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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第四章 別れゆく夏
42/161

四十一 王生国天山・石動元博 助太刀

 待たされるのも、罰のうちだろうか。

 石動(いするぎ)元博(もとひろ)は畳に胡座(あぐら)をかき、部屋を仕切っている襖に顔を向けたまま、ぼんやりと考えていた。そこに描かれた夏草と駒鳥(こまどり)の絵は見事だが、もうすっかり見飽きてしまったので、目には映っていても意識の上を素通りしている。

 一来(いちらい)将明(まさあき)が予言した通り、亜矢(あや)姫の自傷騒ぎから半刻も経たずに、黒葛(つづら)家一行は(いわい)城の本曲輪(ぐるわ)御殿へ召し出された。だが、来てはみたものの、表に付属する別棟の一室に入れられたきりで、もうかれこれ四刻ほども所在なく過ごしている。誰も呼びに来ないし、様子を見に来る者もない。

 夕刻が近づいたころに一度だけ、御殿女中が明かりを(とも)しに入ってきた。だが、何を訊いても平伏して首を振るばかりで、一向にらちが明かない。おそらく、余計なことを話さないよう、事前に厳しく言いつけられていたのだろう。

 城へ呼ばれたのは、事件の当事者である黒葛貴昌(たかまさ)、現場に居合わせた元博と朴木(ふのき)直祐(なおすけ)、そして南部衆の長である黒葛禎貴(さだたか)だけだった。ほかの者たちは同行を許されなかったため、桔流(きりゅう)邸に居残っている。柳浦(なぎうら)重晴(しげはる)らは憤慨し、無理にでもついて来そうな勢いだったが、禎貴がなだめて引き下がらせた。

 全員で乗り込むような真似をすると、大皇(たいこう)の心証をさらに害しかねない。重晴たちも、むろんそれはわかっているのだが、貴昌のことが心配でたまらないのだ。

 元博も彼らと同じだった。少年に理不尽な処罰が加えられることを、何よりも恐れている。だが直祐にそれを打ち明けたところ、道理を説いて不安をやわらげてくれた。

「若君に危害が及ぶようなことはありませんよ」

 彼は控えの間への道すがら、いつもの調子で静かに言った。

「もし我々が断罪されることになったとしても、大皇は貴昌(ぎみ)の御身を傷つけるような真似は決してしません。天山に戦を仕掛ける口実を、黒葛家に与えることになりますから」

 それで思い出したが、大皇は謁見の際にこう言っていた。大事な預かり子に何人たりとも害をなすことのないよう、充分に目を配る――と。人質である貴昌は和平を保証する担保であり、天山にとっても欠くべからざる存在なのだ。

 彼がここで日々つつがなく暮らしているうちは、黒葛家が大皇に牙を剥くことはない。だが、その身にもしものことがあれば、即座に大軍を催して攻め上ってくるだろう。

 戦乱の火種を燃え上がらせないためにも、貴昌は安全に守られ、健やかでいなければならないのだ。

 遅ればせながらそのことに気づき、元博はあらためて人質という役目の複雑さと重さを再認識させられた。わずか七歳の少年が背負うには大きすぎる荷物だ。だが、武家に生まれた者の宿命というものなのかもしれない。

 しかし貴昌は無事でいられるとしても、まったく何の刑罰も受けずに済むとは思えなかった。もしこちらの言い分が認められず、黒葛家に(とが)ありとされた場合、大皇は権威を保つためにも厳しく処罰し、家臣たちに確固たる姿を見せつけなければならないはずだ。 

 懸念する元博に、直祐は直截簡明にこう答えた。

「刑罰が科せられることになれば、傅役(もりやく)であるわたしが受けます」

 考えるまでもないと言わんばかりで、彼の表情や声には、わずかの乱れもなかった。

「おそらく笞刑(ちけい)か、杖刑(じょうけい)あたりになるでしょう」

 元博は、その時の彼の決然とした態度を思い出し、自らもそうあろうと心を引き締めた。

 罰を与えると言われたら、直祐どのに後れを取ることなく、わたしもすぐさま進み出よう。(むち)で十回打つというなら、同じ数だけ一緒に打たれよう。そして、疚しいことなど何もないのだから、決して声を上げず、顔を伏せず、黒葛家中らしく毅然としているのだ。

