二十四 立身国七草郷・六車兵庫 別れ
くそ、これだから師匠に詰めが甘いと言われるんだ。
六車兵庫は悔悟を噛みしめながら、暗い森を抜けて川沿いの土手をひた走った。
あれだけ策を弄して勝利しながら、肝心の止めを刺し損ねるなど、間抜けにもほどがある。腹を突き通した一手で致命傷を与えられなかったのも、未熟さゆえの大失態だ。
あの牢人をこのまま逃すわけにはいかない。これは意地ではなく、責任の問題だ。腕を斬り落とされ、狂乱の態ではあったものの、彼は紛れもなく川へ逃れることを自ら選択した。あれほど往生際の悪い人間は恥を恥とも思わず、いずれ傷が癒えたなら、残った左腕でまた人に害をなそうとするだろう。それは断固として阻止しなければならなかった。
この二、三日は雨がほとんど降っていないので、川の流れは穏やかだ。傷を負っていても、あれだけの腕力を持った男ならば遠からず岸に泳ぎ着くだろう。それまでに、なんとしても追いつかねばならない。
刀に軽く手を添え、闇を切り裂くように駆けていた兵庫の目が、ふと何かを捉えた。十間ほど先に佇む人影が見える。男だということ以外、その風貌や姿形は杳として知れなかったが、それでも確かに見知った人物であると彼は直感した。
あの牢人か、それとも――。
兵庫は一度足を止め、そこから足音を殺してじりじりと前進した。人影の足元に灯火が見える。地面に龕灯提灯を置いているようだ。まっすぐに伸びる強い明かりが、川の中ほどで水面を大きく波立たせながらもがいている男の姿を浮かび上がらせた。明かりに引き寄せられるように岸を目指し、片腕だけで必死に泳いでいる。
まさかほかに仲間がいたのだろうか、と訝しみながら、兵庫は左手の親指を刀の鍔に押し当てた。少し腰を屈め、慎重に岸辺へ近づいていく。
何度も水に飲まれて運び去られそうになりながらも、牢人はついに川岸へと辿り着いた。もうほとんど体力は残っていないはずだが、それでもなけなしの力を振り絞り、のろのろと土手を這い上がり始める。
苦闘の末に、彼はどうにか斜面を登り切った。背を波打たせながら激しく咳き込み、疲労困憊した様子でしばしその場にうずくまる。
兵庫は二間ほど手前で立ち止まり、ふたりの動向をじっと窺った。牢人は立とうとしているようだが、あの人影は手を貸すそぶりすら見せない。
やがて牢人が、生まれたばかりの牛の子のように頼りなく立ち上がった。水をしたたらせ、か細い息を吐きながら、今にも均衡を失いそうにぐらぐらと揺れている。
その時、何もせず佇んでいた男が、大きく一歩踏み出しながら流れるような動作を見せた。その腰間から白刃が閃き、高く弧を描いて闇を切り裂く。
抜く手も見せぬ鮮やかな一撃で首をほとんど切断され、痩せた牢人は登ったばかりの土手を転がり落ちた。次いで小さく上がった水音にあっさりと背を向け、人影が足元の龕灯を持ち上げる。
その男は椙野平蔵だった。
偶然ここに居合わせたはずはない。兵庫が匡七郎と共にやっていることを承知の上で、万一に備えてこの場所で待機していたのだ。浮浪人連中のうち、誰かひとりでも森から出てくるようなら、後始末をしようと決めていたのだろう。
平蔵先生は、すべてご存じだった。
驚嘆の念に打たれながら立ち尽くす兵庫に向かって、彼は穏やかに微笑んだ。
「お見せした」よく通る声で、はっきりと言う。
一瞬戸惑ったが、兵庫はすぐに、数日前に彼に対して技の披露を願い求めたことを思い出した。先ほどの一太刀は、それに応えるものだったのだ。ますます圧倒されるのを感じつつ、心からの感謝と満足を伝えるべく深く頭を下げる。
平蔵は小さく会釈を返し、それ以上何も言うことなく軽やかな足どりで歩み去った。
七草郷を去る日、兵庫は朝餉を終えたあと、道場で椙野平蔵と篤次郎に辞去の挨拶をした。わずかな身の回りの持ち物はすでにまとめ、寝間として借りていた部屋の清掃も済ませてある。約ひと月のあいだ共に道場で汗を流した門人たちへは、昨日の稽古を終えた時に別れを告げておいた。
「ひとかたならぬご厚情に与り、ご薫陶を賜りましたこと、生涯忘れません。まことに、かたじけのうございました」
