四十 御守国御山・街風一眞 親子
スギの巨木が林立する山腹のくぼ地で、一眞は柔らかいシダの下生えに寝転び、夕暮れの空を背景に黒く際立つ樹影をぼんやり見上げていた。どこか近くの梢に郭公がいて、妙に心なごむ鳴き声を響かせている。
眠気を払うために伸びをすると、腹の上に頭を載せていた玖実が身じろぎして片眼を開けた。
「もう行く?」くぐもった、眠そうな声で訊く。
「ああ」
そう答えたものの、ふたりともすぐには動かなかった。
「このまま眠っちゃいたいわ」
玖実がつぶやき、大きな欠伸をする。一眞は手を伸ばし、彼女の髪についた落ち葉を取った。
「寝るなよ。あんまりぐずぐずしてると、当番を抜けたことに気づかれる」
今は夕七つの当番の刻限で、一眞は上弦道の掃除、玖実は行堂の裏手にある農地での作業をさぼって来ている。厨で働く料理当番とは違い、屋内にこもる仕事ではないので、こっそり抜け出すのはそう難しくなかった。だが同じ仕事をしている仲間に、不在を悟られてしまう危険性はある。
「下界も窮屈だけど、御山はもっと窮屈でつまんない」
玖実は愚痴を言いながら体を起こし、さも面倒臭そうに衣服を身につけ始めた。袖を通すために腕を上げると、しなやかな脇腹の曲線が露わになる。一眞は寝転んだまま、背中に浮き出た骨の形や乳房の丸みを眺めた。
見られていることがわかっても、彼女はまるで気にしない。自分の体には、恥じるところなどどこにもないと思ってるようだ。そして実際に、十六歳の玖実の体は瑞々しく、日々の鍛錬で引き締まり、しかも文句のつけようがないほど女らしかった。
「意外だった」万事衣の胸紐を結びながら、玖実がぽつりと言う。「あんたって、もっと荒っぽくするかなって思ってたから」
一眞は眉をひそめて半身を起こした。
「物足りないって意味か?」
「違う。馬鹿」
玖実が笑い、彼の裸の肩をぴしゃりと打つ。
「自分勝手じゃなくて、よかったって言ってるの。また気晴らししましょう。その気があるなら」
「ああ」
簡単に同意したあとで、筒袴に脚を突っ込みながら、一眞はずっと気になっていたことを訊いた。
「おれはおまえより若いし、たいして場数も踏んでない。ほかに、もっといい相手がいるんじゃないのか?」
玖実の笑みが広がる。
「初心はご免だけど、場数を踏んでるからいいってもんでもないわ」
「そういうもんか」
「そうよ。それにあんたは、あたしの憧れてる人に、ちょっと似てるしね」
手を止めて、一眞は玖実をまじまじと見つめた。いつも強気な彼女が珍しく怯んだ様子を見せ、しおらしく目を伏せる。口が滑った、と後悔しているようだ。
「そんなに、じっと見ないでよ」
「どんなやつなんだ?」
「御山にいるわ」
意外な答えだった。御山にいる者で、自分と似ている人物など、一眞にはまったく思いつかない。
「堂長よ」挑むように言って、玖実が顔を上げる。「千手景英さま」
一眞は唖然として、それから笑い出した。思った以上に声が響いたので、急いで口を手で覆う。玖実が剣呑な眼差しを向け、唇をつんと尖らせた。
「何が可笑しいのよ」
「おまえが変なことを言うからさ。おれと堂長のどこが似てるんだ。顔立ちも体つきも、全然違うだろう」
「見た目のことなんて言ってない。雰囲気が似てるの。それと、太刀筋ね」
一眞は口をつぐみ、しばし考え込んだ。あの男とおれの太刀筋は似ているだろうか? 毎日教えを受けているのだから、ある程度は似ていて当然とも思うが、それならほかの修練者だって似てくるはずだ。彼女がどこを基準に、自分とほかの者とを分けているのかがわからなかった。
「太刀筋は師匠に似るものだ」
警戒しながら、曖昧に言う。すると、玖実はふっと微笑をもらした。
「教えを受けたとか、そういうのとは関係ないところで、どこか似てるって感じるのよ」
また考え込まされた。こんなことを人に言われたのは初めてだ。
「どこかって、どこだよ」