 実際にそこまで格好をつけられるかどうかは疑問だが、とりあえず、痛みと屈辱に耐える覚悟はできた。だが、今回の一件でこちらに非があるとされるのは、やはり我慢がならないとも思っている。

 ふと、三廻部(みくるべ)亜矢の顔が頭に浮かんだ。すべての元凶。災厄の種。彼女はまるで、振り払えない悪夢のような存在だ。かかわりたくなどないのに、向こうから執拗にかかわってくる。

 そういえば――元博は相変わらず襖にじっと目を据えたまま考えた。顔を合わせるたびに、あの姫君から〝殺す〟と言われている気がする。そんなにも嫌いなのなら、無理に近づいてこなければいいものを。

 小さくため息をついて身じろぎした拍子に、いささか体裁が悪いほど大きな音で腹が鳴った。痛々しく張り詰めた表情で黙り込んでいた貴昌が、それを聞いてぷっと吹き出す。

「お腹に生き物が入ってるみたいだ」

「知らないうちに、何か呑み込んだかもしれません」元博は照れ笑いをしながら言った。「きっと、今のは餌の催促ですね」

 禎貴と直祐にも笑われて気恥ずかしいが、貴昌が笑顔になったのは嬉しかった。少年は亜矢の負傷に自責の念を感じているようで、あれからずっとふさぎ込んでいる。なんとか元気を取り戻して欲しかった。

「若君も、お腹がお空きになられたでしょう」

 そう気づかうと、貴昌は生真面目な面持ちで首を振った。

「まだ、だいじょうぶ」

 我慢強いなあ、と元博は心の中でつぶやいた。昼餉を取ってから半日以上経っているのだから、空腹でないはずはないのに、泣きごとひとつ言おうとしない。

「飯はともかく――」貴昌の様子をじっと観察しながら、禎貴が考え深げに言った。「白湯(さゆ)なりともらえぬか、訊いてみるとしよう。渇きがおさまれば、少しは楽になるだろう」

「では、わたしが」

 元博はすぐに腰を上げた。先ほど手水(ちょうず)を使うために外へ出たので、襖を開けた先の部屋に見張りがいるのは知っている。丁寧に頼めば、便宜を図ってくれるかもしれない。

 しかし足を踏み出しかけたところで、思いがけず外から襖が開かれた。見ると、入り口に女性がひとり座っている。先ほど明かりを灯しに来た、元博とそう変わらない年ごろの御殿女中だ。

「失礼いたします」

 小さいが、よく通る声で言って頭を下げ、彼女は遠慮がちに室内へ入ってきた。茶器を載せた、重そうな盆を携えている。

「お茶をお持ちいたしました」

「これはかたじけない」

 元博が言うと、彼女は肩をすぼめてうつむき、深々と平伏した。

「奥で()れてまいりましたので、少し――ぬるいかもしれません。どうかご辛抱くださいませ」

 全員が顔を見合わせた。みな、不思議そうな表情をしている。茶を淹れる場所ぐらい表御殿にもあるだろうに、なぜわざわざ奥御殿から運んできたのだろう。

 女中はそれぞれの前に白磁器の茶碗を置き、少し下がってからまた平伏した。しかしすぐには出て行かず、畳を見つめたまま何か考えている。

 やがて、迷いがふっきれたように顔を上げると、彼女は袂からおもむろに何か取り出した。朝顔の花丸文が染め抜かれた、きれいな色合いの風呂敷包みだ。表面をさっとなでて皺を伸ばし、それをいちばん近くにいた元博に差し出す。

