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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第三章 それぞれの旅路
35/161

三十四 別役国龍康殿・鉄次 庖丁人

 若い衆の見送りを受けて五番町の賭場(とば)旅籠(はたご)を出た鉄次(てつじ)は、見世(みせ)を背にしてひとつ大きな欠伸(あくび)をした。

 明け()める空はまだ夜の名残をとどめ、裾野だけが淡い(あけぼの)色に染まっている。その色に見とれているあいだに、低く折り重なる雲の下から、朝日がわずかに顔を覗かせた。ずっと薄暗いところにいたので、その微かな輝きですら目を刺すようだ。

 彼は旭光から顔を背け、本通りを南に向けて歩き出した。両脇に軒を連ねる旅籠の賭場は大半が終夜営業なので、こんな時刻でも道に人の行き来は絶えない。見世の前には客引きも出ていて、まだ遊ぶ意欲と金を残している者はいないかと、行き交う人々の表情に目を凝らしていた。

 懐手(ふところで)してのんびり歩く玄人(くろうと)顔の鉄次に、彼らの視線は()まらない。地元の博徒は引き揚げ時を心得ていて、(はた)から甘い言葉をかけられても決して乗せられないと知っているからだ。客引きの対象となるのは、もっぱら龍康殿(りゅうこうでん)の外から来た素人(しろうと)の遊興客だった。はるばるここまで来たのだから、最低でも元は取ってやろうと意気込んでいる者たちが狙い目だ。

 しばらく歩くと、道の先に海が見えてきた。まだ暗い色をした海面で、ゆるいうねりの狭間に立つ波頭の先端だけが白銀色にきらめいている。鉄次は道の外れまで行き、西側に突き出た岬の手前で左へ折れて、嘉手川(かてがわ)の河口に築かれた湊に足を踏み入れた。

 埠頭へ向かう幅広な道は、早朝にもかかわらず荷車や人であふれかえっている。すれ違った荷車の一台からは、えも言われぬ香りが漂ってきた。煤孫(すすまご)島あたりから届いた香料を積んでいるのだろう。

 彼は人波をすり抜けて野積場(のづみば)を通り過ぎ、貨物の荷さばきや保管に使う上屋(うわや)がいくつも建ち並んでいる一角に差しかかった。その先には小型船を係留する物揚場(ものあげば)と、大型船用の突堤がある。

 開けた物揚場に足を踏み入れると、強い潮風が吹きつけてきた。賭場でしみついた煙草や汗などの雑多なにおいが、髪と着物からたちまち洗い流されていく。

 鉄次は湊を管理する舟座(ふなざ)の小屋近くで足を止め、風に髪をなぶられながら突堤の様子を眺めた。今朝はそのひとつに、三本の太い帆柱を立てた異国の大型商船が入っている。今は陸揚げの真っ最中で、渡り板の上を大勢の荷揚げ人夫が行き来していた。その中に、鉄次が身内扱いしている孤児(みなしご)長五郎(ちょうごろう)も混じっている。

「やあ、あんたか」

 小屋から出た男が鉄次に気づき、意外そうに声をかけてきた。舟座の一員で、物揚場と突堤を仕切っている差配役だ。

「坊主の働きぶりを見に来たのかい」

「いや、船さ」鉄次はそう言って、彼と一緒に突堤のほうへ歩き出した。「あそこに入ってるのは、霧で五日前から沖待ちしてたやつだろう」

「三ツ柱かい? ああ、そうだ」

「南方のタイフォスの船だな」

 低く呟いた鉄次に、差配役が驚きの目を向ける。

「おいおい、やけに詳しいじゃないか。まさか船乗りだったのかね」

「船の往来を記録する仕事を、昔ちょいと手伝ったことがあるのさ」

「なるほど、それなら納得だ」彼はうなずき、にやりと笑った。「あんたは船に乗り組むような柄じゃない」

 暗に生っ(ちろ)いと言われているのはわかったが、別に腹は立たなかった。敢えて指摘されるまでもなく、自分が漕手や荷揚げ人夫のように屈強な男でないことは承知している。

