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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第三章 それぞれの旅路
33/161

三十二 立身国七草郷・刀祢匡七郎 養子

 道場から戻った匡七郎(きょうしちろう)は、沈みかけの夕日を背に浴びながら、家の門前に佇んでしばし考えた。表から入るのはやめて、裏へ回ろうか。

 その左目の周りには、藍で染めたように色鮮やかな青あざができている。打込稽古をしていた時に、頭に当てた当てないで相手と言い争いになり、取っ組み合いの大喧嘩をしたのだ。当然ながら師範代に大目玉を食らい、すっかり面目をつぶしてしまった。

 道場内での私闘はご法度だ。それはよくわかっている。だが近ごろ匡七郎は、以前にも増して(こら)え性がなくなっていた。家でも外でも、些細なことをきっかけにすぐ喧嘩をしてしまう。それでも、道場ではできるだけ自分を抑えるようにしていたが、今日はついにやってしまった。

 後悔はしているが、構うものかと思う気持ちもある。

 ずきずき傷む頬骨を指でこすり、わらじ履きの爪先で門前の地面を所在なく掘り返しながら、彼は心を決めかねてぐずぐずと迷った。正面から入って行って、家人や奉公人たちに痣の理由を問い(ただ)されるのは嫌だ。だが裏からこそこそ入るのも、なにか負けを認めるようで気が進まない。

 結局、玄関から入ることにした。誰かに何か話しかけられても、無視してさっさと自分の部屋に入ってしまおう。

 だが運悪く、無視できない人に捕まってしまった。昨年、長兄の新九郎(しんくろう)に嫁いできた、義理の姉の(あおい)だ。彼女は今、初めての子供を身ごもっていて、そのせいか十九歳という年齢よりもずっと大人びて見える。最近は物腰にも、何やら貫禄のようなものが備わってきた。そんな彼女を前にすると、匡七郎はいつも何となく気持ちが萎縮してしまう。

「おかえりなさい、匡七郎さん」

 中の間にいた葵は、縁側を歩く義弟を見つけると、すかさず声をかけて足止めした。こうなると、黙って通り過ぎるわけにはいかない。匡七郎は板廊下から、部屋の中へ向かって軽く会釈した。

「ただいま、戻りました」

「お父上がお待ちですよ」彼女はそう言ってから、珊瑚色の唇を少しすぼめた。「あら、怪我をなさったの」

「たいしたことありません」

「腫れていますね。冷やさないと」

 かなり大きくなっている腹を手で支え、立ち上がろうとする。匡七郎は急いで両手を振り回し、彼女を止めた。

「平気です。ほんとうに、なんともありませんから」

「でも……」

「あとでちゃんと冷やします」

 ようやく葵が腰を下ろし、匡七郎は小さく吐息をついた。姉がふたりいるので、女きょうだいには慣れているつもりだったが、よそから嫁入りしてきた人が相手となると、やはり少し勝手が違う。遠慮があるし、少々気恥ずかしくもあった。

「父上は居間ですか」

 意図した以上に、ぶっきらぼうな訊き方になってしまった。罪悪感がちくりと胸を刺す。こうやって、いちいち複雑な気分にさせられるから義姉(あね)は苦手だ。

「ええ、そうだと思いますよ」

 穏やかに答える彼女に、匡七郎はぺこりと頭を下げた。

「ありがとう。行ってみます」

 そのまますぐに踵を返す。目の端に、まだ何か言いたげな葵の顔がちらりと見えたように思ったが、気のせいだと思うことにした。

 彼女が義弟の世話を焼きたがるのは、じきに子供が産まれるので、ひと足早く母親の気分になっているせいに違いない。だが幼いころに母を亡くした匡七郎は、〝母親のような気づかい〟にあまり慣れていなかった。

 無理にかまおうとせず、放っておいてくれるのがいちばんだ。だが、それをはっきり言うほど薄情にはなれない。

 もやもやした気持ちのまま、匡七郎は父の居間へ赴いた。

「父上、お呼びですか」

 部屋に入ると、そこには父の彦士郎(ひこしろう)のほかに、兄新九郎と叔父の刀祢(とね)貞吉郎(さだきちろう)までもが打ち揃っていた。これは予想外だ。この面々に叱責されるような悪さを、最近何かしただろうか。