板間に座して両手をつき、深々と頭を下げた兵庫に、平蔵が柔和な眼差しを向ける。
「いやいや、礼を言いたいのはこちらも同様。ご滞在のあいだ、弟子たちがよい勉強をさせていただいた。なかでも匡七郎は、ほかでは得がたい大切なものをあなたから学び取ったようだ。師として、衷心よりお礼を申し上げる」
平蔵の盛大な謝意に恐縮する兵庫を見ながら、篤次郎はほがらかに笑って言った。
「匡七郎が番犬よろしく、いつもおぬしの傍にぴったりと張りついているので、気安く近寄ることもできなんだと他の者たちがぼやいておったぞ」
「まことに近寄りがたいのだとしたら、それは匡七郎ではなく、わたし自身のせいでしょう」兵庫は小さく肩をすくめ、苦笑をもらした。「至らぬ部分をあらためられるよう、今後も修行を積んでまいります」
謙虚な言葉に微笑む平蔵親子と交わした視線をそのまま流し、彼はゆっくりと道場の中を見回した。わずかだが、己の中に名残を惜しむ気持ちがあるのがわかる。これまでに足を留めたいくつかの道場では、一度も感じることのなかったものだ。
しかし、そうした場所と同様、おそらくはここへも二度と訪れることはないだろう。
そのことに微かな感慨をおぼえながら、兵庫は師範親子に向かって再び頭を下げ、思いを断ち切るように素早く腰を上げた。
門を出たところに、匡七郎がいた。両手を後ろ手に組み、黒塀に背をもたせかけて、ぼんやりと空を見上げている。いや、その態を装っている。兵庫は門前で足を止め、まっすぐ前を向いたまま言った。
「見送り無用と言っただろう」
「お見送りじゃありません。散歩をしていて、たまたま通りかかっただけです。暇だし、これから街道の辺りまで行こうかなと思って」
彼もまた、こちらを見ないままで言う。兵庫は嘆息し、低く問いかけた。
「街道の手前までなら来てもいいが――泣かぬと約束するか?」
「泣きません」
ぱっと振り向き、打てば響くように答える。匡七郎の白い頬に生色がみなぎるのを見て、兵庫は思わず苦笑した。
「よし、行こう」
短く告げて歩き出せば、嬉しそうに後を追ってくる。その軽い足音を背中で聞きながら、彼は再び小さくため息をついた。
街道までの道のりは一里ほどで、さほど遠くはない。だが、ふたりで共に歩む往路はそうでも、たったひとりで戻る復路は実際以上に長く感じられることだろう。本当は、匡七郎をひとりきりで引き返させたくはないし、その姿を想像したくもなかった。だから昨日道場で皆に挨拶をした時、彼にも同じく別れを告げて見送りを禁じたのだ。
しかし、果たして――と兵庫は思う。匡七郎にとっては、どちらが良かったのだろう。昨日の時点では、そこで別れるのが最善に思えた。だが、街道まで来ていいと言っただけであんな表情をされると、必ずしもその判断が正しかったとは言えない気がしてくる。
ちらりと横を見ると、何かを期待するようにこちらを見上げていた少年と目が合った。
「帰りが寂しいぞ」率直に言ってみる。
「はい。でも、どうしてもお見送りしたかったのです」
匡七郎もまた率直に応え、にっこり笑って見せた。
「わたしのことは、お気になさらないでください。寂しかったら、歌でも唄いながら帰ります」
大人びていながら、どこか子供っぽさも混じる物言いだ。
「おまえには、いろいろと世話になったな」
味も素っ気もない言葉だが、それは本心から出たものだった。匡七郎が少し戸惑ったような様子を見せ、小さく首を振る。
「わたしは何も……むしろ、修行のお邪魔ばかりしてしまったような気がします」
「そんなことはない。おかげで、楽しく過ごすことができた」
「楽しかったのは、わたしのほうですよ」匡七郎は少し照れながら、しかし真剣な表情で言った。「これでお別れだなんて、なんだか信じられません」
「どんな出会いも、最後は必ず別離で終わるものだ」
年若い少年を相手に、随分と手厳しいことを言っているという自覚はある。だが兵庫は匡七郎に対して、中途半端な物言いをしたくなかった。
ふいに投げかけられた冷厳な言葉が、ほんの一瞬だけ匡七郎の目を翳らせる。しかし彼は、すぐに気を取り直してうなずいた。
