三十六 立身国射手矢郷・真境名燎 女武者
地面に積もった落ち葉を蹴散らしながら木立の中へと駆け込むと、あとを追ってきた刃が間一髪で空を斬り、盾にした木の幹に食い込んだ。背後に迫っていた小太りな男が「ちっ」と舌を鳴らし、刀を引き抜きにかかる。
真境名燎は身を翻して脇差しを抜き、深く埋まった刃に苦戦している男の腕に斬りつけた。骨に当たって横滑りした刃が、手首から肘までの肉をひとつながりに削ぎ斬る。男が絞り出すような悲鳴を上げて仰け反り、土の上に転がった。
だがそれを悠長に眺めている暇はない。別の男が左へ回り込み、雄叫びと共に襲いかかってきた。こちらは長槍を持っている。
こんなところで長物を使うなど、馬鹿なやつだ――燎はそう思いながら反転し、木のうしろにさっと滑り込んだ。的を外された槍の穂先が幹を突き、樹皮を削り取りながら脇へ逸れる。
すかさず燎は反対側へ飛び出し、まだ体勢を戻していない相手に足蹴りを見舞った。左腿の上部、脚の付け根に思いきり踵を叩き込む。男が吹っ飛び、横向きにごろごろと転がった。だがまだ槍は手放していない。
四歩で追いつき、胸をめがけて垂直に刀を振り下ろすと、彼は横たわったまま片手で槍を振り回して斬撃を弾いた。なかなかいい反応だ。
弾かれた刀を手元で返し、続けざまに突き下ろす。男は「ひっ」「ひっ」と声をもらしながら左右へ逃れた。低い位置にいられると距離感が掴みにくく、脇差しではうまく攻撃できない。
燎は手を止め、一歩退いた。相手が立ち上がれば、このまま脇差しで戦う。転がったままなら大刀を抜こう。
男は地面に尻をついて、ずりずりと後退った。ほどほどに距離を空けたところで、槍を杖代わりにして立ち上がる。蹴られた腿がかなり痛むらしく、左足にはほとんど体重をかけていない。
「くそっ、この女ァ」彼は顔をゆがめ、吐き捨てるように言った。「調子こきやがって」
女と老人のふたり連れと侮って襲いかかったくせに、何を言っているんだ。燎はあきれながら、脇差しを右に構えた。
「来ないなら、こちらから行くぞ」
静かに言うと、男は目を剥いて槍を持ち上げた。だが周囲には樹木が林立しており、振り回すことはできない。傷めた脚では横に走るのも無理だろう。つまり、まっすぐ突いてくる以外、彼にできることはない。
彼女はずかずかと前に出ていき、男との距離を一気に詰めた。思ったとおり、こちらの喉元めがけて、槍の穂先が一直線に突き出される。
腰を沈めながらそれを左にかわし、逆袈裟に振り上げた刃で男の片耳を斬り落とした。間髪を入れず頭上で刀を返し、脳天に向けて振り下ろす。鋭く研ぎ上げた刃が彼の額に食い入り、鼻柱の半ばまで埋まって止まった。
引き抜くと血が噴き出る。そう予想して、刃を抜くと同時に身をかわしたが、やはり少し浴びてしまった。顔にはかからなかったものの、灰白色の小紋の袖が血まみれだ。
燎はため息をつき、先ほど腕を切り裂いた小太りな男のところへ戻った。まだ座り込んだまま、骨の露出した腕を呆然と見つめている。
彼女が戻ってきたことに気づくと、男はにわかに慌てふためき、大声で叫んだ。
「負けた!」傷ついていないほうの手を必死に振り回す。「負けだ! もう手向かいしねえ! だから行っちまってくれ」
「虫のいいことを言うな」
燎がさらに近づき、険しい声で言うと、彼はわなわな震え始めた。
「悪かった、謝るよ、おれが悪うございました。馬と、か、金が欲しかっただけなんだ。でもよ、あんたらを襲おうって言い出したのは、おれじゃねえんだぜ。仲間に誘われたら、嫌とは言えねえじゃねえか、なあ、そうだろ。弱虫だと思われて、舐められちまうからよ。でもおれは、いつもだったら、あんたみたいに強そうな人には、端っから逆らったりしねえんだ。だからよう、殺すなよ。な。見逃してくれたら恩に着るからよ」
