四十三 立身国七草郷・黒葛真木 東から来た男
夏空が抜けるように青く、紺碧の海は遠くまで澄んでいて穏やかだった。陽光を反射してきらきらと輝く水の上を、白い翼を広げた鳥がのんびりと飛び回っている。
その動きを飽くことなく目で追う貴之の横にしゃがみ、黒葛真木は顔を寄せて「カモメよ」と教えた。聞いてはいるようだが、まだ二歳の息子が理解したかどうかは判然としない。
ふいに貴之が真木のほうを見て、「うみ」と言った。やや低めの、幼児にしては不思議に落ち着きのある声だ。それから彼は突堤に係留されている商船を指差して、はっきりした発音で「ふね」と言い、父親の貴昭にそっくりな眩しい笑顔を見せた。
親馬鹿ではあるが、この凛々しくも可愛らしい笑顔を見るたびに、思わず心がとろけてしまいそうになる。
「そう、船ね」真木は相槌を打ち、彼が指差すほうに視線を向けた。「大きいわね」
七草城から一里半ほど南にある湊は立身国最大の貿易港で、東峽の国や南海の島々、さらにははるか遠い異国からの船が絶え間なく訪れる。大海原を渡ってきた巨大帆船の堂々たる姿は、幼い貴之を惹きつけてやまないようだった。
「若さまは、船がお気に入りですな」
うしろからそう声をかけたのは、散策の警護役としてついてきた柳浦重益だ。七草城家老衆のひとりである実重の弟で、忠勇無双の槍使いとして知られている。
彼は二十五歳とは思えない老け顔で、四つ上の兄実重よりもずっと年かさに見えた。体つきは岩石のようにたくましく、はち切れんばかりに両肩が大きく盛り上がっている。
家来のひとりに持たせている樫材の十文字槍は、丈は七尺足らずとやや短めだ。しかし革を巻いた柄は極太で、まっすぐに伸びる剣状の主刃と三日月のように湾曲した短い枝刃からなる、見ただけですくみ上がりそうな穂先がついていた。
恐ろしげな見た目や武器とは裏腹に、重益は温情あふれる優しい男で、貴之はそんな彼によくなついている。今も「若さま」という言葉に反応して、すぐに傍へ駆けていった。袴履きの膝にしがみつき、両腕を上げて抱っこをせがむ。
重益は笑みくずれながら、軽々と彼を抱き上げた。視界が広がって遠くまでよく見えるようになり、貴之が嬉しそうに目を輝かせる。
「もっと近くで、船をご覧になりますか?」
幼子にそう訊ねて歩き出した彼に、真木もゆっくりとついて行く。さらにそのうしろから、重益配下の者たちがぞろぞろと追ってきた。居城からすぐの場所とはいえ、やはり城主の長男と奥方が出かけるとなれば、どうしても供回りが増えて大人数になってしまう。
「女子供の付き添いなど、つまらないでしょう」
横に並び、紗の被衣の下から見上げながら言うと、重益は底抜けに明るい笑顔で首を振った。
「何をおっしゃるやら。おふたりのお供ができて嬉しゅうございます」
それが本当に嬉しそうな顔だったので、真木は一気に気が楽になった。奥御殿の仲働きにそこまで気を遣うことはないが、夫の臣である武将たちに対しては、やはりどうしても遠慮が先に立ってしまう。
もちろん――彼女は心の中でつぶやいた。今はわたしも彼らの主人だ。でも元は同じ、黒葛家に仕える支族の一員でしかなかった。
真木の実家である石動家も南部の旧家のひとつではあるが、一国あるいはそれ以上を支配する緒名家とは格が違う。そうした家に産まれ、赤子のころから大勢に傅かれて育つ、深窓の姫君たちのような振る舞いや考え方には馴染みがなかった。
貴昭に嫁いで四年が経ち、さすがにずいぶん慣れたとは思う。だが、生まれながらに名家の者である夫のようにはいかない。
