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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第三章 それぞれの旅路
30/161

二十九 立身国北西部・六車兵庫 道連れ

 明け方に降り始めた霧雨が、夕方近くになって小雨に変わった。濡れた灌木や草むらから青臭いにおいが立ちのぼり、空気が生暖かく湿って体にまとわりついてくる。

 灰色に煙る裏街道を歩いていた六車(むぐるま)兵庫(ひょうご)は、見晴らしのいい静かな湖岸でしばし足を止めた。水際に群れ咲く色鮮やかな紫陽花(あじさい)や、浅い水の中に端然と佇む白鷺を眺めながら、首と胸元に浮いた汗を手早く拭う。

 目を上げると、緑野と森を隔てた向こうに、悠然とそそり立つ群峰が見えた。その端に連なる山の麓まで、あと半日といったところだろう。

 このまま進み、山裾を回り込んで北上すれば江蒲(つくも)国、左に進路を取って西へ向かえば三鼓(みつづみ)国だ。これまで漠然と北西を指して旅してきたが、そろそろどちらの国へ入るか決断しなければならない。

 師匠から渡された紹介状の残りは三通。うち一通は江州(こうしゅう)百武(ひゃくたけ)(ごう)、あとの二通は三州(さんしゅう)の中部と西部にある道場宛てだった。どちらへ先に行くのも自由だが、旅の効率を考えて経路を選ぶ必要がある。

 考えているあいだに、雨が少し激しさを増した。どうやら今日は終日この調子で降り続くようだ。兵庫は行く手を見やり、まばたき二回分の間を置いて、この近辺で野宿できる場所を探すことに決めた。見渡すかぎりどこもかしこもずぶ濡れだが、辛抱強く探せば少しは乾いたところを見つけられるだろう。

 獣ぐらいしか通らないような脇道に逸れて湖岸を離れた彼は、雑草を踏みしめながら木立の中に入っていった。それは小さな林だったが、季節がらどの木もたっぷりと葉を茂らせているので、張り出した枝の下にいれば雨はあまりかからない。乾いた場所がなければ、大木の下で夜明かししてもよさそうだ。

 しばらく歩くと、ごつごつした岩山に突き当たった。いくつもの巨岩が折り重なったような岩塊で、表面は蔦に覆い尽くされている。その周囲をぐるりと半周したところで、兵庫はお誂え向きに岩が張り出している場所を見つけた。

 下が浅い(ほら)になっており、入り口を下草が具合よく覆っている。中は狭いが、雨のかからないところまで潜り込んで、横になれるぐらいの余裕はあった。天井はかなり低いので、兵庫の身長では膝立ちするのがせいぜいだ。だが、ともかく地面は乾いている。それが何よりありがたい。

 兵庫はいったん外に出ると、岩山の反対側へ歩きながら、あまり雨のかかってない枯れ枝を選んで拾い集めた。洞の内部の地面に突き出していた白い根を引き抜いて焚きつけに使えば、少々湿った枝でもなんとか火を(おこ)すことができるだろう。

 枝を抱えて洞へ戻ろうとした時、彼は木立の向こうに人影を見つけて足を止めた。林の切れ目に立つ大木の下に、狩りの出で立ちをした老人がひとり座っている。彼は弓と矢筒を脇に置いて両膝を抱え、眼前を横切る踏み分け道と、その向こうに広がる野原をぼんやり見つめていた。

 老人のうしろ、立ち木を四本隔てた場所にも、もうひとり男がいる。こちらは腰を少し落として立ち、雨音に紛れてゆっくり彼に忍び寄ろうとしていた。左手を懐に潜り込ませているのは、小刀か何かを握っているからだろう。尻をからげて脚絆(きゃはん)をつけ、帯にみすぼらしい脇差しを差している。

