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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第三章 それぞれの旅路
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三十九 天勝国東部・伊都 河原者

 人に会いたくない。声も聞きたくない。

 天勝(ちよし)国を去る決心をして以来、伊都(いと)は他人とのかかわりを完全に断っていた。街道は歩かず、集落にも近寄らない。山中で木こりなどに出くわすと、姿を見られないよう草むらに隠れた。

 夜は高い木に登り、又になった枝の根元に丸まって眠る。転落防止のため、枝に蔦で片足を縛りつけておくようにしたが、実際に落ちそうになったことは一度もなかった。熟睡していないか、寝返りを打つ時には覚醒するたちなのだろう。

 眠れない夜には、剣術の稽古をする。握りやすい太さの枯れ枝を拾い、周囲の木々や垂れ下がった蔓を敵に見立てて、打って打って打ちまくった。緑の葉が飛び散って灌木が丸裸になり、蔓がずたずたに裂け、手の中の枝が折れるまで執拗に打ち続けることもある。指がこわばり、手のひらが血まみれになっても、少しも気にならなかった。

 そうしている時だけは、闇の深さや人を恐れる気持ちが薄らぐ。将来への不安や、空腹すらも忘れることができた。もっとも、最近はあまり空腹を感じなくなっているが。

 伊都の心は(すさ)んでいた。絶望し、空虚で孤独だった。生きている意味などないように思えた。だが虚ろな胸の片隅に、くすぶる熾火(おきび)のような怒りがあり、それに支えられてなんとか立っている。怒りが消えたら、きっとすぐに倒れてそのまま死ぬだろう。

 その時が来るのを恐れているのか、あるいは望んでいるのか、もう彼女にはよくわからなくなっていた。


 昼寝から覚めると、木の幹に押しつけていた脇腹がひどく痛んだ。肉が落ちたせいで、浮き出た肋骨(あばらぼね)が直接当たってしまうようだ。着物をはだけて見ると、皮膚に青い痣がいくつもついていた。丸みが消え、骨の形がはっきりわかるようになった肩にも同じ痣がある。

 ほんの一週間で、これほど痩せてしまったことに驚きをおぼえながら、伊都は足を縛っていた命綱を解いた。ちょっと仮眠を取るだけのつもりだったが、思った以上に長く眠ってしまったようだ。そして、それにもかかわらず、抜けきらない疲れがまだ残っているのを感じる。

 何か食べないと。草や木の実じゃなくて、もっと力のつくものを。黍か稗、できればお米。南瓜(かぼちゃ)。芋。

 人里へ行くしかない。伊都は憂鬱な気分でそう考え、登っていた木から滑り下りた。地面に立つと、むっとする空気に取り巻かれて息が詰まる。梅雨ももう終わりかけ、日に日に暑さが増していた。少し体力をつけなければ、暑気と疲労で参ってしまうだろう。

 伊都は森を出て空を見上げ、太陽の位置を確かめてから、東と思われる方向へ歩き出した。詳しい地理はわからないが、大光明(おおみや)(ごう)からだいぶ北へ来たはずなので、このあたりから東へ向かえばいずれ海に出るはずだ。

 左手のほうに、長く白い帯のような川が見えた。あれが以前母から聞いた一青(ひとと)川だとしたら、河口には天州(てんしゅう)で二番目に大きな湊がある。

 湊へ行ってどうするというあてはなかったが、伊都は漠然と海を目指して進んでいた。まだ見たことがないので見てみたいし、うまくすれば、対岸の曽良(かつら)国へ渡る舟に乗れるかもしれない。

 曽州(そしゅう)がどんな国か、知っているわけではなかった。もちろん知人もいない。だが敵の支配する国になってしまった天州にいるよりは、ずっと安全なはずだ。もし違っていたら、また別の土地へ行けばいい。どうせ留まる理由など何もないのだから。


 近づいてみると川は思いのほか幅が広く、流れも速かった。目の届く範囲に橋はなく、渡し小屋のようなものも見当たらない。上流にあまり人が住んでいないのか、水は澄んでいてとてもきれいだ。