「そうですね。でも出会わないよりは、出会うほうがずっといいです」
「別れる時に、つらい思いをするとしてもか」
「はい」
きっぱりと言い切る。兵庫は彼をしばらく黙って見つめていたが、やがて視線を遠くの空に向けて、「お前の言うとおりだな」と口の中で小さく呟いた。
年少の者にすら、いろいろと教えられることがある。人生は奥深い、と思う。
「ところで、槍の修練はどうだ?」
話題を変えて問いかけると、匡七郎が目を輝かせた。
「毎日、厳しく教えていただいています。でも刀とはずいぶん違っているので、まだ全然勝手が掴めません」
「槍術は玄奥な武術だ」兵庫はしみじみと言い、目元を和ませた。「やればやるほど、その面白さがわかってくる」
「兵庫さまは、槍がお好きなんですか?」
「刀に魅入られる前に槍と出合っていたら、あるいは槍術を極めることに専心していたかもしれん」
注意深く聞いていた匡七郎が、刀に魅入られる、という言葉に強い反応を示した。それにまつわる話を、詳しく聞きたがっている気配が感じられる。しかし兵庫にはもう、全てを語る時間は残されていなかった。
「槍のほうはお前に任せる。いずれ天下無双の槍使いとして、世に名を轟かせてくれ」
大真面目な顔で言い、匡七郎を慌てさせる。
「そんなこと、簡単そうにおっしゃらないでください」
彼はどう受け取っていいかわからないようにもじもじしていたが、やがて兵庫が笑いを噛み殺しているのに気づいて口を尖らせた。
「わたしを、からかっていらっしゃるんですね」
「からかってなどいるものか。大いに期待しているから、しっかり励めと言っているんだ」
「じゃあ、兵庫さまも戦場でたくさん手柄を立てて、大軍勢を束ねる士大将にまで出世なさってください。名家某の本陣備に六車兵庫あり、とのお噂を聞くのを楽しみにしています」
機知に富む少年から鮮やかにやり返され、兵庫は思わず呻いたが、すぐに大声で笑い出した。
「これは一本取られたな」
「わたしは本気ですよ」
そこで匡七郎はふと、何か決心したように足を止めた。一歩遅れて兵庫も立ち止まる。
「あの――兵庫さま」
「なんだ」
「お便りを差し上げたら、お返事をくださいますか?」
「いや」
兵庫のあまりにも短い返答に、匡七郎が呆然となる。衝撃のあまり少年が目をまん丸に見開き、口をぽかんと開けたまま完全に固まっているのを見て、兵庫はようやく己の言葉がかなり足りなかったことに気づいた。
「あ――いや、すまん。今のはおれが悪かった」慌てて身を屈め、匡七郎の顔を覗き込む。「別に、おまえに手紙を書くのが嫌だという意味じゃない。ただ、おれはこの後まだしばらく諸国を放浪するし、来年早々には入軍だ。明日己がどこへ身を置いているのか、自分でもまったくわからない。そんな状況で手紙をやり取りできるとは思えん、ということだ」
「……はい」
何となく釈然としない様子のまま彼がうなずくのを見て、兵庫はさらに言葉を続けた。
「手紙を出しても返事がこなかったら悲しいだろう?」
これには即座に「はい」という答えが返ってくる。
「そもそもおれは昔からひどい筆無精で、手紙のやり取りが長続きしないんだ。おまけに字も汚い」
兵庫は真面目くさって言い、匡七郎をけらけらと笑わせた。
「それは嘘です。熊三さんから面を借りる時に渡した念書を見ましたが、兵庫さまの字は、わたしの習字の師匠にも負けないぐらいきれいでしたよ」
笑みを残したまま先に立って歩き出し、彼はふっと吐息をついた。
「首尾よく宛先を教えていただけたら、ほかへもまわす約束でした。きっと女の子たちが、がっかりするでしょうね」
「何の話だ。女子が、どうした」
怪訝に思いながら問う兵庫を、眉をひそめて匡七郎が振り返る。
「毎日、道場へ稽古を覗きに来ていたでしょう」
「女子が大勢来ていたのは知っている」
「あれはみんな、兵庫さまを見に来ていたんですよ」
兵庫は無言で、わずかに目を見開いた。匡七郎の眉間の皺がますます深くなる。
「まさか……気づいていらっしゃらなかったんですか?」
