六十九 立身国杣友郷・黒葛貴之 離岸
これはどういう謎かけだろうか。
夕餉を前にして、黒葛貴之は黙然と考えていた。
黒漆塗りの蝶足膳に並べられているのは、飯、汁物、煮物、和え物、香の物の器がそれぞれひとつずつ。饗応膳といえば旬の魚の姿焼きなど、存在感のある華やかな料理と山海の珍味が付きものだが、ここにあるのは日常の食卓でも出されるようなものばかりに見える。普通ならあって当然の二の膳三の膳が運ばれてくる様子もない。
あまりに素朴だ。良くも悪くも。
貴之はちょっと目を上げ、一段低い板間に無表情で座っている有部達昌を見た。
立身国杣友郷を領する達昌は、当年とって五十七歳。七草黒葛家に臣従する外様衆のひとりで、江州役にも幾度となく出陣している。彼に会うのが今回の視察旅行最大の目的であり、対面の儀はつつがなく行われたが、その後「お食事を」という段になってにわかに怪しい雰囲気になってきた。
さり気なく広間を見渡せば、貴之の戸惑いを同行の家臣らも共有しているのが見て取れる。饗応の膳とは言いがたい粗末な内容に誰もが困惑し、少し腹を立ててもいるようだ。
そこには二種類の怒りが見て取れた。自身が侮られた不満から怒っている者と、主人が粗略な扱いを受けたと感じて怒っている者とがいる。おもしろいもので、両者の違いは各人の醸し出す雰囲気で何となく見分けがついた。新参の若い家臣には前者が多く、古参の馬廻衆などには後者が多い。
貴之にとって、もっと身近な者たち——家臣というよりは親友の唐木田智次や、幼少期からの護衛役で身内も同然の柳浦重益などは、傍目にわかるほど感情を出してはいなかった。彼らは先走って判断を下さず、自分たちの主がどうするかを冷静に見守っている。
そこで貴之は箸を取り、おもむろに料理を食べ始めた。
饗応の主役である彼が文句を言わず食べるなら、家臣は腹で何を思っていようとそれに従う。みながあとに続いて食事に取りかかると、刺々しくなりかけていた場の空気が少し和らいだのが感じられた。
旨い——。
箸を口に運びながら、貴之は腹の中で独りごちた。
大ぶりの器に盛られているのはただの米飯ではなく、白米を黒豆と梅肉と共に炊いたもので、ほんのり淡い桃色をしている。梅のかすかな酸味が夏らしく爽やかで、噛み締めると米と豆の優しい甘みが感じられた。
汁物はたっぷりのシジミとワケギの入った味噌汁。シジミは丁寧に砂出しされており、身が大ぶりで風味が強い。
煮物は出汁でほっくりと煮たサトイモだった。細かく擦って控え目に味付けした、香ばしい黒ごまをまとっている。
白和えは旨味の濃厚な茸が主役だ。細切りのニンジンや青菜、こんにゃくと合わせて、木綿豆腐ではなく柔らかく煮た大豆をつぶしたものを和え衣にしてある。
一見地味なようだが、どれも手間暇かけて作られた料理であることは疑いようもなかった。達昌にこちらを貶める意図のないことは、ひと口食べれば誰でも理解できるはずだ。
貴之はくつろいで食事を楽しみ、香の物の味噌漬け大根まですべて堪能した。
あらためて広間を見渡せば、最初と比べて不満げな顔はかなり減ったようだ。まだ何か言いたそうにしている者は単に大食らいで、量が足りないと感じているのかもしれない。
貴之自身も、やや物足りなくはある。だがおかわりを勧めてこないということは、達昌には何か考えがあるのだろう。そう思い、「どれも旨かった」と感想を述べるに留めて箸を置いた。
「あっちで荷物を整理させている若い連中が、食事にぶつくさ言っていたので叱っておきました」
夕餉のあと風呂をすませて寝所へ戻った貴之の濡れ髪を梳きながら、唐木田智次が珍しく不機嫌そうに報告した。自分も十六歳と若いくせに、新参の小姓たちを「若い連中」などと言っていて妙な可笑しみがある。
「どんな文句を?」
「こんな立派な館に住みながら、有部達昌は吝嗇な男だとか何とか」
貴之は苦笑をもらし、少し汗ばんでいる首筋を手ぬぐいで拭いた。
「あの食事、おまえはどう思った」
「簡素だけど美味でした」いつも率直な智次が忌憚なく言う。「食材も特に良いものを取り寄せているかもしれません。あのシジミだって、たぶん大粒のものだけを慎重に選り分けて使っているでしょう。けっこう手が込んでいると思います」
「そうだな」
