三十八 丈夫国生明郷・黒葛寛貴 間諜
十年前に初めて生明城の麓御殿に足を踏み入れた時、黒葛寛貴はその迷宮めいた複雑な構造に驚かされた。築城を命じた者が何か風変わりな嗜好を持っていたか、いささか偏執狂的なほど暗殺や敵襲を恐れていたに違いない。
表、中奥、奥の三つの殿舎があるのはほかの城と同様だが、生明の御殿はそれぞれの配置やつながりが異様に入り組んでいる。また中奥と奥には、寛貴が知っているだけで二本の抜け穴が秘かに作られていた。本格的に探せば、あるいはもっと見つけられるのかもしれない。
抜け穴のひとつは、奥の殿舎の城主居間から、御殿を囲む内堀の外の松林まで続いている。もうひとつは中奥の茶室から入り、北庭の下を通って麓曲輪の外へ出ることができた。
寛貴はこれらを通って外へ出たことはないが、余人に知られたくない客を招き入れたことはある。そうした客のひとりが、今日も来ることになっていた。
午を少し過ぎたころ、右筆に二、三の書状を書かせていたところへ、家老の柳浦重里が顔を覗かせた。彼は寛貴よりもひとつ若い三十二歳で、幼少期から兄弟同然につき合ってきた竹馬の友だ。
今は主君と家来に立場が分かれてしまったが、気安い仲であることに変わりはない。寛貴の近習である鳥谷部直恒はそれをよく承知しているので、わざわざ格式ばって彼を取り次ぐことはしなかった。
重里のほうも心得たもので、直恒の会釈に笑顔で応え、さっさと中御座之間へ入ってくる。
「御屋形さま」
持ち前の朗らかな太い声で言い、彼は寛貴の前に腰を下ろした。
「ご報告の儀あって参りました」
「よし。しばし待て」
寛貴は書かれた書状にさっと目を通し、自身の花押をしたためた。それを右筆に渡しながら、手短に指示を出す。
「まだ封はせず、手文庫に入れておけ。あとで書き加えることになるやもしれぬ」
右筆を下がらせたあと、彼は廊下で控えている近習に声をかけた。
「直恒、わしはこれからしばらく、重里と茶室にこもる。女中に支度を申しつけ、わしらが入ったのちは廊下から人を遠ざけよ」
「は」
直祐が短く答えて去ると、寛貴は脇にいる小姓のほうを向いた。
「和高、おまえは下がってよい。用ができたらまた呼ぶ」
「心得ました」
少年が緊張気味に大人ふたりへ頭を下げ、ぎこちない歩きぶりで退室する。それを見送りながら、重里が小さく笑った。
「いやはや、硬い。新しい小姓ですか」
「元博の代わりにな」寛貴も思わず笑みをもらす。「真境名家の次男だ。当主の嶺からぜひにと頼まれたので、まだ少し小さいが預かることにした」
「いま、いくつです」
「十ということだ」
「ふうむ……まだ親の傍にいたい年だろうに」
重里がふと父親の顔になった。彼も同じ年ごろの息子を持っているので、何か胸をよぎるものがあるのだろう。
寛貴と重里には共通点が多い。ふたりとも戦好きで女好き、そして家族に対する思いが人一倍強かった。殊に我が子への愛情の深さは、並々ならぬものがある。
似たもの同士の彼らは、出会った当初からとにかく気が合った。寛貴は家臣たち、とくに重臣とはこの上なく良好な関係を築いているが、その中でも特別に堅固な絆を感じるのは、やはり重里だ。彼には腹を割って何でも話すことができたし、彼のほうも寛貴に対して隠し立てはしなかった。そして、必要とあらば諫言することも辞さない。そういう人物が傍にいてくれることを、寛貴は心強く感じている。
「おお、そうだ。新しいといえば――」重里は、はたと膝を打ち、懐から小さな紙包みを取り出した。「城下で目新しい菓子を見つけましたので」
寛貴は包みを受け取り、開いて中を見てみた。薄茶色をした、小さな平たい切り餅のようなものがいくつも入っている。
「飴か、これは」
「はい。〝玉音飴〟といって、近ごろ出回り始めたものですが、すでにたいそう評判を呼んでおるそうです。なんでもこれをなめると、たちどころに声がよくなるのだとか。風邪ひきの際には、喉痛の妙薬にもなると聞きました」
