二十六 王生国天山・石動元博 猫と美女
辰の刻鐘よりも半刻ほど早く起き出した石動元博は、ひとりで身支度を整えて〈賞月邸〉を出た。従者の孫六は、まだ足軽長屋で眠っているはずだ。遠出をするわけではないので、わざわざ起こすこともないだろう。
奥庭の中を抜ける小道を歩きながら、彼は両腕の肌が粟立つのを感じて、ぶるっと身震いした。夏が間近いとは思えないほど寒い。
冬でもほとんど雪を見ることのない南部に生まれ育った元博にとって、天山の気候はあまりにも冷涼すぎた。特に朝夕の涼しさときたら、早春のころまで一気に季節を逆戻りしたかのようだ。
脇門を出る際に挨拶を交わした番士が、元博の装いを見て驚いた顔をした。
「おや、もう単衣を? 気が早いですなあ」
そう言う彼は、裏地のついた袷を着ている。
「寒くないのですか」
「いえ、寒いです」元博は正直に言い、すっかり冷たくなった両手を擦り合わせた。「どうも、まだ要領が掴めなくて」
「この時期は、もう少し厚着をしたほうがいいでしょうな。山の上はたいてい寒いものと決まっていますが、天山の高さは普通の山の比じゃありませんから。麓が夏になっても山上はまだ春、といった具合です」
「冬にはきっと、雪もたくさん降るのでしょうね?」
それほどでもない、と言ってくれるのを期待しながら訊く。だが番士はほがらかに笑って、大きくうなずいた。
「それはもう、たいへんな豪雪になりますよ。南部から来られた皆さんには、少しおつらいかもしれませんね」
「なるほど。心しておきます」
彼と会釈を交わし、元博は脇門を出て曲輪道を歩き出した。朝採りの野菜を各屋敷に届ける御用聞きや、編み笠を深くかぶった曰くありげな武士などと時折すれ違いながら祭堂を目指す。
二の曲輪へ上がる大手道の登り口を通り過ぎると、祭堂を取り巻く小さな森が姿を現した。山を切り拓く際に原生林をそこだけ残したらしく、樹齢千年以上と思しき堂々たる大木群が鬱蒼と生い茂っている。参道の入り口に聳え立つ二本は、それらの中でも特に立派だった。幹は数人がかりでなければ抱えられないほど太い。
白玉石敷きの参道は落ち葉ひとつなくきれいに掃き清められているが、周辺の林床は下刈りされておらず、落葉も自然のままに厚く堆積していた。重なり合った葉の下に熱を溜め込んでいるせいか、森の中はほのかに温かい。
元博は落ち葉の甘いにおいを楽しみながら、ゆっくり参道を進んでいった。木々の枝葉が作る天蓋の下は薄暗く、静かで、幽玄な雰囲気に満ちている。
まっすぐに整えられた参道は、三棟から成る祭堂の本堂に突き当たって終わっていた。軒を高く取った、入母屋造りのどっしりした建物だ。入り口に続く石段の上には軒唐破風が張り出している。
脱いだ履き物を石段の下に揃え、彼は厳粛な心持ちになって本堂へと入っていった。堂内には杉の大柱が何本も立ち並び、まだ森の中にいるような錯覚に陥らせる。だが、ここに漂うのは落ち葉のにおいではなく、日夜絶えることなく焚かれている香のかぐわしい香りだ。
正面の祭壇と、並んで立つ二体の神像に目をやった元博は、その足元に置かれた白木の薫台にひとりの男が額ずいているのを見つけた。床に片膝をついて台上に両手を置き、祈り珠を繰りながら一心に祈りを捧げている。彼以外に、参拝者はいないようだ。
元博は本堂の中ほどまで進み、そこでいったん足を止めた。薫台は大人五人が並べるほどの幅があるので、隣を使わせてもらうこともできるが、あまりにも真剣に祈っている様子なので何となく遠慮してしまう。
