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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第四章 別れゆく夏
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四十  御守国御山・街風一眞 親子

 スギの巨木が林立する山腹のくぼ地で、一眞(かずま)は柔らかいシダの下生えに寝転び、夕暮れの空を背景に黒く際立つ樹影をぼんやり見上げていた。どこか近くの梢に郭公(かっこう)がいて、妙に心なごむ鳴き声を響かせている。

 眠気を払うために伸びをすると、腹の上に頭を載せていた玖実(くみ)が身じろぎして片眼を開けた。

「もう行く?」くぐもった、眠そうな声で訊く。

「ああ」

 そう答えたものの、ふたりともすぐには動かなかった。

「このまま眠っちゃいたいわ」

 玖実がつぶやき、大きな欠伸(あくび)をする。一眞は手を伸ばし、彼女の髪についた落ち葉を取った。

「寝るなよ。あんまりぐずぐずしてると、当番を抜けたことに気づかれる」

 今は夕七つの当番の刻限で、一眞は上弦道(じょうげんどう)の掃除、玖実は行堂(ぎょうどう)の裏手にある農地での作業をさぼって来ている。(くりや)で働く料理当番とは違い、屋内にこもる仕事ではないので、こっそり抜け出すのはそう難しくなかった。だが同じ仕事をしている仲間に、不在を悟られてしまう危険性はある。

「下界も窮屈だけど、御山(みやま)はもっと窮屈でつまんない」

 玖実は愚痴を言いながら体を起こし、さも面倒臭そうに衣服を身につけ始めた。袖を通すために腕を上げると、しなやかな脇腹の曲線が露わになる。一眞は寝転んだまま、背中に浮き出た骨の形や乳房の丸みを眺めた。

 見られていることがわかっても、彼女はまるで気にしない。自分の体には、恥じるところなどどこにもないと思ってるようだ。そして実際に、十六歳の玖実の体は瑞々しく、日々の鍛錬で引き締まり、しかも文句のつけようがないほど女らしかった。

「意外だった」万事衣(まんじごろも)の胸紐を結びながら、玖実がぽつりと言う。「あんたって、もっと荒っぽくするかなって思ってたから」

 一眞は眉をひそめて半身を起こした。

「物足りないって意味か?」

「違う。馬鹿」

 玖実が笑い、彼の裸の肩をぴしゃりと打つ。

「自分勝手じゃなくて、よかったって言ってるの。また気晴らししましょう。その気があるなら」

「ああ」

 簡単に同意したあとで、筒袴に脚を突っ込みながら、一眞はずっと気になっていたことを訊いた。

「おれはおまえより若いし、たいして場数も踏んでない。ほかに、もっといい相手がいるんじゃないのか?」

 玖実の笑みが広がる。

初心(うぶ)はご免だけど、場数を踏んでるからいいってもんでもないわ」

「そういうもんか」

「そうよ。それにあんたは、あたしの憧れてる人に、ちょっと似てるしね」

 手を止めて、一眞は玖実をまじまじと見つめた。いつも強気な彼女が珍しく怯んだ様子を見せ、しおらしく目を伏せる。口が滑った、と後悔しているようだ。

「そんなに、じっと見ないでよ」

「どんなやつなんだ?」

「御山にいるわ」

 意外な答えだった。御山にいる者で、自分と似ている人物など、一眞にはまったく思いつかない。

「堂長よ」挑むように言って、玖実が顔を上げる。「千手(せんじゅ)景英(かげひで)さま」

 一眞は唖然として、それから笑い出した。思った以上に声が響いたので、急いで口を手で覆う。玖実が剣呑な眼差しを向け、唇をつんと尖らせた。

「何が可笑(おか)しいのよ」

「おまえが変なことを言うからさ。おれと堂長のどこが似てるんだ。顔立ちも体つきも、全然違うだろう」

「見た目のことなんて言ってない。雰囲気が似てるの。それと、太刀筋ね」

 一眞は口をつぐみ、しばし考え込んだ。あの男とおれの太刀筋は似ているだろうか? 毎日教えを受けているのだから、ある程度は似ていて当然とも思うが、それならほかの修練者だって似てくるはずだ。彼女がどこを基準に、自分とほかの者とを分けているのかがわからなかった。

