二十三 立身国七草郷・刀祢匡七郎 浮浪人退治
月のない空が墨を流したように暗く、夜気に湿り気が混じって少し肌寒く感じられる四つ半。刀祢匡七郎はすっかり寝静まった家をそっと抜け出し、あらかじめ打ち合わせていたとおりに道場の外で六車兵庫と落ち合った。
いよいよ、浮浪人退治の最終段階だ。
今夜の兵庫は黒い絹地の着物と袴に身を包み、佩刀している。その立ち姿は偉容に満ちて、匡七郎を圧倒すると同時に高揚させた。
その匡七郎もまた、稽古用の木綿地ではあるが黒い筒袖に黒袴という身支度だ。さらに、この日のために誂えた、顔全体をすっぽり覆ってしまう黒い頭巾も用意していた。
「なんだか、芝居の黒子になった気分です」
提灯を手に、並んで森へ向かいながら匡七郎が言うと、兵庫は穏やかに微笑んだ。
「まさに、今日の芝居には欠かせない大事な裏方だからな」
「はい。きっとうまくやります」
兵庫が様子を窺うように、ちらりと視線をよこす。「怖くはないか」
「平気です。兵庫さまと一緒ですから」
匡七郎は特に気負うこともなく、あっさりと応えた。兵庫があの連中に負けて死に、自分も巻き添えを食うかもしれないなどとは微塵も思っていない。
その落ち着きぶりに、兵庫は微かな懸念を抱いたようだった。
「匡七郎――怖くないのはけっこうだが、だからといって無謀な真似はするなよ」
「わかっています。お約束は、必ず守ります」
決して声をたてぬこと。誰にも姿を見られぬこと。そして万一、兵庫が殺されたとしても自分で何とかしようなどとは思わず、すぐに道場へ戻って師匠の平蔵に全て包み隠さず打ち明け、その後の指示を仰ぐこと。
兵庫とともに森へ赴く前に、匡七郎はその三つのことを守るよう固く誓わされた。淡々と話す兵庫の態度は普段とまったく変わらなかったが、眼差しは真剣そのもので、一切の反論を許さない厳粛な雰囲気に呑まれた匡七郎はただ従順にうなずくほかなかった。
もとより彼の言葉に逆らうつもりなどないが、あんな目で押し迫られて否と言える者などいないだろう、とも思う。
「兵庫さま、百姓はみんな逃がすおつもりなんですか?」
あらためて問いかけた匡七郎をしばらく見つめ、兵庫は呟くように答えた。
「そのつもりだ。立ち向かってくるなら話は別だが、おそらくそれはないだろう」
「そうですね」ここ数日、毎夜のように見てきた百姓たちの周章狼狽を思い出しながら、匡七郎は笑みをこぼした。「ひょっとしたら、ひと目見ただけで腰を抜かすかも」
あの雨の夜以来、兵庫と匡七郎は毎日あらゆる手を使って百姓たちを怖がらせてきた。その際、兵庫は遠目にではあるものの、彼らの前に何度も姿を見せている。いい加減ひとりぐらいは、それが鬼の面をつけた人間だと見抜きそうなものだが、百姓たちはいつも恐怖が先に立って冷静に観察できないようだった。当然、度胸を見せて正体を暴こうとするような者もいない。
「人の心に棲みついた恐怖は増幅し、人から人へ伝染もする。おれの師匠が、かつてそんなことを言っていた」
ひときわ暗い森の中へ足を踏み入れながら、兵庫は低く静かに言った。
「あの百姓たちを見ていると、その説が俄然、真実味を帯びてくるな」
木々の天蓋の下を足早に歩いていたふたりは、土地神の祠の前で足を止めた。そこで道を逸れて下生えの中に踏み込み、裏側へと回る。
暗闇に提灯をかざした匡七郎は、本殿の茅葺き屋根を伝って、長い蔓が二本垂れているのを見つけた。不思議に思いながら、その一本を掴んでそっと引っ張ってみる。すると頭上の高い梢がしなって、さわさわと音を立てた。
「これも仕掛けのうちですか?」
振り返って訊くと、持ってきた風呂敷包みを解きながら兵庫がうなずいた。
「昼間のうちに来て、いろいろやっておいた。やつらがここを通りかかったら、おれがそいつで枝を鳴らして足を止める。おまえは隠れ場所から、連中の持つ提灯を狙って石を撃て。あとは、打ち合わせておいた通りだ」
「はい」