「わかんない。花や葉っぱじゃなくて、根っこのところとか、そんな感じ」
言わんとしていることはわかったが、やはり釈然としない。
そもそも、本来の剣の師匠は誰かと言えば、それは景英ではなく義益だ。一眞が赤ん坊のころから街風家に仕えていて、六年子の祝いには脇差しをくれた。その扱い方を教えてくれたのも、ひとかどの使い手に仕込んでくれたのも彼だ。一眞が父親に叩きのめされて動けない時も、義益は時間の許す限り寝間へ来て枕上に座り、剣の技と精神について説くような男だった。
一眞の剣技は、その義益が七年かけて磨き上げたものと言っても過言ではない。にもかかわらず、彼から手ほどきを受けた長い年月よりも、景英の剣に触れたわずかな時間のほうが、自分の中でまさってしまったのだろうか。それとも、もともと義益と景英の剣の筋に、どこか共通する部分があったのか。
あるいは玖実が言うように、形として伝わる以外の何かを、おれはあの男と共有しているのだろうか。
千手景英のことを考えると、いつも少し落ち着かない気分にさせられる。傷の手当てを受けたあの夜、彼に対して抱いた憎しみは、今も胸の中にあった。憎む理由などないはずなのに、憎まずにはいられない。そんな相手に出会ったのは初めてだ。
押し黙ってしまった彼の顔を、玖実が不思議そうに覗き込む。
「なによ、難しい顔して」
はっと我に返り、一眞は急いで着衣を整えた。
「行こう。いい加減、誰かが捜しに来るぞ」
立ち上がって草を払い、玖実を急き立てる。しかし黙々と斜面を登るあいだも、彼はまだ景英のことを考え続けていた。
夕餉を終えて宿堂へ戻る際に、一眞は伊之介が足を少し引きずっていることに気づいた。理由を訊くと、農作業中に木の根を踏んで、足首を挫いたという。見た目には問題なさそうだが、触ってみるとわずかに腫れて発熱していた。無理に動かして、悪化させないほうがいいだろう。
それで温習のふたり稽古は休みになったが、一眞は食休みのあと、いつも通り練兵場へ向かった。ひとりでもやれることはある。
林道を歩いていると、あとから利達が追いかけてきた。
「一緒に行っていいかな」
「伊之介の代わりに相手をしてくれるのか?」
真顔で訊くと、彼はちょっとはにかんだような笑みを返した。
「代わりにはなれないけど、打たれ役ならできるかも」
「冗談だ。来たいなら、好きにすればいい」
洞窟の入り口まで行くと、誰か中にいることがわかった。奥から明かりがもれ、左右の岩壁や天井の起伏を黒々と浮かび上がらせている。通路を進みながら耳を澄ますと、乾いた岩の地面をこする微かな足音が聞こえてきた。その合間に響く、短く鋭い風切り音。
誰かが剣を振っている。
温習の時間にまでここで稽古をするような物好きは、自分と伊之介ぐらいだろうと思っていたが、どうやら違ったようだ。
先客の存在に出鼻を挫かれた気はしたが、一眞はとりあえず大広間まで行ってみることにした。一緒に稽古をするつもりはないが、その物好きの顔を見てやりたい。
「誰だろう……」
ほとんど息だけの小さな声で利達が囁く。振り向いて見ると、わずかだが目に怯えをにじませていた。この奥に敵が待ち構えており、見つかれば命はないとでも思っているかのようだ。一眞は肩をすくめて囁き返した。
「誰であれ、御山の者なのはたしかだ」
大広間に入ると、燃える薪のにおいが鼻をくすぐった。四か所に火が焚かれており、時折ぱちぱちと爆ぜる音を立てながら、生き物のような炎が踊り狂っている。その炎が作り出す光の輪の中央で、千手景英がひとり剣を振るっていた。
手にしているのは、練習用の木太刀ではなく真剣だ。彼がいつも携えている、少し反りの深い打刀のように見えた。
抜き身が一閃するたびに、刀身に映り込んだ光が弾け、氷の粒のようにきらきらと飛び散る。その眩さに包まれて、ただ剣だけに没入しきっている景英の姿は、近寄りがたいほどに荘厳だった。ほとんど神々しいとすら思える。