たまにこうして、城から出たくなるのもそのせいかもしれなかった。近ごろは貴之が活発になってきたため、その外遊びにつき合う機会が増えて内心喜んでいる。もっとも、夫は少し心配しているようだが。
突堤に係留されている大型帆船が近づくと、貴之は言葉にならない歓声を上げて、外壁に触ろうとするように片手を伸ばした。それを見て重益がにっこりする。
「大きゅうございますなあ、若さま」
実際その船は、真木の目にも驚くほど大きく見えた。舷側の木材の色が真新しいので、おそらく最近造られたばかりなのだろう。長短三本の帆柱には、いずれにも布製の帆が贅沢に使われていた。かなり裕福な商人の持ち船に違いない。
「どこから、何を積んできたのかしら」
何げなくつぶやいた真木の言葉を聞きつけ、脇に控えていた供回りのひとりがさっと動いた。
「船主に訊ねてまいりましょう。しばしお待ちを」
賢そうな目をした浅黒い顔のその若い男は、彼女に遠慮する間も与えず小走りに駆けていった。
「まあ、悪いことをしたわ。ふと思っただけなのに」
「お気になさらず」重益が朗らかに笑う。「あの男――唐木田直次は、大店の番頭さながらに気が利くのです。柄は小さいが、腕も立つのですよ。少しばかり無愛想なのが玉に瑕ですが」
ややあって戻った直次は、細身だが大柄な商人を伴っていた。年齢は五十代半ばだろうか。上等な白麻地の小袖をまとい、揺れる船の上で動きやすいようにだろう、裾を細く絞った黒鳶色の筒袴を履いていた。少し額が上がりかけた半白の髪はきれいになでつけ、うしろでひとつに括っている。
彼を手前で待たせておいて、直次は真木の前に片膝をついた。
「東雲国青苅郷の商人、西之屋清兵衛がご挨拶を願い出ております」
「こちらへ」
真木が手招くと、清兵衛は腰を低くして近寄ってきた。日焼けした顔は精悍だが物腰はやわらかく、温和そうな目をしている。
「ご拝顔の栄を賜り、恐悦至極に存じます」
彼は低頭しながら丁寧に挨拶をして、優しい伯父のように真木に微笑みかけた。
「船荷にご興味がおありとか」
「とても大きな船なので、何を積んでいるのだろうと思ったのです」
「今は蝋燭や香料、絹、玉といったものを載せております。多くは異国で仕入れたものですが、涌稲国島の杢保上布や七蔵司島の近海で獲れる真珠など、ご婦人がたに評判のよい品々もございます」
贅沢品ばかりなのね、と真木は思った。表面に美しい絵が描かれ、火を灯すといい香りがする異国の蝋燭は何度か見たことがあるが、目の玉が飛び出るほどの値で売られているという。近ごろ人気の杢保上布も、まず庶民には手が出せない値段だと聞いた。
「異国というと、主にどちらと取り引きを?」
「東の隣国レグンやパヌ・アタン、南の大陸国家タイフォスなどさまざまです」
彼が挙げた国名はどれも耳馴染みがなく、どこか不思議な響きを帯びて聞こえた。秘密の呪文か何かのようだ。
まだ見ぬ異国についてもっと話を聞こうと思った時、少し向こうで何か騒ぎが持ち上がった。突堤の端に溜まっていた十人ほどの男たちが、互いに大声で罵りながら掴み合っている。みな半裸で、屈強そうな体つきをしており、荷揚げ人夫か水夫のように見えた。
「おや、うちの者ではなさそうな……」
清兵衛が訝しげにつぶやいた時、船の中からひとりの男が現れ、渡り板を駆け下りてきた。黒っぽい袴をつけて二刀を挿している。身形からすると武士のようだが、それにしては髪や髭が伸び放題でいかにもむさ苦しい。
彼は無言のまま清兵衛に駆け寄ると、騒ぎが起きているほうを向いて警戒体勢を取った。おそらく、西之屋に用心棒として雇われている牢人か何かだろう。