「おかしなものを見つけてくるやつだ」
寛貴は笑いながら、ひとつつまんで口に放り込んだ。舌触りはなめらかで香ばしく、ほんのりとした甘さがあり、しばらくなめていると生姜の風味が立ってくる。
「む――これは菓子というか、薬というか……」
「生姜が利いておりましょう。わしも、なめみて驚きました。主体は麦芽と米で、ほかに花梨や甘草など、薬効の強いものがいろいろと入っているそうです」
舌を刺す生姜の辛味に慣れると、これはなかなか悪くないと思えてきた。癖になる味とは、こういうものだろうか。
「気に入った」
「それはよかった」重里は相好を崩したあと、形を改めて寛貴のほうへ少し膝を進めた。「さて、茶室へ移る前に二、三お伝えすることがございます。西へ行かせていた者たちから、いろいろと報告が届きました」
「聞こう」
「まずは立州ですが、貴昭さまが北東部の鉢呂山を禽籠山と定められ、天翔隊の立ち上げに着手なされた由」
「くそう、先を越されたな」
寛貴は苦笑いしながら言った。丈州でも天翔隊の設立を急がねばならないのはわかっているが、やることが多すぎてなかなか手が回らない。弟は移封したばかりで、家臣団をまとめるだけでも手一杯だろうに、軍備の増強まで進める時間をどこからひねり出しているのだろう。
「隊士の訓練は、もう始まっているのか」
「第一陣として山に入った者たちは、すでに取りかかっているようです」
「候補者の顔ぶれは」
「支族からは石動家の次男博武を筆頭に、玉県分家の次男綱正、菰田由解家の長男虎嗣など。……おお、そうだ、第二陣には真境名家の長女燎の名もありました」
「和高の姉か」意表を突かれ、寛貴は思わず目を瞠った。「しかし、あれは跡取り娘だろう」
「大胆な決断ですな」
重里はうなずき、難しい顔をして腕を組んだ。
「それにしても、女子を隊士に加えるのは……」
「なんだ、釈然とせぬか」
「いささか」
彼は正直に答えて、小首を傾げた。
「資性英明たる貴昭さまのことゆえ、確たる見通しあってそう決められたのだとは思いますが」
「あいつは新しい時代の将なのだ。おれやおまえよりも視野が広く、考え方が先を行っている」
十二歳年下の弟には、自分にはないものが備わっていると、つねづね思っている。彼は子供のころから、黒葛家の男子らしい勇猛果敢さと、優れた大局観を併せ持っていた。
寛貴はそういう弟が自慢であり、同時に少しばかり妬ましさを感じている。そんな気持ちも、重里には打ち明けたことがあった。
「貴昭は七草で、うまくやっているようだな」
「儲口家の家臣だった者たちに仕事を与え、積極的に使っておられるのが功を奏しているようです。奪い取った領地の外様を取り込むのは、なべて骨が折れるものですが、かなり巧妙に立ち回っておいでだ」
「おれは丈州を預かった当初、一度それで失敗したな。外様を警戒しすぎて、彼らの心を掴み損ねた」
「貴昭さまは、その御屋形さまのしくじりをご存じゆえ、同じ轍を踏むまいと心がけておられるのやもしれませぬな」
「おれが手本というわけか」
寛貴は笑い、玉音飴をまたひとつ取って口に入れた。それを見て、重里が嬉しそうな顔をする。
「それと、立州からもう一件、こちらはあまり良いご報告ではありませぬが、儲口守恒の捜索を切り上げたという報せが届きました」
「逃げ切られたか……」
寛貴は呟き、しばし瞑目した。
立身国の国主代だった守恒は、黒葛家の軍勢が七草に攻め入った時には、すでに郷にいなかったという。貴昭は直後にかなりの数の追っ手を放ち、城下や各郷村に布令も出して捜索に努めたそうだが、その後も彼の行方は杳として知れなかった。
重里が束ねている忍び働きの者たちに命じて、独自に守恒の足取りを追わせたのは寛貴だ。弟の助けになればと思ってのことだったが、どうやらその計らいは空振りに終わったらしい。
