三十一 天勝国東部・伊都 追っ手
これまで追っ手に出くわしたことはない。追っ手が出ていると言い切れる確かな証拠もない。だが伊都は旅の始まりから一貫して、自分は追われていると確信していた。
家に押し込み、一家を皆殺しにしてまで秘密を守ろうとした志鷹頼英が、すべてを目撃したかもしれない者を放っておくとは思えない。実際、もし大光明城へ行って国主の志鷹朋房と対面したなら、伊都は頼英が秘しておきたい多くの事実を暴露することができるのだ。
朋房公の身を危うくするような、何らかのはかりごとがめぐらされている。その首謀者は実弟の頼英。門叶の城代である都志見重実と、その家来たちも荷担している。協力者はほかにも数多くおり、大光明の城下に少なくとも七人。うちひとりは、伊都の家の隣人高牟礼顕祐だ。彼らによって父や母、奉公人たちがどんな風に殺されたかも詳細に語ることができる。
これらのことが露見すれば、頼英とその仲間はたちまち苦しい立場に立たされることになるだろう。はかりごとは実行される前に頓挫し、朋房公の安全は守られ、悪人たちには裁きが下される。
だから頼英は万全を期すため、あの夜捕り逃がしてしまった娘を捜しているはずだ。彼と通じている各郷の領主たちは、密かに探索するよう命を受けているに違いない。
伊都はそう思い、門叶を出たあとは、城下町とその周辺の〝在〟にはいっさい近づかなかった。本当は天勝国から出てしまうのがいちばんいいが、まだそこまでの決心はつかない。もし頼英が、何らかの手違いではかりごとに失敗すれば、大光明へ戻って城に訴え出ることができる。しかし他国へ出てしまったら、情勢を知るのが難しくなるだろう。
頼英が失脚するなら、できるだけ近くにいてその一報を聞きたかった。
東部の三反園郷を通りかかった時、伊都は放浪生活に入ってから初めて、城山が見えるほど城下町に近い場所にしばらく逗留した。農作業の手伝いに雇ってくれた一家が、三反園城下の〝在〟に田んぼを持っていたからだ。
その家には三十代の夫婦と娘ひとり、幼い息子ふたり、そして夫の老母が住んでおり、誰もが伊都を四人目の子供のように扱った。中でも十三歳になる長女の美代は「妹ができた」と喜び、その言葉通り本当の姉妹のように親しんでくれている。
居心地がよく、労働の対価としての食事も充分に与えられたので、伊都はもう三日もその家に居座っていた。だが、そろそろ移動するべきかもしれない。
滞在四日目の午前、くすぐるような小雨がぱらぱらと降る中、田んぼの取水口で田螺を取りながら、彼女はぼんやりとそのことを考えていた。
少し長居をしすぎたようだ、と思う。本音ではまだ去りたくないが、同じ場所に長く留まるのはまずいと、本能的に感じていた。ましてここは、三反園城のすぐ近くだ。城主が志鷹頼英の仲間で、家臣たちに伊都を捜させていないとも限らない。
腰を屈めて水の中を覗き込んだ伊都は、大きめの田螺が取水口から少し離れた場所にたくさん集まっているのを見つけ、思わず口元をほころばせた。両親の元にいたころは田螺を食べたことなどなかったが、今はこの巻き貝の味がなかなか悪くないことを知っている。
水に手を入れて掬い上げ、田んぼの縁に置いた木桶に入れていると、畦道をやって来る馬の蹄音が聞こえた。並足で、二頭。農耕馬ではない。
屈んだまま、じっと耳を澄ましていると、蹄音はゆっくり近づいてきて止まった。
「おい」土手の上から、威圧的な声が降ってくる。「娘、年はいくつだ」
