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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第三章 それぞれの旅路
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二十七 御守国御山・街風一眞 箸

 思いのほか肉体の損傷が大きく、熱もなかなか下がらなかったため、一眞(かずま)は三日間にわたって(とこ)でおとなしくしていることを余儀なくされた。はじめはいい休息だと思っていたが、狭苦しい部屋に何日も押し込められていると、さすがにうんざりしてくる。

 天井板に浮かんだしみを眺めながら、明日は必ず床払いをしようと考えていると、入り口の引き戸を開けて玖実(くみ)が顔を覗かせた。

「午前の調練が終わったから、様子見に来たわ。具合どう?」

「暇だ」

 愚痴を言うと、彼女はけらけら笑いながら中に入ってきた。

「男部屋に入るなよ」

「別にいいじゃない」

「せめて、ほかのやつらもいる時にしろ」

「固いこと言っちゃって」玖実はふんと鼻を鳴らして、寝台の端に腰を下ろした。「肩、まだ痛むの?」

 一眞の左腕は、未だに(さらし)で固定されたままだ。ある程度自由のきく吊り包帯に取り替えたいところだが、動きを制限されているほうが傷めた箇所の治癒は早いだろう。

「脱臼ってのは整復したあとも痛むもんだ」

「あたしは経験ないなあ。指を折ったことはあるけど。うんと、ちっちゃい時にね」

 玖実はそう言いながら、痣と傷に覆われた一眞の上半身を無遠慮に眺め回した。

「ふーん……」少し色素の薄い目に、貪欲そうな光がひらめく。ご馳走を前にした猫のようだ。「強いやつがぼろぼろになってるのって、ちょっとそそるわ」

「人ごとだと思って、好き勝手言いやがって」

 彼女は身を乗り出し、上から覗き込んだ。

「熱あるの?」

「ああ」

 玖実の顔が近づいてくる。少し口を開いて迎えると、唇を合わせながら素早く舌を差し入れてきた。手慣れた所作だ。

 ややあって顔を上げた彼女は、生意気な目をしてにやりと笑った。

「ほんとね、口の中が熱い」

「怪我人に手を出すのか」

 形ばかりの抗議してみせると、玖実は片眼をしかめて、一眞の腕をぎゅっとつねった。けっこう力が入っている。

「おい、痛いだろ。痣を増やすなよ」

「いい気味」

 彼女はそう言いつつも、つねった場所を優しくさすった。手のひらがわずかに汗ばんでいる。

「こないだの勝負、あたしの勝ちだったよね」

「そうか?」

「あたしはあいつの股下に撃ち込んだのよ。そっちは爪先より二寸も前だったじゃない」

「まあな」

 それはおまえよりも、おれのほうが分別があったからだ、とは言わずにおく。分別云々を言うなら、そもそも撃つべきではなかったのだ。

「おまえの勝ちでいいさ」

「なによ、もったいぶって」

 玖実はにやにやしながら、一眞の喉の窪みを指先でくすぐった。首を伸ばし、熱で温まっている耳の縁を(ねぶ)る。それから、手を少しずつ下に滑らせていった。

 そんな風にあちこち触られると、あまりその気はなくとも体が反応し始める。知らず知らずのうちに、一眞は視線で彼女を愛撫していた。勝ち気な性格とは裏腹に、丸みを帯びていて柔らかい肢体。よく実った初秋の果実のような胸。それを手のひらで包んだ時の感触を、まざまざと想像することができる。

 彼女が着ている万事衣(まんじごろも)の下に潜り込みたがっているかのように、傷めていないほうの腕がぴくりと動いた。

 一眞の目にはっきりと欲望を見て取り、玖実が満足げに微笑む。

「負けたんだから、あたしの言うこと聞くでしょ?」

「ああ」一眞はうなずき、しかし決定的な場所に行き着く前に、彼女の手を軽く払った。「でも今日は無理だ。片腕が使えないし、起き上がると体が痛むからな。それに、ここじゃまずいだろう」

 玖実が不機嫌に眉をしかめる。

「じゃ、いつならいいの」

「四、五日したら」

「ちぇっ、つまんない」

 唇を尖らせ、彼女はようやく体を離した。両手で髪をかき上げながら立ち上がり、寝台の足元のほうに座り直す。急に通りかかった誰かに見られても、あまり咎められずにすむぎりぎりの距離感だ。その位置から、玖実は一眞をじろりと睨んだ。

