四十五 江蒲国百武郷・六車兵庫 杯酌
「旨いものを食うぞ」
江蒲国の本城がある百武郷に足を踏み入れたとたん、渡壁義康あらため儲口守恒は網代笠をぱっと取り、元気いっぱいにそう宣言した。少年のように目をきらきらさせている。
「ご城下によい見世がたくさんある。さ、兵庫どの、早くゆこう」
六車兵庫はたったいま通り過ぎたばかりの境界石を振り返り、南へ伸びる玉越街道を見やった。ここまで来るあいだに何度も同じことをしているが、とりあえず目に見える範囲には気になる人影も物もない。だが日角郷以来、彼はずっと肌を小虫が這っているような不快感をおぼえており、一刻も気をゆるめることができずにいた。
「兵庫どの」老人が焦れたように袖を引く。「何をしておるのじゃ」
つと首を回し、兵庫は彼を見て真顔で答えた。
「おれは、あなたの雇われ用心棒ですからね。用心しているのですよ」
「危なかったのは立州の中のこと。江州、それも目指す百武郷に辿り着いた今となっては、もはや神経を尖らすこともあるまい」
守恒は呑気そうに言い、道の先へ杖を振った。
「さあ、ゆこう。気の利いた宿に部屋を取って、旅の垢を落とし、今宵は心ゆくまで酒食を楽しもうではないか」
「道房公への謝罪が先ではないのですか」
ちくりと指摘すると、守恒は急いで抗弁した。
「そ――そう易々と会えるおかたではない。まずは人を介し、謁見を願い出ねば」
「なら、ひとまずそれをやってはどうです」
「いかん、いかん。こんな形で仲立ちの者に会いにゆくなど、とんでもないことじゃ。乞食と思うて、門前で追い払われてしまう」
「そこまでひどくはないでしょう」
兵庫の目に映る彼は、旅汚れた商家の隠居という風情だ。花のように麗しくはないが、乞食と間違われるほど惨憺たる様子でもない。しかし守恒には、落ちぶれたとはいえ名家の当主ならではの矜持ゆえか、身形にも許容の基準が厳然と存在するようだった。
「おれの選んだ古着が不満なんですね」
「そうは言うておらぬ。ただ、いささか趣味が悪――見苦しいような……」
口ごもりながら言ったあと、老人は何かいいことを思いついたように、突然顔を輝やかせた。
「そうじゃ、明日にでも呉服商へ装束を整えにゆき、そなたにもひとそろい誂えて進ぜよう」
「いりませんよ」
何を悠長なことを、と思いながら素っ気なく返すが、守恒はろくに聞いてもいない。
「そなたは腕が立ち、世知にも長けておるが、こと洒脱に関しては物知らずにもほどがある。装束など、着られれば何でもよいなどと思うておるのだろうが、似合うものを着るということの意義を侮ってはいかん」
「その話、日が暮れる前に終わりますか」
放っておくと長広舌を振るわれそうなので、すかさず水を差す。すると守恒は不服そうに唇を尖らせ、ぷいっと横を向いてすたすたと歩き出した。
すぐに追いついた兵庫を斜に見て、棘のある声で言う。
「まったく、ほんとうにそなたは――」
「――人が悪い」後を受けて言い、兵庫はにやりと笑った。「でしょう?」
つかの間、不機嫌づらを保とうと努力したものの、我慢しきれずに守恒が吹き出した。
「見た目は物堅いくせに、中身は悪童ときておる。どうにも食えぬ男じゃ」
もう盛夏かと錯覚をおぼえるほど苛烈に輝く太陽の下を、ふたりはけらけらと笑いながら肩を並べて歩いた。目的地がすぐ目の前となったので、さすがに守恒の足取りも軽い。
「ご隠居」歩調を保ったまま、兵庫はちらりと横を見やった。「互いに目指すところが同じだったので、護衛を兼ねてここまでご一緒してきましたが、城下に入ればおれはもう用なしです」
守恒がぎょっとしたように息を呑み、ふらりとよろめいて立ち止まる。血の気の引いた顔に冷や汗を浮かべているのを見て、兵庫は眉をひそめながら足を止めた。
「具合が悪いのですか? そこの日陰にお入りなさい」
目眩でも起こしたのかと思い、彼は老人の腰に腕を回し、道端に濃い影を落としているミズナラの梢の下へ連れて行った。腰に下げていた竹水筒を口元にあてがい、ゆっくりと水を含ませる。