「七草侵攻から三月――」寛貴は考えながら、ゆっくりと言った。「生きているなら、疾うに江州へ入っておろうな」
「おそらくは。守恒と共に逃亡した家来をふたり、隠れ住んでいた寒村で見つけたそうですが、主君とは半月ほども前にどこぞの山中で別れたと申していたとか」
「別れたのではなく、見捨てたのだろう」
寛貴はそう決めつけ、憫笑を浮かべた。敵勢と一戦交えもせず逃げ出すような大将は、家臣に見捨てられて当然だ。だが、そこまで堕ちた守恒を、気の毒に思う部分もなくはない。そもそも彼は、一国を預かるほどの器量を持ち合わせてはいなかった。
いずれ江州へ攻め入って百武城を落としたら、守笹貫道房に「なぜ守恒に立州を任せようと思ったのか」と聞いてみたいものだ。
「その家来ども、どう処遇した」
「七草まで連れて行き、貴昭さまにお引き渡ししたとのことです」
「うむ、それでよい」
「次に三州よりの報告ですが――」
重里が言いかけた時、中御座之間に足音が近づいてきた。
「御屋形さま」直恒が廊下から声をかける。「茶室の支度が整いました」
「よし、移ろう」
寛貴は立ち上がり、ふたりを伴って部屋を出た。隣の十畳間と八畳間を通り抜けて、西庭に面した入側へ出る。そのまま歩いて角をふたつ曲がると、祭壇の間の脇で壁に突き当たった。が、実はこの壁は隠し扉になっており、左側を押すと中央の支え柱を軸に横回転する。
御殿の中にはこういう、無駄とも思える絡繰り仕掛けが方々に施されていた。馬鹿らしくはあるが、妙に童心をくすぐるものがあるのも否めない。そこで寛貴は、敢えて取り壊さずにそのまま使っていた。
諸々の仕掛けや順路を覚えるまで、新参の家臣は御殿内で当然のごとくみな迷う。迷わなくなると、古参からやっと一人前扱いされるらしい。
「あの小姓――和高だが」歩きながら、寛貴は重里に話しかけた。「どういうわけか、あいつは一度もこの御殿の中で迷子にならぬ。不思議だと思わんか」
「それはすごい。渡りをする鳥並みに、方向感覚が優れているのでしょうな」
「草深い山中や夜道でも方向がわかるなら、将来戦場で役に立ちそうだ」
話しながら長い畳廊下と短い階段、三つの部屋を通り抜けると、茶室へ続く板敷きの廊下に出た。左右を壁に挟まれているため、その通路だけが奇妙に薄暗い。寛貴はここを歩くと、いつも洞窟に入っていくような気分になる。
「半刻ほどかかる」
通路の入り口で足を止めた直恒に言い置き、寛貴は重里を伴って茶室に入った。北庭に面した壁の片引窓が開けられ、室内に外光が淡く差し込んでいる。火の入った炉では、茶釜が湯気を上げ始めていた。
「一服進ぜよう」
狭い室内に腰を下ろしたあと、寛貴は作法にこだわらず手早く茶を点て、重里に勧めた。次いで、自分用にも薄めに点てる。
「それで、先ほど言いかけた三州からの報告とは?」
互いに茶碗を置いたところで訊くと、重里は少し面持ちを引き締めた。
「これは、まだ噂の域を出ぬ話だということですが……」
「もったいぶるな」
「禎俊公が側室を迎えられるやもしれぬ、とのことです」
寛貴は呆気にとられ、馬鹿面をさらしたまましばらく固まった。
側室。兄上が。まさか。
頭の中で考えた通りの言葉が、そのまま口をついて出る。
「側室? 兄が……まさか」
「わしもまさかと思いましたが、郡楽城の小姓部屋や右筆衆の詰め所あたりでは、近ごろしきりとそういう噂が囁かれているそうで」
「しかし、側室といっても、いったい誰を迎えるのだ。兄に懇ろな仲の相手がいるなどという話は、聞いたこともない――」
寛貴はふと言葉を切った。首筋に風を感じる。そう思った時には、客はすでに部屋へ入り、ふたりの脇に佇んでいた。
床の間の横壁に抜け穴の入り口があり、そこから来るとわかっているにもかかわらず、寛貴はいつも彼が部屋に入るまで気配を察知することができない。
「――宗兵衛」
「御屋形さま」