「タイやカニなんかをドンと並べておけば、取りあえずもてなしている感じが出て無難なのに、敢えてそうしなかったところが興味深いですね。これ見よがしなことを嫌う性質なのか単に偏屈なのか……達昌どのがどういう人なのか、ちょっと知りたくなりました」
梳き終えた髪の水気を丁寧に拭いながら、彼は横から貴之の顔を覗き込んだ。
「御屋形さまはいかがです。お腹は足りましたか」
そう聞かれて腹をなでてみれば、不思議にすっきりと落ち着いている。
「食い終えた時にはもう少し何か欲しい気もしたが、今はそうでもないな」
「今日もご進物の食べ物が山ほど届いているので、必要ならお夜食をご用意しますよ」
腹ぺこで眠れない〝若い連中〟がいたら食わせてやるといい——と言おうとしたところへ、次の間から声をかけられた。
「御屋形さま」
馬廻がふたり来て、仕切り襖の脇に控えている。
「本日の宿直は、麻沼大悟と佐々道朝が相勤めます」
「わかった。よろしく頼む」
貴之は智次が下がって部屋にひとりになると、すぐ床について寝る態勢に入った。
寝所として提供された部屋は、ふだん寝起きしている館の奥寝間よりも広い。そのせいか、隣室の宿直たちの存在が遠く感じられた。眠気覚ましに小声で会話しているだろうが、それもまったく届いてこない。代わりに、庭でさかんに鳴いているヤブキリやマダラスズの声がやけに耳についた。時折それが途切れるのは、警邏する者が苑路を歩き回っているからだろう。
夜の音を聞くともなしに聞いていると、少しずつ眠気が差してきた。
今日の日中に杣友郷の視察は終えており、明日は早めに出立して帰路に就く予定になっている。残す経由地は鈴久名、前旬、荷軽部の三郷。このあと何も問題がなければ、三日後には予定通り七草に帰り着くはずだ。城では弟や妹が土産話を心待ちにしているに違いない。
ふたりの顔を思い浮かべながらいつしか寝入り、貴之はしばらくのあいだ何にも邪魔されることなく深く眠った。
ふと目を覚ましたのは、二刻ほど経ったころだろうか。天井から吊られた蚊帳を透かしてぼんやり見える窓障子は、月明かりを受けて闇に白く浮かんでいる。夜明けにはまだ間があるようだ。
貴之は目覚めたあとも姿勢を変えずにじっとしていた。室内には自分しかいないはずだが、蚊帳の薄い幕の向こうに何かの気配があるように感じる。
「気づいているな、小僧」
どこか近くから〝声〟が囁いた。ふた月前に城に忍んできて〝棘〟と称した刺客の、あの年齢性別が判別しづらい不可思議な声だ。
「予感があった」貴之は視線を天井に向けたまま、静かに言った。「今夜あたり来るだろうと」
「前の時にも思ったが」
声が部屋の中をゆっくりと移動していく。
「おまえは若いくせに肝が据わっているな。さすが名家の跡取り——いや、今はもう当主か……」
足元のほうで声が止まると、貴之は床の上に上体を起こした。蚊帳を隔てた薄闇の中に、ひときわ黒い人影がうずくまっている。想像していたよりは小柄なようだ。
「ようやく姿を見せる気になったのか」
「いや、まだだ。おまえの返答次第では、おれは顔を見られる前に消える」
「なら問うといい」
「情報は役に立ったか」
前回の邂逅で彼から雇用を求められた際に、貴之は何か有益な情報をもたらして能力を証明しろと要求した。ただ人を殺すことしかできないような者ならいらないと。かなり不本意そうではあったが、〝棘〟はそれに応えた。昨日、鹿草山で視察団が襲撃を受けた際に事なきを得られたのは、事前にこの男からの情報提供があったからだ。
「役に立った」
貴之は変に勿体をつけたりはせず率直に答えた。
「おまえには感謝している。あの警告のお陰で、郎党から犠牲を出さずに済んだ」きちんと居住まいを正し、頭を下げる。「かたじけない」
蚊帳の向こうで、人影がかすかに身じろぎした。
「なに——なにを……礼など催促しておらん。おれの働きが気に入ったのなら、雇うと言えばいいのだ」
意外なことを言われて戸惑っているような口調だ。最初の出会いから感じ続けていた得体の知れなさが、この時初めて少し薄らいだように思えた。
「本気で黒葛家に仕えたいのか」
「違う。おまえに仕える。家にではない。主家などというものを持ち、それに縛られてしまうと、おれは主人以外なら誰でも殺せる〝棘〟ではなくなってしまう」
それは前回も言っていたことだった。
忍びの空閑衆が、黒葛という家に仕えるがゆえに手にかけることができない者でも自分には殺せると。たしかに空閑の者たちは、仮に貴之が宗主や一門衆の誰かを殺せと命じたところで従いはしない。そんなことを自分が命じるなど想像もできないが。