「今日はひどく暑いですからね。無理せず、もう少しのんびり歩きましょう」
「兵庫どの……」
囁くように呼びかけられ、兵庫は訝しく思いながら彼の顔を覗き込んだ。
「どうしました」
「これ以上を望むのはわがままと思うが、いましばらく――せめてあと二、三日だけ、一緒にいてはもらえぬか」
必死の面持ちで、守恒がすがるように懇願する。
「むろん泊まり賃や食い扶持は、これまで通りすべてわしが出す。日々の手当てを割り増ししてもかまわぬ」
「もう充分、稼がせてもらいました」
兵庫は苦笑しながら言った。この半月のあいだに、守恒からは護衛料として毎日銀銭三枚ずつ、総額で一金二十四銀を受け取っている。町屋住まいの夫婦者が、ひと月楽に暮らせるほどの額だ。これ以上搾り取ろうなどとは考えてもみなかった。
「おれがいても、たいして役には立たぬでしょう。江州には伝手もありませんし、道房公との謁見について行けるわけでもない」
「それでもよい。何もしてくれずともよいのだ。だが、まだ……すぐには別れとうない」
切々と言うのを聞きながら、心細いのだな、と兵庫は察しをつけた。日ごろ大勢の家臣に囲まれていた名家の当主が一転、馬取りをする小者ひとり持たない身となったのだから、その変わりようになかなか慣れないのも無理はない。ましてこれから彼には、思い浮かべただけで舌がもつれるほど怖い義父に、詫びを入れに行くという大仕事が待っている。
「城下町に着いたらどうするおつもりなのか、ざっと教えてください」
もともと百武城の外堀あたりまで送ったら別れる心づもりだったので、その先の彼の行動については詳しく聞いていなかった。要請に応じるかどうかを決める前に、そこは明らかにしておきたい。
守恒はミズナラの幹にもたれて汗をぬぐいながら、考え考えゆっくりと答えた。
「明日、まずはご城下にある遠縁の家を訪ねる。先に着いているせがれらと、そこでようよう巡り会えるであろう。それから身形を整え次第、旧知の家の主人を訪ねて、道房公への謁見の仲立ちを頼むつもりじゃ。あとは城からの沙汰が届くのを宿で待つばかりだが、早くて明後日、遅くとも四日以内には何かしらの知らせがあるものと思う」
兵庫は腕を組み、しばらく黙って考えをめぐらせた。乗りかかった船と思って、あと数日つき合うべきだろうか。それとも、約束は果たしたのだから、さっさと縁を切るのが得策か。
彼のことは好きだし、何となく放っておけなくもあるが、これ以上一緒にいたからといって、特別何かしてやれるとも思えない。それに家族と再会すれば、他人の付き添いなど必要なくなるはずだ。
そもそも、あれほど会いたがっていた身内との再会を、なぜ明日に延ばそうとするのだろう。
「心もとないなら、このあとすぐにもご子息に会いに行かれたらどうです」
守恒はしばらく黙然としていたが、やがてゆっくりと身を起こした。
「もう歩ける」
ぽつりと言って踏み出した彼のあとを、兵庫は釈然としないものを感じながら追った。守恒は何か隠している気がする。
しばらく無言で歩いたあと、老人は深いため息をついてから、のろのろと口を開いた。
「せがれらは、遠縁の家にはおらぬかもしれぬ」
「では、どこへ」
「おそらく道房公のお手元に。わしがこのまま逃げて、姿をくらまさぬよう……」
兵庫は凝然と目を瞠った。日角郷の旧臣から、親族がすでに百武郷へ行ったことを知らされた時、彼がなぜか憂慮の面持ちを見せていたことを覚えている。その謎が、ここへきてようやく氷解した。
「――人質ですか」
守恒はこくりとうなずいて、再び嘆息した。
「そうなることを恐れて、せがれには百武とはつなぎを取らぬよう、よくよく言い聞かせてあったのだ。だが言いつけを守らず、まんまと呼び寄せられてしまったようじゃ」
「確信しているのですね」
静かに問うと、彼は前を向いたまま小さく首を振った。
「わからぬ。だが、そうだと思う。だから明日、せがれらに迎え駕籠をよこしたという縁者に会いに行き、何もかも包み隠さず話させるつもりじゃ」