 伊都は河原へ下りて水を少し飲み、また土手を上って辺りを見渡した。

 人家は見えない。田んぼや畑もない。これまで慎重に集落を避けてきたのに、いざ探そうとすると見つからないというのは皮肉な話だ。

 夕暮れまで歩いて人に出会えなかったら、早瀬でも魚を捕れるか試してみよう。彼女はそう決めて、川沿いに歩き出した。

 雑草に覆われた土手道は、最近人の通った形跡がなく、土の露出がほぼなくなりかけている。どこの川岸にもたむろしている、物乞いや孤児(みなしご)たちの姿もない。放浪を始めてから見た中で、ここはいちばん寂しい土地のように思えた。

 こんなに人けがないなら、今夜は森に入らず、土手の下で草をかぶって寝てもいいかもしれない。

 そんなことを考えながら歩いていると、風に乗って不快なにおいが流れてきた。魚の(わた)や残骸を埋め忘れ、翌朝まで放置してしまった時のようなにおい。山の中でたまに出くわす、腐敗した動物の死骸のにおいにも似ている。先へ進むにつれて、その臭気はどんどん強くなってきた。何か生き物がこのあたりで死んで、腐っているのだろうか。

 あまりにもひどいにおいに閉口して、別の道を探そうと首を回した時、河原に生えた木々のあいだにぽつんと建つ民家を見つけた。百姓の集落でよく見かける、戸口に(むしろ)をかけた粗末な土壁の家がひとつ。その手前に、家よりも大きい木造の小屋がひとつある。どうやら、悪臭は小屋から流れ出ているようだ。

 気味が悪い。このまま通り過ぎよう。そう思ったが、家の前庭に干してある洗濯物がふと目に入った。竹竿に二枚の着物がかけてあり、うち一枚は女物だ。その横には細帯と、襁褓(おしめ)と思われる白いさらしが数枚かかり、風にはためいていた。

 夫婦者が住んでいて、赤ん坊がいる。この発見で、気味悪さがかなりやわらいだ。それに小さい子供がいる家なら、何か手伝わせてもらえる仕事があるかもしれない。

 伊都は土手を下り、岩だらけの河原をゆっくり歩いて、家のほうに近づいていった。人声がしないかと耳を澄ましたが、水音にかき消されてほかの音はあまりよく聞こえない。

 ずんぐりした小屋の前を通ると、あのにおいが耐えがたいほど強くなった。床下から川まで続いている浅い溝には、どろどろした汚水がこびりつき、大量の蠅がたかっている。その溝をまたいで半開きの戸口を覗くと、暗い屋内の様子を少しだけ見ることができた。

 土間に置かれた、いくつもの木桶。大人が入れそうな大(だらい)。隅のほうには太い丸太が転がっている。畳半畳ぐらいの大きさの板も何枚かあり、その中の一枚が壁に立てかけられていた。表面に、奇妙な形をした紙のようなものが貼り付けてある。

 鼻が曲がりそうな悪臭に顔をしかめながら、伊都はじっと目を凝らして見つめ、やがてそれが動物の皮であることに思い至った。

 いつか聞いた言葉――河原者(かわらもの)――が頭をよぎる。

 乗馬の一頭が老衰で死んだ際に、父が爺やとふたりで皮なめし職人の話していた。〝河原者〟という呼び方を、初めて耳にしたのはその時だ。

 動物の皮をなめす作業場はひどいにおいがするので、職人が町の近くに家を持つことは許されない。彼らはたいてい、集落から離れた川のそばに家と作業場を建てるため〝河原者〟と呼ばれるのだ、とあとで爺やが教えてくれた。

 そうか、ここは皮なめし職人の家なのね。

 伊都は得心して、小屋の前から離れた。仕事とはいえ、こんな悪臭の中で暮らすのは楽ではないだろう、と思う。だが自分が放浪生活で薄汚れていくことに慣れたように、人は何ごとにも、いつかは慣れるものなのかもしれない。

 家のすぐ前まで行っても、中からは何の音も聞こえなかった。職人とその家族は出かけているのだろうか。それでもと思い、伊都は戸口の横壁を遠慮がちに叩いてみた。しかし応えはない。

 あきらめて去ろうとした時、ふいに室内から足音が近づき、筵が無造作にはね除けられた。出てきたのは黒い髭と髪を伸び放題にした、険しい顔つきの若い男だ。諸肌脱ぎのたくましい上半身に、うっすら汗をかいている。