 狩りの途中で休息中の老武士と、彼の持ち物を狙う追い剥ぎ。そういう構図と見て間違いなさそうだ。

 彼らの背後で少し考えてから、兵庫は抱えていた枝をそっと地面に下ろした。体を起こす際に、足元にあった石をひとつ拾い上げる。

 たとえ不意を突かれても、武士ならば普通はそう容易く制圧されはしない。だが、ここから見える老人の肩は寂しげに落ちていて、少しも生気が感じられなかった。あの弱々しさでは、女や子供でも簡単に押さえ込めそうだ。

 追い剥ぎがさらに近づき、二歩手前で足を止めた。今まさに襲いかからんと、左腕がわずかに動く。その肘を狙って、兵庫は手に持った石を投げた。

 ぎゃっと声を上げて追い剥ぎが倒れ、同時に、驚いた老人が立ち上がり損ねて尻餅をつく。兵庫が近づいていくと、追い剥ぎはぱっと横に転がって体勢を立て直し、片膝をついたまま左手で脇差しを抜いた。

 片手、しかも逆手持ちの脇差しを顔の前で水平に構え、ぎらぎらと双眸を光らせながらこちらを睨めつけている。どう見ても剣術の心得があるとは思えないが、敏捷であることは間違いない。

 兵庫は長槍一本分の距離を空けて立ち止まり、静かに語りかけた。

「刀を仕舞え。斬り合う気はない」

 追い剥ぎが鼻面に皺を寄せて、犬のように低く唸る。

「そっちになくても、こっちにはあんだよぉ!」彼は金切り声で叫んだ。「邪魔しやがって、この糞野郎、たっぷり礼をしてやるからな」

「やめておけ。怪我をするぞ」

 兵庫が言い終える前に、追い剥ぎは奇声を上げながら飛びかかってきた。蛙も顔負けの、驚くべき跳躍力だ。兵庫は間合いを計って一歩退き、彼の剣先を空振りさせた。

「殺す! 死ね! くたばれ!」

 ひと振りごとに悪態をつきながら、燃え盛る火の如く斬りかかってくる。兵庫は空手のままでそれをあしらいながら、隙を見て側面に回り込み、膝のうしろにぽんとひと蹴り入れて仰向けに転ばせた。

「いってぇ」

 地面に頭を打ちつけた追い剥ぎが喚き、しかしすぐに跳ね起きる。あきれるほど頑丈で、おまけに闘志満々だ。

「てめぇ、今のはなんだ。変な技ぁ使わずに刀を抜け! 馬鹿にすんじゃねえぞ、こらぁ」

 またあの奇妙な構えをして、憤怒に顔を歪めながら大喝する。兵庫は無駄な戦いを避けようとしているだけで、決して彼を馬鹿にしているわけではなかった。だが、そう教えてやったところで、おそらく納得はしないだろう。

 左足を半歩引き、腰を落としながら兵庫は鯉口を切った。右手を柄にかけ、相手をまっすぐに見据える。斬りかかろうとしていた追い剥ぎが「うっ」と呻き、その場に釘づけになった。顔の前に構えた脇差しが、内心の動揺をそのまま映し出してぐらぐらと揺れる。

 退()け。逃げろ。兵庫は胸の中で呟いた。斬られて当然のことをこれまでさんざんしてきたのだろうとは思うが、刀の握りかたも知らず、また、さほど殺気があるとも言いがたい相手を無闇に斬りたくはない。

 一瞬、追い剥ぎは(きびす)を返すと思われた。彼の本能が、そうしろと叫んでいるのが傍目(はため)にもわかる。だが恐怖心を無理にねじ伏せ、あくまで踏み留まるつもりのようだ。

 すぼめた唇からひゅっと息を吐き、追い剥ぎは再び飛びかかってきた。高く振り上げられた刃が、頭上で鈍い閃きを放つ。その瞬間、兵庫は柄にかけていた右手を放し、拳を握りながら弧を描くように腕を振った。無防備に突き出された相手の下顎に、真横から強烈な鉄槌打ちを見舞う。

