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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第三章 それぞれの旅路
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三十五 江蒲国南部・六車兵庫 古戦場

 裏街道を使って多少遠回りをしたとしても、江蒲(つくも)国に入るまでせいぜい四日。そのあと五日もあれば、余裕で百武(ひゃくたけ)(ごう)に辿り着けるだろう。渡壁(わたかべ)義康(よしやす)に出会った当初、六車(むぐるま)兵庫(ひょうご)はそう見当をつけていた。老人の脚力や体力を計算に入れても、十日以上かかるとは思えない。

 しかしすぐに、読みが甘かったと思い知らされた。彼を連れていると、まったく道がはかどらないのだ。

 そもそも義康は、自分の足で歩くことを嫌う男だった。ほんの一里も進まないうちに、すぐ疲れただの足が痛いだのと言い出す。駕籠を雇おう、馬を買いたいと駄々をこねる。人目に立たず旅をするには歩くのがいちばんだと、いくら言い聞かせても納得しない。

 歩き疲れた夜に野宿をするのは嫌だ、風呂に入れる宿に泊まりたいとたびたびせがまれるのも厄介だった。突っぱねるとしばらくはおとなしくなるが、それもあまり長続きはしない。叱ったりなだめたりを繰り返したあと、ついに兵庫は妥協し、二、三日に一度は宿に泊まってもよいことにする代わりに、身なりを大きく変えることを承諾させた。

 古着屋で義康のために選んだのは、地味な小紋と袖なしの羽織、海松茶(みるちゃ)色の野袴だ。細い樫の杖と網代(あじろ)笠も一緒に買い求めた。この出で立ちで脛巾(はばき)をつければ、商家の隠居の遊山旅に見えるだろう。

 義康がもともと着ていた狩装束は、同じ店でまとめて売り払った。馬も供回りもなしであんな装いをしていると、悪目立ちして仕方がない。そのうち何とか言いくるめて着替えさせようと考えていたので、それに関しては片づいてよかったと思った。

 弓は兵庫が預かり、雇われの護衛らしく見えるよう携えている。刀と弓で武装した者が付き添っているとなれば、そうそう襲われることもないはずだ。

 出会いから八日目にして、ようやくふたりは立身(たつみ)国と江蒲国の国境(くにざかい)を越えた。最終日はまた裏街道へ回って急勾配の山道を上り下りしたが、うまく関所を避けられたので苦労の甲斐はあったと言えるだろう。

 灌木の棘に臑を引っ掻かれながら最後の斜面を下りきると、そこには薄暮の草原が遠くまで広がっていた。人の背丈ほどもあるススキが群生して風に波打ち、一面をさながら緑の海原のように見せている。その中に、ゆるやかに蛇行しながら北へ向かっていく踏み分け道があった。だがそこを行く人の姿はなく、辺りには集落らしきものも見当たらない。

「ずいぶん、寂しい場所だ」

 思わずもらした兵庫の呟きを、うしろで荒い息を整えていた義康が聞きつける。

「ここは古戦場でな」

「戦があったのですか。いつです」

「む……四十年ほど前、日月(たちもり)秀則(ひでのり)公の御代であったか――」

 義康は手拭いで汗を拭きながら、遠い記憶を辿るように目を細めた。

「かつて立身国の北方を領していた硴水(かきみず)家が、主家であった守笹貫(かみささぬき)家に戦いを挑んだのだ。双方、数百とも数千とも知れぬ死者を出し、戦いのあとにはここを累々たる(しかばね)の山が埋め尽くした。ちょうど今と同じ梅雨の終わりごろであったゆえ、水浸(みづ)(かばね)がまたたく間に腐り果て、その腐臭は遠く山の向こうまでも漂い流れたそうじゃ」

 兵庫はその光景を思い浮かべ、草いきれの中に、かすかな血のにおいと死臭を嗅ぎ取ったような錯覚をおぼえた。

「戦の前から、このあたりには人が住んでいなかったのですか」

「いや、家はあった。田畑もな。だが戦のあと、あまりの死者の多さに封霊(ふうれい)の儀式が追いつかず、大量の漂魄(ひょうはく)がさまよい出して近隣の村々や集落を襲ったのだ。被害を免れた者たちも恐ろしさのあまり逃げだし、そのまま離散してしまった」

「よい茅場(かやば)になりそうなのに、ここのススキが伸び放題にされているのは、そういう因縁のある場所だからですか」

 長く伸びた良質のススキは、家の屋根を葺く格好の材料となる。これだけ広大なススキ草原が、手つかずで放置されているとはもったいないことだ。事情を知らない茅葺き職人が見たら、きっと目の色を変えるだろう。