「長五郎はよくやってるかい」

 話題を変えると、差配役は潮焼けして小じわに囲まれた目元をなごませた。

「たいしたやつだよ、あいつは。初めにあんたから聞いてた通り、餓鬼のくせに大人三人分の仕事をする。あれをしろ、これをしろと、いちいち言ってやらなきゃならんのが難儀だが、まあ、それぐらいの手間をかける甲斐はあるってもんだ」

 突堤の入り口で足を止め、鉄次はタイフォスの帆船から荷を運び下ろしている男たちのほうを見た。ちょうど、長五郎が渡り板を下りてくるところだ。

 たくましい人夫たちの中にいてさえ、なお目立つほどがっしりとしたその少年は、巨大な木箱を背骨の上に載せて担いでいた。重さはあまり感じていないようで、上体をほとんど折りもしていない。今にも鼻歌を唄いだしそうに気楽に、易々と、彼は仕事にいそしんでいる。

「楽しそうにやってるな」そうだろうと思い、特に心配はしていなかったが、それでも確認できて満足だった。「もめ事は起こしてないか」

「頭が弱いってんで、最初のうちは(たち)の悪い若い衆がからかったりしてたが、今はちょっかい出すやつはいない。古株のひとりが、〝おめえら、あいつより重い荷を担げるのか〟と、一発どやしつけてからはな」

「そりゃよかった」

「ところで、次に会ったら聞こうと思ってたんだが――」差配役がこちらを向き、少し意味深な目つきになる。「あんた、あいつの賃金から上前(うわまえ)を取らなくていいのかい」

「いらねえよ」

 鉄次があっさり答えると、彼は困惑顔になって頭を搔いた。

「だが(ねぐら)を与えて、飯も食わせてるんだろう。働かせて上前を取らないなら、何のために孤児の面倒なんか見てるんだ」

「借家に住まわせてやってるだけだ。食わせてたのは初めのうちだけで、近ごろはここの賃金で食うようになったし、たいして世話はない」

「しかし、それであんたに何の得がある?」

「おれは手前(てめえ)の損になることはしねえよ」

 それだけ答えて口をつぐむ。差配役は納得のいかない顔をしたが、これ以上は何も聞き出せそうにないと悟ると、すぐにあきらめた。

「ま、おれがとやかく言うこっちゃないな」

「その通りだ」鉄次は素っ気なく言って、再び船に目をやった。そろそろ陸揚げが終わるようで、空手になった人夫たちが突堤の端に集まっている。「ちょいと、あいつと話していいかい」

「作業もひと段落したようだし、好きにしな」

 差配役は船に向かって歩いて行き、途中で長五郎に声をかけた。少年がぱっとこちらを向き、嬉しそうに駆け寄ってくる。少年とは言っても背丈は鉄次とほぼ変わらず、体格はあちらが圧倒的にまさっているので、勢いよく近づかれると威圧感をおぼえずにはいられない。

「鉄次さぁん!」

 図体に似合わない子供の声で叫び、彼は最後の数歩でさらに足を速めた。

「おっと、やめろ」

 危うく抱きつかれそうになったのを手前で止め、鉄次は少し距離を取って長五郎を眺めた。

「おまえ、黒くなったなあ」

 初めて会った時には垢と汚れで真っ黒だったが、今は日焼けできれいに黒光りしている。長五郎は自慢げに頬をなで、えへへと笑った。

「あのね、あの船の人たちが、おれのほうが黒いってびっくりしてた」

 大型帆船のほうを指して、自慢げに報告をする。そちらへ目をやると、乗組員と思しき異国人が数人、人夫に混じって渡り板を下りてくるのが見えた。南方の大陸国家タイフォスに住む人々の多くは、黒檀のような肌と輝く赤い髪、(みどり)色の目を持っている。遠目にもその黒い肌と、燃えるような髪の色は見分けることができた。