守恒は少し間を置き、決然とした目で兵庫を見た。
「わしはもはや、逃げ隠れするつもりなど毛頭ない。しかし公は信用しておられぬだろう。それゆえに、儲口一族の宗主にふさわしい姿で礼を尽くし、堂々と御前にまかり出る必要があるのだ。捕らえられるのではなく、自らすすんで謁見に赴くという形でな」
守恒の予感が当たっているかどうかをたしかめるまでという取り決めで、兵庫はとりあえず彼と同じ宿に草鞋を脱いだ。
明日、遠縁の家に行ってみて親族が無事でいればよし。それ以上掛かり合う義理もないので、早々に別れを告げて立ち去る。だが、本当に百武城へ連れ去られていたら、少なくとも老人が謁見を許されて登城するまでは、傍についていてやるつもりだった。
我ながらお節介が過ぎると思うが、これも縁というものだろう。
宿の浴場で、守恒が呼んだ三助に全身の垢と汚れをこそげ落とされたあとは、部屋に運ばれた贅沢な酒食に大いに舌鼓を打った。
夏らしく酸味を利かせた、ささげと牛蒡の和え物。味噌風味の葛餡がかかった、豆腐とスジエビの煮物。つゆでひたひたになった茄子の揚げだしには、ぴりっと辛い大根おろしがたっぷり盛られている。新鮮な鯉の刺身もあれば、岩魚の塩焼きもあった。
「どうじゃ。旨いか、兵庫どの」
「この甘辛い煮付けがたまりません」
「どれ、ふむ――燻した鰹の身とヒジキじゃな。お、この豆の塩梅がまた……。そら、こちらのシギの塩釜焼きも試してみるがよい」
すすめられて箸をつけると、野趣あふれる肉の旨味に驚かされた。
「鳥など、どれも同じような味かと思っていましたが、この肉は別格ですね」
「うむ。わしはこれが好物でな」
こうした料理の合間にも、どんどん酒が運び込まれる。守恒もそこそこ飲むが、大半は兵庫の口に流れ込んでいた。
「そなた、底なしか」老人が半ば呆れ、半ば賞賛をにじませて言う。
「兄弟子たちと一緒に、しょっちゅう師匠の酒をくすねて飲んでいたので鍛えられました」
「剣術道場で何を教わっておるのやら」
「なにしろ山奥なので、ほかに楽しみもないのですよ。師匠がおれたちを警戒してあちこちに隠し回ったものを、まんまと見つけ出すのがまた愉快で」
「盗み飲みがばれても、師匠は叱らぬのか」
「いえ、次の日の稽古で、足腰立たなくなるほど打ち込まれます」
「野蛮きわまりないのう」
守恒はぞっとするというように我が身を抱き、大げさに首をぶるぶると振った。
「わしは剣術は好きになれぬ。打つのも打たれるのも嫌じゃ。そもそも、人と争うこと自体が厭わしい」
「だから、黒葛家に侵攻されても手向かいしなかったのですか」
少し突っ込みすぎかと思いつつ、ずばりと訊いてみる。これは七草で会った石動博武に、立州分捕りの顛末を聞いた時から気になっていたことだった。
「攻め入った時には七草の本城はすでに空城同然で、黒葛軍は肩すかしを食らわされたとも聞きました」
老人は脇息に寄りかかり、盃の酒をちびりとなめてから、上目づかいに兵庫を見た。
「そなた、出会った日からわしが何者か気づいていたと言うたな。なぜ、そうも事情に明るいのじゃ」
「道場めぐりの途中で七草に立ち寄り、石動家の若い侍から偶然いろいろ教えてもらったのです」
「石動というと、黒葛家の支族か」
守恒は少し酔いの回った顔で目を伏せ、深々と嘆息した。
「黒葛の者どもは、まったく恐ろしい連中じゃ。誇り高く強く、君臣の絆は固く、戦では将兵ともに一丸となって死力を尽くし、数倍する敵勢を前にしても決して退かぬ。負けが明らかな時にもただでは敗れず、大将ひとりを死地から逃すために、残る全員が死兵となって命を投げ出す。そうして生き延びた大将はすぐさま新たに軍を催し、火の勢いで取って返して来るのじゃ」
「凄まじいですね」
「ひとたび黒葛と戦を始めたら、やつらが勝つまでそれは終わらぬ」
彼は噛みしめるようにつぶやき、盃に残った酒を飲み干した。
「かの家が〝百折不撓〟と称される由縁じゃ」
