二十八 立身国七草郷・黒葛真木 一幕芝居
中奥の殿舎から望める庭の一角に、漆喰仕上げの土蔵が八棟建ち並んでいる。殿舎に近い四棟は、ちょっとした家ほどの大きさがあり、主に武庫として使われていた。やや小さめの四棟は庭を一周する道を挟んで二棟ずつ配置され、外周側の二棟は裏手に竹林を背負っている。
その竹林に降り注ぐ物憂い雨の音を聞きながら、黒葛真木は薄暗い土蔵の中で、もう小半刻近くも探し物をしていた。向かい合う別の一棟では侍女の津根が、やはり同じように蔵じゅうをひっくり返しているはずだ。
ふたりが探しているのは、真木が黒葛家へ輿入れする際に実家の母から持たされた、武家の行事や儀式に関する手引き書、いわゆる有職故実書の類いが収められた箱だった。七草城へ引っ越して来た時に、すぐには使わない私的な道具類と共に、殿舎から最も遠い蔵に仕舞ったことは覚えている。だが、二棟の蔵のどちらかに入れたかは思い出せなかった。
ほかはともかく、『六祭宝典』と『阿泉抄』だけはどうしても見つける必要がある。
夫貴昭の祖母の追悼霊祭が二日後に迫っており、真木は少し焦っていた。祭祓を執り行う司式の堂司との打ち合わせはもう済んでいるが、細かい部分の手配がまだほとんど手つかずのままだ。日々の忙しさに取り紛れ、ついつい後回しになってしまった。
七草で行う初めての大きな儀式なので、手抜かりは許されない。故実書を牽いて、きちんと準備をしなければ。
蔵にある櫃や箱の半分はすでに開けたが、目的のものはまだ見つからなかった。積みっぱなしだった箱をいくつも移動させたので埃が立ち、手燭の明かりの中でふわふわと舞い踊っている。
喉に嫌ないがらっぽさを感じた真木は立ち上がり、中二階への階段を上っていった。鉄格子が嵌まった高窓の外板を開き、湿り気のある少しひんやりした空気を呼び入れる。そのまま床に腰を下ろし、窓枠にもたれてひと休みすることにした。
女中や下女を呼んで手伝わせればもっとはかどるはずだが、ここと津根がいる蔵には、あまり他人に触れさせたくないと思うものがたくさん入っている。少女のころに綴っていた日記や、許婚時代に貴昭と交わした文などもそのひとつだ。
津根は他人のうちには入らなかった。彼女は真木が産まれた三州の狩集城に古くから勤めていた奧女中のひとりで、石動家の子供たちにとっては第二の母にも等しい人物だ。幼いころからずっと身の回りの世話をされ、体のどこにほくろがあるかまで知られているので、今さら何も隠すことはない。
真木は外から入ってくる風を顔に受けながら大きく深呼吸して、格子の隙間から竹林と白い雨空をぼんやり眺めた。こんな風に、完全にひとりきりになるのは久しぶりだ。
行事や仕事ではなく、自分自身のことを考える贅沢をしばし楽しもうとしたが、思いはいつしか目前に迫った霊祭の段取りへと戻っていった。
祭祓の進行は堂司に任せればいい。だが座を設え、儀式に必要な細々とした道具を揃えるのは真木の役目だ。
白木の薫台、白布、蝋燭、沈水香木の線香、捧げ物の米、酒、塩、果実。まだまだあるが、正確なところは『六祭宝典』を牽かなければわからない。霊祭の前に行われる茶事の支度や、儀式のあとの宴については『阿泉抄』が詳しく説いていたはずだ。
だから、こんなところで怠けていないで、さっさと見つけなさい。真木はそう自分に言い聞かせて、箱漁りに戻るため腰を上げかけ、ふと動きを止めた。話し声と足音が近づいてくる。竹林の中を抜けて裏門に通じる小道を、ふたり連れの男が歩いているようだ。どちらも声をひそめているので、窓の戸板を開けていなければ、おそらく気づくことはなかっただろう。
「……と考えておりました」ひとりが言った。「ですが、少々甘かったようです。よもや、これほど譜代が強いとは思いもよりませんでした」
「だとしたら、我らはこの先どうなるのだ」もうひとりが、少し強い口調で訊く。奇妙に鼻にかかった声だ。「前と同じように、飼い殺しも同然の扱いを受けるなら、もはや耐えることはできん」
彼はそう言ってから、大きなくしゃみをした。きっと風邪でもひいているのだろう。
「そもそもあの若造に、国ひとつ治めるだけの器量があるのか、はなはだ疑わしいところだ」
何となく耳をそばだてていた真木が、はっと顔をこわばらせた。国を治める若造。それは貴昭のことだろうか?