堂内の装飾などを眺めながら待っていると、祭壇の脇にある扉の奧のほうから、朗々とした歌声が微かに聞こえてきた。唱士がほかの部屋で声ならしをしているようだ。元博は椹木彰久が、ここには唱士が五人いると言っていたことを思い出した。
唱士が常駐する祭堂の数は限られている。通常は新年と夏の祭祓に、総本山の御山から各国の本城がある郷に数名ずつ派遣されるだけだ。
元博は昨年の夏に、丈夫国の生明郷にある祭堂で、唱士たちが唄う〈祭歌〉や〈祝歌〉を生まれて初めて聴いた。それらは成年の男声のみで唄われる単一旋律の無伴奏曲で、歌詞は古来から伝わる祈りの言葉だという。
その時は聴いているうちに眠くなってしまったが、今はゆったりと流れる詠唱に強く惹きつけられるのを感じた。当時と比べて、自分自身の内面が少し変化したせいかもしれない。
やわらかな香の香りに包まれながら、波のように寄せては返す歌声に耳を傾けていると、ふいに誰かが近づいてきて横を通り過ぎた。薫台の前にいた、あの人物が祈り終えたようだ。
熱心な参拝者は数歩先まで行って立ち止まり、肩ごしに振り返った。すっと細められた目の中で、瞳が灯明の明かりを受けてきらりと光る。
その顔を見て、元博は思わず息を呑んだ。
月下部知恒。三廻部亜矢が〈白〉と呼んでいたあの剣士だ。そして、幼い主の気まぐれな命令に異を唱えることもなく、元博を斬ろうとした男でもある。
知恒は無言のまま元博を睥睨し、まだ抜糸していない額の傷をじろじろと見た。記憶を呼び起こしているようにも、単に興味をそそられているようにも見える。
元博は彼が、思いのほか端正な顔立ちをしていることに気づいた。すっきりした細面で、髭をきれいに剃っている。二枚目というには、少し頬がこけすぎているかもしれない。そして表情も乏しかった。
背は非常に高く、六尺近くはありそうだ。体型はどちらかというと、細身の部類に入るだろう。だが大皇の姫君の護衛という大役を務めているからには、見た目からは想像もつかない力をその体に秘めているに違いない。
「おまえ、誰に剣を教わっているのだ」知恒が唐突に訊いた。
低いが、穏やかな声だ。元博は彼が口を利いたことに驚いた。最初の出会いの時、最後まで一切声を発することがなかったため、無口な人物なのだろうと思い込んでいたのだ。
「生家にいたころは父と、父方の叔父から指南を受けました。城勤めを始めてからは、出仕先の指南役に。今は……今後は誰に教わることになるか、まだ決まっていません」
質問の目的がわからないまま急いで答えた元博を、知恒は無表情に見つめた。
「おまえがあの犬を殺した時――」
元博ははっとして、彼に反駁しようとした。犬を殺したのはあなただ。わたしじゃない。その考えを読んだかのように、知恒が鼻を鳴らした。
「おまえに斬られた瞬間に、あの畜生の死すべき運命は決した。つまり、おまえがあいつを殺したのだ」
不当な言いがかりだと思ったが、そこに幾ばくかの真実が含まれていることは否定できない。憮然と黙り込んだ元博に向かって、知恒はゆっくりと話し続けた。
「あの時、咄嗟にうまく間合いを計ったな。斬撃はいささか不器用だったが、落ち着いて相手の挙動をよく見極めた」
いちおう褒めてはいるが、少しもそれを感じさせない淡々とした口調だ。
「にもかかわらず、なぜ斬殺せずに手傷だけを負わせた? 殺そうと思えば殺せたはずだ。脳天を打ち砕くことも、横に薙ぎ払って顔を叩き斬ることもできた。だがおまえは、あいつの前肢をわずかに斬っただけだ。なぜそんな中途半端な真似をした」
元博はその問いかけに面食らい、しばらく考えてからのろのろと答えた。
「わかり……ません。たぶんわたしは、あの犬を撃退できれば、それでよかったのです。殺そうなどとは思いもしませんでした」