 まともに打撃を食らった追い剥ぎは、なすすべもなく吹っ飛んで立ち木に激突した。そのまま白目を剥き、くたくたとくずおれる。

 兵庫は近づいていって彼の上に屈み込み、ちゃんと呼吸をしていること、顎の骨が砕けていないことを確かめてから、その体を肩の上に担ぎ上げた。背丈は兵庫自身と同じぐらいあってかなりの長身だが、針のように痩せているのであまり重くはない。

 林の端まで歩いて行くと、老人はまだ尻餅をついたまま呆然としていた。皮を剥がれた獲物のように担がれている男を見上げ、あんぐりと口を開く。だが、何も言葉が出てこないようだ。そんな彼の横を黙って通り過ぎ、兵庫は踏み分け道に入っていった。


 小半刻ほどして戻ると、老人は相変わらず同じ場所にいた。地上に張り出した大木の根に腰かけ、しょんぼりと膝を抱えている。初めに見かけた時と同様、いかにも寂しげな様子だ。

 兵庫が近づいてくるのを彼はじっと見守り、すぐ傍まで来てようやく口を開いた。

「あの男――殺したのか?」

 蚊の鳴くような震え声だ。兵庫は彼が怖がっているのだと思い、強いて表情を和らげた。

「いえ、まさか。少し離れたところまで運んで、雨のかからない場所に置いてきただけです」

 それを聞くと、老人は心底ほっとした様子で大きく息を吐いた。

「そうか……それなら、よかった」

 襲われそうになったというのに、追い剥ぎの身を心配していたらしい。

 夕闇が忍び寄る中、兵庫はあらためて彼をじっくりと観察した。年は六十代のはじめだろうか。小柄で、肉づきはあまり良くない。小さくつぶらな目、先細りの山羊顔は温厚そのものだが、同時に神経質そうにも見える。

 身につけている狩装束は真新しく、一目でそうとわかるほど立派なものだった。若い鹿の皮で仕立てた弓懸(ゆがけ)。揃いの行縢(むかばき)。絹布の射籠手(いごて)には、銀糸で精緻な刺繍が施されている。これだけの身ごしらえをしている人物が、供のひとりも連れずにいるというのは解せなかった。

「狩りのお仲間は?」

 訊ねると、老人は兵庫を見上げ、それから視線を落として吐息混じりに答えた。

「……はぐれた」

 兵庫は思わず周囲を見渡した。遮るものとてない草原が、目路の端まで広がっている。

「こんなに見晴らしのよいところでですか」

「いや、その……ここへ来る前に、山中ではぐれてしもうた」

 どうにも煮え切らない答え方だ。

「それで、お供のかたは? まさか、おひとりではないのでしょう?」

「馬を引かせていた家来はいたが、いなくなった――のではなく、仲間を捜しに行った」

 急いではぐらかしはしたが、いなくなった、のほうが真実だろうと兵庫は()た。身なりはいいが、どうやら仕える家来はひとりしかない、いわゆる〝一僕(いちぼく)の者〟などと呼ばれる小身の武士のようだ。しかも、そのたったひとりの家来が、主人を見捨てて逃げたらしい。おそらくは馬も盗んで。