彼女は膝立ちをして伸び上がり、鉄格子の隙間から下を見ようとした。誰が喋っているのかを知らなければならない。だが生い茂った笹の葉に視界を遮られ、眼下にいる男たちの姿をはっきりと見ることはできなかった。
「家老衆の顔ぶれを見てみろ。柳浦、花巌、真栄城。支族ばかりで固められていて、外様など入り込む隙間もない」鼻声の男が不満げに吐き捨てる。「それから由解、石動だ。目をかけられているのをいいことに、青二才が大きな顔をしおって」
真木は息が詰まるのを感じ、胸元に手を押し当てた。疾駆する馬のように、鼓動が速くなっている。
「外様をないがしろにしているとまでは思いませぬが――」最初に聞いた声が、やんわりと言った。「当面、積極的に取り立てようという気もなさそうですな」
「やはりあの時、我らが城を取るべきだった。その気になればできたはずだ。そう思わんか」
「できたでしょう、おそらく。ただ、すぐに攻め落とされてしまったかもしれませぬ。我ら家臣団の結束はもうずっと以前より、固いとは言いがたい状態になっておりましたゆえ」
「〝前のおかた〟のお陰でな」鼻声の男が不機嫌そうに言って、大きなため息をついた。「しかし今あらためて我らが結束し、国を奪い返すこともできなくはなかろう。国主はまだほんの若造、嫡子は赤子だ。まずは素早く、一撃で頭を仕留め、残った胴体はあとでゆっくりと料理する」
「いやいや、黒葛家の譜代は侮れませぬぞ」ますます声をひそめながら、もうひとりが慎重な口ぶりで言った。「南部最強の呼び声は伊達ではありません。それに、立州に波乱ありとの一報が流れるや否や、三州と丈州の連合軍が怒濤の勢いで攻め寄せて参りましょう。黒葛三兄弟の絆は鋼よりも固いと、もっぱらの噂ですから」
蔵の横を通り過ぎたところで、足音が止まった。風邪ひきの男が、おもしろくなさそうに鼻を鳴らす。
「千軍万馬、百戦錬磨の三州本陣備か……」
「そして丈州の猛将、黒葛寛貴」
「まあたしかに、ひとたまりもなかろうな」
「もうしばらく様子を見られては。いずれ、ご不満に思われていることを直にぶつける良き折りも得られましょう。それに対する相手の出方を見てから、今後どう動くかを決めても遅くはないかと」
「だが北方の窮状は、できるだけ早く救わねばならんぞ。新参者どもは〝前のおかた〟同様、本城の周辺にばかり目を向けている。住連木や、武邑の郷の実情に気づくのはいつになるやら」
「広うございますからな、立州は」再び歩き出しながら、もうひとりがそっと言った。「気づかぬようなら、気づかせるのです。そのために残られたのでしょう」
「そうだ。しかし、前にもさんざん試みたが、あの……」
声が遠ざかっていき、真木は弾かれたように立ち上がった。あやうく梁に頭をぶつけかけたが、それには構わず鉄格子にしがみついて、顔をぎゅっと押しつける。だが、そうやって精一杯視界を広げても、見えたのは歩き去るふたりの肩のあたりだけだった。
あの人たちは誰? 貴昭を殺す話をしていた。貴昭と――貴之を。
顔から血の気が引き、身の内から激しい震えが突き上げてきた。
謀反、という言葉が脳裏に浮かぶ。
何者なのか突き止めて、今すぐ夫に話さなければ。真木は身を翻し、転げ落ちそうな勢いで階段を駆け下りた。積み上げられた箱や櫃を突きのけながら、夢中で蔵の扉を目指す。
が、外へ出かけたところで、はたと我に返った。
蔵を開け放しにしたままでは行けない。ここの管理はわたしに任されているのだ。きちんと鍵をかけなければ。それに、そうだ、高窓の外板もまだ閉じていない。
そう考えているあいだにも男たちは竹林の中をかなり進んだらしく、遠くから派手なくしゃみがひとつ聞こえてきた。今からこっそり近づいていって、相手に悟られないように顔を見るなど、もう不可能だ。
真木は両脚から力が抜けるのを感じ、へなへなとくずおれて戸口に座り込んだ。まだ胸が張り裂けそうにどきどきしている。
わたしは何を聞いたのだろう。
