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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第三章 それぞれの旅路
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二十五 天勝国中東部・伊都 放浪

 放浪を始めた日に伊都(いと)がもっとも頭を悩ませたのは、今夜どこで眠ればいいのだろう、ということだった。野宿の経験はないし、追われている身でうかつに宿には泊まれない。

 それから何日か経つあいだに、懸念材料は今後の行き先、身の振り方、衛生、疲労と少しずつ増えていったが、やがて思考の大半を食事が占めるようになり、ついには寝ても覚めても食べ物のことしか考えられなくなった。

 門叶(とかない)の叔父の妾宅を逃げ出した当初、飢えに悩まずにすんだのは多恵(たえ)のおかげだ。彼女が持たせてくれた風呂敷包みの中には、竹の皮で包んだ大きな握り飯が六つも入っていた。だが日持ちはしないので、早めに食べきらなければならない。伊都はもったいないと思いつつ、傷みだす前にそれらをすべて平らげた。心底から満腹感を得られたのは、あれが最後だったように思う。

 風呂敷の中には、ほかのものも入っていた。古着だが小綺麗な着物二枚。紅玉と翡翠のついた(かんざし)と、螺鈿(らでん)細工の櫛。そして銀銭一枚と銅銭五枚。それらの銭貨は、おそらく多恵のへそくりだろう。

 握り飯がなくなったあと、伊都は着物や飾り物を売ることを考えた。だが、それにはどこかの城下町へ入らなければならない。人目の多い場所へ行く決心がつかず、二日ほど農村部をうろうろしていた彼女は、空き家になって半分朽ちた農家で寝た夜に包みを丸ごと盗まれてしまった。

 いつ、誰が持っていったのかはわからない。ともかく、目を覚ますと何もかもなくなっていたのだ。手元に残ったのは懐に入れていた銭貨と、胸に抱え込んでいた弓袋だけだった。

 弓袋の中には、鯨半弓(くじらはんきゅう)という小型弓が収められている。それは叔父の度会(わたらい)典政(のりまさ)から与えられたもので、本音を言えば、そんなものを持っていたくはなかった。あのけだものを思い出させるものは、何であれ身近に置きたくない。だが父からもらった小太刀をついに取り返し損ねたので、これ以上空手のままでいるよりはと思い、嫌々ながら持って出てきた。こんな玩具のような弓でも、鉄の(やじり)がついている以上は武器の端くれだ。

 伊都はそれから数日間、なけなしの銭貨を少しずつ使って、街道筋で商売をしている茶屋や農家から食べ物を(あがな)った。できるだけ切り詰めなければならないので、食事は日に一度きりで、せいぜい団子ひと串。あるいは干し芋ふたつ。菜っ葉の入った薄い粥を一杯。それだけで長い一日を過ごすと、夜には飢えが実体を伴って胃袋に噛みついてくるように感じられた。

 小身とはいえ武家に生まれた伊都は、物心ついてからおよそ空腹に苛まれた覚えがない。毎回の食卓には最低でも一汁三菜が並んだし、祝いごとの折りには鯛の浜焼きや、蟹の炭火焼きといった贅沢な料理が出ることもあった。

 少し口さびしい時には台所を覗きに行けば、決まって奉公人の誰かが、ちょっとしたものをつまませてくれた。炊き上がったばかりのご飯に塩をつけ、軽く握った小さいお結び。佃煮にした浅蜊の剥き身。味噌をつけた小芋。

 また下男の長助(ちょうすけ)や下女の(まち)は、主人から月々もらうわずかな小遣い銭をはたいて、伊都によく菓子を買ってくれた。「お母さまには内緒ですよ」と言いながら、長助がそっと口に入れてくれた飴の甘さを今もまざまざと思い出せる。

 伊都は空腹に身を噛まれる夜、これまでに食べたものや今食べたいものなどをつらつらと思い浮かべる傍ら、自分がどれほど幸せに育ったかを考えながら過ごした。両親にも奉公人にも愛され、守られ、何の不安も屈託も感じなかったあの無邪気な日々はもう帰らない。でも、ずっと忘れずにいようと思った。この先何を失い、どんな境遇に落ちたとしても、幸福の記憶だけは大事にしまっておきたい。本当に絶望した時、きっとそれが最後の支えになってくれるはずだ。