 兵庫は顔を上げ、草原の向こうへ視線を移した。日はすでに落ち、鮮やかな(すみれ)色に染まった西の空には、山々が漆黒の影となって浮かび上がっている。足元がまだ見えているうちに、あの裾野まで辿り着けるだろうか。

「ご隠居、先を急ぎましょう」

 振り向いて声をかけると、義康は悲しげに眉尻を下げた。

「わしは疲れた」

「今日は山越えをしましたからね」

 兵庫はうなずきながら言い、すぐに(きびす)を返して歩き出した。その背に向かって、義康があわてたように叫ぶ。

「これ、疲れたと言うのに」

「そうでしょうとも」

 返事はするが、足は止めない。踏み分け道をどんどん進み、義康との距離を広げていく。老人が声を高くして呼ばわった。

「兵庫どの、待たぬか」

 ますます足を速めながら、兵庫は肩ごしにちらりとうしろを見た。

「早く来ないと、置いていきますよ」

「もう歩けぬ」

「昨日はそう言ってから、さらに一里歩けたではありませんか。何ごとも、やろうと思えばできるものです。歩けると信じて、一歩ずつ前へお進みなさい」

 うしろのほうで、義康が憤然と唸り声を上げた。きっと頭から湯気を出しているに違いない。兵庫は笑いを噛み殺しながら、道なりに曲折してススキの海に分け入っていった。老人の位置からは、もうほとんど見えなくなったはずだ。そう思って少し歩調をゆるめると、かさかさと草を踏む軽い足音が聞こえた。本当に置き去りにされると思い、急いで後を追ってきたらしい。

 その場に佇んで少し待っていると、やがて必死の面持ちの義康がススキをかき分けて姿を現した。危うく兵庫に突き当たりかけて「ひっ」と息を呑み、へなへなとしゃがみ込む。

「そら、歩けたでしょう」

 にこやかに言うと、彼は恨めしげに見上げて、深いため息をついた。

「そなたは人が悪い」

「あなたは、おれの八歳の友人よりも(こら)(しょう)がない」

 子供と比較されたのが不満らしく、義康は口を尖らせた。

「長上を敬うということを知らぬのか」

「知っていますとも」とぼけた顔で言い、兵庫は西の空に目をやった。まだ明るさは残っているが、あと小半刻も持ちそうにない。「暗くなる前に、ススキの原を抜けましょう。火も焚けず、土を掘ったら古い(むくろ)が出てきそうな、こんなところで野宿をしたくない」

 義康はぎょっとしたように立ち上がり、落ち着きのない視線で足元の地面をひと掃きした。かつてこの一帯を埋め尽くしたという、腐って膨れ上がった屍の幻影でも見ているかのようだ。

「さあ、歩いて」

 穏やかに促すと、今度は文句を言わずに歩き出した。背後が気になるのか、時折ちらちらとうしろを見ている。

「怖いのなら、おれの前をお行きなさい」

「何を言う。怖くなどあるものか」

 強がってみせたにもかかわらず、老人はそそくさと前方へ回った。

 のろのろした彼の歩度につき合って、ゆっくりと足を進める兵庫の周囲で、天を()くように伸びたススキが騒々しくざわめいている。夕風になびいて髪や袖にからむ穂先は、素っ気ない旅人を引き留める手のようだ。

 兵庫は骸も悪霊(あくれい)も恐れないが、この場所が何か、この世ならぬ気配に満ちていることは否定できないと思った。


 草原を通り抜けたふたりは、山の麓で炭焼き小屋を見つけ、そこで一夜を過ごした。ずいぶん前に見捨てられたらしく、材は半ば朽ちて、壁も一面しか残っていない。だが柱はまだしっかりと天井を支えており、そのおかげで、夜半に降り出した雨に濡れずにすんだ。

 翌朝早く目を覚ました兵庫は、眠っている義康を起こさないようそっと小屋を出て、すぐ脇にある木立の中へ入った。雨はもう上がっているが、夜のあいだにたっぷり水をかぶった梢から、ぽたりぽたりと雫が落ちている。

 兵庫は丸く開けた場所に立ち、刀の柄に手をかけた。そのまま静止して目をつぶり、七草(さえくさ)で一度だけ()の当たりにした、椙野(すぎの)平蔵(へいぞう)の剣さばきを脳裏に蘇らせる。