「あのう、これは……?」

 当惑しながら受け取った元博に、彼女は声をひそめて囁いた。

「このようなもので失礼とは存じますが、よろしければ、お召し上がりください」

 それだけ言って、彼女はそそくさと部屋を出て行った。音もなく襖が閉められ、また仲間内だけになる。

 元博が首を傾げながら風呂敷を開くと、竹の皮包みがふたつ出てきた。中には小さめに握った結び飯がいくつも入っており、脇には茄子と胡瓜の漬物も添えてある。

 つやつやした白米を見ただけで、たちまち口中が唾でいっぱいになった。

「お結びだ」

 思わず声が弾む。食べ物を見て目の色を変えるなど浅ましいと思うが、この状況で喜びを表さずにいるのは難しかった。

「我々が空腹だろうと気づかって、こっそり奥の台所で作ってきてくれたみたいですね」

「城内に、思わぬ味方がいたものだな」禎貴はそう言って微笑んだ。「なんにせよ、ありがたい」

 直祐が先に少し口をつけ、安全であることを確かめてから、あらためて全員で結び飯をほおばった。普段は小食気味な貴昌も、目を輝かせて嬉しそうにぱくぱくと食べている。

 元博は、奥御殿で供されている米の質にまず感心した。甘い。それに風味がいい。粒が大きく、ふっくらしていて、噛めば噛むほど味わいが増す米だ。

 俵型の結び飯は、軽くごま塩をつけて握ってあった。それだけでなく、中には甘辛い昆布の細切りも入っている。やわらかく煮付けてあり、舌の上でとろけるようだった。

「美味しいですねえ」

 感想をもらすと、向かいに座る貴昌がにっこり笑った。

「うん。去年の春に、父上やみんなと一緒に庭で食べたお結びも美味しかったけど、これも負けていないな」

 城内で花見の宴でもされたのだろうか、と思いながら、元博は少年の表情を窺った。いくらか元気が戻ってきたようだ。

 元博自身も、かなり気分が上向いたのを感じていた。四方を敵に囲まれているようで、やや心細くなっていたが、こうして心配りをしてくれる人もいる。そう思うと、力が湧いてくる気がした。

 あのお女中の名前を訊けばよかった。今になって、後悔の念がよぎる。でもきっと、いずれまた顔を合わせる機会があるだろう。その時には名前を教えてもらって、どれほどありがたかったかを伝え、きちんとお礼を言おう。

 朝顔の風呂敷をきれいに畳んで懐へしまいながら、彼はそう心に決めた。


 ようやく呼び出しがあったのは、それからさらに一刻以上経ってからだった。すでに深更を過ぎている。

 貴昌(たかまさ)はさすがに精根尽き果てた様子で、座ったまま半分眠りかけていた。いつもなら、もうとっくに夢の中にいる時刻だ。それは元博(もとひろ)にしても同じことだった。禎貴(さだたか)直祐(なおすけ)が普段いつ床についているのかは知らないが、それでもこんな刻限まで起きていることはめったにないだろう。

 通されたのは、先日大皇(たいこう)に拝謁した大広間ではなく、表御殿の西の端にある三十畳ほどの板間だった。周囲を仕切るのはヒノキの戸板で、彫刻欄間などの座敷飾りもなく、剣術道場のように簡素で寒々しい設えだ。

 正面には大畳が横並びに三枚敷いてあり、その中央に三廻部(みくるべ)勝元(かつもと)胡座(あぐら)をかいている。本紋を織り出した綸子(りんず)の内着を着て、袴はつけず、法衣のように袖の大きい黒絹の単衣(ひとえ)を羽織っていた。寝床から這い出してきて、そのまま着座したような姿だ。

 彼の手には例の如く、蒔絵を施した朱塗りの盃があった。長い注ぎ口のついた注器を携えて、小姓が脇に控えている。反対側にはもうひとり別の小姓がおり、酔って顔を赤くしている大皇に団扇(うちわ)で風を送っていた。

 酒を飲んでいたのか――元博は平伏しながら、憮然と考えた。若君をあの部屋で半日近くも待たせておいて、そのあいだに飲んだくれているなんてあんまりだ。

 室内には、ほかにも大勢の人間がいた。謁見の際に見かけた顔がいくつもある。こんな時刻に呼び集められたためか、名家の当主たちは皆そろって仏頂面をしており、少し疲れているように見えた。彼らもまた集合だけさせられて、大皇の気が乗るまで延々と待たされていたのかもしれない。

 元博はわずかに顔を上げ、目を左右に動かして、さらに周囲を見渡した。

 一来(いちらい)将明(まさあき)がいる。彼は右に居並ぶ人々の中に混じり、厳つい顔に物憂げな表情を浮かべてじっと前を見据えていた。そこからふたり置いた先に、月下部(かすかべ)知恒(ともつね)の姿もある。彼は白皙の細面に何ら感情を表さず、一輪の水仙のように端然と座っていた。

 このふたりがここにいるということは、亜矢(あや)姫は奥御殿にこもっており、詮議の場には出て来ないのだろう。腕の傷は寝込むほど重いものではなかった。単に、子供はもう寝ている時間というだけのことだ。