黒葛家の間諜を率いる空閑宗兵衛は、さらりとも音を立てずに腰を下ろした。小柄だが均整の取れた体躯を、色目も定かでなくなるほど洗い晒した小袖に包んでいる。臑に脚絆を巻いており、旅装を解いたばかりと見えたが、裸足の足指は少しも汚れていなかった。
「遅うなりました」畳に手をつき、低く頭を下げる。
「なに、かまわぬ。今、三州からの報告を聞いていたところだ」
「ご当代さまの、ご側室の件」
「そうだ。おまえも知っているか」
「は。そもそもは奥方さま――富久さまからお勧めなされたこと。ご実家である、玉県家の筋のかたを推しておられます」
「正室が夫に、側妾を持てと焚きつけているのか」
あきれる寛貴を見上げ、宗兵衛は静かに言った。
「なかなかご自身で、お子をお産みになれぬゆえ」
声量を抑えた低い声だが、めったに口を開かない古老のそれのように、いざ発せられると周囲の耳目を集めずにはおかない響きを湛えている。四十そこそこの外見からは、まったく想像もつかない声音だ。
「玉県家の血を、是が非でもご宗家と結びつけるべく、思い定めておられるのでしょう」
「気に入らんな」
ぴしゃりと言い、寛貴は膝に置いた手を強く握った。兄の正室はもともと虫が好かないが、何かこそこそ企んでいると思うと、なおさら不快に感じる。
「もうひとつ――」宗兵衛が思慮深い目をして言った。「おそらく、御屋形さまの気に入られぬことが」
「なんだ」
「先ごろ、七草の貴昭さまの元にも、富久さまが玉県分家のかたを送り込まれました。齢十七の、見目よい娘御を」
寛貴は瞠目したまま絶句した。代わりに重里が声を上げる。
「まさか、貴昭さまにまで側室を?」
「名目上は、行儀見習いということになっております」
良家の娘が嫁入り前の修行を兼ねて、主家の屋敷で女中奉公をするのはごく普通のことだ。だが寛貴には、富久の腹づもりが透けて見える気がした。黒葛家の男たちのところに次々と玉県家の女を送り込み、あわよくば籠絡させるつもりなのだろう。それが実家の地位向上につながると思っているのだ。
「つまらぬ裏工作だ」彼は吐き捨てるように言い、また茶を点て始めた。「貴昭と嫁の真木は、まれに見る相愛の仲で、すでに嫡男もいる。まだ若いふたりゆえ、今後もさらに子は産まれよう。玉県家の娘を御殿に入れて、万一貴昭の手がついたとしても、家督にかかわりのない庶子を産むのがせいぜいだ」
「たしかに」重里が真顔で同意する。
「宗家にしても同じこと。兄は後添えを迎える際に、たとえ富久とのあいだに男子が産まれたとしても、貴昌が跡取りであることに変わりはないと明言している。側室を迎えたからといって、それを翻すはずもない」
「次代の地位は狙えずとも、うまくすれば玉県家の力が増すやもしれぬ……と、そのような目算でしょうかな」
「女の浅知恵だ」
鼻で笑って、寛貴は点てた茶を宗兵衛の前に置いた。およそ物に動じることのない男が、ほんのわずかに身じろぎして目をきらめかせる。
「や――これは」
「遠慮するな」
勧めると、宗兵衛はこだわりなく茶碗を手に取り、喉を鳴らして飲み干した。寛貴はこの男のこういうところ、控えるべき時とくだけてよい時とを見極めて、振る舞いを柔軟に変える臨機応変さが気に入っている。
そして宗兵衛のほうも、忍びの者を下賤の存在と卑しむことなく、その仕事ぶりを評価し重遇する寛貴に好意を抱いている。少なくとも寛貴自身は、彼とのつき合いの中で、たびたびそう感じていた。
「外で日に灼かれてきましたので、甘露で渇きが癒されました」
茶碗を置いた宗兵衛が、穏やかに言って頭を下げる。半分は世辞だろうと思いつつも、寛貴は莞爾としてうなずいた。
「茶よりも酒をふるまってやりたいところだが、まだ刻限も早いゆえ、な」
「酒はまたのことに。ご報告をして、二、三の手配を済ませましたら、すぐにも永州へ戻らねばなりませぬ」
「ずいぶんと、急ぐのだな」
「手の者を、日紫喜の城内に残して参りましたので」