「いつから、ここに座っておられるのです」

 優しく訊くと、老人はもじもじしながら答えた。

「昨日の朝からじゃ」

 唖然とさせられる話だ。

「なぜです。もっと居心地のよい場所へ行くなり、風雨にさらされぬところを探すなりなさればよいものを」

「ここにおらねば、家来が戻った時に、すれ違いになってしまう」

 戻ってなど、くるはずがない。それは彼にもわかっているはずだ。兵庫はため息をつき、老人の傍に片膝をついた。

「この林の奥に、乾いた場所があります。おれは今夜そこで眠るつもりだから、あなたも一緒においでなさい」

「で、でも――」

「でももへちまもない」兵庫は相手の言葉を遮り、ぴしりと言った。「もうひと晩ここで過ごしたりしたら、雨で体を病んでしまいますよ。温まって、着物を乾かさねば」

 老人は目をしばたたかせ、肩をすぼめて小さくうなずいた。

「そうじゃな」

 見知らぬ若造に叱りつけられたというのに、憤る気配もない。なんと覇気のない人だろう。兵庫は内心あきれながら腰を上げた。

「さあ、行きましょう」

 老人は素直に立ち上がろうとしたが、よろけてまた尻餅をついた。動きが重く、足がふらふらしている。

「お加減が悪いのですか」

 兵庫は彼の腕を取り、引き起こしながら訊いた。老人の肌は水気がなく、奇妙にひんやりしている。

「いやいや、平気だ。ただ……腹が減って、力が入らぬのじゃ」

「まさか、昨日から食べておられぬのですか?」

「うむ」しおしおと眉尻を下げる。

「まったく、困ったお人だ」兵庫はつい笑みをもらしながら言った。「ちょっと、その弓をお貸しいただけますか」

 老人は訝しげな顔をしながらも、何ら疑いを抱く様子もなく弓と矢を手渡した。こんな調子では、悪意ある者に目をつけられるのも無理はない。

 兵庫は受け取った弓に矢をつがえながら、彼のほうに視線を向けた。

「ゆっくり歩いて、そこの草むらの中へ入ってください」

 言われるまま、老人はよろよろと草むらに足を踏み入れた。一歩ずつ慎重に、膝のあたりまである密生した草の中へと分け入って行く。十歩ほど進んだところで、彼の前方がにわかにざわつき始めた。と思う間もなく、四羽の(きじ)が一斉に飛び立つ。

 兵庫は狙いを定めて矢を放ち、茶色い羽根の雌を射落とした。少し小さめだが、ふたりで食べるには充分だろう。

 獲物を拾いにきた兵庫を、老人は驚きと賞賛に目を輝かせて迎えた。猟犬代わりに使われたことには気づいていないか、わかっていてもさして気にならないらしい。

「なんと……見事な手並みじゃ。そなた、さぞや名のある弓矢の家の者なのであろうな」

「ただの武芸者です」

 兵庫は矢に貫かれた雉の傍にしゃがみ、手早く首を折ってから拾い上げた。

「早く雨を避けて、火を(おこ)しましょう」

 そう言って歩き出すと、老人はいそいそとうしろをついてきた。


 中で焚き火をすると、岩山の小さな(ほら)はすぐに暖かくなった。明々(あかあか)と楽しげに燃え踊る炎が、洞内の空気と濡れそぼった衣類をゆっくり乾かしていく。

 兵庫は老人に手伝わせて雉の羽根をむしり、二本の枝に刺して火にかざした。ほどなく表面にきれいな焼き色がつき、溶けた脂のいいにおいが漂い始める。老人は黙ってじっと焼き上がりを待っているが、腹はひっきりなしに鳴ってひもじさを訴えていた。

「野宿というのはみじめで(いや)なものと思うていたが、そなたのように万事心得た者と一緒ならば、そう悪くもないな」

 しみじみと言って、兵庫を苦笑させる。

「あんな吹きさらしの場所にいたら、それはみじめにも思えるはずです」

「家来と行き違いにならぬだろうか……」

 戻るわけがないと知りつつ、まだ一縷の望みを捨てきれないらしい。

「あの場所に姿がなければ、周辺を探すなり名を呼ぶなりするでしょう。そうしたら、ここにいてもわかります」

「そう――そうじゃな。うむ、そなたの言うとおりじゃ」

 まったく、気弱で頼りない。だが妙に可愛いところもある。兵庫は自分がこの老人に、ほのかな好意を抱きかけていることに気づいた。小身の武士とは思えないほど品がよく、つい世話を焼かずにはいられなくなる風情がある。