 左に視線を流した元博は、そこにいる人々の上をさっとひと掃きして、桔流(きりゅう)和智(かずとも)の姿を見つけた。彼の顔つきは引き締まり、いつにも増して冷厳に見える。だが、硬い表情にならざるを得ない気持ちは理解できた。なにしろこれから、彼の孫娘と被後見人が桔流邸内で起こした事件について話し合われるのだから。

 正面に目を戻すと、向かって左側の大畳に座る大皇妃真名(まな)が見えた。今夜の彼女は豊かな黒髪に、真珠と銀線の優美な飾りをつけている。まとう打掛は澄んだ海の水を織物にしたような藍緑(らんりょく)色で、さながら海竜帝の(きさい)の宮とでもいった風情だ。だがその美しい顔は、光の届かない深海の岩のように冷たく凍りついている。

 ひどく腹を立てているようだ。だが、何に対してだろう。娘が傷を負ったことにか。それとも、こんな夜更けに詮議が行われることにか。

 ふいに勝元の銅鑼(どら)声が響き、元博の思考を断ち切った。

「よし、始めよう」

 いらいらした口調だった。まるで、長いあいだ待たされていたのは自分だとでも言うかのようだ。

「本日、桔流邸で亜矢が刀傷を負った。姫が申すには、黒葛(つづら)貴昌から卑劣なる不意打ちを受けたそうだ」

 居並ぶ一同が、わざとらしいどよめきをもらした。すでに概要は知っていただろうに、いま初めて聞いたという顔で不快を露わにしている。

 大皇は盃を持っていないほうの手を上げ、家臣たちを静まらせた。

「だが、一方からだけ話を聞くのは、片手落ちと言えよう。なぜそのような仕儀と相成ったのか、貴昌よ、そなた自身の言葉で話すがよい」

 勝元は酒をぐいっとあおり、ふーっと長く息を吐いてから、鋭い目を貴昌に向けた。

「そなたが脇差しを奪い取り、うしろから襲ったと姫は申している。それに相違ないか」

「いいえ。姫君は、思い違いをなさっておられます」

 体は緊張で少し(こわ)ばって見えるが、貴昌の声は明澄で、口調も落ち着いていた。

「わたしは女性(にょしょう)を打つようなことはしません。姫君から剣術遊びに誘われた時も、万一のことがあってはと思い、お断りいたしました」

 勝元が眉尻を高く上げ、少年をじろりと睥睨する。

「姫が嘘をついていると申すか」

「思い違いをなさっておいでです」

 威圧にも怯むことなく、貴昌は静かに繰り返した。

「お怪我をされたので動転して、そのように思い込んでしまわれたのでしょう」

 うまい、と元博は唸った。亜矢姫は実際に嘘つきだが、はっきりそう言えば角が立つ。だが貴昌は彼女をいっさい批判することなく、自らの正当性を主張してのけた。これ以上に上手な答え方は、おそらくないだろう。

 鮮やかな切り返しに感心したとしても、勝元はそれを表には出さなかった。

「ではそもそも、刀を抜いたのは誰だ。姫か、そなたか」

「姫君です。わたしがお相手をお断りしたので、一度は去ろうとなさいましたが、そのあとで抜刀して向かってこられました」

 同席する人々の様子が微妙に変わった。さすがに大皇の手前、誰もあからさまに得心の表情を見せはしないものの、()もありなん、とすんなり呑み込む空気が流れている。みな内心では、「亜矢姫ならば、そういうことをやりかねない」と思っているのだ。

 それでも、彼らは黒葛家の味方はしないだろう。大皇の機嫌を損ねるより、貴昌を悪者にしてしまうほうが簡単だ。

 勝元は不機嫌そうに鼻を鳴らし、また酒をひと口飲んだ。

「つまり、姫が騙し討ちを仕掛けた、と申すのだな」

「いいえ。そのようなことを、なさるはずがありません。あの時――姫君は、ふざけておられたのだと思います」

 元博は貴昌の声を聞きながら、わたしは浅薄だなあ、と恥じ入った。あの場で一来将明に向かって、亜矢姫は嘘つきだ、非は彼女にあると断言してしまったのは、今考えると軽率だったとしか言いようがない。

 この幼い(あるじ)は、頭の働きも人間としての格も、自分より数段まさっているようだ。

 目を上げると、気難しい顔をして口をへの字に曲げている大皇が見えた。彼もまた、少年の意外な落ち着きぶりと、非の打ち所のない返答にいささか呑まれている様子だ。糾弾されても萎縮せず、といって居直るでもない相手というのは、きっと扱いづらいに違いない。