一眞は壁際まで静かに退き、岩の窪みと同化して佇んだ。まばたきもせず彼の動きを目で追い続けながら、玖実――と心の中で呟く。おまえの見立ては的外れだ。これっぽっちも、似てなんかいないじゃないか。
足さばきも、剣尖が描く軌跡も美しすぎて、まるで剣舞を見ているようだ。だがあの刃圏に踏み込めば、肉のみならず骨まで断ち斬られる。右に左に繰り出されるひと突き、ひと薙ぎが、すべて対手の命に届く必殺の一撃だった。
見ていると身がすくむ。でも魅了される。
もしこのまま御山にずっと留まり、ひたすら修練に打ち込んだとしたら、いつかはあの領域に到達する日が来るのだろうか。
一眞の食い入るような視線の先で、景英が動きを止めた。右に跳ね上げた切っ先をくるりと返し、ひと続きの動作で滑らかに納刀する。その所作もまた、彼を瞠目させた。あんなにも無造作に、切っ先をいきなり鯉口に入れるような真似は、今の自分にはとてもできない。
短くひと息ついて顔を上げると、景英はまっすぐに一眞たちを見た。
「稽古に来たのだろう。使うといい」
一眞のうしろで、利達が飛び上がった。気づかれていないつもりでいたらしい。
前に進み出る一眞を、鷹のような景英の目がじっと見つめる。あとをついてきた利達が、遠慮がちに明かりの中へ入り、おずおずと口を開いた。
「あの……堂長は、いつもここで――おひとりで、鍛錬をなさっておられるのですか」
「ここや、あるいは山中でな。普段は、もう少し遅い刻限に始める」
「お邪魔をしてすみません」
礼儀として謝罪をした一眞に、景英は意味ありげな視線を投げた。
「相方はどうした」
「知って――」言いかけて、口をつぐむ。もう半月以上も、ほぼ毎夜ここでふたり稽古をしているのだ。景英がそれを知らないはずはなかった。「伊之介は、足を捻挫したので休んでいます」
「薬療院で桂皮と芍薬の湿布をもらって、腫れのある場所に当ててやるといい」
「はい」
「利達、おまえが相手をするのか」
ふいに訊かれ、利達があわてて首を振る。
「い、いいえ。見学です」
景英は微笑を浮かべ、一眞のほうを見た。「ならば、わたしと少し打ち合おう」
結構ですと言いたいところだが、断れるはずがない。一眞はあきらめ、背筋を伸ばして礼をした。
「お願いします」
「よし。普段は何を使っている? 木太刀か」
「刃引きした刀を使っています。おれも伊之介も、そのほうが身が入るので」
「では、そうしよう」
それぞれ刀架から刀を取り、練兵場の中央で向かい合うと、一眞の頭に先ほど見たばかりの景英の剣が蘇った。脳裏に刻み込まれた鮮烈な姿と、目の前に立つ男とが重なり、自ら創り上げた至高の剣士の虚像に圧倒されそうになる。
いつもは自分から仕掛けるが、今夜に限っては足が出なかった。まるで鎖にでもつながれているようだ。一歩踏み出しさえすれば、すぐに呪縛は破れるとわかっている。だが、その一歩がたとえようもなく重い。
そんな一眞の逡巡を感じ取ってか、景英が先に動いた。右脇構えを取り、大股に進み出てくる。あっという間に間合いを詰められ、刃圏に捉えられた。凄まじいほどの圧力を感じ、頭がくらくらする。
その瞬間、一眞を縛っていた鎖が解けた。正眼に構えたまま横走り、体勢を立て直すための時間を稼ぐ。だが景英は、その猶予を与えてくれなかった。ぴったりとあとを追い、横薙ぎの鋭い一撃を繰り出してくる。
一眞はとっさに片膝を折り、右に転がってそれを避けた。回転の勢いを利用して素早く立ち上がり、再び構えを取る。だが、剣先をまだ上げきらないうちに二の大刀がきた。仰け反ってかわした胸先を、白銀の閃光がうなりを上げて走り抜ける。凄まじい太刀風に顔をなぶられ、痛みを感じるほどに胃が収縮した。刃のついていない剣だとわかっていても、攻撃の苛烈さに肝が縮み上がる。
振りの速さも、強さも、いつもと違う――調練の時よりも一段上げている。