そちらを向く前に、伊都はふと思いついて、指についていた黒い泥を顔にさっと塗りつけた。目を上げた先にいたのは、立派な身なりをした侍ふたりだ。どちらも馬上から、伊都をじろじろと眺め回している。
顔に泥汚れをつけ、田螺取りに精を出す百姓の娘。彼らにはそう見えるはずだ。見えてもらわなければ困る。
「十二」
正体を見抜かれることはないだろうと思いつつも、緊張で胸をどきどきさせながら、伊都は少し上の年を答えた。いつも実際の年齢より年上に見られるので、最近はひとつふたつさばを読んで言うようにしている。
侍のひとり、年若いほうが感じよく微笑んだ。
「十二にしては、少し小さいな」疑うというよりは、からかうような口調で言う。
伊都は何も答えずに顔を伏せた。百姓の子供は、侍と気安く会話をしたりはしない。
年配のほうの侍が、相方よりもずっと素っ気ない調子で訊いた。
「名はなんという」
伊都の背筋を冷たい汗がひとすじ伝った。落ち着いて、大丈夫、と心の中で自分に言い聞かせる。意を決して口を開けたところで、別の声が答えを奪った。
「郁ちゃあん!」
大声で呼びながら、笑顔の美代が畦道を反対側から駆けてくる。彼女は馬に乗った侍たちを見て、驚いたようにちょっと足を止め、彼らの視線を避けながら土手を滑り下りてきた。
「おっ母さんが、おひるにしよって」
早口に言い、伊都の腕に自分の両腕を絡みつかせる。
「やだあ、顔、汚れてるよ」
泥汚れをこすろうと手を上げた彼女に、あの年配の侍が問いかけた。
「そなたらは姉妹か」
美代が伊都と目を見合わせ、いたずらっぽい表情になる。
「うん」はにかみながら答えて、彼女はくすくす笑った。「郁ちゃんが妹、あたしがお姉ちゃん。ね?」
伊都はすかさずうなずき、無理に笑みを浮かべた。
若い侍がふたりの少女を見比べ、無遠慮な感想をもらす。
「あまり似ておらんな。母親が浮気でもしたか」
美代はむっとしたように口をとがらせた。さすがに言い返しこそしなかったが、気分を損ねたことを隠そうとはしない。
「我らは、ある娘を捜している」年配の侍が低い声で言った。「年は十ほどで、名は伊都。生まれ育ちが良く、たいそう整った顔立ちをしている。そういう娘を、近ごろこの辺りで見かけなんだか」
少女たちは揃って首を振った。美代の目が好奇心に輝いている。
「その子、お城のお姫さまかな?」
そっと耳打ちされ、伊都は真面目な顔で囁き返した。
「きっとそうだよ」
頭の中で何か楽しい物語でも組み立てているのか、美代が再びくすくす笑いをもらす。
若い侍は、もう娘たちに興味を失ったようだった。年配のほうは、まだ伊都に何か問いたげな視線を向けている。だが、じきに自分の中で折り合いがついたらしく、馬の腹に軽く踵を当てた。もうひとりも、すぐそれに続く。
去って行くふたりを見送りながら、美代が小声で言った。
「お侍って、こわいね」
「うん」
伊都の胸はまだ激しく動悸を打っていた。全身の血が冷えわたり、肌が蒼白になっているような気がする。だが美代は何も気づいた様子はなく、無邪気に訊いてきた。
「田螺、いっぱい取れた?」
木桶を持ち上げ、水の中で大量の田螺が蠢いている様子を見せると、彼女の顔にたちまち笑みが広がった。
「うわあ、すごいね。おっ母さんがお味噌汁にしてくれるよ」
はしゃぐ美代と共に家へ戻りながら、伊都は自分の考えが正しかったことをあらためて実感し、虚ろな満足感をおぼえていた。
頼英はわたしを捕まえて、はかりごとを実行する前に殺すつもりだ。探索の命令は大光明郷の周辺だけではなく、ずっと遠くまで出されている。でも、あの侍たちは、それほど本気で人捜しをしているようではなかった。〝在〟を見回るぐらいはしても、遠くの村や山奥にまで分け入っていくとは思えない。