いろいろなことを話していたのは覚えているが、繰り返し浮かんでくるのは、愛する夫と息子への殺意を口にしていたということだけだった。彼らは不満を抱き、謀反を企んでいる。その凶刃が、いつ貴昭らに向けられるかわからない。
真木は自らを鼓舞して立ち上がり、急いで蔵の戸締まりをした。開け散らかした箱類をまだ片づけていないが、この際かまっていられない。彼女は向かいの蔵にいる津根の存在をすっかり忘れたまま、着物の裾をたくし上げて小走りに御殿へ戻っていった。
中奥の北西にある内御座之間で、真木は夫の貴昭を見つけた。ちょうど着物を換えているところで、帯を手にした女中が彼の前に跪き、腰に両腕を回している。宗家の奥方富久の口利きで最近入った、玉県家ゆかりの若い娘だ。帯を整えながら、貴昭と楽しげに言葉を交わしている。
その様子を見た瞬間、真木は急にかっとなって、頬に血を上らせた。
「あとは、わたしがします。お下がり」
やや険しい声でそう命じると、女中は平手打ちでもされたかのようにたじろいだ。すぐ傍に控えている弟の石動博武も、訝しげに片眉を上げる。
「奥方さま、もう終わりますので」
女中は平静を装い、場を取りなすように微笑んでみせた。それがなおさら、真木の苛立ちに拍車をかける。
「聞こえなかったの。下がりなさい」
斬りつけるように言ったすぐあとで、後悔の念が押し寄せてきた。だが、一度口から出してしまった言葉は取り戻せない。
女中は青い顔をして、そそくさと部屋を出て行った。貴昭は半ばあきれ、半ば不愉快そうに真木を見ている。
「あんな言い方はよくないぞ」
穏やかにたしなめられ、真木はしょんぼりと肩を落とした。自分でも悪かったと思っているので、夫の叱責はなおさらこたえる。
「すみません。わたし――少し取り乱していて……」
「どうした。故実書を探していたのではないのか」貴昭は呑気そうに言って、明るく笑った。「蔵で大蜘蛛にでも出くわしたかな」
からかわれても、真木は笑みを浮かべることができなかった。彼女が真顔のままなのを見て、貴昭も表情を少し引き締める。
「話せ」
促されるや否や、真木の口から言葉が奔流となって迸り出てきた。
「つい先ほど、土蔵の裏の小道をふたりの男が歩きながら、内緒話をしているのを聞きました。あなたと貴之を殺し、城を乗っ取る話を。彼らはおそらく、儲口守恒の家来だった者たちです。黒葛家が立州を獲ったことにも、城内で譜代の家臣たちが幅を利かせていることにも不満を抱いているようでした。ひとりが、国を奪うのは今からでも遅くないと言い、もうひとりが今少し様子を見ろと」
彼女は舌がもつれそうになるほど早口で言い、ちょっと息を継いでから、さらに熱のこもった口調で続けた。
「謀反です、あなた。城内に、謀反を企んでいる者たちがいるのです」
室内に沈黙が落ちた。ふと見ると、いつの間にか博武が主の帯を結び終えている。身支度をすませた貴昭は、格別気を張る様子もなく、いつものように悠然として真木に言った。
「家臣はみな何かと不満を抱くものだ。外様は譜代を妬むし、時には陰でこっそり、城を取る話もする。そのように、戦々恐々とするほどのことではない」
「まさか、殿――何もなさらないの?」取り合おうともしない貴昭を、真木は信じられない思いで見つめた。「あなたや、わたしたちの子供を殺す算段をしていたのですよ」
「そこまで深刻な話とは思えぬ。男たちが愚痴をもらし、ひとりが少しばかり剣呑な野望を口にした。もうひとりが、時節を待てと助言した。ただそれだけのことだ」
「いいえ、それだけではありません!」真木は頑固に言いつのった。「わたしにはとても、それだけのこととは思えません。もっと真剣に聞いてください。どうしてそんなに落ち着いていらっしゃるの」
貴昭は困ったように笑い、博武のほうを見た。
「博武、姉の話を聞いて、少しなだめてやれ。おれはもう、行かねばならん」
呆気にとられる真木をその場に残して、貴昭は表御殿に続く内廊下へと出ていった。外に控える侍臣が襖を閉め、室内には姉と弟だけになる。
