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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第三章 それぞれの旅路
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三十七 王生国天山・石動元博 剣術遊び

「今朝、散歩がてら足を伸ばして、〝空中露台〟と呼ばれる場所へ行ってみた」

 真栄城(まえしろ)忠資(ただすけ)はそう言いながら、手にした木太刀で元博(もとひろ)の打ち込みを弾いた。

久留馬(くるま)家と津雲(つくも)家の屋敷に挟まれた、あの小さい出っ張りのことさ。ちょっとした眺めだったよ」

 彼が余裕綽々で喋っているのとは対照的に、元博は息が切れて、なかなか声を出すことができない。

曲輪(くるわ)の、西側の、岩棚ですか」

 息を継ぎながら切れ切れに言うと、忠資はにやりとして剣を引いた。

「少し休むか?」

「いえ」本音を言えば休みたいが、せっかく稽古をつけてもらっているのに、甘えていては上達しない。「まだやれます」

「よし、来い」

 促されるまま、元博は木太刀を大きく振りかぶって突進した。素早く斜めに振り下ろし、八双に構えた相手の左手を狙う。 

 今度は打てたと思った瞬間、忠資は左足をすっと後ろに引き、ただそれだけの動作で打ち込みを逸らしてのけた。次いで、右手の軽いひと押しで元博の体勢を崩し、横にころりと転がせる。

 舞い上がる土埃の中に寝転びながら、元博はあまりにも易々と倒されたことに恥じ入った。

 ふたりが稽古場にしている、低い柴垣に囲まれた五坪ほどの土地の横には、黒葛(つづら)家一行の宿所である〈賞月(しょうげつ)邸〉が建っている。その濡れ縁に腰かけて稽古を眺めていた柳浦(なぎうら)重晴(しげはる)が、同情に堪えぬというようにため息をついた。気難しい顔をして首を振り、忠資に向かって片眼をしかめる。

「おまえの相撲めいたいなし技は、実に憎たらしいな」

 批判されても、忠資は涼しい顔だ。

「力の無駄づかいをせぬだけのことさ。甲冑武者は鍔()り合いをするより、転ばせるに限る」

 元博は起き上がり、こめかみから滴る汗をぬぐった。

「そういうものですか?」

「えい、やあと声を掛け合って、真正面から打ち合う道場剣術なぞ、実戦では何の役にも立たんよ。戦場(いくさば)では殴っても蹴ってもいいから、とりあえず相手を地面に倒す。それから馬乗りになって首を落とすのが、いちばん手っ取り早いんだ。手近に武器がなければ、絞め殺すのもいい」

「乱暴だなあ。でも理に(かな)っていますね」

 眉間に皺を寄せながらも納得した元博に、重晴が渋い顔をしてみせる。

「鵜呑みにするな。こいつの剣術には、精神性の欠片(かけら)もないからな」

「精神性」忠資が繰り返し、からからと笑う。「そんなもの、命の瀬戸際に立ったら、どこかへ吹っ飛んでしまうよ」

 彼は戦へ出たことがあるのだろうか。元博がそれを訊こうと思ったところへ、桔流(きりゅう)家屋敷の主屋へ行っていた黒葛貴昌(たかまさ)朴木(ふのき)直祐(なおすけ)が帰ってきた。

 最近、貴昌は毎日主屋へ足を運び、桔流家の子供らに混じって学文に勤しんでいる。桔流和智(かずとも)は人質として預かった貴昌を「我が子同然と思って養育する」と宣言しており、当初から一貫してその言葉通りに実行していた。

 大皇三廻部(みくるべ)勝元(かつもと)の側近で、〝天山(てんざん)の懐刀〟と称される桔流和智は、稀に見る厳格な人物だ。鉄板を張った(くろがね)門のように堅く、厳めしく、触れれば指が貼りつくほど冷たいだろうと感じさせる。だが、誇り高く威厳に満ちてはいるものの、決して冷酷ではなかった。それは人質の扱いかたを見ていればわかる。