そう気づいたところで、ようやく頭が少し冷えた。視野が広がり、周囲の明るさが増したように感じられる。
しかし息を整える間もなく次の一撃がきた。なんとか対応はできたが、ただ刀を上げて合わせただけだ。そろそろ攻勢に出なければならない。
一眞はうしろに飛びすさって八双に構えた。思いきり地を蹴って駆け出し、景英が動き出す前に自ら仕掛ける。一気に肉薄すると、上げていた剣先を落とし、逆袈裟に斬り上げた。
渾身の一撃だったが、虚しく空を斬っただけだ。それを予期して、返す刀で即座に斬り下ろしたが、二撃目も読まれていた。
地を這うような下段斬りも、回り込んで側面から繰り出す突きも、日ごろ一眞が得意とすることは何もかも知りつくされており、あっさりといなされてしまう。
意表を突く攻撃が必要だ。彼の予想を超える何かが。
じわじわと体力が削り取られていく中、一眞は激しく斬り結びながら必死に考えをめぐらせた。何をすればいい。どんな技が使える。焦燥感がつのるばかりで、何も思いつかない。
〝技と力だ、一眞〟
頭の中に、ふいに景英の声が響いた。
〝技と力。どちらも欠けてはならない〟
その瞬間、何をすべきかわかった気がした。と同時に、ざわめいていた心がすっと静まる。
上段に振りかぶって打ちかかると、景英は体をかわしながら鎬で受けてそれを流した。ここでいったん距離を取るのが一眞の普段の戦い方だが、敢えて二の大刀をすぐに繰り出す。これは正面で受けて突き放されたが、うしろに片足を突っ張って踏み留まり、さらに横殴りに剣を振った。ふたつの刀身ががっちりと噛み合い、鋼のぶつかる音が鼓膜に突き刺さる。
景英の厳しく端正な顔が、かつてないほど間近に見えた。その口元に、わずかだが笑みが浮かんでいる。
手元にかかっていた圧力が、突然ふっと消えた。景英の体が旋風のように回転し、その勢いに乗せた斬撃が斜め上から襲いかかってくる。一眞は身をひねり、横から合わせてそれを受けた。
重い一撃だ。いつもなら、押される前に左へ受け流す。だがそうはせず、両腕にぐっと力を込めて押し返した。わずかだが、胸つき合わせる両者のあいだに間隙が生じる。その空間にすかさず踏み込み、気合声を発して斬り上げた。
――殺った!
頭の中で叫んだのと同時に、景英もまた高らかに声を響かせた。
「よしっ、それだ!」
一眞の剣尖が、彼の胸までわずか一寸を残して止まっている。身に届かなかったのは、鐔元で受けられたからだ。一方、景英の手元から伸びた刃の切っ先は、一眞の右の首筋に軽く触れている。
静止したまま、ふたりはしばらく動かなかった。その傍らで、固唾を呑んで見守っていた利達が、そっと小さく吐息をもらす。
一眞は景英を見上げ、その顔に歓喜と賞賛を見て取った。彼は満足している。弟子の努力を認め、その成長を誇らしく思っている。師とも慈父とも思える深い眼差しに包み込まれ、一眞は激しく心を掻き乱された。
かつて、おれをこんな風に見た者はいなかった――。
身の内から、抑えようのない感情が湧き上がってきた。今にも堰が切れて、何か取り返しのつかないものが迸り出てしまいそうだ。
ぞくりと身震いして目を逸らし、彼は体を引いた。刀を下ろしてゆっくり離れ、深々と頭を下げる。
「ありがとうございました」
「力をつけてきているな、一眞」景英は静かに言い、刀を鞘に収めた。「おまえの剣の完成を、この目で見届けたいものだ」
打刀を腰に戻し、悠々と練兵場を出て行く彼の足音が消えると同時に、一眞は岩の地面に倒れ込んだ。たちまち全身から、熱い汗がどっと噴き出てくる。戦っていたのはそう長い時間ではなかったはずだが、もう疲労困憊だった。
駆け寄ってきて脇に膝をついた利達が、上から覗き込みながら興奮気味にまくし立てる。
「すごかった。本当にすごかったよ。みんなにも見せたかったな」
彼は一眞に負けないぐらい汗をかき、のぼせたように頬を上気させていた。
