三十三 御守国御山・街風一眞 目撃者
剣先が落ちてきている。それに気づいた一眞は、腕に力を入れて打刀の先端を持ち上げた。一日分の当番や調練を終えたあとの自主稽古であり、しかもすでに半刻以上も打ち合っているとあって、疲れ切った筋肉が無理な要求に悲鳴を上げる。
「腕が下がってるぞ」
伊之介が練兵場の壁に声を響かせ、打ちかかってきた。鐔で受けて右へしのぐと、そのまま流れるように側面へ回り込み、続けざまに獰猛な突きを繰り出してくる。一眞はひゅっと息を吐いて脇腹を引き、間一髪で剣先をかわして地面に転がった。一回転して立ち上がり、再び正眼に構える。
「回り込みがうまくなったな」
荒い息のあいだから言うと、二間向こうで伊之介がにやりと笑った。
「おまえの真似だ」
そう言われると、本家の格を見せつけないわけにはいかない。一眞は歩幅を大きく取って真っ向から打ちかかり、伊之介が合わせようとした隙を突いて左側面へ沈んだ。膝を柔らかく使って横に小さく二歩踏み、切っ先を落としながら相手のふくらはぎを軽く打つ。
「あーっ、くそ!」
伊之介がわめいて、力任せに刀を振り回した。再び転がってそれをかわし、距離を取って立ち上がる。その時にはもう、向こうは構えを解いていた。
「また腱を斬られた」悔しそうに呻く。
今度は、一眞が笑う番だった。
「おまえは、いつも踝が無防備だ」
「そんな低いところ、普通のやつは狙ってこないぜ」
「戦場で足をやられたら終わりだぞ」
「だな」
素直に同意し、伊之介は練兵場の端に歩いて行った。置いてあった竹の水筒を取り上げ、ごくごくと喉を鳴らしながら水を飲む。
「そろそろ仕舞うか」
一眞はそう言って、打刀を壁の刀架に戻した。練習用に刃引きされているので、実際に斬ることはできないが、木太刀を使うよりはずっと実戦に近い感覚で戦える。ふたり稽古を始めた当初は木太刀で打ち合っていたが、双方暗黙のうちに、いつしかこちらの刀を使うようになった。
「腕がだるい」空手になったあとも、一眞の両腕は熱を帯びていて、ひどく重かった。「なかなか筋力がつかないな」
伊之介が近寄って手を伸ばし、無造作に二の腕を掴む。
「でも前より、筋に厚みが出てきたぞ。打ち込みも強くなってるしな」
「そうか」
「肩の調子はどうだ」
訊かれて、一眞は左肩をゆっくり回した。脱臼から十日経ち、日常生活にはもうほとんど支障がなくなっている。だが意識して動かすと、まだ腕を上げる角度によっては痛むことがわかった。
「もうちょっとだな。それに、こっちの腕で崖からぶら下がったら、また脱けそうな気がする」
伊之介がけらけらと笑う。
「じゃあ、ぶら下がるのはやめとけ」
「ああ」
一眞は彼から水筒を受け取り、顔を仰向けて、残っている中身を口に注ぎ込んだ。激しい稽古で渇ききった喉を、汲み上げた時の冷たさをほぼ保ったままの水が心地よく滑り落ちていく。
「水、まだあるか」
飲み足りない顔で訊く伊之介に、逆さにした水筒を振って見せる。
「奥の井戸に寄ればいい」
そう提案すると、彼はちょっと考えてからうなずいた。
「ついでにここで水を浴びていくか。行水場は、今時分は混雑してるだろうし」
「それもそうだな」
ふたりは主洞の大広間に灯していた明かりを消して回り、松明を一本だけ携えて横穴に入った。狭い道を一列で進み、奥の水場へ向かう。
井戸に着くと、一眞は脇壁の突き出し燭台に松明を差し、手早く万事衣を脱いで下帯ひとつになった。隣で同じく裸体をさらした伊之介が、寒そうに腕をこすっている。
一眞は井戸に近づき、釣瓶桶を中に落とした。縄をたぐって水を汲み上げ、伊之介のほうを振り向く。
「かけてやろうか」
「頼む」
中腰になった頭の上から水をかけると、伊之介は彼らしくもなく、ひぃーっと悲鳴を上げてどたどた足踏みした。
「なんだ、だらしないな」思わず、笑みがもれる。