貴之は黒い人影をまっすぐに見て訊いた。
「なぜ、おれに仕えようと思ったんだ。黒葛家のほかの誰か——三州の禎俊公や丈州の寛貴公ではなく、七草家を継いだばかりのこんな〝小僧〟に」
「おれは耶岐島にいた」〝棘〟が低く囁く。「あの血みどろの戦場で、おまえを見ていた」
その言葉を聞いた瞬間、江州役最大の合戦と言われる耶岐島郷での激戦の記憶が脳裏にあふれた。守笹貫道房の重臣高閑者元嘉を倒した第一戦。本軍を率いて駆けつけた守笹貫家の嫡子信康を討ち取った第二戦。そのさなかに命を落とした父。
束の間の慄きが過ぎ去り、我に返って〝棘〟に注意を戻すと、彼はそれを待っていたように話を続けた。
「総大将が討たれたあと、おれは黒葛軍は退くだろうと予想していたが、おまえは死んだ父親に成り代わって打って出た。あのわずかな間にどうやって説き伏せたのか、武将どもを大勢引き連れてな」
「ただ、力を貸して欲しいと頼んだだけだ」
疑わしそうに〝棘〟が軽く鼻を鳴らす。だが反論はしなかった。
「それでおれは、もし黒葛軍が勝利したらおまえの〝棘〟になろうと決めたんだ」
説明しているようで説明になっていない。
「なぜおれなのか、まだ理由を言っていないぞ」
はぐらかすつもりかもしれないと思いながら追及すると、〝棘〟は面倒臭そうに言葉をつけ加えた。
「前の主人は年寄りだった。自分で選んだわけでもない。誰に仕えるかは最初から決められていて、拒否する自由もなかった。だから次の主人を選べる立場になった時には、誰か若いやつに仕えたいと思っていたんだ」
かすかな吐息。
「先々が楽しみだと思えるような……そういうやつに」
「それがおれか」
「あの大軍勢を率いて陣頭に立ち、最前線から一歩も退かずに戦うおまえを眺めていたら、ふとこう思ったんだ。この小僧がもっと成長して力をつけたら、いったいどれほどのことをしてのけるだろうかと」
「買い被りすぎじゃないか」
「もし見込み違いだったら、おれはさっさと見限って消える。次に現れるのは、誰かに依頼されておまえを殺す時だろうよ」
淡々と言ってのけるところに凄みを感じる。真夏にもかかわらず、貴之の背中にひやりと寒気が走った。
こういう男を手元に置く利点はわかる。しかし利点と欠点は常に背中合わせだ。
「おまえを雇ってもいい」
貴之がつぶやくと〝棘〟はわずかに身を乗り出した。
「だが、今たちまち殺めたいと思う者はいない。これから先も、そういう必要に駆られるかはわからない。だから訊くが、おまえは人を殺す仕事だけしたいのか」
「それが得手だと言っただろう」
「殺しが好きか」
最初の問いには即答したが、この問いに答えるまでには少し時がかかった。
「刺客として育てられ、その道に才を示した……おれはそういう者だ。好きか嫌いかなど考えたことはないし、考える必要もなかった」
「では、いま考えろ」
〝棘〟がむっつりと押し黙る。いくらか腹を立てているかもしれないが、まだ立ち去りそうな様子は見せていない。貴之は黒い人影に向かって、きっぱりとした口調で言った。
「人を殺すことが好きで、それだけをやっていたいのなら、誰かほかの主人を見つけたほうがいい」
決裂するならここだろう。息を詰めて待っていると、ややあって〝棘〟が口を開いた。
「おれにとって殺しは……ただの仕事だ。それをして気に病むことはないが、愉快になることもなかった。雇い主が別のことをやれと言うなら、そうするのも吝かではない」
つまり享楽的な殺人者ではないということで、それは朗報と言える。血を見たいがために無駄な殺しをしたり、必要以上に残虐な行為に及んだりはしないだろう。
「おれに雇われたら、おまえには何ができる。何をしたい」
「汚れ仕事をする。脅し、拐かし、拷問、さまざまな裏工作——むろん殺しもだ。この先おまえが、家族や家臣に知られることなくやりたいと思うことをおれが引き受ける。どうだ」
なるほど、汚れ仕事は遅かれ早かれ必ず必要になるだろう。領地経営も国の差配も綺麗事だけでは成り立たない。しかしこの男を懐に入れるのは、身の裡に闇を飼うようなものだ。暗い秘密と危険を抱えることになる。
このまま進んでいいのか。引き返すべきか。泳ぎに夢中になって岸から離れすぎた時のような漠とした不安を感じたが、気づいた時にはうなずいていた。
「雇う」