匡七郎は祠から少し離れた木立へ行き、事前に兵庫と決めた隠れ場所をもう一度確認した。そこに身を潜めれば、辺りに生えている雑草で自分の姿を完全に隠したまま、並んで立つ二本の大木のあいだから道の様子をつぶさに見ることができる。
遮蔽物となる大木のうしろ側には、糸繰り人形の吊り手に似たものがぶら下がっていた。一尺ほどの長さの棒に、太い糸が十本ほどくくりつけてある。それらの糸は上のほうにある高い枝を経由して、八方へ張り巡らされていた。
「ずいぶんたくさん、木登りなさったんですね」
思わず感心しながら言うと、いつの間にか傍へ来ていた兵庫が小さく笑った。
「猿のごとくな」そう言って、匡七郎がいる草むらに腰を下ろす。「木登りは得意だ」
「わたしもです。言ってくだされば、お手伝いしたのに」
「次は声をかける」
次? 匡七郎は顔を上げ、兵庫をじっと見た。どういうつもりで〝次〟と言ったのだろう。いつかまたふたりで、こんなことをする機会があるとも思えないのに。
兵庫が郷を去ろうとしていることを、匡七郎は何となく感じ取っていた。会ったばかりのころ、七草に滞在するのはひと月あまり、と言っていたことを覚えている。もう予定をかなり超過しているので、早晩出立するのは間違いないだろう。今夜することが成功裡に終わったら、おそらく二、三日のうちにも。
彼がいなくなることを考えると、急に気持ちが沈んだ。もっと一緒にいて、彼の剣技に触れたい。いろいろなことを話し、教えてもらいたい。彼がすることを日々近くで見て、それにかかわりたい。
兵庫に対して抱いている感情は、師匠の椙野平蔵や師範代の篤次郎に向ける崇敬の念とは少し違っていた。平蔵をこの上ない師匠と仰ぎ見ているが、個人としての彼にかかわりたいと思ったことはない。だが兵庫には、そう思わずにいられない何かがあった。
「霧が出てきたな」
兵庫が呟き、匡七郎ははっと我に返って辺りを見回した。地表から湧きだした濃い霧が、雑草の根元近くに低く淀んでいる。
「すごく静かですね……」
森の中はいつにも増して、奇妙に静まりかえっていた。虫や蛙の鳴き声も今夜はまったく聞こえない。風もないので、葉擦れの音ひとつしなかった。
気味が悪い。百姓たちもきっと、同じことを思うはずだ。匡七郎がそう考えた時、兵庫の手がそっと肩に触れた。
「来たぞ」
顔を上げて耳を澄ますと、まだ遠いが、土の道を歩く集団の足音が微かに聞こえてきた。
「いよいよですね」
「ぬかるなよ」
「はい」
ふたりは短く言葉を交わして別れた。匡七郎は隠れ場所に留まって頭巾をかぶり、弓に弾をつがえて待機する。兵庫は祠の裏に行き、覆いのついた手燭に火を移して提灯を吹き消した。あとはじっと潜んで、連中がやって来るのを待つだけだ。
ややあって、黙然とした一団が姿を現した。牢人ふたりは普段からあまり喋らないが、今夜は百姓たちまでもが、どことなく疲れたような表情で固く押し黙っている。隣郷でさんざん遊んで帰ってきたとは思えない陰気さだ。
先頭と隊列の中ほどを行く者は、いつものように弓張り提灯を携えていた。その明かりが闇を押しのけながら、ゆっくりと近づいてくる。
祠の傍まで来た時、先頭の者がふと足を止めた。それまで物音ひとつしなかった森の中が、急にざわつきだしたことに気づいたのだ。風もない中、高い梢が異様に揺れて、ぎしぎしと擦れ合うさまを凝然と見上げる。
その瞬間を狙って、匡七郎は彼が手にしている提灯を素早く撃った。ぱしっと音がして、明かりが大きく揺れる。
百姓はぎょっとして身を竦め、側面に裂け目が入った提灯を慌てて振り落とした。地面に転がったそれが、あっという間に炎を上げ始める。
匡七郎はさらにもう一弾つがえ、隊列の真ん中にいる者が持つ提灯を狙った。引き絞り、放ち、ほぼ中心を射抜く。中に立てられている蝋燭が倒れたのか、それもまたすぐに炎に包まれた。
「う、うわっ」百姓が一声叫んで、提灯を放り出す。
立て続く変異に怯える百姓たちのあいだから、いくつかのかすれた悲鳴が上がった。それに苛ついた様子で、黒く濃い髭を顔の下半分に生やした大男の牢人が口を開く。
「うるさいぞ、おまえら。いちいちくだらぬことで大騒ぎをしおって。腰抜けどもめが」