「おれは南部育ちだから、寒いのや冷たいのは苦手なんだ」水を滴らせながらじろりと睨み、彼は一眞の手から桶をひったくった。「ようし、おまえもやってやる」
新しく汲み上げた水を、同じように頭から浴びせられたが、一眞は表情ひとつ変えなかった。伊之介が不満そうに眉をしかめる。
「平気なのかよ」
「まあな」
「ちっ、かわいげのないやつだぜ」
もう一杯ずつ水をかぶってから、ふたりは乾いた手拭いでざっと体を拭いた。
「さっき、南部育ちと言ったが――」万事衣に袖を通しながら、一眞はふと思い立って訊いた。「どこの出なんだ?」
「立身国。河川が多くて季候のいい、西峽一の米どころだ」
「守笹貫家の所領だな」
伊之介がいたずらっぽく眉を上げ、ふふんと笑う。
「今は違う。この春に、黒葛家が分捕ったのを知らないのか?」
「戦があった話は聞いていないが」
「なんでも、戦はなかったらしい。黒葛家が攻めて来たって聞いただけで、国主代が逃げ出したそうだ」
「冗談だろう」
「いや、本当さ。ま、おれは驚かんね。守恒公はここ何年か、七草の本城に住んですらいなかったしな」
「国主代が本城を守らず、何をしてたんだ」
「茶湯、俳諧、立花、鷹狩り。武将というより趣味人なのさ」濡れた髪の毛をまとめて絞りながら、皮肉っぽく言う。「乱舞にも凝ってて、田舎の別邸に立派な舞台を設えていたそうだ」
一眞はあきれて、目をぐるりと回した。
「それじゃあ、分捕られても仕方ない。守笹貫家は奪い返さないんだろうか」
「どうだかな。期待はしてるんだが」
ふたりは洞窟を出て、宿堂へ戻るカラマツの林道をゆっくり歩いた。今夜は晴れているが、最近雨続きなので、辺りの空気には濡れた松葉の香りが立ちこめている。
通い慣れた道なので、明かりは持ち出さなかった。宿堂と練兵場の行き来なら、目をつぶっていてもできる。
一眞は歩を進めながら、横を歩く伊之介をちらりと見た。
「期待って、どういう意味だ」
先ほどから気になっていたことを訊くと、彼は謎めかした笑みを浮かべてみせた。
「戦だよ、一眞。守笹貫家が所領を奪い返そうとしたら、黒葛家とのあいだで戦になる。おれはそれを期待してるんだ」
おかしなことを言う。昇山した者に、下界の戦がどうかかわるというのか。
怪訝な表情の一眞を見て、伊之介は足を止めた。
「もし戦になったら、おれは降山する」
一眞は自分も立ち止まり、梢の上にちらりと覗く淡い月明かりを頼りに、伊之介の表情をじっと窺った。本気で言っているのだろうか。
「おまえの家は知行取りだったな」前に聞いた話を思い出しながら言う。「親兄弟と一緒に参戦するためか」
「いや、家は関係ない。昇山した時点で、縁を切ったも同然だからな。おれはただ、軍働きがしたいんだ。敵を斬りまくって、兜首を取って、一旗揚げたいんだよ」
再びぶらぶら歩き出しながら、伊之介は両腕を上げて伸びをした。大柄だが柔軟で俊敏な体が、若竹のようにぐんとしなる。
「御山はもう長いこと戦をしていない。最後に天山とやり合ったのは、百年以上も前のことだ」彼はそう言って、深々とため息をついた。「現祭主の白藤さまは調和と慈愛を重んじられるおかただから、神権政治の復活を目指して天山に戦いを挑む――なんてことは絶対になさらないだろう。天山のほうも、ここ三代の大皇は穏健派だし、当分は御山に手を出してきたりしそうにない。それはつまり、修行を終えて衛士になったとしても、御山にいたんじゃ戦う機会なんていつまで経ってもめぐってきやしないってことだ」
一眞は黙って伊之介の話に耳を傾けた。これは修行者たちのあいだで、しばしば議論されることでもある。
厳しい修行を終えて祭職に就いたあとも、衛士は訓練を重ねて日々を過ごす。御山を脅威から守るため、想定し得るあらゆる危機に対応できるよう、弛まず腕を磨き続けるのだ。だが、そうして練り上げた力と技を、実際に使う時は果たして訪れるのか。