「太刀筋は師匠に似るものだ」

 警戒しながら、曖昧に言う。すると、玖実はふっと微笑をもらした。

「教えを受けたとか、そういうのとは関係ないところで、どこか似てるって感じるのよ」

 また考え込まされた。こんなことを人に言われたのは初めてだ。

「どこかって、どこだよ」

「わかんない。花や葉っぱじゃなくて、根っこのところとか、そんな感じ」

 言わんとしていることはわかったが、やはり釈然としない。

 そもそも、本来の剣の師匠は誰かと言えば、それは景英ではなく義益(よします)だ。一眞が赤ん坊のころから街風(つむじ)家に仕えていて、六年子(ろくねんご)の祝いには脇差しをくれた。その扱い方を教えてくれたのも、ひとかどの使い手に仕込んでくれたのも彼だ。一眞が父親に叩きのめされて動けない時も、義益は時間の許す限り寝間へ来て枕上に座り、剣の技と精神について説くような男だった。

 一眞の剣技は、その義益が七年かけて磨き上げたものと言っても過言ではない。にもかかわらず、彼から手ほどきを受けた長い年月よりも、景英の剣に触れたわずかな時間のほうが、自分の中でまさってしまったのだろうか。それとも、もともと義益と景英の剣の筋に、どこか共通する部分があったのか。

 あるいは玖実が言うように、形として伝わる以外の何かを、おれはあの男と共有しているのだろうか。

 千手景英のことを考えると、いつも少し落ち着かない気分にさせられる。傷の手当てを受けたあの夜、彼に対して抱いた憎しみは、今も胸の中にあった。憎む理由などないはずなのに、憎まずにはいられない。そんな相手に出会ったのは初めてだ。

 押し黙ってしまった彼の顔を、玖実が不思議そうに覗き込む。

「なによ、難しい顔して」

 はっと我に返り、一眞は急いで着衣を整えた。

「行こう。いい加減、誰かが捜しに来るぞ」

 立ち上がって草を払い、玖実を急き立てる。しかし黙々と斜面を登るあいだも、彼はまだ景英のことを考え続けていた。


 夕餉を終えて宿堂へ戻る際に、一眞は伊之介(いのすけ)が足を少し引きずっていることに気づいた。理由を訊くと、農作業中に木の根を踏んで、足首を(くじ)いたという。見た目には問題なさそうだが、触ってみるとわずかに腫れて発熱していた。無理に動かして、悪化させないほうがいいだろう。

 それで温習のふたり稽古は休みになったが、一眞は食休みのあと、いつも通り練兵場へ向かった。ひとりでもやれることはある。

 林道を歩いていると、あとから利達(としたつ)が追いかけてきた。

「一緒に行っていいかな」

「伊之介の代わりに相手をしてくれるのか?」

 真顔で訊くと、彼はちょっとはにかんだような笑みを返した。

「代わりにはなれないけど、打たれ役ならできるかも」

「冗談だ。来たいなら、好きにすればいい」

 洞窟の入り口まで行くと、誰か中にいることがわかった。奥から明かりがもれ、左右の岩壁や天井の起伏を黒々と浮かび上がらせている。通路を進みながら耳を澄ますと、乾いた岩の地面をこする微かな足音が聞こえてきた。その合間に響く、短く鋭い風切り音。

 誰かが剣を振っている。

 温習の時間にまでここで稽古をするような物好きは、自分と伊之介ぐらいだろうと思っていたが、どうやら違ったようだ。

 先客の存在に出鼻を挫かれた気はしたが、一眞はとりあえず大広間まで行ってみることにした。一緒に稽古をするつもりはないが、その物好きの顔を見てやりたい。

「誰だろう……」

 ほとんど息だけの小さな声で利達が囁く。振り向いて見ると、わずかだが目に怯えをにじませていた。この奥に敵が待ち構えており、見つかれば命はないとでも思っているかのようだ。一眞は肩をすくめて囁き返した。

「誰であれ、御山の者なのはたしかだ」

 大広間に入ると、燃える薪のにおいが鼻をくすぐった。四か所に火が焚かれており、時折ぱちぱちと()ぜる音を立てながら、生き物のような炎が踊り狂っている。その炎が作り出す光の輪の中央で、千手(せんじゅ)景英(かげひで)がひとり剣を振るっていた。