「あんたって、初心(うぶ)じゃないよね?」疑わしげに訊く。

「当たり前だろう」

「よかった。おぼこ男の相手はごめんだから。女に興味津々なのになんにも知らないし、そのくせ、人から聞いた話を鵜呑みにして知ったかぶりするの。女はこういうものだって勝手に決めつけて、ちょっとでも違ってると文句言ったりね。そういうやつらには、ほんとうんざり。あたしはただ可愛がって、いい気持ちにさせて欲しいだけなのに、連中はそういう時にいつだって的外れなお説をぶって、気分を台無しにさせるのよ」

 やけに大まじめに言うので、一眞は思わず笑ってしまった。

「ずいぶん(から)いな」

「あんたも、女になったらわかるわ」

 玖実の声がかつてないほど冷たく、かつ真剣だったので、彼は笑いをひっこめて彼女を見つめた。

「おまえ、武家の出なのか?」

 よく考えると、これまで玖実の出自については訊いたことがなかった。

「そこそこの武家の、三人目の側室のふたりめの娘よ」

「側室が三人? またえらく張り切ったもんだな」

「ご正室さまにお子ができなかったの。だから側室を迎えたんけど、生まれるのはどういうわけか女の子ばっかり。で、どんどん側室の数が増えていったってわけ。あたしは全部で九人いる娘の七番目」

 それから彼女は、自分がなぜ昇山することになったかを語った。

 きっかけは、七番目の娘がそろそろ年ごろになり、にもかかわらず野生の動物のように無軌道に育っていると、ある日父親が突如気づいたことだという。

「滅多に会わないから、あたしのことなんて忘れてたのね。でも久しぶりに会ったら(しつけ)がなってなかったんで腹を立てて、行儀見習いに上げるって言い出したの」

 玖実の奉公先は、二万石ほどの領主の館だった。そこで奧女中として二、三年働き、武家の娘らしい振る舞いや常識を身につけたら、父親があらためて嫁ぎ先を見つける。予定では、そのはずだった。

「でもあたし、そこの若さまとできちゃったんだ」玖実はあっけらかんと言い、肩をすくめて見せた。「上品でいい男だったから、ちょっといいかなと思ったのよね」

「それが問題になったのか? 若殿が女中に手をつけるなんて、別に珍しいことじゃないだろう」

「うん、まあね。でもその若さま、あたしに本気で入れ込んで、妻にするとか言い出しちゃって。しかも側妻(そばめ)じゃなくて正妻よ。信じられる? まったく、馬鹿みたいよね」

 玖実は辛辣そのものの口調で言い放ち、昂然と頭を反らした。その目に、本気の嘲りが浮かんでいる。

「あんなおぼこい坊ちゃんの女房なんて真っ平。正直にそう言ったら、父が怒ったのなんのって」彼女は皮肉っぽく鼻先で笑った。「おまえのように恩知らずでふしだらな娘を、我が家から嫁には出せん。昇山して御山の奉職者になれ――と、こうよ」

「御曹司の正室になるより、昇山するほうがましだったのか?」

 宿堂の廊下をどやどや歩いてくる足音を聞きながら問いかけると、玖実はちょっと考えてから小さくうなずいた。

「たぶんね。うん、これでよかったんだと思う」

 いつも強気な彼女には珍しく、少し心許なげに、囁くような声でそっと言う。その時、部屋の入り口に伊之介(いのすけ)信光(のぶみつ)が姿を現した。

「よう、どうしてる?」

「暇だ」

 先ほどと同様に言うと、伊之介もまた大声で笑った。

「わかるぜ。木剣を握りたくて、うずうずするだろ」

 伊之介のうしろにいた信光が、室内に玖実の姿を見つけて目を丸くする。

「おいおい、女が男部屋に入るなよ」

「あんたたちって、ほんと固いんだから」

 玖実は寝台からぽんと飛び降りると、つんつんしながら出て行った。さっきまで、あんなに艶っぽくしなだれかかっていたくせに、去り際に振り向きもしない。だが彼女の切り替えの早さが、一眞には好ましく思えた。

「おれがこないだ風邪で寝込んだ時、あいつ、見舞いになんかこなかった」信光が眉間に皺を寄せてぼやいた。「この扱いの差はどういうことだ?」

「気まぐれな女の考えることなんて、わかるもんか」

 伊之介がにやりとして、空いている寝台のひとつに腰を下ろした。信光もほかのひとつに飛び乗って胡座(あぐら)をかく。彼は座り心地を確かめるように、尻をちょっと動かしてからふいに言った。