 しかし老人の可愛げは長続きしなかった。時が経つにつれ、面倒臭い部分が顔を覗かせ始めたのだ。

 こんがり焼き上がった雉をふたつに裂いて、兵庫は一方を彼に与えた。だが内側が半生なのを見て、もっとよく焼けていないと食べられないという。そこでさらに焼いてやると、一口食べて、今度は固すぎるとぼやき始めた。殺したばかりなので、肉が締まっているのだ。

「相済まぬが、もう食えぬ」

 情けなさそうに言って肉を置いた彼を、兵庫は焚き火を挟んでじろりと睨んだ。

「空腹で倒れそうなくせに、何をおっしゃるやら。小さく裂いて、根気よく噛んでごらんなさい。たまらない旨味が出てきますから」

 そう言って、パリパリに焼けた皮ごと、胸肉を大きく噛みちぎる。豪快な食いっぷりを見せつけると、老人はごくりと喉を鳴らし、言われた通りに自分の分け前を指で裂き始めた。こうして従う素直さは、やはり憎めなくもある。

 ようやく腹が満たされて人心地つくと、老人は神妙な顔つきをして、にわかに居住まいを正した。

「助けてもらいながら、まだ礼も言うておらなんだ。数々の親切、まことにかたじけない」

「困った時はお互いさまです」

「わしは立州(りっしゅう)甲斐荘(かいのしょう)の隠居で、渡壁(わたかべ)義康(よしやす)と申す。お手前は」

六車(むぐるま)兵庫(ひょうご)と申します」

 義康は目をしょぼしょぼさせながら、口の中で兵庫の名を唱えた。

「むぐるま……六車……はて、聞いた覚えがあるような、ないような」

 兵庫は小さく笑った。「おそらく、お聞き及びではないでしょう。六車はおれの師匠の名で、剣術の世界ではそれなりに知られていますが、城勤めをしたことはありませんから」

「では、そのお師匠から免許皆伝され、名を継いで……」

「いえ、元の名を名乗れぬ事情ができたので、師匠がしぶしぶ名を貸してくれている――といったところです」

 貸すだけだぞ、とあの時師匠は言った。いずれ身を立てて己の家系を創始したら、謝礼をたっぷり添えて返せ、と。

 だが兵庫には、返す気などさらさらなかった。師匠にどんな嫌味を言われようと、素知らぬ顔をして、生涯この名を名乗り続けるつもりだ。

「それでご隠居、その甲斐荘という(さと)は、ここから遠いのですか」

 焚き火に枝をくべながら訊くと、義康は少し怯むような様子を見せた。

「う、うむ。まあ、遠い」

「はぐれたお仲間は、もう郷へ戻っているのでは?」

「そう――やもしれぬな」

「家来を待つのはやめて、あなたも戻られたらどうです。道がわからないなら、明日の朝、表街道まで連れて行ってあげましょう」

「うむ。いや……その……」

 義康は急に落ち着きをなくし、目をうろうろさせ始めた。大して暑くもないのに、しきりに汗を拭っている。

「あるいは、郷へ戻れぬ理由(わけ)でも?」

 ずばり訊くと、彼は小さく呻いて顔を伏せた。

「その……そのことを話す前に、訊きたい。そなた、武芸者だと言っていたが、誰ぞ(あるじ)を持つ身なのか? どの家に仕えている?」

 上目づかいにこちらを窺いながら、おどおどと訊く。兵庫はじっと彼を見つめ、その目の中に何か必死なものがあるのを見て取った。

「主はなく、どの家にも仕えていません。今は修行の旅の途中で、このあと三軒の道場を訪ねる予定です。それを終えたら、どこか名のある家の軍備(いくさぞなえ)に入軍を志願しようかと」

「そ、そうか」義康は、明らかに安堵した様子でため息をついた。「実は、わしは……狩りをしにきたのではない」

 消え入りそうな声で告白し、膝に置いた両手の指に視線を落とす。

「わけあって、郷を出てきたのじゃ。わずかな供回りと共に、関所と人目を避けて裏街道を北へ……江蒲(つくも)国を目指してな。宿場には近寄らず、山越えの険しい道ばかりを選んでの旅、しかもたびたび潜伏を余儀なくされたため、街道行なら数日で来られるところを、ここまででふた月以上もかかってしもうた」