「なんだ」

 問いかける声は不機嫌そうだった。ここへ立ち寄ったのは失敗だったかもしれない。少し怯みながらも、いつものように仕事を請おうとした伊都は、彼の背後の室内にふと目をやって愕然とした。

 誰もいない。奥さんも、赤ちゃんも。家にいるのはこの人だけだ。

 思わず息を呑んで見上げると、目と目が合った。こちらを睨んでいるのに、奇妙に焦点がずれており、虚ろで不気味だ。

 全身の神経が、本能が金切り声を上げて〝逃げろ〟と命じ、伊都は物も言わずに身を翻した。男がとっさに反応して手を伸ばす。体は充分に逃げ切れていたが、うしろに流れた髪を鷲掴みにされ、乱暴に引き戻された。頭の皮が剥がれたかと思うほどの激痛に息が詰まる。

 男は軽々と彼女を抱え上げ、土間に叩きつけた。

「この餓鬼ゃあ、どういう了見だ」吠えながら大股に近づいてきて、脇腹に蹴りを入れる。「人の昼寝を邪魔しといて、詫びもなしに逃げる気か」

 伊都は体をふたつに折り、膝を縮めて丸まった。恐怖と衝撃のあまり、がたがたと体が震えるのを止められない。

 男はそんな彼女の胸ぐらを掴んで引き起こし、顔を突き合わせた。

「おいこら、どういうつもりだったか言ってみろ」

 あの小屋にも負けないぐらい臭い息を吐きかけられ、伊都は胸が悪くなるのを感じながら、必死に言葉を絞り出した。

「食べ物と引き替えに、し、仕事を……」歯の根が合わず、うまく喋ることができない。「何か仕事を、さ、させて欲しかったんです」

 男は一瞬、何を聞いたのかわからないというように眉根を寄せ、それから皮肉っぽい笑みを浮かべた。

「仕事だとぉ? おまえみたいな痩せっぽちの餓鬼に、どんな仕事ができるってんだ」

「畑仕事の手伝いが、で、できます。掃除も、裁縫も。子守も」

「畑なんかねえし、赤んぼもいねえ」

 そう言ったあと、男は急に肩の力を抜き、彼女の顔をまじまじと見つめた。

「乞食の餓鬼にしちゃ……」

 小さく呟くと、彼ははふいに伊都を吊り上げ、猫の子でも扱うようにして板間へ放った。次いで自分も土汚れた足のままで上がり、どかりと腰を下ろす。

「よし、仕事しろ。ちゃんと働いたら、あとで稗粥(ひえがゆ)を食わせてやらあ」

 床に打ちつけた肩の痛みをこらえながら身を起こし、伊都はおずおずと彼を見上げた。

「何をすればいいですか」

「横に座って酌をしろ。一滴でもこぼしたら、ぶん殴るからな」

 とんでもないことになった。伊都は不安が心に影を落とすのを感じながら、言われた通りに男の隣へ座った。

 床には素焼きの大徳利(どっくり)が置いてある。彼がふちの欠けた茶碗を突き出すと、細心の注意を払って濁り酒を注いだ。まだ手が小刻みに震えているので、こぼさないようにするのはかなり難しい。

 男は黙りこくったまま、立て続けに三杯酒をあおった。何を考えているのか、その顔から読み取ることはできない。

 伊都は徳利を膝に載せて、男の様子を注意深く窺いながら、目だけで家の中を観察した。先ほど投げられた時に吹っ飛んだ弓袋が、土間の片隅に転がっている。出て行く時に、あれを忘れないようにしなければ。

 しかし、本当にここから無事に出て行くことができるのだろうか。

 板間には古ぼけた行李(こうり)と米びつ、丸めた(むしろ)と木枕が置いてあるだけだった。地炉(じろ)の脇に浅い桶があり、中に入っている灰色の塊は砥石のように見える。先ほどまで酒を飲みながら、何か研いでいたのかもしれない。その途中で眠気がさし、横になっていたところへ自分が訊ねてきたのだろう。