 手持ちの銭貨がいよいよ少なくなると、伊都はほかの方法で食べ物を調達しようと考え始めた。だが悲しいかな、食に関する知識がほとんどない。森の中を歩けば木の実や(くさびら)をいくらでも見つけることができたが、食べても平気かどうかがわからなかった。

 茸には毒を持つものもあるという。そんなものをうっかり食べて(あた)ったとしても、療師(りょうじ)に診てもらえるわけではないのだ。どうしても慎重にならざるを得なかった。

 木に鈴なりになっている大小さまざまな木の実には心惹かれるが、どれも口にしたことのないものばかりなので、やはり何となく敬遠してしまう。一度、小鳥がつついていた鮮やかな黄色い果実を、これならだいじょうぶだろうと囓ってみたが、舌が痺れるほど渋くてすぐに吐き出してしまった。鳥が食べているからといって、人も食べられるとは限らないらしい。

 もちろん、時には幸運に恵まれることもある。幹に刺の生えた低木が小さな卵形の赤い実をたくさんつけているのを見つけ、空腹に耐えかねてひとつ食べてみたところ驚くほど甘かった。夢中になって食べ続け、小半刻ほどで丸裸にしてしまったほどだ。だが残念なことに、その木はどこにでも生えているわけではないようだった。

 やがて伊都は効率の悪い植物採集に見切りをつけ、流れの緩やかな川や浅い池で魚を捕り始めた。着物の裾を裂いて作った紐を矢につけ、例の小型弓を使って岸辺から射るのだ。

 初めはなかなかうまくいかなかったが、日がな一日取り組んでいると、次第に魚の動きを読めるようになってきた。狙いをつけた個体がちょうどいい位置に来るまで辛抱強く待ち、くるりと反転する瞬間を狙って射ると当たりやすい。彼女はそのこつを覚えてから、一刻ほどで最低でも二匹は獲物を捕ることができるようになった。

 問題は、調理の手立てがなかったことだ。焼くか煮るかして食べるべきだとは思うが、火を熾す道具も鍋もない。さんざん悩んだ挙げ句、最初のうちはやむなく生で食べた。幸い、それで体調を崩すようなことはなかったが、火を通していない食べ物への不安だけで病気になりそうな気がする。

 そこで伊都はある日の夕刻、捕った魚を携えて川の下流へ行ってみた。川幅が広くなり、橋がかかっているあたりは物乞いの(ねぐら)だ。彼らは日が暮れると数人ずつ集まって、よく焚き火を囲んでいる。伊都は魚を半分渡す代わりに火を使わせてくれるよう頼み、ようやく焼いた魚を食べることができた。

 しかし他人との接触には常に危険が伴う。立て続けにひどい背信を目の当たりにした伊都は、人は怖い、信用ならないという思いに取りつかれていた。だから決して油断はしない。

 焚き火を使わせてもらう相手も、いつも慎重に選んだ。男ばかりの集団にはなるべく近づかない。同じ年ごろの子供も避けた。物乞いの子供たちの中には、ひどく意地の悪い者がいるとわかったから。

 山裾の森で眠り、起きると木の実や食べられる草を探し、午後には魚を捕り、夕方になると河原へ行って焚き火に混じる。そういう生活をしばらく続けると、とりあえずひどい空腹を感じることはなくなり、体力も少し戻ってきた。


 そろそろ、これからのことを考えないと。

 放浪生活も半月を過ぎようというこの日、伊都は池のほとりの乾いた岩の上に立って、弓を引き絞ったまま魚影が近づくのを待ちながら、自らの先行きに思いを馳せていた。

 たちまち飢え死にをする恐れはなくなったものの、いつまでもこんな暮らしをしてはいられない。たとえそれがいちばん楽な道だとしても、物乞いの仲間入りをするつもりもなかった。身よりも帰る家もなくなったが、まだ自分には健康な体と、武家の子としての矜持が残っている。身を立てる努力もせずに、他人(ひと)さまの情けにすがって生きるようになったら、きっと父や母はがっかりするだろう。