一方、真木と貴之の供回りもこの間に、守るべき主人との距離をさり気なく縮めている。うち何人かは素早く前に出て、騒いでいる男たちとのあいだに立ちはだかった。
喧嘩はいっこうに収まる様子がなく、むしろ雰囲気がより険悪になっているようだ。真木は急に不安になり、重益の傍に行って貴之を受け取った。
「ここから離れるべきかしら」
息子をしっかりと抱きかかえ、小さな声で問いかけると、重益は騒動に目を向けたままで唸るように答えた。
「いえ、動くとかえって危ない。今しばらく、このままご辛抱ください」
その張り詰めた声が、ますます真木の胸を騒がせる。巌のように聳え立つ重益の背中は頼もしいが、ここに貴昭もいてくれればいいのにと思わずにはいられなかった。十二人もの護衛に囲まれているのだから、めったなことは起こらないはずだが、子供を連れているので必要以上に神経質になってしまう。
ふいに背後で荒々しい叫び声が上がった。振り向くと、どこから現れたのか、見慣れぬ旅装束の男が護衛のひとりともみ合っている。さらに行商人らしき男が駆けてきて、懐から短刀を抜き放ち、別の護衛に襲いかかるのが見えた。
何。何が起こっているの。
狼狽しながら、さらにきつく貴之を抱きしめた時、重益の大きな手に肩を掴まれて引き寄せられた。
「奥方さま、離れずに」
彼はそれだけ言うと、肩ごしに家来を見て「槍!」とひと声吠えた。すぐさま、あの十文字槍が飛んでくる。それを片手で引っ掴むと、重益は雄叫びを上げて猛然と振り回した。今まさに向かって来ようとしていた襲撃者が、うなりを上げる穂先に絡め取られる。
それは、先ほど突堤の先で喧嘩を始めた男たちのひとりだった。今やその集団も手に手に武器を持ち、黒葛家の護衛衆と斬り合っている。
重益の獰猛な一撃をまともに食らった相手は、突堤の縁に置かれていた荷車を破壊しながら倒れ込み、そのまま動かなくなった。だがすぐに、また別の男が立ち向かってくる。
気づけば、いつの間にか右も左も敵に囲まれていた。頭数では完全に負けており、しかも逃げ場のない突堤で挟撃を受けて、味方はやや混乱している。
それでも護衛衆は果敢に戦い、襲撃者たちを次々に倒していった。重益と、彼が「腕も立つ」と言っていた直次が飛び抜けて強い。ふたりは真木と貴之を背後にかばって縦横無尽に得物を振るい、敵をまったく寄せつけなかった。
すごい――真木は固唾を飲んで見守りながら、心の中で感嘆をもらした。黒葛家中の戦いぶりを目の当たりにしたのはこれが初めてだが、彼らの精強さは世間の評判をもはるかに凌いでいるように思われる。
だがその時、誰も予想だにしなかった場所から、第三の敵勢が現れた。
「気をつけろ!」
清兵衛を斬り合いから守っている牢人が、鋭く警告を発する。しかし何をする間もなく、真木は突堤に這い上ってきたずぶ濡れの男に背後から組み付かれ、腕の中の貴之を無理やり奪い取られた。張り裂けんばかりに見開いた目の前で、愛しい我が子が海に放り込まれる。
真木は金切り声を上げ、すぐに後を追おうとした。だが敵に腕を掴まれ、振りほどくことができない。
やめて。放して。行かなければ。あの子が死んでしまう。ああ、誰か、お願い……。
声にならないその懇願に応えるかのように、「お任せを」と短く声を残して清兵衛がさっと身を翻し、軽やかに跳躍して海に飛び込んだ。
海中からはさらに四人の敵が顔を出し、次々と突堤に上ってきている。真木は彼らに囲まれ、どこにも逃れようがなかった。重益はふたりを相手取って奮戦中、直次は負傷しているようで、水夫の偽装をした大男に苦戦を強いられている。