 その旅のつらさゆえに供回りがひとり減り、ふたり減り、ついには馬取りの小者をひとり残すばかりとなった――と兵庫は想像した。しかも最後には、とうとう小者にまで見捨てられてしまったわけだ。

江州(こうしゅう)には、頼る先でもあるのですか」

 その質問に、義康はおかしな反応を示した。これまで以上に不安そうな、ほとんど怖がっているような表情になり、両手の指をそわそわといじっている。

「こ、江州には、わしの(しゅうと)――義父がいる」

 彼は細く震える声で、のろのろと言った。

「わしは義父に、あ、あ、会いに行かねばならぬのだ」

 さぞや、会いたくない義父なのだろう。にもかかわらず、おそらく誰かに追われており、引き返すこともできない。行くも地獄、退くも地獄の板挟みで、強い恐れと不安に苛まれているのが感じ取れる。家来に見捨てられた場所に二日間も座っていたのは、あるいは単に、したくない決断を先延ばしにしたかったからなのかもしれない。

 義康は打ちしおれた様子でしばらく黙っていたが、やがて顔を上げて問いかけた。

「そなた、修行の旅の途中だと言うたな。このあと、どこへ向かうつもりなのじゃ」

 兵庫は少し間を置いて考えた。人けもないこんな場所で出会い、助けたことを縁だと思って、本当のことを言うべきだろうか。それとも適当にはぐらかし、朝になったら別れを告げて去るのが賢いやり方か。

三州(さんしゅう)、あるいは江州へ」

 結局、真実を言うことにした。

「どちらにするかは、まだ決めていません。だが、いずれを先にするにせよ、最終的には両方へ行きます」

「江州へ……」義康は呟き、すがるような目を兵庫に向けた。「そ、そなた、わしの家来にならぬか」

 あまりにも唐突だったので、兵庫はすぐには反応できなかった。

「……それは、つまり――仕官のお誘いですか」

「そうじゃ。今は斯様(かよう)に頼りなき身ではあるが、江州で義父に()うて、諸々うまく運びさえすれば、また我が家を盛り立てることができる。そなたのことは必ずや高禄にて召し抱え、近習(きんじゅう)として取り立てると約束しよう」

 人里離れた裏街道近くの、獣の巣穴まがいの岩穴で、まさか仕官の話を持ちかけられようとは。兵庫は思わず苦笑し、慌ててそれを咳払いで誤魔化した。笑ったりしたら、老人の気持ちを傷つけてしまう。

「ご隠居、氏素性も知れぬ若輩に向かって、そう安易に召し抱えるなどとはおっしゃらぬほうがいい。拾って役立つという確証もないものを」

「いや――いや!」

 義康は初めて声に力を込め、前のめりになりながら、ひたむきに兵庫を見つめた。

「そなたの強さを、この目で見た。そして優しさもじゃ。わしを助けたから言うのではない。あの男を容易く殺せたろうに、そなたは斬らなかった。相手が自分よりもずっと弱いことを看破し、無益な殺生を避けたからじゃ。そういう、硬軟併せ持つ人物をこそ、わしは傍に置きたい」

 高く評価されて嬉しくはあるが、義康に対する兵庫の評価は、残念ながらそれと同等ではなかった。

「ひとつお訊きしますが――」兵庫は彼をまっすぐに見ながら、低く問いかけた。「この先、もし戦が起こったら、ご隠居はおれを伴って戦場(いくさば)へ赴かれますか」

 義康がはっと息を呑み、音を立てて唾を飲み込んだ。

「わ、わしはもう……(いくさ)働きするような年ではない」

「そうでもないでしょう。江州の総大将などは七十を超えてなお、戦場へ出て軍を采配されるとか」

道房(みちふさ)公は御年八十じゃ」上の空で呟き、しょんぼりとうなだれる。「だがわしは、あのかたと同じようにはできぬ。戦は嫌いじゃ。どこか田舎へ引っ込んで、穏やかに余生を送りたい」