影が揺らぎ、身を低くして囁いた。
「ではこれより、命に従う」
貴之が蚊帳から出て窓際へ移ると、〝棘〟は黙ってついてきて対面に跪いた。
最初に見積もった通り、大人の男としてはやや小柄なほうだろう。しかし均整の取れた体つきをしているのが、地味な黒っぽい旅装の上からも見て取れる。
初めて目にしたその顔には、特徴と言えるものが何もなかった。太くも細くもない眉。大きくも小さくもない目。高くも低くもない鼻。口角のまっすぐな口。ある意味整ってはいるが平凡を絵に描いたような容貌で、年齢も推し量りづらい。老けた若者にも、若々しい年配にも見える。二十代と言われればそうかと思うし、四十代と聞いても違和感はおぼえないだろう。
じろじろ見るのはそこまでにして、貴之は気になっていたことを訊いた。
「鹿草山の茶屋で、おれの隣の床几に座っていた三人組の中におまえはいたか」
「いた。若いのふたりと、おれだ」
商人ふうに見えた中年男をぼんやり覚えているが、目の前の男とはまるで違う顔貌だったように思う。
「別人に思えるな」
〝棘〟は腰に提げている印籠から何か取り出し、舌先で舐めて右の小鼻の横に貼り付けた。黒く盛り上がった、本物そっくりの大きな黒子だ。すると驚いたことに、彼の顔は貴之の記憶にある商人と同じになった。
「おれの顔には目立つところがないから、逆に特徴を持たせると化けられる。黒子や痣は特によく使う手だ。簡単だからな。髪に灰をなすって年寄りに見せることもある」
貴之が感心して思わず唸ると、〝棘〟は大げさだと言いたげに軽く肩をすくめた。
「あそこで一緒にいたふたりは仲間なのか」
「いや、行きずりの旅人だ。相席して世間話に誘い込んで、三人連れに見せかけた。ひとりでいるよりも、そのほうが目立ちにくい」
貴之はあの襲撃のことを詳しく聞くために腰を下ろし、〝棘〟にも座るよう促した。確認しておきたいことがいろいろとある。
「山で襲ってきた連中は何者だ」
「あれは守笹貫家残党だ」
道房と信康の親子が討ち取られて守笹貫家が崩壊したあと、生き残った家中の一部は黒葛家の追討を逃れて散り散りになった。〝棘〟の話によると、それが夏前ごろから各地でまた少しずつ寄り集まり始めているという。そういう者たちの潜伏先をいくつか調べた中に、あの連中も入っていたらしい。
「ほとんどが下士や中間くずれだが、おまえらが捕らえた男はいちおう支族の泉二家の遠戚だ。名は星奈孝義という」
「彼らの潜伏場所は。江州内か」
「いや立州だ。南国道沿いの茶臼山郷を根城にしていた」
茶臼山は立州街道と南国道が分岐する咲閒追分の少し北にある郷で、七草からは三日ほどの距離にある。そんな場所に、黒葛家に恨みを持つ連中が巣食っていたと思うと心中穏やかでない。
主要な街道沿いの要衝にはたいてい支族を封じているが、戦後の論功行賞で配置換えがあったため、茶臼山郷が現在誰の所領になっているのか、にわかには思い出せなかった。たしか由解正虎——いや、玉県輝綱だったか。あとで確認しよう。
「おれはあの連中には、特に目を光らせていた。おまえに近い場所に潜んでいて漠然と厭な感じがしたからだ。それが今月に入って急に動きを見せ、ここから近い脇街道の寂れた宿場に移動したので、何かあると当たりをつけて接触することにした。江州人を装ってな」
そこまでやっていたのか、と貴之は内心驚きをおぼえた。
「やつらは暗殺計画を練っているところで、志を同じくする同郷人はいくらでも欲しがっていたから、仲間に入るのは難しくなかった。その時に皆殺しにすることもできたが、おまえとの取り決めは情報を渡すことだったから、動向を窺うに留めておいたのだ」
妙なところで律儀な男だ。合理的とも言える。
「連中はなぜ、昨日あの場所で襲うと決めたんだ」
「やつらにおまえの視察の日取りや具体的な経路を教え、襲撃を焚きつけた者がいる。そいつは七草城内に情報源を持っていて、城主の動きは具にわかるのだと言っていたらしい」
はっとなった。事実なら由々しい問題だ。
「それは誰だ」
「司波と名乗ったそうだが、どうせ偽名だろう。連中からは仲間ではなく、協力者と見なされていた。茶臼山の塒には不定期に顔を出していたようだが、おれが宿場で一味に加わったあとは姿を現さなかったから正体を探れていない」
「どんな外見かわかるか」