「タイフォス人が、そう言ったのか? おまえ、あいつらの言葉がわかったのかい」

「うーん……あのう、わかったよ」

 文字どおりの意味ではなく、相手の表情や雰囲気から何となく感じ取ったのだろう。鉄次はそれでも、感心せずにいられなかった。

「案外、(さと)いところがあるんだな」

「さとい?」何を言われたのかわからない、というように首を(かし)げる。

「いや、気にするな。それより、おまえに言っておくことがあるんだ。もうじきおれは街を出て、しばらく留守にする」

 とたんに、彼長五郎の顔が曇った。眉根を寄せ、真剣な面持ちで考え込む。ややあってこちらを見た目には、うっすら涙がにじんでいた。

「あのう――あのう……帰ってくる?」

「もちろん帰ってくるさ。だが当分はいないから、何か困ったことがあったら佐吉(さきち)傳次郎(でんじろう)――あの釣り好きな髭の男に言え」

「うん、わかった。いつ帰ってくる?」

 確実に帰るかどうかが、よほど気になるようだ。誰かに置き去りにされた経験があるのかもしれない。鉄次は笑みを浮かべて、彼の顔を覗き込んだ。

「おれがいたほうがいいかい」

「うん」打てば響くように答える。

「だが今だって、別に毎日会ってるわけじゃない。おれがどこにいるか、おまえは知らないことのほうが多いだろう」

「うーん……でも、街のどっかにいるからね」

 実際は龍康殿から出ていることもある。だがそれを言って、むやみに不安がらせる必要はないだろう。

「街にいればいいのか」

 長五郎が、何度も力強くうなずいてみせる。

「おれ捜せるから、会いたい時。でも街にいなかったら捜せない」

 それから、迷子のように頼りなげな表情でうつむき、荷運びでささくれた指先をいじり始めた。

佐吉(さき)っちゃんとか、(こう)やんとか加代(かよ)ちゃんとか、みんな優しいけど、おれやっぱり……鉄次さんに会えないと寂しいなあ」

 あまりにも素直に言うので、思わずほだされそうになる。鉄次は少し考え、頭の片隅になくもなかったことを口にした。

「じゃあ、おれと一緒に行くかい」

 長五郎が顔を上げ、目をぱちくりさせる。

「鉄次さんと一緒に?」

「そうだ」

 少年は即座にうなずき、喜びをどう表現しようかというように身をよじったあと、その場でぴょんぴょん跳ね回った。月のように丸い顔には、満面の笑みが浮かんでいる。

 鉄次はつられて笑いながら、彼が少し落ち着くのを待って問いかけた。

「どこに行くか訊かないのか」

「どこでも行くよ。うーんと、遠くてもいいよ」

 長五郎は幸せそうにため息をつき、夢見るような口調で言った。

「おれ、鉄次さんと一緒に行くんだねえ」

「ああ。だが本当に、うんと遠くまで行くぞ。それに、たぶん重い荷を持ち帰ることになる。おまえ、そいつを担いで運ぶかい」

「運ぶよ」すかさず答えて、自信満々の表情を見せる。「おれ、何でも運べるよ」

「よし、それなら連れて行く。前の日になったら声をかけるから、それまではいつも通りにしてな」

「わかった」

 詳しく話しても、どうせ次に会うまでにあらかた忘れてしまうと知っているので、鉄次は説明を省略した。街を出るだけでなく、別役(わかえ)国の外まで行く予定だが、それを教えたところで長五郎は別に何とも思わないだろう。

 彼と別れて道を引き返した鉄次は、湊を出て岬のほうへ歩いて行った。水平線を指差すように突き出た土地の先端に、船の往来を監視する砦が築かれている。崖下は岩だらけの磯で、その脇に小さな砂浜があった。

 波に削られて平らになった岩のひとつに、南浮(なんぶ)傳次郎(でんじろう)が片膝を立てて座っている。鉄次は滑りやすい岩の上を慎重に歩いて行き、釣り糸を垂れている彼に「よう」と声をかけた。潮じみた袴姿の傳次郎が肩ごしにこちらを見て、大仰な驚きの表情を浮かべる。