 男がこちらを見ていることに気づき、あわてて徳利を持ち上げたが、彼の茶碗はまだ空になっていなかった。

「おまえ……」無遠慮な視線を浴びせながら、低く唸るように言う。「汚ねえ格好してるが、ただの乞食じゃねえな。どっかの大(だな)の家出娘か? それとも没落した武家の子か?」

 どきりとしながら、伊都は首を振った。

孤児(みなしご)です」

 言い終えるや否や、頬を平手で張られた。首が横にがくりと傾ぎ、あやうく倒れそうになる。徳利を落とさずに済んだのは、運が良かったとしか言いようがない。

 人に殴られたのは初めてだったので、痛みよりも驚きのほうがまさっていた。

「おれぁな、餓鬼になめられるのは、辛抱ならねえんだ」

 男は怒鳴りながら、伊都の顔に茶碗の残り酒を浴びせた。反射的に目蓋を閉じたが、睫毛についた雫が流れ込んで、目をちくちく痛ませる。だが顔をぬぐうために手を上げることはしなかった。いま余計な動きをするのはまずい気がする。

「しれっと嘘こきやがって」

 ぶつぶつ言って、彼は茶碗を伊都の胸元に突き出した。急いで酒を注ぐと、すぐさまあおって一気に飲み干す。

「つらはいいが、可愛げのねえ餓鬼だぜ」

 それから彼は腕を伸ばし、彼女の顔を片手で掴んだ。首を左右に傾け、酒臭い鼻息を吹きながら、工芸品でも検分するように眺め回す。

「おまけに小さすぎる。酌取りさせても、ちっともおもしろかねえ。年はいくつだ」

(やっ)つ」

 男がこぼした愚痴を手がかりに判断して、とっさにさばを読んだ。期待したよりも幼いと知れば、早く興味を失ってくれるかもしれない。

 案の定、彼は興が削がれた様子で、小さく舌打ちをして手を離した。

「たったそれっぽっちか。そんなちびが、ひとりで何やってる。親はどうした」

「親はいません。ほんとうに、み、孤児です」

 また叩かれるかと思ったが、男は今度は手を出さなかった。だいぶ酔いが回ってきた様子で、目がどんより濁っている。

「せっかく別嬪に産まれたってのに、親なしの家なしとは……つくづく運のねえ娘だ」

 彼は低く呻き、ため息をついてから、やおら伊都の頬に手を当てた。先ほど打たれ、熱を持ってひりひりしているほうの頬だ。顎骨を支えるようにして顔を持ち上げ、親指でそっと肌をなでる。

「だが、孤児でよかったかもしれねえな。おまえが死んでも、誰も泣かずにすむからよ」

 男はぞっとするような笑みを浮かべ、伊都の肩を突き飛ばした。なすすべもなく仰け反った体が、砥石の入っていた桶にぶつかり、もつれあって一緒に転がる。

 彼女の手を離れ、床に倒れた徳利から酒が流れ出すのを見て、男はますます嬉しげに唇の端を吊り上げた。

「あああ、こぼしちまった」

 残念そうに言って、ちっ、ちっと舌を鳴らす。

「粗相をした餓鬼には、お仕置きしなきゃなあ」

 膝立ちでにじり寄る彼を見て、伊都はぱっと身を起こした。立ち上がる暇はないと見て、四つん這いになって逃げる。男は笑いながら足首を掴み、易々と手元へ引き寄せた。襟首を持ってひっくり返し、抗う両手をあしらいながら帯を解き始める。

「どうせ乞食仲間に、もうさんざん可愛がられてんだろ。おまえみたいながりがりのちびじゃ気分が出ねえが、つらは上等だし、まあいいってことにしとくぜ」

「わたしに触るな!」

 自分でもぎょっとするほどの大声で叫び、伊都は狙い澄ました拳を男の左目に叩き込んだ。思い通りの場所に当たりはしたが、力が足りず、痛打を与えることができない。

 男は驚きで真顔になり、次の瞬間逆上した。大きな手のひらが飛んできて、伊都の顔を力任せに打ち据える。

 少しのあいだ、意識が遠くなった。片方の鼻孔が濡れ、口の中に金気臭い味がする。ややあって痺れたような感じが消え、ぼんやりしていた視界が澄むと、すぐ目の前に男の顔があった。