「江州人はみな、陰ではそいつを〝傷の男〟と呼んでいた。このへんに——」言いながら〝棘〟は右の鬢のあたりを触った。「焼かれるか皮膚を剥がれるかしたような、気味の悪い大きな傷痕があるそうだ。誰か思い当たる者はいるか」
「いない」
考えるまでもなかった。そんな特徴的な傷を持つ者がいて、一度でも会っていれば覚えていないわけがない。
「司波はおれにとってのおまえと同じような立場の者かもしれないな」
「ならば城内の情報源というのは司波を使っている誰かで、襲撃の黒幕でもあると考えるべきだ。暗殺の好機が来た時に手駒として使う目的で、守笹貫家残党を集めていた可能性がある」
〝棘〟が鋭い目つきをする。
「おまえの身近に敵がいるぞ」
いるのかもしれない。頼りになる宿老たちや評定衆、信頼する近習や馬廻衆の中に。若くして城主となり、立身国の国主代行に任じられたおれを妬ましく思う者。疎ましく思う者。何らかの遺恨を抱く者や、おれの人格そのものが気に入らない者。
しかし、それだけで暗殺までするだろうか。うまくいっても厭な顔を見なくてすむようになるのがせいぜいで、身分や財産や立場を奪い取れるわけではない。おれが死ねば家督は弟の佳貴が継ぐし、立州国主代には宗主が黒葛一門から別の誰かを指名するだろう。暗殺の黒幕が、企てが露見する危険性に見合うだけの利益を得られるとは思えない。
「すぐに名を挙げないということは——」〝棘〟が貴之の表情を上目づかいに窺いながら訊いた。「敵と言われて思い浮かぶ顔はないのだな」
「今のところは」幸いにも。
「そうか。だが油断するな」
〝棘〟は懐に手を入れ、折りたたんだ紙を取り出して貴之に渡した。
「おれが調べた残党の潜伏場所だ。最初はこれを手土産にするつもりだった。まだ四か所だけだが、もっと探すことはできる。このあと、おれにその仕事をさせたいか」
貴之は考えた。残党狩りは宗家主導で今も続けられている。この情報を渡せば喜ばれるだろうが、出処を詮索されるようだと少し厄介かもしれない。
「それよりも司波を追えないか」
いささか難しい要求かとも思ったが、そう言われるのをむしろ望んでいたかのように〝棘〟が即答する。
「追える」
「どうやって追う」
「まず茶臼山だな。司波が出入りしていた塒とその周辺を詳しく調べて、近隣でやつを見かけた者がいれば話を聞く。そのあとは、暗殺の決行直前に怖じ気づいて離脱した江州人がふたりいるから、捜し出して捕まえる。そいつらは司波と面識があるし、締め上げれば何かしら吐かせることができるだろう。居場所の見当も大方ついている」
彼は少し間を置き、意味深な目つきをした。
「多少は手荒なこともするぞ」
おまえの判断に任せる——と言いかけてやめた。この場合、任せるというのは押しつけることだ。誰かを痛めつけるかどうかの決断も責任も、自分が負うのでなければ主人を名乗る資格はない。
「手を尽くして情報を引き出し、司波の正体を突き止めろ」
〝棘〟がにやりとする。それは彼が初めて貴之に見せた笑顔だった。
「承知」
別れる前に貴之は手荷物の中から銭貨をありったけかき集め、巾着袋に入れて〝棘〟に渡した。活動のための資金だ。多くはないが、路銀は小姓頭に管理させていて手持ちがあまりないので仕方ない。
「今はこれだけだ。不足したらまた渡す」
袋を受け取った〝棘〟が、中身を量るように手の上で弾ませた。
「そのついでに調べたことを報告しよう」
「また城の寝間に忍んでくるのか」
貴之の問いに彼は眉をしかめた。
「忍び込めないようにしておいて、よく言う」
「やっぱり、あの通路だったんだな」
〝棘〟がさらに渋い顔になり、貴之は思わず微笑んだ。
「中奥にまで侵入されてぞっとしたから、どこかに抜け穴があるに違いないと思って調べさせたんだ。見つけたあとすぐ内部に扉を設けて、出口付近の見回りも強化した」
「あのときは代替わり直後で、警備態勢にまだ穴があったから城内に潜り込めたが、今はもう難しい。おまえの警護を取り仕切っている男、あれは有能だな。鹿草山でものすごい槍さばきを見せた、あの大柄なやつだよ」
柳浦重益を他者に評価されるといつもそうであるように、誇らしい思いが胸の中で膨らむのを感じた。
「あいつが来て守りを固められると難儀するから、ここには先に着いて潜っておいた。明日は朝になっておまえらが出立してから、のんびり出ていくつもりだ」
軽口を叩いたあと、〝棘〟は急に表情を引き締めた。
「あの男に、おれのことを言ったか」
「いや」