「だからおれは今、下界で戦が起きるのを待ってるのさ。別にどの家同士の争いでもいい。でかい戦でさえあれば、何でもいいんだ。すぐさま降山して、おもしろい戦いをしそうなほうについて、思いきり暴れまくってやる」
伊之介は不敵に笑い、右の拳を左の手のひらに打ちつけた。ぱしっと小気味いい音が鳴り、残響がカラマツの高い梢に吸い込まれていく。
「郷里にいる幼馴染みが、下界の動きを手紙で逐一知らせてくれるんだ。黒葛家が力を持ちすぎて、南部は今、完全に均衡を失ってる。戦ってのは、こういう時に起こるもんだぜ」
「そうかもな」
林道の先に宿堂の板壁が見えてきた。そちらへ意識を向けた一眞の背中に、伊之介が低い声で問いかける。
「おまえは?」
振り向いた一眞を、彼は目を輝かせて見つめた。
「実戦型だよ、おまえも。そうだろう? その腕を、戦場で試してみたくないのか」
一眞はすぐには答えなかった。少し考え、慎重に言葉を選ぶ。
「一緒に降山しろって誘ってるのか?」
「そんなとこだ」伊之介はあっさりとうなずいた。「おまえは強くて、訓練と警備だけやらせとくのはもったいないからな。堂長なんかもそうだけど、あの人は敬虔な信徒だから、何があろうと御山から離れたりはしない。でもおまえは実のところ、たいして信仰心はないだろう?」
その通りだ、と一眞は腹の中で思ったが、言葉にはしなかった。何も言わず、ただ曖昧な表情を浮かべるに留める。伊之介は探るような目つきをしたものの、それ以上しつこく訊いてはこなかった。
「まあいい。でもさっきの話、考えておけよ」
一眞の鼻先に人差し指を突きつけて言い、さっさと追い越して宿堂の階段に片足をかける。そこで彼は、ふと動きを止めた。
「いったいどうやったら、この場所で腕を折ったりできるんだ?」
ほんの五段しかない短い階段を見ながら、不思議そうに呟く。彼が話しているのは、今朝方ここから落ちて右腕を折った修行者のことだった。
「こんな段差じゃ、たとえ頭から転げたって、擦り傷を作るのがせいぜいだろうに」
「富太郎か」一眞は階段を上がりながら言った。「厠へ行こうとして、寝ぼけて落ちたとか聞いたな。きっと、たまたま腕が体の下敷きになったんだろう」
「とんだ間抜けだ。いや、運が悪いのか」
伊之介は三段目に立ち、先に宿堂の入り口まで上がった一眞を見上げた。
「近ごろ、庄造の取り巻きは不運続きだな。三日前には文吉が修繕当番をやってて、斧で自分の臑をざっくりやった。あれは治るまでにかなり時間がかかるだろう。そして今朝は富太郎だ」
軽い口調だが、こちらに向ける視線は意味深だ。
「いつも庄造にくっついてる三人のうち、ふたりを立て続けに不運が狙い撃ちするとは、おかしなこともあるもんだよなあ」
一眞は肩をすくめて見せた。
「日ごろの行いが悪いせいだろう」
まばたき二回分の間を置いて、伊之介が弾けるように笑い出した。その明るく大きな声が、宿堂の軒先に響き渡る。
「おまえの言う通りだ」彼は足取りも軽く階段を上がってきて、一眞の肩をぽんと叩いた。「普段、でかい面してのさばってる連中がどんな目に遭おうと、行堂の大半は気にもしないしな」
翌日、朝四つの調練は、因縁の砲術訓練だった。といっても、今回の指南役は饗庭左近ではない。
利達は相変わらず、さも自信なさげにこわごわと鉄砲を扱っている。左近との一件以来、前にも増して銃を恐れるようになったようだ。
一眞は練兵場の端で弾込めをしながら、視界の隅に庄造の姿を捉えていた。例の深夜の訪問のあと、彼はそれなりに言動を控えておとなしくしていたが、最近はまた尊大な態度を見せるようになっている。新参に絡んだり、人を威圧したりすることも増えてきた。
ただし、一眞のことは常に警戒しているようだ。慎重に距離を取り、自分の周りをいつも取り巻きで固めている。
だがその取り巻きのうち、ふたりが離脱したとあって、今日の彼はどことなく落ち着きをなくしているように見えた。負傷した文吉と富太郎は、八ノ上弦道にある御山の薬療院に入っており、しばらくは戻ってこられないだろう。