 元博は彼に対して畏怖の念を抱いているが、同時に、信用はできる人物だとも感じていた。

「おや若君」忠資が微笑み、垣根の向こうを歩く貴昌に声をかける。「今日はどんなことをお勉強なさいましたか」

 少年は脇戸から入ってきて、嬉しそうに報告した。

「算用と習字。それから、織恵(おりえ)國房(くにふさ)どのに囲碁を教えていただいた」

 居合わせた者はみな、一様に驚きの表情を浮かべた。桔流家の家老である織恵國房とは、天山へ来たばかりの時に、あまり友好的とは言えない出会いかたをしている。それ以降は、ほとんど顔を合わせる機会もなく、誰もが初対面の印象を修正できずにいた。

 南部衆に対して敵意があるとしか見えなかった彼が、孫を遊ばせる祖父よろしく、貴昌に囲碁を教えているところなど想像もできない。

 困惑の(てい)の元博らを見て、何ごとにも控え目な直祐が小さく笑みをもらした。

「あちらから若君に、〝盤上の遊をご存じか〟と声をかけてこられたのです。知らないとお答えになると、〝では、お教えしましょうか〟と」

「あの無愛想で堅苦しい御仁が、そんなことを?」濡れ縁から、重晴が唸るように言う。「とても信じられんな」

「わたしもいささか驚きましたが、たいそう優しく、手取り足取りご指導くださいましたよ」

「難しいけど、おもしろかった」貴昌は上機嫌で、目をきらきらと輝かせた。「わたしがそう言ったら、國房どのは、毎日でも相手をすると言ってくれたんだ」

「それなら今度ぜひ、わたしにもお相手させてください」

 元博はそう言ってから、急いでつけ加えた。

「ただし、すごくお強くなられる前にですよ。わたしは取れる石をすぐ見逃すし、びっくりするほど下手くそですから」

 みなが声を揃えて笑っていると、黒葛禎貴(さだたか)が濡れ縁に出てきた。

「若君、戻られましたか。あとでご一緒に、今日の学文のおさらいをしましょう」

「はい」

 貴昌が素直にうなずくと、彼は忠資のほうを向いて手招きした。

「忠資、それから――重晴はちょっと来てくれ。奥で手伝ってもらいたいことがある。直祐と元博は若君のおそばに」

 禎貴がふたりを伴って〈賞月邸〉の中へ入ると、貴昌は好奇心あふれる目で元博と彼が携えている木太刀を見た。

「剣術を習っていたのか?」

「はい、忠資どのに。いくら打ち込んでもきれいにかわされてしまって、一撃も当てることができませんでした」

「わたしとやろう」

「いいですとも。手加減はしませんよ」

 もちろん手加減はした。貴昌が本格的な武術指南を受けたことがないのは知っている。少年の剣術は、まだ見よう見まねのごっこ遊びでしかなかった。打ち込む力も弱く、剣にほとんど体重が乗っていない。

 しかし、不思議と太刀筋はきれいだった。型の基本は、半ばできていると言っていいかもしれない。

「若君、型をどこで覚えられたのですか?」

 軽く打ち合いながら、元博が思わず訊ねると、彼は少し頬を上気させた。

「父上は毎日、御殿の道場で素振りと型稽古をなさるんだ。わたしはそれをいつも見ていたから、ひとりでに覚えたんだと思う」

 もう前戦で自ら剣や槍を振るうことなどないだろうに、それでも禎俊(さだとし)公は欠かさず鍛錬をなさっておられるのか――元博はそう思い、深く心に感じ入った。さすがは、代々()で鳴らした黒葛家の宗主だ。またその姿から、若君が自然に学び取っているのも素晴らしい。