兵庫は彼の盃に酒を差しながら、終わらない戦について考えていた。戦うことしかできない者にとって、それはある意味理想ともいえる。血と土にまみれて果てるその時まで、己のいるべき確たる場所が存在し続けるということだ。
守恒は注がれた酒に少し口をつけ、盃の中に生じた小さな波紋に目を落とした。
「黒葛の三男貴昭が大将となり、八千の兵を率いて国境を越えた時、わしは甲斐荘の陰宅近くで鷹狩りをしていた。すぐ七草へ戻って手勢をかき集め、防備を固める暇は、あるいはあったやもしれぬ。だが、わしは戦いとうなかった。勝てるとは思わなかった。勝ちたいかどうかもわからなかった。だから身内の者と忠臣だけをつれて、着の身着のまま逃げたのじゃ」
「立州はあなたの国だった」
兵庫は静かに言った。
「あなたの城、あなたの臣民。踏み留まって、それらを守ろうとは思わなかったのですか」
責めたわけではないが、守恒はそうされたように怯み、悄然と肩を落とした。
「かつてのわしならば――道房公と戦場で轡を並べ、敵の先陣に斬り込んでいたころなら、きっとそうしたと思う。今のわしからは想像もつかぬだろうが、昔はこれでも武人としてそれなりの働きをしていたのじゃ。武術の腕はさほどでもなかったが、機を見るに敏と言われ、機略を弄することに長けていたので、御屋形さまからは有能の士として重く用いられ寵愛された。それこそ姫君を賜り、立州国主代の地位を授けられるほどにな」
言われてみれば、それらの恩賞は生半な働きで得られるものではない。たしかに今の姿からは想像しがたいが、若かりし日に彼が道房公の心を掴むに足る武人であったことは疑う余地もないだろう。
「いつから、なぜ、変わってしまったのです」
穏やかに訊くと、守恒は顔を上げて兵庫を見た。感情の高ぶりゆえか、酒の酔いのせいかはわからないが、その小さくつぶらな目が少しうるんでいる。
「わしは決して、戦することが好きだったわけではない。それゆえ、御屋形さまのご期待に添う働きをすべく、いつも必死の思いだった。ほかのものを顧みる余裕などなかった。長く病に伏せっていた老妻が逝った時ですら戦場にいて、その臨終に立ち会うこともしなかったのじゃ。だが戦いを終えて城へ戻り、妻の亡骸――すっかり細く頼りなげになってしまったその姿を目にした時、わしの中でずっと張り詰めていた糸のようなものがぷっつりと切れてしもうた」
目の縁に盛り上がった涙がこぼれ、皺の寄った頬を流れ落ちる。
「それからはもう、戦も出世も人の期待も、どうでもよくなった。心を殺し、やりたくもないことをやり続けて、果たして何の得るところがあるものやと」
彼は声を詰まらせ、片手で両眼を覆った。
「今も悔やまれてならぬ。縁あって夫婦となりながら、わしはあれに何ひとつしてやれなんだ。別れに際し、あのか細い手をただ握っていてやることすら……。可哀想なことをした。ほんとうにすまぬことをした」
堪えきれない嗚咽をもらし、守恒が細い肩を震わせる。兵庫は何も言わず、彼の哀しみと後悔の発露をただじっと受け止めていた。
戦うことが好きな者がいれば、嫌いな者もいる。だが戦は時として、有無を言わせずその両方を呑み込んでしまう。そうして呑み込まれ、意に染まぬ仕事に長年辛労しながら、後に悔恨しか残らなかったという彼があまりにも哀れでならなかった。だが、自分ごときがそんな風に思うのは、不遜に過ぎるというものだろうか。
ややあって落ち着きを取り戻した守恒は、泣きはらした目で兵庫を見つめた。
「わしは、そなたがうらやましい。己の持つ力を知り、使うべき場所を知り、そこへ身を置くことを望んでもいる」
「どうでしょう」
兵庫は肩をすくめ、敢えてあっけらかんと言った。
「実際に行ってみたら案外おもしろくなくて、失敗したと思うかもしれません。あなたの家来になって田舎に引きこもり、一緒に釣りでもしながらのんびり暮らせばよかったと」
初め守恒は困惑顔でぽかんとしていたが、やがて頬をぬぐい洟をすすって、くすくすと笑い出した。
「その時は、いつなりと訪ねてくるがよい。釣竿を用意して待つとしよう」
「ありがたい。落ちこぼれたあとの見通しが立って、安堵しました」