「なあ一眞、おれ、ここに移ってくるぞ」

 何を言われたのか咄嗟に理解できず、一眞は彼に怪訝な顔を向けた。信光が腕組みをして、ため息をつく。

「ああ、わかってるよ。歓迎しないって言うんだろう」

 そこでようやく、彼の言わんとするところを呑み込んだ。喉につかえさせながら。

「どうして移らなきゃならないんだ?」

「そうしたいからさ」

「おれも移るぜ」

 横から伊之介が言い、さらに一眞を当惑させる。

「なんなんだよ、おまえら」

「別にいいじゃないか」伊之介は肩をすくめて両手を広げた。「何の問題がある?」

「おれは、ひとりで寝るのが好きなんだ」

 斬り返すように言うと、彼はへらへら笑って見せた。

「つれないこと言うなって。下の行堂から来た新参が入るより、見慣れた顔が入るほうがいいだろ。ひとりで使ってるやつなんておまえと、端っこの部屋をずっと独占してる庄造(しょうぞう)と、あとほんの二、三人だけだぞ」

「その二、三人は(いびき)がすごいやつとか、歯軋りしまくるやつだ」信光がうんざり顔になる。「前に樽みたいな体つきのやつと同室になったけど、あいつの鼾はとにかく最悪だった。(ふと)ったやつって、やたらでっかい鼾をかくよな」

 話を逸らすなと言いかけて、一眞は思い直した。たしかに、いずれ新参が入ってくるだろうし、それよりは伊之介たちが同室になるほうがまだしもだ。だが、警護隊を気取られるのはかなわない。

「おれは、ひとりで平気だ」

 念を押すように言うと、伊之介が真面目な顔でうなずいた。

「ああ、そうだろうよ。だがひとりでなかったら、そんな怪我はしなかったかもな」

 嫌な成り行きだ、と一眞は思った。こいつらはおれに仲間意識を持っている。前におれを仲間だと思った連中がどういう目に遭ったかを教えてやったら、いったいどんな顔をするだろう。

 すでに話が決まったかのように、伊之介はさらりと話題を変えた。

「ここに閉じこもってると、世間の動きに疎くなるだろう。最新の話題を教えてやる。今朝、参道を派手な輿(こし)が登ってきた話だ」

 一瞬、一眞は流れに逆らって話を戻すことを考えたが、すぐにあきらめた。もう彼らの中では決定事項なのだ。そしてまず間違いなく、利達(としたつ)もこれにからんでいる。三人が結託して強引に引っ越してくるなら、それを阻止する手立てなどない。文句を言ってやっても、連中は気にも留めないだろう。

 一眞は嘆息し、手を振って先を促した。

「輿がなんだって?」

「朝早く、男が四人がかりで大祭堂まで小輿(こごし)を担ぎ上げたのさ。朱塗りの高欄がついた立派なやつで、上に(にしき)の布団を敷いてあるんだ」

「どこのお大尽だか知らないが、そんなものに乗って来て参拝者づらしようなんて、間抜けもいいとこだな」

「それが、参拝者じゃなかったんだ」信光が口を挟む。「乗ってたのは東峽(とうかい)でも一、二を争うっていう大店(おおだな)の娘で、新しい若巫女(わかみこ)さまだったんだよ」

 これはたしかに目新しい話題だった。一眞はここに来てもう半年以上になるが、若巫女や若巫子(わかふし)昇山(しょうざん)はその間一度もなかったように思う。

「昇山者なら、なおさら自分の足で歩いて登るべきだろう」

「まあな。でもまだお小さいんだよ。四歳なんだとさ」

「珍しいな。普通は六年子(ろくねんご)だが」

 子供が六歳になると、六年子の祝いが行われる。聳城国(たかしろのくに)に古くから伝わる年中行事のひとつだ。端月(たんげつ)九日、親は六年子に晴れ着を着せて祭堂に参り、これまでの成長を言祝(ことほ)祈唱(きしょう)と、行く末を神に問う尋聴(じんちょう)堂司(どうし)に依頼する。若巫女や若巫子は、その尋聴の際に神告(しんこく)が下りて選ばれることが多かった。

「じゃあその子は、御山に今いる中でいちばん幼い若巫女ってことか」

 一眞の言葉を聞いて、伊之介が片方の眉を吊り上げた。

「おまえ、案外物知らずだなあ」あきれたように言う。「蓮水宮(れんすいぐう)に、今年生まれたばかりの若巫女さまがいることを知らないのか?」

「まさか」

「いるんだよ。星月(せいげつ)七日のお生まれで、祝名(いわいな)青藍(せいらん)さまだ」

 これには一眞も言葉を失った。

「だったら……まだ生まれてふた月にもならない赤子じゃないか。そんな子に神告が下りたのか?」

「驚くよな。もっと驚くのは、彼女が蓮水宮で生まれたってことだ。ふた親は、若巫女さまと若巫子さまなんだよ」

 今一度、衝撃を受けて一眞は黙り込んだ。御山にとっては、たいへんな醜聞だ。赤子に罪はないが、両親の破戒の末に生まれた以上、周りは彼女を罪の子、罪果(ざいか)と見なすだろう。それでいて祝福された若巫女とでもあるとは、この世は皮肉に満ちている。