 黒い魚影がゆっくりと近づく。伊都は息を殺し、まばたきをやめて、水面下を滑るように動く影を追った。

 慌てちゃだめ。あと少し近づいて……近づいて……方向を変える、今だ。

 放たれた矢がぱしっと音を立てて水面を打ち、魚の横っ腹を貫いた。すぐさま獲物が猛然と暴れ出すが、(やじり)には逆刺(かえり)がついているので簡単には抜けない。伊都は矢に結びつけた紐をたぐり寄せて魚を引き揚げ、日陰になっている草むらに放り投げた。

 もう一匹捕ったら、河原へ行こう。伊都は再び矢をつがえ、水面に向けて弓を構えた。

 日に日に腕が上がっている。食べられる植物を探して手当たり次第に囓ったり舐めたりしているよりも、狩猟をしているほうがずっと楽しかった。そのうち、山鳩や野兎を狩ってみてもいいかもしれない。

 手ごろな大きさの魚影が見えた。餌の昆虫でも探しているのか、水面に近いところを泳いでいる。伊都は弦を引き絞り、今度も狙いをつけたままじっくりと待って、立っている岩にほど近い場所で射止めた。太い筆で薄墨を刷いたような斑紋のある、すっきりした体型の魚で、なかなか美味しそうだ。

 伊都は弓矢を袋にしまい、捕まえた二匹の魚の(えら)を枝笹に通してぶら下げ、いつもの河原へ向かって歩き出した。森の中の小道を少し下ると、川沿いの細い道に出る。そのまま下流へ小半刻ほど行くと、物乞いの集まる橋が見えてきた。すでに火を焚いている一団もいるようだ。

 その時、河原へ下りる土手を誰かが登ってきて、伊都の前に立ちはだかった。

「おい、おまえ」

 ぶっきらぼうに言ったのは、前からこの近辺で時々見かけていた物乞いの少年だ。もう十五歳ぐらいにはなっているのだろうか、骨太で逞しい体つきをしている。ごわごわにもつれあって長く伸びた汚い髪を荒縄でひとつに縛り、女もののように見える寸足らずな赤い着物をぞんざいにまとっていた。むき出しの顔も、合わせから覗く肌も真っ黒に垢汚れて、体中から何とも言えないにおいを放っている。

 ここでわたしを待っていたのだろうか。

 伊都は警戒しながら少し距離を取った。それを見て、少年が憮然とした面持ちになる。

「おまえ、河原にはもう()んなよ」

 一瞬、何を言われたのかわからなかった。少し遅れて理解はしたが、今度はなぜそんなことを言われるのかがわからない。

「どうして?」

「近ごろ、晩になると別嬪(べっぴん)が魚持ってくる、って(こも)かぶりどもが噂してっからさ」

 伊都は眉をひそめて少年を見つめた。

「わかんねえか? そのうち誰かがおまえの後をつけてって、(ねぐら)で襲うぞ」

 ようやく、彼の言わんとするところがわかった。と同時に全身が総毛立つ。伊都の表情がこわばったのを見て、少年は少し態度をやわらげた。

「おまえ、きれいすぎるからよ。目立つんだ」

 きれいじゃない、と伊都は言おうとした。もう半月もひどい暮らしをしていて、着ているものもぼろぼろだ。できるだけ体は洗うようにしているが、たぶん自分だって、物乞いたちとそう変わらないにおいになっている。

 だが、口から出てきたのは別の言葉だった。

「わたしはまだ子供なのに……」

 少年が馬鹿にしたように鼻を鳴らす。

「関係ねえよ。餓鬼だろうが、女なら何でもいいんだ。男でもいいって、ふざけた野郎もいる。しかもおまえみたいに、どっかの城のお姫さんみたいなつらをしてりゃ、なおいいってもんだ」