 抜き打ちのただ一撃で、向かい合う相手の首を斬り断った。剣先が夜空を横切る月のような、冴えざえと美しい弧を描いたのを覚えている。

 その形を頭の中でなぞりながら、一歩踏み込み、抜いた。斜めに跳ね上がった刀身が空を斬り、鋭い風音(かざおと)を立てる。

 不満だった。

 納刀して気息を整えながら、平蔵との違いを考える。形は似ているが、流れが悪い。すべての動作がひと続きにならなければだめだ。

 もう一度抜いた。まだ違う。次は踏み込みを大きくして、より低い位置から一気に抜き放つ。少し近づいた。

 こうしていると意識が澄みわたり、知覚が限りなく広がっていくような気がする。その端のほうに、ふと何かが引っかかった。

 視線だ。見ている。

 次の瞬間、頭上の枝がぐっとたわんで大きく跳ねた。梢から驟雨(しゅうう)のように露が降り注ぐ。それと共に、奇声を上げながら男が降ってきた。先日、立州(りっしゅう)で義康を襲おうとした、あの追い剥ぎだ。

 先ほどから繰り返していたのと同じ動きで、兵庫はひと息に抜刀した。腕をしなやかに伸ばして高く振り上げ、切っ先を相手の喉元でぴたりと止める。

 奇襲に失敗したと悟り、追い剥ぎは着地した姿勢のまま固まった。首の皮に横一文字の細い裂け目が走り、そこから血がひと筋流れている。紙一枚分ほど残したつもりだったが、間合いを計り損ねて、浅く傷をつけてしまったようだ。

「触れたな。すまん」

 兵庫は謝り、刀を引いた。追い剥ぎが支えを失ったようにふらついて足をもつれさせ、不機嫌そうに唸って首をなでる。その指に少量の血がついた。

「ちっ、下手くそめ」彼は悪態をつき、指をなめてから唾を吐いた。しかしすぐに表情をやわらげ、肩をすくめる。「いや――下手じゃねえや。さっきから見てたぜ。おめぇ、使い手だな。侍だな」

「侍じゃない、武芸者だ」

 兵庫は用心深く答えた。急に馴れ馴れしくなった相手の腹が読めない。

「おまえ、とうとう江州(こうしゅう)までついて来てしまったんだな」

 嘆息しながら言うと、追い剥ぎは動揺を露わにした。

「な、なんでぇ。気づいてたのかよ」

「ああ。だが、国境(くにざかい)であきらめたと思った。山越えのあいだ、姿を消していただろう」

 男が自慢げに「へへぇ」と笑う。

「おれぁな、国境やそのへんのことはよぉく知ってんだ。おめぇらが関を通らずに、裏道から江州へ入るのはわかってた。だから別の道を使って、先回りして待ってたのよ」

「何の用だ。意趣返しでもしに来たか」

 そう訊くと、彼は目をぎらぎらさせながら兵庫の周りを歩き回った。襲う間合いを計っているようにも見えるが、単に話の切り出し方を考えているだけかもしれない。

 やがて男は足を止め、こちらを横目に窺いながら、ぼそりと言った。

「おめぇよ、剣術、習ってんだろ。師匠がいんだろぉ」

「師匠はいる」

 それがどうした、というように見つめると、彼は視線を逸らしてまた歩き出した。落ち着きのない動きは、臆病な小動物のようだ。

「あん時――」右へうろうろ、左へうろうろしながら、ぽつりぽつりと言葉を続ける。「おめぇ、刀ぁ抜かなかった。抜くような格好だけして、抜かずにおれを殴ったな。でもよ、どうやって殴られたのか、ちぃっともわかんねぇんだよ」

 立州で会った時に、鉄槌打ちを食らわせたことを言っているらしい。

「柄にかけていた手を放して、ここで――」右の拳を握り、小指側の側面を左の手のひらに打ちつけて見せる。「横殴りに殴ったんだ。顎を狙ってな」

 追い剥ぎは、その時の衝撃を思い出したように顔をしかめて「うう」と低く唸り、自分も拳を握ってまじまじと見つめた。

「あのあと丸一日、足がふらふらだったぜ」

「顎をやられると、そうなることがある」

「それ、そういうのも、師匠に教わるのか」

「いや、もっぱら喧嘩で覚えるんだ」

 兵庫は会話に飽き、だんだん()れてきた。相手の目的がさっぱりわからない。

「そんなことを訊くために、わざわざ江州まで追ってきたのか」

 男が足を止めた。こちらを向き、上目づかいにじっと見る。

「おめぇ、強ぇな」

 きっぱりと言って、彼は自分自身がそう評されたかのように、満足げにうなずいた。それから少し身を固くして、兵庫の反応をじっと待つ。しかし、無関心そうな表情しか返ってこないことに気づくと、唇をひとなめしてから先を続けた。