「お座りなさい、姉上」博武が涼しい顔をして言った。「話を聞きますから」
真木は苛々と腰を下ろし、たちまち全身が疲労に包まれるのを感じた。ずっと昂奮状態にあったので、力を使い果たしてしまったようだ。
悄然と顔を伏せる姉に、博武はいたわるような眼差しを向けた。
「さあ、話して。最初から全部ですよ」
真木は弟を見つめ、それから話し出した。探し物をするため、津根と一緒に土蔵へ行ったこと。中二階の窓を開けたら、たまたま男たちの会話が聞こえてきたこと。彼らの不満。批判。企て。武力甚大な黒葛家に対する恐れ。そして、北の郷に関する話。
博武はずっと黙ったまま耳を傾け、ひととおり聞き終えてから口を開いた。
「顔はまったく見えなかったんですね?」
「ええ」
「彼らはどこへ行きました? 裏門から出たのですか?」
「わからないわ……。初めはそう思ったけど、裏道を通って庭を一周しただけかもしれない」
「門を出たなら、番士が見ているはずだ」
博武の呟きを聞いて、真木はぽかんとなった。たしかにそうだ。そんな当たり前のことを、なぜ考えつかなかったのだろう。
「わ――わたし……番士に訊いてくるわ。門を出ていなくても、近くを通りかかったのを見たかもしれないもの」
腰を浮かしかけた真木を、すかさず博武が引き止める。
「落ち着いて、姉上。いいから、もう少し話を聞かせてくださいよ」
「もう全部話したわ」
「男たちに何か特徴は?」
「見えなかったと言ったでしょう」
「歩き方。話し方。声。何でもいいから、覚えていることを言ってください」
やんわり促されると、いろいろと思い出せることがあるのに気づいた。
「ひとりは相手に対して、丁寧な言葉づかいをして下手に出ていたわ。もうひとりは、そう……たぶん、風邪をひいていた。ひどい鼻声だったもの」
「なるほど。そして、北方の郷の話をしていた」
「ええ。武邑という地名を聞いたわ。もうひとつ言っていたけど、そちらの郷の名前は思い出せない」
博武は腕組みをして、しばし考え込んだ。真木がそわそわしているのとは逆に、彼のほうは冷静そのものだ。
「彼らは危険だわ。そう思うでしょう?」
焦れて問いかけた姉に、博武は微笑してみせた。
「いや、危険とは思いませんね」
真木は再びかっとなって、両の拳をきつく握り締めた。
「信じられない。あなたまで、そんなことを」
「まあ考えてもみてください。彼らが言っていたことは、おおむね真実だ。黒葛家は、譜代の家臣との結びつきがことのほか強い家です。家老席は今のところほぼ支族が占めているし、七草が落ちてから降った外様は少々肩身が狭い。御屋形さまは年若く、嫡子は赤子。しかし、そう侮って謀反など起こせば、ご宗家から送り込まれた強力な一軍にたちまち駆逐される」
博武はつらつらと挙げていき、にやりと笑って最後につけ加えた。
「そしておれは、御屋形さまに目をかけられて大きな顔をしている青二才だ。全部本当のことですよ」
何でもないことのように言う弟を、真木は呆然と見つめた。男たちの呑気さがまったく理解できない。なぜ、こんなにも平然としていられるのだろう。
「何とも思わないの? あなたがあんなに可愛がっている甥に、危害が及ぶかもしれないのよ」
「おれの目の黒いうちは、そんなことはさせません」博武はちょっと真顔になり、身軽に立ち上がった。「ともかく、この件については引き受けますから、もう思い煩わないことです。気を落ち着けて、霊祭の準備に専念していてください」
「無理だわ、そんなの」
「できますよ。さあ、蔵へ戻って」博武は襖を半分開けて振り返り、小憎らしいほど泰然とした笑みを見せた。「姉上が急に消えたので、今ごろ津根がうろたえていますよ、きっと」
月明けて巧月朔日。七草城の麓御殿で、黒葛貴昭の祖母安和の追悼三年霊祭が粛々と催された。
一の儀は茶事。二の儀は祈唱。三の儀は霊前に花や線香、蝋燭などを手向ける祭礼。四の儀は親族が司式の堂司を交えて食事を取る御膳。