 伊都は唇を噛んで瞑目し、深くうなだれた。あれだけの目に遭いながら、まだ警戒心を研ぎ澄ましきれていなかった自分に腹が立つ。

 少年はしばらく黙っていたが、やがて懐から何かを取り出し、伊都に突きつけた。

「これ」

「なに?」

 とりあえず受け取ったものの、何なのかさっぱり見当がつかない。汚いぼろ布に包まれていたのは、妙な形の鉄片と木くず、それからあちこち欠けて尖った灰色の小石だった。

「おまえ、火がいるから河原に()んだろ。それやるから、自分で火(おこ)ししな」

 そう言われて、ようやく合点がいった。

「火打ち石?」灰色の石を持ち上げて訊く。

「そうだ。やり方知ってっか?」

 火を自分で熾したことなどない。家の火種はいつだって長助が管理していて、必要な時はすぐに焚きつけることができた。

「ううん、知らない」

 正直に言うと、少年は面倒臭そうに、だが丁寧に、火の熾し方を教えてくれた。

「この石と火打(がね)を打ち合わせて、おが屑に火花飛ばすんだ。うまく火が点いたらふーふー息吹きかけて火種にして、乾いた草とか紙縒(こよ)りとか使って(わら)束なんかに移す。燃えたら枝をくべてよ、もっとでかい火にすんだ」

 道ばたにしゃがんで喋りながら、少年は上手に手早く火種を作った。髪を縛っていた荒縄をほどき、その先端に火を移す。

「な、わかったろ」

 伊都に縄を渡して、彼は腰を上げた。

「それ、ぶん回してりゃ結構もつからよ」

 言われた通り、伊都は縄を持ってくるくると回した。空を切るたびに、先端の火が明るくなる。

「どうして、親切にしてくれるの」

 早くも立ち去ろうとしている少年に向かって問いかけると、彼の黒い顔がセンリョウの実のように真っ赤になった。

「きれいだから」

 ほとんど聞こえないぐらい小さく口の中で呟くと、少年は背を向けて土手を駆け下り、あっという間に姿を消した。

 気づけば、空はもう黄昏(たそが)れ始めている。伊都は夕闇に紛れてしまった少年に向かって、精一杯大きな声で「ありがとう」と言った。

 どこか遠くから、「ぶん回せ」と微かに声が返ってくる。伊都はその通りにしながら、もらった道具を片手でかき集めて、懐にしまい込んだ。これは大事にしなければならない。

 最後に魚を拾い上げ、そこで初めて、彼にあげればよかったと思った。でも、もう遅い。

 伊都は少し心残りを感じつつ森へ引き返し、熾した火で焼いた魚を食べながら、明朝にもこの土地から去ろうと決心した。


 翌日、再び放浪を始めた伊都は、(ひる)近くになって小さな集落を通りかかった。低い山に囲まれた狭い平地に、二十戸ほどの農家が散在している。その周囲にはたっぷり水を張った水田が広がり、何を育てているのか、黒い盛り土の畝が等間隔に並ぶ畑も見受けられた。よく晴れた気持ちのいい日なので、田畑では人々が農作業に精を出している。

 伊都は彼らを眺めながら、草の生えた畦道をゆっくり歩いた。頭の中に、ひとつの考えがある。しばらく前から、いずれ実行に移そうと思っていたことを、ここでやってみてもいいかもしれない。

 水田の中で腰を屈めていた農婦が、ふと顔を上げて伊都を見た。その機をすかさず捉え、小さく会釈する。

「こんにちは」

 挨拶すると、農婦は少し戸惑いながらも会釈を返してきた。年齢は四十代半ばだろうか。がっしりした体格で、どこもかしこも真っ黒に日焼けしている。

「こんにちは。旅の人?」

 そう訊いた声がとても穏やかだったので、伊都は緊張がほぐれるのを感じた。

「はい」

「ひとり?」

「はい」きっと変に聞こえるだろうな、と思いながらうなずく。普通、伊都ぐらいの歳の子供はひとり旅などしない。「あの、何か仕事をさせてもらえませんか?」

 働いて食べ物を得る。それが伊都の考えていたことだった。行く当てもなくさまよい、森に身を隠して眠る暮らしはもう嫌だ。仕事をして稼ぎ、居場所を見つけ、まっとうに生きていきたい。その第一歩として、まずは労働と引き替えに一宿一飯を得られるかどうか試してみたかった。