「ではお父上が、若君の剣術の最初のお師匠さまですね」

 元博の言葉は、貴昌を喜ばせたようだった。

「うん。次にお会いする時には、うんと上達したところを見ていただきたい」

「お見せできますとも。それまで、わたしと一緒にしっかり稽古をしましょう」

 ふたりが打ち合いをちょっと止め、顔を見合わせてにっこりした時、柴垣の向こうから嘲るような声が響いた。

「くだらない。まるでお遊びだ」

 驚いて視線を向けた先には、三廻部(みくるべ)亜矢(あや)傅役(もりやく)一来(いちらい)将明(まさあき)が立っていた。亜矢姫は今日もやはり、小袖に袴をつけた()の子(なり)だ。帯に短めの脇差しも挿している。

 彼女は開いていた脇戸を通ってずかずか入ってくると、元博の手から木太刀をむしり取った。

「わたしが相手をしてやる」

 貴昌が途方に暮れたような顔で、元博と直祐を交互に見た。直祐がすかさず助け船を出す。

「姫君、ありがたきお申し出なれど、ここには防具の用意もございません。もしおふたりが、お怪我をなさるようなことがあっては大ごとです」

「口を出すな。なんだ、おまえは」

 短気な少女はたちまち色をなして、直祐に食ってかかった。しかし、さすがに彼は冷静さを失わない。

「貴昌(ぎみ)の傅役で、朴木直祐と申します。姫君の傅役どのも、おそらくわたしと同じことをおっしゃるでしょう」

 無関心そうに成り行きを見ていた一来将明が、そこで初めて口を開いた。

「痣のひとつも作らずに、剣術が上達するとも思えぬが――」彼はのんびりした口調で言い、小さく肩をすくめた。「まあ、わたしもおおむね彼に賛成ですよ、姫君。たとえ木太刀でも、打たれれば痛む。うっかり目を突きでもしたら、光を失うやもしれません。剣術遊びがなさりたいなら、直祐どのの言うように防具をつけるか、姫にお怪我をさせぬ技量を持つ者だけ相手にされるのがよろしいでしょう」

「うるさい」

 亜矢はまったく聞く耳を持たず、木太刀を振り回して将明を打とうとした。

「おまえがいると邪魔だ。あっちへ行け」

 当てられる前にさっと退()いた将明が、降参するというように両手を挙げて苦笑いする。

「仰せの通りに」

 そう言って慇懃にお辞儀をすると、彼は本当に脇戸から出て行った。芝生の苑路をぶらぶらと歩いて、竹林のほうへ向かう。

 元博は唖然として、その後ろ姿を見送った。世継ぎ子に道理を教え導くのも、傅役の大切な務めであるはずなのに、あっさりそれを放棄して行ってしまうなど信じられない。

 お目付役を追い払った亜矢は、得意満面で木太刀を正眼に構えた。しかし腕は前へ出すぎているし、体の軸が定まっていないので、見るからに危なっかしい。

 誰かこの少女に、剣術の手ほどきをする者はいるのだろうか。そう思った時、元博の脳裏にふと月下部(かすかべ)知恒(ともつね)の顔が浮かんだ。そういえば、護衛役としていつも傍についているはずの彼の姿が見えない。祖父の屋敷の中で危険な目に遭うこともないと判断して、主屋の使者の間あたりで控えているのだろうか。

「さあ、かかってこい」

 亜矢は威勢よく言い、貴昌に挑発的な目を向けた。だが少年のほうは、木太刀を下ろしたままで困惑顔をしている。自分よりも年若い女の子に打ちかかるなど、考えることすらできないという表情だ。

「弱虫め。一発打って、やる気を出させてやる」

 彼女はその言葉通り、即座に打ちかかった。不器用な打ち込みだが、少しの遠慮もない本気の攻撃だ。元博はあっと叫びそうになったが、貴昌が咄嗟に身をひねって攻撃をかわしたので、思わず安堵の息をもらした。

