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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第四章 別れゆく夏
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四十六 天勝国東部・伊都 野術師

 丈高い草むらに身を隠し、息を殺してじっと待つ。微風に揺れる雑草の向こうで、いくつかの茶色い塊が動いていた。そのひとつに狙いをつけたまま、矢を射る間合いをはかる。

 すぐにも放ちたい衝動に抗いながら、伊都(いと)はまじろぎもせずに獲物を見つめ続けた。目を(すが)め、首をわずかに傾げ、狙う相手だけに意識を集中する。

 ふと、風がやんだ。

 (ひえ)のような穂をつけた雑草の動きがぴたりと止まり、何本もの太柱のように直立する。その瞬間を逃さず、矢尻を握っていた指をそっと開いた。

 ひゅっと音を立てて一直線に矢が飛び、地面にいた鳥たちが一斉にぱっと飛び立つ。

 頭では失敗したと思ったが、体の感覚は〝当たった〟と告げていた。こういう場合、たいていは後者のほうが正しい。

 彼女は大きく息を吐き出して身を起こし、草をかき分けながら前に進み出た。すぐ近くから、弱々しい羽ばたきが聞こえてくる。鳥はまだ生きているらしい。

 さざ波のように揺れる雑草の根元を探すうちに、茶褐色の塊が転がっているのを見つけた。伊都が放った矢は、黒っぽい模様のある右の翼の付け根あたりを貫いている。重い傷は負っていないが、絶妙な位置に当たった矢の重さと長さが邪魔になって飛び立てない様子だ。

 彼女が近づくと、鳥は激しく翼を打ち鳴らし、草の中に逃げ込もうとした。その前に追いついて、うしろから両手でしっかりと翼を掴む。少しも痛手を感じていない様子の鳥は、すかさず(くちばし)で攻撃しようとした。

 人間が腕の付け根を射られたら、きっと痛くて動けない――そんな思いが頭をよぎる。

 野生の生き物の頑強さに感心しながら、伊都は鳥を地面に押さえつけて片手で首の根元を握った。動かないようしっかりと体重をかけ、帯に差していた山刀を右手で抜き、狙いを定めて一気に刃を振り下ろす。

 頭と胴が離れても、鳥はまだ手の中で暴れていた。うっかり力を緩めたら、立ち上がって走り出しそうだ。しかしそれも、切り口から噴出する血が止まるころには弱まり、やがてぴくりとも動かなくなった。

 周辺からむしり取った草で山刀についたわずかな血をぬぐい、元どおり帯に差してから、彼女は膝を伸ばして立ち上がった。獲物の両足を掴んでぶら下げ、片手で羽根を引き抜きながら歩いて行く。

 このところ、劇的に弓の腕前が上がったのを感じていた。いや、実際に上達したのは、警戒心の強い生き物に忍び寄る技術のほうだろうか。どちらにしろ、飽くことなく繰り返している失敗という名の修練の賜物であることは間違いない。

 しばらくすると、獲物の重さで腕が疲れてきたのを感じ、彼女は歩きながら反対側の手にそれを移した。今いるのは川を見下ろす小高い丘で、緩い傾斜を下りきった先には小さな林が見える。陽が落ちる前にその端まで行き着き、夜に備えるつもりだった。

 早めに焚き火をして、この鳥をじっくり焼こう。そう思うと、思わず口元がほころんだ。今夜はひさびさに、ご馳走にありつけそうだ。


 地面に落ちた影が長く伸びるころ、伊都は目指していた場所に辿り着き、それが林というよりは木立と呼ぶべきものだったことを知った。まばらに生えた木々はどれも同じ種類のようで、幹からも葉からも清々しい芳香を放っている。

 いいにおい――彼女は深く呼吸しながら、うっとりと目を細めた。

 ひと息ごとに胸の中を洗い清められるように感じながら、幅わずか半町ほどの木立を足取りも軽く通り抜ける。その先には、きれいな水を(たた)えた静謐な泉があった。野宿をするにはもってこいの場所だ。