 勝元は小姓に注がせた酒を立て続けに二杯あおり、どこかむず痒いところがあるかのように体を揺すってから、あらためて口を開いた。

「そなたの言い分はわかった。だが、姫が申したこととは食い違っている。つまり、どちらかが誤っているのだ。それがどちらであるのか、はっきりさせねばならぬ」

 彼は家臣たちのほうへ顔を向け、将明に目を留めた。

「将明、どう思う」

「難しゅうございますな」

 涼しい顔で言い、彼は元博らを意味ありげに見た。

「なにしろ、その場に居合わせたのは黒葛家中のみ。むろん彼らは、己らに非はないと主張するでしょう。しかし、その言葉を鵜呑みにしてよいものかどうか」

「黒葛禎貴、どうだ」

 水を向けられた禎貴は、将明の言葉に気分を害した様子もなく、冷静に答えた。

「これは黒葛家の名誉にかかわること。断じて、詭弁を弄するつもりはありませぬ。が、信じるかどうかは、受け取る側次第」

 大皇はますます難しい顔をして、大きなため息をついた。

「貴昌よ」重々しく呼びかける。「姫に傷を負わせたのはそなたではないと、父の名に恥じることなく誓えるか」

「はい」

「あとで虚言とわかれば、ただではすまさぬ。非を認めるなら今だぞ。どうだ、それでも、先ほど申したことを翻すつもりはないか」

「はい。姫君の脇差しにも、お体にも、誓って一指も触れませんでした。ですが、お怪我をされたのは、わたしにも責任があります」

 聴衆がざわめき、元博の鼓動が跳ね上がった。大皇も、将明すらも当惑の面持ちを浮かべている。だが貴昌は動じることなく、静かに先を続けた。

「刀を向けられた時、避けることができなかったので、木太刀で受けて突き返してしまいました。そのため、お体に刃を引きつけたまま倒れられ、傷を負われたのだと思います。わたしが、もっと上手に受け止めていれば……」

 貴昌は少し言葉を切って、唾を飲み込んだ。

「おそばにいながら、姫君をお守りできず、申し訳ありませんでした」彼はそう言い、畳に両手をついて低頭した。「わたしの不手際ですから、どうぞご処罰ください。ですが、家来にはお手出し無用に願います」

 元博も直祐も、そして禎貴もはっと息を呑んだ。まさか、彼がこんなことを言い出すとは誰も予想しておらず、完全に虚を()かれた形だ。それは大皇やその家臣たちにとっても同様で、誰もが言葉を失い、ただ少年の凛とした姿に驚愕の視線を注ぐばかりだった。

 若君――元博は圧倒されたまま、胸の中でつぶやいた。こんな強さを、いつもはどこに隠しておられるのですか?

 弱々しい、らしからぬと言われていても、やはりこのかたは黒葛家のお子だ。あらためてそれを実感した。間違いなく、人の上に立つ器量を持っている。

「なんと巧みに弁舌を振るわれることか」

 ふいに、将明が言った。彼独特の、人を()らすようなのんびりとした口調だ。

「真摯なお言葉に、この将明も感じ入りました。ですが、亜矢姫がまったく異なる主張をされ、貴昌君を非難しておられる事実を忘れるわけにはまいりません」

 居並ぶ人々が、ふと夢から覚めたような顔つきになった。それもそうだな、というように目を見交わし、うなずいている。

 元博はぐっと胸につかえるものを感じて、思わずうつむいた。やはり無理なのか。何を言おうと、たとえこちらが全面的に正しかろうと、(はな)から負けることに決まっているのだろうか。

 その時、どこからか声が上がった。

「おそれながら」

 人々が目を向けた先にいたのは、月下部知恒だった。彼は全員の注目を集めながら、そのすべてを無視するように、勝元にのみまっすぐ意識を向けている。

 大事な娘を任せている護衛役が、この場で何を言い出すのかと、興味をそそられた様子で大皇が先を促した。

「なんだ、申してみよ」

療師(りょうじ)の手当てを受けられる際に、姫君の傷を拝見しました」

「うむ。それで」

「左上腕の内側、下から上へ向けて斜めに、長さ三寸あまり」凪いだ海のように穏やかな声で、彼は淡々と話した。「姫君は刀を奪われ、うしろから襲われたとおっしゃいました。ですが、背後からあの位置、あの角度に刃を入れることは、このわたしにもほぼ不可能です」