やはり、城に近づいたのが間違っていたのだ。今後は町からできるだけ離れて、もっと人の少ない集落で働き口を探すことにしよう。
伊都は腕に抱えている木桶を覗き込んだ。今夜泥抜きをして、きっと明日の夕飯にはこの田螺が食卓に並ぶ。でも、それが自分の口に入ることはない。
何か事情ができたことにして、夜明け前に出ていこう。伊都は心を決め、慣れかけていた暮らしに別れを告げる無念さを思い、そっと小さくため息をついた。
三反園郷を離れた翌日、伊都はたまたま足を踏み入れたある山間部の小集落で、幸運にも再び居心地のいい寄宿先を見つけることができた。
集落の外れにぽつんと建つ小さな家で、四十が近い市という後家と、その母親松がふたり住まいをしている。子供が産まれないまま夫が流行病で亡くなったあと、市は再婚することなく、老いた母親と一緒に暮らしていた。
彼女が畑で野菜を作って近くの郷まで売りに行き、松はそのあいだ家で糸紡ぎの内職をする。老女は盲目だが、近郷でいちばんと言われる糸紡ぎの名手だった。彼女が指先の感覚だけを頼りに紡ぐ糸は均一で細く、その上しっかり縒りがかかっているので強くて切れにくい。
伊都は朝のうちは市の畑仕事を手伝い、彼女が歩き売りに出ていくと、今度は家の中で松の糸紡ぎを手伝った。実綿を綿繰り車にかけて綿と種子とに分離し、とれた綿を打ち弓で弾いてほぐしたあと、丸めて〝篠巻き〟という固まりを作るまでが彼女の役割だ。
綿打ちは力仕事だが、伊都はあまり大変だとは思わなかった。打ち弓の弦を弾いた時に鳴る音は、琵琶の哀しげな音色に少し似ていて耳に心地いい。また、綿繰り車を使って種を分ける作業は、ただ単純に楽しかった。
「種は大事に取っておくんだよ」松は慣れた手つきで紡錘をくるくると回して糸を紡ぎながら、最初の日にそう教えてくれた。「また来年、畑に植えるためにね」
伊都は薄く綿をまとった種子を拾い上げ、感心しながら見つめた。行く先々で必ず何か新しい仕事に出合い、武家のお嬢さまでいたら、ずっと知らずにいたかもしれなかった知識を得る。それらすべてが興味深く、尊いものに思えた。
「わたし、糸がどうやってできるかなんて、ちっとも知らなかった」
正直に告白すると、松は「いい暮らしをしていたんだねえ」と言って小さく笑った。
静かな山間の集落に腰を据えて三日目。この日はまた朝から小雨が降っていた。市によると、これからしばらくは雨の日が続きそうだという。
板間の四隅に影がうずくまる薄暗い家の中で、松と一緒に仕事をしながら、伊都は藁葺き屋根の庇から時折落ちる雨だれの音を聞くともなしに聞いていた。辺りがとても静かなので、自分が回す綿繰り車のからからという音も、いつになく大きく響く。
「小母さん、大丈夫かしら」
伊都はこの家では志乃と名乗り、市を〝小母さん〟、松を本人の希望で〝松ばあ〟と呼んでいた。
「雨に濡れて、風邪をひかないといいけど」
膝の前に落ちた種子を拾い集めながら呟くと、横で糸を紡いでいる松がにっこりした。
「平気だよ。この時期の雨は、そんなに冷たくないからね」
そう言って、左手に持った篠巻きを流れるように引き、指先からすーっと白い糸を生み出していく。独楽の軸棒を長く伸ばしたような形の、紡錘と呼ばれる道具ひとつを使って、彼女はいくらでも長い糸を紡ぐことができた。その技は熟練されており、両手の動きは踊りの振りのように優雅で、思わず目を引きつけられる。