「それでいい。誰にも話すな」
「ひとりだけ」口を挟もうとしかけた相手を片手で制して先を続ける。「城に戻ったら、ひとりにだけ話す。従者の戸来慎吾だ。茶屋でおれの近くに控えていた、暗い草色の着物の男を覚えているだろう」
「ああ」ぶっきらぼうな口調だ。「なぜそいつに話す」
「おまえとのつなぎ役が要るからだ。手伝いをする者がいれば互いに何か受け渡しをするのも、直に会う段取りをつけるのもずっと容易くなる。そう思わないか」
〝棘〟が押し黙る。内心では賛同しているのだろうが、そのことも含めて気に食わないのだ。
「事情を知る協力者は絶対に必要だ。慎吾ならいつでもおまえと接触できるし、ひそかに手引きして城に出入りさせることもできる」
雇い主に連絡をしたり会ったりしようとするたびに発生するであろう面倒な諸々と、自分の存在を知る者が増える不利益とを秤にかけ、しばらく考えたあとで〝棘〟はさも気乗りしなさそうに「わかった」とつぶやいた。
「慎吾には説明しておくから、出仕の行き帰りにでも近づいて一度顔を合わせるといい」
うなずきはしたが、まだ完全には納得していないという顔に見える。
「そいつが、おれのことを誰かに漏らさない保証はあるのか」
「おれが話すなと言えば、慎吾は決して話さない。たとえ寸刻みに身を削がれようともだ」
〝棘〟が仏頂面をやめ、そこまでか——という驚きの色を浮かべた。
「まあいい。会って直々に値踏みするとしよう」
ひとまず譲歩して、退散するべく腰を上げかけた彼を、貴之は急いで引き留めた。
「おまえの名は。なんと呼べばいい」
〝棘〟が眉根を寄せ、曰く言いがたい表情になる。
「名などない。どうとでも好きに呼べ」
自分は名もなき者だという比喩的な意味かとも思ったが、どうやら本気で言っているようだ。
「前の主人にはどう呼ばれていたんだ」
「そもそも、こんなふうに会ったことがなかった」彼の口の端を皮肉っぽい笑みがかすめる。「いつも元締めを通して、誰それを殺せと命じられるだけだ。その元締めからは〈棘の一〉と呼ばれていた。三人いた〝棘〟の中で、おれがいちばんの手練れだったからな」
「おまえがいちばんだったなら——」
ふと頭に浮かんだ疑問が、ためらう間もなく口を衝いて出た。
「なぜ、父を殺しに来なかったんだ」
それを狙ったわけではなかったが、完全に相手の意表を突いた。〝棘〟が刺されたところをかばうようなぎこちない動きで、再びゆっくりと腰を下ろす。貴之は彼の戸惑い顔を複雑な思いで見つめた。この話はそのうち折を見てするつもりだったが、始めてしまったからには続けるしかない。
「耶岐島の刺客、あれはおまえの仲間だった」それが〈棘の二〉か〈三〉かは知らないが。「つまり前の雇い主は守笹貫道房だ。そうだろう」
〝棘〟はすぐには答えなかった。その目に警戒心が充ち満ちる。
「食えぬ小僧め」
呻くように言って、彼は首のうしろを無造作になでた。そこを汗が伝ったかのように。
「どうやって知った」
「おれは道房の最期に立ち会った」
貴之の脳裏に、あの日の場景が鮮やかに浮かび上がった。
壮大な百武城天守の最上階。その内陣に置き忘れられたように座っていた、守笹貫道房の萎びた小さい姿。彼は虚ろな目をして呆けていたが、いよいよ首を落とされるとなった時にふいに正気づいて笑い出した。あの老人の苦しげな、それでいて楽しげな引き笑いを今もはっきりと覚えている。
「彼が言ったんだ。耶岐島陣に〝棘〟を放ったと。棘は刺客——刺す者を表す喩えなのだろうと思っていたが、おまえが来たあの夜に、そのままの意味だったことに気づいた」
〝棘〟の表情を見る限り、説明の手間が省けてよかったとは思っていないようだ。雇われても、まだしばらくのあいだは自分のことを謎めかしていたかったのかもしれない。
「元締めとやらは、おまえを出し惜しんだのか?」
「いや、耶岐島へ行けと命じられた。おれはその場で元締めを縊り殺し、すぐに城下を出て姿をくらました」
「どうして」
「生きては帰れない仕事だったからだ」
素っ気なく言っているが、瞳の奥に怒りが小さく燻っているのが見て取れる。
「元締めから伝えられた道房の命はこうだ。〝守笹貫本軍と共に耶岐島入りして乱戦に加わり、できるだけ大勢の敵味方が見ている前で黒葛貴昭を討て〟」