「なんだ、その顔は」開口一番、あきれ声で訊いたのは(さだ)叔父だ。「でっかい青たんだな」

「ちょっとぶつけたんです」

 適当に誤魔化そうとした匡七郎を、新九郎が鼻で笑った。

「嘘つけ。また誰かと殴り合いをしたんだろう」そうきめつけ、彼は腕組みをして大仰にため息をついた。「どうしておまえは、そう喧嘩っ早いんだ」

 匡七郎はふくれっ面をして、畳に腰を下ろした。

「おれは喧嘩を売りません。いつも相手が売ってくるんです」

「なら、買わねばよいだろう。わざわざ買うのは、おまえ自身が争いたがっているからだ。そもそも、人からたびたび喧嘩を売られるのには、それなりの理由があるはずだぞ」

 長兄は理屈っぽい男で、いつもこんな物言いをする。匡七郎は黙って、父にそっくりな新九郎の角張った顎をじっと見つめた。たまにだが、ぺらぺら喋っている時にあの顎に一発食らわせて黙らせてやりたい、と思うことがある。

 だが、そんなことは決してしないとわかっていた。彼とは年が離れすぎているし、兄弟とは言っても嫡男と末男では立場が違う。場合によっては将来、この兄が自分の(あるじ)になることもあり得るのだ。反感を抱いたとしても、それは胸に仕舞っておくべきだということぐらいはわきまえていた。

「まあ、その件はまたでよい」正面に座る父親が割って入った。「匡七郎、おまえに大事な話がある」

 大事な話? 匡七郎は意表を突かれ、ちょっと身構えた。こうあらたまって切り出されるのが、いい話とはとても思えない。

「今朝方うちへ、石塚(いしづか)靖成(やすなり)どのがみえられた。おまえも、靖成どのを見知っているな」

「はい、たぶん……」匡七郎は曖昧に言った。あの人だろうという人物は思い浮かぶが、確信はない。「前のお殿さま――の時に、父上のご同僚だった、あの丸顔でちょっと小太りの……」

 小太りは余計だ、と言わんばかりに彦士郎が咳払いをする。

「うむ、その人だ。靖成どのの話では、我らの上役であった馳平(はせひら)充明(みつあき)さまが新しい主君に取り立てられ、重職に就かれたらしい。それを機に、これまで様子見をしていた七草(さえくさ)城下の武家が、続々と黒葛(つづら)家に臣従の意を表し始めているそうだ」

「はあ」

「前の国主代であった儲口(まぶぐち)守恒(もりつね)さまは、黒葛軍の侵攻に手向かいもせず逃げたきり、戻ってこられる気配もない。その主家である守笹貫(かみささぬき)家にも、どうやら積極的な立州(りっしゅう)奪還の動きは見られぬようだ。もはやこれ以上待っていても、状況が大きく変わるとは思えぬ」

 七草陥落以降、父はこの土地を去るでもなく、かといって新しい国主に膝を折るでもなく、ずっと傍観者的態度を取っていた。だが、そろそろ心を決めなければならないようだ。

 匡七郎は、その決断を後押しするような助言を求められているのかと思い、急いで口を開いた。

「新しい黒葛のお殿さまは、けっこういいかたみたいですよ。人情味のある人だと聞きました」

 彦士郎が眉を上げ、意外そうな顔をする。

「おまえがなぜ、そんなことを知っているのだ」

「それは、そのう……友人から教えられたんです」

 友人、と口に出すと、妙に落ち着かない気分になった。彼からそう言われた時には天にも昇る心地だったし、今も誇りに思っているが、自分が彼を友人だと言明するのは何かおこがましい気がする。

「それで、おまえの友人が、それを知っている理由は」

 厳しい顔をした父にさらに追及され、匡七郎はちょっと鼻白んだ。

「友人といっても、ずっと年上で――道場の仲間とかじゃありません。その人は、黒葛のお殿さまのご家来とお知り合いなんです」

 この答えは、父を驚かせたようだった。脇に座る兄や叔父も、思いがけないことを聞いたという表情をしている。それで少し溜飲が下がり、匡七郎は余裕の笑みを浮かべた。

「だから、父上が黒葛家に仕えるおつもりなら、おれはいいと思いますよ」

 力づけるように言った言葉を聞いて、貞吉郎がぷっと吹き出す。

「おもしろいやつだ。仕官の是非について、おまえに相談していると思ったのか」

「違うのですか」

 困惑顔の息子に向かって、彦士郎は静かに言った。

「違う。だが、今の話は心に留めておこう。おまえに言いたかったのは、わしと新九郎が靖成どのの計らいにより、これよりのち、再び馳平充明さまの下で働く仕儀になったということだ。それはつまるところ、黒葛家に仕えるということでもある」