「姫君」貴昌が弱々しく抗弁する。「あなたと打ち合うなど、わたしにはできません」

「怖いのか。情けないやつだ」

 亜矢はせせら笑って、木太刀を縦横に振り回した。貴昌は彼女の攻撃をかわしながら、手にした木太刀を使うことなく逃げ回っている。

 元博は心の中で、打て、と呟いた。刀身のひらで軽く一発、やたらと人に危害を加えたがる、あの癖の悪い手に。あるいは、打たれてもさほど痛手にならない尻に。

 本来は彼自身も、女の子を打つなどもってのほかだと考える性質(たち)だ。しかし亜矢に対しては、そういう道義心をだんだん発揮しづらくなってきていた。

 横にいる直祐をちらりと見ると、彼は万一に備えるように身構えたまま、落ち着いてふたりの動きを見守っている。元博もそれに倣おうと、懸命に心を静めながら自分に言い聞かせた。

 好悪でものを考えるな。貴昌君は主君の嫡子。亜矢姫は最高権力者の息女。どちらにも、いかなる傷も負わせてはならない。

「逃げるしかできないのか、臆病者!」

 亜矢が苛々と、甲高い声で罵った。走り回って、だいぶ息が上がっている。

「ほかの遊びをしましょう」貴昌もまた、少し息を切らしながら言った。「部屋の中で双六でも。――そうだ、今日、囲碁を教わったんです。姫君は囲碁をなさいますか?」

 亜矢が足を止めた。肩と胸で大きく息をしながら、鼻に皺を寄せて貴昌を()めつける。それから木太刀を土の上に投げ捨てた。

「おまえのような、つまらないやつとは遊ばぬ」

 それを捨て台詞に、彼女は(きびす)を返した。貴昌が寂しそうに、だがほっとしたように微笑み、元博と直祐のほうを見る。

 そのあとのことは、すべてが一瞬のうちに起こったように思えた。

 脇戸のほうへ歩きかけた亜矢が、さっと身を翻して脇差しを抜く。直祐が手を上げて前へ飛び出すが、少女はすでに貴昌に肉薄していた。元博は大声を上げて、危険を知らせるのが精一杯だ。

 亜矢は抜き放った剣で、真正面から貴昌に斬りつけた。少年がほとんど無意識に木太刀を上げて、その斬撃を受け止める。

 盲打ちの無様な打ち込みで、刃が斜めに寝ていたのが幸いだった。刃筋が立っていたら木太刀を断ち割り、彼の胸に食い込んでいたかもしれない。

 あまりに急な攻撃だったため、貴昌は斬撃の勢いを横に逸らすことができず、一度受け止めてから前に突き放した。思わぬ反撃を受けた亜矢がよろめき、背後の柴垣に倒れ込む。

 土埃がおさまると、亜矢が割れた竹や粗朶(そだ)と絡み合って横たわり、腕から血を流しながら泣き声を上げていた。どうやら、倒れる時に自分の刀で我が身を傷つけてしまったようだ。

「姫君、お怪我をなさったのですか」

 貴昌は木太刀を取り落とし、卑怯な不意打ちを食らったにもかかわらず、彼女を心配して近寄ろうとした。衝撃と不安のためか、顔がひどく青ざめている。

「来るな! 馬鹿!」

 亜矢は泣きわめきながら手に土を握り、それを貴昌に向かって投げつけた。

「おまえなんか殺してやる」

 直祐は黙って亜矢に近づき、その傍らに片膝をついた。おびただしい血に濡れた腕の様子を真剣な面持ちで観察し、懐から出した手拭いを裂く。

 元博は貴昌のほうを引き受け、背後からそっと抱いた。彼の体は小刻みに震えている。自分が彼女を負傷させたと思い、罪の意識に(おのの)いているようだ。

「さほど深い傷ではありません」包帯をしながら直祐が静かに言い、貴昌を見た。「だいじょうぶですよ」

 少年のこわばった肩から少し力が抜けかけた時、突然背後から涼やかな声が聞こえた。

「これは大変だ」

 元博があわてて振り向くと、いつの間に来たのか、そこに椹木(さわらぎ)彰久(あきひさ)が立っていた。大変、と言いつつも彼の顔に焦りはなく、むしろこの状況に興味をそそられているような目をしている。