知恒は小馬鹿にしたように、再び鼻を鳴らした。
「甘いな。まともな師匠につき、もっと修練を積め。筋はそう悪くない」
言うだけ言うと、彼はさっと背を向けて歩み去った。唖然と見送る元博を顧みることもなく、足早に祭堂を出ていく。
元博は置き去りにされた場所に、そのまま立ち尽くした。心がひどく掻き乱されている。あんなにも無造作に自分を斬ろうとした男が、何ごともなかったかのように話しかけてきたこと自体、まだうまく受け止めきれていなかった。その上、剣の修練について助言までされるとは。
月下部知恒――なんて風変わりな人だろう。元博はそう思いながら、大きく息を吐いて気持ちを切り替え、あらためて祭壇に向き直った。ここへ来た目的を果たそう。そして、朝餉の時刻までに〈賞月邸〉へ戻らなければ。
彼は薫台の前に進んで膝をつき、細い蝋燭と香を一本ずつ取って灯明皿の火を移した。白くたなびく煙と共に、水辺に咲く花々を思わせる爽やかで気品のある香りが立ちのぼる。ここの香は、南部の祭堂でよく使われているものとは、少し香りの傾向が違うようだ。
元博は懐から祈り珠を取り出し、木肌の滑らかなカツラで彫られた一対の神像を見上げながら祈りを捧げた。日々の平安。家族の健康。そして、今もどこかを歩いているであろう五葉の旅の安全。思いつくままに挙げていき、最後に自らの向上を祈願する。
だが、このように進歩したいという、具体的な目標がないことに気づいた。もう子供ではないのだから、そろそろそういうものを持つべきだろう。
しばし物思いに耽っていた彼は、背後にふと人の気配を感じて我に返った。別の参拝者が来て、順番を待っているのかもしれない。
急いで立ち上がりながら振り返ると、少し離れた場所で掃除をしている男が目に止まった。法衣にたすき掛けをして床に膝をつき、板目に沿って丁寧に拭き清めている。五体の動きがきびきびしており、まだ歳も若そうなので、きっと祭堂に仕える小祭宜だろう。
元博が開け放しの大扉へ向かって歩き出すと、彼は顔を上げてこちらを見た。やや奥まった目は澄んで明るく、強い光を湛えている。よく日焼けしたなめし革のような肌には、無数の細かい皺が刻まれていた。最初に思ったよりも、ずっと年配のようだ。
彼は立ち上がって元博を迎え、微笑みながら会釈した。
「初めておいでのかたですね」
深い響きを持った、耳に心地よい声だ。元博は彼の目を見つめながらうなずいた。
「はい。天山へは最近来たばかりです。この祭堂のことは、道中の先達を務めていた伝道の祭宜から教えられました」
「ほう、伝道の。差し支えなければ、その人の名をお聞かせください」
「五葉祭宜です」
「ああ」懐かしげに目を細める。「彼のことはよく知っています。では今回は、立ち寄らずに去ったのですね」
「ええ。でも、また来ると」
「そうでしょう。おそらく」それから彼は少し表情をあらため、静かに名乗った。「ここの堂司を務めている、九重と申します」
堂司だったのか。ということは大祭宜だ。元博は目を瞠り、慌てて自分も名乗った。
「石動元博と申します」
今度は相手のほうが少し驚いた顔を見せた。
「石動家の……では、南部からおいでになったのですね。天門神教の信徒でいらっしゃるのですか?」
「いえ、実を言うと違います」元博はちょっと気まずさを感じながら頭を搔いた。「ただ、天山への道々に五葉祭宜から教義のことなどを伺って、少し興味が沸いてきました」
「五葉祭宜は、たいへん弁説巧みですからね」
九重堂司はそう言って、にっこり笑った。
「信徒でなくとも、興味を持っていただけるのは嬉しいことです。しばらく天山にご滞在なら、いつでもお越しください」