 今の世の中、侍が主君を乗り換えるというのは、決して珍しいことではない。もともと刀祢家は、儲口家にとっては外様(とざま)の家臣だった。主家と血縁関係にあることも多い譜代(ふだい)とは違い、外様と主君の結びつきはさほど強固ではない。主君の器量が、己が仕えるに見合うものではないと思えば、外様はいとも簡単に(あるじ)の元を離れるのだ。

 匡七郎は、父が前の主君だった儲口守恒に愛想を尽かし、七草陥落の前年に彼のもとを去った経緯を知っている。だから、再び仕官をする気になったというのは、父にとっても刀祢家にとっても、この上なくいいことのように思えた。

「父上、兄上」きちんと座り直して畳に手をつき、彼はふたりに向かって低頭した。「仕官の儀、相整いましたこと、祝着至極に存じます」

 口上を聞いた貞吉郎が、楽しげな笑い声を上げる。

「腕白小僧が、一端(いっぱし)の挨拶をしおるわい」

 そう言われて照れ笑いをする匡七郎に、彦士郎も少し頬をゆるめて見せた。

「うむ。まあ、時宜に(かな)ったというところだろう。ここしばらく、旗幟(きし)を鮮明にすべき時が来ていることは感じていた。わしと新九郎は明日登城して、黒葛貴昭(たかあき)さまに拝謁する」

 ここで新九郎が口を挟んだ。

「そして来月にも、わたしは北部の武邑(たけむら)(ごう)へ向かう予定だ。阿比留(あびる)川の治水を命じられた、充明さまのお手伝いをするためにな」

 では、兄はしばらくいなくなるのだ。子供が産まれるまでには戻れるのだろうか。そんなことを考えていた匡七郎に、突然父が意外な言葉を告げた。

「それにおまえも同行させようと思う」

「えっ」思わず、素っ頓狂な声を出してしまう。「おれも北部へ行って、治水の仕事のお手伝いをするのですか?」

「いや、おまえには、さらにその先へ行ってもらいたい。ここからが話の本題だ」

 父の顔が再び厳しくなった。なにやら嫌な予感がする。

江蒲(つくも)国に嫁いだ、姉の麻衣(まい)を覚えているか」

「もちろんです」

()してもう五年ほどになるが、残念ながら未だ子が産まれずにいる」

「はい」

「そこで婚家から、おまえを養子に欲しいと申し入れてきた」

 匡七郎はあんぐり口を開け、それからぴしゃりと唇を閉じた。間抜け面をしている場合ではない。嫌な予感が当たってしまった。

「末っ子のおまえには、これまで好きなようにさせてきた。だが家を継げぬ以上は、いずれ何らかの方法で独自に身を立てねばならん」

 彦士郎はまっすぐに息子を見ながら、淡々と話した。

「武家の末男が選べる道は、そう多くはないぞ。他家へ養子に出るか、どこかの婿養子に収まるか。あるいは土地の祭堂に昇山を願い出て、御山の奉職者となるか。自力で仕官の口を探したり、市井で商売を起こしたりする手もあるが、それは容易なことではない。しかし麻衣の嫁ぎ先の十亀(そがめ)家はおまえを引き取り、身代(しんだい)をそっくり継がせようと考えているのだ。願ってもない、よい話だとは思わんか」

 匡七郎はぴったり貼りついてしまった唇を再び引きはがし、二度唾を呑んでから、必死に声を絞り出した。

「でも――でも、十亀家は商家です」

 頭の中にはさまざまな考えが渦巻いているが、口ではそれだけ言うのがやっとだった。そんな彼を横目に見て、新九郎が眉をしかめる。

百武(ひゃくたけ)城下では名の知れた豪商だぞ。こう言ってはなんだが、暮らしぶりは我が家よりもはるかに豪勢だ」

「でも武家じゃない」

 匡七郎は、きっと顔を上げ、目を(いか)らせて兄を睨んだ。

「おれは武士の子だ。商人になんかならない」

 叫ぶように言った彼を、彦士郎が険しい目で見据える。

「匡七郎」

 飛んできた声は鋼のように冷たく硬かった。さしもの匡七郎も威圧され、一瞬うっと言葉に詰まる。だが彼はすぐに気を取り直し、跳ねるようにして立ち上がった。

「絶対に嫌だ」

 精一杯の拒否を叩きつけ、そのまま匡七郎は後も見ずに外へと駆け出した。


 知らないうちに雨が通り過ぎたらしく、夕まぐれの城下町はしっとりと濡れていた。西の空はまだ明るいが、もうじき(とり)刻鐘(こくしょう)が鳴るころなので、道を行く人の数もずいぶん減っている。