 元博はどきりとして、知恒を凝視した。まさか、彼は我々に味方しようとしているのだろうか。だが、感情を表さないその顔からは、何も読み取れない。

「逆袈裟に斬り上げ、あの傷を負わせようとすれば、必ず腿や腰のあたりに刃が触れます。しかし姫君のお体にほかの傷はなく、お召し物も(あらた)めましたが、どこも破れてはおりませんでした」

 勝元の太く濃い眉尻が逆立った。双眸が剣呑な輝きを帯びる。

「つまり、どういうことだ」

「つまり――」知恒は顔色ひとつ変えず、さらりと言った。「黒葛家のご嫡子がおっしゃられた通り、負傷の経緯に関して姫君は思い違いをしておられるのです」

 水を打ったように、しんと室内が静まりかえった。

「人は転びそうになると、無意識に何かにつかまろうとするもの。おそらく姫は足がもつれた際に、お手にあった刀を()い込むようにして転倒されたのでしょう。それならば、ああいう傷になった説明はつきます」

 もう充分話した、というように口をつぐんだ彼を、大皇は(まなじり)に力をこめて()めつけた。

「では、この件で責めを負うべき者は誰もおらぬと?」

 皮肉っぽい口調で問われた知恒は、少し考えてから平然と答えた。

「敢えて誰か、というなら、それは不用意に姫君のおそばを離れた一来将明かと」

 いきなり名指しされた将明が、目を丸くして彼を見つめる。

「何を言うのだ」

傅役(もりやく)が目を離してなんとする」

「当の姫君に追い払われてしまったのだから、仕方があるまい。おぬしこそ、ついてくるなと命じられて、遠侍(とおさぶらい)に留まったではないか」

「いかにも。今後は姫がどう仰せられようと、離れぬようにせなばならぬ。陛下、どうぞ我らにそうご下命ください」

 完全に矛先を逸らされた形になり、大皇は見るからに不満げだった。だが、これ以上しつこく議論を蒸し返すわけにもいかないと判断したらしく、不承不承うなずいて見せる。

「うむ。しょせん亜矢はまだ子供だ。何でもあれの言う通りにすればよいというものではない。両名は今後、必要と思う時には下知に逆らってでも、姫の身の安全を第一に図るようにせよ」

「は。(しか)と心得ました」

 知恒が頭を下げ、将明も急いでそれに続く。

 勝元はまだ納得していない様子だが、室内の空気はすでにゆるみつつあった。姫君の負傷は単なる事故だった。だれも騙し討ちなどしていないし、嘘もついていない。それで万事解決ではないか、と誰の顔にもそう書いてある。

 桔流(きりゅう)和智(かずとも)も、厳めしい表情こそ変わらないものの、内心ではほっとしているように見えた。終始この場では口を利かなかったが、孫娘と預かり子の板挟みで、さぞ苦しい思いをしていたに違いない。

 夜更けまで長々とつき合わされた人々が、次第にじりじりし始めている。その雰囲気を感じ取り、ついに勝元は詮議の終了を宣言した。

「すべてつまびらかとなったゆえ、これで終わりとする。みなの者、大儀であった」

 苦々しい顔つきで吐き捨て、大皇は盃を投げるように置いた。脇息が転がるほどの勢いで立ち上がり、巨体を揺すりながら部屋を後にする。彼が足を踏み出すごとに、周囲の空気が揺れるように感じられた。そのあとを、小姓たちがばたばたと追って行く。

 切り抜けた――元博は平伏したまま勝利をしみじみと噛みしめ、心の底から安堵をおぼえた。思わぬ援軍が現れたお陰だ。

 知恒自身は単に気づいたことを述べただけで、こちらに力添えする意図はなかったのかもしれない。だが、あれがなければ、話はもっとこじれていただろう。実際、将明のほうは明らかに、一度落ち着きかけた流れをまた混ぜ返そうとしていた。あの傅役がどんなつもりだったのかは、正直よくわからない。