「まさか、ありえん。こんな朝っぱらから、おまえが出歩くはずはない」

「〈蜃気楼〉に四晩居続けした帰りだ」

 鉄次は傳次郎がいる岩に辿り着き、使い込まれた竹魚籠(びく)を覗き込んだ。いつからいるのかは知らないが、今のところ釣果はさっぱりのようだ。

「なんだ、しけてるな。おれのほうは、たっぷり稼いできたぜ」

「ふん、まだまだ。勝負はこれからよ」傳次郎がむっつりと言い返して鼻を鳴らす。「〈蜃気楼〉というと、五番町でいちばん新しい賭場旅籠だな。おまえに四晩も居座らせるとは、新参の主人は呑気なやつだのう」

 彼は竿を操りながら、横目に鉄次を見た。

「近ごろ、えらくがつがつしてるじゃないか」

「金を使う予定があってな。ちょいと旅をしてくるつもりだ。しばらくいないから、あいつらの様子をたまに見てくれるか」

「おう、任せとけ」

「長五郎は連れて行く」

 つけ加えた言葉に、傳次郎は正真正銘の驚きを見せた。

「何のために」

「荷物持ちだ。人夫を雇う手間がなくていい。それにあいつの図体を見たら、峠の追い剥ぎも襲うのをためらうだろうさ」

「だから、本物の用心棒を雇えと言ってるだろうが」渋い表情で言って、わざとらしくため息をつく。「それが嫌なら、せめて道中差しぐらいは持ってけ。なんなら、わしの脇差しを一本貸してやる」

「借りたところで、刀なんざ使えねえよ」

「まったく、おまえってやつは、どうしようもないへなちょこだ」

 いつものごとく遠慮会釈もなしに罵り、傳次郎は口をへの字に曲げた。

「空手のままで、どこへでも行きやがれ。もし襲われて死ぬことになっても、長五郎は死なすなよ」

「ああ、そうするよ」

 笑いながら軽くいなし、海に背を向ける。岩をふたつ渡ったところで、傳次郎がふいに訊いた。

「賭場に居続けしてたってことは、そのあいだに街で起きたことは知らんのだろうな?」

 妙に含みのある言い方だ。鉄次は怪訝に思いながら振り返った。

「なんの話だ」

「おまえが贔屓(ひいき)にしてた舟宿――〈辰田(たつた)屋〉だったか」

「それが?」

「あそこの亭主、()られちまったぞ」

 めったにないことだが、鉄次は不意打ちを食らって一瞬怯んだ。しばしの沈黙を挟んで、さざ波が立つ心をなだめ、静かに問いかける。

「いつ」

「三日前の晩だ。なんでも、(たち)の悪い客が来たんだとよ。飯も酒も旨い、いい見世だったのになあ」

「そうだな」

 鉄次は上の空で呟いた。ひときわ高い波が打ち寄せて、飛沫(しぶき)が足元を濡らしたが、それもほとんど意識に上らない。彼は考えに沈んだまま、傳次郎に別れの言葉をかけることもなく、そのまま磯を後にした。


 嘉手川(かてがわ)に沿って北上していると、脇道から出てきた佐吉(さきち)がそっと傍に近づき、半歩うしろを歩きだした。鉄次が(ねぐら)を与えている孤児(みなしご)のひとりで、掏摸(すり)生業(なりわい)にしている少年だ。

「えらく早いじゃん」

「おまえこそ、いつも辻に出るのは(ひる)過ぎだろう」

 鉄次は歩調をゆるめなかったが、佐吉は軽い足取りで遅れずについてくる。

「長五郎のせいだよ」小柄ではしっこい少年は、すっきり整った瓜実顔に、うんざりした表情を浮かべて愚痴った。「あいつ、湊で働きだしてから早起きでさあ。それはいいんだけど、ひとりで朝飯を食うのが寂しいからって、おれや宏太(こうた)も一緒に起こすんだ」

「飯を食ってから、また寝りゃいい」

 佐吉は「ちぇっ」と言って、口の端をゆがめた。「年寄りじゃあるまいし、そんな二度寝ができるもんか」

 それから彼は少し足を速めて横に並び、鉄次を見上げながら訊いた。

「急いでるんだね。どこ行くの」

「この先の〈辰田屋〉だ」

「喧嘩で人死にが出た見世(みせ)かい」

 鉄次は足を止め、朝日を顔に受けて眩しそうにしている佐吉を見つめた。

「何があったか知ってるのか」

「あのへんで商売してるやつに、ちょっと聞いただけだよ。酔っ払いの客が刀を抜いて、見世の主人が斬られたって。でも、死ぬ前にやり返したらしい」

 鉄次は以前から、〈辰田屋〉の主人で庖丁人でもあった太兵衛(たへえ)を、おそらく武門の出だろうと見ていた。ただでは死なず相討ちに持って行ったあたりは、いかにも侍あがりらしく思える。