「誰か雇えるほど、うちはゆとりがないよ」

 農婦は気の毒そうに、だがきっぱりと答えた。

「人手は欲しいけどね」

「お金はいりません」伊都は急いで言った。「食事だけもらえれば、どんな仕事でもします」

 農婦はしばらく伊都を見つめてから、水稲(すいとう)の列の隙間を慎重に歩いてこちらへやって来た。(あぜ)に上がって向かい合い、あらためてまじまじと顔を覗き込む。

「まあ驚いた。あんた、なんてきれいなんだろう」彼女は目を(みは)り、少しの嫌味もなく言った。「傷んでるけど、着物も上等だ。いったい、どこのお城から逃げ出してきたの?」

 二日続けて、初めて会った人からきれいだと言われた。だが、これまでのところ容姿が災難の元になっているように思えるので、あまり嬉しさは感じない。

「そんなんじゃありません。わたし――孤児(みなしご)なんです」

 自分で言ったにもかかわらず、その言葉は腹にずしんとこたえた。〝孤児〟。でも、今はそうだ。疑いなく。

「真剣にやりますから、働かせてください」

 懸命に言いつのると、農婦は心を動かされた様子を見せた。

「草取り、したことある?」

「いいえ。でも教えてくれたら、一度で覚えます」

 農婦は根負けしたように笑った。

「わかった、いいよ。裾を端折(はしょ)って、裸足になっておいで」

 伊都は言われたようにして、彼女の後を追った。水田に入る前に、背負っていた弓袋を畦下の斜面にそっと置く。見晴らしがいいので、もし誰かが近づいて盗ろうとしても、その前に見つけられるだろう。

 水田に張られた水はぬるく、足の下の土はきめ細かく滑らかだった。歩くたびに、とろとろした感触の土が足裏にまとわりついてくる。

「稲を抜いちゃ、いけないよ。よく見て、雑草だけ引き抜くんだ」

 農婦は稲の周りに生えた草を次々と引き抜き、一つひとつ伊都に教えてくれた。水中に潜っているミズオオバコ。細長く尖った葉を持つスブタ。根を深く張っているクログワイ。そして、稲によく似ていて紛らわしいイヌビエ。

 伊都はそれらの色や形を頭に叩き込み、畝のあいだを歩きながら土に指を潜らせて引き抜いていった。抜くのにさほど力はいらないが、中腰の姿勢をずっと続けなければならないのがつらい。

 百姓はみんな、こんなにきつい仕事をしているの? 毎日?

 それは伊都が、これまで想像したことすらなかった世界だった。武家の暮らしと農家の暮らしは、なんて何もかもが違っているんだろう。だが、自分がその相違に驚きこそすれ、嫌悪の情は抱いていないことに気づいた。

 土に触れて働くのは気持ちがいい。汚れて、汗が流れて、体が痛むけど、それでもやはり気持ちいい。

「あんまり頑張ると、ぶっ倒れるよ」少し向こうで、農婦が明るい笑い声を響かせた。「あんた、働き者だねえ」

 半刻ほど仕事を続けたところで、彼女は伊都を昼飯に誘った。

「うちはすぐそこだよ。亭主もそろそろ畑から戻ってるだろう」

 ふたりは田んぼから上がり、水路を隔ててぽつんと建っている藁葺き屋根の家に向かった。敷地の北東にイボタノキが植えられ、今が盛りと白い花を咲かせている。近づくと、えも言われぬ甘やかな芳香が鼻をくすぐった。

 家の入り口に戸はなく、(むしろ)が二枚下げてあるだけだ。外で手足を洗ってから中に入ると、土間のほかに板敷きの部屋がひと間あるだけの住居だとわかった。板間の一角に囲炉裏が切ってあり、その傍に腰を下ろした男が鉄鍋で粥を煮ている。