「そんなに、おもしろいかね」
じっと見ていたことを悟られ、伊都は急いで自分の作業に戻った。
「松ばあは目が見えないのに、どうして全部わかってしまうの?」
実際、松は身の回りのことなら何でも自分でやれたし、見えなければわかるはずのない人の表情や動きなどを、いつも的確に言い当てることができた。伊都にはそれが不思議でならない。
「目の代わりに、ほかのところで見るんだよ」松は出来上がった糸を紡錘に巻きつけながら、穏やかに言った。「いろんな音に耳を澄ます。鼻でにおいを嗅ぐ。触って、肌で感じる」
それから彼女は、空咳に似た音を立ててくつくつ笑った。
「舌で舐めることもあるよ。初めて糸紡ぎを習った時、篠巻きや紡錘がどんな味か知りたくて舐めたもんだから、おっ母さんに雷を落とされたっけ」
その場面を想像して、伊都は笑みをもらした。
「笑ってるね」
またしてもずばりと言い当てられてしまい、驚きを隠せない。
「声を出していないのに、わかるの?」
「わかるんだよ。空気の揺れでね」
不思議だ。伊都は感じ入って、老女の盲いた目を見つめた。細く開いた目蓋の中の瞳は、ふたつとも白く濁っている。
ふと、剣術の師でもあった父が、〝五感を研ぎ澄ませろ〟とよく言っていたことを思い出した。目で見たのものだけに惑わされるな、耳も鼻も、持っている感覚をすべて使って体全体で視ろ、と。あれはきっと、こういう意味だったに違いない。
父上が松ばあに会ったら、どう思うだろう。何を言うだろう。そんなことを考えると、我知らず頬がゆるむ。
「また笑ってる」松ばあが言い、ちょっと小首を傾げた。「あたしは小さい子の笑い声が好きなのに、あんたは声を立てないんだねえ。愛想は悪くないのに、あんまり喋らないし」
伊都は少し間を置き、考えながら言った。
「たぶん……育った家が、いつも静かだったから」
その瞬間、今はもう遠くなってしまった我が家の思い出が一気に蘇り、巨大な拳となって少女の胸を直撃した。
両親の顔が浮かぶ。大好きだった〝爺や〟の顔。いつも優しかった下女の町の顔。庭に植えられていた花や木。立てつけの悪かった納戸の扉。特別に大切なものだけを入れていた、籐細工の大きな行李。毎日使っていた桜材の箸。それらすべてが、もう過去のものになってしまった。
悲しみと怒りと郷愁の念に圧倒されそうになり、伊都は目をつむって必死に耐えた。綿繰り車の取っ手にかけた手に力が入り、木のつなぎ目が小さく軋む。
その音ではっと我に返った彼女は、目尻ににじんだ涙を指先で払い、再び取っ手を回し始めた。横棒のあいだに実綿を通し、手前に種子がぽとりぽとりと落ちるのを見守る。そうしているうちに動悸が鎮まり、金切り声を上げたいような衝動も過ぎ去った。
すぐ隣で、黙々と紡錘を操っている松の表情に変化はない。だが伊都は先ほどの動揺を、彼女にすべて見抜かれているような気がした。それでも、敢えて何も言わずにいてくれるのがありがたい。
この家は、今までに足を止めたどの家よりも暮らしやすかった。市も松も伊都のことをあまり構わず、かといって疎外することもなく、適度な距離感を保ってくれる。親子であるふたりのあいだにも、その距離感は存在するようだった。世代の異なる、それぞれ自立した女が、たまたまひとつの家で暮らしているだけといった雰囲気だ。今は伊都もその一員であり、別の世代の自立した女として受け入れられていた。
しばらくここにいられたら、どんなにいいだろう。今までのように二、三日で移動するのではなく、半月かひと月。あるいはもっと。