 再び歩き出した鉄次を追いながら、佐吉は遠慮がちに訊いた。

「その人と、仲良かったのかい」

「いや……」意外な問いに少し戸惑いを感じながら、呟くように答える。「見世の主人と客として、ちょっとばかし、つき合いがあっただけだ」

「そっか。おれ今日、なんか手伝うことある?」

 鉄次は歩きながら考え、見世のすぐ手前まで来たところで佐吉のほうを見た。

千太郎(せんたろう)を呼んできてくれ」

「千太、どこにいんのさ」

「今時分なら魚河岸(うおがし)だろう。そこにいなかったら、五番町の〈桐花(きりはな)〉に行ってみな。見つかったら、今朝仕入れした中で、いちばんいいのを持ってすぐ来るように言え」

河岸(かし)にいるといいなあ。〈桐花〉なんて、あんな堅苦しい見世に近づきたかないよ」

「裏から声かけりゃいいんだ」

「わかった」

 答えるなり(きびす)を返して、佐吉は疾風(はやて)のように走り去った。

 いつの間にか、川沿いの道には人通りが増えている。勤め先へ急ぐ風情の者や、また一日遊ぶ気満々の遊興客もいれば、野菜や心太(ところてん)を歩き売りする者たちもいた。街の雰囲気は、普段と何も変わらない。だが〈辰田屋〉の戸には喪中を示すしきみの枝が留めつけてあり、それもあってか、見世の周辺だけが妙にくすんだ色彩を帯びて見えた。

 戸口に体を寄せても、中からは何の音も聞こえてこない。鉄次は指の節で、板戸をそっと叩いてみた。しかし応答はない。それでもなお待っていると、しばらく経ってから、ほとんど聞こえないぐらい小さな声で(いら)えがあった。

「帰っとくれ」女将(おかみ)のつたの声だが、ひどくかすれている。「客の相手をする気分じゃないよ」

 鉄次はかまわず板戸を引き開け、薄暗い見世の土間に足を踏み入れた。小上がりの畳に突っ伏していたつたが、きっと顔を上げる。目元は腫れて赤くなり、自慢の泣きぼくろは、まだ乾ききらない涙で濡れていた。

「女将」静かに声をかけ、鉄次は座敷の(へり)に腰を下ろした。「太兵衛は気の毒だったな」

 つたの顔にありありと浮かんでいた、噛みつくような表情が少しやわらぐ。

「鉄次さん……」低く呟き、彼女は子供がするように、手の甲でごしごしと顔を拭った。「いいわ、あんたなら。あの人、あんたのこと気に入ってたから」

「そうかい」

「味のわかるお人だって」

「おれも、太兵衛の腕に惚れてたぜ」

「ずいぶんと、贔屓(ひいき)にしてくだすったもんねえ」弱々しく微笑みながら言った次の瞬間、つたの両眼から堰を切ったように涙があふれ出した。「でも、もう終わり。あの人がいなくなったから、この見世も、何もかも、おしまいですよ」

 彼女は溺れる者のように手を伸ばして鉄次の腕を掴み、身を震わせながら泣き崩れた。

「畜生、あいつら……あんなやつらに――」

 指に力が入り、硬い爪が袖を通して皮膚に食い込む。

「あたしらは真っ当な商売をしてたのに、なんだってあんな連中にぶち壊されなきゃならないんだい。くそ、あいつら、客だからって大きな顔しやがって」

「太兵衛は誰に()られたんだ」

 つたは鉄次を睨みつけるように見て、食いしばった歯のあいだから憎々しげに言った。

「さむらい」

「どこの家中だ」

「さあ」彼女はため息をつき、ようやく鉄次の腕を放した。「四人連れで、全員二本差しでした」

「なんで、そいつらと喧嘩になった」

「二階の座敷で飲んでるうちに、酔っ払って気が大きくなったのか、お酒を運んでいったあたしに手を出そうとしたんです。三人がかりで押さえつけられて、ひとりにのしかかられた。そのあたしの叫び声を聞きつけて、あの人が上へあがってきて……」