これには寛貴も驚かされた。先日の談合のあと、樹神家の内情を探るよう命じはしたものの、まさか日紫喜城に忍びの者を潜入させているとは思ってもみなかったのだ。
「どうやって城内に入れた」
「御殿に絹を納めている御用商人と、いささか係り合いがございましたので、それを手蔓に下女として潜り込ませました」
「女忍びか。それで、何を探り当てた?」
「樹神有政が、黒葛家との同盟に飛びついた理由がわかりました。内敵の存在――身内の謀反を恐れ、その抑止力となるものを必要としているのです」
たしかに、軍備強大な隣国との同盟は、反乱の抑止につながるだろう。いざ事が起きた際には軍事支援を得て、敵を挟み撃ちにすることもできる。有政の心算がそのあたりにあるのだろうということは、寛貴としてもある程度予想していた。だが、永州で謀反を起こしそうな人物が思い浮かばない。
永穂国は土地こそ狭いが豊かな国で、有政は名君とまではいかずとも、先代の助けを借りながらそれなりによく統治しているようだ。いったいどこに、謀反につながるような不満の種があるというのだろう。
「有政は、身内の誰の乱逆を警戒しているのだ」
「弟の樹神清長です」
「清長?」
寛貴と重里は異口同音に言い、思わず顔を見合わせた。どちらも当惑の表情を浮かべている。
「二十代の半ばまで部屋住みで、ろくに戦にも出ず、ぶらぶら遊び暮らしていた男ではないか」寛貴は胸の前で腕を組み、唸るように言った。「今ごろになって、突如野心が燃え上がったとでもいうのか」
「樹神家の兄弟は長らく不仲でしたが、これまでは清長が、御屋形さまの言われたような体たらくであったため、目立った諍いは起こりませんでした。しかし、一年前に彼が妻帯してから、少々事情が変わってきたようです」
「待て。そもそも、兄弟の不仲の原因は何だ」
「有政の妻です」
寛貴は頬を張られたような衝撃を受け、一瞬言葉を失った。
有政の妻――由莉。洲之内郷の砦で、霧の湧き立つ山裾の景色を眺めながら、彼女と語り合ったひとときが蘇る。
若くして逝った小夜を憐れんで涙を浮かべ、〝わたしは泣き虫なのです〟と微笑んだ、あの純一無雑で優しい女が兄弟の争いの元になっているなど、にわかには信じられない。
「あの奥方が」重里も同様に感じたらしく、声に驚きがにじんでいた。「有政と弟の対立を煽っているのか?」
「いえ、そういうことではなく」
宗兵衛が淡々と説明する。
「有政の妻を先に見初めたのは、清長のほうだったのです。次男坊の身軽さで、しばしば城下を出歩いていた若いころに出会い、一目惚れを。しかし、いずれ妻にするつもりで城に上げたところ、兄の有政も彼女を気に入り、我がものにしてしまいました。清長は、今もそれを根に持っているようです」
まるでおれ自身の話を聞いているようだ。寛貴はそう思い、少し落ち着かない気分になった。おれは小夜を妻にすることができたが、もし横から兄にさらわれていたら、やはり清長と同じように恨んだかもしれない。
しかし、すぐにその考えを頭から押しやった。
なにを馬鹿な。彼はおれから女を奪うようなことはしない。兄上と有政は違う。そしておれも、そんなことで兄に敵意を持ったりはしないだろう。
「古い遺恨に、今さら火が点いた理由は?」
「清長が船明家の娘を娶り、強い後ろ盾を持ったことが発端です」
宗兵衛の言葉は、寛貴を再び驚かせた。
西峽南部の名家に名を連ねてはいるが、船明家は干戈時代に大陸の西沿岸部を荒らし回った、海賊衆上がりの一族だ。今は南部四島のひとつである釣餌島を本領とし、強力な水軍を有している。
仲の悪い弟が船明家と結びついたのなら、有政が警戒感を強めるのも当然だろう。
「なるほど……ろくに条件も提示せぬうちから、同盟の申し出に双手を伸ばしてきたのは、そういう事情があったためか」
寛貴は低く呟き、宗兵衛を見た。
「日紫喜城は、海が近かったな」