 元博は顔を上げ、救い主の姿を探した。知恒はまだ室内に残っているが、すぐに出ていきそうだ。

 声をかけようか。だが何と言えばいい? ありがとうございました、などといきなり言っても、怪訝な顔をされるか鼻で笑われるだけのような気がする。

 その時彼は、上座から知恒に険しい視線を注ぐ真名に気づいてはっとなった。大皇妃は畳の上にすっくと立ち、顔を少しだけ彼のほうへ向けて横目に睨みつけている。

 知恒自身も、怒気をはらみ、氷の刃のように突き立ってくる眼差しに気づいている様子だ。だが彼女のほうを見ることはせず、ただじっと立ち尽くしている。

 ふたりを見比べながら、元博は胸がどきどきするのを感じた。亜矢姫の母親と護衛役。彼らのあいだには、何か軋轢でもあるのだろうか。

 やがて真名はすっと視線を逸らし、打掛の裾を引きながら歩き出した。目にも鮮やかな藍緑色が、すぐうしろに続く侍女たちの群れに呑み込まれて消える。すると知恒もまた即座に(きびす)を返し、何ごともなかったかのように退室していった。


 (いわい)城を出ると、頭上には満天の星空が広がっていた。空気がひんやりとしていて清々しい。

 あまりに遅くなったので、朝まで本曲輪に留まるよう桔流和智から勧められたが、元博らは一刻も早く〈賞月(しょうげつ)邸〉へ戻りたかったので丁重に断った。同じ休むなら、気の置けない仲間に囲まれて休みたい。

 体は綿のように疲れ切り、だが気分は勝ち戦のあとのように意気揚々と、彼らは馬の背に揺られて曲輪をゆっくり降りていった。貴昌は禎貴の前に乗り、機嫌良く鼻歌を唄ったりしている。途中で眠ってしまうだろうと誰もが思っていたが、少年は少し興奮気味で、三の曲輪に着いてもまだ目をぱっちり開けていた。

「若君、お疲れでしょう。もうじきお休みになれますよ」

 元博が声をかけると、貴昌はにっこりして首を振った。

「あんまり眠くない。どうしてかな、すごく元気なんだ」

「不思議ですね」

「あのお結びを食べたからかもしれない」

 彼の言葉を聞いて、元博の脳裏に、もっちりと甘い米の味が蘇った。たしかに旨かったし、あの差し入れがなかったらとっくに体力も気力も尽きていた気がする。

「感謝しないといけませんね、あのお女中には。それと、亜矢姫の護衛役どのにも」

 低くつぶやくと、隣で馬を進めている直祐が神妙な顔で同意した。

「ええ、ほんとうに。しかし、月下部(かすかべ)知恒どのには驚きました。まさかあの場で、我らを利する発言をなさるとは」

 禎貴が手綱をさばきながらうなずく。

「大皇の機嫌を損ねることなど、まったく意に介さぬ様子であったな、あの剣士は」感慨深げに言って、彼は元博をちらりと見た。「唯々諾々として姫の下命に従い、元博を斬ろうとした人物でもあると思うと、いささか混乱してくる。だが、ありがたかったことは間違いない」

「若君があまりにご立派だったので、知恒どのもああせずにはおれなかったのでは」

 元博の言葉を聞き、貴昌は照れくさそうに頬を赤らめた。

「ほんとうは、すごく怖かった」

「でも、わたしたちを守ろうとしてくださいました」

「それは――」貴昌はふいに表情を引き締め、決然と夜空を仰ぎ見た。「だって、わたしはみなの主人だから」

 元博らがほのぼのと微笑んだ時、道の先に明かりが見えた。桔流邸の表門に、大きな篝火が焚かれている。その火に照らされて、数人の人影が浮かび上がった。

 開いた門扉の前に、柳浦(なぎうら)重晴(しげはる)の大柄な姿があった。隣には真栄城(まえしろ)忠資(ただすけ)由解(ゆげ)宣親(のりちか)もいる。そして、普段は空気のように存在感が薄く、誰ともあまり積極的にかかわろうとしない玉県(たまかね)吉綱(よしつな)すらもが、彼らのうしろから控え目に顔を覗かせた。いつ帰ってくるかもわからない一行を、彼らはひと晩中ここで待ち続けていたのだ。

 馬から下りた四人は、歓声を上げて駆け寄ってきた重晴らにわっと取り巻かれた。誰の顔も、無事に再会できた喜びに輝いている。

 その時元博は、貴昌を中心とするこの一団が、血族にも匹敵する強固な絆で結ばれていることを初めて実感した。

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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