怯えているわりに、よく喋る。何か狙っていそうだ。燎がそう思った瞬間、男が半分骨になった腕で何かを投げた。濡れた塊――斬り落とされた自分の肉だ。だが彼女はそれを見なかった。咄嗟に左手を上げて顔をかばいながらも、目は相手から離さない。
男が膝を立て、懐から短刀を抜いた。その体勢からくるっと前転して、瞬時に間合いを詰める。下腹を狙ってきた切っ先を刀の峰で弾き、燎は彼の前髪を左手で鷲掴みにした。そのまま前に体重をかけ、折り重なるようにして落ち葉の褥に倒れ込む。
耳障りな悲鳴を上げる相手の腹を膝で押さえつけ、彼女は脇差しを逆手に握り替えた。振り上げながら狙いを定め、素早く喉の中心に突き立てる。
男の悲鳴がふっつり途切れた。目も口も大きく開いたまま、まだ何か言いたげな顔で事切れている。
刀を引き抜くとまた血が噴いて、胸と袴の前面に少しかかった。こんな態でみなと初顔合わせをするのか――と思うと、いささか気が滅入る。
燎はその場に佇んでしばらく待ち、ふたり組の山賊が漂魄にならないのを確認してから、彼らに襲われるまで歩いていた道へ戻った。「馬を守れ」と命じて残してきた老従僕の利助が、言われた通りに守っていた馬と共に出迎える。夕暮れの光が木々の隙間から差し込み、彼らがいる場所を丸く照らしていた。
「お嬢さま、ご無事で」
「〝お嬢さま〟はよせ」ぶっきらぼうに言って、彼女は青毛の愛馬に近づいた。血のにおいを嗅いで、少し興奮しているようだ。「ほかに仲間がいる様子はなかったが、待っているあいだに誰か見たか」
「いいえ、見ませんでした。あのふたり、殺しておしまいになられたので?」
「殺さなければ、わたしが殺された」
利助が悲しそうな顔をした。悪党どもを悼んでいるのではなく、燎が血なまぐさい仕事をしたことを憂えているのだ。男顔負けに戦い、人を斬ることも厭わない女だと知りながら、それでも彼は常に彼女をたおやかな乙女のように扱おうとする。
「お召し物が台無しに」
「上に着いたら脱ぐから、水に漬けておいてくれ。血が落ちなかったら、いずれ染め直せばいい」
燎はそう言って、再び山道を登り始めた。うしろに続く利助の息づかいと馬の蹄音を聞きながら、黙々と頂上を目指す。もう八割方は登ったはずだから、ほどなく砦の入り口が見えてくるだろう。
小半刻ほど行くと、最近人の手で整えられたと思しき登り道に出くわした。見上げた先に、高く盛り上げた土塁と埋門が見える。どうやら、こちらは搦め手のようだ。
門に近づくと、すぐに番士がひとり出てきた。
「何者か」
「真境名燎」名乗りながら、懐の紙入れを取り出す。「天翔隊の訓練に参った。七草城家老、柳浦実重さまよりの執達状はこれに」
正式に許可を得て来ているので、なんら問題はないはずだ。そう思いながら検めが終わるのを待っていると、砦の中からさらに誰かが出てきた。二十代半ばの堂々たる偉丈夫で、澄んだ目を持ち、緩みのない有能そうな顔つきをしている。
彼は番士から執達状を受け取って目を通し、温かな笑顔を燎に向けた。
「よく来たな。わたしは真栄城康資だ。立州の天翔隊立ち上げに助力するため、郡楽の禽籠山から出張している」
彼のはきはきとした物言いは、燎の気に入った。
「初めてお目にかかります」居住まいを正し、軽く頭を下げる。「兄君の真栄城修資さまとは、七草で幾度か言葉を交わしました」
康資がははは、と楽しそうに笑う。
「彼が話すのは、どうせ馬のことばかりだろう。おぬしも見事な馬を連れているな」