「じっとしてりゃ、すぐ済む」

 彼はそう囁いて、伊都の首を左手で掴んだ。

「細っこい首だな。ぽきんと折れちまいそうだ」

 不満げに呟き、指に少しずつ力を加え始める。

「終わっても生きてたら、宿場に連れてって娼楼(しょうろう)に売ってやらあ。こんだけ上玉なら、餓鬼でもいい値がつくだろうよ。おまえ、仕事がしたかったんだろ? これからは毎日ちゃんとお(まんま)食って、きれいなべべ着て仕事ができるぜ。もし死んじまったら――おれはちいっと荒っぽいからよ――そんときゃあ、そうだな、皮をそっくり剥いで、柔らかぁくなめして、どっかの道楽者にでも売るとするか」

 着物を乱暴に引き裂きながら、喜々として男が喋り続けているが、伊都は聞いていなかった。体に残った力を振り絞り、右腕を限界まで伸ばして床の上を必死に探る。

 たしかにあるはず。頭の上のほうの、どこか近い場所に。

 中指の爪が何かをかすった。脇腹が引き攣れるのもかまわず、さらに腕を伸ばす。すると、今度は指が触れた。丸い。なんだろう。

 探しているのは、先ほどぶつかった桶の中の砥石だった。重く、硬いので武器になる。あるいは桶そのものでもよかった。しかし、指先に当たっているものは、そのどちらでもなさそうだ。

 首を絞めていた手の力がゆるんだ。男が少し身を起こし、自分の(ふんどし)を外し始める。その隙に、思いきり息を吸って腕を伸ばし、あの丸いものを掴んだ。

 棒だ。細い。でも、何もないよりはましだ。

 指に力を込めてしっかりと握り、伊都は蛇のように素早く跳ね起きながら、その先端を男の顔に叩きつけた。

 奇妙な手応えだった。棒で何かを殴った時の感触とは思えない。しかしその一撃はかなりの痛手を与えたらしく、彼は声も上げず仰向けに倒れ込んだ。

 と同時に、伊都もまた力尽きてくずおれる。すぐにでも逃げたいが、とても立ち上がれそうになかった。息が切れ、長い距離を走ったように胸が激しく波打っている。幸いなことに、男のほうも同様らしい。

 少しのあいだ横たわって回復を待ってから、彼女はのろのろと体を起こした。膝を手で支えて立ち、ふらつきながら歩いて行って、大の字になって動かない男を上から覗き込む。

 不思議なことに、あの棒が彼の顔の真ん中にくっついたままだった。なぜ落ちないのだろう。怪訝に思いながらさらに近づいた時、ようやくその理由がわかった。

 これは棒じゃない。鎌だ。

 理解したとたん全身がぞっとそそけ立ち、動悸が高まった。背筋を氷のような戦慄が走り抜ける。

 鼻柱に鎌の刃を突き立てられた男が、小さく身じろぎして口を開けた。

「がっ」

 異様な声を上げ、またわずかに身をよじる。だが、起き上がることはできないようだ。

「があっ」

 再び声を上げると、彼の口に血があふれた。歯が真っ赤に染まり、気泡混じりの鮮血が口の端から流れ出す。喉がごぼごぼと嫌な音を立て、体がぴくぴく痙攣し始めた。

 漂魄(ひょうはく)……? 違う。まだ生きている。顔の真ん中を刺されているのに、どうして死なないの?

 伊都は恐怖に(おのの)きながらも、それを凌駕するほどの冷たい怒りに突き動かされ、血溜まりの中に踏み込んだ。両手で鎌の柄を掴み、男の肩を踵で押さえつけて一気に引き抜く。

 思ったほど力はいらなかった。鋭く磨がれた刃がするりと抜け、彼の口からまた血があふれ出す。それでもまだ、目には光が残っていた。

 もう終わりにして――お願い。お願い。

 祈るような思いで鎌を振りかぶり、しっかり狙いを定めて振り下ろす。刃が胸板に深く食い込んだ瞬間、男は一度だけびくりと引きつった。それきり動かなくなる。

 伊都は二、三歩後ずさり、ぺたんと尻餅をついた。空っぽの胃袋から、苦い汁がこみ上げてくる。横を向いて吐き、少し待ってもう一度吐いた。全身に鳥肌が立ち、冷や汗がにじみ出る。