「おれもよ、師匠が欲しいんだ。強くなりてぇんだよ。強くなって、戦に行って、侍になりてぇんだ」

 道場を紹介しろとでも言うのだろうか。困惑の面持ちで口を開きかけると、彼はさっと手を上げてそれを押し留めた。

「おめぇ、おれの師匠になってくれよ。なあ、いいだろぉ。ちょちょいっと、剣術ってやつを教えてくれりゃいいんだ。それからあれ、あの、斬るふりで騙して殴ったりとか、そういうやつをさ」

 兵庫は怒るべきか、あきれるべきか考え、そのどちらも無意味だと結論づけた。こんなやつ、相手にするのも馬鹿らしい。

 何も言わずに背を向け、小屋のほうへ戻り始めると、うしろから追い剥ぎが大声で怒鳴った。

「お、おい、こら、待ちやがれ! 話、聞いてんのか。師匠になってくれっつってんだろぉ! 何が気に食わねぇんだよ」

 追ってくる足音が聞こえた。気配が間近に迫る。袖を捉まえられる寸前、兵庫はくるりと振り向いた。はっと足を止めた男を真正面から見据え、双眸に殺気をみなぎらせる。

 追い剥ぎはすくみ上がり、脅された猫のように跳ねて、ひと呼吸で二、三間もうしろへ飛び退(すさ)った。信じられないほど身が軽く、反応の速さはまさしく獣なみだ。

 兵庫は開いた距離をそのままに、しばらく黙って彼を睨み続けてから静かに言った。

「去れ。次に近づいたら、斬る」

 男は草むらに片足を入れ、半身をこちらに向けて様子を窺っている。立ち去りたい気持ち半分、未練半分といったところか。

 兵庫は口を一文字に引き結び、刀の鞘を掴んで柄を立てた。

 殺すぞ、と眼差しで威嚇する。

 次の瞬間、煙のように男の姿がかき消えた。下草を踏む(せわ)しい足音が、またたく間に遠ざかっていく。それが完全に聞こえなくなるのを待ってから、兵庫はゆっくりと小屋へ戻った。


 義康(よしやす)が「寄り道をしたい」と言い出したのは、その午後のことだった。

 今はまた表街道へ戻り、なかなかいい調子で距離を稼いでいる。このまま歩き続ければ、夕暮れまでには赤祖父(あかそふ)宿(しゅく)の木戸を過ぎ、旅籠(はたご)でゆっくり休むことができるだろう。しかし、道を逸れるとなると話は別だ。

「どこへです」

 問いかけると、義康は伸びかけの白い顎髭を引っ張りながら、どこか落ち着かない様子でのろのろと答えた。

「む……日角(ひずみ)(ごう)へ、な」

 兵庫は少し考えたが、その(さと)の名に聞き覚えはなかった。

「ここから近いのですか」

「近いと言えば、近い」

 こういう曖昧な言い方をする時は、鵜呑みにすべきではない。兵庫はいったん立ち止まり、老人をまっすぐに見ながら重ねて訊いた。

「距離は、およそどれほどですか。一里? 二里?」

「ここから北西へ歩いて……半日ほどかのう」

 つまり最低でも四、五里は離れているわけで、少しも近くはない。兵庫はあきれ、半ばうんざりしながら言った。

「ご隠居、せっせと進めば百武(ひゃくたけ)(ごう)は四日で行けるところにあるというのに、なにゆえここで、そんな道草を食わねばならぬのです」

「その、実は、先に江州(こうしゅう)入りさせた身内が、わしが着いたという知らせが来るのを、そこで待っておるのじゃ」

「お身内とは」

「わしのせがれとその嫁、孫、それから妹と叔父夫婦がな」

 兵庫は驚き、しばし考え込んだ。

 この老人が本当に儲口(まぶぐち)守恒(もりつね)だとすると、黒葛(つづら)軍に攻め入られながらも、当主と嫡子を含む一族の主要人物はみな無事に落ち延びたわけだ。肝心の当主は、いつまでも立州をうろうろしていて少し危なかったが、それも今はもう江州へ入っている。儲口家というのは弱腰に見えて、案外しぶとい一族なのかもしれない。