伊都は折に触れ、そんなことを考えるようになっていた。山間に孤立したこの集落はまるで隠れ里のようで、ほとんど人目を気にすることなく、のびのびと暮らすことができる。こんなにくつろいだ気分になったのは、門叶で多恵と別れてからは初めてだ。
綿繰り車を回しながら、伊都は誰に言うともなく呟いた。
「わたし、この家が好き」
松もまた、自分に向かって言われたようにではなく、さらりと受け流す。
「そうかい」
それから老女は手を止め、道具を膝の上に置いた。出来たての糸をびっしり巻きつけられた紡錘は、白く大きな円錐形の固まりになっている。
「どれ、ひと休みして、お茶でも飲もうかね」
「わたしが」
伊都はさっと立ち上がり、用意をしに土間へ下りた。仕事の合間に松と茶を飲むのは、毎日のささやかな楽しみのひとつになっている。
湯気を立てる茶碗をふたつ持って板間へ戻ると、松は仕事道具を脇に片づけて待っていた。
差し向かいで薄茶をすすりながら、ふたりはぽつりぽつり語り合うこともあれば、ずっと黙っていることもある。今日は、少し沈黙が続いたところで、松がふと口を開いた。
「志乃ちゃん」
「はい」
「ちょっと手を見せておくれ」
彼女が言う〝見る〟は〝触る〟だと思い、伊都は茶碗を置いて両手を前に差し出した。それをすぐに探り当てた松が、横から包むようにぎゅっと握ってから、指や手のひらを丁寧に触り始める。
「いい手だね。器用な手だ。しっかりした、強い指をしている。手のひらが大きい。あんたは、うんと背が伸びそうだね」
ひととおり感想を述べてから、松は顔を上げ、見えない目で伊都を見つめた。
「糸紡ぎを習ってみるかい?」
はっとして、伊都は思わず手を引いた。それを追うことなく、松も腕を下ろして、再び茶碗を取り上げる。
ゆっくりひと口すすってから、彼女は静かに話した。
「雪が舞うころになると、市は畑を休ませて、あたしが紡いだ糸を使って機を織る。あの子もあれで、なかなか機織りはうまいんだよ。糸紡ぎは、あたしのほうがずっと上手だけどね。そうしてできた木綿の布を、春になると染物屋が買いに来るんだ。あたしたちが作るのはいい布だから、けっこう高値で売れる。その金で税を払って、取っておいた残りで冬のあいだの食べ物を買うのさ。去年も一昨年もそうしたし、今年もそうする。きっと来年も同じだろう。毎年毎年、何の変わりばえも、面白味もない暮らしぶりだよ。でも少なくとも、あたしたちは誰に面倒をかけることもなく、ふたりでまあまあうまくやってるんだ」
言葉を切り、松はもうひと口お茶を飲んだ。
「もしあんたにそのつもりがあるなら、あたしが糸紡ぎを、冬になったら市が機織りを教えるよ。ふたりが三人になるだけで、やっぱり大して変わりゃしないけど、前よりは楽しくなると思うね」
ずっと、うちにいていいよ。伊都は彼女がそう言っていることを理解し、にわかに早鐘を打ちだした胸に手を押し当てた。視界が霞んで、目がちくちく痛む。まばたきをすると、睫毛に弾かれた涙の粒が数滴飛び散り、雨音に紛れてどこかに落ちた。
この家の者になる。松ばあと一緒に糸を紡ぎ、小母さんと畑を作って、機を織る暮らしをする。
伊都は目を閉じ、真剣に考えをめぐらせた。
家族の無念を忘れ、恨みを忘れ、復讐をあきらめ、武士の子であったことも忘れる。毎年何も変わりばえがない代わりに、誰かの企みに巻き込まれたりもしない人生を送る。
そうしたい、と強く思った。だが心の奥底に、執拗に引き止めようとする声がある。でも、いいの? それでいいの?