そして残すは五の儀の祭宴のみとなり、酉の刻を期して君臣一同が表御殿の大広間に集まった。七草では初めてとなる、総勢八十名の大宴会だ。そこには貴昭に同席を許された、真木と貴之の姿もあった。
「ずいぶんと骨折りをさせたが、よくやってくれたな」
主立った家臣たちと盃をやり取りしたあと、貴昭は真木にも盃を与えて労をねぎらってくれた。彼の膝には幼い息子がちょこんと座り、広間の中央で滑稽な舞を披露している猿楽師に見入っている。
「滞りなく済んで、ほっとしました」
微笑みながら、真木は酒を口に含んだ。普段から飲みつけている濁り酒だが、今夜はいつになく甘く感じられる。
猿楽が二番目の演目に移る前に、栄螺の壺炒りや海老の鬼殻焼、南瓜の胡麻汁などが運ばれてきた。海老は味が濃く、身が口の中で弾けるほど新鮮だ。
真木は大広間を見渡して、家臣たちがそれらの酒肴に舌鼓を打ち、大いに楽しんでいる様子を心嬉しく眺めた。譜代もいれば外様もいるが、今日のところはみな仲良く酒を酌み交わしている。
だがこの中に、謀反の企みを心に秘めた者たちがいるのだ。できるだけ考えまいとしてはいるが、どうしてもそのことが頭から離れない。
舞い踊る猿楽師たちの向こうに目をやると、弟の博武が見えた。黒葛家の一門衆にほど近い席を与えられ、年配の重臣たちと歓談しながら楽しげに盃を重ねている。
引き受けると言ったのに。真木は心の中で、そっと不満の呟きをもらした。ああ言ったからには、何かしら手を打ってくれるものと期待していたが、今のところ弟からは何の報告もない。この二日間、なんとか彼を捕まえて話を聞こうとしていたが、双方ともあまりに多忙で顔を合わせる暇もなかった。
あの男たちを捜してくれているのかしら。明日こそは、何か進展があったかどうか聞かなければ。
演し物がひととおり終わったあたりから、祭宴は本格的な無礼講の酒宴へと移行した。料理や酒がひっきりなしに運び込まれ、大広間全体が人々の笑い声やざわめきで満たされる。
そのあまりの喧噪に、真木は幼い貴之が怖じけるのではないかと危惧したが、朝からずっと上々だった息子の機嫌は少しも変わらなかった。時折父親から食べ物を口に入れてもらいながら、厳つい武将たちが大声で喋り、次々に酒を干す様子を興味深げに眺めている。
「若君は肝っ玉が太うございますな」
向かい側に座る筆頭家老の花巌義和が、盃を手にして感心したように言った。怜悧な目と優しい微笑を持つ彼は、前の所領の蘇武に住んでいたころからずっと貴昭に仕えている重臣のひとりだ。
「この騒ぎにもかかわらず、平然となさっておられる」
彼の言葉を聞いた貴昭は、頬をゆるめて息子を見下ろした。
「誰に似たのやら、な」
「御屋形さまに、よう似ておられます」そう言ったのは、義和の隣にいる十七歳の息子利正だ。「お顔立ちも、ご気性も」
貴昭は笑って、真木のほうへ顔を向けた。
「やたらと好奇心の強いところは母親似だ。ここ最近の贔屓は、何だったかな」
ふいに水を向けられ、真木は急いで答えた。
「馬ですわ、殿。日に一度は必ず、厩へ行きたがります」
「それはよい」真木の右隣の席にいる真栄城修資が、目を輝かせながら口を挟んだ。「早う馬術を教えて差し上げたいものだ」
彼はまだ二十代半ばだが家老衆に名を連ねており、馬の扱いにかけては名手として知られている。
「立州には月出や久禮など優れた馬産地がたくさんありますから、六年子のお祝いには、わたしが念入りに選んで初駒をお贈りしましょう」
若い利正が、俄然興味をそそられた様子で話に加わる。「北方の久禮馬は足が速いだけでなく、姿形もたいそうよいそうですね」
息子の言葉を横で聞いていた義和が、ふと盃を置いて貴昭を見た。
「北方で思い出しましたが――」その顔に、少し気づかわしげな表情が浮かんでいる。「御屋形さまのお指図で進めておりました人頭調査、あれで判明した中に、いささか気になる事実がございました」
周囲の喧噪が、少しだけ小さくなった。声の届く範囲にいた者たちが、一斉に耳をそばだてたようだ。