 しかし、事情はわかったが、寄り道で半日も無駄にするというのは気乗りがしなかった。それに日角郷とやらで親族と再会したら、彼らも一緒にという流れになるに違いない。頭数の半分が老人の大所帯を、ぞろぞろと引き連れて行くなどまっぴらだ。

「まず百武郷へ行き、どこかへ落ち着いてから、使いを出せばよいではありませんか」

「うむ、まあ、それはそうじゃ。初めはそのつもりであった」

「なぜ気が変わったのです」

「――し、心配で……」

 老人の声がふいに震えて乱れた。はっと顔を覗き込むと、うっすら涙ぐんでいる。

立州(りっしゅう)で潜伏中に音信が絶えてしまい、それからずいぶん経つので、どうしているかと……」うつむくと、幾粒かの涙が足元に落ちた。「努めて考えぬようにしていたが、こうして江州へ入り、ようやく近くへ来たと思ったら――いてもたってもいられぬようになってしもうたのじゃ」

 義康はため息をつき、袖を両眼にそっと当ててから、弱々しく微笑んだ。

「いや、今の話は忘れてくれ。わがままを言うて、すまなんだ」

 負けた。兵庫は一瞬瞑目し、それから気持ちを切り替えて、静かに言った。

「日角郷へ行きましょう」

 老人のつぶらな目が大きく見開かれ、やがてきらきらと輝き出す。

「兵庫どの……」

「ただし、少し急ぎますよ。足が痛いの、疲れたのという愚痴は聞きませんから、そのおつもりで」

 義康は首がもげそうなほど勢いよく何度もうなずき、決意を示すように樫の杖をぎゅっと握った。

「貝のごとく黙して、一心不乱に歩くと約束する」厳かな口調で言う。

「道はおわかりですか」

「おおよそは」

「では念のため、途中で誰かに訊きましょう」

 自ら宣言した通り、義康は脇目もふらず、黙々と道を急いだ。杖を突き、土埃を足にまとわりつかせながら、額に汗して懸命に前へ進んでいく。最初からこんな風に歩いてくれれば、もっと早く江州に着いていただろうに、と思わなくもないが、兵庫は皮肉る気にはなれなかった。これほどひたむきな姿を見せられては、辛辣な言葉など吐けようはずもない。

 ふたつの丘と低い山をひとつ越え、日角郷の入り口を示す境界石の脇を過ぎたのは、月が高く昇り、満天の星が輝くころになってからだった。日のあるうちには着けなかったが、真夜中まで歩かずにすんだのだから上々と言えるだろう。

「お身内は、どこにいらっしゃるのですか」

「古い知り合いの家に身を寄せているはずじゃ。用水池のほとりに建つ神祠(しんし)が目印で、その脇を通る道の突き当たりだと聞いている」

 説明を聞きながら、兵庫は首を伸ばして遠くに目をやった。広々とした大豆畑の向こうに、月明かりを反射する水面がかすかに見える。きっとあれが用水池だろう。

「おそらく、あのあたりだ。行ってみましょう」

 老人を促して歩いていくと、すぐに池の全景が見えてきた。鏡のような水面に、未草(ひつじぐさ)の大きな丸い葉がいくつも浮いている。その上に数匹の雨蛙が載り、夜の静寂(しじま)をついて鳴き声を響かせていた。

「神祠が見えるか、兵庫どの……」囁くような声で義康が訊く。

「見えませんが、香のにおいがします」

 湾曲した道を半分ほど行くと、果たしてそこに小さな神祠があった。木製の祭殿の右横から細い脇道が南へ伸び、先のほうにちらちらと明かりがまたたいている。人家の戸口からもれているのだろう。

「あそこに家があるようだ」

「ああ、よかった」義康はほっと息をつき、急に元気を取り戻した。「ゆこう。せがれどもを、そなたに引き合わせたい」

 人の往来が絶えたらすぐに消えてしまいそうな小道を、老人のうしろについて歩きながら、兵庫は何か神経に障るものを感じていた。(さと)の中は静かで、一見したところ人影もなく、なんら脅威と思えるものはない。だが心の中に、警戒を呼びかける声がある。