老人は目元を優しくなごませ、自分の盃を取り上げた。それを兵庫にすっと差し出す。
「ご献杯」
「頂戴いたします」
両手で受けて、差された酒をひと息に飲み干し、さっとひと振りして雫を切る。
「ご返杯」
「うむ」
守恒もまたぐいっと空け、囁きをもらすようにそっと息をついた。どこか夢見るような目をしている。
「広大無辺たる天地の狭間にあって、人の一生などというのは、ほんのつかの間――玉響のことにすぎぬ」
「たまゆらの……」
つぶやく兵庫に、彼は微笑みながらうなずいて見せた。
「それを後悔や嘆きばかりで埋め尽くすほど、つまらぬことはない。わずかな時なればこそ、能うかぎり濃く、厚く、満ち足りさせねばな」
「はい」
「そなたが思いのままに生き、よき死にざまを得られるよう願っておるぞ、兵庫どの」
明けて翌朝、ふたりは腹ごしらえを終えて早々に、守恒の縁者の家へ向かった。酒の飲み過ぎで頭が重いと愚痴をもらしはするものの、老人は思いのほか元気な様子だ。昨夜、いろいろ胸にしまい込んでいたことを吐き出し、少しすっきりしたのかもしれない。
目的の家は、百武城外堀の脇にひっそりと建つ一軒家だった。守恒の言によると、主人は彼のまたいとこの妻の弟らしい。つまり、血のつながりはまったくないことになる。
応対に出てきた屈強そうな下男は、ひどく横柄な態度を取った。客の身形がみすぼらしいので、見下してかまわないと思ったようだ。しかし守恒が名乗ると唖然となり、たちまち腰を低くした。
やはり見た目はそれなりに大事らしい。兵庫は守恒が中へ通されたあと、式台脇の小間に残ってぼんやり考えた。このあと呉服商へ行くと老人は言っているので、そこで装束を整えれば、次に向かう家ではもっと丁寧な扱いを受けるだろう。それでも、供回りがわずかひとりでは、やはり不審な顔をされる気がしなくもない。
何も見るところのない殺風景な部屋でしばらく待っていると、思いのほか早く守恒が戻ってきた。その顔は厳しく引き締まり、剣呑な目つきをしている。うしろからこの家の主人らしき人物が汗をかきかき必死の面持ちで追ってきたが、彼はそれを顧みようともしなかった。
この様子を見ただけで、悪い予感が的中してしまったことがわかる。兵庫は黙って守恒のあとに続き、式台から内に向けて一礼だけしておいて外に出た。怒れる老人は礼儀などそっちのけで、そのままずんずん先へ進んでいく。
彼がようやく足を止めたのは、縁者の家から二町ほども離れてからだった。堀端に植えられた柳の木に片手をつき、真っ赤な顔から汗を滴らせている。
兵庫は水筒の栓を抜いて渡し、彼が飲んでいるあいだ何も言わず待っていた。
頬の火照りをまだ残したまま、守恒が鼻息も荒くこちらを見る。おまえも敵だと言わんばかりの形相だ。
「あやつ、殺してやりたい」
憎々しげに言い、食いしばった歯のあいだからしゅうっと息を吐く。
「何をおっしゃるやら。あなたらしくもない」
兵庫はのんびり言って、彼の背中を軽く叩いた。
「歩きながら聞かせてください」
そう促すと、守恒は眉間に深く皺を寄せたままではあったものの、おとなしく横について歩き出した。
「思うた通り、あの家にせがれらはおらなんだ」
「残念ですね」
「日角郷から便りが届いてすぐ、あの者は御屋形さまへご注進に及んだらしい」
「では、ご親族はやはりもう百武城に?」
「うむ。今ごろはご城内のどこかに留め置かれているであろう。しかし幸いにというか、駕籠で着いた者たちの中に、孫は含まれていなかった」
これは思いがけない話だ。兵庫は少し驚いて、老人の表情を窺った。怒りがやや静まり、目つきもだいぶ穏やかになっている。
「そもそも孫は、日角郷にはいなかったらしい。全員がひとところに集まるのは危ないと思ってか、せがれが別の場所に隠したようじゃ」
「それはご明察でしたね」
「せがれにしては、な」
守恒は苦笑するようにそう言ったあと、兵庫の訝しげな視線に気づいて言い添えた。