 手にしているのは、練習用の木太刀ではなく真剣だ。彼がいつも携えている、少し反りの深い打刀のように見えた。

 抜き身が一閃するたびに、刀身に映り込んだ光が弾け、氷の粒のようにきらきらと飛び散る。その(まばゆ)さに包まれて、ただ剣だけに没入しきっている景英の姿は、近寄りがたいほどに荘厳だった。ほとんど神々しいとすら思える。

 一眞は壁際まで静かに退き、岩の窪みと同化して佇んだ。まばたきもせず彼の動きを目で追い続けながら、玖実(くみ)――と心の中で呟く。おまえの見立ては的外れだ。これっぽっちも、似てなんかいないじゃないか。

 足さばきも、剣尖が描く軌跡も美しすぎて、まるで剣舞を見ているようだ。だがあの刃圏に踏み込めば、肉のみならず骨まで断ち斬られる。右に左に繰り出されるひと突き、ひと薙ぎが、すべて対手(たいしゅ)の命に届く必殺の一撃だった。

 見ていると身がすくむ。でも魅了される。

 もしこのまま御山にずっと留まり、ひたすら修練に打ち込んだとしたら、いつかはあの領域に到達する日が来るのだろうか。

 一眞の食い入るような視線の先で、景英が動きを止めた。右に跳ね上げた切っ先をくるりと返し、ひと続きの動作で滑らかに納刀する。その所作もまた、彼を瞠目させた。あんなにも無造作に、切っ先をいきなり鯉口に入れるような真似は、今の自分にはとてもできない。

 短くひと息ついて顔を上げると、景英はまっすぐに一眞たちを見た。

「稽古に来たのだろう。使うといい」

 一眞のうしろで、利達が飛び上がった。気づかれていないつもりでいたらしい。

 前に進み出る一眞を、鷹のような景英の目がじっと見つめる。あとをついてきた利達が、遠慮がちに明かりの中へ入り、おずおずと口を開いた。

「あの……堂長は、いつもここで――おひとりで、鍛錬をなさっておられるのですか」

「ここや、あるいは山中でな。普段は、もう少し遅い刻限に始める」

「お邪魔をしてすみません」

 礼儀として謝罪をした一眞に、景英は意味ありげな視線を投げた。

「相方はどうした」

「知って――」言いかけて、口をつぐむ。もう半月以上も、ほぼ毎夜ここでふたり稽古をしているのだ。景英がそれを知らないはずはなかった。「伊之介は、足を捻挫(ねんざ)したので休んでいます」

薬療(やくりょう)院で桂皮(けいひ)芍薬(しゃくやく)の湿布をもらって、腫れのある場所に当ててやるといい」

「はい」

「利達、おまえが相手をするのか」

 ふいに訊かれ、利達があわてて首を振る。

「い、いいえ。見学です」

 景英は微笑を浮かべ、一眞のほうを見た。「ならば、わたしと少し打ち合おう」

 結構ですと言いたいところだが、断れるはずがない。一眞はあきらめ、背筋を伸ばして礼をした。

「お願いします」

「よし。普段は何を使っている? 木太刀か」

「刃引きした刀を使っています。おれも伊之介も、そのほうが身が入るので」

「では、そうしよう」

 それぞれ刀架から刀を取り、練兵場の中央で向かい合うと、一眞の頭に先ほど見たばかりの景英の剣が蘇った。脳裏に刻み込まれた鮮烈な姿と、目の前に立つ男とが重なり、自ら創り上げた至高の剣士の虚像に圧倒されそうになる。

 いつもは自分から仕掛けるが、今夜に限っては足が出なかった。まるで鎖にでもつながれているようだ。一歩踏み出しさえすれば、すぐに呪縛は破れるとわかっている。だが、その一歩がたとえようもなく重い。

 そんな一眞の逡巡を感じ取ってか、景英が先に動いた。右脇構えを取り、大股に進み出てくる。あっという間に間合いを詰められ、刃圏に捉えられた。凄まじいほどの圧力を感じ、頭がくらくらする。

 その瞬間、一眞を縛っていた鎖が解けた。正眼に構えたまま横走り、体勢を立て直すための時間を稼ぐ。だが景英は、その猶予を与えてくれなかった。ぴったりとあとを追い、横薙ぎの鋭い一撃を繰り出してくる。