貴之を海に投げた男が、帯に差していた小太刀を抜いた。夏の陽光を反射して、白刃がぎらりと光る。それが真木の胸に向かって振り下ろされた瞬間、横合いからあの牢人が飛び込んできた。
刃と刃がぶつかる甲高い音が響き、兇賊の手から小太刀が弾き飛ばされる。腰の大小を両方とも抜き放って参戦した牢人は、右手の大刀でひとりの胸を、左手の脇差しでひとりの喉を貫き、さらに二刀を交差しながら斬り上げてもうひとりの腹をかっ捌いた。
まばたきをする間に三人倒した彼を前にして、残るふたりの敵が息を呑んでいる。牢人はかまわず向かって行き、右にいた相手に斬撃を見舞った。しかし寸前で逃げられたため、斬ったのは胸の皮一枚だけだ。怯えながら必死に後ずさる男を、彼は中段の構えを取ってまっすぐに追っていった。それを隙と見て、左の男が脇から斬りかかる。
「危ない!」
思わず叫んだ真木の頭上を、低いうなりを上げて重益の槍が通り過ぎた。弧を描いて落ちた穂先が、急撃を仕掛けた男の顔を斜めに貫く。と同時に、牢人も追っていた相手に止めを刺し、次の敵に備えるように再び刀を構えた。だが、立ち向かってくる者はもういない。
いつしか、剣戟の響きはやんでいた。敵はすべて斬り倒され、まだ息がある者も、もはや立ち上がる気配はない。しかし味方にも犠牲は出ており、負傷者も少なくはなかった。重益も何か所か傷を負って血を流している。
「奥方さま、お怪我は? 若さまは?」
咳き込むような彼の問いかけで我に返り、真木は急いで海に目をやった。清兵衛が片腕に貴之を抱き、もう片方の腕で水を搔きながら、ゆっくりこちらへ向かって泳いでくる。
悲鳴とも歓声ともつかない声を上げて、彼女は突堤の縁に駆け寄った。一時はもうだめかと思ったが、貴之は水を飲んだ様子もなく、べそひとつかいていない。
重益と牢人が手を貸してふたりを陸に揚げると、清兵衛は濡れ鼠になった貴之を真木の腕に返した。
「お助けしようとあわてて飛び込んだのに、若君がわたしよりも上手に泳いでおられたので、拍子抜けしてしまいました」
笑いながら言う彼を、真木は信じられない思いで見つめた。
「この子が泳いでいたの? 今まで泳いだことなどないのに?」
「ええ。恐れるご様子もなく、水の中でお目をぱっちりとお開けになって。若君はきっと、海を司る濤神の加護を受けておられるのでしょう」
「まあ」
安堵と感動で、真木の両眼から涙があふれた。
「感謝します。あなたにも、あのかたにも」牢人のほうを見ると、彼はすでに納刀して、何ごともなかったように平然としている。「あなたがたの力添えがなければ、わたしたちはここで命を落としていたかもしれません」
指の腹で涙をぬぐい、ふと顔を上げた真木は、護衛衆の中に見知らぬ男たちを見つけた。彼らも激しく斬り合ったらしく、敵の血を浴び、自らも傷を負っている。
「あの人たちは?」
彼女の問いに答えたのは重益だった。
「戦いのさなか、船の中から出てきて加勢してくれました」
「あれは、船荷を守らせるために雇っている者たちです」清兵衛が言い添える。「わたしと、舟守の頭領の忠長――奥方さまをお助けした男です――が斬り合いの只中にいたので、助っ人に入ったのでしょう」
「彼らの助力がなければ、家中の犠牲はもっと増えていただろう。まことに、かたじけない」
重益は清兵衛らに向かって頭を下げ、その拍子に少しよろめいた。
「傷の手当てをしなければ」
真木はつぶやいて、周囲を見回した。動けそうにないのは二、三人だが、おびただしく出血している者が多数いる。この場で血止めだけでもするべきだと思えた。