「親が言うのも何だが、せがれの守義はまことに頼りにならぬ男なのじゃ。戦嫌いで臆病で怠け者……有り体に申さば、わし自身の分身のような男といえる」
それはひどい、とも言えないので、兵庫は曖昧に「はあ」と相槌を打つだけに留めた。
「あれがもう少ししっかりしてくれていたら、わしは妻を亡くした時点で政から手を引き、本当の意味で隠居をしていたであろう。だが、まさかあの昼行灯に国を任せるわけにもいかず……」
分身のような人物なら、どちらが治めても大差なかったのではとも思うが、それもまた口にするのは憚られる。兵庫は敢えてそこには触れず、孫のほうへ話を振った。
「お孫さまは、どうなのです」
「孫か」守恒の顔が急に明るくなる。「名は守計と申す。年は十八じゃ。あれは、わしやせがれの血筋とは思えぬほどよくできた子で、大いに期待をかけておる。何ごともなくば、実はこの夏にも、わしは守計に家督を継がせる心づもりでいた」
では、黒葛軍の侵攻がもう何か月か後だったら、事態はまた変わっていたのかもしれない。そう思うと、運命の皮肉を感じずにはいられなかった。
「それで、守計どのは今どちらに?」
話の流れで訊くと、守恒はふいに顔を強張らせて、きょろきょろとあたりを見回した。自分たちに注意を払っている者も、近くを歩いている者もないのを確かめてから、すっと顔を寄せて囁くように答える。
「おそらく、立州との国境に近い永妻郷じゃ。せがれがもっとも信頼する竹馬の友が、その郷に住んで漆職人をしておると聞いた。あれが守計を託す相手を選ぶとしたら、彼しか考えられぬ」
「そこなら安全ですか」
「うむ、そう思う。御屋形さまは守義を問い詰めておられるだろうが、まさかあれも、大事なひとり子の身を危うくするようなことはもらすまい」
自分に言い聞かせるようにうなずきながら言い、守恒はぴたりと足を止めた。
「どうしました?」
「あそこに呉服商が見える。入ろう、兵庫どの」
彼が指差す先に、たしかに呉服商の屋根看板が出ていた。通りに面した大戸の横には、美観と採光を兼ねた繊細な切子格子が設えられている。このあたりの建物には珍しく中二階があり、壁面には雲形の虫籠窓が嵌めてあった。
「外で待っていますよ」
「まあ、よいではないか。これもつき合いと思うて、ほれ、ほれ」
老人は兵庫の袖を掴んでぐいぐい引っ張り、無理やり中に連れ込んだ。
土間の先の二十畳ほどある座敷は、黒い漆塗りの巨大な置き看板で半分に仕切られている。その奥が帳場になっているらしく、客が来たのを見てすぐに番頭らしき男が出てきた。
「いらっしゃいませ、どうぞ」
三十半ばと見える番頭は愛想よく声をかけ、座敷へ上がるようふたりを促した。守恒は当然すぐに草履を脱いだが、兵庫はそのまま土間に残る。
「兵庫どの、上がらぬのか」
上がり框に置かれた煙草盆の脇に腰を下ろしながら、老人が不思議そうに訊いた。
「ここでけっこう」
奥から茶を運んできた丁稚が、土間に立ったままの兵庫を見て、どこに置いたものかと目をうろうろさせている。面倒臭く思いながら框の縁に尻を乗せると、ほっとしたような顔で傍に茶托ごと置いていった。
その間にも、もう守恒は番頭と話を進めている。
「本来なら寸法を採って、一から仕立ててもらいたいところじゃが、あいにくと今は暇がない。たちまち見苦しくはない装いを、急ぎ整える必要があるのじゃ」
「はい。それでしたら、仕立て上がりでも上等の品がたくさんございますので、そちらから選んでいただきましょう」
番頭が奥へ声をかけると、手代らが次々と小袖や袴を運び出して並べ始めた。格子から差し込んだ外光が、畳に広げられた布地の華やかな色目や柄をより鮮やかに浮かび上がらせる。
「いかがです、お連れさまにも何か――」
番頭が急にこちらへ水を向けた。守恒が、いやに真面目くさった顔でうなずいている。
「うむ。まだ若いのだから、もっと明るい色目のものをな。いま身につけておるものは、地味すぎて年寄りくさい」
「お連れさまは彫りの深いお顔立ちでいらっしゃいますから、卯の花色や灰白の麻地などがお似合いになるかと」