「ありがとうございます。ここには長くいることになるかもしれません。また来ますので、いろいろお話を聞かせてください」
本堂を出る際にうしろを見やると、九重堂司は再び跪いて床を拭いていた。この大きな祭堂を束ねる身でありながら、進んで雑役もこなすとは奇特な人物だ。
この次は朝の祈唱に参加してみようと思いながら、元博は桔流家屋敷へ戻っていった。
午後になって暇ができ、気晴らしに外で体を伸ばそうと奥庭へ出た元博は、見知らぬ人々が庭園内を散策中であることに気づいた。女性ばかり六人が連れ立って、〈賞月邸〉から池越しに見える桜並木を歩いている。
桔流家のお客だろうか。
失礼にならないかどうか少し考えてから、彼は対岸の築山のほうへ歩き出した。目に止まらないようにして、邪魔をしなければ問題ないだろう。
午を過ぎたあたりから気温が上がり、春めいたいい陽気になっていた。桜は四日前にここへ来た時点で半分ぐらい開花している状態だったので、今はもっと見映えがよくなっているに違いない。女性たちがいなくなったら、自分も見に行ってみよう。
元博は日差しの下で大きく伸びをし、軽く体をほぐしてから、ひょいと逆立ちをした。そのまま、腕で何歩か歩いてみる。もともと逆立ちは得意だが、浮昇力のある場所でやると拍子抜けするほど簡単だった。
天翔隊の隊士のうち、斬り手を務める武将たちは、飛行する天隼を足がかりに空を飛んで敵に斬りかかるという。そんな曲芸めいた真似ができるのも、高所で働く強い浮昇力のお陰だろう。
ふと見ると、築山を回り込んで竹林へ向かう芝生の苑路に、規則正しく飛び石が配されていた。遊び心の赴くまま、二、三個置きに石から石へぽんぽんと飛んでみる。すると、地上で同じことをするよりもずっと容易く、より高く遠くへ飛べることがわかった。着地のあと少し膝を曲げて力を溜めれば、五個置き、六個置きでも楽々と飛び渡ることができる。
竹林に入って石がなくなると、今度は道の脇に立てられた四つ目垣に飛び乗った。間柱の頭に片足で立ち、二間半ほど向こうの柱へと飛び移る。
すごいな。まるで軽業師にでもなったみたいだ。
思いがけない身軽さを夢中で楽しんでいた元博は、気づくと竹林を半ば通り抜け、桜並木の近くまで来ていた。女性たちがもう少し先まで歩くと、姿を見られてしまう。
いけない、引き返そう。そう思った時、集団の先頭を歩いていた二十代半ばの女性が声を上げた。
「これ、お待ち」
一瞬、自分に言われたのかと思ってぎくりとしたが、すぐに違うことがわかった。彼女が抱いていた猫が腕から飛び出し、近くの桜の木に駆け登ってしまったのだ。
「誰か、あの猫を連れ下ろしなさい」
そう命じられ、連れの女性たちは困ったように顔を見合わせた。猫はかなり高い枝まで登っている。裾の長い装束を重ね着した彼女らが、後を追って登れるはずもない。
元博は急いで桜並木へ走り込み、大声で言った。
「わたしがお下ろしします」
誰だ、というようにじろりと見たあと、猫の飼い主は無表情にうなずいて見せた。
「しばしお待ちを」
結局姿を見せてしまったことに一抹の不安をおぼえながら、元博は幹に取りついて登り始めた。体重が普段の六割ほどにしか感じられず、あまり力を使うことなく枝から枝へと移っていける。
細い枝にしがみついている猫が、あっという間に天辺に近づいた彼を牽制するように、細く高くひと声鳴いた。碧玉のような目をした、真っ白な被毛の愛らしい仔猫だ。
「おいで。いい子だ」
元博は片腕を伸ばし、猫の腹の下に手を潜らせて優しく持ち上げた。形ばかり抗議の声を上げて体をよじっているが、本気で嫌がっている様子はない。着物の懐へ入れてやると、仔猫はすぐにおとなしくなった。