「船に薬や布の用意がございます」
清兵衛がすかさず言い、下で戦いに加わった者のひとりを走らせた。
「舟座にも知らせて、人手をよこすように言いましょう」
黒葛家中の死者はふたりだった。生き残った者も全員どこかしら傷を受けており、うちふたりはかなりの深手を負っている。中でも唐木田直次の傷は重く、右の腿をざっくりと斬り裂かれていた。快復までには相当時間がかかりそうだ。
重傷者の手当てを真っ先にすませ、貴之と共に護衛衆をねぎらって回ったあと、真木は突堤の縁に立って酸鼻をきわめる現場をつくづくと眺めた。
まるで合戦場だ。どこを見ても血が流れ、死体が転がっている。水夫の形をした者。荷揚げ人夫。旅人。荷車引き。漕手。湊にいても誰からも不審がられない偽装をして、襲撃者たちは待ち構えていた。これだけ大規模で系統立った襲撃は、とっさに思いついてできるものではない。
でも、なぜ。湊へ来ることは、前々からわかっていたわけではない。夕べふと、少し前に息子を磯遊びに連れて行ったら喜んだことを思い出し、今度は船を見せてやろうと思い立って決めたことだ。今朝の時点で知っていたのは夫の貴昭と小姓頭、側仕えの何人か、それに奥御殿の女中数名だけだった。なのになぜ、情報が外にもれたのだろう。
そもそも、この襲撃者たちは何者なのか。誰の命令を受けていたのか。こうまでして、わたしと貴之を殺したがっているのは、いったい誰?
真木は寒気を感じ、腕の中で眠ってしまった幼子をぎゅっと抱きしめた。たまらなく怖い。でも、ただ怖がってばかりはいられない。
「二十一人」
低い声が、ふいに傍でささやいた。見ると、あの牢人――忠長という舟守の頭領が横に立っている。彼は怪訝な顔をする真木に目を向け、うなずいて見せた。
「今、やつらの頭数を数えました。二十一人。この襲撃は、あらかじめ計画されていたようですね」
「え、ええ――わたしも、そのことを考えていました」
真木はあらためて彼のほうを向き、意外に若々しいその顔をじっと見つめた。
「忠長どの、でしたね。助けてくださって本当にありがとう」
「お礼には及びません、奥方さま。若君ともども、ご無事でなによりでした」
粗野な見かけとは裏腹に礼儀正しく、話し方もきちんとしている。いったどういう出自の人物なのだろう。
「あなたは今、西之屋の舟守をなさっているそうですが、それ以前はどちらのご家中でいらしたの?」
「いえ、家中などと……そのような」忠長は少したじろぐ様子を見せ、小さく咳払いをした。「わたしは法元国の者で、元は雇い兵でした。法州には傭兵座とでもいうべきものが数多くあり、腕に覚えのある者はたいていそこに所属しています」
「傭兵座?」
「はい。金で雇われて軍働きする者たちの集まりです。差配役の多くは小領主で、他国で戦が起こると彼らが条件を交渉し、折り合いがつけば麾下の雇い兵たちを一部隊単位で賃貸しする決まりになっています」
「雇い兵というのは備に一時雇いされる、陣借りの一個人を指すのだと思っていたわ」
「他国はそうだと思いますが、法州では違います。常に部隊単位で動くため仲間内の結束も固いですし、日ごろから厳しい戦闘訓練を受けているので、戦場では個人で参戦する者たちよりも役立つことは多いかと」
「あなたも、とてもお強かった。あの戦いぶりには目を瞠りました」
素直な感想を述べると、忠長は気恥ずかしそうに身じろぎして頭を下げた。
「過分なお言葉を賜り、痛み入ります」
「でも、なぜ雇い兵をお辞めになったの?」