「蝋燭を拾え」ぼそりと命じたのは、もうひとりの牢人だ。「もう一度火を灯すのだ」
燃え上がる炎に鋭角的な顔の輪郭を浮かび上がらせながら、彼は左手の親指を軽く刀の鐔にかけた。ほとんどその位置から動くことなく、目だけを動かして暗い森の中をゆっくりと睥睨する。
二弾目を撃ったあとから口の中で数を数えていた匡七郎は、それがちょうど三十に達したところで、木の枝からぶら下がっている例の吊り手を掴んだ。兵庫から教えられたように、ゆっくり慎重に引き下げる。
すると道の両脇の林の中に、ぼんやりとした光を放つ青白い炎がいくつも浮かび上がった。それらは浮浪人たちを取り囲むように、ふわりふわりと舞い飛んでいる。
牢人ふたりがまず気づき、訝しげに眉をひそめた。幾分後れて百姓たちがそれを見つけ、口々に騒ぎ始める。
「ひ、ひ、人魂だ」
「あの百姓が化けて出てきたに違いねえ」
提灯の燃え殻を踏み散らして百姓たちが慌てふためくさまを、匡七郎は隠れ場所で糸を操りながら眺めていた。
百姓たちを怯えさせている人魂の正体は、実はただの樟脳玉だ。匡七郎が男たちを止めているあいだに、兵庫が素早く火を点けてまわって燃え上がらせた。その効果は予想以上で、からくりを知っていても不気味に見えるほどだ。
今年の夏の肝試しに、これを使わない手はないな。
そんなことをぼんやり考えながら糸を手繰っていると、ふいに男たちが騒ぐのをやめた。辺りの空気が、ぴんと張り詰めている。
いよいよ、ここからが兵庫の見せ場だ。
異様な気配を感じて身動きもままならなくなった百姓たちと、ふてぶてしく落ち着き払った牢人たちの視線が一点に集中している。八対の目が凝視する中、立木のあいだの闇からじわりとにじみ出すように、黒い人影が音もなく現れ出た。
寒々しく燃える青い炎が、異形の容貌を闇の中にぼうっと浮かび上がらせる。鋭い牙を剥き出しにした大きな口。目尻の釣り上がった凶悪な金壺眼。眉間を縦に割って深々と刻まれた皺。その凄まじい憤怒の形相を初めて間近で見た百姓たちが、哀れっぽい悲鳴を上げた。
しかし、当然ながら牢人たちは動じない。彼らはそれが白木彫りの鬼面であることを、すぐに見破ったようだ。ふたりの視線が面の上を素通りし、相手の腰にある刀へと引き寄せられる。
「貴様、何者だ」
濃い髭をたくわえた大男の牢人が、柄に手をかけて誰何した。しかし兵庫は一言も声を発しない。無言の威圧感と不気味さに耐えかね、百姓たちがじりじりと後ずさりし始めた。
「お、鬼だ――鬼神さまの祟りだ」中のひとりが歯をがちがちいわせながら、膝を折ってうずくまる。「お、お、おれたちがこの郷を荒らしたから、怒っていなさるんだ……」
興奮で胸をどきどきさせながら見ていた匡七郎は、兵庫が先日「百姓は迷信深い」と言っていたことを思い出した。これまで数日にわたってざんざん脅かされてきたことや、この深い闇に覆われた森という舞台、舞い飛ぶ人魂の仕掛けなども相まって、百姓たちはこれが本物の怪異であるとすっかり信じ切っているようだ。
「とんまな百姓どもめ」髭面の牢人が憎々しげに吐き捨てる。「なにがオニガミサマだ。よく見ろ、あれはただの木彫りの面だろうが」
彼は刀を抜き放ちながら、大股歩きに前へ進み出た。巨体が放つ、むっとするような威圧感が、隠れている匡七郎のところにまで伝わってくる。だが兵庫はその場に佇んだまま、微動だにしない。
牢人は鬼面を睨めつけ、唇を歪めて笑った。
「おぬし、この郷の侍だな。我らを斬ってくれと、百姓たちに泣きつかれたのだろう」
決めつけるように言って、さらに近寄る。
「いますぐに退くなら、見逃してやってもよいぞ。だが、身の程知らずにも手向かいするなら、命はないと思え」
それでも答えない相手に業を煮やし、男は舌打ちをひとつするなり攻撃に出た。雄叫びを上げて残り一間の距離を一気に詰め寄り、刀を大上段に振りかぶる。
それと同時に兵庫が動いた。腰を沈めながら、右手をするりと柄にかける。次の瞬間、峻烈な一閃が空を走り、大男の頸動脈を深々と斬り断った。血しぶきが飛び散り、ざっ、と音を立てて辺りの樹木や地面に降り注ぐ。