「堂長と相討ちなんて」
「相討ちじゃ、ない」一眞は大きく胸を上下させながら、苦しい呼吸のあいだで切れ切れに答えた。「俺の剣は、届かなかった」
「でも、あそこまで拮抗して最後まで渡り合ったやつは、これまで見たことがないよ。堂長があんな風に声を上げるのも、初めて聞いた気がする。おまえも聞いただろう? 〝それだ〟って言ったよ。声が弾んでた。手応えを感じたんだと思う。それに、あの目――おまえを誇りに思ってた。あれは親が、出来のいい子供に向ける目だよ」
そこでふいに、利達の顔が陰った。
「おれは身内にだって……一度もあんな目で見られたことがない」
悄然とつぶやき、一眞をどきりとさせる。一瞬、心の中を読まれた気がした。
これまで、自分と利達には何も共通点がないと思っていたが、実はそうではなかったのかもしれない。
「おまえは名家の子だから、さぞかし父親の期待も大きいんだろうな?」
仰向けに寝たまま訊くと、利達は寂しそうにうなだれて首を振った。
「うちの父は婿養子で、おれとそっくりの弱虫で、何ごとにも当たらず障らずって性格なんだ。五十公野家の血筋は、母方のほうなんだよ」
彼は胡座をかいて座り直し、膝に乗せた両手をぎゅっと握り締めた。その手に視線を落としたまま、ためらいがちに口を開く。だが一度話し出すと、すぐに言葉が滔々と流れ出した。
「母は――名門という亡霊に取り憑かれてる。たった一度だけこの国の頂点に立った、その栄光に執着し続けてるんだ。おれが小さいころから、何か気に入らないことがあると、彼女はいつも〝世が世なら〟と繰り言をもらしてた。義達のあとも五十公野家の治世が続いていたら、自分は天山に住む姫君だったのにと恨みに思っているから、今の境遇が我慢ならないんだ」
利達は低く重々しい声で、吐き捨てるように言った。一眞がこれまでに見たこともないほど、きつい目をしている。
「でもさ、考えてもみてよ。たしかに大皇位に就きはしたけど、それは大昔のことだ。政変が起きて義達は討たれたし、彼のあとを襲う身内は出なかった。五十公野家は復権できずに、そのまま没落したんだ。だから母が天山の姫君だったことはないし、今後もそうなる望みなんてないんだよ。なのに彼女は、それを認めることができないんだ」
一眞は黙って、利達が語る母親の話に聞き入った。夫として迎えた男に、武人としての素養が欠けていることを悟った彼女の落胆。ふたりのあいだに生まれた息子への過大な期待。彼女は、いずれ利達が武力強大な大将となり、大皇の御座を奪い返して一族を天山へ導くと本気で考えていたらしい。
だが息子は夫によく似た、温和で優しいが気の弱い少年に成長した。武術はどれもこれも苦手で、弓を引かせると決まってどこか怪我をする。馬に乗せればすぐに落ち、血を見ると青くなる。
それでも彼には優れたところもたくさんあり、学文は同年の誰よりもよくできたし、笛や鼓、琵琶などもうまかった。父親はその楽才を愛していたようだが、妻の手前、面と向かって褒めることはなかったという。
母親は息子が期待はずれだったことに気づいても、頑としてそれを受け入れようとはしなかった。ことさらに厳しく接し、激しい鍛錬を課し、怪我ばかりするのに武術修行を続けさせた。そうしていれば、義達公から受け継がれた武人の血が、いつか目覚めるとでもいうように。
「十五で元服するまでのおれは、首を縄でつながれて引き回される、見世物の猿そっくりだった」
利達はあまり感情のこもらない声で言い、小さくため息をついた。
「その年に、ひょっこり弟が産まれたんだ。母は喜んだよ。そして、おれへの興味がなくなった――というより、疎んじるようになった」
一眞は驚き、彼の表情を窺いながら体を起こした。
「だから、昇山することになったのか?」