彼は利助が引いている燎の愛馬に近づき、その鼻面を優しくなでた。
「賢そうな目をしている。いい馬だ」
「ありがとうございます」
「砦を案内しよう」
康資は燎たちを門の中に招じ入れ、まず厩へ立ち寄った。
「急ごしらえの砦で、今もまだいろいろと建てている最中だが、厩はもう完成している。我々が仮宿舎として使っている掘っ立て小屋よりもずっと立派だ。空いている仕切りのどれでも、好きに使うといい」
燎は利助に馬を世話するよう言いつけ、康資と共に先へ進んだ。土塁に囲まれた郭の中央を広い道が貫き、その両脇に、先ほど聞かされた掘っ立て小屋らしきものが並んでいる。たしかにかなり簡素な造りで、嵐でもくれば吹き飛びそうなしろものだ。
道の端まで行くと、また土塁と埋門に突き当たった。この先が砦の主郭のようだ。
「先ほど、わたしが入ったのは搦め手門ですね」
門を通り抜けながら訊くと、康資は彼女を横目に見てにやりと笑った。
「そうだ。ほとんどの者が、あちら側を大手道と勘違いして登ってくる。七草方面から来て山裾の射手矢郷に入ると、あの道が真っ先に目に入るので、そこを登るのが正しいように思えるのだ。だが、実際の大手道は北側にある」
「麓に番所を置かないのですか」
「いずれ置く。まだそこまで手が回らぬというのが正直なところでな」彼はそう言って、燎の様子をしげしげと見つめた。「登り道で、なんぞ厄介ごとに出くわしたようだ」
「山賊まがいの男ふたりに襲われました。骸は木立の中に捨て置きましたが、あとで埋めに戻ります」
「人手はあるから、誰か行かせる。場所を聞こう」
燎が手短に説明すると、彼は主郭で溝を掘っていた人夫ふたりに声をかけ、死骸の始末を命じた。
「この鉢呂山に禽籠を設置することが決まり、砦の建設を始めてからひと月――」人夫たちが郭を出て行くのを見ながら、康資が呟く。「とにかく、今はすべてが中途半端だ。山腹のどこかを根城にしている山賊や追い剥ぎが複数いるのはわかっているが、討伐に出向く暇がない。宿舎は出来合い、土塁も出来合い、櫓すらも未完成と、どうにも情けない状態でな。確実に仕上がったと言えるのは禽籠と厩、それから練兵場だけだ」
「ならば、肝心のものは出来ているということでしょう」
きっぱり言った燎を、康資が真顔で見やり、それから弾けるように笑い出す。
「たしかにな。だがわたしは、できればもう少しましな宿舎で、早く寝られるようになりたいよ。さあ、それが陣屋だ」
彼が指した先には、檜板造りの立派な平屋があった。入り口に黒葛家の旗印が掲げられている。
「このあと、さらに二棟つなげる予定だ。今のところ、中には広間と書院のほかに三間しかない。横に突き出ている部分は台所だ。ああ、いちおう言っておくが、ここの飯はまあまあだよ」
「それは重畳」
問題は質よりも量だ、とは言わずにおいた。
「西側に造った副郭を練兵場として使っている。半分は土を出してあり、半分は森のまま……副郭とは言うが、実は主郭よりずっと広いのだ。訓練は平地と森の両方で行う」
「楽しみです」
「山賊と戦った時――」康資は燎の血に染まった袖をちらりと見て、声に好奇心をにじませた。「体の動きはどうだった」
「いつもより軽く思えました。中腹で二泊目を迎えるころから、少しずつ浮昇の影響を受け始めたようです」
「そうか。山頂では浮昇力はもっと強い。こうしているぶんにはあまり感じないが、激しい動きをするとすぐにわかるはずだ。それをうまく利用することで、地上では考えもつかぬような離れ業を演じることができるようになる。むろん、そうなるまでに相当な鍛錬を必要とするし、訓練には危険も伴うが」