髭面の牢人は振りかぶった刀もそのままに仁王立ちしたまま、少しのあいだぐらぐらと揺れていたが、やがて力尽きたように膝から地面に崩れ落ちた。
それを見届けた兵庫が顔を上げ、無言のまま、ずいと足を進める。ひとかたまりになってがたがた震えているだけの百姓らには見向きもせず、彼はもうひとりの牢人と対峙した。
たったいま仲間が斬られたばかりだというのに、牢人は全く動揺していない。それどころか、屍となった仲間や百姓たちには一切興味がないというように、まるで最初からこの場にはふたりだけしかいなかったかのように、その目はただ兵庫だけに向けられていた。
「――速いな。少し驚いた」煙草を大量に吸う者に特有の、ささくれた声で呟く。「だが一度見せた以上、もう抜き打ちは通用せぬぞ」
彼は刀を抜きながら、足元をたしかめるようにゆっくりと歩いた。
一方、兵庫は構えをとらず、柄を握った右手を体側に沿って自然に下ろしている。それを見つめる男の目がほんのわずか、相手の腹の内を探るかのように細められた。
あらためて見ても、やっぱり強そうだ。匡七郎は息を詰めて、兵庫と向かい合う男を見つめた。痩せているが、ひ弱そうな雰囲気はどこにもない。そしてその目は異様に落ち着き払っている。
一合目は男が仕掛け、真っ向から打ち込んだ。兵庫がそれを峰で受けて横に流し、くるりと立ち位置を入れ替える。
人魂を操るのも忘れて見入っていた匡七郎は、彼が背中に何か差していることに初めて気づいた。持ち手に革紐を巻いた、一尺三寸ほどの鉄棒に見える。小刀などではないようだが、いったい何に使うのだろう。
首を傾げる彼の前で、兵庫と牢人が激しく斬り結んだ。音を立てて噛み合う刀身から、ぱっと火花が散る。体格は兵庫のほうが断然まさっているが、牢人の斬撃は彼のものに劣らず重そうだ。
三度、四度と打ち合いながら、兵庫は少しずつ後方へ退いた。引き込まれるように、男もまた次第に前へ前へと進み出てくる。やがてふたりは、先ほど死んだ大男の体が横たわる場所のすぐ近くまで来た。
押されているのか、策略なのか、匡七郎にはわからない。兵庫が負けることは考えてもいないが、それでも気づくと緊張で汗びっしょりになっていた。吊り手を持っていないほうの手を無意識に握り締めていたため、手のひらに爪が食い込んでいる。
その時、ひと跳びして死体を跨ぎ越えた兵庫が、右足の爪先を地面に突き入れて大きく蹴り上げた。大量の血を吸って重く湿った土が、ねばついた塊となって牢人の顔に飛び散る。
避けることもできたはずだが、彼は咄嗟にそれを斬り払った。だが相手は単なる土塊で、ほとんど手応えはない。勢い余って、足が小さくたたらを踏む。
彼の注意がわずかに逸れた瞬間を逃さず、兵庫は懐に飛び込んだ。いつの間にか、背中に差していたあの棒を抜いている。今度は匡七郎にも、それが何なのかはっきりとわかった。十手だ。
牢人は素早く体勢を立て直し、突進してきた彼に袈裟斬りを見舞った。その斬撃を、兵庫が十手の鉤で受け止めて絡め取り、そのまま力任せにねじり上げる。鈍い音をたてて、刀身が真っ二つになった。
男の目が、驚愕も露わに大きく見開かれる。
兵庫は十手を地面に落としながら、足を前後に大きく開いて腰を決め、右手の剣をまっすぐ相手の腹に突き込んだ。切っ先を背中まで通して引き抜き、右に振り上げながら返して鋭く打ち下ろす。
棒立ちになっている男の右腕を、彼は肘のすぐ下で断ち斬った。折れた刀の柄をまだ握ったままだった腕が跳ね飛び、道の脇の草むらへ転がり落ちる。ひと呼吸置いて、男の喉から絞り出すような絶叫がほとばしった。
やった! 匡七郎は危うく躍り上がりかけ、急いでまた体を沈めた。
血が噴出する腕の切り株を懐に抱き込んで、牢人がこちらへ向かってふらふらと走り出す。彼がすぐ傍を通り過ぎ、その生気を失った蒼白な顔に匡七郎は震え上がった。まるで幽鬼さながらだ。
男を追って、兵庫もまた林の中へと駆け込む。だが木々の向こうで小さく水音がしたあと、彼はすぐに戻ってきた。どうやら、牢人は森の脇を流れる川へ落ちたらしい。