真木の隣で修資が、やれやれというようにため息をもらす。
「義和どの、くだけた席で無粋な話題を持ち出されるな」
「いや、話せ」貴昭が手を振って先を促した。
「年来の悪政が祟り、今なお立州からは人が減り続けています。百姓の逃散は殊に活発で、小集落がいくつか消滅した地域もございました。それらの中でも北部の郷村は人の欠落がはなはだしく、もはや見過ごしにはできぬ事態となっているようです」
貴昭は眉間に軽く皺を寄せ、考え込みながら酒を一口飲んだ。
「北部でそれが顕著になる、相応の理由があるはずだ。何かわかったのか」
「いえ、それはまだ」義和が面目なさそうに言う。「人をやって、早急に実情を調べさせるつもりでおります」
その時、義和と同じ並びにいた博武が、突然口を開いた。
「北方地域のことでしたら、馳平充明どのがお詳しいかと」よく通る声で、さらりと言う。
人々の頭がきょろきょろと辺りを見回し、やがてひとりの男を見いだして止まった。彼は上席から少し離れた場所で、半端に盃を持ち上げたまま固まっている。不意に名指しされ、心底驚いているようだ。
真木はその男をまったく知らなかった。おそらく、七草で新しく家臣になった者だろう。年は三十代半ばと見え、実直そうな顔つきをしている。
貴昭は充明を見やり、それから博武に視線を向けて問いかけた。
「なぜそう思う」
「昨日たまたま、四方山話をしていた時に、武邑郷のご出身とお聞きしましたので。北の国境に近い郷だそうです」
真木は、はっと目を見開いた。ねじ切れんばかりの勢いで首を回し、その男のほうに再び顔を向ける。
充明は満座の注目を集め、戸惑い、気後れしている様子だ。だがすぐに気を取り直し、ゆっくりとうなずいた。
「博武どのの言われる通り、北方地域のことはよく存じております」
彼の鼻声を聞いた瞬間、真木の直感は確信に変わった。この男だ。そしてようやく、ここまでの会話が単なる雑談ではなく、入念な筋書きに沿ったものであったことに気づいた。
貴昭が馳平充明にまっすぐ目を向け、「近う」と差し招く。すると彼は、雲を踏むような覚束ない足取りで前へ進み出てきた。貴昭と真木が並んで座る場所からは少し離れて、遠慮がちに腰を下ろす。
緊張に顔をこわばらせている充明に向かって、貴昭は穏やかに言った。
「聞こう」
「は。その――ご家老がおっしゃられた通り、北方地域は……危殆に瀕しております。特に武邑郷や住連木郷では田畑が荒れ、欠落が相次ぎ、このままでは遠からず郷として成り立たなくなるでしょう」
初めはたどたどしかったが、話すうちに落ち着いてきたのか、彼は声に力を込めて熱っぽく訴え始めた。
「その原因は、このふたつの郷を貫く阿比留川にあります。南方地域まで太く長く続き、交通と輸送の要となっている大河ですが、北方の上流付近ではこれがどうにも手に負えぬ暴れ川で」
「氾濫するのか」
その問いに、充明が目をきらりと光らせる。
「まさに。数年前に堤防が壊れてからというもの、豪雨のたびにあふれ出しては、周辺を一面の湿原に変えるというありさまです」
「大規模な治水が必要だな」貴昭はそう言って、訝しげに眉をしかめた。「儲口守恒は、なぜ今まで放っておいた?」
充明は悔しそうに唇を噛んだ。
「幾度も進言はいたしました。が、遠く離れた北方のことゆえ、あまり興味を示されず……」
「馬鹿な。国境の郷は要衝だ。人を住まわせ、栄えさせねばならん」
貴昭はやや厳しい口調で言い、花巌義和に目をやった。
「聞いたな、義和。急ぎ、梃子入れが必要だ」
「御意」
「充明」
「は」
「進言したと言うからには、郷の立て直しに関して何か具体的な案があるのだろう。それを話せ」
思わぬ機会を与えられた充明が、目に昂奮の色を浮かべて前にのめる。
「い、いくつか考えがございます。まず治水ですが、真っ先に浚渫。次に堤防のかさ上げ。放水路を掘り、遊水池を整備する必要もあります。それから欠落を埋めるために、洪水で傷んだ土地を三年荒野として他国からも人を寄せ集め、新田の開発を行わせてはいかがかと」