「うん。おれに家を継がせる気がなくなってからは、屋敷にいるだけで目障りだったみたいだ。それに、弟がどんな男になるかはまだわからないけど、母はおれの時以上に期待をかけてる。だから、廃嫡された兄がいると、あいつの邪魔になると思ったんじゃないかな。態のいい厄介払いだよ」
ひどい話だ。実の母親からそんな扱いを受けてきたのなら、利達が自信に欠ける卑屈な男になったのも無理はない。
一眞は初めて、彼のことを本当に理解できたような気がした。自分と似たところが多いわけではないが、親に疎まれ否定された子供という部分では共通している。そういう子供は、やはりどこかしら歪になってしまうものなのだろうと思えた。もっとも自分と利達では、その歪み方がずいぶん違っているが。
利達は壁面に踊る炎の影に目をやり、そのゆらめきを瞳に映しながら、奇妙に抑揚のない声でぽつりと言った。
「おれは母上が嫌いだ。でも、嫌うのと同じぐらい、好いてもいる。認められたいとも思う。だってやっぱり、親は親だから」
ああ、そうか――一眞はぼんやり思った。ここが違うんだな。おれは親父を、ただ憎んでいただけだ。好きだと思ったことはなかった。あいつと血がつながっていることすら不快だった。
嫌いながらも、まだ好きだと言える利達は、自分よりずっと上等な人間のように思う。
「おまえ、家を継ぎたかったか? そういうわけでもないんだろう? おまえには御山のほうが合ってるよ」
利達は一眞をじっと見つめてから顔を逸らし、少しうるみかかった目元を袖でさっとぬぐった。
「……うん。継ぎたくはなかった。あのまま家にいたら、きっとおかしくなってたと思う」
「おれは衛士の行堂へ入った日に、堂長からこう言われた。俗念を捨てて生まれ変わり、新たな自分を見いだせと。だから、そうしようと努力してる。正直あんまり、うまくはいってないけど」
「努力してるなら、いつか報われるよ」
「おまえだって同じだぞ。下界にいた時と、同じ自分でいる必要はないんだ」
利達が、はっと息を呑んで真顔になる。
「そうかな」
「そうさ。玖実も言ってただろう、昇山したら家なんか関係ないって」
彼女にそう言われた時の場景を思い起こすように、彼は遠い目をした。
「うん。……そうだ。そうだよね」
それから利達は決然とうなずき、再び一眞を見て照れくさそうに微笑んだ。
「ごめん。なんか、つまんない話を聞かせちゃったな」
「別にいいさ」
洞内を片づけようと腰を上げかけた時、不意打ちのように利達が訊いた。
「おまえの親は?」
一眞は動きを止め、白っぽい岩の地面に視線を据えたまま訊き返した。
「おれの親が、なんだ」
「どんな両親だった?」
「普通だよ。平凡だけど、いい両親だった。前に話したと思うけど母は歴史が好きで、父は……」
ふいに、鉄くさいにおいが鼻孔に充満した。
畳の上を流れる赤黒い川。腹を縦に切り開かれ、腸を引きずり出される男の絶叫。炎が皮膚や体毛を舐め、焼き焦がしていくちりちりという音。それらの記憶が、怒濤のように押し寄せてくる。
ふと見ると、地面についた手が濡れていた。指や手の甲にねっとりした血がこびりつき、光を鈍く跳ね返してしている。だが、まばたきをすると、それはたちまち消え失せた。
「――父は、ちょっと肥ってたな」
「そうかあ」
利達は、一眞が自分のほうを見ないことを不審がりもせず、ほとんど気づいてすらいない様子でのんびりと言った。
「何となくだけど、おまえはいい育ち方をしたんじゃないかと思ってたよ。親に大事にされていたから、他人への思いやりがあるし、おれみたいなやつでも庇ってくれたりするんだろうって」
一眞はゆっくり顔を上げ、口の端で笑った。
「おまえ、おれを買いかぶってるよ。それに信用しすぎだ」
喋りながら手を伸ばし、利達の鼻を軽くつまむ。目をぱちくりする彼に、一眞はいたずらっぽく眉をしかめて見せた。
「もっと用心しろ」
聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/