「大変な人生を送りそうだな……」

 一眞の呟きに、信光が大まじめな顔で同意する。

「まったくだ。ひょっとしたら、次の祭主(さいしゅ)さまに指名されたりするかもしれないぞ。もしそうなったら、お気の毒なこったなあ」彼は大仰にため息をつき、ぶるっと身震いした。「おれだったら、真っ平ごめんだよ。信徒の頂点に立って、いろんな責任を全部引き受けるなんて」

 そこへ五十公野(いずみの)利達が、手に折敷(おりしき)を持って現れた。

「ちょっと早いけど、(くりや)で飯をもらってきたよ」

 一眞が上半身を起こすと、彼は今にもひっくり返しそうな危なっかしい手つきで、折敷を膝の上に載せた。汁椀に七分目ほど注がれた味噌汁が大きく波打っている。それでも、盆の表面には一滴もこぼれていなかった。かなり慎重に歩いてきたのだろう。

「手間かけたな」

 簡単に礼を言って、一眞は昼餉を食べ始めた。主菜は干しエビが入った冬瓜の葛煮、小皿は胡瓜のぬか漬けと沢庵(たくあん)だ。厨の当番が気を利かせてくれたらしく、玄米飯は片手でも食べやすいよう握り飯にしてあった。

「いつ越してくるんだ?」

 塩気のきつい沢庵をぽりぽり囓りながら訊くと、利達があからさまにうろたえ、真っ赤になった。

「も、もう聞いたんだ」

「ああ」

 一眞は彼をじろりと睨んだ。おまえの発案だろう、という糾弾を込めて。

「一眞は歓迎しないとさ」信光がしょぼくれた笑みを浮かべた。「おれは半分死んだみたいに静かに眠るのになあ」

「わ、わ、悪気じゃないんだよ」どもりながら利達が弁解する。「ただ……ただ、みんな一緒のほうがいいと思って」

「わかった。それで、いつなんだ」

 口調をやわらげて再度訊くと、彼は少し安心した様子で肩の力を抜いた。

「明日、温習の時間に」

「明日だな」

 一眞はうなずき、手早く食事を終えた。ほかの修行者も、そろそろ昼飯の刻限だ。彼は(じき)堂へ向かう利達に、食器の返却を託した。

「悪いな」

「いいって。晩飯の前に、また来るよ」

 折敷の上には箸が半膳しか載っていなかったが、利達も含め、誰もそのことには気づかなかった。


 四更をそろそろ回ろうかというころ、一眞(かずま)は暗闇の中で起き上がり、腕を固定している(さらし)を手探りで解いた。三日ぶりに自由になった左腕を、ゆっくり慎重に動かしてみる。肩の腱と筋肉にまだ違和感があり、あまり力は入れられないが、動作が阻害されるほどではなかった。これなら、明日から当番には復帰できるだろう。

 寝台から下りて立ち上がると、体のあちこちが一斉に軋んだ。背中や腿の裏側の打ち身に、痛みが重く(こご)っている。これはかなり後を引きそうだ。

 彼は部屋を出て、宿堂の端まで歩いて行った。出口近くで立ち止まり、廊下の右手側の引き戸を細く開ける。室内に四つある寝台のうち、三つがふさがっていた。戸をきっちりと閉め直し、反対側へ向かう。

 目指す人物は、そちらの部屋でひとりで寝ていた。奥の壁際の寝台で大の字になり、縁から片手をはみ出させている。

 一眞は中に滑り込み、廊下の様子を少し窺ってから音もなく戸を閉めた。まっすぐ歩いて行って、寝台の縁に片膝を載せる。そこまで近づいても、部屋の主は目覚めなかった。熟睡しているようで、気持ちよさげな軽い寝息が途切れることなく続いている。

 上に跨がりながら一気に体重をかけると、庄造(しょうぞう)がはっと目を見開いた。跳ね起きようとするのを押さえつけ、しっかり握った箸の先端を右の鼻穴に素早く差し込む。彼はびくりと小さく痙攣し、そのまま動きを止めた。