 伊都はさっそく焚きつけ用の枯れ草や枝を集めてきて、泉のほとりに積み上げた。それから水辺で大きめの岩を見つけ、その上で鳥の解体にかかる。といっても、単に腹を裂いて内臓を取り出し、内側を洗ってから半分に断ち割るだけだ。

 おそらく内臓も食べられるはずだが、すべて食べていいのかどうか判断がつかないので、もったいない気もするが捨ててしまうことにする。

 作業が終わると、使った山刀を水ですすぎ、丁寧にぬぐって鞘にしまった。柄も鞘も素朴な木造で、短く太い刃は不格好だが、それでも刀の端くれには違いない。切望叶ってようやく手に入れた武器――弓よりももっとたしかなもの――なので、大事にしなければならなかった。やや手に余る重さだが、使っているうちに慣れてくるだろう。

 伊都はあの〝河原者〟の家から、いくつかの物を持ち出してきていた。塩壺。手ぬぐい。竹細工の魚籠(びく)。木椀。この山刀もそのひとつだ。

 持ってくるものは慎重に選び、その数は彼が自分を殴り、蹴り、(なぶ)って楽しんだのと同じ数だけと決めて厳密に守った。盗んだのではなく、楽しみを与えた報酬として譲り受けたのだ。そう思うことで、罪悪感が多少は薄まった気がする。

 山刀は、あの鼻が曲がるほど臭い作業小屋の中で見つけた。家にあった庖丁はぞんざいに扱っていたらしく欠けや錆が目立ったが、仕事道具のこちらはさすがに手入れが行き届いている。刃は軽く当てただけで皮膚が切れるほどに研ぎ上げられていた。

 木椀はかなり古びていたが、何かを(すく)い、持ち運びたい時に重宝している。色褪せた幅広の手ぬぐいは汗止めの鉢巻きにも、日差しよけの頬かむりにもなるので便利だった。塩はもっぱら、焼いた魚や肉の味つけに使っている。

 そうした持ち物を魚籠に入れて腰にぶら下げ、半弓を肩に負い、帯に山刀をたばさんだ姿は、人の目には猟師か山賊の娘のように映るだろう。奇異な印象を与えるに違いないが、それでも物乞いと思われるよりはましな気がする。

 浅い穴を掘って鳥の内臓を埋め、(おこ)した火に串刺しの肉をかざしたころには、もう日は西に沈みかかっていた。立ち上がってあたりを見回し、念のために先ほど通り抜けた林の向こうにも目を凝らしたが、とりあえず動くものは何も見えない。

 確認を終えると、伊都は着物を脱ぎ捨てて泉に飛び込んだ。真ん中は深そうなので、端の浅いところを選んでゆっくりと泳ぐ。昼間の太陽にさんざん焙られた体から、汗のべとつきが溶け流れていくのを感じるのは気持ちがよかった。

 息を止めて少し潜り、水中で頭を掻き回してから顔を出すと、短い髪の汚れもすっかり落ちている。そのまま仰向けになって水面に浮かび、彼女は夕空をぼんやりと眺めた。

 透き通るような淡い紫色を背景に、紅蓮に染まった雲の波がくっきりと浮かび上がっている。黒い影になった山の稜線にかかるあたりは、今まさに沈もうとしている入り日を浴びて金色に輝いていた。

「きれい……」

 思わずもらしたつぶやきが呼び寄せたかのように、一陣の風が吹いて水面を小さく波立たせた。木々がざわざわと音を立て、ずっと聞こえていた蝉の声がぴたりと止まる。伊都は頭を少し上げ、周囲の様子を窺った。