「気づくはずがないだろう。その中の誰ひとりとして、話しかけてすらこないものを」
「兵庫さまは無愛想――じゃなく、男らしくて無口なかたなので、声をかけるのは気後れすると皆言っていました」
「無愛想で悪かったな」兵庫はむすっとした表情で呟いた。「鬼だの無愛想だのと、まったくさんざんな言われようだ」
そのぼやきを聞いて匡七郎はくすくす笑ったが、前を向いて道の先を見た途端、その笑顔は煙のようにかき消えた。街道の入り口まで、残りの道のりがあとほんのわずかとなったことに気づいたのだ。
ふいに黙りこくって歩調を落とした匡一郎に追いつき、追い抜きざまに兵庫はその肩を優しく押した。急いでついてくる足音を背後に聞きながら、穏やかに語りかける。
「匡七郎」
「はい」
「おれは旅へ出る前に師匠から、剣の腕を磨くことだけにかまけて、知己のひとりも得られぬままなら戻ってくるな、と言われた。だがお前に出会ったから、胸を張って帰ることができる」
淡々と話す兵庫の言葉を黙って聞いていた匡七郎が、その話の意味するところをふいに悟り、はっと息を呑む。
「わたしは兵庫さまの――友、ですか?」
「むろん、そうだ」
よほど意外だったのか、匡七郎は唖然としたまま言葉を失っている。だが、やがてその事実を呑み込むにつれ、目に浮かんだ驚きに喜びが取って代わった。
「この先もずっと」兵庫はそう言って、歩みを止めた。「おれは、そのつもりだ」
七草郷の東端まで来た。街道はもう目の前だ。彼は境界石の前で振り返り、匡七郎が傍に来るのを待って、静かに告げた。
「ここで別れよう」
少年は小さく喘ぎ、兵庫の顔を見上げて問いかけた。
「また、お会いできますか?」
「縁があれば」
兵庫の答えは偽りなく、明快だった。その確信もないのに、「必ずまた会える」などと気休めを言いたくない。
匡七郎の瞳が潤み出すのを見て、彼は低く囁いた。
「泣かぬと約束したはずだ」
「泣いていません」
匡七郎はそう言うなり、両腕を伸ばして兵庫に抱きついた。爪先立ちしながらぎゅっと顔を押しつけ、溢れ出そうだった涙と嗚咽を着物の布地に吸わせる。己の胸まですら届かない小さな身体を、兵庫はぎこちなく右腕だけで抱いてやった。
「達者で暮らせよ」
しなやかでまっすぐな髪を束ねる元結のあたりを見下ろしながら、そっと声をかける。
「兵庫さまも」匡七郎は顔を上げ、兵庫を見た。「どうかお元気で」
目の縁が熱を帯びたように赤いが、涙はもう止まっている。しかし、長く間を置くとまた泣き出しそうだ。兵庫はゆっくりと身を退き、最後に一度、力強くうなずいて見せた。
「日々の鍛錬を忘れるな」
その言葉を残して、少年に背を向ける。
街道に足を踏み入れると、乾いた砂埃が足元で舞い上がった。いまは梅雨の半ばだが、今日は抜けるような青空が広がっている。大股に歩みを進めると、心地良い微風が頸筋を吹き抜けていった。
兵庫は本来、一度別れを述べて歩き出したら、決して振り返ることをしない男だ。見送る者がいてもいなくても、それは変わらない。だがいま彼は黙々と歩を進めながら、生まれて初めて、どうしても振り向かねばならないという奇妙な感覚に囚われていた。
後ろ髪を引かれるというのは、こういう感じだろうか。
兵庫はほろ苦く笑い、足を止めて肩越しに後ろを見やった。
今もまだ境界石の傍に立ったまま、匡七郎が手を振っている。もし自分が振り返らなかったとしても、遠ざかる姿がついに見えなくなるまで、彼はやはりそうして手を振りながら見送ったのだろう。そう思うと、深い慈愛の念が胸に満ちてきた。
右手を高く上げて打ち振れば、それに応えて少年がさらに大きく手を振り返す。
兵庫の口許に笑みが広がった。ここからは遠くてもう見えないが、きっといま、匡七郎も同じように笑っている。また涙をこぼしているとしても、少なくとも笑顔ではあるはずだ。そう確信して踵を返す。
晴れ晴れと澄んだ双眸で行く手を見やり、彼は再び歩き出した。
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