 そう言ったあとで、彼は兵庫に目をやり、深々とため息をついた。

「だが、若いそなたにとって、そんな暮らしは耐えがたいほどにつまらなかろうな」

「修行に明け暮れ、一途に腕を磨いてきたからには、やはりどこかで存分にそれを使いたい、とは思います」

 兵庫は静かに言って、義康に軽く頭を下げた。

「お心に()えず、申し訳ない」

 心残りな表情をしつつも、義康は辞謝(じしゃ)を受け入れた。

「うむ、よいのだ。しかし、それはそれとして、もしそなたが江州へ向かうのなら、わしも同道させてはもらえぬだろうか。今日のようなことがあるやもしれぬと思うと、やはり、ひとりでは心許ない」

 兵庫が考え込む様子を見せると、彼は慌てて言葉を続けた。

「むろん、道中の(つい)えはすべてわしが持とう。護衛まがいのことをさせるからには、それ以外に手当ても払うつもりじゃ。日に銀銭三枚ほどで、どうか」

 早口に喋りながら、懐から洒落た(かすり)地仕立ての道中財布を取り出す。厚みからして、中にはかなりの銭貨が入っているようだ。

 彼が金を持っていると知って、兵庫は心底驚いた。てっきり、手回り品と一緒に家来に持たせていて、そのまま持ち逃げされたのだろうと思っていたのだ。

 それに、旅費を持つ上に日当も払うと申し出るなど、なかなか目端が利いている。一日あたり銀三というのも、やや太っ腹だが妥当な範囲の提示額だ。ほかの部分は何もかも人任せで浮き世離れしているが、案外これで金銭感覚はしっかりしているのかもしれない。

 兵庫はあまり金のかからない旅をしており、今のところ特に懐具合は気にしていなかった。だが七草(さえくさ)で壊した猿楽面の弁償金を払ってきたので、手持ちの銭貨が乏しくなっているのは事実だ。

 結局のところ、おれはここでこの人と出会い、江州へ向かうことになる運命だったのかもしれない。

 じっくり考えてそう結論づけると、兵庫は義康のほうに顔を向け、きっぱりと言った。

「承知しました。江州までご一緒しましょう」

「おお、そうか」義康が、ぱっと顔を輝かせる。「ありがたい。まことに、ありがたい」

「そうと決まったからには、早く休みましょう。明日は、夜明けと共に()ちますよ」

「うむ。わかった、そうしよう」

 老人は機嫌良く、うきうきしていると言ってもいいほど弾んだ声で応じ、兵庫に促されるまま洞の奥に這い込んで丸くなった。よほどくたびれていたのか、すぐに小さな寝息を立て始める。

 兵庫は(おき)になりかけた焚き火に背を向け、ごろりと横になった。静かに降り続いている雨の音に耳を傾けながら、義康のことを考える。

 郷を出たのは、ふた月前だと言っていた。人目を避けるため、道中で潜伏を余儀なくされたとも。戦を嫌い、田舎暮らしを好み、人に(かしず)かれることに慣れている。そして会話の中で、守笹貫(かみささぬき)道房の歳を適当に言って鎌をかけると、迷いなく「八十」と訂正した。咄嗟に正しい年齢を答えられるぐらい、江州の国主についてよく知っているらしい。

 兵庫は肩ごしに目をやり、安心しきって寝入っている穏やかな老顔をしばし見つめた。

 石動(いするぎ)博武(ひろたけ)どの――七草(さえくさ)(ごう)で出会った若侍の顔を思い浮かべながら、心の中で呟く。あなたがたが取り逃がした、儲口(まぶぐち)守恒(もりつね)どのを見つけたようだ。

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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