 何もない――誰もいない。

 そう確認できたにもかかわらず、急に落ち着かない気分になった。先ほどまで心地よかった清涼な水が、妙に体にまとわりつくように感じられる。

 怖じ気づきそうになる心をなだめながら、伊都は岸へ泳いで戻り、柔らかい草がびっしり生えた地面に這い上がった。水をしたたらせながら佇み、じっと耳を澄ます。

 気になる音は聞こえなかった。周囲の様子にも特におかしなところはない。だが、明らかに何かが違っていた。日の光が消えると同時に、元の場所とよく似てはいるものの、どこか歪んでいて危うげな別の世界に変わってしまったかのようだ。

 単に夜が迫っているというだけはなく、目に紗がかかったような仄暗さを感じる。そして口の中には嫌な味がした。冷たく苦い――恐怖とはこんな味かもしれない。

 ここで眠るのはよそう。

 唐突にそう決め、伊都は手早く着物を身につけると、焚き火を移す用意を始めた。木立のほうへ戻って、嫌な気配を感じなくなるまで木々のあいだを歩いていき、肩の力がすっと抜けた地点で荷物を下ろす。それから火種を運んできて再び枯れ草を燃え上がらせ、最後に泉のほとりの焚き火を消しに行った。

 いつしか足元も覚束(おぼつか)ないほど暗くなり、空には星が輝きだしている。

 木立の中ではまったく平気なのに、泉の傍へ来るとやはり背筋がぞくぞくした。自分が何を怖がっているのかさっぱりわからないが、これまでに恐ろしいことをいくつも経験してきたので、この感覚に逆らおうとは思わない。

 新しい焚き火の傍に腰を落ち着けると、ようやく緊張がほぐれるのを感じた。ふた抱え半もある太い木を背後にして座り、帯から抜いた山刀を右手のすぐ近くに置く。

 串刺しの鳥肉はもうこんがり焼けて、生唾が湧くほどいいにおいを漂わせていた。縮んだ皮からぽたぽたと脂がしたたり、火の中に落ちてはジュッと音を立てる。その音ですら美味しそうだった。

 もう少しだけ待とう。端っこがちょっぴり焦げるぐらい、皮がカリカリになるまで。

 伊都は楽しみを先延ばしにする贅沢を先付けとして味わい、木椀に汲んできた泉の水をひと口すすった。あの場所は気持ちが悪いが、湧き水の味は悪くない。

 その時、急にまた警戒心が頭をもたげるのを感じた。

 何かが来る。泉のほうからではなく、木立の向こうから。あの得体の知れない気配ではなく、たしかな実体を伴うものだ。どちらをより恐れるべきかといえば、おそらくこちらのほうだろう。

 ややあって、暗闇からひとりの老人が姿を現した。鼻が胡座(あぐら)をかいたように平べったく、大きな口をしている。小柄でふくよかに見えるが、袖の大きい法衣に似た着物から覗く手足はまるで枯れ枝だ。

「坊や」

 老人は焚き火の向こうで立ち止まり、伊都に向かって話しかけた。その声は(しゃが)れているが、予想したよりもずっと高い。見た目ではわかりづらいが、どうやら女のようだ。

「かわいい坊や。火に当たらせておくれ」

 猫なで声で優しく言う彼女をじっと見据えたまま、伊都は右手をさり気なく山刀の柄にかけた。

「――どうぞ」

 少し考えてから短く答えると、老婆は皺だらけの丸顔をほころばせながら、火を挟んで反対側に腰を下ろした。その動きはぎこちなく、途方もない老いを感じさせる。

「おや」彼女は顔を上げて伊都を見たとたん、意外そうな声をもらした。「坊やと思ったが、違った。あんた女の子だね」

 伊都は何も答えず、彼女から目を離さなかった。たとえ女で年寄りでも、何者かわからないので油断することはできない。

 火に当たっていいと言ったのは間違いだったかもしれない、と今さらになって後悔の念がよぎった。だが、武器がなかったころに比べると、それほど怖さは感じない。いざとなれば刃を抜いて威嚇することも、襲われれば反撃することもできる。