 殺した。

 心の中の声が、耳を聾するほどに鳴り響いた。

 人を殺した。でも殺さなければ、わたしが殺されていた。

 しんと静まりかえった家の中で、何かが軋むような音を立て、やがて彼女は自分がすすり泣いていることに気づいた。息を継ぐたびに抑えきれない涙があふれ出し、そぼ降る雨のように胸と膝を濡らす。頬を伝う雫は熱く、肌を焼き焦がすように感じられた。


 泣くだけ泣いて気持ちが静まると、伊都は男の死体から抜き取った鎌を持って、家の外へ出た。長い長い時が経ったように感じていたが、まだ日は暮れていない。

 彼女は川まで歩いて行き、そのまま流れの中に踏み入った。腰のあたりまで浸かったところで、全身を水に沈める。底に転がる石のあいだに鎌を置き、柄の部分を足でしっかりと踏みつけてから、体にまとわりつく小袖の残骸を引きはがして裸になった。

 裾の一部を裂いて手の中に残し、あとは流れが運び去るに任せる。

 伊都は水の上に顔を出すと、ゆるく絞った端布(はぎれ)を使って、丁寧に体を洗い始めた。男に殴られた顔。絞められた首。床に打ちつけた肩。蹴られた脇腹。放浪生活の垢汚れと共に、塩辛い涙と汗、苦痛、恐怖、血、すべての汚穢(おわい)がぬぐわれ、水に流されていく。

 そうしていると、すぐ傍に多恵(たえ)がいて、穏やかに微笑みながら見守っているように思えた。目をつぶると、〝お嬢さん〟と呼びかける優しい声すらも聞こえる気がする。

 納得のいくまで洗い清めてから、伊都は踏んでいた鎌を拾い上げ、髪を削ぎ切り始めた。濡れた毛を束にしては、刃を斜めに当てて短く刈り込む。肩に触れる長さの髪がなくなったところで再び川に潜り、すべらかな水の感触を楽しみながら、頭をぶるぶると左右に振った。断ち落とされた髪の切れ端が、速い流れに乗ってあっという間に視界から消える。

 息が続かなくなると川底を蹴って浮かび上がり、しばしそこに佇んだ。水面にちらちらと揺れる自分の黒い影を見下ろし、「ほうら、すっかりきれいになった」と囁く。すると、自然に微笑が浮かんできた。減った髪の量と同じだけ心が軽くなったように感じられる。

 水の清涼さに名残を惜しみつつ岸へ上がると、ゆっくり歩いて家の前まで戻った。庭に干された洗濯物から、丈の短い女物を選んで袖を通す。

 よく見ると、その小袖は日に晒されて色褪せ、雨染(あまじ)みで汚れていた。もうずいぶん前から、ここに干されたままだったのだ。しっかり観察していれば、家へ入る前に気づけただろうに。そう考え、彼女は自嘲の笑みをもらした。

 もう二度と油断しない。心の中で決然と呟き、唇をきゅっと引き結ぶ。誰かに不意打ちされたりしないように慎重に、疑り深く、利口に、そしてもっと強くならなければ。

 小袖は裾が長すぎたが、腰のところで巻き上げて細帯を締めれば、歩くぶんには支障がなくなった。袖丈については我慢するしかない。とはいえ、破れていない着物を手に入れたのだから、文句はなかった。

 これを着ていた人と、襁褓(おむつ)をしていた赤ちゃんはどうしたのだろう。

 逃げたのかもしれない。あるいは、あの男に殺されて、この河原のどこかに埋められているのかもしれない。伊都はふたりが、無事に逃げおおせているよう祈らずにいられなかった。そして彼女たちが、二度とあんな狂った男に出会わずにすむことを。

 身形(みなり)を整えたあと、伊都は戸口の脇に置かれた雨水溜めの大(がめ)を覗き込んだ。夏空の瑠璃(るり)色を溶かした水鏡(みずかがみ)に、見慣れない少女が映る。

 髪が短くなり、輪郭や造作がよりはっきりわかるようになったことで、彼女はその顔を美しいと――これまで人から何度も言われたように――ほんとうに美しいと、生まれて初めて実感した。

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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