「湊まで半里あまりかと」
「おれが清長なら、船明の水軍に沿岸を襲わせ、城内が手薄になったところで叛逆の狼煙を上げる」
「有政は悩ましい選択を迫られますな」重里が目をぎらりと光らせる。「兵を引き返させて城を守るか、そのまま進めて湊への侵攻を食い止めるか」
「兵を戻せば、清長とその味方を制圧することはできる。だがその間に、船明の兵が上陸して城に攻め寄せる」
「樹神家の水軍は?」
重里に問われ、宗兵衛は少し考え込む様子を見せた。
「……六十挺櫓の大船四隻、小船およそ八十艘。有事の際にすぐ動けるのは、小船十五艘ほどと思われます。全体的に小規模であり、水軍兵の練度もあまり高くはありません」
「対する船明水軍は、海の戦いに熟達している。たとえ相手が一船団だけだったとしても、樹神水軍は上陸を阻止できまい」
むしろ楽しげに言って、重里はにやりと笑った。
「清長め、昼行灯と呼ばれて軽んじられていた男にしては、なかなかうまくやったものだ」
うまくやったどころではない。寛貴は眉間に皺を寄せ、下唇を軽く噛みながら考えた。なぜ有政は、不仲の弟に必要以上の力を与えるような縁組みを認めたのか。兄に逆心を抱いている弟など、適当な支族か地頭の娘とでも一緒にさせて、さっさと僻遠の少領に追い払ってしまえばよかったのだ。
「有政と手を結ぶ前なら人ごとで笑えたが、今となってはそうもいかん」
ぶっきらぼうに言うと、重里は苦笑して肩をすくめた。
「しかし黒葛家との同盟を知れば、清長はもはや動けますまい」
「どうかな。船明家のほうが焚きつけるやもしれぬ。清長は我らの力を恐れるだろうが、釣餌島の海賊どもをおとなしくさせるには、こちらにも相応の水軍力が必要だ」
黒葛家にも水軍はある。三国全体で見れば、規模も決して小さくはない。だが船明水軍と海上で睨み合うには、丈州に属する船団だけでは明らかに力不足だ。
三鼓国と立身国から船団を回してもらう手もあるが、それをすると両国の海上防備が手薄になってしまう。
寛貴は目を伏せて考えたあと、重々しく言った。
「敵の敵は味方――という言葉があるな」
重里が、はっと息を呑む。
「新たな同盟を?」
「それも視野に入れて、今後のことを考えねばならん」
誰と手を組むべきかは、すでにわかっていた。船明家と水軍力で渡り合える家といえば、南海の百鬼島を領する雷土家を置いてほかにはない。そして両家は海の覇権をめぐって、長年にわたり敵対関係にある。
重里と宗兵衛も、すぐそれに思い当たったようだった。
「溟海の鬼」重里が囁くように言い、ぶるっと身震いして見せる。「郡楽で暮らしていた子供のころ、百鬼海賊にまつわる恐ろしい伝説をいろいろと聞かされました」
「雷土家は古来より独立独歩で通してきた家だが、鬼の首領も話を聞く耳ぐらいは持っているだろう」
しばらく黙っていた宗兵衛が、ここでふいに口を開いた。
「知らねばなりませんな、あの家のことを」
ほんの一瞬目を見交わして寛貴がうなずき、宗兵衛がうなずき返す。何も言う必要はなかった。命じるまでもなく、彼はすぐに空閑忍びを百鬼島に送り込んで、あらいざらい調べ上げさせるだろう。
それにしても――寛貴は心の中で呟き、ため息をついた。相も変わらず、休む間もなく新たな仕事や懸念材料が湧いて出る。到達すべき出口のない迷路を、ひたすらさまよい続けているような気分だ。
だが兄の信頼と期待に応えねば。それに、同じ状況下で着々と仕事をこなしている、若い弟に負けるわけにはいかない。
顔を上げると、ふた組の目が自分に注がれていた。一方はまっすぐに、もう一方は慎ましやかに。どちらの目にも揺るぎない忠信と、強固な意志が宿っている。
その眼差しが、山積する困難に立ち向かっていくための、新たな力を与えてくれるような気がした。
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