「もとより承知の上」
「頼もしいな。期待しているぞ」
康資は微笑み、燎の背を軽く叩いた。
「では、わたしはこれで行く。それなりに忙しい身でな。おぬしも含め、昨日今日で到着した隊士候補の第二陣には、明朝あらためて練兵場に集まってもらい、今後についての詳しい説明をする。それまでは主郭と副郭を好きに見回るなり、宿舎で休むなりしていてくれ。先に来ていた第一陣には、陣屋の広間あたりに行けば会える。顔を合わせておくといい」
それだけ言って行こうとする彼を、燎はあわてて引き留めた。
「あの――康資どの、禽籠はどちらに?」
「それはまだ見せぬ。そういう決まりだ。なに、気を揉まずとも、明日には嫌でも天隼を目の当たりにできる」
謎めいた言葉を残して、康資は悠々と歩き去った。禽を見るのを何より楽しみにしていた燎としては、最後に肩すかしを食らわされた気分だ。しかし、あとで見られるというのだから、その言葉を信用するしかないだろう。
副郭の厩へ戻ると、利助が馬に飼い葉を与えていた。背に乗せていた荷物はひとまとめにして、厩舎の外へ置いてある。
利助は燎の姿を見ると、急いで傍へやって来た。
「お嬢さま、ご挨拶なされたほうがよろしいおかたが、あちらに」
彼が指すほうを見ると、宿舎の脇に積まれた材木に腰かけ、何か読んでいる若者が目に入った。
「あれは……石動博武どのか?」
眉をしかめて訊いた女主人に、利助がうなずいてみせる。
「さようでございます」
燎は渋い顔をした。ほとんど交流はなかったが、同じ主君を戴く者として、またその主の義弟として、彼のことはよく知っている。そして、あまりいい印象を持っていなかった。
切れ者だという噂で、それはたしかにそうかもしれない。だが燎の目から見た彼は、誰にでもやたら愛想が良く、ぺらぺらとよく喋る薄っぺらな男だった。いつも念入りな身ごしらえをしており、そういう見栄にこだわるところも鼻につく。
しかし顔見知りであり、これからしばらく共に訓練を行うのだから、見かけた以上は無視するわけにいかないだろう。
燎はあきらめのため息をつき、足早に材木の山へ歩み寄った。博武は手にした書状らしきものに気を取られており、目を伏せたまま身じろぎもしない。
互いの距離が一間に縮まったところで、彼が顔を上げた。鋭い視線がまっすぐに突き刺さってくる。予想もしなかった烈しさをその表情に見て取り、燎は思わず足を止めてしまった。博武のこんな顔を見るのは初めてだ。
「お邪魔して申し訳ない」
一瞬とはいえ気圧された自分に苛立ちながら、燎は博武に型どおりの謝罪をした。
「何か悪い知らせでも届きましたか?」
「いや」口を開いたとたん、彼は普段どおりの呑気そうな顔になった。「弟からの近況報告だ。天山へ着くなり大皇息女にあらぬ難癖をつけられて、危うく手討ちになるところだったらしい」
平然と言っているが、それはただ事ではない。燎は石動家の末弟と面識はないが、彼が太守の嫡男の随員として天山へ人質奉公に行ったことは知っていた。
「ご無事なのですか」
「額が裂けた以外は」
「お怪我を……それはさぞ、ご心配でしょう」
同情を込めて言うと、博武はふっと笑みをもらして、書状を懐に突っ込んだ。
「おれが気がかりなのは、これがそのまま届いたことだよ」
「は?」
「貴昌君とその随員は人質だ。粗略な扱いこそ受けぬだろうが、厳重に監視されているに違いない。それが、天山にとってはいささか外聞の悪いことを手紙に書き、にもかかわらずこうしておれの元に届く。検見され、手を加えられた様子もなく、な」
言われてみれば、たしかに不思議だ。
「天山の監視に穴があるのでしょうか」