兵庫は匡七郎をちらりと見てから、祠の前の道へ戻った。
壮絶な斬り合いを目の当たりにした恐怖から未だ立ち直れていない百姓たちは、先ほどと同じく道の真ん中にへたり込んだままだ。彼らは戻ってきた兵庫の姿をひと目見るなり、頭を抱え込んで「おたすけ……おたすけを……」と一心に唱えだした。
刀を鞘に収めた兵庫が、そのすぐ傍まで歩み寄る。これまで一度も声を発することのなかった彼が、そこで初めて口を開いた。
「立ち去れ」
その言葉の真意を量りかね、男たちがおずおずと頭を上げる。それぞれの顔を順に見渡しながら、兵庫は低く重々しい声で続けた。
「再びこの地を踏むこと、断じてまかりならん」
しかし、怯えきった百姓たちは一向に動こうとしない。兵庫は焦れた様子で、刀の柄に手をかけた。
「いますぐ去らねば、斬る」
彼が声を荒らげて一歩前に踏み出した瞬間、恐ろしさに耐えかねたひとりの百姓が「ひいっ」と喘ぎを漏らし、帯に差していた刀を鞘ごと兵庫に向かって放り出した。
攻撃の意図はなく、もう抵抗はしませんという意思表明のつもりだったのだろう。だが、その場の誰もが予想だにしなかった行動に、さしもの兵庫も不意を突かれた。咄嗟に仰け反った彼に直接刀が当たることはなかったが、柄の先端が鬼面に届き、眉間の部分を軽く打つ。
ぱん、と乾いた音がして亀裂が入り、面が真っ二つに割れて落ちた。
あ、まずい――匡七郎は思わず歯軋りした。仕掛けの効果が、一瞬にして霧散してしまったのを感じる。馬脚を露わすとは、まさにこのことだ。
ところがその時、素顔を晒した彼を見上げて口をぱくぱくさせていた百姓たちが、一斉に喉も張り裂けんばかりの悲鳴を上げた。血走った目を見開いた彼らの顔には、名状しがたい恐怖の表情がこびりついている。
百姓たちは弾かれたように立ち上がると、口々に「鬼だ、やっぱり本物の鬼だ」「おっかねえ」などと叫びながら、先を争うように走り出した。その背が、瞬く間に森の奥へと消えていく。
匡七郎は隠れ場所から出て、かぶっていた頭巾を取りながら兵庫に近づいた。彼はまだ百姓たちが走っていった方向を見たまま、呆然と立ち尽くしている。
「あんまりだと思わんか」
本気で傷ついているような響きをその声に聞き取って、匡七郎はもう少しで吹き出しそうになった。しかし、ぐっとこらえて真面目な表情を保つ。
「もともとすごく怖がっていたし、さっき牢人がふたりも斬られるのを見たばかりだし……なにしろほら、こんな暗い場所ですから」慰めになりそうな言葉を必死で探す。「誰であったとしても、きっと彼らの目には本物の鬼みたいに見えたと思いますよ」
「――もういい、匡七郎」
兵庫は嘆息して、ようやくこちらを見た。
「さっきの男が川へ逃げたが、すぐに追えばまだ間に合うだろう。小半刻ほどで戻るから、先にここの片付けを始めていてくれ」
「わかりました」
「そこの死体がもし漂魄になったら、森を出て大声でおれを呼べ」
匡七郎がうなずくと兵庫は素早く身を翻し、木立の中へ駆け込んでいった。
あの牢人に止めを刺しに行ったんだ。匡七郎はそう考え、肌が粟立つような戦きと昂奮をおぼえた。
さっきの斬り合いはすごかったな……。
兵庫の戦いぶりを思い出し、ぶるっと身震いする。人が斬られるのを見たのは今夜が初めてで、恐怖を感じなかったと言えば嘘になるが、それよりも感銘を受けたほうが大きかった。
最初の牢人を倒したあの一撃。抜いたと思った時には、もう勝負がついていた。それから十手。あれで刀を折ったのには驚かされた。最初から奥の手として使うつもりで用意していたのだろうか。まさか彼が十手術を身につけているとは思わなかった。
そうやって思い返していると、あの男を仕留めるところも見たい、という貪欲な思いがふつふつと湧き上がってくる。だが匡七郎はその渇望を胸の内に抑え込み、任された仕事に取りかかった。
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