 しかし老婆は、伊都の沈黙も警戒心に満ちた目もまったく意に介さない様子で、問わず語りに喋り続けた。

「丘の上から、ずうっと明かりが見えていたよ。そのうち火がふたつになって、片一方が消えた」彼女は法衣の懐から何か包みを取り出し、その中のものを燃えている枯れ枝の下に埋めた。「なんで焚き火の場所を変えたんだい」

 視線をわずかに動かし、伊都の背後を見やる。

「あっちには泉がある。はじめは水辺に火を焚いたのだろう? なのに考え直して、こっちに移したんだね」

 相手が何を言わんとしているのかわからず、伊都は用心しながら答えた。

「別に理由は……。ただ、あそこはなんだか――」

「気味が悪い」

 老婆が図星を指し、彼女の驚く顔を見て満足げな笑みを浮かべた。

「あそこはよくない場所なのさ。悪いものが溜まりやすくてねえ」

「悪いもの?」

 つい訊いてしまった。だが、好奇心を抑えられない。

悪霊(あくれい)だよ」老婆は囁くように言って、くつくつと笑った。「死んで(からだ)を去ったあと、天門(てんもん)をくぐれずこの地に残った魂が、年月を経て悪霊と化す。そして、恨みつらみを飲んで死んだ人の亡骸(なきがら)を見つけると、取り憑いて漂魄(ひょうはく)になるのさ」

 こんなに暗くて寂しい場所で聞く話ではない気もするが、伊都は我知らず引き込まれていた。

「悪霊は、どこにでもいるのかと思っていました」

「どこにでもいるが、特別に集まりやすい場所があって、あの泉の周りはそういうところなんだ。でも普通の人はあまり気づかない。嬢ちゃんはずいぶん気が(さと)いようだね」

 そんなことを言われたのは初めてだ。伊都は眉をしかめて考え込んだ。気が聡い――そうだろうか。

「最初は平気だったけど、日が落ちたら……なんだか急に嫌になって」

「暗くなると悪霊(やつら)は活気づくからね」

「わたしは生きているから、漂魄にはならないでしょう?」

「ならないね。でも、ああいう場所に長くいると(むしば)まれるよ」

「むしばまれる……」

「人が変わる。気が荒くなったり、おかしくなったりする」老婆はそう教え、先ほど埋めたものを灰の中から取りだして、ふうっと息を吹きかけた。「そら、お食べ」

 横から差し出され、なすすべなく受け取ってみると、それはほどよく焼けてぷっくりと膨らんだ丸くて白い餅だった。こうなっては、素知らぬ顔で自分だけ鳥を食べるわけにはいかない。

「どうもありがとう。それ――」老婆に目をやり、脂と汁をしたたらせている焼き鳥の片方を指す。「もう焼けてるから、もしよかったら」

「おや、これは嬉しいね」

 老婆は破顔し、地面に差してあった枝を抜くと、焼けた肉を押し戴くようにした。

「ご馳走になりますよ」

 それからしばらく、ふたりで黙々と食事を取った。鳥の肉は少し固いが、旨味はたっぷりだ。小骨の周りや筋からも歯で肉をこそげ取ると、半身でも充分足りるほどの量があった。

「嬢ちゃんが仕留めたのかい」

 火の向こうから訊かれ、伊都はこくりとうなずいた。

「たいした腕だねえ」

「獲れるまでに、たくさん失敗するから」

 そう言って餅にかぶりつくと、柔らかな感触と香ばしい香りに陶然となった。こういうものを口にするのは久しぶりだ。噛むたびに、ほんのりした甘みが舌の上に広がっていく。

 お餅って、こんなに美味しかったの。

 伊都は新たに目を開かれた思いで、ひと口ひとくち顎が疲れるほど噛みしめて、できるだけ長くそれを味わおうと努めた。でもやはりすぐになくなってしまい、少し悲しくなる。

 とはいえ、思いがけない出会いのお陰で、めったにないほど充実した食事になった。老婆のほうも、肉にありつけて満足げな顔をしている。

 互いに食べ終えたあと、伊都は彼女の様子を慎重に窺った。

 このまま、ここにいるつもりかしら。お餅は嬉しかったけど、寝るならどこかほかへ行って欲しい。

 だが、それを口に出すほど無礼にはなれなかった。老婆に動くつもりがないなら、仕方ないとあきらめて一晩我慢するしかないだろう。刀を抱き、荷物を枕にして眠れば、めったなことは起きないはずだ。