「相討ちだったと聞いた。太兵衛は二本差しと、どう戦ったんだ」

 つたはふいに目を大きく見開いて、口元に凄絶な笑みを浮かべた。

「柳刃庖丁」内緒話をするように囁き、白い歯をちらりと覗かせる。「最初に刀を抜いて斬りかかってきた男の腹を、それでぐさっとね。でも、うしろから別のやつに背中(せな)を斬られちまった。卑怯な連中ですよ、よってたかって……。それでもあの人、倒れ込みながら喉を刺して、もうひとり道連れにしたんです。そして最後に、初めにあたしに跨がろうとした男の胸ぐらを掴んで、左目を縦に切り裂きました」

「たいした男だ」

「そうでしょう。そうなんです。あの人ほんとに、たいした男だった」

 目を輝かせて得々と言ったあと、つたは急に生気を失って、しおれた花のように深くうなだれた。

「なのに、あたし……」うつむいた顔から大粒の涙がこぼれ、畳の上にぽたぽたと滴り落ちる。「馬鹿だった。声なんか上げるんじゃなかった。袖でも噛んで、目ぇつぶって、あいつらの好きにさせてたら……そうしたら――あの人、今もここにいたのに」

「命がけで、恋女房を守りきったんだ。太兵衛は悔やんじゃいねえさ。だからおまえも、そんな風に自分を責めるのはよしな」

 滂沱(ぼうだ)の涙を頬に流しながら、つたは濡れた目で虚空を見つめた。

「ねえ鉄次さん、あたし、あの人と一緒に、ただ生きてられればそれでよかった。大それた望みなんて、何も持ったりしなかったんですよ。なのに、なんでこんな目に遭うんだろう」

 胸を掻きむしられるような嗚咽が続くあいだ、鉄次はただ黙って座っていた。たまらなく哀れだ。だが羨ましくもある。思わぬ幕切れを迎えた太兵衛との日々の記憶は、今後も折にふれて蘇るたびに嘆きと苦しみをもたらすだろうが、同時に彼女が生きていくための拠り所にもなるはずだ。

 やがて力尽きたようにつたが泣きやむと、鉄次は静かに問いかけた。

「この見世、どうするんだい」

 つたは涙の痕をまた手の甲で拭い、洟を二、三度すすってから、途方に暮れたような声で答えた。

「どうしようもないですよ」

「借金が残ってるのか」

 こくりとうなずく。「半分」

「払うあては」

「ありませんね」深々とため息をついて、つたは虚ろな眼差しを板場のほうへ投げた。「あの人がいれば、あと三、四年で全部払えただろうけど……あたしひとりじゃ無理。借金ごと売るしかない」

「そのあと、おまえはどうする」

「さあね」本気でどうでもいいと思っているような、ひどく投げやりな口調だ。「どこかへ流れてって、適当に生きていきますさ」

 鉄次は静まりかえった見世の中を見回した。こぢんまりとして、主人の太兵衛自身のように飾り気がない。ここの売りは、誰もがこぞって派手さを競う龍康殿(りゅうこうでん)にあって、どこか異質なその質実さだった。

 太兵衛がいなくなり、つたも去ってしまえば、ほかと大して変わり映えのない見世になってしまうだろう。

「女将」鉄次は心を決め、ゆっくりと慎重に言った。「おれが残りを払おう」

 つたは一瞬、冗談だと思ったようだった。しかし鉄次の表情を見て、頬に浮かびかけた微笑を引っ込める。

「つまり、見世を買い上げるってことですか?」

「買い上げるんじゃない。出すのは残りの借金分だけだ」

「何のために、そんなことするんです」

「おまえにここで、見世を続けさせたいからさ」

 ふいに、つたの顔がどす黒く陰った。(まなじり)に力がこもり、目が鋭くつり上がる。

「あたしを囲おうってのかい」吐き出すように言った声は、冷たい殺気を帯びていた。「寝床から亭主のぬくもりも消えないうちに、ほかの男になびくと思ってるなら、とんだお門違いだよ」