 匡七郎は本通りに入って歩き続け、七草城の外堀にかかる木橋の上で立ち止まった。橋の欄干に両肘を置いて頬杖をつき、眼下を流れる水を見下ろす。

 いつもこの橋から餌をやる者でもいるのだろう、掘の中を泳ぐ鯉や鮒が人影を見つけて集まってきた。水面(みなも)に群れて口をぱくぱくさせているのをじっと見ていると、なんだか吐きそうになってくる。

 ぎゅっと目をつぶり、彼は欄干に顔を伏せた。暗闇を凝視しながら、後悔の念と苛立ちのあいだを揺れ動く。

 またしても癇癪を起こしてしまった。あんな話をいきなり聞かせるなんて、父上もあんまりだ。でも、やっぱり腹を立てたりせずに、きちんと自分の気持ちを伝えるべきだった。あそこで兄上が知ったような口を利かなければ、もっと落ち着いて話をできたのに。とはいえ、姉上の嫁入り先を蔑むような言い方をしたのは間違っていた。

 ふと気づくと、隣に叔父の貞吉郎(さだきちろう)が立っていた。彼は欄干に背を預けて、橋を通っていく馬や人をのんびり眺めている。花梨(かりん)の実そっくりの丸い痘痕(あばた)顔には、呑気そうな笑みが浮かんでいた。

「貞叔父……」

 小さく呟いた匡七郎に、貞吉郎がちらりと目をやる。

「おまえは、ほんとうに怒りっぽいやつだのう」

 責めるのではなく、おもしろがっているような口調だったので、匡七郎は少し気をゆるめて、つんと唇を尖らせた。

「だって、急にあんなこと」

「そりゃそうだが、おまえもある程度は心得ていたことだろう。そういう話が出たからといって、なにもああまでかっかすることはない」

「悪かったと思ってます」

 憮然と言った匡七郎を、貞吉郎が肘で軽く小突く。

「おい、正直なところ、なんで嫌なんだ? 親父どのや新九郎(しんくろう)も言った通り、あれはかなりいい話だぞ」

「でも商家ですよ」

「商家、けっこうじゃないか。しかも、そうとう羽振りのいい商家だぞ。そこの跡継ぎに収まってみろ、将来は贅沢のし放題だ」

「贅沢なんか、興味ない」

 これだから子供は、とでも言うように、貞吉郎がやれやれと首を振る。

「まだ金に困ったことがないから、そんなことを言うのだ。大人になって、捨て扶持(ぶち)で二年も暮らしてみろ、金が欲しくて欲しくて夢にまで見るようになる」

 彼は身をよじって、甥のほうを向いた。

「それに、おまえには案外、商人も合うんじゃないかと思うがな。賢いし、目端が利くし、算盤(そろばん)や習字もなかなか達者だそうじゃないか」

 匡七郎はむっつりと黙り込んだ。たしかに、やろうと思えば務まるかもしれない。だが、商人になりたくないのではなく、商人以外になりたいものがあるのだ。それを大人に理解してもらうには、どうすればいいのだろう。

「なあ甥っ子」貞吉郎が優しく言葉をかける。「養子に行くのが嫌だと思う、ほんとうの理由を言ってみろ。わしになら言えるだろう」

 ぱっと顔を上げ、匡七郎は叔父を見た。

 彼は同居こそしていないが、物心ついた時からいつも傍にいた、もっとも近しい親戚だ。怖いところも多少はあるが、父の彦士郎(ひこしろう)よりはくだけた性質なので、ずっと気安くつき合うことができる。

 匡七郎は昔から、家で嫌なことがあると、よく彼の家へ愚痴を吐きに行っていた。剣術を習いたいと思った時に、最初に相談を持ちかけたのも叔父だ。その時、貞吉郎は父に口添えをして承諾を取りつけ、彼自身が通っていた椙野(すぎの)道場をすぐに紹介してくれた。