「なんだい、どこの子だ」

 五十歳ぐらいに見える男は伊都に目をやり、驚きを露わにした。

「旅の娘さん。すごい別嬪(べっぴん)だろう? 田んぼを手伝ってもらってるんだ。よく働く子だよ」そう教えてから、農婦はぷっと吹き出した。「あらいやだ、あたしったら名前も訊いてなかったね」

 不意を突かれ、伊都は一瞬たじろいだ。〝お名前は隠して〟。長助の最期の言葉が脳裏に浮かぶ。少なくとも天勝(ちよし)国の中にいるあいだは、その助言に従うべきだと思った。

「ふみ」

 咄嗟に口から出てきたのは、大光明(おおみや)で同じ立花(りっか)の師匠のところに通っていた仲良しの名前だ。

「ふみ」農婦は繰り返して言い、それから自分も名乗った。「あたしは、たよ。それから、亭主の平吉(へいきち)だよ」

 伊都は平吉と会釈を交わし合った。小柄だが頑強そうで、とても優しい目をしている。

 夫婦は伊都を板間に上がらせて、大根葉の入った玄米の粥と漬物を食べさせてくれた。久しぶりの、食事らしい食事だ。伊都は喋るのも忘れて、食べることに集中した。それを、たよと平吉がにこにこしながら見守る。

「なんとまあ、きれいな食い方をするもんだ」

 平吉が伊都の箸づかいを見て、感心したように言った。

「このへんの子らとは大違いだな」

「町育ちなんだよ」

 たよが適当に推量してくれるのがありがたかった。いろいろ訊かれたら、返答に詰まることは間違いない。言えることより、言えないことのほうが多かった。

「畑では、何を作っているんですか?」

 話題を変えるために訊くと、平吉が嬉しそうに微笑んだ。

「今の時期はサヤエンドウだな。それから胡瓜、茄子。ふみちゃんは、茄子は好きかい」

「はい」

「そりゃいい。晩飯には取り立ての茄子で煮浸しでもするか」

 夕餉も食べさせてもらえそうだとわかり、伊都は一気に気持ちが楽になった。次の食事の心配をしなくていいというのは、本当にありがたいことだと思う。

 夫婦の親切に応えようと、午後はさらに草取りに励んだ。あまりに張り切り過ぎたので、夕方にはふらふらになってしまったが、体を酷使するのは剣術の稽古で慣れているので回復も早い。

 夜には、約束どおり茄子の煮浸しが出された。だし汁がたっぷりしみ込んでいて、とろけるように柔らかい。そのほかには玄米入りの麦飯に蕪の漬け物があるだけだが、今の伊都にとっては充分すぎるほどのご馳走だった。

 さらに嬉しかったのは、平吉夫婦が泊まっていけと言ってくれたことだ。板間が狭いのを見た伊都が土間でいいと言うと、ふたりは(むしろ)を何枚も重ね敷き、(かまど)の横に居心地のいい寝床を作ってくれた。ずっと野宿をしていたので、夜露に濡れることなく屋根の下で寝られるというだけで贅沢な気分になる。

 伊都は労働の疲れもあって、床に入って頭を枕に置くなり、すぐに眠りに落ちた。いつ行灯が消えたのかも覚えていない。

 だが二刻ほど眠ったところで、ふと意識が冴えた。体はまだ眠っているが、頭は目覚めている。板間のほうから軽い(いびき)が聞こえ、夫婦はまだ眠りの中にいるのだと思った。

 どうして目が覚めたんだろう。

 ぼんやり考えた次の瞬間、傍らに人の気配を感じて凍りついた。

 誰かいる。すぐ近くだ。微かに息づかいが聞こえる。でも動いている様子はない。誰かが、何かが、じっとわたしを見ている。

 心臓が激しく動悸を打ち、その音が体の外にまでもれ響くような気がした。落ち着かなければ、相手にも聞かれてしまうかもしれない。

 全身に冷たい汗が噴き出すのを感じながら、伊都は努めて慎重に、糸のように細く目蓋を開いた。そのわずかな隙間から、薄暗がりに目を凝らす。

 やがて見えてきたのは、土間に膝をついてこちらを見下ろしている平吉の姿だった。その表情はどこか虚ろで、優しげだった目からは温かみが消えている。

 伊都は彼の顔に、あの時叔父の顔に浮かんでいたものとよく似た何かを見つけ、慄然となった。

 まさか、この人も? なぜ?