 一眞はとっさに片膝を折り、右に転がってそれを避けた。回転の勢いを利用して素早く立ち上がり、再び構えを取る。だが、剣先をまだ上げきらないうちに二の大刀がきた。仰け反ってかわした胸先を、白銀の閃光がうなりを上げて走り抜ける。凄まじい太刀風に顔をなぶられ、痛みを感じるほどに胃が収縮した。刃のついていない剣だとわかっていても、攻撃の苛烈さに肝が縮み上がる。

 振りの速さも、強さも、いつもと違う――調練の時よりも一段上げている。

 そう気づいたところで、ようやく頭が少し冷えた。視野が広がり、周囲の明るさが増したように感じられる。

 しかし息を整える間もなく次の一撃がきた。なんとか対応はできたが、ただ刀を上げて合わせただけだ。そろそろ攻勢に出なければならない。

 一眞はうしろに飛びすさって八双に構えた。思いきり地を蹴って駆け出し、景英が動き出す前に自ら仕掛ける。一気に肉薄すると、上げていた剣先を落とし、逆袈裟に斬り上げた。

 渾身の一撃だったが、虚しく空を斬っただけだ。それを予期して、返す刀で即座に斬り下ろしたが、二撃目も読まれていた。

 地を這うような下段斬りも、回り込んで側面から繰り出す突きも、日ごろ一眞が得意とすることは何もかも知りつくされており、あっさりといなされてしまう。

 意表を突く攻撃が必要だ。彼の予想を超える何かが。

 じわじわと体力が削り取られていく中、一眞は激しく斬り結びながら必死に考えをめぐらせた。何をすればいい。どんな技が使える。焦燥感がつのるばかりで、何も思いつかない。

〝技と力だ、一眞〟

 頭の中に、ふいに景英の声が響いた。

〝技と力。どちらも欠けてはならない〟

 その瞬間、何をすべきかわかった気がした。と同時に、ざわめいていた心がすっと静まる。

 上段に振りかぶって打ちかかると、景英は(たい)をかわしながら(しのぎ)で受けてそれを流した。ここでいったん距離を取るのが一眞の普段の戦い方だが、敢えて二の大刀をすぐに繰り出す。これは正面で受けて突き放されたが、うしろに片足を突っ張って踏み留まり、さらに横殴りに剣を振った。ふたつの刀身ががっちりと噛み合い、鋼のぶつかる音が鼓膜に突き刺さる。

 景英の厳しく端正な顔が、かつてないほど間近に見えた。その口元に、わずかだが笑みが浮かんでいる。

 手元にかかっていた圧力が、突然ふっと消えた。景英の体が旋風のように回転し、その勢いに乗せた斬撃が斜め上から襲いかかってくる。一眞は身をひねり、横から合わせてそれを受けた。

 重い一撃だ。いつもなら、押される前に左へ受け流す。だがそうはせず、両腕にぐっと力を込めて押し返した。わずかだが、胸つき合わせる両者のあいだに間隙が生じる。その空間にすかさず踏み込み、気合声を発して斬り上げた。

 ――()った!

 頭の中で叫んだのと同時に、景英もまた高らかに声を響かせた。

「よしっ、それだ!」

 一眞の剣尖が、彼の胸までわずか一寸を残して止まっている。身に届かなかったのは、鐔元で受けられたからだ。一方、景英の手元から伸びた刃の切っ先は、一眞の右の首筋に軽く触れている。

 静止したまま、ふたりはしばらく動かなかった。その傍らで、固唾を呑んで見守っていた利達が、そっと小さく吐息をもらす。

 一眞は景英を見上げ、その顔に歓喜と賞賛を見て取った。彼は満足している。弟子の努力を認め、その成長を誇らしく思っている。師とも慈父とも思える深い眼差しに包み込まれ、一眞は激しく心を掻き乱された。

 かつて、おれをこんな風に見た者はいなかった――。

 身の内から、抑えようのない感情が湧き上がってきた。今にも堰が切れて、何か取り返しのつかないものが迸り出てしまいそうだ。

 ぞくりと身震いして目を逸らし、彼は体を引いた。刀を下ろしてゆっくり離れ、深々と頭を下げる。

「ありがとうございました」

「力をつけてきているな、一眞」景英は静かに言い、刀を鞘に収めた。「おまえの剣の完成を、この目で見届けたいものだ」

 打刀を腰に戻し、悠々と練兵場を出て行く彼の足音が消えると同時に、一眞は岩の地面に倒れ込んだ。たちまち全身から、熱い汗がどっと噴き出てくる。戦っていたのはそう長い時間ではなかったはずだが、もう疲労困憊だった。