 言ってみようか。わかってもらえるだろうか。

 しばらく迷ってから、匡七郎は慎重に口を開いた。

七草(さえくさ)を離れるのが、嫌なんです。道場へ通えなくなるから。いま槍術を習っていて、いつか天下無双の槍使いになると約束を――」

 厳密には、約束をしたわけではない。ただ冗談混じりに、励め、と言われただけだ。だが匡七郎の中で、それはすでに決して(たが)えることのできない誓約になっていた。

 叔父が怪訝顔で訊く。「師範と、そんな約束を取り交わしたのか?」

「先生とじゃなくて、別の人と……」

 口ごもる匡七郎に、貞吉郎はいたずらっぽい眼差しを向けた。

「ははあ、誰だかわかったぞ。()ぐ――」

 みなまで言わせず、匡七郎はあわてて叔父の口を塞いだ。爪先立ちをしながら、いっぱいに広げた両手の平をぐいぐい顔に押しつける。貞吉郎はもがき、首を振り、荒っぽく甥を引きはがした。

「おい、よせ。息が詰まるではないか」

「名前を言わないでください。おれも言いません。次に会う時まで、口にしないと決めたんです」

 早口に言った匡七郎を、貞吉郎はぽかんと見つめ、やがて笑い出した。だが甥が真剣そのものの面持ちをしているのを見て、すぐに笑みを消す。

「驚いたな。えらくなついていたのは知っていたが……。近ごろおまえがやたら不機嫌だったり、ふさいだりしていたのは、あの若者がいなくなったからだったのか?」

 ずばり訊かれ、匡七郎は言葉に詰まって顔を伏せた。

 彼が去った時に、自分のどこか一部が欠け落ちたように感じている。その欠落感が、ここしばらくの苛立ちに関係しているのは間違いなかった。だがそれを人に言っても、到底理解してもらえるとは思えない。

「貞叔父には、もうばれちゃったから話すけど」匡七郎は木橋の板目に視線を向けたまま、少し声を落として言った。「七草を出たくないいちばんの理由は、あの人と出会った土地から離れてしまったら、それだけ縁が薄くなるような気がするからです」

「そんなこと、あるもんか。江州(こうしゅう)へ養子に行ったら行ったで、案外向こうでばったり出くわすかもしれん。縁とは、そういうものだ」

「そうかもしれないけど、とにかく、おれはここで先生に槍を習って、あの人と約束した通りの使い手になりたいんです。そしていずれは武芸者として名を挙げて、どこかの軍備(いくさぞなえ)に――」

 そこまで言って、はっと口をつぐむ。考えていたわけではないことまで言ってしまった。それとも、気づいていなかっただけで、ほんとうはそういう思いが胸の内にあったのだろうか。

 貞吉郎は戸惑い顔の甥を見下ろし、呟くように言った。

(そなえ)の兵員になる……たしか彼も、そのようなことを言っていたな。同じ道を行きたいのか。それが、おまえの望みか」

 匡七郎は少し考えてから叔父のほうを向き、口を真一文字に引き結んで、ゆっくりと深くうなずいた。貞吉郎が嘆息しながら手で顔をなで、低い呻き声をもらす。

「いったい、あの御仁はおまえにとってどんな存在なのだ。彼の何に心を奪われ、そこまで思い入れるに至った。人柄か? 強さか?」

「たぶん最初は、強さだったかも。でも、それだけじゃなくて……」必死に考えをめぐらせ、気持ちを言い表せる言葉を探す。「あの人と一緒なら、おれはどんなことだって、できそうな気がするんです」

 そう言った途端、これまで漠然としていたことが急にはっきりした形を取り、すとんと腑に落ちた。

 彼とふたりでなら、どんなに怖いことや難しいことにも挑めるし、困難さを楽しむことすらできる。それはすでに、あの浮浪人退治の一件で実証されていた。

 また、あんな経験をしたい。彼のすることを手伝いたい。彼が戦うなら、次は傍らで共に戦いたい。いつかその機会が訪れた時のために、今から腕を磨き、必要とされるに足るだけの実力を身につけておくのだ。そんな自分に、商家の養子になって、算術や商いを学んでいる暇などあるはずがない。