たしかに、それは命がけの仕事だ。実際、彼に代わって暗殺を実行した刺客は父の反撃で瀕死となり、周囲にいた数名の家臣によって即座にとどめを刺された。あの場から生きて離脱できる可能性は万にひとつもなかったと断言できる。
〝棘〟は首を振り、小さくため息をついたあと窓のほうに顔を向けた。
「藪を突っ切ったあとに手に掻き傷を見つけて振り返ったところで、どの枝葉にやられたかなどわかりはしない。〝棘〟の仕事とは、本来そういうものだ。人知れず近づき、相手が気づくより先に仕留め、確実に生還して次の仕事に備える。そのためにも、標的の調査と準備は前もって念入りに行う。ひとり育てるのにも莫大な金と手間がかかる〝棘〟は使い捨てではない。少なくとも、あの時まではそうだった」
彼は唇を一瞬ぎゅっと引き結んでから、貴之に視線を戻した。
「道房がおれたちを使い捨てようとした時点で、仕える意義も義理もなくなったと思ったから離反した。耶岐島に行ったのは、代わりに誰が送り込まれたのかを見るためだ。おれが不可能と判断したことを、そいつが〝棘の仕事〟としてやり果せることができるのか興味があった。だが無理だったな」
つぶやくようにつけ加えた最後の言葉に一滴にじんだのは蔑みか、それとも哀れみか。両方かもしれない。
彼は〝棘〟の仕事を好きでやっていたわけではないと言った。だが誇りを持って務めていたのもまた事実で、それは言葉の端々から感じ取れる。〝棘〟は彼を彼たらしめている重要な要素であり、たとえ主人が換わり役割が変わったとしても、この男の中から完全に消え去ることはないのだろう。
そう思った時に初めて、ほんとうの意味で彼を雇う覚悟ができた気がした。棘を残したまま生きる男を、その棘ごと受け入れる覚悟が。
貴之は〝棘〟を見つめながら手を伸ばし、右腕を取って引き寄せた。冷たいのかと思っていた彼の肌は乾いていて温かい。
「荊木」軽く握られていた拳を開かせて、掌の上に指で文字をふたつ書く。「今後はおまえをそう呼ぶ」
「わかった」
あっさりとしたものだ。なぜその名なのかと問いもしない。茶化しもせずに受け入れたのは意外だったが、彼はどことなく嬉しげな表情をしていた。
「おれはもう行く」
新たな名を得た男が窓に身を寄せ、庭の見回りが移動する気配を窺いながら貴之を横目に見る。
「御屋形、敵に寝首を掻かれるなよ」
そう言い残し、荊木は細く開けた障子の隙間からすべり出て音もなく立ち去った。
「夕べは寝苦しかったですか?」
朝の支度を手伝いに来た唐木田智次が、背後から小袖を着せかけながら問う。
「宿直を務めた佐々道朝どのから、御屋形さまが寝言をおっしゃっていたようだと聞きました。普段は、あまりないことでしょう」
「少し暑かったのかもしれない」
貴之はとぼけながら、もっと声を落とすべきだったかなと考えた。隣室の話が聞こえないので、こちらが囁き交わす声も届かないだろうと高をくくっていたが、道朝は特別良い耳を持っているのかもしれない。
「でもよく眠ったし腹も減ってる。もう、ぺこぺこだ」
智次が帯を結びながら、ころころと笑う。
「わたしもです。今朝はみんなが同じようなことを言っていますよ。やっぱり夕餉がちょっと物足りなかったからかな」
それだけではない気がする——と思ったが、敢えて言わずにおいた。
屋敷のどこかにまだ身を潜めているのであろう荊木のことが、ふと頭をよぎる。彼は食事をどう調達しているのだろう。潜伏中でも、ちゃんと食い物にありつけているのだろうか。
身支度を整えて広間へ行くと、ほどなく朝餉の膳が運ばれてきた。驚くことに昨夜の素朴な料理とは打って変わって、焼き物あり、刺身ありで二の膳つきの充実した内容だ。飯と汁のおかわりもたっぷりと用意されている。
今回も飯は特に手が込んでいて、枸杞の実と鶏肉が炊き込まれていた。口に含むとショウガの香りが爽やかで、腹にするすると収まっていく。貴之は三杯もおかわりをしたし、智次やほかの者たちも同じぐらい食べていた。誰もが夕べの不満など忘れたような顔をしている。
食後、供回りが引き揚げの準備をしているあいだ、貴之は有部達昌から日陰が涼しい庭の四阿へ誘われた。
「クロモジの茶にございます」
手ずから淹れて出してくれた茶は、華やかで芳醇な香りをまとっていた。色は澄んだ茜色をしている。
貴之はゆっくりと味わい、半分ほど飲んでから何気ない調子で言った。
「夕べの食事のお陰で、今朝は快調だった。この茶も体にいいのだろうな」
澄まし顔の達昌が、わずかに眉を上げる。