 駆け寄ってきて脇に膝をついた利達が、上から覗き込みながら興奮気味にまくし立てる。

「すごかった。本当にすごかったよ。みんなにも見せたかったな」

 彼は一眞に負けないぐらい汗をかき、のぼせたように頬を上気させていた。

「堂長と相討ちなんて」

「相討ちじゃ、ない」一眞は大きく胸を上下させながら、苦しい呼吸のあいだで切れ切れに答えた。「俺の剣は、届かなかった」

「でも、あそこまで拮抗して最後まで渡り合ったやつは、これまで見たことがないよ。堂長があんな風に声を上げるのも、初めて聞いた気がする。おまえも聞いただろう? 〝それだ〟って言ったよ。声が弾んでた。手応えを感じたんだと思う。それに、あの目――おまえを誇りに思ってた。あれは親が、出来のいい子供に向ける目だよ」

 そこでふいに、利達の顔が陰った。

「おれは身内にだって……一度もあんな目で見られたことがない」

 悄然とつぶやき、一眞をどきりとさせる。一瞬、心の中を読まれた気がした。

 これまで、自分と利達には何も共通点がないと思っていたが、実はそうではなかったのかもしれない。

「おまえは名家の子だから、さぞかし父親の期待も大きいんだろうな?」

 仰向けに寝たまま訊くと、利達は寂しそうにうなだれて首を振った。

「うちの父は婿養子で、おれとそっくりの弱虫で、何ごとにも当たらず障らずって性格なんだ。五十公野(いずみの)家の血筋は、母方のほうなんだよ」

 彼は胡座をかいて座り直し、膝に乗せた両手をぎゅっと握り締めた。その手に視線を落としたまま、ためらいがちに口を開く。だが一度話し出すと、すぐに言葉が滔々(とうとう)と流れ出した。

「母は――名門という亡霊に取り()かれてる。たった一度だけこの国の頂点に立った、その栄光に執着し続けてるんだ。おれが小さいころから、何か気に入らないことがあると、彼女はいつも〝世が世なら〟と()り言をもらしてた。義達(よしたつ)のあとも五十公野家の治世が続いていたら、自分は天山(てんざん)に住む姫君だったのにと恨みに思っているから、今の境遇が我慢ならないんだ」

 利達は低く重々しい声で、吐き捨てるように言った。一眞がこれまでに見たこともないほど、きつい目をしている。

「でもさ、考えてもみてよ。たしかに大皇(たいこう)位に()きはしたけど、それは大昔のことだ。政変が起きて義達は討たれたし、彼のあとを襲う身内は出なかった。五十公野家は復権できずに、そのまま没落したんだ。だから母が天山の姫君だったことはないし、今後もそうなる望みなんてないんだよ。なのに彼女は、それを認めることができないんだ」

 一眞は黙って、利達が語る母親の話に聞き入った。夫として迎えた男に、武人としての素養が欠けていることを悟った彼女の落胆。ふたりのあいだに生まれた息子への過大な期待。彼女は、いずれ利達が武力強大な大将となり、大皇の御座(みくら)を奪い返して一族を天山へ導くと本気で考えていたらしい。

 だが息子は夫によく似た、温和で優しいが気の弱い少年に成長した。武術はどれもこれも苦手で、弓を引かせると決まってどこか怪我をする。馬に乗せればすぐに落ち、血を見ると青くなる。

 それでも彼には優れたところもたくさんあり、学文は同年の誰よりもよくできたし、笛や鼓、琵琶などもうまかった。父親はその楽才を愛していたようだが、妻の手前、面と向かって褒めることはなかったという。

 母親は息子が期待はずれだったことに気づいても、頑としてそれを受け入れようとはしなかった。ことさらに厳しく接し、激しい鍛錬を課し、怪我ばかりするのに武術修行を続けさせた。そうしていれば、義達公から受け継がれた武人の血が、いつか目覚めるとでもいうように。