「近ごろは戦が少ないので。それと――奥方さまは近年、法州を立て続けに見舞った災禍をご存じでしょうか?」
真木は眉を寄せ、記憶の中を探った。
「たしか昨年、大きな地震があったとか」
「はい。それに加え、火の山の噴火も起こりました。また、一昨年の夏には冷害。かと思えば今夏は旱魃」
「まあ、そんなに次々と」
「もはや国土は荒れ果てて悲惨な有り様となり、人々は互いに食らい合いかねないほど飢えています。わたしは国にいる妻子を何としても食わせていくため、高い報酬を求めて西之屋の舟守となりました」
絶え間ない災禍に苦しむ人々の呻きが聞こえてくるようだ。東峽の国とはつき合いがないため、災害があったことは聞いていても、それほどの惨状になっているとは思いもしなかった。
「法州の領主たちは、自領の民を助けないの? それに、近隣諸国からの支援はないのですか?」
「助けたくとも、領主ごとの力はさほど大きくはないのです。西峽の国々のように、みなをまとめられる国主がいるなら話は別でしょうが。また、近隣国に対して下手に弱気を見せると征服される恐れがあるので、どの領主も支援の要請には慎重になっています」
そうやって手をこまねいているあいだに、大勢が死んでしまったら元も子もないだろうに。そう思って考え込んだ真木は、ふとあることに気づいた。
「御山は? 東峽の人々は多くが御山の信徒で、祭主を君主同様に見なしているのでしょう。救いの手を差し伸べてはもらえないのですか」
忠長は苦笑をもらして首を振った。
「昔はそうでしたが、小領主たちが雇い兵の差配に乗り出したころから、法州は御山とは縁遠くなってしまいました。なにしろ金で命を売る商売をしているわけですから、とても祭主のお覚えめでたいというわけには」
言われてみれば、たしかにその通りだ。真木は完全に手詰まりになっている法州の苦渋を思うあまり、すっかり気が滅入ってしまった。よほどしょげた顔をしていたのだろう、忠長が気づかってくれる。
「奥方さま、我が故郷の窮状にお心を砕いてくださり、感謝の念に堪えません。ですが、どうかあまりお思い煩われませぬよう」
逆に慰められて、ますます申し訳なく思った時、突堤の入り口を守っている護衛がふいに大声を上げた。真木の鼓動が一瞬止まり、眉間がすっと冷たくなる。
何なの――これ以上、何が起こるというの。
だがそれは凶報を知らせる声ではなく、味方の到着を喜ぶ歓声であることがすぐにわかった。七草城から騎馬集団が駆けつけてきたのだ。そして、その先頭にいるのは真木が今もっとも会いたかった人物、夫の貴昭だった。
「どうして……」
彼がここに現れたことが信じられず、呆然と佇んだままつぶやく。主君の元へと急ぐ柳浦重益が、通りすがりに晴れやかな笑みを投げた。
「襲撃に気づいた時点で、城へ知らせを走らせていたのです」
あの混乱のさなかにも彼がすべきことをしていたと知り、真木はその冷静さと周到さに舌を巻く思いだった。
わたしも、もっと落ち着こう。いちいち動揺していてはいけない。夫が来てくれたのは嬉しいけど、家臣たちが見ているのだから、国主の奥方らしく控え目に、慎み深くして迎えよう。
そう自分に言い聞かせて、飛んでいきたい気持ちを必死に抑える。
しかし貴昭は馬を止める間も惜しんで飛び降りると、一目散にこちらへ駆けてきて、貴之ごと真木を抱きしめた。眠り込んでいた息子が驚いて目を覚ますほどの激しさだ。
「無事でよかった」
耳元でささやく彼の声が胸にしみた。やっと心の底から安全を確信できて、体から力が脱けていく。