「凛とした縞入りの、黒と見紛うような紺袴を合わせてな」
「ご趣味がよろしくていらっしゃる」
番頭に褒められて得意げな守恒を、兵庫は牽制を込めてじろりと睨んだ。
「いらぬと言ったでしょう。おれは、やはり外に出ています」
相手が何も言わないうちに、さっさと大戸をくぐって外に出た。平格子の前に立ち、通りを行き交う人々を所在なく眺める。
そうして小半刻ほど待っていると、上から下まで新しい装束に替えた守恒が現れた。
単衣は渋い紺地に極細の縞が織り出された紬地で、遠目には少し紫がかって見える。それに節糸を織り込んだ青朽葉色の袴を合わせていた。偉そうに言うだけあって、たしかに趣味のいい装いだ。そして牽制が効いたらしく、余計なものは買ってこなかったらしい。
「これが洒脱というものじゃ」
「お似合いですよ」
すっかり大家の当主らしくなった守恒は、兵庫を連れて屋敷町へ向かった。目当ての家は内堀を渡り、百武城の縄張りに入ったすぐのところにあるという。
ほぼ大通りから外れることなく歩いて行き、ふたりはやがて、とある薬医門の前で足を止めた。見れば、敷地の周囲にぐるりと板塀を張り巡らせた、なかなか立派な武家屋敷だ。
「座敷までついて行きますか?」
暗に警戒が必要かと訊くと、守恒は小さく首を振った。
「いや、何も危険はない」その言葉にふさわしく、彼の声は落ち着いている。「先ほど同様、玄関近くで待っていてくれればよい」
幸い家の主人は在宅だったので守恒はすぐに中へ通され、兵庫は使者の間とでもいうべき趣の、小ぎれいな六畳間で待つこととなった。素朴ではあるが彫刻欄間が設えられており、なかなか洒落た造りになっている。
ほどなくして守恒が、縁者の家を訪れた時よりも早く、兵庫が退屈を感じ始める前にもう戻ってきた。話し合いは上首尾に終わったらしく、にこにこと機嫌のいい笑みを浮かべている。
門の外へ出たところで「うまくいきましたか」と訊くと、胸を張って深々とうなずいて見せた。
「すべてうまくいった。わしが城下に入っておることを御屋形さまに伝え、謁見が許されるよう骨折ってくれるそうじゃ。うまくすれば一日か二日後には、城から迎えの使者がやって来るであろう」
「では、あとは宿で待つだけですか」
「うむ。屋敷に泊まるようすすめてくれたが、それは断った。宿のほうが気楽でよい」
武家屋敷にいたほうが、奉公人にあれこれ世話を焼いてもらえて嬉しいだろうに。出会ったころと比べると、わずかのあいだにずいぶん変わったものだ。そう思うと、つい笑みがもれる。
守恒は兵庫に近づくと、ふいに手を伸ばして懐に何か差し込んだ。怪訝に思いながら取り出してみると、陽光に眩しく輝く金銭が一枚。
「なんです、これは」
「年寄りの付き添いをずっと務めてきて、さぞ退屈しておるだろう。盛り場へ行き、ひと晩存分に羽を伸ばしてくるがよい」
娼楼で女を抱いてこい、と彼が言っていることに気づくまで少しかかった。おかしな気づかいをする老人に、苦笑いしながら銭を返す。
「お気持ちだけで」
「なぜじゃ。兵庫どのは、女がきらいか」
「いえ、好きです」
直截に言ったが、守恒は不思議そうな顔をしている。どうやら、さらなる説明が必要らしい。
「女はたいそう好きですが、それゆえに師匠から、旅のあいだは女子にかまけることまかりならぬと厳しく言い渡されております。おれには女で道を踏み外す性が見て取れるそうで」
「なんと頭の固い御仁じゃ、そなたのお師匠は」
「ともかく、そういうわけですから、お気づかいなく。あなたと一緒に過ごすのも、それはそれで楽しいものですよ」
世辞半分、本音半分で言うと、老人は思わずにやついたのを隠すように唇をすぼめた。
「そうか。では今宵も、むさ苦しい男ふたりで飲み明かすとしよう」
「まだ飲むのですか。頭が重いと文句を言っていたくせに」
「もう治った。さあ、宿へ帰るとしよう」
守恒は晴ればれと言い、弾む足取りで先に立って歩き出した。
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