「十五で元服するまでのおれは、首を縄でつながれて引き回される、見世物の猿そっくりだった」

 利達はあまり感情のこもらない声で言い、小さくため息をついた。

「その年に、ひょっこり弟が産まれたんだ。母は喜んだよ。そして、おれへの興味がなくなった――というより、疎んじるようになった」

 一眞は驚き、彼の表情を窺いながら体を起こした。

「だから、昇山(しょうざん)することになったのか?」

「うん。おれに家を継がせる気がなくなってからは、屋敷にいるだけで目障りだったみたいだ。それに、弟がどんな男になるかはまだわからないけど、母はおれの時以上に期待をかけてる。だから、廃嫡された兄がいると、あいつの邪魔になると思ったんじゃないかな。(てい)のいい厄介払いだよ」

 ひどい話だ。実の母親からそんな扱いを受けてきたのなら、利達が自信に欠ける卑屈な男になったのも無理はない。

 一眞は初めて、彼のことを本当に理解できたような気がした。自分と似たところが多いわけではないが、親に疎まれ否定された子供という部分では共通している。そういう子供は、やはりどこかしら(いびつ)になってしまうものなのだろうと思えた。もっとも自分と利達では、その歪み方がずいぶん違っているが。

 利達は壁面に踊る炎の影に目をやり、そのゆらめきを瞳に映しながら、奇妙に抑揚のない声でぽつりと言った。

「おれは母上が嫌いだ。でも、嫌うのと同じぐらい、好いてもいる。認められたいとも思う。だってやっぱり、親は親だから」

 ああ、そうか――一眞はぼんやり思った。ここが違うんだな。おれは親父を、ただ憎んでいただけだ。好きだと思ったことはなかった。あいつと血がつながっていることすら不快だった。

 嫌いながらも、まだ好きだと言える利達は、自分よりずっと上等な人間のように思う。

「おまえ、家を継ぎたかったか? そういうわけでもないんだろう? おまえには御山(みやま)のほうが合ってるよ」

 利達は一眞をじっと見つめてから顔を逸らし、少しうるみかかった目元を袖でさっとぬぐった。

「……うん。継ぎたくはなかった。あのまま家にいたら、きっとおかしくなってたと思う」

「おれは衛士の行堂(ぎょうどう)へ入った日に、堂長からこう言われた。俗念を捨てて生まれ変わり、新たな自分を見いだせと。だから、そうしようと努力してる。正直あんまり、うまくはいってないけど」

「努力してるなら、いつか報われるよ」

「おまえだって同じだぞ。下界にいた時と、同じ自分でいる必要はないんだ」

 利達が、はっと息を呑んで真顔になる。

「そうかな」

「そうさ。玖実(くみ)も言ってただろう、昇山したら家なんか関係ないって」

 彼女にそう言われた時の場景を思い起こすように、彼は遠い目をした。

「うん。……そうだ。そうだよね」

 それから利達は決然とうなずき、再び一眞を見て照れくさそうに微笑んだ。

「ごめん。なんか、つまんない話を聞かせちゃったな」

「別にいいさ」

 洞内を片づけようと腰を上げかけた時、不意打ちのように利達が訊いた。

「おまえの親は?」

 一眞は動きを止め、白っぽい岩の地面に視線を据えたまま訊き返した。

「おれの親が、なんだ」

「どんな両親だった?」

「普通だよ。平凡だけど、いい両親だった。前に話したと思うけど母は歴史が好きで、父は……」

 ふいに、鉄くさいにおいが鼻孔に充満した。

 畳の上を流れる赤黒い川。腹を縦に切り開かれ、(はらわた)を引きずり出される男の絶叫。炎が皮膚や体毛を舐め、焼き焦がしていくちりちりという音。それらの記憶が、怒濤のように押し寄せてくる。

 ふと見ると、地面についた手が濡れていた。指や手の甲にねっとりした血がこびりつき、光を鈍く跳ね返してしている。だが、まばたきをすると、それはたちまち消え失せた。

「――父は、ちょっと(ふと)ってたな」

「そうかあ」

 利達は、一眞が自分のほうを見ないことを不審がりもせず、ほとんど気づいてすらいない様子でのんびりと言った。

「何となくだけど、おまえはいい育ち方をしたんじゃないかと思ってたよ。親に大事にされていたから、他人への思いやりがあるし、おれみたいなやつでも(かば)ってくれたりするんだろうって」

 一眞はゆっくり顔を上げ、口の端で笑った。

「おまえ、おれを買いかぶってるよ。それに信用しすぎだ」

 喋りながら手を伸ばし、利達の鼻を軽くつまむ。目をぱちくりする彼に、一眞はいたずらっぽく眉をしかめて見せた。

「もっと用心しろ」

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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