「殿、みながよく戦ってくれました」気がゆるんだせいで、少し涙声になってしまった。「それから、たまたま居合わせた船の人たちも」
貴昭はそっと真木を放し、周りで控える家臣一同を見渡した。むろん彼は自分の家来に対して、この場で仰々しく賞辞を述べたりはしない。だがその眼差しには、役目を果たした者たちへのねぎらいと深い感謝の念がこもっており、護衛衆もそれを充分に感じ取っているのがわかる。
「船の者というのは?」
夫の問いかけに、真木は急いで答えた。
「東雲国の貿易商、西之屋清兵衛どのと舟守の衆です。戦いへの加勢のみならず、清兵衛どのは海に落とされた貴之を、舟守の頭領である忠長どのは危ういところでわたしを救ってくれました」
貴昭は、脇に退いていた西之屋一同の元へ大股に歩いて行き、いかにも主人然とした清兵衛の前で足を止めた。
「西之屋清兵衛か」
彼が静かに問うと、清兵衛は穏やかに微笑んで低頭した。
「はい」
「我が家中への助力に報いたい。何か望みはあるか」
「そのお言葉だけ、ありがたく頂戴いたします」
貴昭は彼をじっと見つめ、満足げにうなずいた。
「いずれ、商いの話で声をかけるやもしれぬ」
これは御用商に取り立てる可能性を匂わせる言葉で、並みの商人なら舞い上がって食いつくところだが、さすがに清兵衛は身の処し方を心得ている。
「どうぞいつなりと、お声がけくださりませ」
それで彼との会話を打ち切り、貴昭は次に舟守たちに目を向けた。
「頭領の忠長というのは」
「は。ここに」
少し固い声で答え、忠長は深く頭を下げた。
「妻を救ってくれたと聞いた。望むまま、何なりと褒美を取らせる」
「めっそうもございません。微力ながらお役に立つことができただけで、光栄の至りに存じます」
「では、これを」
貴昭は腰の大刀を抜き取り、鞘を横に掴んで差し出した。忠長が驚きに目を瞠り、腰を屈めながら押し戴く。
「ありがたき幸せ」
やり取りを終えて戻ってきた貴昭を、真木は満面に笑みを湛えて迎えた。彼が惜しげもなく愛刀を与え、忠長に充分な感謝を示してくれたことが嬉しい。それは取りも直さず、妻に対する彼の愛情の深さの表れであると思えた。
「急ぎ、城へ引き揚げる。舟座から荷車を借り、人足を集めて負傷者と死者を運ばせろ。敵の死体もすべて持ち帰り、入念に素性を検めさせる。徒歩の者は隊列中央で駕籠の脇を守り、騎馬の者は前後を固めよ」
貴昭は次々に指示を出し、重益を手招いた。
「みな殺したのか」
「先ほど見た時には、まだ息のある者が三人おりました」
「よし。生かしたまま連れ帰れ」
声をひそめて命じる貴昭の目が剣呑な光を帯びた。その佇まいから、火のような激しい憤りが感じ取れる。
真木は彼という男のすべて――光だけでなく影の部分も愛しているが、こういう時の貴昭に恐れを抱かずにいるのは難しかった。
彼の怒りを燃え立たせた襲撃者たちは、いっそ死んでいたほうがよかったと思うほどの責め苦を受けるだろう。たとえこの一件の黒幕を明かしたとしても、彼らが七草城の地下から生きて出ることはない。
しかし、指示を終えてこちらを振り向いた貴昭の双眸はいつも通り明るく、優しいいたわりに満ちていた。
「真木、駕籠へ」
差し出された腕に貴之を預け、真木は突堤の入り口に用意されている駕籠まで、夫に付き添われながらゆっくり歩いた。
「海に落とされた、と言ったな」
海水に浸かった貴之は、全身ぐっしょり濡れている。潮垂れた前髪をかき上げてやりながら、貴昭はすやすやと眠る我が子の顔を覗き込んだ。
「よく無事だったものだ」
「清兵衛どのが言うには、助けに行くと平気な顔をして泳いでいたそうです」