 落ち武者と同道しているのだから、これまでも危険は常に意識していた。だが立州を離れた今になって、ことさら危機感がつのるのはなぜだろう。

 道の突き当たりにあったのは、芝垣で囲まれた中規模の百姓家だった。庭の隅に小さな菜園があり、瑞々しい青菜が育っている。

 どこか近くで、馬が鼻を鳴らした。農耕馬か乗用馬を飼っているらしい。

 義康は戸口までまっすぐに行き、(かまち)を杖の頭でとんとんと叩いた。家の中で動きがあり、少し間を置いて引き戸が開けられる。

 対応に出てきたのは五十がらみの小太りな男で、人の好さそうな丸い赤ら顔をしていた。

「これは――お、御屋形さま」

 眼前に立つ義康を見て興奮したのか、赤い顔がさらに赤くなった。反射的に平伏しようとする彼を、老人があわてて押し留める。

平三郎(へいざぶろう)、よい」

 兵庫は少し離れて影の中に佇みながら、ふたりの様子を観察していた。この平三郎という男はおそらく、儲口家に(ゆかり)のある元足軽か何かだろう。

 ふと彼が顔を上げ、兵庫に気づいて息を呑んだ。

 義康が間髪を入れず紹介する。「こちらは六車(むぐるま)兵庫どのといって、わしをここまで守ってくれた御仁じゃ」

 平三郎は「さようで」と言い、こちらを向いて小さく会釈した。だがその目は、用心深い色を(たた)えている。彼らがこれから何を話すにしろ、ふたりだけにしてやったほうがよさそうだ。

「ご隠居、おれは池のあたりにいます」

 ひと言かけて、兵庫は小道を戻っていった。池のほとりに座り、神祠から漂ってくる(かぐわ)しいにおいを嗅ぎながら、蛙の声に耳を傾ける。

 肩ごしに百姓家のほうを見ると、戸口の明かりにふたつの人影が浮かび上がっていた。顔を寄せて、熱心に話し合っているようだ。しかし、家の中からほかの者が出てくる様子はない。ここにいるはずの義康の親族は、いったいどうしているのだろう。

 小半刻ほど経ったころ、老人が疲れた足取りでやって来た。兵庫の隣に腰を下ろし、黙って池を見つめる。その顔は悲しげで、憔悴にくすんでいた。何か予想外のことが起きたらしい。

 やがて口を開いた義康は、憂鬱そうな声で事情を話した。

「せがれらは、ここにはおらなんだ。わしとのつなぎが絶えたので心細くなり、百武(ひゃくたけ)の遠縁に便りを出したところ、迎えが来たそうじゃ」

「では、すでにあちらへ行っておられるのですね」

「うむ、そうなる」

 結果的にはそれでいいはずなのに、老人の表情は冴えなかった。兵庫が漠然と感じている危機感が、彼にも伝染したかのようだ。

「気がかりなことでもあるのですか」

「百武へは、わしが先に行くか……あるいはここで落ち合って共に行きたかった。そうすべきだった」

「なら、早くあなたも行かねば」

「うむ」

 義康はぼんやり答えたあと、意を決したようにうなずき、緊張に顔をこわばらせながら兵庫を見た。

「兵庫どの、わしはそなたに、まだ言うておらぬことがある。決して悪気あってのことではないが――出会いからずっと(たばか)っていた」

 驚いた。正体を明かすつもりだろうか。兵庫は何も言わず、目で話の先を促した。

「わしが会いに行かねばならぬと言った義父……」義康は言いさして、動揺のせいか言葉に詰まり、小さく咳払いした。「実はあれは守笹貫(かみささぬき)道房(みちふさ)さまのことで、わしはあのかたに――二度と顔向けできぬような、不面目きわまりない失態を演じてしもうたのだ」

「たとえば、一国を失うとか?」

 静かに訊いた兵庫を、義康が驚愕の面持ちで見つめる。溺れかけた人のように口をぱくぱくさせ、彼は震える指で兵庫の袖を掴んだ。

「気づいて――い、い、いつから……」

「出会った日から」

 衝撃のあまり、義康は石像のように固まってしまった。もはや言葉も出てこないらしい。兵庫は袖に食い込んだ彼の指をそっと外し、ひんやりした手の甲を優しく叩いた。

「おれにはかかわりのないことゆえ、知らぬふりをしていました。ある意味、こちらもあなたを謀っていたのだから、お互いさまです」

 老人――儲口(まぶぐち)守恒(もりつね)は顔をゆがめ、今にも泣きそうに喉をひくつかせたあと、力なく笑い出した。それはすぐに、胸のつかえが取れたような、晴れ晴れとした笑いへと変わる。

 ひとしきり笑って落ち着きを取り戻すと、彼は池のほうを向いてふうっと息をつき、並んで座る兵庫に痩せた肩を軽くぶつけた。

「そなたは、ほんとうに人が悪い」

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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