今、庄造の傍にいるのは、入堂三百七十日を超えて修了間際の祐宗だけだ。そして彼はひと月後には衛士の仲間入りをして、行堂からいなくなる。
鉄砲と火縄を携えて、一眞は庄造たちがいるほうへゆっくり歩いて行った。庄造は今、射座の最前列にいて、指南役の号令を待っている。祐宗はそのうしろで、これから撃たれる的人形を見ていた。
指南役が「構え」の号令を飛ばす。庄造が鉄砲を構えたところで、一眞は祐宗のうしろに並び、首を伸ばして背後から囁きかけた。
「どけ」
なんだ、というように振り返った祐宗が、一眞を見て凍りつく。表情はさほど変わらないが、凝然と見開いた目に怯えがにじんでいた。いま彼の頭の中には、不可解な事故に遭った文吉と富太郎の顔がちらついているに違いない。
庄造の背中にちらりと目をやり、ためらう様子を見せはしたものの、結局祐宗は我が身を優先することにした。修了を目前にしながら、無駄に痛い目を見るのはごめんだと考えたようだ。
彼が黙って列から抜けると、一眞は一歩進んで庄造のすぐうしろに立った。射撃体勢に入っている彼を、髪のにおいも嗅ぎ取れそうな至近からじっと見守る。
号令に従って庄造が鉄砲を放ち、的人形の胸に命中させた。勝ち誇った雄叫びを一声上げ、自信満々にこちらを振り向く。
「おい見たか、的の――」
彼の目の前にあったのは仲間の顔ではなく、あの屈辱的な夜に深く脳裏に刻み込まれた、一眞の禍々しい笑顔だった。不意打ちを食らった庄造が、ひっと息を呑んですくみ上がる。
「うまいじゃないか、庄造」
賞賛の言葉をかけて彼の目を見つめ、一眞は笑みをさらに広げた。
「おれも撃つから、ちょっと見ててくれよ。いや、そっちじゃない、この横でだ」
射座の外に出ようとした庄造を引き止め、自分の右側に立たせる。そのまま彼のほうを見ながら、鉄砲を持ち上げた。
「立射は手元がぶれやすいよな」気さくに話しかけ、筒先をわずかに揺らす。庄造の目が、銃口に釘付けになるのがわかった。「ちょっと気を抜くと、思いがけないほうへ弾が逸れる」
庄造がごくりと唾を呑み、じりじりと後ずさる。銃身を大きく右へ振ると、その動きがぴたりと止まった。
「じっとしてろよ。撃ってる傍で動くと危ないぞ」
警告するように言い、一眞は鉄砲を構えた。銃床に頬を当てて、火蓋を切る。だが、目は相変わらず庄造に向けたままだ。
「頼む」庄造がかすれ声で言った。髪の生え際から汗がひとすじ流れ、太い眉毛の中に流れ込む。「た、頼む……」
何を頼むのか、彼は言わなかった。言うべき言葉が見つからないのかもしれない。
指南役の「放て」に合わせて引き金を引く間際、一眞は彼に向かってにたりと笑いかけた。続いて轟いた銃声に、神経をぷつりと断ち切られたかのように、庄造が頭を抱えてしゃがみ込む。
的を見ていなかったにもかかわらず、体の感覚だけで撃った一眞の弾は、人形の頭のほぼ中心を撃ち抜いていた。反復練習のたまものだ。的中を確認して銃を下ろし、次の者に場所を譲ってから、彼は庄造の上に屈み込んだ。
「どうした、具合でも悪いのか」
優しく声をかけ、腕を体に回して立ち上がらせる。
「あっちで休むといい。さあ、連れてってやるから」
小刻みに震えている彼を抱えるようにして、練兵場の脇の人目につかない場所へいざなう。そうやって体を密着させていると、鼻先につんと漂ってくるにおいがあった。
こいつ、ちびりやがったな。
嫌悪の情にかられ、口元がわずかに歪む。だが一眞はすぐに表情を消し、庄造の腕をそっと引いて壁に寄りかからせた。自分もそのすぐ横にもたれかかり、うつむいている顔を斜めに覗き込む。
「何を怖がってるんだ。おれがおまえを撃つとでも思ったのか?」
やんわり訊くと、庄造の額を大量の汗がだらだらと流れ始めた。遠目にもわかりそうなほど、五体ががたがたと震えている。
「馬鹿だな、庄造」一眞は彼の耳に口を寄せ、低く囁いた。「撃ったりするもんか。おまえにはいろいろ、訊きたいことがあるんだ」