 そんな彼女の心中を知ってか知らずか、老婆は気安い調子でまた話しかけてきた。

「嬢ちゃんは旅の途中かい。どこに行くの」

「東へ」

 わざと答えをぼかした。はっきりとした目的地があるわけではないので答えようがないというのもあるが、出会ったばかりの相手にあまりあれこれ知られたくはない。

「このまま東へ何日か行けば湊だ。舟に乗るのかね」

「たぶん」

 曖昧にうなずきながら、やはり選んだ道は間違っていなかった――と安堵する。老婆の言葉を聞くまでは、自分が本当に海へ向かっているのかどうか確信を持てずにいた。

「お婆さんも、旅をしているんですか」

 あまり質問ばかりされないよう、自分のほうからも訊いてみる。

「そうだよ」老婆はうなずき、唇の両端を吊り上げた。「わたしは〈野術師(のじゅつし)〉さ」

 普通、御山(みやま)に昇山する人々は修行を終えると祭宜(さいぎ)などの祭職に就くが、中には山を下りて〈封霊師(ふうれいし)〉や〈占師(せんじ)〉、〈呪師(じゅし)〉、あるいはそれらすべてを兼ねる野術師になる者もいるという。話には聞いていたが、実際にそういう人物と出会うのはこれが初めてだ。

 ともかくこれで、彼女が法衣を着ている理由がようやくわかった。

「だから、年中あちこち旅をしているよ。このあたりも何度も通ったことがある。あの泉のことを知っていたのはそのせいさ」

「祭堂がなくて、祭宜もあまり来ない村を回るんでしょう?」

 聞きかじった内容を思い出しながら言うと、老婆は感心したような顔になった。

「よく知ってるね。その通りだ。山奥や谷間(たにあい)の小さい村落は封霊や祭祓(まつり)の司式をする者がいないから、野術師の訪問はいつだって喜ばれる。隣村との水争いでひと合戦やるから、場所を選んでくれなんて頼まれることもあるよ」

「場所を選ぶ?」

「さっき話しただろう、悪霊の集まりやすい場所があるって。うっかりああいうところで人死にが出るような争いをすると、戦ってる最中から漂魄がうろうろし始めて大変なことになる。だから武家の殿さまがたも、戦をする時には城付きの堂司(どうし)を連れて行って、真っ先に合戦場を検分させなさるよ」

「いい場所を選んだら、そこで人が死んでも漂魄にはならないんですか」

「ならないとは限らない。でも、うんと少なくてすむよ。封霊の儀式が間に合うぐらいにはね」

 教えるのが嬉しいのか、普段ひとりきりで旅しているので人と話すのが楽しいのか、老婆は饒舌だった。目に活力がみなぎり、声にも熱がこもっている。

「わたしが行くような小村で、いちばん多く頼まれることは何だと思う?」

 問いを投げられ、伊都は思わず真剣に考えた。人の少ない村なら、死人が出ることもそう多くはないはずだし、封霊ではないだろう。やはり占いだろうか。誰しも己の行く末を知りたいと思うものだろうから。

「占術」

 かなり自信を持って答えたが、老婆はにんまりして首を振った。

「それも多いけど、いちばんは呪術さ。憎いあいつを不幸にしてくれとか、好いた男を振り向かせてくれとかね」

「呪術でそんなことができるんですか」

「馬鹿言っちゃいけない、できるものかね」彼女はそう言い放ち、狡猾そうな目をしてけらけら笑った。「(まじな)いなんてものは、ただの気休めだよ。でも、それらしい儀式をしてみせてやれば、たいていみんな満足してお代を払うのさ」