こんなにも長く続く沈黙を、松がどう受け取っているかが気になった。だが口を開いても、言葉が何も出てこない。
どうしよう。どうすればいいんだろう。
その時、ふいに戸口を引き開けて、市が顔を覗かせた。
「おっ母さん、志乃ちゃん、大変、大変」
早口に言いながら中に入り、彼女は背負っていた大きな籠を下ろした。菅笠の紐を解く間も惜しみ、水瓶から汲んだ水を柄杓のままでぐっと飲み干す。
「小母さん、今お茶を――」
そう言って立ち上がろうとする伊都を片手で制し、市は板間の端にどすんと腰を下ろした。
「いいの、いいの」手で顔を扇ぎながら、ふーっと大きく息をつく。「川を越えたあと駆けてきたから、ちょっと喉が渇いただけ」
「何をあわててるんだい」
松があきれたように訊く。すると市は、わけありげに頬をぴくぴくさせてから、にやりと笑った。
「千装のご城下でびっくりする話を聞いたから、ふたりに早く教えてやろうと思って」
「どうしたっていうのさ」
「お殿さまが変わったんだって。町には今朝、お布令が出たそうよ。このあたりまで知らせがくるのは、何日かあとになるかねえ」
「お殿さまって、千装の砦城のお殿さまかい」
「違う、違う。天州のお殿さま、志鷹のお殿さまよ」
伊都の顔からすっと血の気が引いた。だが母娘は気づかず、話を続けている。
「前のかたがお亡くなりになったの?」
「ううん、それが違うの。大光明のお城で謀反が起きたんだって。だから、びっくりの話なのよ」
「誰が謀反をしたのさ」
「お名前は忘れたけど、ご兄弟よ。えーと、弟さまよ」
志鷹頼英。伊都はあの男の名前を唱え、顔を思い浮かべ、それから目を伏せてうつむいた。
叔父の度会典政から頼英の〝はかりごと〟について聞いた時から、それが謀反を指しているとわかっていたような気がする。父に武家の歴史を少し教わっていたので、謀反がどういうものかは知っていた。
御屋形さま――朋房さまはご無事だろうか。お優しかった奥方さまは。お子さまがたは。
「お殿さまは、討ち取られておしまいになったの?」
細く震える声で聞いた伊都に、市は優しい眼差しを向けた。
「さあ、ねえ。それはわからない。話を聞かせてくれたのは、城下町に住んでるお武家の下男だったんだけど、詳しいことは知らないみたいだったよ」
「よくないね」
呻くように言ったのは松だった。
「そんなのはよくない。間違ってるよ。弟が兄さまのものを奪うなんて」
彼女は見えない目を見開き、腹立たしげに口元を歪めている。
「あたしら百姓だって、家の田んぼは、いちばん上の子が継ぐものと決めて守ってるし、下の子もそれを欲しがったりしない。なのに立派なお家の子が、兄さまが生まれながらにお持ちだったものを力ずくで盗むなんてさ。そんなのはおかしいよ。本人にも、味方した連中にも、きっといつか罰が当たる」
「あら、あら、おっ母さん。そんな怒らないで」市が戸惑ったように言い、手を伸ばして母親の膝をぽんぽんと叩いた。「新しいお殿さまは、うんとお若いそうよ。ひょっとしたら、いい太守さまになりなさるかも」
「盗人の太守さまなんて、あたしは嫌だね」
松が頑固に言い張り、市が苦笑をもらす。
ふたりのやり取りを遠く聞きながら、伊都は冷え切った心でただ黙っていた。
終わった――と思う。頼英ははかりごとを成功させ、大光明城の主となった。あの夜に始まった恐ろしい出来事は、良くも悪くも、とりあえずこれでひとつの幕切れを迎えたことになる。
生まれ育った天勝国は、今や仇敵が支配する国になってしまった。自分がいられる場所は、もうここにはない。
伊都は深い絶望の淵に沈みながら、ついに故郷を去る時が来たことを悟った。
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