庄造が顔を上げ、目を合わせるのを嫌うかのように視線をうろうろさせる。
「き、訊きたい、こと……?」
弱々しく問い返す彼に、一眞はまたあの笑顔を見せた。
「ある男について、知ってることを教えてもらいたいだけだ。正直に話してくれれば、当分おまえには近づかない」
堂長千手景英の調練は、毎日午前と午後に各一回。明け六つに始まる第一回は、およそ一刻続いて五つごろに終わる。しかし料理を受け持つ三番当番の者だけは、朝食の支度をするため、六つ半に抜けて食堂へ行くことになっていた。
「当番の者はここまで」
剣戟を貫いて景英が声を飛ばし、数人の修行者が練兵場から出て行った時、一眞は利達と打ち合っている最中だった。といっても、いつも通り、ほとんど打ち合いにはなっていない。彼は相変わらず防戦一方で、その防御すらもまともにできていない状態だった。
「下がるな。打ってこい」
一眞がお決まりの発破をかけ、上段から猛烈に打ち込む。利達は顔の前に上げた木太刀をふらふらと揺らしながら、足をもつれさせて後方へ逃げた。普段なら、ここで一度手を止める。だが今日の一眞は容赦しなかった。続けざまに打ち込んで、壁際まで追い詰めていく。
背後がどうなっているか把握しないまま下がるのは、利達のいつもの悪いくせだ。彼は背中が壁に触れて初めて、もう逃げ場がないことを悟った。びっくりしたように目を見開く彼に向けて、一眞が剣先を鋭く突き込む。
木太刀の鈍い刃が利達の左肩をかすめ、衣と一緒に皮膚を浅く裂いた。剣と同じようにはいかないが、硬質な木材で作られているので、角度と勢いさえ意識して振るえばこの程度の芸当はできる。
利達が息を呑み、痛みというよりは驚きに顔をこわばらせた。一眞と打ち合っていて、実際に当てられたのはこれが初めてだったからだ。
「すまん」
一眞はすぐに謝り、駆け寄って傷の具合を診た。深手ではないが、表層が大きく裂けているので出血は多い。
「宿堂へ戻って、血止めをしてこい」うしろから景英が言った。「一眞、一緒に行け」
ふたりは洞窟を出て、足早に宿堂へ向かった。利達はまだ衝撃から立ち直れておらず、少し顔を青ざめさせている。
「悪かったな。痛むか」
気づかう一眞に、彼は無理に笑みを浮かべて見せた。
「平気だよ。ごめん、おれ、怪我に慣れてないから大げさなんだ」傷を押さえている手をちょっと開き、血に染まった指を見て、さっと視線を逸らす。「おまけに、血も苦手でさ」
吐きそうな顔で告白するのを聞き、一眞は苦笑をもらした。
「血まみれで倒れてるおれを見つけた時、よく卒倒しなかったな」
「あれは仰天しすぎて、それどころじゃ……」
言葉を宙ぶらりんにしたまま、利達が急に口を閉じた。足が止まり、その場に根が生えたように動かなくなる。一眞は自分も立ち止まって、彼が凝視している方向へ目をやった。
林道の向こうに宿堂の階段が少し見えている。そこを饗庭左近が、周囲に視線を走らせながら、こそこそと上っていった。衛士は普通、修行者の宿所である宿堂には出入りしない。利達が訝しげな顔をするのも、無理はなかった。
「し、指南役が、ど、どうして」
どもりながら言い、はっと呼吸を止める。彼は一眞のほうを見て、わなわなと唇を震わせた。
「ま、ま、まさか、おれ、おれを……」
「馬鹿、違うだろう」一眞は静かに言い、安堵させるように彼の背を軽く叩いた。「落ち着けよ。おまえとは関係ないさ」
「じゃあなんで、しゅ、宿堂に」
「さあな。ともかく、行ってみよう」
気が進まない様子の利達を促し、一眞は林道を抜けて宿堂へ入って行った。修行者が出払っている時間帯なので、堂舎に人の動きはなく、しんと静まりかえっている。
だが廊下を少し進むと、奇妙な物音が聞こえてきた。木がこすれ合うような音で、修行者が使う簡素な木製の寝台が、寝返りを打った時に立てる軋みにそっくりだ。その中に押し殺した呻きや、荒い息づかいが混じっている。