 貞吉郎はしばらく黙って欄干にもたれていたが、やがて得心したようにうなずき、匡七郎のほうを見た。

「おまえは、己の(あるじ)たり()る人に出会ってしまったんだな」

 噛みしめるように言う彼の顔には、羨望と憐れみとが()い交ぜになった、複雑な表情が浮かんでいる。

「次に会うのはいつだ。再会の約束はしているのか」

 その問いかけに、匡七郎の胸がずきりと痛んだ。ほろ苦い気持ちで、小さく首を振る。

「約束はしていません。手紙の宛先も教えてもらえなかった。修行の身で、明日どこにいるかもわからないからって」

「ではもう、二度と会えないかもしれないではないか」

 そんなことは、考えるのも嫌だった。

「縁があればまた会えると、あの人は言ったんです。だから武芸の修練を続けて、備に入って……」

「同じ道を辿って縁をつないでいけば、いつかは巡り会える、と?」

 うなずいて見せると、貞吉郎は感に堪えないというように吐息をもらした。

「おまえが、そんなに一途なやつだとは知らなんだ。産まれた時からずっと見てきたのにな」

 それから彼は少し真面目な顔になり、眉間に皺を寄せた。

「しかし、そういうわけだから江州へは行きたくないと言って、果たして親父どのが納得するかのう」

 匡七郎は掘のほうを向いた。どこからか、魚を焼くにおいが漂ってくる。煮える味噌のいい香りもしていた。

 我が家でも今ごろは、夕餉の支度をしている最中だろう。出来上がりを待ちながら、父は居間で書物でも読んでいるかもしれない。あるいは兄とふたりで、わがままな末っ子をこき下ろしているところだろうか。そう思いながら、欄干の手すりをぎゅっと掴む。

「たぶん父上には、わかってもらえないと思います」

 呟くように言うと、貞吉郎が小さく唸った。

「では、どうするのだ」

「どうしても許してもらえなかったら――」目に力を込め、夕暮れの微風にさざ波立つ水面を見据える。「家を出る」

 たちまち平手が飛んできて、後頭部を(はた)かれた。

(いて)え!」

 わめいて振り向けば、叔父が額に青筋を立てている。思わず後ずさりしかけると、大きな手で顎をがっちり掴まれた。

「賢いと言ったのは取り消す。おまえは頭の空っぽな、考えなしの大馬鹿だ」

 甥を半ば吊り上げるようにしながら、彼は顔を突き合わせて、辛辣な言葉を立て続けに浴びせかけた。

「家を出るだと。出てどうする。餓鬼がたったひとりで、何をして生きていくつもりだ。城下を物乞いでもして歩くのか。おまえなんぞが易々と渡っていけるほど、世間は甘くはないのだぞ」

 爪先立ちの不安定な姿勢に耐えきれず、匡七郎はすりこぎのように太い叔父の腕を両手で掴んだ。必死に逃れようとするが、顎に食い込んだ指は緩まない。

「恋にのぼせた娘っ子でもあるまいに、(うわ)ついたことを言いおって。現実を見ろ。そのでっかい(まなこ)で、(しか)と見るんだ」

 匡七郎の目に涙がにじんだ。泣きたくなどないが、抑えようとしてもあふれ出てくる。それを見た貞吉郎は、少しだけ表情を和らげた。

「おい、泣くな。青たん作って泣かれたら、まるでわしが虐めたみたいじゃないか」

 憮然と言って、ようやく手を放す。開放された匡七郎はちょっとよろめき、それから袖で目元を乱暴にこすった。喧嘩傷が痛んだが、それよりも胸のほうがずっと痛い。

 叔父の言っていることは正論すぎて、反駁の余地すらなかった。家を出て、ひとりで生きていけるとはとても思えない。月謝を払えないから、もちろん道場へ通うこともできなくなるだろう。それでは、意地を通す意味すらなくなってしまう。

 匡七郎はまた目頭にあふれてきた涙をぬぐい、叔父を見上げた。

「貞叔父」声が微かに震える。「智恵を貸してください」

 貞吉郎は大きくため息をつき、困り顔で頭をがりがりと搔いた。

「親父どのがおまえを手放そうとするのはな、もうじき新九郎の子が産まれるせいもあるんだ」噛んで含めるように、ゆっくりと言う。「赤ん坊が産まれたら、おまえはもう、あの家の可愛い末っ子じゃなくなる。みなの関心は赤子に集中するし、おまえは自分の居場所を奪われたように感じるだろう」