「陛下の愛子(まなご)にお怪我をさせたとなると、たいそうな騒動になりますよ」

 そこへ一来(いちらい)将明(まさあき)が戻ってきた。亜矢の泣き声を聞きつけたらしい。

「何の騒ぎかと思えば――」彼は壊れた垣根の残骸を踏んで亜矢に近づき、手拭いを巻かれた腕と、血に染まった袴をじっと見つめた。「だから、防具が()ると申し上げたでしょう」

 頬に涙の筋をつけた亜矢が、きっと顔を上げる。

「あいつがうしろから襲った。刀を奪って、わたしを斬ったんだ!」

 貴昌が愕然と目を見開いた。元博も同じ表情になる。だが直祐は、さざ波ひとつない湖面のように平静を保ち、将明に向かってあくまで穏やかに言った。

「そのようなことは、断じてありませんでした」

「嘘だ! 嘘つきだ!」亜矢が大声でわめき立てる。「〈(くろ)〉、あいつを殺せ。こいつら全員殺せ!」

 そのころには〈賞月邸〉の中から、黒葛(つづら)禎貴(さだたか)らも出てきていた。誰の顔にも、疑問と当惑が()ち満ちている。

 禎貴は素足のまま土の上に下りると、将明と亜矢にゆっくり近づいた。

「姫君がお怪我を?」

「そのようですな」将明が他人ごとのような口調で答える。「わたしがちょっと外した隙に、姫と若君のあいだで、なんぞ行き違いが生じたらしい」

「あいつがわたしを斬った」

 亜矢が貴昌を指差しながら頑固な口調で言い、事情のわからない禎貴らをぎょっとさせた。

「あいつは卑怯者だ。父上に言いつけて、打ち首にしてやる」

 憎悪のこもった目で睨まれた貴昌が、悲しげにうなだれる。元博の中で、灼熱する怒りが一気に燃え上がった。

「嘘をついておられるのは、姫君のほうだ」

 はっと気づいた時には、もう言葉が口から飛び出してしまっていた。しかし、一度言い出した以上は、ここで止めるわけにはいかない。

「若君が頑として打ち合いを拒まれたので、立ち去ると見せて騙し討ちをなさろうとした。若君は木太刀で刀を受け止めて、少し押し返しただけです。姫君がお怪我をなさったのは、倒れる時にご自分の持っておられた刃に触れたせいで、斬りつけられたからではありません」

 我ながらあまり上手な説明とは思えなかったが、ともかくこれで事件の概要は全員に伝わったはずだ。

 南部衆の顔には一様に、理解の色が見て取れた。誰もが、ようやく事態を把握できたというようにうなずいている。しかし一来将明は違った。彼だけは、まだ曖昧な表情だ。

「なるほど、若君のご家来がたはそう言う。片や、姫君のほうはこう言われる。さて、はたしてどちらが真実を述べているのやら」

 彼は聞いていて苛々するほどゆっくりと喋りながら、居並ぶ全員を見渡し、最後に元博の上に視線を留めた。

「家来ならば、(あるじ)(かば)おうとするな。当然ながら」

 虚言ではないのかと仄めかされ、元博は屈辱感でいっぱいになった。

「わたしは見た通り、本当のことを申しました。今後、誰の前に出ても、同じことを話します」

「では、そうしてもらおう」

 将明は微笑みながら言って、亜矢を軽々と抱き上げた。次いで腰を屈め、落ちていた脇差しを拾う。

「今夕のうちにも、(いわい)城から呼び出しがあるはずだ。陛下の前で、今の話を繰り返すといい」

 彼はまだ泣きべそをかいている亜矢を抱いたまま、悠々とした足取りで歩き去った。取り残された者たちのあいだに、しばし張り詰めた沈黙が落ちる。それを破ったのは、黒葛禎貴だった。

「その場に居合わせたのは、直祐と元博だけか」

「そうです」直祐が低く答える。

 禎貴は眉をしかめ、椹木彰久に目をやった。

「おぬしはどうだ。何か見ておらぬか」

「いえ、あいにくと」彼は申し訳なさそうに首を振った。「皆さまにお知らせすることがあって来たのですが、玄関に近づいた時に裏手から大きな声がして――あれは元博どのだったかな」

