。しかしこれを黙っていることは忠義にもとるのではないだろうか。
「教えてください」
だいぶ考えてから、元博は静かに言った。同時に、彼の両手の拘束から我が手を解き放つ。それは汗でべとべとになっていて、内心うへえと思ったが、顔は努めて平静を保った。
「彰久どのと、何をされていたのですか」
吉綱が懇願するような目をしたが、彼は情け心を出さなかった。口をつぐみ、表情を変えず、じっと答えを待つ。
やがて吉綱が根負けした。
「……話そう。だが、禎貴さまにはもらさぬと約束して欲しい。わたしの恥になることゆえ」
「すみません、お約束はできません」敢えて厳然と言った。「もし、若君にわずかでも危害の及ぶようなことでしたら、禎貴さまにお話ししないわけにはいきません」
「まさか。そんな」
吉綱は衝撃を受けた様子で、ぶるぶると頭を振った。厚い皺になった首の肉が、その動きにつれてもったり揺れている。
「めっそうもない。危害などと……。断じて、そのようなことではないと誓う」
「それが真実であれば、人にはもらしません」
言質を取ったことで少し安心したのか、吉綱は肩の力を抜いた。風船から空気が抜けるように、しゅうっと体が一回りしぼむ。
「実は、彰久どのに、あるものを調達してもらおうと――そら、彼はいつも、何かと我々に便宜を図ってくれるだろう」
「あるものとは?」
いったん話し始めておきながら、核心に迫ると吉綱はまた口が重くなった。
「つまらぬものなのだ。ただの……嗜好品で、聞けばおぬしは〝そんなもの〟と思うに違いない」
「聞かせてください」
あくまで追及の手をゆるめない元博に、彼は恨めしそうな目を向けた。だが逃げられないと悟り、しぶしぶ言葉を続ける。
「わたしには必要なのだ。その――女が」
一瞬、聞き違いかと思った。だが、たしかに彼はそう言ったようだ。
「お、ん、な……ですか」
唖然としながら訊き返すと、吉綱は耳まで真っ赤になってうなずいた。
「それも好みにひと癖あって、素人ではなく玄人――つまり特殊な……技巧に長けているということだが――そういう女でなければならないのだ。国元にいたころは好きな時に娼楼へ通うことができたが、ここではそうもいかぬ。春を売る女たちが集まっている下層の曲輪には、我らは下りていくことを許されておらぬゆえ」
彼の舌が滑らかになってくると、逆に元博は言葉に詰まってしまった。あまり詳細に話されると、聞いているこちらのほうがきまりが悪い。
「そこで彰久どのに相談してみようと思った。わたしが下りられぬなら、女のほうをこっそりここまで上げられぬものかと。それから、人目をはばからずに遊べる場所も要る。まさか〈賞月邸〉で事に及ぶわけにもいかぬだろう」
ひととおり話してから、彼は伏し目がちに元博の表情を窺った。
「まだ若いおぬしは、わたしを軽蔑するだろうな」
「いえ、そんな、軽蔑など」元博はあわてて言った。今は自分の顔も赤くなっているのがわかる。「わたしも男ですから、理解できます。あの――必要だということは」
「しかし人質奉公に来ている身で、玄人女と遊びたいなどというのは、あまり大きな声で言えることではない。少なくとも、禎貴さまや若君のお耳には決して入れたくない話だ」
「なるほど……」
「万が一にもそういうことにならぬよう、彰久どのを屋敷の外に呼び出した。これで、わかってもらえたろうか?」
たしかにわかった。外でこっそり会っていた理由。なぜ密会の相手が椹木彰久だったのか。今の話で、すべて説明はつく。
しかし、まだ何か引っかかるものがあった。小さいけれども無視できない異物感。指先の皮膚に潜り込んだ棘のようだ。抜こうとしてもうまく取り出せず、時が経つと見失ってしまう。
なんともすっきりしない気分だが、だからといってこれ以上しつこく食い下がるわけにもいかない。
「よくわかりました。打ち明けてくださって、ありがとうございます」
元博は膝に手をつき、軽く頭を下げた。
「若輩の身でぶしつけな真似をして、申し訳ありませんでした」
「いや、いいのだ。おぬしは役目がら、すべきことをしたまで。すべては若君とお家のことを第一に思えばこそだ」
「はい」
「くれぐれもこのこと、禎貴さまには……」
「お約束は守ります」
そう。約束してしまったのだ。異物感がどうのという曖昧な理由で、それを違えることなどできない。相手は敵ではなく、同じ家中の仲間なのだから。
元博は気持ちを切り替え、さっと腰を上げた。
「お邪魔しました」
挨拶をして吉綱の部屋を出ると、まっすぐ自室に戻った。まだ少し顔が火照っている気がする。
彼は庭向きの障子を開け、文机に向かって腰を下ろすと、ほの温い頬を手のひらで支えて大きくため息をついた。
嗜好品などと言うから菓子か刻み煙草あたりかと思えば、まさか〝女〟とは。だが何にも興味がなさそうな彼にも、とりあえずひとつは耽溺するものがあったのだと知って、ややほっとした部分もなくはない。
同時に、元服したとはいえまだ子供の自分には立ち入りがたい大人の領分を持ち出して、体良く丸め込まれたようにも感じている。
憮然として考え込んでいると、何かが腰のあたりをなでた。見ると、若君の猫がいつの間にか傍に来て、長い尻尾をからめている。
「雪」
名を呼んで膝に抱くと、その白い仔猫はすぐに甘えて喉をごろごろ鳴らし始めた。耳のうしろを指で搔いてやると、もっともっとと言うように頭を押しつけてくる。
「なあ雪、どう思う?」
小声で訊くと、猫は片眼で元博を見上げた。
「ちょっとしくじったかなあ」
むろん、それに対する返答はない。
手のひらに触れる生き物の温柔な感触は心をほぐしてくれたが、片隅に残った小さなしこりを消し去ってはくれなかった。
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