 そんなことはないと反論したかったが、否定できない部分もある気がする。ほかの兄弟たちが成長したあとに産まれた末子だったので、子供というよりは孫のような扱いを受けて甘やかされ、これまでいろいろなことを大目に見られていた。だが兄の子供、本物の初孫が産まれたら、さすがにそうはいかなくなるだろう。

 自分が甥や姪を妬んだりするとは思えないが、何も感じないと言ったら嘘になりそうだ。

 考え込んだ匡七郎に向かって、貞吉郎は辛抱強く話し続けた。

十亀(そがめ)家へ養子に行ったら、おまえは跡継ぎのひとり子だ。それはもう、下にも置かぬほど大事にされるだろうよ。実の姉が親代わりになるのだから、見知らぬ人ばかりの中で心細い思いをすることもない。親父どのは、そういうことをいろいろ考え合わせた上で、養子に行くのはおまえのためになると思い定めたのだ」

 ちょっと言葉を切り、彼は甥の顔を覗き込んだ。

「どうだ、少しは親心がわかったか」

「はい」恥じ入りながらうなずく。

「それでも、やはり江州へは行きたくないか」

「……はい」

 そこだけは譲りたくない。譲れない。匡七郎は唇を噛み、うつむいたまま懸命に考えた。この運命から逃れる方法が、何かあるはずだ。

 次の瞬間、ぱっとひらめいた。

「貞叔父、お願いです」叔父の着物の袖を掴み、かつてなかったほど真剣に懇願する。「おれを、貞叔父の家の子にしてください」

 貞吉郎は虚を突かれた様子で、目を丸くしてたじろいだ。

「な、何を言うのだ、突然」

 匡七郎は以前父から、祖父の時代には刀祢(とね)家もそれなりに金回りがよかった、と聞いたことがあった。子だくさんは家計を圧迫するが、祖父にはふたりの息子しか産まれていない。そのため家産の一部を割き、部屋住みだった次男の貞吉郎を分家させることができたのだ。

 しかし当代は本家もあまり余裕があるとは言えず、分家に回すほどの資力はなかった。貞吉郎は今、城下の子供たちに読み書きや算術などを教えて、なんとか生計を立てている。「分家は自分の代かぎり」と日ごろから言っており、妻を迎えて子を残そうという意志はないようだった。

 気兼ねすべき家族のない叔父のところへなら、転がり込むことができるかもしれない。追い込まれた匡七郎は、そう計算を働かせた。本家の子を養子に迎えるとなれば、父から多少は食い扶持の宛がいもあるだろう。

 それに、叔父は自分のことを気に入っている。自分も、叔父のことを親戚の中ではいちばん気に入っている。彼となら、今後もうまくやっていける自信があった。両家は通りをほんの数本隔てた程度にしか離れていないし、これまでもしょっちゅう互いに行き来していたのだから、表面的に何かが大きく変わるというわけでもない。

「わしのとこに来たって、将来おまえに継がせてやれるようなものは何もないぞ」

 貞吉郎は自嘲めいた笑みを浮かべながら言った。

「知っての通り、わしにあるのは、あのささやかな住まいだけだ。飯炊きの下男以外に、奉公する者とてない」

「わかっています。かまいません」

「うちでは身の回りのことは、すべて己でせねばならん。薪を割り、水を汲み、床を掃いて廊下を磨く。毎日それを自分でやるんだぞ」

「鍛錬だと思ってやります」

「食い物も着る物も、今よりずっと粗末になるが、いいのか」

「道場にさえ通わせてもらえたら、あとは何も欲しがりません」

 一歩も退かない構えの匡七郎を前に、貞吉郎は深く嘆息した。

「おまえは頑固なやつだ。父親そっくりのな」

 それから彼は苦笑しつつ手を伸ばし、甥の後ろ襟を掴んで引き寄せた。体の向きを変えさせ、家に続く道のほうへと押しやる。

「頑固一徹な親父どのを説得してみろ。わしも多少は口添えしてやる」

「貞叔父」

 くるりと振り向き、匡七郎は満面に笑みを浮かべた。その額を、叔父が手指でぴしゃりと打つ。

(はや)るな。まだ何も決まっとらん。とにかく親父どのに話をしろ。まずはそこからだ」

「必ず父上を説得します」

 望みがつながった。まだどうなるかはわからないが、とりあえず希望はある。今はそれだけで充分だ。

 入り日を残す夕雲に背を向け、すぐ近くで鳴り出した刻鐘(こくしょう)に送られながら、匡七郎は叔父と連れ立って道を引き返していった。

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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