 油断のならない人。伊都は心の中でそうつぶやき、しかし表情には何も出さなかった。

 邪気のなさそうな丸顔や親しげな口調にもかかわらず、老婆には何か受け入れがたい(いや)なところがあるのを感じる。世の中には、野術師を胡乱(うろん)な者として嫌う人も少なくないというが、その理由が何となくわかる気がした。

 黙って焚き火に粗朶(そだ)をくべる伊都に、老婆が推し量るような視線を向ける。

「呪術はともかく、わたしの封霊と占術は本物だよ。嬢ちゃん、火に当たらせてくれたお礼に、先行きを占ってあげよう」

「いえ――」

 けっこうです、と言う前にもう老婆は膝をぽきぽきいわせながら立ち上がり、よたよたと歩いて伊都の横に来た。落ち葉の上に胡座(あぐら)をかき、左の手のひらを上に向けて差し出す。

「手をお貸し」

 内心気乗りがしなかったが、何か断り切れないものを感じて右手を出すと、彼女はそれを下からしっかりと掴んだ。次いでもう片方の腕を伸ばし、人差し指と中指で伊都の眉間に軽く触れる。

 冷たい――一瞬、怯んで身を退きそうになった。まるで氷の塊を当てられたようだ。老婆の指先は痛みを錯覚させるほど冷え切っていて、そこから冷気がほかの部分にも広がっていくように感じられた。

 思わずつぶった目の中で、ちかちかと閃光が弾ける。背筋をざわざわと何かが走り抜け、その不快感にもう耐えられないと思った瞬間、彼女は唐突に老婆の手から開放された。

 野術師は目を半眼にして、自分の膝に載せた両手のひらを見下ろしている。やがて彼女は皺の寄った唇を薄く開き、長く細く息を吐き出してから言葉を発した。

「命を賭しても叶えたい望みを、生涯にふたつ抱くだろう。うちひとつは、すでに胸の内にある」

 伊都はどきりとして、鋭く息を呑んだ。命と引き替えにしてでも成し遂げたいこと。何を犠牲にしても叶えたいこと。

 復讐——もちろんそれしかない。でも、もうひとつは何だろう。

「ふたりの男が見えたよ」老婆は静かに続けた。「この先どちらと出会うかによって、その後の運命が変わる。一方と出会えば、いずれ嬢ちゃんの望みは叶うだろう。ただし宿願成就するのは、ふたつのうちひとつだね。出会ったのがもう一方だったら、望みはふたつとも叶わない」

 話半分に聞くつもりが、つい真剣に聞き入ってしまう。そして、少なからず失望した。たったふたつしか望みを持たないのに、うまくいってもその片方が叶うだけだなんて。

 老婆は目を上げ、伊都の顔を覗き込んだ。

「なんとも欲のない子だねえ。長い人生で、欲しいものはふたつだけとは」

 相手が黙り込んだままなのを見て、小さく肩をすくめる。

「わたしの見たものが気に入らないようだ」

「何を目印に探せばいいですか。ひとつでも……望みが叶うほうの人を」

 すがるような思いで訊いたが、野術師は奇妙に優しい目をして首を横に振った。

「ただ〝男〟としかわからなかった。占術なんてのは、この程度のものなんだよ」

 それでは何の役にも立たない。伊都はがっかりして、再び焚き火のほうへ向き直り、背後にある木の幹に体をもたせかけた。

 自らも元の場所に戻った老婆が、少し火勢の弱まった炎の向こうから微笑みかける。

「それでも、わたしの占いはよく当たる。このあと嬢ちゃんは運命の男と必ず出会うよ。望みが叶うかどうかにかかわらず、彼はあんたの人生の中で大きな場所を占めることになるだろう。その時が来たらきっと、今夜わたしが言ったことを思い出すはずさ」

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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