 信じられなかった。平吉は叔父よりずっと歳を取っている。それに、すぐ傍で妻のたよが眠っているのだ。なのにどうして、孫のような歳の娘におかしな気を起こしたりするのだろう。

 その時、多恵(たえ)の声が一瞬のひらめきのように頭の中を駆け抜けた。〝辛抱できなくなりなすったんでしょうね。殿方にはそういう時があるそうです〟。次いで、あの少年の言葉が浮かぶ。〝餓鬼だろうが、女なら何でもいいんだ〟。

 伊都の心に失望と、それにもまさる憤激が湧き上がった。困惑や恐怖が全て怒りに変わり、全身がかっと熱くなる。

 ずっと固まったまま動かなかった平吉が、わずかに身じろぎした。小さく吐息をもらし、蛞蝓(なめくじ)が這うようにゆっくりと右腕を上げる。彼は五指を中途半端に伸ばし、逡巡しながら伊都のほうへそろそろと近づけた。

 触れられるのは嫌だ。

 伊都は、ぱっと両眼を開いた。強い視線を浴びた平吉が小さく喘ぎ、迷っていた手がぴたりと止まる。彼女はそのまま、まじろぎひとつせず彼を見つめ続けた。

 あなたが何をしようとしたか、わたしは知っている。

 眼差しに込めた非難は、はっきりと彼に伝わった。すっかり顔色(がんしょく)を失った平吉が視線を逸らし、恥じ入るように顔を伏せる。彼はしばらくそうしてうつむいていたが、やがてじりじり後ずさりして離れて行き、板間へと這い上がった。寝床へ潜り込む気配がして、それきりしんと静まりかえる。

 伊都は目を覚ましたまま朝を迎え、たよが起き出してくるとすぐさま辞去を伝えた。

「どうして」たよは心底驚いたように言い、伊都を引き止めようとした。「せめてもう二、三日いられないの? あんたはよく働いてくれるし、あたしも助かるんだけど」

 そうできたら、どんなにいいか。伊都は泣きそうになったが、ぐっとこらえて首を振った。

「ごめんなさい。でも行かないと。ご飯、とても美味しかったです。ありがとうございました」

 多くは語らない。語れない。自分がひどく恩知らずな人間に思えたが、どうしようもなかった。

「まあ、あんたにも何か事情があるんだろうね」たよは残念そうに言って、狭い台所を見回した。「朝ご飯ぐらいは食べていけるだろう?」

「いえ、すぐ()たないと」

 伊都が慌てて断ると、彼女はため息をひとつついて飯櫃(めしびつ)の蓋を開けた。

「じゃあせめて、夕べの残りを持ってお行き」

 有無を言わさず、手早く握り飯を作り始める。それ以上の断り文句を並べることもできず、所在なく出来上がりを待っていると、平吉がようやく寝床から出てきた。

「ふみちゃん、もう行っちまうんだってさ」

 たよの言葉に、平吉は悄然とした唸り声で答えた。伊都のほうは見ないし、慰留の言葉もかけない。それこそが、彼が夕べ(よこしま)な思いを抱いたことの、何よりたしかな証拠だった。

「ひとり旅は危ないからね、気をつけるんだよ」

 握り飯に漬物を添えて小さな包みを作り、たよは心のこもった言葉と共に渡してくれた。それを胸にしっかりと抱き、夫婦に別れを告げる。

「ご親切は忘れません。さようなら」

 伊都が家を出る間際、最後にちらりと見た平吉の顔には、明らかな安堵の表情が浮かんでいた。

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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