「〝三年荒野〟……?」
聞き慣れない言葉を耳にした真木が思わず呟くと、隣から真栄城修資がそっと教えてくれた。
「荒れ野を耕して水田を新たに作れば、三年間は年貢と夫役を免除するということです」
真木は自分の中で、馳平充明に対する印象ががらりと変わるのを感じた。下克上を狙う者でもなければ、単なる利己的な不平家でもない。彼は故郷の荒廃を真に憂い、自分が城を取ってでも民草を救いたいと願っていたのだ。
必死の訴えを主に取り合ってもらえないことに、おそらく充明は慣れすぎていたのだろう。だから、強硬手段に出るもやむなしという短絡な発想に行き着き、ついそれを口に出してしまった。
だが主が訴えに耳を傾け、本気で問題と向き合ってくれるのなら、彼が暴挙に出る理由はない。
ひととおり話を聞いた貴昭は、息子の髪を上の空でなでながら言った。
「なるほど、よく考えているな。おぬしの献策どおりに進めてみよう。阿比留川の治水を任せる。現地へ赴き、義和と連絡を取り合いながら事に当たれ」
あまりの即断即決ぶりに真木は驚いたが、重臣たちは誰もさしたる動揺を示さなかった。おそらく、夫と彼らの間では事前に話し合いがなされていたのだろう。
そんな裏事情を知るはずもない馳平充明は、雷にでも打たれたかのように硬直し、噴き出した汗で額を光らせながら両手をついてひれ伏した。
「ありがたき幸せ」感動で声が震えている。「御屋形さまのご期待に添うよう、粉骨砕身して相勤める所存です」
静かに彼を見つめたあと、貴昭は固唾を呑んで成り行きを見守っていた一同に声を張って語りかけた。
「おれは立州の守護者となったが、当地のことはまだ何も知らん。ゆえに今後はできるだけ場を設けて、この地に生まれ育った者たちから話を聞いていくつもりだ。思うところある者は充明に倣って、身分にかかわらず、また、臆することなく進言してもらいたい」
譜代も外様もなく、一同が声を揃えてその要請を承充し、大広間は強い一体感と不思議な熱気に包まれた。それを機に座が再び盛り上がり、どの盃にもなみなみと酒が注がれる。
「若君はもう、おねむのようだ」
ふいにそう言って、博武が立ち上がった。見ると貴之は父の膝の上で、すでに半分眠りかけている。先刻にも増して大きくなった人声や物音も、まったく耳に入っていないようだ。
「奧御殿までお連れします」
博武は甥を受け取り、腕に抱いて廊下へ向かった。
「わたしも一緒に行って、寝かしつけて参ります」
真木は夫に断って席を立ち、急いで弟の後を追った。すでに内廊下を半ばまで進んでいた彼に追いつき、うしろから声をかける。
「待って」
博武は立ち止まり、振り返って訊いた。「彼でしたか?」
「ええ。どうやって見つけたの」
「存外簡単でした。外様で、風邪ひきで、北方の地にかかわりのある人物とくればね」
彼は事もなげに言って、再び歩き出した。
「話をしてみたら、なかなか感じのいい人物だとわかりました。ちょっと生真面目すぎるが、頭も切れる」
「あの筋書きは、あなたがこしらえたの?」
博武はそれには答えず、いたずらっぽい笑みをちらりと覗かせただけだった。
「天翔隊の訓練に行くと言っていたけど――」感謝の言葉を述べる代わりに、真木は素直に本音を明かした。「あなたが傍にいなくなると思うと不安だわ。またこんなことがあったら、誰に相談すればいいのかしら」
「何ごとも、まずは御屋形さまに」
呟くように言い、彼は腕の中で完全に寝入ってしまった甥を愛おしげに見つめた。
「そして姉上ご自身も、もっとしたたかになってください。小さなことでいちいち大騒ぎしていては、国主の妻は務まりません」
耳に痛い言葉だった。年若い弟に言われるのだからなおさらだ。だがそのあとで、彼は優しくつけ加えた。
「でも本当に助けが必要な時には、おれはいつでも戻ってきますよ」
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