「おい、落ち着け」

「ちょいといい男だからって、自惚れるのも大概にしな」

 鼻息も荒く啖呵を切って、彼女は昂然と頭を上げた。つかの間、悲しみを忘れてしまったようだ。鉄次は苦笑し、今にも掴みかかりそうな勢いのつたを、片手を上げて押し留めた。

「誤解させたようだが、これは商売の話だ。この見世が、今のままの有り様で残ってくれたほうが、おれにとっては都合がいいんだよ」

 つたが体から少し力を抜き、疑わしげに眉をひそめる。

「ほんとうに?」

「ああ。だいたい、これまでおれが見世に来て、一度でもおまえに色目を使ったことがあったか?」

 その問いで、彼女の目から懐疑的な色がすっと消えた。

「あら、そういや、そうですね」

「なにが〝あら〟だ」

「だって、あんまり太っ腹なこと言うから……。でも考えてみたら、あたしみたいな年増を金出してまで囲わなくたって、あんたならもっと若くてきれいな()()()見取(みど)りだわね」

 ばつが悪そうに笑いながら座り直し、ほつれ髪をさっとなでつける。

「ごめんなさい」

「おれはそんなに、いい男かい」

 言葉尻をとらえてからかうと、彼女はすまし顔でうなずいた。

「あたしの亭主にはかなわないけど、そこそこですよ」

「おまえもいい女だぜ。だが、ややこしい仲になる気はない。商売で手を組みたいだけだ。と言っても、おれは見世の切り盛りに口を出すつもりはないから、おまえの裁量で今まで通りにやってくれ」

「ありがたいけど、話がうますぎてちょっと不安ですよ」つたは率直に言って、鉄次の目を覗き込んだ。「何か条件は?」

「ふたつある。来た時にいつも使ってた二階のあの部屋、今後はおれ用に空けといてくれ」

 つたが小さく喘ぎ、心を静めようとするように胸に手を当てる。

「畳を新しくして、壁も塗り替えないとね――血だらけだから。あの人、あの部屋で死んだんです。(げん)が悪いから、きっとほかの客は誰も使いたがらないわ」

「なら、ちょうどいい」

「もうひとつは」

「おれが選んだ酒を出すことだ」

「それだけ?」女将は拍子抜けしたように言い、緊張が一気に解けたように、ふーっと長く息を吐いた。「お安いご用ですよ、そんなの」

「じゃあ、決まりでいいか」

 鉄次が念を押した、ちょうどその時、引き戸を開けて千太郎(せんたろう)が入ってきた。戸口の(かまち)に届くほど背が高く、頭髪をきれいに剃り上げた彼を、つたが驚いたように見つめる。千太郎は無表情のまま、彼女にぺこりと頭を下げた。

「よう、足運ばせて悪かったな」

 声をかけて立ち上がり、鉄次は彼の傍に行った。佐吉がきちんと指示を伝えたらしく、抱えた包みからは新鮮な魚のにおいがしている。

「板場を借りるぜ」つたに断りを入れ、彼女がうなずくのを待って、鉄次は再び千太郎を見た。「あの女将の口に合うよう、ひと品作ってくれ」

 彼を板場へやって小上がりに戻ると、つたが困惑顔で迎えた。

「だ、誰? あの人」

「名前は千太郎。(おし)だが耳は聞こえる。ずいぶん前に、見世へ連れてきたことがあるぜ。あいつも、太兵衛の味に惚れてたひとりだ。今は〈桐花〉の板場で、三番手を務めてる」