「よし、よし。すぐ下ろしてやるからな」
声をかけて頭をひとなでしてから、彼はするすると地上へ下りていった。下で心配そうに待っていた女性たちが一斉に、ほっと息をつく。
飼い主は毅然と立ったまま動かず、すぐには猫を受け取ろうとしなかった。その意識は、今は元博のほうに向けられているようだ。
彼女の顔をあらためて見た元博は、これまで夢にも見たことがなかったほどの美貌に息を呑んだ。特に印象的なのは、星のように冴え冴えとした輝きを放つ双眸だ。その目で見つめられると、何ら疚しいことがなくとも落ち着かない気分になってしまう。
「そなた、見慣れぬ顔だな」彼女は決めつけるように言った。口調は厳しいが、艶のある甘い声だ。「我が父の屋敷で何をしている」
「我が父……?」
やや混乱しつつ、元博は急いで考えた。ここは桔流和智の屋敷だ。彼には男子三人と女子三人、計六人の子があり、そのうち下の女子ふたりはまだ十代と聞いている。ということは、目の前にいる女性は……
「大皇妃真名さま」
元博は戦きに打たれながら呟き、慌てて地面に跪いた。
「無礼の段、ひらにお許しください」
我知らず声が震える。聳城国で最も身分の高い女性に、まさかこんな場所で邂逅するとは、想像すらしていなかった。
三廻部真名が、元博を冷たく睥睨しながら口を開く。
「ここはわたくしの実家ゆえ、家の者はみな見知っている。が、そなたには見覚えがない。何者か」
「黒葛家家中、石動元博。黒葛貴昌君の随員として、先ごろ天山へ参りました。今は和智公のご高配により、〈賞月邸〉にて起居いたしております」
「黒葛家――」真名の表情から、少しだけ険しさが薄らいだ。「そういえば、陛下が三鼓国に質人を求められたとか。いつ参った」
「四日前に」
「では陛下にも父和智にも、まだ会うておらぬのだな」
「はい。ちょうど狩りに出られた日に到着しましたので」
真名は物憂げな表情で少し黙っていたが、ふいに微笑んで元博を差し招いた。
「石動元博といいましたね」口調もずっと柔らかいものに変わっている。「お立ち。散策の供をなさい」
彼女が笑みを浮かべると、辺りにまばゆい光が差すように感じられた。まともに見ると目が眩んで、頭がくらくらする。
元博は先ほどまでの身軽さはどこへやら、木偶人形になったようにぎこちなく立ち上がった。真名のほうに近寄り、懐を少し開いて仔猫の姿を見せる。
「眠りかけているようです」
「では、しばらく預かっていておくれ」
そう言って歩き出した彼女のあとを追いながら、元博は先日会った三廻部亜矢のことを思い出していた。彼女は、ほかならぬこのやんごとなき女性の実子だが、一見したところ少しも似ていない気がする。まだ幼いせいもあるかもしれないが、亜矢姫の顔立ちには母親のような繊細さや優美さが欠けていた。そして娘が犬を連れていたのに対し、母親はどうやら猫が贔屓らしい。
「そなた、猫の扱いに慣れていますね」
歩きながら、ふいに真名が言った。発せられる言葉に載せて、いい香りがふんわり漂ってくる。
「はい。前の主人が猫好きなので、城でたくさん飼われていたのです」
「そう。慶城の奥御殿にも十匹ほどいます。この屋敷に住んでいたあいだも、やはり奧で何匹か飼っていました」真名はふふ、と笑った。「少女のころ、家中の者たちはこっそり、わたくしのことを〝猫姫さま〟と」
元博は少し緊張が緩むのを感じながら、自分も微笑んだ。若い大皇妃は、案外気さくな人物なのかもしれない。
「ここの桜は――」真名は満開まであと少しといった様子の桜並木を見渡しながら、しみじみとした口調で呟いた。「わたくしが生まれた時に、父が手ずから苗木を植えたものです」