「あるいは誰かが黒葛家に味方し、便宜を図っている。そこに、どういう意図が潜んでいるのかを知りたいものだ」
切れ者。その言葉が再び燎の脳裏に浮かんだ。なるほど、自分の好き嫌いは別として、噂に聞く通りの冴えた頭を持っていることは間違いなさそうだ。
「ところで、おれに用か」
訊かれてようやく、燎はそもそもの目的を思い出した。
「お姿を見かけましたので、ご挨拶をと」
博武が怪訝そうな顔をする。
「知り合いだったかな」
燎はむっとして言い返しかけ、その寸前で危うく口をつぐんだ。考えてみれば、こちらが一方的に彼を見知っているだけという可能性もある。七草城や城下で頻繁に見かけ、すっかり顔見知りのつもりになっていたが、相手には認識されていないのかもしれない。
「真境名家嫡女、燎と申します」
「嫡女……」博武は口の中で呟き、彼女が解説を始める前に自分で答えを出した。「ああ、そうか。真境名家は女が家督を継ぐ家だったな」
「ええ」
「その跡取りが〈隼人〉に? よく親御が許したものだ」
「両親――特に父の説得に手間取ったため、第一陣の参集に間に合わず、第二陣で来ることになりました」
「七草で仕えているのか」
「奥御殿で、主として奥方さまと若君のご警護役を務めています」
その言葉を聞いて、初めて博武は本気で興味をそそられた顔つきになった。
「貴之を最後に見たのは?」
「五日前です」食いつきのよさを微笑ましく思いながら答える。彼が二歳の甥に夢中なのは、七草城内では周知のことだ。「若君のことを、お聞きになりたいですか?」
博武が目を輝かせてうなずく。そこで燎は、七草を離れる直前にたまたま見かけた、最新の出来事を語った。
「中庭で遊んでおられた時に、若君が初めてお言葉を発せられました。外廊下を歩いてきた者の足音をお耳にされ、嬉しそうに振り向いて〝おいたん?〟と」
その場に居合わせた母親の真木は、侍女の津根と顔を見合わせて「最初に話す言葉は、絶対に〝かかさま〟か〝ととさま〟だと思っていたのに、両親よりも叔父を優先されてしまったわ」と嘆き、それから腹を抱えて笑い出した。
膝に片肘をつき、身を乗り出して聞いていた博武が、にんまりと笑う。いたずらを成功させた子供のような笑顔だ。
「御殿に日参して、印象づけておいた甲斐があった」
「やって来たのが叔父上ではなかったので、寂しそうになさっておいででした」
博武は肩をすくめ、小さくため息をついて立ち上がった。西に傾いた日の光を顔に受け、眩しそうに目を細める。
燎はそこで初めて、彼が意外に小柄であることに気づいた。自分が女としては大柄なせいもあるが、こうして並ぶと背丈はほとんど変わらない。
石動家は武勇で知られる家だが、そういえば次男の博武が強者だという噂は、ついぞ耳にした覚えがなかった。身のこなしは柔靱だが細身で、腕力もさほどありそうには見えない。
年は彼のほうが、ひとつかふたつ若かったはずだ。わたしと彼が剣を交えたら、はたしてどちらが勝つだろうか。
ぼんやり考えていた燎に向かって、ふいに博武が言った。
「血を浴びているのだな」
今ごろ気づいたのか、と思いながら答える。
「ここへの道筋で、山賊をふたり倒しました」
「初めに見た時、そのしみは模様だと思った。雪に咲く寒椿かと」
「今の季節には合いません」
素っ気ない返しを不快に思った様子もなく、博武は穏やかな目で燎を見つめた。
「だが色はおぬしに似合う。その小紋、栗梅か茜に染めるといいぞ」
「さすがは洒落者の博武どの。ご助言、痛み入ります」
皮肉混じりに言うと、彼は意外そうに眉を上げた。
「おれは洒落者か?」
「趣味のよいものをお召しになり、いつも入念な身支度をなさっておいでですから」