 元博は必死に思い出そうとした。いつ大声を出しただろうか。頭がすっかり混乱していて、記憶もごちゃごちゃになっている。

 若君とは会話していたが、玄関のほうまで聞こえるほどの声は出さなかった。大声を上げたとしたら、亜矢姫がここへ来たあと……そうだ、彼女が若君を欺いて斬りかかろうとした、あの時だけだ。

「彰久どの」元博は貴昌を直祐に預け、急いで彼に駆け寄った。「それは、亜矢姫が若君を斬ろうとなさったので、急を知らせた時の声だと思います。あのすぐあと、姫君は抜き身を持ったまま倒れて、お怪我をされました。駆けつけてこられた際に、それをご覧になりませんでしたか?」

 全員の視線が集中する中、彰久は困ったように肩をすくめた。

「さて……どうでしたか。駆けつけたというほどでもないのです。この場所へ来た時に見たのは――そう、亜矢姫が血を流して泣きながら、貴昌君に怒鳴っておられるところだったでしょうか」

「その時、(くだん)の脇差しはどこに?」

 禎貴が静かに訊ねた。

「若君のお手にあったか、それとも倒れておられる姫君のおそばにあったか。どうだ、覚えておるかな」

 彰久の顔――知的で誠実そうな顔の上を、ほんの一瞬、何かがよぎった。前にも見た覚えがあるもの。不穏なもの。狡猾さ——それだ。

 元博は彼をじっと見つめ、その心の動きを推し量った。彼は頭を働かせている。損得ずくで返答を決めようとしている。そんな気がする。

 充分な間を置いて、彰久は慎重に答えた。

「はっきりとは覚えていませんが、若君はお持ちではなかったと思います」

 固唾を呑んでいた一同が、一斉に大きく息をつく。禎貴は彰久のほうへ近寄り、真剣な表情で言った。

「では我らと共に詮議の場へ来て、そのことを話してもらいたい」

「その儀は、どうかご容赦を」

 彼がきっぱりと答え、元博は思わず自分の耳を疑った。南部衆に肩入れしたいと言い、実際に普段からいろいろと便宜を図ってくれているのに、こんなにも重要な頼みを言下に断るなど信じられない。

「先ほども申し上げたように、はっきりとは覚えておりません」彰久は淡々と説明した。「それに、もし記憶がたしかだったとしても、わたしが見たのは若君のお手に脇差しがなかったということだけです。もちろん、元博どののおっしゃるとおり、亜矢姫は自傷なさったのかもしれません。しかし、わたしがあの場を目にする前に若君が姫をお斬りになり、そのあと刀を手放されたのではないと断言することもできないのです」

 筋は通っている。だが、こんなのは逃げ口上だ。元博の胸に、憤懣やるかたない思いが渦巻いた。

 それに彼は、口で言う以上のことを見ている気がする。にもかかわらず隠そうとするのは、保身のためだろうか。

「こんな曖昧模糊(もこ)とした話しかできないのでは、かえって皆さまのご迷惑になると存じます。お役に立てず、申し訳ありません」

 頭を下げる彰久に、禎貴が小さくうなずく。

「それならば、致し方ない。この話はここまでにして、用件を聞こう」

「明日、天勝(ちよし)国の新たな国主となられた志鷹(したか)頼英(よりひで)さまが、(いわい)城で就任報告をなさったあと当家に立ち寄られます。その際、黒葛家の皆さまにもご挨拶をなさりたいそうなので、こちらへご案内してもよろしいでしょうか」

 明日のことなど考えられない。元博はそう思い、その場にいる全員が同じ気持ちであるのを感じ取った。表面的には冷静で、動揺を露わにしてはいないが、誰の心にも恐怖があり、不安がある。

 そんな一同の思いを代弁するように、禎貴が重苦しい声で言った。

「謹んで天州(てんしゅう)の国主をお迎えしよう。もし明日も、我らがここにいればだが」

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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