「だからみな、まだ若木なのですね」
世辞を言ったつもりはなかったが、真名が嬉しげに声を上げて笑い、供回りの女性たちを振り返る。
「そなたら、聞きましたか。年に似合わず、如才ない受け答えをすること」
「まことに」
連れのひとりが、すかさず同意した。三十がらみの上品な婦人だ。
「南部の殿方は武張ったかたばかりかと思っていましたが、認識を改めねばなりませんね」
華やかな女性たちにからかわれるなど滅多にないことなので、元博はひたすら居心地の悪さを味わいながら沈黙していた。へたに口を開くと、何か馬鹿なことを言ってしまいそうだ。
女性たちのくすくす笑いが静まると、真名は元博のほうを見て唐突に訊いた。
「その怪我はどうしました」
元博ははっとして、一瞬言葉に詰まってしまった。まさか、「あなたの娘に石をぶつけられた」と正直に言うわけにもいかない。
「この曲輪へ登ってくる途中、ちょっとした不注意から負傷しました。でも、もう治りかけています」
高貴な人に嘘をついていると思うと、大罪を犯しているようではらはらする。だが、亜矢姫の傅役も言っていた通り、あのことはもう蒸し返さず、忘れてしまうのがいちばんだ。
真名の輝く瞳が、探るように見つめている。元博は息を殺して平静を装い、彼女がようやく視線をそらすと、ほっと小さく息を吐いた。
「用心なさい。小さな傷が命取りになることもある」
そう言った真名の口調は、これまでと少し違っていた。ほんのわずかだが、母性のようなものがにじみ出ている。
「はい。今後は気をつけます」
答える声にかぶせて、遠くから誰かが「元博」と呼んだ。見ると、桜並木の出口に黒葛貴昌と朴木直祐が立っている。貴昌は笑顔で元博に駆け寄ろうとしたが、うしろから直祐に何か言われ、ちょっと戸惑いを見せて足を止めた。途端に、ひどく神妙な顔つきになる。
彼はそのまま、しゃちこばった足取りでこちらに近づいてくると、真名の前で膝をついて礼を取った。
「三鼓国主、黒葛禎貴が一子、貴昌。ご拝顔の栄に浴し奉り、恐悦至極に存じます」
物慣れない様子ながらも精一杯はっきりと口上を述べ、深く頭を垂れる。それを見ると、たちまち真名の表情がなごんだ。
「このように立派な挨拶を、年端もいかぬ人の口から聞けるとは嬉しいことです。さすがは、南部一の名家のお子」そう言って、連れの婦人につと目をやる。「少しも礼儀をわきまえぬ、天山の子らに見習わせたいものです。ねえ志摩」
志摩、と呼ばれたのは、先ほど元博をからかったあの婦人だ。彼女は貴昌に優しい眼差しを注ぎながら、大きくうなずいて見せた。
「はい。わたくしも感じ入りました」
元博の中で、誇らしい思いがむくむくと膨らむ。主が人から賞賛されるのを聞くのは、やはり嬉しいものだ。と同時に、傅役として日ごろから貴昌を入念に仕込んでいるのであろう、朴木直祐に対する尊敬の念も大きくなった。
その直祐は手柄顔ひとつ見せず、離れた場所に控えて膝をついている。いつもどおり、生真面目そのものだ。
真名は寛容な笑顔で手をひと振りしてふたりを立たせ、貴昌をさらに近寄らせた。
「貴昌どの、年はおいくつですか」
「七つです、陛下」貴昌は緊張の面持ちで、慎重に答えた。
「国のお母さまと離れて、お寂しいでしょうね」
「母はいません。あの――亡くなりました。わたしが二歳の時に」
「父君は、後添えをお迎えにならなかったの? 新しいお母さまはおられないのですか?」
貴昌の顔がはっとこわばった。目をまん丸にして固まっている。どうやら、父の後妻である富久のことは、完全に頭から抜け落ちていたらしい。