「そうだ」一眞は低く囁いた。「起き上がらないほうがいい。奥まで刺さるからな」

 彼は庄造の腕をまっすぐ伸ばさせて自分の膝の下にあてがい、完全に動きを封じた。それからあらためて前に身を乗り出し、顔と顔を突き合わせる。

「くしゃみをするなよ。一瞬であの世行きだ」

 庄造の体から()えたような汗と、恐怖の苦いにおいが漂ってきた。半開きの唇が、わなわなと震えている。

「おまえはいかれたやつだが、おれを殺すことまではしなかった。饗庭(あいば)左近(さこん)から、痛めつけるだけにしておけと命令されたからか?」

 庄造は鼻に刺さったままの箸と、間近にある一眞の顔とに(せわ)しなく視線を往復させた。ただの脅しなのか、本気なのかを必死に推し量ろうとしている。一眞は小さく舌打ちして、箸の根元に親指を当てながら少し圧力を加えた。途端に、庄造の目の動きが止まる。

「訊いたことには答えろ。おれはあまり辛抱強くないぞ」

 庄造はひゅっと音を立てて息を吸い、蚊の鳴くような声で答えた。

「命令、された」

「左近に?」

「そう」

 一眞はさらに圧力をかけた。箸の鈍く尖った先端が鼻腔の最奥に届き、弾力のある柔らかい壁に突き当たる。庄造の両眼から涙があふれ出し、こめかみに流れ込んで髪を濡らした。

「おまえも下界で、何人か殺してきたんだろう」一眞は声をひそめたまま、静かに話した。「なぶり殺しが好きなんだよな。そうだろう? おまえみたいなやつは知ってるし、ある意味ではおれもおまえの同類だ。まともな連中――伊之介や利達のことよりも、おまえのほうがずっとよくわかる」

 庄造が顔を歪めて泣き声をもらした。目に懇願するような哀れっぽい色が浮かんでいる。取り巻きを連れてのし歩いている時には、決して見せることのない表情だ。

「おまえを殺さないほうがいい理由が、ひとつでもあるなら言ってみろ」

 そう囁きかけると、庄造はひっひっと息を詰まらせながら、切れ切れに言った。

「も、もし、ば、ばれたら……」

「もしばれたら? どうしてばれるんだ。おれが今この箸に体重を乗せて一気に押し込んだら、おまえは叫ぶ間もなく事切れる。おれはこいつを(かわや)にでも捨ててから部屋に戻って寝て、朝になったらほかの連中と一緒に、おまえの死体を見ながら驚いた顔をするさ」

 一眞は鼻で笑い、彼の顔を覗き込んだ。

「万一ばれそうになったとしても、おとなしく捕まるのを待ってると思うか? 一眞を連れて来いと誰かが言った時には、おれはもう尻に帆をかけてずらかってるよ」

 庄造の目の中を暗い絶望がよぎった。一眞が笑いながら自分を殺し、その後も何食わぬ顔で御山に居続けるであろうことを確信したかのように。

 上機嫌の笑顔で、一眞はまばたきひとつせず庄造を凝視した。彼の頭にその表情が刻み込まれるまで、何も言わず、充分すぎるほどのあいだ、ただじっと見つめ続ける。それから、ゆっくり箸を引き抜いた。

 先端にこびりついた水っ(ぱな)が、鼻の穴とのあいだに長く糸を引く。彼はそれに嫌悪の眼差しを向けると、上掛けで乱暴にぬぐった。脂汗にまみれ、今にも窒息しそうに赤らんだ庄造の顔は、もう涙と鼻水とでぐしゃぐしゃだ。

 寝台から下りると、一眞は無言のまま一歩ずつ後ずさった。その動きを、まだ横たわったままの庄造が、荒い息をしながら追っている。部屋を半歩出たところで彼は足を止め、寝台の上のこんもりした人影をしばらく眺めてから、そっと引き戸を閉じた。途端に、押し殺したすすり泣きが室内からもれ聞こえ始める。

 あいつを心底震え上がらせたことは間違いない――と一眞は思った。しばらくは立ち直れないほどに。

 だが、朝になって明るい日差しを浴びたら、恐怖は少し遠のくだろう。手下と顔を合わせ、何でも言うことをきく連中に一日囲まれていれば、それはさらに急速に薄れていく。三日も経つころには、あんなのは別に何でもなかった、結局はただの脅しで、本気で殺すつもりなどあるわけがないし、そんなことをする度胸もないのだ信じるようになっているはずだ。

 その頃合いで、また腹を割った会話をするのも悪くない。その時には、そう、ちょっとした頼み事をすることになるだろう。

 庄造は考えつかなかったようだが、一眞には彼を生かしておくべき明確な理由があった。

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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