「そうか」博武はうなずき、燎のうしろに向かって言った。「おい、趣味がよいと褒められたぞ」
燎が振り向くと、そこに博武の従者の久喜伝兵衛がいた。
「そらごらんなさい、見る人はちゃんと見ているでしょう。だから身形は整えておくべきと、つねづね申し上げているのですよ」
彼は主に向かって説教臭い調子で言い、燎の前へ来て深々と頭を下げた。
「燎さま、ここでお目にかかれて、嬉しゅうございます」
「伝兵衛どの」燎も微笑みながら会釈する。「おぬしも来ていたのか」
「驚いたな、顔見知りか?」
博武が訊くと、伝兵衛は当然だろうと言わんばかりに鼻を鳴らした。
「同じ城勤めをなさっておられて、お屋敷もご近所の燎さまをあなたがご存じないとしたら、そちらのほうが驚きでございますな」
「嫌味はよせ」博武が顔をしかめる。「洒落者と言われたから、おまえに労いのひと言なり、かけようかと思ったのに」
「それはそれは。日ごろの骨折りが報われる思いです」
伝兵衛の言葉を聞いて、燎の腹にずしりと重い塊が落ちた。博武のことを、男のくせに見栄を飾るやつと思って勝手に反感を抱いていたが、どうやら早とちりだったようだ。
「あの……博武どのの装いは、いつも伝兵衛どのが整えているのですか? わたしはてっきり、ご自身が衣装にこだわりをお持ちなのかと」
「違う。こいつが、やたらと凝ったものを着せたがるのだ」
非難めいた物言いをされても、伝兵衛はまったく意に介する様子がない。
「枕元に野良着を出しておいたら、平気でそれを身につけて登城なさるようなおかたですからね。主が外で恥をかかぬようにと、及ばずながら日夜腐心しておるのです」
「万事、この調子だ」博武は苦笑いしてみせ、夕日に染まった山々の峰に目をやった。「そろそろ暮れるな。冷える前に屋内へ入るか」
彼は歩き出そうとして、ちょっと足を止め、燎を振り返った。
「甥のことを教えてくれたから、おれもひとつ教えよう。今夜はまだ荷解きをせぬほうがいい」
「なぜです」
「明日の朝、おぬしら第二陣の候補者たちは、適性を見定めるための試験に臨む。そこで適性なしと見なされたら、すぐにも山を下りて帰ることになるからだ」
燎は愕然とし、しばし物が言えなかった。そんな話は聞いていない。
「試験とは、な――なんですか」
「禽――天隼は人の好き嫌いが激しい。嫌いな者は決して背に乗せぬ。だから実際に騎乗を試み、受け入れられるかをまず確かめるのだ」
「そんな……禽に好かれるかどうかなど、自分ではどうしようもないではありませんか」
あまりに驚いたため、思わず不平が口を突いて出た。力も技も、努力すらも通用しないものに立ち向かわされ、その結果如何で運命が決まってしまうなど理不尽に過ぎる。必死に両親を説き伏せ、不退転の決意でやって来たというのに、禽に気に入られなかったらおめおめと帰れというのか。
伝兵衛が気の毒そうにこちらを見ている。燎は両手をきつく握り締め、ざわめく心を必死になだめようとした。
ともかく、心構えだけはしておこう。知ったからといって何か準備ができるわけでもないが、知らずにいて不意打ちを食らうよりはましだったと思うしかない。
「お教えくださり、ありがとうございました」博武に軽く頭を下げてから、挑むような眼差しを向ける。「しかし荷解きはします。わたしは必ず、ここに残りますから」
博武は「その意気だ」と微笑し、「おれが教えたことは、康資どのには内緒だぞ」と念押ししてから、伝兵衛を引き連れて主郭のほうへ歩き去った。
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