「わす――」忘れていましたと言いかけ、それはまずいと思ったのか、彼は一旦言葉を切ってから言い直した。「言い間違えました。義母は……ふたりめの母はおります。でも、わたしはもう大きいので、会えなくてもあまり寂しくはありません」
うまく繕いはしたが、彼の言葉は現実をはっきりと映し出していた。義母のことを、自分の母親だとは感じていない。愛情も抱いていないし、おそらくは相手からも愛情を注がれていない。それはその場にいた全ての人に伝わり、三廻部真名の美しい顔に物思わしげな色を浮かべさせた。
「雄々しいこと。男子はそうでなくてはね」
表情と相反するほがらかな口調で言い、真名は貴昌の額髪を指で軽く梳いた。少年が、ちょっと照れた様子で頬を赤くする。
その時、元博の懐にいた仔猫が目を覚まして顔を出し、餌でもねだるかのように小さく鳴き声を上げた。貴昌が驚きを露わに、大きく口を開く。
「わあ、猫だ」
元博は仔猫を外に出してやり、腕に抱いて貴昌に近づけた。
「陛下がお連れになられたのですよ」
貴昌は目を輝かせながら、仔猫の頭をそっとなでた。その様子を見ていた真名が、莞爾として問いかける。
「猫はお好きですか」
「はい、陛下」貴昌は明るく答え、彼女を振り仰いだ。「とても可愛いと思います」
「ではその猫、そなたにあげましょう」
突然の申し出に貴昌は驚き、それから少し顔を曇らせた。彼の反応が純粋な喜びでなかったことに期待を裏切られた様子で、真名が怪訝な表情を見せる。
「どうしました。欲しくないの?」
「いえ……」貴昌は小声で言って、誠実な眼差しで彼女を見やった。「本当に嬉しいです。でも、わたしがこの子をいただいてしまったら、陛下がお寂しくありませんか?」
真名は一瞬絶句し、それから大輪の花が開くように微笑んだ。
「まあ……なんて――優しいこと」
彼女の声に感動を聞き取り、元博は内心で深くうなずいた。そう、優しさと思いやり、それが貴昌君の最大の美点だ。温和すぎて黒葛家の子らしくないと言われることもあるが、勇猛かつ剛胆であることを特に好む南部人すらも、彼のことは愛さずにいられない。
大皇妃はしばし、どこにでもいるような普通の母親の顔になって、貴昌を眩しげに見つめた。
「わたしもこんな息子が欲しい。次は必ず男の子を産みたいわ」
それは独り言に近かったが、すぐ傍にいた元博の耳にははっきりと聞こえ、彼を仰天させた。あまりにも私的な心の内を、こっそり盗み見てしまったような後ろめたさを感じる。だが真名は気にする様子もなく、手を伸ばして貴昌の頬に優しく触れた。
「慶城にはほかにも猫がたくさんいるのです。だから、わたくしは寂しくありませんよ。その猫はもう、そなたのもの。可愛がってやってくれますね?」
「はい、もちろんです」
真摯な態度で答えた彼に、元博は腕の中の猫を手渡した。少年がとろけそうな笑顔になり、純白の被毛に頬ずりする。
真名はしばらくその様子を見つめてから、連れを振り返って声をかけた。
「そろそろ戻ります」
それから彼女は、元博らのほうを見て言った。
「じきに陛下がお帰りになれば、そなたらは謁見を許されるでしょう。その時に慶城で、また」
去り際に、真名はもう一度貴昌に視線を留め、少し名残惜しげな表情を見せてから踵を返した。八分咲きの桜も恥じ入らせるほど華麗な一団が、しずしずと並木の中を去っていく。
道の上に佇んでそれを見送りながら、元博は大皇妃が図らずももらした意味深長なひと言に思いを馳せていた。
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