「泳いでいた?」
貴昭は鸚鵡返しに言って、心底楽しげな高笑いを響かせた。
「それはすごい。おれの子は海竜の化身だったか。今度、大盥に水を張って浮かべてみよう」
「あなたはおもしろがっていらっしゃるけど、わたしは命が縮む思いでした」
呑気さが癪に障ったので眉をひそめると、笑いを噛み殺しながら、あやすように背をなでられた。
「まあ、そうへそを曲げるな」
真木と貴之が駕籠に乗り込むと、一行は城に向かって歩き出した。貴昭は馬に跨がり、駕籠の左横にぴったりついて進んでいる。
湊を出て農道に入ると、真木は引き戸を半分開けて夫に声をかけた。
「殿、少しお話ししても?」
「どうした」
馬上から貴昭が視線をよこす。
「女が口を出すようなことではないのですが、ちょっと思いついたことがあって」
「聞こう」
「郡楽の御屋形さま――義兄上さまから、東峽の国との同盟を推し進めるよう命ぜられたとおっしゃっていたでしょう」
「そうだ。だが伝手が何もないので、どこから始めたものか考えあぐねている。何か良案でも浮かんだか」
「その前に、ひとつお訊きしたいことが。立州はここ数年豊作続きで、備蓄の米がかなりの量になっていると聞きました。それはほんとうですか?」
「ほんとうだ。村落から人が減っているにも関わらず、反当たりの収量はむしろ増えている」
「そうですか」相槌を打ちながら、頭の中で素早く考えをまとめる。漠然とした思いつきだったが、言うだけ言ってみても損はないだろう。「その米を〝救い米〟として、ある国に放出するというのはどうでしょう」
「どこの国へ?」
そこで真木は、忠長から聞いた法州の現状をつぶさに語って聞かせた。貴昭も災害のことはある程度知っていたが、詳しく把握していたわけではなかったらしい。人食いすらも起きかねない状況だと聞いて、さすがに驚いた表情を見せた。
「なるほど、かなり追い詰められているようだな。そこへ〝救い米〟を出して支援すれば――」
「同盟の足がかりになるかもしれません」
貴昭は真剣な面持ちで少し考えてから、再び真木のほうを見た。
「しかし、そうまでして手を組むほどの価値が法州にあるだろうか」
これこそ、彼女が待っていた問いだった。
「彼の国には、小領主たちが差配する傭兵座というものがあるらしく、それが来る戦の助けになると思うのです」
忠長が話していたことを思い出しながら、真木はできるだけ詳しく説明した。部隊単位で貸し出されること。実戦向きの精鋭集団であること。何より、かつてその一員だったという忠長が、多人数を相手取って並はずれた強さを見せたこと。
「忠長どのの戦いぶりは、ほんとうに見事なものでした。法州の雇い兵が彼と同じくらい戦えるのなら、きっと心強い味方になるはずです」
貴昭は思慮深い眼差しをして、ゆっくりと二度うなずいた。
「わかった。この件については、評定衆と話し合ってみよう」
「はい」真木は夫と目を見交わし、にっこり笑った。「耳を傾けてくださって感謝します」
戸板を静かに閉め、薄暗くなった駕籠の中で、ふうっと息をつく。こういうことには不慣れだが、ともかくできるだけのことはした。
もし意見が容れられて実現に至ったとしても、飢餓に苦しむ法州の民がすべて救済されるわけではないことはわかっている。だが少なくとも、今の苦境から脱け出すための一助にはなるはずだ。
命を救ってくれた忠長への恩義に報いるためにも、真木はこの試みが実を結ぶよう祈らずにはいられなかった。
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