「胃腸を整える効果があります」
「枸杞の実は?」
「体を温め、疲労を和らげます」
「おれはそういうことに詳しくないし、ほかの者たちも似たり寄ったりだから、ひとつ間違うとおぬしを物惜しみする男だと誤解していたかもしれない」
空になった貴之の茶碗にクロモジを注ぎ足しながら、達昌がにんまりした。
「さようですな」
「それでもよかったのか」
「よいのです」
本気でそう思っている口調だ。
おれは試されたのか——ふいに気づいた。
何の説明もないまま供された、一見粗末とも見える食事。短気者ならぞんざいな扱いを受けたと激高するだろうし、気の弱い者は黙って不満を呑むだろう。尊大な者は不快に思って口もつけるまい。貴之は秘められた意図を感じて、それを探ろうとした。
どれが良い悪いということではなく、若すぎる新米国主がどういう型の人間なのかを見極めるために達昌はあの夕食の膳を利用したようだ。
それも当然で、これからもこういうことは度々あるだろう。人柄や器量を認められず、自分とは合わないと感じるような主人についていきたい者などいない。荊木も見込みが外れたら見限るとはっきり言っていた。上に立つ者となった以上は、この先もずっと臣下に対して己がどんな人間なのかを示し続けねばならない。真の忠誠とはそうやって勝ち取っていくものだ。
「おれたちは、そんなに疲れて見えたかな」
「はい。当地に着くまで、行く先々でご馳走責めに遭ってこられたのでしょう。お若い御屋形さまはまだしも、ご年配のかたがたは胃の腑も腸もくたびれ果てておいでのようです」
「どこでそれとわかる」
「お顔の色がよろしくなかったり、口の端が切れたり、口の周りや鼻の下に腫物があったりするのでわかります。酒の飲み過ぎで、眉間に吹き出物ができているかたもいらっしゃいました」
淡々と説明する様子はどこか学者然としていて、貴之に傅役の唐木田直次を思い出させた。彼も武将と言われるより、そちらのほうがしっくりくる男だ。
「まるで療師のようだな」
「実際、二十代半ばまではそうでした」
少し気恥ずかしそうに頭を掻き、達昌が事情を話した。
彼は有部家の三男坊で、本来なら家を継ぐはずではなかったという。そこで親戚に勧められるまま、十三の歳から薬療院で修行をして療師になった。ところがあるとき、大嵐のあとに領地を見回っていた長兄と次兄が崖崩れに巻き込まれて亡くなったため、やむを得ず達昌が家に戻って当主を務めることになったのだ。
初めは長兄の嫡子が元服するまでの代理のつもりでいたが、その子もまた数年後に流行病で命を落とし、ついに逃げようがなくなってしまった。
「これも運命かとようやく腹をくくったあとは、療術は手すさび程度に。ところが可笑しなもので、教えもせぬのに末の息子がやはりその道に興味を示し、幼いころからわたしの道具類などをいじって遊んでおりましたが、そのまま長じて薬療師になりました。蛙の子は蛙というわけですな」
薬師と療師を兼ねる薬療師は難しい仕事で、誰でもなれるわけではないと聞いている。達昌の末っ子はそうとう優秀なのだろう。
「その息子は、今どこの薬療院に?」
「せがれは鉢呂山におります。立天隊の砦の傷病棟に」
「鉢呂砦には、おれの叔父の石動博武がいる。おぬしの子に戦傷を診てもらったことがあるかもしれないな」
「お役に立てていればよいのですが」
達昌の表情が父親のそれになった。すでに親元を離れてはいるが、〝蛙の子〟は彼にとって思い入れの強い息子なのだろう。
それからほどなくして出立の用意が調い、貴之は達昌に別れを告げて有部家を後にした。
今日はこれから少し南下して西国道に入り、東へ向かって進んでいく。次の経由地である鈴久名郷には、夕方ごろまでには着けるだろう。
まだ朝とはいえすでに暑い日差しの下、埃っぽい乾いた道に馬を進めながら、貴之は隣を歩いている柳浦重益に話しかけた。
「視察はおれが視るためにするのだと思っていたが——」
重益が足を止めずに、注意だけこちらに向けた。人一倍大柄な彼は歩行でも馬上の貴之と目線が近い。
「それだけではなく、視られるためでもあるのだな」
どういう経緯でその気づきに至ったのかと問うこともなく、重益はすべて理解しているように微笑み、黙って貴之の膝を優しく叩いた。
聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/