察しのいい者ならこれでぴんとくるはずだが、利達にはわかっていないようだった。一眞の顔を見て小首を傾げ、音のするほうへさらに近寄っていく。
堂舎の奥まった部屋に辿り着いた彼は、戸板に耳を当ててしばらく聴いたあと、そろそろと引き開けた。
室内に四つある寝台のひとつで、ひと組の男女が絡み合っている。上になっているのは饗庭左近だ。彼は筒袴を膝のあたりまで下ろし、筋肉質な尻をこちらに晒していた。下に組み敷かれ、胸元をはだけて喘いでいる女は、先ほど当番に行ったはずの菊だ。
ふたりは行為に没入するあまり、見物人がいることにまったく気づいていなかった。そのまま静かに戸を閉めてしまえば、何もないままで終わっただろう。だが利達はいきなり唸り声を上げ、大きな音を立てて引き戸をいっぱいに押し開けた。
左近がびくりと身をすくませて、こちらを振り返る。利達の姿を見ると、その目に怒気が燃え上がった。
「なんだ、貴様、こんなところで何をしている」
気弱な若者を威圧しようと、いつもの怒鳴り声を張り上げる。しかし利達は引き下がらなかった。
「あなたこそ何をしているんだ」
斬り返すように詰問する彼を、一眞は数歩離れたところから、驚嘆の面持ちで見守っていた。ひょろりと縦に長い軟弱な体が、憤激で大きく膨れ上がっている。利達が、こんな風に怒ることのできる男だとは思っていなかった。
「御山の衛士が、こんな――」食いしばった歯のあいだから、激怒に震える声で言う。「これは破戒だ。誰であろうと、決して許されない」
「許されない、だと」
左近が気を取り直し、だらしなく下がっていた袴を引っ張り上げた。菊のほうは上掛けで鼻まで覆って、必死にそっぽを向いている。彼女のことを完全に無視して、左近は寝台から飛び下りた。
「誰に向かってそんな口を利いているんだ、ええ?」
脅すように言って彼が足を踏み出すと、利達の体が急にしぼんで小さくなった。力の供給元である猛烈な怒りが、そろそろ尽きてきたらしい。
一眞はそれと見て、ゆっくり前へ進み出た。ふたり目の存在に気づいていなかった左近が、その姿を視界に捉えて驚き、急に及び腰になる。
「くそ……ふざけやがって、貴様ら何なんだ。さっさと行っちまえ。ここから出ろ!」
顔を真っ赤にしてわめきたてる彼に背を向け、一眞は利達の腕を掴んだ。半ばひきずるようにして、宿堂の出口へ向かう。階段を下りきるころには、先ほどの雄々しさはどこへやら、彼はずぶ濡れになった仔猫のようにぶるぶる震えていた。
「終わりだ」小さく呟き、すがるように一眞の袖を握り締める。「殺される」
「まさか」
一眞は笑いながら、彼を林道に引っ張っていった。
「今後は気をすり減らしながら、おれたちに目を光らすのが関の山さ。余計なことを漏らされたら、あいつのほうこそ終わりだからな」
「おれは堂長に言う」
蒼白な顔の利達が決然と言い、一眞を驚かせた。
「なんだって?」
「彼のしていたことを話す。だって衛士が掟戒を破ったんだ。しかも手を出した相手は修行者だよ」その声に、再び怒りがみなぎっている。「黙って放っておくわけにはいかない」
おもしろいことになった、と一眞は思った。左近の弱みを握るだけのつもりだったが、利達がそのつもりなら、すべてを暴露して御山から追い払うのも悪くはない。
篤信家で生真面目な利達は目撃者にぴったりだと思ったが、彼が自ら進んで告発者になろうとするとは意外だった。
「いつ話すんだ」
穏やかに訊くと、利達はためらいを見せて、小さく首を振った。
「わからない。ちょっと様子を見て――おれの……勇気が出たら」
自信なさげに一眞の表情を窺い、小声で問いかける。
「堂長に話す時、一緒に来てくれるかい?」
「もちろんだ」
一眞は即座に答え、その約束を保証するように力強くうなずいた。
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