 つたは目を(みは)り、さっそく料理に取りかかっている彼の、引き締まった横顔をまじまじと見つめた。

「あんなに若いのに三番手?」

「十九歳だ。技を覚えさせるために、四年前に〈桐花〉へ送り込んだ。料理に関してはまさしく天才肌で、一度でも食ったことがあるものは、その味を完璧に再現できる」

「それ、食べたものを全部覚えてるってこと?」

「そうだ。喋れないあいつの舌は、味わうためだけについてるのさ」

 鉄次は微笑み、真剣な面持ちで俎板(まないた)に向かっている千太郎を見た。

 つたにまだ言っていないことがある。千太郎は、元はこの界隈で物乞いをしていた孤児(みなしご)のひとりだった。川筋に店を構える舟宿や飯屋を順繰りに訪ね歩き、残り物をめぐんでもらって暮らしていたのだ。たらふくは食えないものの、それなりに質の高いものを彼は日々口にしていた。

 実はこの〈辰田屋〉を鉄次に教えたのは、当時十四歳だった千太郎だ。ほかの舟宿へ入ろうとしていた時に、戸口めぐりをしていた彼とたまたま目が合ったので、たわむれに「このあたりで、いちばん旨いのはどの見世だい」と訊いてみた。その際に千太郎が指差してみせたのが、筋向かいにあった〈辰田屋〉だ。

 それからもふたりはたびたび川沿いで顔を合わせたが、少年が数ある見世の味を知りつくしており、また並はずれた舌を持っていることを鉄次が悟るまでに、そう時間はかからなかった。

「手際がいいわ」板場の様子を熱心に観察しながら、つたが呟く。「無駄な動きをしない」

「〈桐花〉でずいぶん、鍛えられてるからな。今はもう味だけじゃなく、技巧や盛りつけにも精通してる」

 ややあって、千太郎が板場から出てきた。手に持った盆の上の角皿に盛られているのは、小ぶりのマコガレイの煮付けだ。素揚げして一緒に煮た茄子を添え、爽やかな香りを放つ木の芽を散らしてある。

 盆を受け取ったつたは、黙ってしばらく皿の中身に見入った。その表情は、痛いほどに張り詰めている。

 やがて箸を取った彼女は、そっと崩した魚の身を、ためらいがちに口へ運んだ。何度もゆっくり噛んで味わい、余韻を楽しむように目を閉じて呑み込む。その睫毛の(きわ)から、涙がひと筋流れて落ちた。

「あの人の味だわ」囁いた声が震えている。「信じられない、生姜の利かせかたまで、そっくりですよ」

 それからつたは、もう一度魚に箸をつけ、さらに茄子を小さく切り取って口に入れた。

「そう。そうよ。あの人も淡泊な白身を煮付ける時、よく茄子や里芋を一緒に入れてた。そうすると味に深みが出るって」

「気に入ったなら、平らげちまいな。太兵衛が死んでから、ずっと食ってないんだろう」

 鉄次が促すと、彼女はそれきり物も言わずに無心で食べ続け、骨だけ残して瞬く間に皿を空っぽにしてしまった。土間に立って、その様子をじっと見守っていた千太郎が、固く引き結んだ厳しい口元に、ほんのり満足の笑みを浮かべる。

 食べ終えたつたは、夢から覚めたような顔をして彼を見た。

「あんた、たいした料理人だねえ」

 千太郎は小さく会釈し、盆を引き取って再び板場へ入った。すぐに、使ったものの後片付けを始める。その音を聞きながら、鉄次はつたに問いかけた。

「あいつに板場を任せる気があるかい」

 彼女はぎょっとしたように鉄次を見て、眉尻を高く吊り上げた。

「冗談でしょう。〈桐花〉みたいに格の高い見世で三番手を張ってる人が、まさかこんな小さいとこで……」

 鉄次は畳に片手を突いて首を伸ばし、板場に声をかけた。

「ちょいと手を止めて、こっち来な」

 すぐに出てきた千太郎を手招きし、近くに寄らせる。

「おまえ、この見世で働くか?」

 一瞬も迷うことなく彼はうなずき、まっすぐな視線を女将に向けた。あなたが決めてくれ、とその顔が言っている。

 つたは息を呑んだまま絶句していたが、やがて、降参したというように肩をすくめた。

「うちの人の流儀だと、この料理に入れる茄子の飾り切りは、鹿()の子じゃなくて末広だった」穏やかに言い、千太郎を見上げてにっこり笑う。「これから、いろいろと教えていくよ」

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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